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13.無上の射精3/天国
福音書は書き換えられ、「パトスは神であった」とされる。
ここで、パトスを昂じさせていくことじたい、神に対する祈りとなる。
天国に招き入れてもらうための祈りだ。
そしてその天国とは、「無上の射精」に他ならない。
狂おしい、これ以上ない絶頂と、果てしない満悦。
こういったものの作り手は、クリエイションをしているわけだから、そのモチベーション、および原動力となるモチーフということに向き合わざるを得ない。
そしてどのクリエイターも、一種のリビドーのようなものを、その原動力にありうると認めている。
ただしそのリビドーの「ような」ものが、そのまま一般に知りうるリビドーで済むわけではない。
クリエイションの動機を突き詰めていくと、それはやはり何であれ「無上のものに奉じる」ということでしかなくなってくるのだが、この無上のものというのが、ベストヒロインに奉仕されての「射精」だということで、「エヴァ」は作られている。
少なくとも、パトスの果てに無上の射精を得んとする、そのモチベーションでここまでの「エヴァ」が実作されてきたという事実は誰だって認めざるをえない。
仮にロゴスのひとかけらを与えられたとしても、それは彼の射精の「天国度」を著しく低下させただろう。
逆に、パトスに踏み入るたび、彼の射精の「天国度」は増していった。あるいは、増していくだろうという光景が確信されていった。
天国から遠ざかるロゴスに踏みとどまる理由があるだろうか、また天国に近づくパトスに歯止めする理由があるだろうか?
最低な碇シンジであれば最低な碇シンジであるほど、その射精の天国度は向上していく。
すべての話を踏みにじるパトスが、ひょっとして「最低」な何かであったとしても、その最低な何かが射精の天国度を増していくじゃないか。
むしろこのことの果てにこそ天国へ至る道があるはずだ。
そういう形で「エヴァ」は作られている。純粋に、射精の天国度に帰依するのみの戯画を記したところ、むろん何の話でもなく、一種の入念な「射精風景」が生じたという具合だ。
実際にこのエヴァを射精風景にした男たちは多かっただろうし、オーガズム風景にした女性も少なくないだろう。それは当時社会現象とまで言われた。
男女やセックスという「話」が完全に失われ、男女やセックスという「パトス」こそが天国・楽園なのだとされる、現代に至る大きなトリガーのひとつとしてこの「エヴァ」が二十五年前にあったと言える。
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