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4.もともとの福音書をどう「書き換える」ものか
福音書というとマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つだ。
この四つの名前はすべてイエスキリストの弟子の名前で、その弟子当人が、弟子の立場から「イエスキリスト密着レポート」を書き残したものだと言える。
同じ道中を共にしていた弟子たちのレポートなので、四つの福音書の内容はほとんど似通っている。
その内容はここで語るテーマではないが、いちおうざっくり申し上げると、
「どのようにキリストは地上に降下し、どのように旅をして奇蹟を起こしてまわり、どのようにパリサイ派を非難し、どのように教えを表し、どのように処刑され、どのように復活して天に昇っていったか」
という話だ。
その福音書のうち、ヨハネの福音書の冒頭にこうある。
【ヨハネの福音書】一章
1. 初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。
2. この言葉は初めに神と共にあった。
3. すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
4. この言葉に命があった。そしてこの命は人の光であった。
もちろん元は日本語ではないので、元はこう書いてあるらしい、「εν αρχη ην ο λογο?」、もちろんどう読めばいいのかさっぱりわからない、調べると「エン・アルケー・エーン・ホ・ロゴス」だそうだ、アルケーというのが「原初」という意味で、「ロゴス」というのが「言葉」という意味。ロゴスは Logos だから、いわゆる logic ・論理、話、という意味でもある。
ロゴスというと、どこかで聞いたことのある人は、「ロゴス、エトス、パトス」というのを思い出すかもしれない。ロゴスが論理・話で、エトスが信頼、パトスが感情・感受性・共感ということになる。
パトスというと、「エヴァ」の有名な主題歌「残酷な天使のテーゼ」の中に、
♪ほとばしる熱いパトスで 思い出を裏切るなら
という歌詞がある。
もちろんそこまで作りこまれて生じた歌詞ではないだろうけれど、さしあたりここで「エヴァ」と「パトス」の接続に不自然さを覚える人は誰もいないだろう。「エヴァ」が全編パトスに満ちているのは誰でもわかる。
ヨハネの福音書を、わざわざヨハネ・エヴァンゲリオンと表記するなら、
・ヨハネ・エヴァンゲリオン[初めにロゴスがあった。ロゴスは神であった]
・新世紀エヴァンゲリオン[初めにパトスがあった。パトスは神であった]
と対比することができる。
もともとの福音書を「書き換える」のでなければ、新世紀福音書(エヴァンゲリオン)を言い張ることができない。
そこで、その書き換えというのが、
「神はロゴスではなくパトスなり」
という書き換えであれば、これは改めて「新世紀エヴァンゲリオンを言い張るものなんですね」と明瞭化される。
もともとのヨハネの福音書のうち、ロゴス・言葉にあたる部分を、さしあたり「感情」に書き換えてみよう。するとそれが、「新世紀福音書」の冒頭になるはずだ。
【新世紀福音書】
1. 初めに感情があった。感情は神と共にあった。感情は神であった。
2. この感情は初めに神と共にあった。
3. すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
4. この感情に命があった。そしてこの命は人の光であった。
このように、「エヴァ」は印象そのままに、
「果てしない感情に "ハレルヤ" しろ!」「僕の感情だけがすべてだ」「無限の感情に閉じ込められろ!」
というやけくそのメッセージに明瞭化される。
わたし自身は、この勝手に書き換えられた福音書に、正当性も可能性も見いだせない。
わたしはやはりもともとの福音書のファンだ。書き換えられたものは、それが正しいと信じる人にとってはどうあれ、書き換えられたならばそれはもう「福音」ではないはずで、むしろその逆、「福音を破壊するもの」のはずだ。
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