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15.閑話
はーしんど。なんでファンでもないおれがこんな遠大な話をしているんだ。
まあ、ファンじゃないからこそ、このことが正しく語れるということなので、しょうがないけれどね。
それにしても、エヴァをアニメーション性風俗と捉えると、おれだってそれを好きになっておかしくない。
その意味では確かに、なんとなくアニメの再生ボタンをぽちっと押すことに気楽さはあるな。
ただ、それでもそんなに続けられるかというと、うーん、おれはダメだ。
そもそもシンジ君がおれの性的嗜好から遠すぎる。
おれはもともとセックスにいわゆる性癖のない者だ。
趣味としてはロリコンを言い張っているのだが、実際に女子中高生を目の前にすると、
「いやいや……」
と冷淡になってしまう。
空想するロリコンと実際のティーンネイジャーの女の子は違うからなあ。
十代の女の子なんて、ちっちゃなパトスでぷるぷる震えるぐらいしか機能がない。
それがカワイイと、パトスを亢進するボーイズもいるのだろうが、それはボーイズの側もちっちゃいパトスで震えられるからであって、おれはもうさすがになあ。
女子中高生とのセックスは何か、茹でただけで味をつけていないシイタケを食べる、みたいな感触がある。
無垢といえばそうなのかもしれないが、本当にまだ何もないので、見ていてヒヤヒヤするというか、ひたすら心配になる。
何もない女の子が、本当に韓流アイドルのブロマイド(なんて古い言い方だ)を見て、本当にワーと食いついているのを見ると、ひたすら、「これからより豊かなものがこの子に降り注いでくれますように、青春以上の青春が彼女を満たして彼女を強くしますように」と祈ってしまう。
綾波やアスカに封入されているパトスは、作り手側のパトスであって、当然だが十四歳の女の子のパトスではない。
実際の女性の身体というのは、もっとゴツゴツしていて、もっと動かなくて、もっと重たくて、もっとしんどいものだ。
女性の身体ってものすごい「しんどい」よなあ。そのままだと。
それにまともな魂が与えられて、しんどくない身体になるのであれば、もう何でもいい、とにかくハッピーだし、そのことのためならおれの学門だって無条件で協力しちゃうよ、と思ってしまう。
われながら完全に関係ない話をしてしまった。
おれは性風俗は好きなのだろうか? そっち方面に詳しくないので、おれは正直よくわからない。
少なくともキャバクラの類は、行きたいと思った試しがない。
行くとしたらどうせまたおれ自身の学門のために行くとかいうキチガイ行動になるんだろうな、おれは。
むかし、部長に連れられて六本木の会員制のところに行くというようなことは毎日のようにあったが、そこでもおれはけっきょく手品をしたり何やかやと、おれ自身が営業しているありさまだった。
いまキャバクラに行ってもどうせ、おれがなんとかして女の子を笑わせるというだけの、ナゾの挙動になってしまうのだろう。
(ちょっとイメージしてみただけでバテた、やめておこう)
ややこしいパトスを身の回りに置きたいとはまったく思わない。
おれは愛の話だけに囲まれていたいのだった……
エヴァを性風俗として楽しむのは悪くない、のかもしれないが、そうなると正直シンジ君が邪魔だ。
こいつを殺したらちょっとはマシな映画になるのにとずっと思いながら観ていた。
しかしよくもまあ、こんな「考えるだけでムカつく」というような奴をデザインし、それを主人公にしたものだ。単純にすげえと思う(おれはこんな気分の悪い主人公を五分だっていじれないだろう)。
しかもその主人公がムカつくということのみが作中にあって、何の話も本当には無いのだものな。
何がなんでも「無上の射精」をする、そのことから絶対に動かない! という、チンコ事情のMAXを堂々と表示してまったく腰が引けないということもすごいと思う。
そこまで何もかも、射精しかないかね、わかるようなわからないような、少なくともおれは女がゴールでは絶対にない。
おれは話の中で射精するのが好きで、パトスの中で射精するのは、好きでないというより、もう身体が反応しなくなってしまった。
おれはやさしいのだ。
女がパトスの中でオーガズムを得て、どんどん話・ロゴスには帰ってこられなくなる、そのときの悲しそうな、絶望的な、それでいてスイッチが入ってもう戻ってこられないのというような、その眼を見てきたおれは、ひたすら「もうそんなもの二度と見たくない」としか思えなくなった。
「エヴァ」を楽しく観られている人は、残念ながら、「話」が視えていないタイプだ。
オタクがどうこうというわけじゃない、「話」が視えないタイプだ。
ロゴスが視えなくてパトスしか視えなくなっている。あるいは生まれてからずっとその状態にある。
韓流アイドルのブロマイドに本当にワーと食いついている女子中学生みたいにだ。
おれはむかし、友人に勧められてエヴァを観せられたとき、「意味がわからなさすぎる」と言って耐えられず、二十分ぐらいでそれを止めてしまった。
二十五年経ったいま、おれは、新劇の序を観て、破の途中で、
「あ!」
と気づいて、それ以降、エヴァを観るのがしんどくなくなった。
観ているが、話は聞いていないからだ。
ありもしない話を聞こうとしていたからおれは「???」となっていたのだ。
何か話があるわけではなくて、パトスがバキンバキンなっているだけだ。
(何かわからんがバキンバキンというオノマトペを当てた。バキンバキン)
そのパトスを眺めているだけなら、確かに何ということはない、好きな人は好きだろうなということで収まる。
おれもスケベ男なので、アスカのセミヌードや股間をぼんやり眺めているのはそれなりに楽しい。
別に綾波でもいいし、ミサトさんでもいいし、そこのところは見栄えがきれいなら誰でもいい。
眺めるだけの女の股間を「誰」というものでもないだろう。
だがおれは敢えて当たり前のことを言っておく、「チンコに来るもの」が女というわけではない。
おれは女の身体がチンコに来るということじたいがないのだけどね。
眼はいくがチンコには来ない。
チンコに来るという現象はどうやらもともとおれには無いみたいなのだ。
上玉の女の身体は各所「かわいい」から、見ていて楽しいけれど、チンコには来ない。
チンコに来るのを、耐えたり抑えたりしているのではなくて、本当にその現象じたいが無いのだ。
おれのチンコは、そんなに安物ではないのだと言い張っておこう、そのへんのヒステリー小便器と同じにされては困るぜ(暴言をお詫びします)。
おっぱいやらケツやら股間やらが、「チンコに来る」というのを、一度は経験してみたかったとも思う、おれには生涯無縁の感覚でちょっとだけ残念だ。
女体がチンコに来るという現象は、女性がドレスや宝石を見たとたんにメラメラっとなる現象と同じだ。金持ちイケメンの男と高級車でもくっついていればなおさらだ。
言い方が悪くて怒られるかもしれないが、それは「オマンコに来る」のだろう。
パトス、感受性というのはそういうものだ。
年齢と共に収まっていく、ということは残念ながらない。
パトスも老化してしまうというのは事実だが、それよりも、老化すれば老化するほど、「話」がなくなっていくということのほうがインパクトが大きい。
完全にすべての「話」を失って、しわがれたパトスが残るだけだ。
その絶望的な成り行きをどうするかといって、どうしようもないので、社会的人格という思い込み・呪縛ですべてを拘束して麻痺させるしかないのだった。
おばさん変態クラブに入ったところで社会的人格の拘束を解除はできないし、麻薬をキメたところで、人格が荒廃していくだけであって、それから解き放たれるということにはけっきょくならない。使用不能の人格に拘束され続けるという最悪の状態になるだけだ。
というわけで、だらだら話してしまったが閑話休題。本題に戻ろう。
エヴァはどういう話だったか、ということではなくて、エヴァは時代的に、「すべての話の終わり」だった。
すべての話において挫折するしかなかった人にはどうしても刺さるところがあっただろう。
別にエヴァがなくても、同じことはじわじわ起こっていったので、結果的には同じことだ。
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