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17.年代別ATフィールドと、「パトス」という不意の展開
実際、サルトルの実存主義が失敗して以降、「主体性が得られない人はどうすればいいのか」についての結論は出ていないのだ。
「主体性を得られない人は他人という地獄をどうすればいいのか」
そのことは、サルトル失敗以降も放ったらかしで、ごく一部のまっとうな精神から、
「主体性を得ればいいじゃん……」
と突き放されるのみで終わっている。
80年代までは実存主義があって、それが共産化運動の失敗(ソヴィエト崩壊)で雲散霧消していき、90年代は神秘主義がはびこった。これはオウム真理教のテロ事件で「やめておこう」ということになった。
それで、00年代以降はマウントを含めた「バラエティ主義」になっていったのだが、それはいいとして、90年代の神秘主義はなかなか宗教的な主体性なんかくれなくて単に「スピリチュアルになりがちなわたし」を膨らませただけだし、00年代以降のバラエティ主義なんか主体性をくれるわけがなくて、マウント合戦と自分に貼り付いて離れなくなる「キャラ」「設定」をくれただけだった。
けっきょく「主体性を得られない人は他人という地獄をどうしたらいいのか」について、実存主義が消えて以降も、90年代の神秘主義はスピリチュアルATフィールド、00年代のバラエティ主義はキャラATフィールド、10年代以降はメンタルATフィールド、をもたらしただけだった。
おおざっぱな事実だけを言うなら、主体性を得られない場合、他人という地獄は「どうしようもない」らしいとまず言わなくてはならない。引き続きATフィールドでどうぞと言うしかない。20年代以降のわれわれとしては、この投げやりな状況に「草」とでもいうしかないが、20年代は草ATフィールドなのだろうか。今のところ実際にそうなっているが、いよいよ投げやりすぎて草も生えない。
言及しておくべきことがひとつある。いま示しているように、わたしとしてはそのATフィールドと冗談口に言いうるもの、「他人という地獄をどうすればいいか」の壁については、一定の理解を持っているつもりだ。思春期の少年少女が言う「こころの壁」がわからない奴なんていない。
だが二十五年前、「エヴァ」を代表的なトリガーのひとつとして、そこから突如として「パトスの信奉」がおっ始まったことについては不意打ちの感触がある。
わたしがここまで二十五年間も見落としていたことだ。
「こころの壁」などというものと、「パトス満載オーガズム」などというものは、相互に接続していない。連絡もしていない。冷静にみればまったくの無関係だ。
ATフィールドはともかくとして、なぜ「パトスを積み込んだ無上の射精で神話にゴー」などという飛躍が発生したのか。
このことは冷静に見極めておく必要がある。
主体性を得られない人は、入り込まれた他人に自分の「自信」を掌握されてしまうことになる。他人に支配され、逃げることはもう出来ない、永遠の地獄の始まりだ。
このことについて、ATフィールドうんたら以前に、
「自信をくれなかったじゃないか」
という叫び声を仮定する必要がある。そのことは次に述べる。
とりあえず、「こころの壁」などということと、パトス満載オーガズムは無関係だ。無関係のはずなのに、まるで必然で結び付いているような厚かましさでそのことは現代に出しゃばっている。
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