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26.神話の主はあなたであれ
以上ですべての話は終わり。
新世紀エヴァンゲリオンはどんな話かといって、それは「話」ではない。
二十五年前に引かれた、パトス洗礼の大きなトリガーのひとつだった。
それは90年代の神秘主義としてすり抜けて生き残ったものだ。
パトスはロゴスを解体する。
「話」を失った人びととして現在のわれわれがある。
大学生が大声で「それな」と言い合っているのは、一見「楽しいのかな」と思える。
おめかしをした女子高生たちはみんな明るくて「かわいい」ように見える。
だが「話の機能を失った」ということだけが収束点になる。
やがてパトスを積み込んだオーガズムに天国を求めるということにどうしても行き着く。
「話」を失った人びとは、フィクションと「設定」を取り違える。
パトスから生じた「設定」の貼り付けを「話」だと誤解する。
「設定」は概念・ノンフィクションであって、要はただの「ウソ」だ。
それでウソを貼り付けることに麻痺していき、平気でそのウソを発信するようになる。
すでに世の中は、大量のウソが堂々と発信され、当人らはそれをウソだと思っておらず、「そういう設定だから」と平気で思っている。
本当のことに帰ることなどできない。
本当の「話」に帰ろうとしても、もう「話」じたいがないのだ。
パトスから生じた「設定」を思いきりやる、パトス亢進ビデオとマンガ、ソシャゲ。
すでにメインカルチャーもそちらが主流になった。
それらはすべてノンフィクションであって、そこにフィクションなんか無かった。
すべては「絶対恐怖領域」から始まっている。
無念なことに、それはすでにサルトルが言及済みかつ、失敗済みのものだった。
自信のないところに「他人」に入り込まれると、支配されてしまう。
「出口なし」、永遠に自分が認められず他人に支配され続ける地獄だ。
形成される作用のない世界はひたすらグロテスクで、嘔吐がせりあがる。
これらのすべてを打ち払ってくれる神、それがパトスだった。
パトスが神なのだと福音書を書き換えよう。
そうして吾らのパトスは神になってしまい、揶揄の対象ではなくなった。
二十五年のパトス水を振り払い、ロゴスの場所へ帰れるだろうか。
そのことは原理的に不可能だ。
そうではなく、ロゴスの場所にもあなたはいる。
パトスのあなたとまったく無関係のあなたがいる。
太陽にいるあなたの栄光こそを増せ、それがどういうことなのかは、あなた自身がそれをするときまでわからない。
最後にまったくどうでもいいような話をしよう。
おれだって90年代を若い奴として生きた一人だ。エヴァのファンではまったくなかったけれど、当時、ある種の切なさがあって日々の夜が過ぎていったことを、おれだって知っている。
当時はまだ、ポケベルがあったりなかったり、メールがあったりなかったりだ。毎夜、押し寄せてくる切なさやさびしさは深く大きいものだった。それでダイヤルアップでインターネットにつないでいたんだろう? テレホーダイの23時を待ち受けて、それでも毎月の電話代に怯えながら。
ここまでずいぶん大量のことを話したけれど、それでももし、自分は綾波に恋をした、アスカに惚れたんだという人がいたならば、自分が惚れた女のことじゃないか、誰に何を言われても自分ひとりが胸に抱えて生きていけ。いちいち批評やら考察やらで振り回されるのじゃない、同好の士ともその恋を共有するのはやめるんだ。テメーの恋を外側に持ち出すことについて、綾波やアスカに悪いと思わないのか、その点だけは恥を知れ。テメーはよくても女性の側のプライバシーってものがあるだろう。
しょせん、エヴァに出てきた女の子たちが「えっち」だったから、たまらず恋をしたというだけかもしれない、それでもテメーで恋をしたのだとしたら、テメーひとりで抱えて胸を張って生きていけばいいだろう、決してうつむくな、うつむくことは綾波なりアスカなりに対する侮辱になろう? 彼女らが許したとしてもテメー自身でそれを許すな、もしそれが出来ないならテメーで言い張った恋うんぬんを撤回しろ、そんな弱っちいものを恋などと言い張っていい権利は誰にもない。
おれは「エヴァ」をひととおり観て、それをフィクション作品と認める向きにない、ノンフィクションのパトス亢進ビデオだと断じよう、そこに何の「話」もない。
けれども意外に思われるかもしれないが、スケベ男どもが恋したであろう綾波やアスカに対してその否定は向けない。そりゃそうだろう、なんでおれが半裸で振る舞っている十代の女の子を否定するわけがあるんだ。
綾波もアスカも、チンコにパトスを積むものでしかなかったとして、そんなことでおれが女の子を否定するものか。
年端もゆかぬ女の子なのだから、おれに対しては、チンコにパトスを積むだけの存在であってかまわない。それどころか、もっとおれのチンコにパトスを積め。そのことばっかりしていてかまわん。やりたい放題やれ、おれのためにもっとエロい恰好をしろ。
神話が欲しければおれがやる。おれが女の子に神話をやる。なんでおれが女の子に神話をねだるわけがあるかね。
女子中学生のパトスごときがよってたかっておれを昂らせたとして、そんなことでおれのロゴスが解体されるわけがないだろう。
使徒なんて、おれが「帰れ」と言えば帰るんだよ、使徒はおれの姿を見たら攻撃できないの。それどころか、「おれが食べる魚を獲ってこい」と言えば、使徒はよろこんでおれの魚を獲りにいくだろう。
おれが何を言っているかわかるか、おれの言っていることはいつもシンプルだ。
お前が「エヴァ」に入るなって言ってんの。
彼女らを「エヴァ」から連れ出せって言ってんの。
お前がパトスに神話を求めて「エヴァ」の中に入っていこうとすることじたいが誤りなの。
彼女らがロゴスに神話を求めて「エヴァ」の中から飛び出てこないといけないの。
お前が男たるゆえんは何だあ。
神話を求める女の子の飛び込む先が男でないといかんでしょ。
お前が神話を求めて女の子にしがみついてどーすんの。
液体人形の綾波が破裂するのだったら、お前が形成の魂を与えて綾波を守れ。
お前が形成の魂を与えたらそれはもう液体人形じゃないだろう。
誰がそれをやるといって、お前がやるのだ。完全な形成という事象それじたいを「お前が」ディールしろ。
綾波が複製として一万体いるなら、一万体すべてをテメーの妻にしろ。それでエディプス・コンプレックスと言われるなら、そのほかにも別の一万人を妻にして冷やかせ。
お前がゼーレに解散を命じろ。「人類補完計画とかいうゴミは中止です」とお前が命じればそれで済むことじゃないか。
ゼーレとかいう板はどこか公衆便所の建築資材にでも使え。
おれの言うことは常にシンプルで、
「神話の主はお前であれ」
と言っているだけだ。
神話の主がお前なら、どこぞの少年が神話になるとかいううわごとに耳を貸さなくていいだろう。
おれはエヴァのファンではないが、そんなことは徹頭徹尾、どうでもいいことに決まっている。
そうではなく、逆だ、
「綾波もアスカも、おれのファンじゃなきゃだめ」
とおれは言っているのだ。
絶対恐怖領域といって、お前が怖がるのを自慢してどうする。
邪なるものにとって、お前自身が絶対恐怖領域にならなきゃだめなんだって。
「エヴァ」は何の話でもない、パトス亢進と無上射精への不毛なアプローチだ。それに比べたら、おれが今ここにしている「話」のほうが遥かにマシだ。
よって、「エヴァ」に対する完全解答は、それが何の「話」でもないということと、それに巻き込まれたカワイ子ちゃんたちを、まともな「話」に連れ出してやる、ということなのだった。
というわけで、長々と続いた話をこれにて終劇としよう。
最後に何を申し上げておくか。
なぜこんな話になっているか、申し上げておこう。
おれは今さら、
「二十五年前に、このエヴァというやつがあったんだなあ」
と振り返っているのだ。
それと同時に、ここには書かないけれど、おれはおれで、このように思い知らされている。
この二十五年間、まったく正反対の洗礼を浴びまくってきた。
二十五年前の今ごろ、おれはおれで、反対側のトリガーを無数に引きまくっていたのだった。
おれのほうはまだまだ最終話には届きようもない。
そう考えると、おれ自身の話をちゃんと完結に向かわせることのほうが、リアルに何万倍もキツいなあと、気が遠くなるのだった。
この先もロゴス亢進ものをやるのかよ。
思わず「逃げちゃダメだ」と言いたくなるなあ。
でもしょうがない、二十五年前から、おれは自分のATフィールドを壊してきたからな。
すべてはおれのシナリオどおりに進めるので、今後ともよろしく。
[今さら新世紀エヴァンゲリオン劇場版をぜんぶ観て、それを考察しないという正しいことの解説および二十五年間のミッシングリンクの発見/了]
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