4.gif)
1.はじめに
わたしはアニメ映画「新世紀エヴァンゲリオン」のファンではない。
何のファンかというと、どちらかといえば「もともと」のエヴァンゲリオンのファンだ。
「もともと」のエヴァンゲリオンといえばつまり新約聖書の「福音書」だ。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネだ。
辞書で調べればわかるとおり、エヴァンゲリオンとは福音書のことであってアニメ映画のことではない。
そしてここで取り扱って話すのは、わたしがファンではないほう、アニメ映画として知られている「エヴァ」のほうだ。
わたしは今さらになってその「エヴァ」を観た。劇場版をひととおり観て、テレビシリーズのそれは観ていない(さすがにそこまで観ている時間が個人的にない)。
「劇場版」をひととおり並べると次のとおりになる。
1.略(1997)
2.略(1997)
3.新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH (TRUE)2 / Air / まごころを、君に(1998)
4.ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序(2007)
5.ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破(2009)
6.ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q(2012)
7.シン・エヴァンゲリオン劇場版(2021)
なぜ1.2.を略したかというと、その1.2.を修正してひとつにまとめたものが3.だからだ。
番号4.以降は「新」劇場版とついており、区分けのために1.2.3.のほうをファンたちは「旧劇」と呼ぶのが習わしのようだ。
わたしは4.5.6.7.の順で観て、その後引き返して3.を観た。
その上で、わたしはこの「エヴァ」に視認したものについて報告しようとしている。
もちろんわたしが話すからには、その内容は、「エヴァ」の熱烈なファンたちに向けては、まったく同士ならざる否定的なものになる。
それでもわたしは勝手に、わたしの話すことをどこか保険として聞いておいてもらいたいという気がしている。改めて、わたしはこの作品のファンではないので、ということを念押ししておきたい。
野球ファンでない者が野球観戦について日記を書いてもろくな態度のものにならないであろうことのように、これから示すわたしの態度も冷淡なものだ。
だが必要があって話す。
ファンに読んでもらいたいと共に、それ以上に、まったく「エヴァ」のファンでない人および、観たこともない人に読んでほしい。
なぜわたし自身ファンでもない対象についてわざわざ書き話そうとするかというと、この「エヴァ」という有名なシリーズは、まるでこの二十五年間、わたしの生きた時代の裏側で起こっていたことそのもののようで、わたしにとってはめざましい発見のあるものだったからだ。
もちろんどちらが真に表で、どちらが裏だなどと言い張るつもりはない。向こうから見ればわたしが裏で、わたしから見れば向こうが裏だ。
1997年当時、わたしは大学生だった。その当時、記憶に新しかったのは阪神淡路大震災であり、わたしは高校生のときその震災のボランティアで一か月被災の街に住み込み、そのことを経て、縁あってか何なのか、その後神戸の大学に入ることになった。
ほとんど、わたしが生きる「話」の端緒が始まったようなころだ。
わたしがそうしてわたしの「話」を生き始めるころ、裏側で、わたしのそれとはまったく異なるものが始まり、続いていった。
そのことをわたしは二十五年後のいまになって振り返り、新しく知ったという具合だ。
わたしは現代において、あまりにも多くのものに「???」と首をかしげている。
この「???」という、わたしにとってあまりに理解不能のものが蔓延する、どころかそれらが「主流」となって席巻する中、わたしは二十五年越しのミッシングリンクを引き当てたような気分なのだ。
今から二十五年前、社会現象じみて広がった――らしい――この「エヴァ」があったということを、わたしはわたしの中の時系列に当てはめなおす。
すると、現在あるわたしの「???」はあまりに多くが氷解する。
この「エヴァ」ないしはそれの類似の事象が、後継を得て繁茂してゆき、その咲き誇った現代のものに向けて、わたしは「???」となっていたのだ。
もし、十年前から現代の2022年にワープしてきた人がいて、窓から外を眺めたとしたら、
「なぜ全員がマスクをしているのだろう?」
と首をかしげただろう。
何が流行したのかを知らないし、その後の変異株も知らないのだから。
そういう具合で、わたしは現代のいろんなものに「???」と首をかしげていたのだ。
何が流行したのかを知らなくて、その後の変異株も知らなかったから。
わたしはこれから「エヴァ」の話を少しするし、それを土台に、本来わたしがするべき話をここにする。もちろんいわゆる「ネタバレ」を含むが、そのことはこの際もう関係ないとわたしからは申し上げたい。
次へ→