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20.パトス洗礼
つまりわたしが主題にしているのは、これまでの何かの作品やコンテンツのことではない。
われわれの、人びとの、あなたの、魂の視力、魂の機能についてだ。
魂の機能として、「話」の機能がすでに完全に失われたと報告したい。
「話」に対する視力がなく、「話」を聞き取る受け皿がない。
「話」を聞き取れない・受け取れないのみならず、受け取ろうとするそのときに、わざわざ自分でその話を "壊してしまう" ということが起こる。
聞き取りも受け取りもできなくなったのだ、自らそれを発するなどはできようもない。
このことには名前が必要だろう。それもなるべく、印象的に捉えやすい名前が必要だ。
パトスが第一の神だと信奉する文化勢力によって人びとの魂から「話」「ロゴス」の機能が失われてしまった。
このことは「パトス洗礼」とでも名付けてみよう。福音書に引っ掛かって覚えやすいに違いない。
パトスの徒になった人びとは、自分に向けられた「話」、自分に聞こえてきた「話」、自分に与えられようとするそのひとつの命に対して、<<パトスの聖水をぶっかける>>というようなことをする。
パトスの水をかけると「話」はどうなるか。話は解体される。解体されてその命を失う。
解体されたそれは、「解体」というだけに、「理解」はしやすくなる。また、バラバラに分割されるから、すべては「分かりやすく」なるのだが、分割された時点でそれはすでに話ではなく、その命は失われている。
そのような水はむろん聖水ではありえないが、皮肉をこめて聖水と呼ぶほうがいいだろう。
何しろパトスの徒としては、パトスを神としているのだから、その霊力を帯びた水をぶっかけることは、聖水をぶっかけることに違いないはずなのだ。
なぜそのようなパトス洗礼をするようになったのか。なぜそのような、パトスの徒になってしまったのか。
それはあなた自身も、これまでにどこかで、やはりそのパトスの水をぶっかけられてきたからだ。
「話ではないもの」「パトス亢進のもの」、それこそエヴァがその代表的なひとつだが、それを愛すべきものと演出されて、これまでに視界に、聴覚に、寝床に、オーガズムに、ぶっかけられてきたではないか。
そのパトスの聖水に対して、はっきりと「大好き」「ファンになった」「マジ神話だと思う」という人もあれば、「よくわからないけど、なんだかんだ好き」という人もある。どちらにせよ、そうして人びとはパトスの徒になった。
パトス亢進、パトスの洗礼、話ではないもの、それらについて、
「趣味だから別にいいじゃない」
という言い方は常に冷静な良識を保っているように聞こえる。
けれども条件がひとつ抜けている。いま、そのブラインドされている条件を開示するためにこの話をしているのだ。
「そのかわりすべての話が視えなくなるけれど、それでも別にいいと言えるか」
パトスうんぬん、それじたいが悪いと糾弾しているのではない。
パトスを神として、そのエッセンスを聖水とするなら、魂の機能のうち「話」に関わるすべてを失うということ、そのことの致命性を警告しているのだ。
むろんその警告は、今このとき、すでにまったく間に合っていないのではある。
人びとは魂においてそんなに頑丈ではなかった。
四方から注がれるパトス水を、「趣味」などという半笑いで消化できるほど崇高に屹立してはいなかった。
一昔前、大学生たちが「うぇーい」と言い合うようになった。
今でも「ワンチャン」「それな」と言い合っているかもしれない。
大学生が大声で「うぇーい」と言い合うのは別に悪いことではない。そうではなく、なぜその「うぇーい」が印象的に切り取られているか。
それは、「うぇーい」以外に何の話も機能していないからだ。
誰でも知っていると思うが、そうした宴席でのやりとりを傍から聞いていたとしても、そのはしゃぐ大声の中に、何らの「話」も聞こえてはこない。
楽しいふうの怒鳴り声が聞こえてきて、はしゃいでふざけているふうの中にも、割と深刻なマウント合戦の空気があるだけだ。
うぇーいが「ある」のではなくて、話が「ない」のだ。
だから奇妙に「うぇーい」という鳴き声のようなものが際立って聞こえている。
パトスの聖水をかけられ、パトス洗礼を受けてきた者らであるから、己のパトスを何かしら、大きくぶちまけることには躊躇が無かったりする。またそのことに長けていたりもする。
パトスをぶちまけることに長けている者は「陽キャ」と呼ばれる。一方、ぶちまけることには長けず内気で、パトスを内に溜めて内圧を高めていく者は「陰キャ」と呼ばれる。
そのパトスの行き場が「白昼堂々」なら陽キャだし、「陰ながら」なら陰キャだ。
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