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24.ウソの区別がつかなくなった人びと
あるタレントが、ダイエット等をテーマとして日々ツイートを発信する。ところがある種の暴露番組において、これらのツイートが全部ウソだとバラされる。ヘルシーに見えるよう撮影したサラダ朝食の裏で、その何倍ものカロリーを摂取していた。「ウソばっかりじゃないか、ひどいものだなあ」と番組のスタジオ内は笑いながらも呆れるのだった。
ところがそのタレントは、以降も同じように、偽装されたダイエットのツイートを投下し続けるのだった。彼のそのツイートはすべてウソだとすでに周知のことになったのだが、彼にとってそのことはまったく問題にならないらしい。
もうすっかりウソだとバレているのに、なぜ彼はそのウソツイートを「やめない」のか。
それは、彼は初めからウソなどついておらず、暴露番組の放映以降も、やはり彼は何らウソなどついていないからだ、ということになる。
彼のやっていたこと(現在もやっていること)は、彼にとって「設定」であって「ウソ」ではない。
彼は自分がダイエットしているというウソを発信していたのではなく、ダイエットしているという「設定」を発信していた。
「ウソを発信しているわけじゃなくて、これは、こういう "設定" の発信なの」
すでに多くの人にとって、この「ウソ」と「設定」の区分はあいまいだ。いくらでも無法な都合主義がまかりとおっている。
すでに世の中に、信じがたいほどの「ウソ」が横行しており、それらは当事者にとって「ウソ」とは体験されていない。当人らは通例の「設定」をやっていて、何らの咎(とが)も自分にはないという感覚でいる。
このことに直面して、そのことへの視力を得ると、現代はすでに一種のサイコホラーの局面を迎えていることがわかる。
テレビ局がある種の隠語を用いて、情報番組でいろんな商品や店のレポートをする。
「◯◯という人気店におじゃましました」という体裁なのだが、実際にはその店側からペイメントがあってそのコーナーが組まれている。お金を払って自分の店の紹介をしてもらうということだ。
ただしもちろん、「こちらのお店はこの情報コーナーのスポンサーです」とは表示されない。
あくまで、◯◯たちに大人気とか、芸能人◯◯の行きつけ、というような形で紹介される。
その紹介の文言は基本的に「ウソ」だ。
民間のテレビ番組は広告媒体であって、スポンサーが主体で成り立つものだ、その広告スポンサーが公開表示されている場合、何ら道義的違反はない。
だが、「◯◯という人気店」からお金をもらっておきながら、そのことを表示せずにただの「人気店」とレポートするのは単純に言って不公正だ。違法ではなくてもすでに信義則に反している。
だがこのことにおそらく、テレビ局側の良心の呵責はない。
テレビ局側は、すでにそれを「◯◯という人気店」「芸能人◯◯の行きつけ」という "設定" だとする番組を作ることに、魂が麻痺してしまっている。
バラエティに仕込まれる「やらせ」も含めて、ウソと設定の区別がつかなくなっているのだ。
歯に衣を着せず言えば、テレビ局はすでに膨大なウソをやり倒していて、それはもう引っ込みがつくような質量ではなく、いまさらどうしようもないので、そのすべてを「そういう設定なんで」と言い換えて、もう何も考えないよう逃避しているだけだ。
実際そのことについて考えるだけの魂の鮮度はもう残っていないのだと思われる。
母親が病気で倒れ、残された赤子が泣いている。
が、撮影時には泣いていなかったので、その尻をちょっとつねって、わざわざ泣かせてそれを撮影する。
そんなことが「設定」で通るわけがないのだが、当事者たちはすでに麻痺している。
震災で行き場を失った飼い犬たちや飼い猫たち。
行き倒れて死んでしまった犬の映像を挿入するが、その犬の映像は別の街のものであって、震災現場の映像ではない。
そんなことが「設定」で通るのか。通るわけがない。
映画の撮影なら、フィクションを構築する正当な手口になるが、バラエティ番組や情報番組はそうはいかない、それらは看板に「これらはすべてフィクションです」という但し書きをしていない。
「情報ならびに出演者の挙動はすべてフィクションです」と前もって表示されるバラエティ番組や情報番組をいったい誰が観るだろうか?
より厳しく、リアルなところに言及していこう。
あなたが友人を集めて、みんなで Youtube を観るとする。おもしろ衝撃映像や、危機一髪の事故映像などを多数観ていくとする。
するとあなたの友人たちは、口元に手を当てて「キャー!」、あるいは目を剥き出しにて「うわあ、それはヤバいやろ!」みたいなことを言うか。
言うわけがない。
ただ Youtube を眺めているだけであって、たまに「あ、うわ」ぐらいは漏らすかもしれない、それだけだ。
みんなを集めて Youtube の衝撃映像を観るというのは、実際にやってみればわかる、屈指の「つまらないこと」のはずだ。
テレビ番組のスタジオに、タレントやアイドルが集まっていわゆるひな壇を形成し、おもしろ衝撃映像や危機一髪の事故映像を観る。
タレントたちの顔はワイプに切り取られ、その表情は豊かに、衝撃映像に対する「リアクション」を示すのだが、それらのリアクションは全部ウソなのだということになる。
モニタで衝撃映像を観ているだけの人があんな顔面と挙動のパフォーマンスにはならない。
だから、「衝撃映像にびっくりして息を飲んじゃう◯◯ちゃん」という設定で挙動しているのだ。
テレビなんてそんなもんだと誰でもわかっているつもりでいる。
「テレビなんてそんなもんじゃん」「テレビに何を期待しているんだよ」、そういう大人ぶった言いようは誰でも第一に思い浮かぶところだ。
だがそれは本当にはそのやっていることを捉えきれていないからそのように陶冶されたふうに思えるにすぎない。
自分自身でそのウソのかたまりをやってみたらわかる。
強烈なウソ挙動だ。こんなことで人をだませるのか。Youtuber の撮影や、ホステスの営業中でもなければ、とてもじゃないが馬鹿馬鹿しくてやれたものではない。
自分も他人も「まともなほうから引き離す」という、一種のやけくその決意みたいなものがなければやれないようなキツさがある。
ウソをウソとして、たとえば「ウソ泣き」をしているのであればまだわかる。誰だってそれぐらいはしたことがあるだろう。
だがそうではないのだ、われわれが目撃しているのは「ウソ泣き」ではなく「設定泣き」なのだ。
当人はそれをウソとは思っていない。
だからそれを「ウソ」だなんて言うと、こちらが悪者になってしまう。
すでにサイコホラーの局面に至っていると先ほど申し上げたとおりだ。
美人女子アナの◯◯が、視聴者に向けて笑顔でセクシーなウインクをする。そして照れくさそうに笑う。甘い声でコーナー名をコールする。
そういうことを、ウソでやっているのではなく、設定でやっているのだ。
どういうことかわかるだろうか、
「本気でニセモノを押し込みに来ている」
ということだ。
本来、同じ人間に向けて出来ることではない。
病気に効くキノコという「設定」で、なんでもないキノコを売る。
それはそういう「設定」であって、ウソをついているわけではない、というのだ。
「オレオレ、オレだよばあちゃん。元気にしてる? ばあちゃんさ、おれ、車で事故しちゃって、大至急、二百万円が要るんだ」
という、ウソを電話口で言うのではなく、「設定」を言う。
「こういう夜のお仕事とかって、本当はすごく苦手なんですけど、母が病気で倒れてしまって、どうしてもお金が必要で……お金を貯めて、母に治ってもらって。あとは自分の勉強にお金を使いたいなって思って、がんばってます! 楽しんでいってくださいね」
という、ウソを酔客に言うのではなく、「設定」を言う。
その設定を向こうは真に受けるかもしれないじゃないかというと、
「そんなの、知らないよ〜」
とドギツい声で言う。
「だまされたい人だっていますから」
「夢を売っている商売ですからね」
そこで彼女が、
「でもたくさんの人に、本当に幸せになってほしいと思う」
と言う。あなたのことを真っすぐに見る。
あなたはどう思うか。
もしそれも、
「本気でニセモノを押し込みに来ている」
のだとしたら、あなたはそれを「そういうもんだよ」と陶冶の範疇に含めるのか。
作詞作曲をするといって、本当に当人が作詞作曲しているのかはわからない。
じきに、人工知能がインターネット上でマーケティングをし、人工知能が「売れる」作詞をもたらすだろう。
あなたがその詩文を真に受けてしまったらどうなるのか。
「そんなの、知らないよ〜」
と向こうは言うだろう。
とんでもないことがすでに起こっているのだ。
教育熱心な教師が、自分に「教育熱心な教師」という設定を当てはめて日々の教壇に立っている。
父親が「厳しいときは厳しい父親」という設定を自分に当てはめて子供の前で振る舞っている。
宗教者が、「神仏の安らぎにほほえむ偉い人」という設定を自分に当てはめて未亡人に向けて営業する。
彼氏に対しては女性らしいところをもつ、という設定を自分に当てはめ、条件のよい結婚へラブストーリーを成り立たせようとする。
「お前のことが好きだから、おれは頑張るよ」
と、彼は言うが、彼は「そういう男」という設定を自分に貼り付けているだけであって、その奥では特に何も思っていない。
何かそういうマンガを読んだときに、「こういうの、いいなあ」と思ったから、その設定を自分にも貼り付けてみただけだ。
それで相手が真に受けたらどうするのか。
「そんなの、知らないよ〜」
女子中高生は、身なりもきれいで、化粧も上手になって、頭もよく、笑顔でいて、無垢で明るく前向きだ。
彼女らが三人も四人も束になってはしゃいでいると、ひたすら「かわいいな」と見える。
でも本当にそうか。
本当に奥まで触れてみたことがあるか。
彼女らは「かわいい」という設定を自らに貼り付けている。
それをウソだとは自分で思っていない。
マスメディアが真っ先に、そのウソでしかない「設定」を、フィクションだと言い張った、その影響下に彼女らはあるわけだが……
「設定」はフィクションではない。
設定とフィクションの違いを明らかにしておこう。本来、今さら言うまでもないことだが、フィクションというのはそれがフィクションであることを前もって明らかにしているものだ。
あなたが◯◯劇場というところに入って、幕が開くと剣をもった男がふたり、舞台上で対峙していたとする。
あなたはその二人が本物の刃物をもってリアルに切りつけあうとは考えまい。
舞台上の二人がアーサーとランスロットだったとして、あなたはそれが彼らの戸籍上の名前だとは思わないだろう。
作中の、登場人物の名前であって、それぞれの「役」だとあなたは自動的にみなしている。
バラエティ番組に出てくるアイドルタレント◯◯ちゃんは、「作中」の人物か?
アイドルタレント◯◯ちゃんを誰も「作中」の人物およびその「役」だとは思っていないのだから、バラエティ番組への出演はフィクションではありえない。
よって、「テレビはけっきょくフィクションだから」という言い分は通らない。テレビはそれがフィクションだという表示を明らかにしていない。
だいいち、そのひとつひとつをフィクションにして毎週お届けするなどという離れ業は、ふつうの人間にできる所業ではない。かつての「ドリフターズ」ぐらいにしかできない。
「バカ殿」を見てあれがどこかの大名だと思う人は誰もいないので、バカ殿はフィクションとして成り立っている。
多くの人は、このフィクションというものを成り立たせることの、果てしないむつかしさと、膨大な魂の負担を知らない。
本当はフィクションのほうがむつかしいのだ。ふつうの人は一生に一度も、自己からフィクションを産み出すことはできない。
だがほとんどの人は、ノンフィクションよりフィクションのほうが、「空想だからカンタンだ」と思っている。
だから「設定」をフィクションと勘違いする。
パトスの欲望で湧いて出たあわれな「設定」をフィクションと言い張る。
パトスは生身から湧いて出るのだから源泉からノンフィクションだ。
それで「設定」の人は、「ごっこ遊び」をフィクションと誤解する。
ごっこ遊び、現代で最もわかりやすいのは「コスプレ」だ。
全員でコスプレをして全員でセリフを真似れば、その原作の「実写版」が撮れるかもしれない。
仮にあなたが美貌の女だったとする。男たちが吸い寄せられてたまらない「えっち」な体をしていて、それを見せびらかすことに正直なところ楽しみと優越感も覚えているとする。
流行のマンガから「コスプレ」をやってみて、その写真をSNSに投降したら、大量の絶賛コメントとファボがもらえた。
そういうごっこ遊びをしていたとする。
そのあなたの美貌と肢体と、目立つところとセックスを目当てに、男が言い寄ってきた。金持ちの男で、マザコンやマゾヒズムの気配がある。
男の見た目は悪くない。まだ若く、成功者らしくて、あからさまに高級な腕時計をしている。
ぜひあなたと食事に行きたいと男は申し出る。
あなたはその男のことを、「扱いやすそう」と直観する。
あなたは恋愛に対する興味を持っていない。マンガの中で見かけるそれは楽しく味わうが、自分がそれをやってみるという気にはまったくならないし、恋愛そのものがよくわからない。
イケメン、というものはそれなりにわかるけれど、それが「大切な人」になるというのは、まったくよくわからない。
自分にとって大切な人というと、母親とか、なんだかんだ自分をここまで助けてきてくれた人だ。そういう人には感謝しないといけないと思っており、それは「大切な人なんだろうな」と思っている。
目の前でその若い金持ち男が、お願いします、と懇願した。
そのときあなたは、自分に「恋人」という設定を貼り付けて、恋人ごっこを遊んでみるという発想について、「まったくわからない」と言うだろうか。
むしろあなたにとってこのとき、「恋人」という設定で遊ぶこと、「恋人ごっこ」で遊ぶということは、一番「それならわかる」というように馴染みやすいものではないだろうか。
とんでもなく高級な牛肉とやらを食べてみたい。
友達に対しては「友達」という設定、チャリティに対しては「博愛」という設定。
映画を観たら「感動」という設定を自分に貼り付ける。
そうすることで、自分の「経験」や「体験」を増やしていくことができるじゃないか。
一方、本当に気分のよいことは何か? それは運動で汗を流したり、新しい服を買ったり、エステで全身を快適さに浸すことなどではないだろうか。
このようにして現代は、パトス快感のバケモノが、すべての魂に関わることを「設定の貼り付け」でやりくりし、望ましい「体験」を窃取しようと企んでいる状態にある。
無邪気で、友達を大事にして、照れ屋で、人に悪意を持たないという、彼女の「設定」が貼り付けられてあるのであって、それらはすべて「ウソ」だ。すてきな笑顔がつい出るというのも貼り付けられた設定であってウソだし、プライベートでは思いがけず人情派というのも設定にすぎずウソだ。
しかも、自分が「ウソ」を遣り続けているという自覚は持っていない。
「すべてのことを、なるべくあるがまま、自然に無理のないように、やっているつもりですけど? 自分にウソをついても、どうせ続かないですからね」
当人はまるきりそう思っている。
そこまで徹底しているものだから、むしろその「設定」こそ彼女の真実と言いたくなってくるほどだ。
なぜこのようなことになるのか、正しく原理から視認しておくことにしよう。
彼女には何の「話」もないのだ。
パトスが彼女の神であって、ロゴスは二流のするレスバトルでしかないのだから、彼女にロゴスたる「話」は成り立ちえない。
仮に彼女が若い金持ち男と恋人になるとしたって、彼女にはその恋人になるという「話」じたいがないのだ。「認識」はしえても「話」はない。
彼女には「友人」というような話はないし、何かが「大切」というような話もない。
「愛」なんて話もない。彼女にあるのは自分にとって「本当に気分のよいこと」という自己愛だけだ。
「話」そのものがないのに、「本当の話」など問われても、応えようがない。
だからすべてのあるべき「話」は、「設定」に置き換えられる。ここまで述べてきたように、「設定」が「話」の代替になる。
恋人という設定、友人という設定、大切という設定、そしてかわいい自分という設定、自分に誇りを持てるだけ努力して前向きでいる自分という設定。
「話」そのものが魂の機能として存在しない以上、「話」に関わることはすべてウソにならざるを得ない。
もし彼女が、その「設定」をやめて、本当の自分に向き合おうとしたら、気分のよいこと以外に対してはすべて、膝を抱え込んで「ぐずり続ける」という "本音" しかないのだ。
もし彼女が「エヴァ」を観たら、碇シンジの振る舞いに対して、「ある意味、勇気あるな」「ある意味、うらやましい」と共感を覚えるかもしれない。
「あそこまで本当の姿を見せられないもんな〜」
だから現代のそうした女性は(男性も同じだ)、運動で汗を流す傍ら、堂々とオタク趣味という人が多い。
「話ではない」もの、パトス亢進ビデオやマンガを、意外とむさぼるように読んでいる。パトス・ソシャゲをフリックしまくっている。
彼女が先輩に対して、
「なんだかんだ◯◯さんのこと尊敬しています」
と、実にかわいらしく言ったとして、それがウソのつもりは当人にもない。ただ、それは「設定」でしかないと言われたら、そうなのかもしれないと思う。
だが彼女にはその「設定」というのが「本当でない」というのがどうしてもわからない。
「◯◯さんのことを尊敬していると言ったけれど、あなたにとって◯◯さんはどうでもいい存在でしょう」
と言われたら、それこそウソをついてごまかさない限り、
「そうですね。尊敬はしていますが、どうでもいいといえば、まさにどうでもいいです」
となる。
「なぜ尊敬しているのに、どうでもいい人になるの」
「なぜでしょうね。自分でもわかりません。うーん、単にそういうものなんじゃないですか?」
彼女にとって◯◯さんを尊敬しているというのは、ウソではないがウソなのだ。
彼女は「本当の話」にたどり着くことができない。
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