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9.パトスの果てに「無上の射精」を願望する
新世紀エヴァンゲリオンが制作された動機は極めて純粋で、ただただ「最高の射精」を追求している。ないしは希求しており、願望している。
すべてのフレーバーと動く絵の展開は、パトス・感情の果てにいくための具材に過ぎず、その感情の果てというのも、願望する「無上の射精」を得るための材料にすぎない。
本当にわかりやすく言うと、ありとあらゆる条件を最上の状態に設定して、この上ない最高の「ドピュッ、ドピュッ」をやりたいのだ。
それ以上に至高の体験はないという、異様に強い確信が、まるで本人の意思を超えて出てきたかのように、ここだけは示されている。
すべてはこの作り手の希求する「無上の射精」に向けての戯画にすぎない。
これは悪口で言っているのではなく、この点では本当に「エヴァ」は意図的に・明瞭に作られているのだ。
作り手の側としては、すべての「話」と絶縁して、本当に自分が知っている唯一のことを描こうとした。それは意欲ではなく、逆に意欲がマイナスの底にまで至ったものだ。
それは何の「話」でもなく、無上の射精を思い描いた戯画にすぎない。
この戯画に、オタク(気味)の人たちが寄ってくることは「案の定」とは言え、それにしてもタガが外れたように寄ってくるのを見て、同族嫌悪と軽蔑を覚えたというところが作り手側の心情ではないだろうか。
ありていにいうと、アニメに「話」を視ている人が集まったのではなく、アニメに「射精」をしている人が集まったということ。
女性の場合も、物事に「話」を視ることができず、「オーガズム」することしかできない人が集まったと言える。
作り手も視聴者も、等しく「ロゴスが与えられず、何の話も視えない者」が集まり、当然のごとく、「パトスの果て、感情の果て、射精とオーガズムに同道した」ということ。
多くの視聴者は、振り切った作り手の側よりウブで、ロゴスを与えられないパトスの物体でしかない自分のことがよくわからず、エヴァを介して作り手の側へ甘えにきた。
そこで作り手が、おそらく内心ではその視聴者たちに同胞としての好意はまったくもたないまま、それはそれとして予算のままに無上射精の戯画を制作した。
その戯画が、恥も外聞もなく純粋に性的嗜好・いわゆる性癖、そのパトスを果てしなく開示するので、視聴者たちは自分たちのことも「これでいいんだ」と思うようになって歓喜した。
彼らにとって、「ぐずり続けて、パトス爆発する」のがセックスだったが、そのことが「これでいいんだ」と肯定されて歓喜した。
現代ではいわゆる「性癖」と言われている、性的嗜好、ないしはその偏執化について、具体例を示していくほうがこのことはわかりやすいかもしれない。
まず主人公とヒロインたちが十四歳なのは、作り手にとって、
「十四歳のときが性欲・リビドー・射精快感のピーク」
と確信されるからだ。
一方でいわゆる「おねショタ」というようなジャンルにも一部あこがれがある。そこで碇シンジには葛城ミサトがあてがわれる。
もちろん「話」の中でそうなったのではない。
おねショタのために葛城ミサトが設定されたのであって、葛城ミサトの話が先にあったわけではない。
そして綾波レイはまったく偽装もされていないエディプス・コンプレックスそのままだ。綾波レイは母親の複製だから、碇シンジは母親そのものと結婚しようとする。
ところが母親には父(この場合は碇ゲンドウ)がいるので、自分は母親のことを性的に奪取することができない。
そして少年は、この父を倒せるように力をつけていこうという道筋、父親を倒そうという道筋に進む。
このように、フロイトが提唱したエディプス・コンプレックスの、まるで模範例として綾波レイは碇シンジにあてがわれる。またこの「綾波」は母親として、ユングが唱えるところのグレートマザー元型としても作中のクライマックスに現れてくる。ただしそのような戯画が示されるのみであってそこに「話」はない。
アスカはドイツ出身で、シンジの性格・人格から真反対にあることもあり、わかりやすくシャドー(ユング元型のひとつ)が投影されている。
このシャドーから湧いて出たアニマ(これも元型)のようにアスカは描かれるのだが、このあたり作り手の意図にたいした意欲はなく、雑で、それっぽく登場させはしたものの、その元型の維持は投げやりにされる。
すべてはあくまで無上の射精のみを求めてのことだ。
碇シンジを通して自己実現に向かうという傾向はまったくない。
ここが強調して知られるべきことだが、碇シンジを通して自己実現に向かうというたぐいのことを「一切なしにしよう」と断じ、またそのことを本当に徹底できるところに、この「エヴァ」の特異性はある。
一切の、そうした魂の歩み、「話」たりうるものは生じさせないというのがエヴァの凄みだ。
なぜそうした話のたぐいを「一切なし」にするかというと、それらはしょせん射精の快楽には不純物にしかならないからだ。
ありとあらゆる元型を心理学者ユングがそれっぽく解明して見せたとしても、
「いいえ、僕のチンチンのドピュッのほうが上です、それを上回るものなんて絶対にないですから」
とうずくまって射精してみせるという、それがこのエヴァという戯画の強固な立脚点だ。
すべての「心理」に、わずかも向き合わない・克服しないという逆転の決定こそがこの「エヴァ」の説得力だ。
葛城ミサトが「おねショタ」だったとして、綾波レイがエディプス・コンプレックスだったとして、アスカが「ツンデレ」だったとして、それらのすべては、
「これに射精したら相当気持ちいい」
ということで画面に持ち出されているにすぎない。
すべては無上の射精に向けて蓄積されていっているものにすぎない。作り手にとってはきっと生涯何の話もなく、ただ無上の射精だけが本当の「夢」だったのではなかろうかと想像する(ただしあくまでそれはわたしの想像にすぎない、事実なんて最後まで誰にもわからないだろう)。
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