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5.エヴァは「話」ではない
ここで先に述べたことに再び戻る。
新世紀エヴァンゲリオンは、「神なるロゴス」を否定し、「神なるパトス」と書き換えるものなので、これじたいが「話」を為さないということがわかる。
話・ロゴスそのものを否定しているのだから「話」があるわけがない。
むしろ「エヴァ」は、<<「話を為さない」ことそれじたいが定義>>だと捉えるべきだろう。
感情だけがあって話がない、というのが正しい「エヴァ」になる。
よって、使徒という話もないし、エヴァ何号機という話もない。
ゼーレとかネルフとか、綾波とかアスカとかいう話は「ない」のだ。
ただフレーバーだけがあって、絵が動いていて、感情・感受性だけが運用されている。
もしこのことを、あえて「エヴァ的」に表現すると、次のようになるだろう。
感情だけがあって話がない
感情だけがあって話がない
感情だけがあって話がない
感情だけがあって話がない
感情だけがあって話がない
感情だけがあって話がない
感情だけがあって話がない
感情だけがあって話がない
感情だけがあって話がない
感情感情感情感情感情感情
感情感情感情感情感情感情
感受性感受性感受性感受性
感受性感受性感受性感受性
感情感情感情感情感情感情
パトスパトスパトスパトス
あ情おあ感受あおおパ感情
こうして書き並べれば、これじたい「感情だけがあって話がない」という "ふうに" 見える。
"ふうに" 見えるだけで、実際にはコピーペーストしただけだ。
わたしはもともとの福音書のファンであって、新世紀と冠されたそれのファンではない。
よってわたしはこうしたものはひたすら馬鹿馬鹿しく思う。
一方で、単なる事実として、こうした文言をヒステリックに並べ立てられるだけで、それを「ドキッとする」と感じて、恐れるようなよろこぶような、情緒反応をする人が多数いることも知っている。
その「ドキッとする」とか「情緒反応」とか、それじたいのことをパトスと呼ぶ。
こういうものに「ドキッとする」等、大真面目にその情緒をいう人に対しては、わたしは「救いがたい馬鹿だ」とのみ述べる。
わたしからその人にかける言葉はない。
あるわけがない。
どうしてロゴスを否定してパトスを畏れ奉る人に、向ける「言葉」がありうるものか。
シンジ君と仲良くどうぞとしか申し上げられない。果てしなく続くパトスの劇場へどうぞ。
わたしは「もともとの福音書」のほうのファンなので、ロゴスの劇場におります。わたしの友人とはそちらでお会いしましょう。
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