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19.「話ではない」のはエヴァだけではない
ここまで来てようやく、わたし自身が捉えるところの主題に及ぶ。
エヴァが「話」ではないということをここまでさんざん言い尽くした。
ロゴスを否定してパトスに神を置くという立脚点、それじたいがすでに「話」の否定を完了させている。
そして今、その「話ではない」というものはエヴァだけではない。
こんにちに至って、何の「話」でもないビデオ・マンガ、パトス亢進ビデオ・マンガでしかないそれがいくらでも作られている。
またそうしたパトス亢進ものこそが、現代において流行の首座を占めているというのが事実だ。
マンガやアニメだけではない。サブカルチャーだけでなくメインカルチャーもだ。
わたしはそれらの流行に「???」と首を傾げてきた。
二十五年前、このことの代表的なトリガーのひとつが引かれたということを、わたしはこれまで知らずに来たからだ。
わたしが現在目撃している「???」のものは、端的には「ポスト・エヴァの子ら」だということになる。
その源流をこれまで知らずに来たのだから、わたしが「???」と首をかしげるのは当然のことだった。
現在の、実際の流行ものに水を注すことにはいささか気が引ける。
それでも何かには具体的に言及しなくてはなるまい。
たとえばわたしは以前、ずいぶん若い人心にヒットしたらしい「サマーウォーズ」(2009)というアニメ映画を観たことがある。
それはまさにわたしにとって「???」だった。
マザーコンピューターがAIに乗っ取られてしまい、人類を攻撃するというような、それじたいは昔からよくあるテーマだった。
そのマザーコンピューターをハックしかえすために、数学少年が「暗号を解く」というようなことをするのだが、わたしはこの時点で「???」となった。
プロテクトをハックするために必要なのは「パスワード」であって「暗号」ではない。「暗号」は英語で「サイファー」だ。パスワードとは何の関係もない。
「暗号」はあくまで誰かと連絡するときに使うものだが、「パスワード」はただの「鍵」「合言葉」だ。合言葉を導き出せる数学など存在しない。
だから、何の配慮か知らないが、まるでそのマザーコンピューターが、その数学少年を特別に主人公にするために、秘密のパスワードをわざわざ暗号にして出題・開示しているということになる。
AIなりコンピューター側なりが「勝手に」プロテクトのパスワードを開示するということじたいが馬鹿げていよう。
パスワードをハックするという場合は、基本的には総当たり・ブルートフォース(力ずく)であって、数学の出番はない。
それどころか、それだけ万能のAIにハックされたなら、そもそも管理システムへのアプローチじたいが遮断されてしまうはずだ。わざわざ受け付けてやる必要がない。
だから話としてはブッ壊れているのだ。「バターン青! 使徒です」というのに対し、「その同定装置の原理は何で、設計者は誰だよ」ということのように、話としてはブッ壊れている。
だがこの「サマーウォーズ」においてもやはり、ファンはそうして「話」としてはまるで成り立っていないということには頓着がないようだ。
サマーウォーズの舞台は、「ひょんなことから連れていかれた先輩女性の田舎の長屋」だ。そしてこの舞台装置は、AIコンピューターと戦う(?)ことにはまったく何の関係もない。ただその少年が、先輩女性の前で「たまたま」活躍するところを見せられるというだけでしかない。
そして、最後の最後はAIコンピューターとなぜか花札の「こいこい」で戦う(?)ことになるのだが、コンピューターの側がわざわざ自ら敗北のリスクを自作・固定することの意味がわからないし、その花札を配るのもコンピューターのアプリケーション上でのことなので、どのような札が配られるのかはコンピューター側には透視されている。だからコンピューターは「わざと」その少年に負けてやったというわけのわからないことになる。
仮にマザーコンピューターの統御がAIに乗っ取られたとしても、それは悪意のある行動をさせられるだけで、急に「何かしらの気分をもつアタシ・コンピューター」になるわけではないはずだ。漠然としたAIに漠然とした「悪党」の機能を着せるのはさすがに空想としても童子じみていて受容しづらい。
さらに、クライマックスの「こいこい」のルールじたいも何かおかしい。全員で一丸となって「こいこい!」をコールするのだが、「こいこい」のコールはリスクを含む延長戦コールであって、そのコールで点数が倍々になるわけではない。そもそも「こいこい」という花札遊びはそんなに大きく点差のつかない地味なゲームだ。なぜこんな無理のあるものをクライマックスのシーンにねじこんだのか、わたしにはまったく「???」だった。
今はその「???」も解決できる。
コンピューターの出す暗号を解かねばならないという「話」があるわけではない。ただ、「暗号」というフレーバー、ハッキングというフレーバー、ふだんは目立たない数学少年というフレーバー、先輩女性というフレーバー、長野県の山中の長屋というフレーバー、花札・こいこいというフレーバーがあるだけだ。
そして世界中の期待を背負って、「ふだん目立たない僕」が応援されて戦っていたら、パトスは振り切れるほど昂じるのだろう。小惑星探査機が落ちてきたら、そのサイズと威力感だけでパトスは昂じるに違いない。
それらのパトスで一種のやはり「絶頂」に向かうことができれば、「話」などそもそも要らない、ということのようだ。
このように、エヴァだけでなくその後継も、インディーズでなくメジャーとして文化的地位を獲得しているということがわかる。
これは「ポスト・エヴァの子ら」という捉え方でよいだろう。
いまわれわれは、言わずもがな、現代で流行した、あるいは流行したとされるマンガやアニメ、あるいはドラマや映画の、誇張されたキャラクターや、切り取られた台詞、その「技」の名前や構えなどを、ものまねのように演じることができる。
その実例をいちいち挙げていくつもりはないが、ひとつごと数えていけばけっこうな数になるはずだ。
それらのすべては、どこか流行するにも一種の違和感があったのだけれども、それでもどこか力ずくで流行したという、事実と感触がある。
それらはすべて、性質的にポスト・エヴァの子ら、どれも「話ではなかったもの」と言いうる。
わわれれが今(2022年)直面している現代において、流行したもののすべては「話ではないもの」だということだ。
もちろんそれぞれの作中に「設定」はある。
だが「設定」は概念であって、概念はフィクションではない。
概念はノンフィクションだ。
「設定」を盛り盛りに積まれてあったとして、それは何の「話」でもない。
たとえばこういう具合だ、
「地味で目立たなかった田舎の高校生が、交通事故をきっかけに異世界に迷い込んでしまう。異世界は農作がまったく知られていない世界だった。そこで、農家の長男だった彼は、親に教えられたことを思い出し……?」
「王宮戦闘組織ベラーノで、驚異の飛び級卒業になった少年・ミズサキ。彼は王朝の失政に愛想をつかし、放浪の旅に出たが、旅先で小国の姫に出会う。小国は西方の鳳凰族たちに襲われて存亡の危機に瀕していた。力を貸してくれるようミズサキに願い出る姫。そこでミズサキが姫に出した交換条件は、彼自身にとっても意外なものだった」
このように、単なる偏った空想から湧いた「設定」を言い出すなら、誰であっても一日のうちに百個でも二百個でもその設定を出せるだろう。けれども誰でも察するとおり、このような設定は当人の願望とパトスから生じた埒もない夢想にすぎず、何らのインスピレーションでもなければ、何らのイマジネールでもない。
設定は「話」ではない。では「話」とは何なのかというと、これは手短に説明できるものではない。
具体的な例で言うなら、浦島太郎が亀を助けて竜宮城へ行ったというのは「話」でありえるし、ドラゴンボールを七つ集めると神龍が出てきて願いをひとつ叶えてもらえるというのもひとつの「話」でありえるだろう。
だが、「生まれつき念能力の素質が極度に大きかった少女、ミトゥロア。彼女は五星の宿命を負っており、人助けの得を積み、やがて一匹の竜に出会う」というのは「話」ではありえない。
ロゴスとパトスは権威において相克しており、「話」はロゴスを権威としてしか生じてこない。
パトス(感情・感受性)を権威として湧いてくるものは何ひとつ「話ではない」ということだ。
何をもって「話」と言いうるのか。
もともとの福音書の言い方を借りるなら、「ロゴスが神」だとして、創作されるフィクションにもそのロゴスなる神は在るや無しや、ということになる。純粋なロゴスが第一にあるなら、その創作世界にも神がありえて、その神によってすべての条件付けはその世界の「話」となりえるだろう。
反して、パトスから生じるものを第一にするということは、パトスを神とすることであって、パトスを神とする以上、すべての条件付けは「話」にならない。すべての条件付けは「感情」になるのが必然だ。
現代はむしろ、その「感情」をたっぷりと膨らませた、あえて盛り盛りの「設定」のほうが、コンテンツとして好まれるという実態がある。
いま最も強調されて言われなくてはならないのはつまりこのこと、
<<もはや「話」はどこにもない>>
ということだ。
われわれは今、周囲を大量のコンテンツ群に包囲されており、それらの中には「高品質」と言われるものもたくさんある。
だがすべてのコンテンツは、すでに何らの「話」でもないということに気づかなくてはならない。
少女が投稿する自撮りのショート動画が、アプリケーションで愛らしく飾られて、何かしらのBGMとマッチして、性的な魅力のあるダンスを示していたとして、それが何十万もの「カワイイ」の評を集めていたとしても、その少女の笑顔と肢体が揺れるのは何の「話」でもない。
ただの「パトス」だ。
流行したすべてのマンガとアニメとドラマと映画を思い出せ、すべて、<<戯画的感情が流行しただけ>>だ。そのポーズ、決めゼリフ、必殺技、変身シーン、組織の名前、すべてに「戯画的感情」がくっついているだけだ、何の「話」にもなってはいない。
本稿はけっきょく、「エヴァ」そのものをどうこう言うために書くものではない。
二十五年前に引かれたトリガーから現在を見たとき、「話のすべては失われた」ということが明らかになるということだ。そのことを知らせるためにこの文章は書かれている。
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