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25.ロゴスの徒たるあなたはまったく別に存在する
果てしなく話は続いていきそうだ。きりがないのでしめくくりに向かう。
われわれが周囲を見渡すかぎり、ほとんどの人は無垢で、かわいらしく、健気で、罪のない、良識をもった、友好的な、明るく、協調性のある、こころある存在に見える。若い少女がおめかしして、友人たちとはしゃいで街を歩いていればなおさらだ。まったくどこをどう見ても、何の問題もなく、すべて「別にこれでいいじゃん!」に見える。
だがすべてのことは一点、「話」が失われたということに結ばれる。
「話」の機能が失われた人びとはどうなるのか、という一点にすべては収束していく。
外見上からの印象にいちいち目利きをはたらかせる必要はない。
「話」は人びとに掴まれているか、視認されているか、共有されているか、「話」のもとに人びとはいるか、という一点だけを焦点にしていい。
可憐な女の子がこちらを見上げて「おはようございます」と言う。まだ薄桃色の唇のまま、照れくさそうに、それでも勇気を出してだ。
そうすると、彼女のすべてはすばらしいものに思える。そのとおり、わたしも彼女のすべてをすばらしいものと思う。
ただわたしが知っているのは、このすばらしいものたる彼女が、「話」を視認できずにその後どうなっていくかだ。すばらしいものたる彼女の底に、どのように容赦のない「穴」が空いていくか、わたしはそのことを憎んで今この話をしている。
<<わたしが彼女のことをどれだけ「かわいい」と思ったとしても、そのパトスの向こう側に神話は決してない>>。
神話をもたらすとしたら、ロゴスの主として、わたしから彼女にそれをもたらすのでなくてはならぬ。
なぜ彼女が「かわいい」からといって、彼女に神話の主たらんことを押し着せるのか。
<<絶対恐怖領域に無防備の権威で立つのは、第一にわたしであって、彼女であってはならない>>。
「おはようございます」と見上げて言った彼女の姿に神話があるのだとしたら、その神話の由来は、彼女の見上げる先、わたしの側からもたらされていなくてはならぬ。
ただ底抜けに「かわいい」だけでは、何の神話でもない。
二十五年にわたるパトス洗礼、その大量のパトス水を浴び続けることが起こり、ロゴスは果てしなく失われたとして、そのパトスの徒は、どのようにしてロゴスの徒に転じる、ないしは帰ることができるだろうか。
それをどうすればよいものか、わたしは知っているが、この話はまったく人びとの想定できる範囲になく、どのように説明してもまず伝わることはない。
ロゴスは理知であり言葉であり「話」だが、そのロゴスの果てはどうなっているかというと、やはりわけのわからないものだ。それはロゴスでありながら、それ以上の何かだ。一般的に知りうるロゴスを理や言葉と当てはめるなら、ロゴスの果てにあるロゴスの玉座には、理や言葉が知識となる前の、「それじたいの事象」みたいなものがある。
パトスの果てにあるものが、もはやパトスではなくただの「完全なる崩壊」であるようにだ。
ロゴスの果てには「完全なる形成」それじたいがあり、パトスの果てには「完全なる崩壊」それじたいがある。
ただしいかなる闇もこの光を打ち倒しはしないので、完全なる形成の権威があるところ、完全なる崩壊などは事象平原から完全追放される。
現在、ほとんどの人はパトスの徒であるよりなく、そのパトスの徒たる「私」が、ロゴスの徒に転じることは原理的に不可能だ。
なぜなら、その「私」という自認じたいがパトスで成り立っているからだ。
「私」という感情が「私」になっているので、その「私」がロゴスの徒に転じることはありえない。
では感情ならざるわたし、パトスならざるわたしというのはいかように存在するのか。
ここからは、一般にはまったく考えようもない話になる。
ロゴスたる「わたし」、それはもともと存在していて、ただひたすら遠く、まるで今のところ「わたし」とは思えないだけだ。
パトスの私がロゴスのわたしを探すことは、地球上で太陽を探すことに似ている。
地球上を照らしているのは太陽だ、太陽ほど、探すのに困難がないものも他にない。
太陽は常にそうして、探すまでもないものなのに、地球上のどこを探し回っても太陽は見つからない。
太陽を見つけるためには、地球から飛び立って太陽に行かねばならないが、地球から飛び立つということがまず無理な条件だ。われわれはどんな高跳びをしても、地球の重力圏に落下してこざるをえない。
ここで、奇想天外な、あなたにとって信じがたいことを持ち込む必要がある。
どのようにして持ち込むかといって、それは、わたしの「話」をもってそうするしかないわけだ。
あなたが太陽にいかずとも、もともと太陽にもあなたがいるということだ。
太陽にいるあなたの栄光こそを増せ。
そのことは、地球上にいるあなたの権勢と、何らの関係もないだろう。
あなたが地球上で高級な靴を履いたとしても、太陽にいるあなたの足しにはなっていない。
太陽にいるあなたが頭に月桂冠を巻いても、地球上のあなたには何の足しにもならない。
これではまるで、太陽にいるあなたに足しをしても、「私には何の意味もないじゃないか」と思えるのだが、そうではない。
太陽にいるあなたの側において、地球上のあなたに足しをしていることが、「わたしには何の意味もないじゃないか」になっているのだ。
ロゴスの徒たるあなたはそれぐらい遠く、まったく別のところにいる。
けれどもそれは、ロゴスの徒たるあなたが「いない」わけではないということだ。
パトスの徒から見てロゴスの場所が遠いだけで、ロゴスの場所にあなたがいないわけではない。
よかったな、と素直に申し上げておこう。
ただし、何かこのことにとてつもない侮辱を投げつけた者については、ひょっとすればその限りではないかもしれない。そのあたりはもう、人知のおよぶ範囲にない。
あなたは自分に関係のあることについては努力するのが得意だ。
けれども、自分に関係のないものについて努力するというのは、まったく意味不明に感じられる。
自分に関係のないものについて努力する、つまりたとえば、マレーシアの海辺に置かれてカニの棲み処になっているテトラポッドを拡大する、というようなことだ。
あなたが自分の街を歩き、その一歩を踏みしめるときに、マレーシアのテトラポッドが「大きく」なるようにその一歩を踏みしめる。
自分の街にいるあなたとその足許のことは忘れろ。目を開けていれば見えているのでそれで十分だ。
わけがわからないだろう。
あなたの足許はマレーシアの海辺につながってはいない。
無関係だ。
ただ、「無関係のものが届く」ということはあるかもしれない。
実感として、無関係のものは届かない、その届かないということを無関係だと一般に言うのだが、実感のパトスに権威を譲るな。
わたしが「無関係のものが届く」と "話した" とき、あなたは瞬間的に何かを視ているはずだ。その直後には、あなたはわたしにパトスの水をぶっかけてしまうということも、わたしは重々知っているけれども。
太陽にいるあなたの栄光こそを増せ。
大丈夫だ、太陽と地球上は無関係だから、太陽にいるあなたが栄光を増したとて、地球上の誰にもバレはしない。
人が何かの星のもとに生まれているとするならば、地球上のあなたを増すな、その「星」のほうを増せ。
その「星」があなたの「ロゴスたるわたし」だから。
わたしの話していることは、あなたにとって視認の限度を超えてしまうだろうが、それでもわたしがいましているのは「話」であって、「設定」でもなければ、概念でもイメージでもないということはわかるはずだ。
わたしの話していることは、太陽にいるあなたに聞こえなくてはならないものだから、地球上のあなたがどう反応するかということにはあまり意味がない。
せいぜい、極端な侮辱が飛び出すようなことがなければよいと願うぐらいだ。
わたしには人類補完計画などというような感情ほとばしるプランはない。
わたしはすでに、ロゴスの果てには「完全なる形成」それじたいという事象があると言及しているのだから、そもそも補完などというものは発想から要らないだろう。
太陽にいるあなたの栄光を増せということ、地球上のあなたなんて「何それ?」と忘れろ。
いまこの話は、本当にわけのわからないものに聞こえるが、二十五年前はそこまででもなかったのだ。
二十五年前は、そこまででもなかったから、こんなことをわざわざ話す必要がなかった。
それなりの人が、地球上のことがわかっていなくて、何もわからないまま、太陽にいる自分の栄光を増そうとしていた。
どことなくそういう日々があったのだった。もちろんあるていど、人によるし、場所にもよると思うけれど。
おれの話はめちゃくちゃではない。
「パターン青!」のほうがめちゃくちゃだ。
パトスの徒たるあなたが、あなたにとって一番身近な「私」として存在する。
ロゴスの徒たるあなたは、あなたにとって一番遠い「無関係なわたし」として存在する。
わたしの話は太陽にいるあなたに聞こえていて、パターン青は地球上のあなたに聞こえているだろう。
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