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6.碇シンジは何をやっているか:感情だけのバケモノ
「シンジ」という名前が「神児」に当てこすられているのは、エヴァのファンなら誰でもお察しだろう。
むしろイエスキリストが新約聖書において「神の子」だということのほうがはっきりとは知られていないのではないかと思われる。
ともあれ、その碇シンジが何をやっているかということだが、それは単純に、
・パトスの最大化・無限大化に向かっている
ということになる。
碇シンジがずっと膝を抱えてふさぎ込んでいるのは、何か理由があるわけではなく、ただパトス・感情の最大化に向かって、ずっとそうし続けているのだ。
何度でも申し上げるが、エヴァに「話」はない。話はないのだから、碇シンジがふさぎ込んでいることにも「理由」などはない。
ただただ、感情の最大化・無限大化に向かう、ということだけが行われている。
イエスキリストが例え話をもたらしてロゴス・話の最大化・無限大化に向かうのに対比して、碇シンジのほうはパトスの果てに向かうという必然の構図だ。
よって碇シンジは決して「話」を聞かない。
イエスキリストがパトスのほうに向かって発狂することなどあるわけがないように、碇シンジがロゴスのほうに向かって目覚めることなどあるわけがない。
ここで碇シンジは「話を聞かない、感情だけの物と化していく」ということになる。
物と化していくということはつまり化物であって、碇シンジはそれを観た人が誰でもわかるとおりに、
「話を聞かない、感情だけのバケモノ」
となる。
膝を抱えて孤独ぶり、けっきょく感情だけのバケモノだと明らかにされていく、その印象の目撃じたいが、エヴァのファンにとって「碇シンジ」のはずだ。
その感情の果て、無限大に至った感受性の向こうに、神話が啓けないか、ということを作り手は模索したと言える。あるいはそう願望したと言える。
何度も申し上げるように、使徒も◯号機も、綾波もアスカも、ミサトもゲンドウも、ゼーレもネルフも、人類補完計画もサードインパクトも、そんな話は存在していない。
すべてはフレーバーのみがあって、<<すべては碇シンジの感情の材料でしかない>>。
すべては碇シンジが感情の果てにいくための具材であって、どこまでも、何の話もない。
そして仮に、ここにこのことの「視聴者」がいるのだとすると、その視聴者は、大量のフレーバーに包まれて、碇シンジの果てしない「感情」に共感し、強い「感情」のみを体験するということになる。
何の話もないまま強い感情だけを体験する。
弟子ヨハネがイエスキリストによってロゴスの果てに導かれたであろうように、「視聴者」は碇シンジによってパトスの果てに誘われるだろう。<<その向こうに神話があるという願望にときめきながら>>。
ヨハネは感情ではなくただ神たる「話」を愛したに違いないように、視聴者は話ではなくただ神たる「感情」を愛したに違いない。
新世紀エヴァンゲリオンをあえて作品と言うならば、この作品は、永遠に碇シンジを「ぐずらせ続けるだけ」のものだ。これは当作に対する誹謗ではなく、むしろその原理が正しく貫かれているということに対してはいくらか称賛を込めたいところがある。
戦闘応召に対して、父親に対して、性欲に対して、同級生に対して、すべての自意識と自己愛において、抑圧される感情をひたすら内部に膨張させていく装置として碇シンジは作中に表示され続けている。
何の話もなく感情だけが無限大に向かっていく。
ありていに言えば、これの作り手は、これと同種の精神状態に陥っている「オタク」たちを――「気味」の人まで含めて――共感作戦で呼び込めるということに確信と技量があったのだろう。彼らが印象的な映像・音響・フレーバー語彙にどれだけ弱いものかも、きっと当人として知り抜いていた。
碇シンジを新世紀のキリストに出来たのかどうかは知らないが、少なくともオタク(気味)の人たちに、「何の話も聞く必要ないよ」「ただ一緒に感情の果てにいこうよ」と強力に誘いかけたのは間違いない。
人知れず多くの人がその誘いに乗り、拡大していって、二十五年後の現在がある。
そして無自覚にこう言い続けている、
「話って無意味で」
「パトス(感情)が神ですよね!」
「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」
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