No.416 素の人と、エンジェルL
「みじめさ」から始まること
われわれは「みじめ」という感情にたいへん弱いものです。「みじめ」とはどういうことでしょうか。たとえばみんなが楽しく話しているとき、自分が話すと、
「お前の話、めっちゃつまんないんだけど」
と言われるようなことです。とてもみじめですね。そのことを「みじめ」と呼ぶのだと、ふだん使い慣れないことばを発見してゆきましょう。
あなたの学歴はそこそこかもしれません。高卒かもしれませんし、大学でも中堅の私立大学かもしれません。周囲が「おれ東京大学だけど」「おれは慶応」「わたしも慶応だよ」「おれ京都大学なんだよね」と口々に言っていたらどうでしょう。その中であなたが、
「わたしは、◯◯大学です」
と言ったとき、周囲のひとりが、
「え? そんな大学あったっけ、どこそれ」
とためらいもなく言います。そのあとあなたは意気揚々とおしゃべりして交歓することはしにくいですね。このときに起こる感情も「みじめ」といって間違いありません。
高級ブランド服を試着してみたら似合わなかった、そういうときもみじめです。三つのオーディションを受けてみたけれど、どれも一次選考で落ちた、そういうときもみじめです。けっこう勉強したのにテストの点数が悪く、ふだんからサボっているようにしか見えない誰かがはるかに高得点でちやほやされているのを見ると、当然みじめという感情が起こります。舞台に立ってみたけれどまずい演技で馬鹿にされた、「向いてないんじゃない?」と笑われた、そういうときもみじめです。自分の友人は恋人と海外旅行にいって幸せそうなのに、自分の彼氏は麻雀に明け暮れてメールの一通も送ってくれない、そういうときもみじめです。就職先が不品行で給料も安い、それでヘトヘトになっているとき、高級車で送迎されている充実して楽しそうな人を見ると自分がみじめです。自分でも自覚しているのに「要領が悪い」と上司に繰り返し言われるとみじめです。自分がどれだけ丁寧にしても異性はみんな自分に対してそっけないのに、他の誰かが粗雑にしても異性はみんなその人に色よい態度を向ける、そういうときはみじめです。「あなたレベル低いねえ」「頭悪いんだね」「ブサイクだもんなあ」、一方的にそう言われたとき、「なぜあなたにそんなことを言われなくちゃいけないの」と腹が立ってみじめです。自分のみじめさを、見ないように目を背けている、余裕のあるふり、達観したふりをしている、そのことにうすうす自分で気づいてしまうのもみじめです。自分の姿を写真に撮ってみても、野暮ったくてみじめですし、自分の声を録音してみても、くぐもっていてみじめです。自分の経験してきたこと、自分の青春、それをどう取り出してみてもたいしたものがなく、たいしたものがないというのがみじめです。自分のやりたいこと、自分の語りたいこと、自分にとって大切なこと、そういったことも特になくて、それを言わされるときには無理やり捏造しなくてはならない、そのときはとてもみじめです。何かひとつぐらい誇れるところ、自慢できるものが欲しいと望みますが、そんなものを必死に求めているということじたいが、ある夜とてもみじめに感じられます。
「みじめ」という感情はたいへん強力なもので、若いうちなどは特に、いやがおうでも人を一定の方向へ押し出します。たとえばマンガ「ドラえもん」を思い出してください。主人公のび太は、常にスネ夫にいやがらせをされたり、ジャイアンに暴力を振るわれたりして、「みじめだよ〜」という心情から泣きながら家に帰ってきます。そうしてドラえもんに泣きついて秘密道具を出してもらい、みじめさの解決が図れるかどうか、というのが定番として物語の主軸になります。のび太がそうしてみじめさによって一定の方向へ押し出されるように、われわれもまずみじめさによって一定の方向へ押し出されます。それはときに努力の方向であることもあり、ときにふて腐れる方向であることもあります。
「みじめさ」とは何でしょうか。そのことを初めに確認しておく必要があります。みじめさは、
「あわれさがネガティブな感情に進行して体験されること」
を指します。それはどういうことでしょうか。
われわれは、スーパーマンとして生まれてきてはいません。もしわれわれが誰も、生まれつきアポロンかアフロディーテのような輝ける存在として、その肉体も知性も授かって生まれてくるのであれば、われわれにはみじめさは起こりようがなかったでしょう。そのときのわれわれは生まれつき栄光の中にあっただろうと言えます。けれどもわれわれの現実はそうではありませんし、何もわれわれは「生まれつきアポロンかアフロディーテでないとイヤです」と言い張るわけではないでしょう。われわれは生まれつきそうした神話的な存在ではない、あわれな存在だということです。そのことに対してわれわれは否定しません。
けれどもそのあわれな存在が、そのあわれさを進行させて、否定的な感情体験をすることがあるということです。その否定的感情が「みじめ」と体感されます。なぜあわれさがみじめさに進行あるいは転化するのかについては、詳しく述べると際限がありませんので簡単に述べておきましょう。それはわれわれが罪あるいは業(カルマ)として持っている「認識」の機能によります。認識・識別・分化・比較によってそのことは起こってきます。そういう呪いの中に生まれつきあるということです。その業(カルマ)と呪いは生後六か月ぐらいまでは眠ったままです。だから赤ちゃんが自分に「みじめさ」を感じるということはなく、それによって一定の方向へ押し出されるということもありません。厳密には、一定の方向へ「行ってしまう」という機能まで含めて業(カルマ)ですが、そこまで精密に見ることはここでは必要ないでしょう。
われわれが登山しているとき、鳥がその上空を軽やかに飛びぬけていったとしましょう、そのとき、息を切らしながら山道をのぼっている自分のことと比較して、
「いやあ、あわれなものだな」
と感想を持つことがあるかもしれません。このときわれわれは、鳥と比較して自分を「みじめ」とはあまり感じません。
それは、鳥の側に認識・識別・分化・比較の業(カルマ)がないからです。渡り鳥は国境を超えて飛んでゆきますが、鳥の側には国境を認識する機能がないのですから、誰もそれを密入国とは言いません。
われわれはおそらく一般的な中型犬とかけっこをしても負けるでしょうが、かけっこで犬に負けたとしてもそのことを「みじめ」とは感じません。何しろ犬の側は遊んでもらってしっぽを振っているだけなのです。犬は人間のような認識と比較競争の中にいません。これがクラスメートとかけっこをしたときとは異なるということです。クラスメートとかけっこをすると、どちらが勝者でどちらが敗者かという認識・識別がくっついてきます。それがどのていどの差なのかまで含めて勝者と敗者の比較もくっついてきます。
この罪業の機能、認識と比較の機能がわれわれにネガティブな感情をもたらします。片側においては万能感、片側においてはみじめさをもたらします。万能感にせよみじめさにせよ、これはどちらも強烈な感情なので、自己の内でそれを打ち消すというようなことはできません。ですから、その感情に大っぴらに浸りきるか、そうでなければ、自己の内にそれをずっと「隠し持つ」ということしかできません。よってわれわれは、そうした万能感やみじめさを、無数に蓄積し、それを隠し持って現在まで生きてきているということになります。万能感であれみじめさであれ。
ここでひとつの疑問が湧いてくるかもしれません。それは、「万能感はネガティブな感情なのか」ということです。認識機能の中で勝利し、自分は万能感にひとつ浸りえたのだから、それは優越の興奮さめやらぬポジティブな感情なのではないかということです。そのことは、一般的な感覚と認知の範囲内においては確かにそうです。けれども知られざる本質としてはそれもネガティブな感情だということになります。その証拠に、われわれはそうした万能感に内心で浮かれあがっていたとしても、そのことを大っぴらに見せつけようとはしません。なるべくそうした自己満悦ぶりは控えるべきだというふうに直観しています。それでも酔っぱらうと大っぴらに出てきてしまうものですが。
われわれにとって逃れようのない、認識・識別・分化・比較の業(カルマ)によって、われわれは万能感とみじめさ、両面のネガティブ感情を蓄積していきます。ここで先ほどから述べている「一定の方向へ押し出される」というのは、<<みじめさから万能感の方へ行きたがる・行こうとする>>ということです。万能感といってもろちんわれわれは万能ではないのですが、ひとつでも万能感のほうへ近づこうとします。勉強もできないしスポーツもダメではみじめです。就職先もまずく、食事も服装も貧しいのではみじめです。地位も身分もないのに、ジョークやユーモアのセンスもないのではみじめです。顔や体型の見た目が美しくなければ直接みじめです。ですからそうではない万能感の方向、「勉強もできるし、スポーツもできる、就職先もよくて、ジョークやユーモアのセンスもあって、生まれもいいし、見た目も美しくて、うらやましい暮らしをしているんだよね」というほうへ行きたがります。そちらのほうへなんとかして行こうとし、行けないとなればふて腐れます。
万能感といって、より直接にはわれわれはいったい何が欲しいでしょうか。一言でいってさまざまな「能力」が欲しいでしょう。体力も欲しいし、知力も欲しい、学力も欲しければ、財力も欲しいはずです。魅力と能力があればみじめさからは無縁であり続けるはずです。すべては万能感のほうへ一気に押し上げられるでしょう。まずはそうした力のすべてが欲しいと誰でも考えます。あなたがもし「世界でもっとも知に優れた人」であったらどうでしょう? 誰もがあなたを見上げて敬う世界で、あなたはみじめになりようがありません。
一方、力だけではどうしようもないこともあります。それは「美」でしょう。同じスポーツ選手になるのでも、できれば眉目秀麗なほうがいいと望むと思います。美はあまり「美力」とは言いませんから、美と力は別のものとして、力と同等に「美」も欲しいと誰でも望むものです。自分の顔は美しくあってほしいし、自分の身体は美しくあってほしい。自分の声は美しくあってほしいし、自分の着る服、自分の書く字なども美しくあってほしいと望みます。自分の姿は、ただそこにあるだけで、夜明けの金星ヴィーナスが東の空に光っているようだと、大げさにいえばそういう美の者であってほしいと望むはずです。
みじめさの反対側にあるのは万能感ですが、より直接的に、われわれが欲しがるのは「美と能力」ということにします。われわれがみじめさから一定の方向へ押し出されるとして、その押し出される先の究極は、最終的に「美と能力の一位」ということになります。
この段での最後にひとつ、蛇足を付記しておきます。われわれの認識と比較は、われわれに万能感とみじめさの両面をもたらしますが、みじめさからまた特定の感情が湧いてくることを「ひがみ」と言います。同様に、万能感から特定の感情が湧いてくることを「うぬぼれ」と言います。これらのすべては、けっきょくわれわれが生まれつき「あわれ」という事実から生じているということを改めて強調しておきます。たくさんのことがあるようですが、すべてはこの「あわれ」という事実からツリーのように派生して生じているにすぎません。
[あわれ]―┬―[万能感]―[うぬぼれ]
└―[みじめ]―[ひがみ]
Lの人
あなたがスマートフォンで「自撮り」をしたとします。あなたはそのことに慣れているのか、慣れていないのか、どちらにせよ、多くの場合で何かしらの「決め顔」をすると思います。あるいはいわゆる変顔でそれを撮影したとしても、それも変形した決め顔の一種には違いないでしょう。
あなたが一切の決め顔をせずに自分を撮影したら、そこには残念ながら、ちょっとぶさいくなものが映るかもしれません。しょうがありません、あなたは自己撮影のプロではないし、そもそも一般的なカメラは記念撮影用に 35 ミリていどのレンズがあてがわれているので、近距離で撮影すると必ず像が歪むのです。そもそもポートレート用のレンズではないし、ポートレートを撮る距離でもない。
自撮りに慣れている人は、なるべく腕を伸ばして、たいていは自分の視界に光源があるようにして、やや上方から自分を見下ろす角度で「自撮り」の撮影をするはずです。カメラに近いほうの要素が強調されますから、上から撮ったほうが目元が強調されて、アゴ側が縮小されます。下から撮るとアゴや頬回りが強調されて目元のほうは縮小されてしまうでしょう。
多くの人は、自分が自撮りでかっこよく撮れたらなあ、という単純なあこがれがあると思います。希求と言うほどではないにしても。きりっとした表情で、品よく、物語性を感じさせるような、かっこいい、あるいはいかにも美人の、気さくだけれど尊厳のある、そういう自撮りが出来たらいいと思います。だからとりあえず最低限の決め顔をするでしょう。素のままを撮影されてよろこぶ女子高生などいません。撮影も角度も表情も、何もかも「素」のまま撮影したら、そこにはなんとだらしなく、ときにはぶさいくなものが映ってしまうでしょうか。それを人に見られるのは恥ずかしくてみじめなはずです。ましてそれが他の美麗な人たちの写真と並べて見比べられるとしたらどうでしょう。
「このときはちょっと、体調悪かったし、角度も表情もぜんぜん決まらないまま撮ったやつだからさあ」
思わずそんな言い訳が出てきてしまいそうです。またそれは事実であって、何も見苦しい言い訳というわけではないでしょう。
自分を自撮りでかっこよく撮れたらなあという単純な思い、あるいは、他人に撮影されるのでも、「かっこいいじゃん」とちょっぴり言われるようになれたらなあという、単純な思いが誰にでもあると思います。そこで、架空にですが、ここに「ドリンクL」というのがあったとしましょう。このドリンクを飲むと、決め顔がうまく決まるという製品です。決め顔がよくなるだけでなく、女性なら化粧が上手になり、男性なら髪型がかっこよくなります。
わざわざ自分の「みじめな」顔や姿を写真に撮られたいと思う人はいません。あなたが女性だった場合、このように考えてみましょう。あなたが仮にバストの大きい女性だったとします。写真撮影を二種類して、一つは顔だけ、もう一つは胸元まで含めて映りこんでいます。そうすると、胸元まで映りこんでいたほうが魅力と迫力がありますね。あなたは二つの写真を見比べて、
「あっ」
と発見をします。
「そっか、わたしの場合、胸元まで映りこんでいたほうがかわいいんだ」
あなたはまた、次のように発見してゆきます。あなたはこれまで自分の顔や姿を、野暮ったいんだよなあ、ダサいんだよなあと感じていたとします。親からもらった顔にケチをつけたくはないけれど、正直なところ鏡を見るのがあまり好きではありませんでした。
ところがあるとき、友人の家に行き、「この服、サイズ合わなかったからあげるよ」と言われて、ワンピースをもらいました。その友人はお金持ちだったので、そのワンピースは高級品でした。
あなたは慣れない高級品を着てみて、
「わたしのガラじゃないよ」
と恐縮してみせますが、ふと鏡に向き直ったところ、
「あっ」
と発見をします。
馬子にも衣装ということわざが日本にはあり、確かに、そのワンピースを着ていると、これまでダサくて野暮ったかったあなたの顔と全身が、
「案外そうでもないぞ」
という見栄えを得ています。
あなたの姿は、鏡の中で、ついにそのみじめさを脱することができたということになります。単純にこのことで、目元がうるうると、涙をこぼしそうになったのをなんとかして留めた、という経験がある人も女性においては少なくないと思います。
同じようなことが次々に発見されます。ちゃんとお金をかけて髪を整えると「あっ」、イミテーションでない本物のアクセサリーをつけると「あっ」、高級な化粧品を使ってきっちりメイクしてもらうと「あっ」、豪奢な生け花を背景に自分を撮影してみると「あっ」、品格のあるホールの舞台に立ってちゃんとライティングを当ててもらうと「あっ」、写真や動画をプロに調整・編集してもらうと「あっ」、あなたは次々と、ダサかった自分、野暮ったかった自分、みじめな自分から脱出できる方法を発見してゆきます。
「かわいいは作れる、って言うし、実際そういうことってあって、ちゃんと意識を高くして、自分磨きしたら、ちゃんと女の子はかわいくなれるんだよ」
とやがてあなたは確信を持って言うようになるでしょう。そのことは何もウソではありません。
「それでさ、やっぱり鏡の中の自分がかわいくて綺麗だったら、自信持てるし、自信持てたら人生ぜんぶが変わっていくじゃない。周りからの扱いもじっさいめっちゃ変わるんだしさ。ダサい自分のままみじめにウジウジしているのは本当に損だよ」
もちろんあなたは、それらの美、自分磨きのすべてを所有・購入できるほど、資金が豊かではありません。そのことに無限の時間と労力をかけられるわけでもない。でも自分でなんとかできる範囲で手に入るものもありますし、どうしても欲しい・必要だと思えるものがあれば、なんとかしてそれが所有できるよう、自分の手にできる範囲を拡大してゆけばよいのです。そのために働くんだよと言えば、就労への意欲も大きく励まされるところがあるかもしれません。
こうしたいわゆる自分磨きのような要素、つまり美の要素を、すべて「L」という語にまとめてしまいましょう。考えられる要素は無数にあるので、ここではそれを「L」に集約し、つまり、
「Lを注入すればいいんだよ」
という一言にまとめます。
素のままでは誰でもみじめなものであって、みじめな自分はいやでしょう。だからLを注入してゆきます。
Lの注入にかかわって、一番小さく、かつ一番わかりやすいのが、誰しも「自撮り」をするときになんとなくの「決め顔」をするということです。それがわかりやすいので第一のサンプルに取り上げました。
次に、このようにも考えてみましょう。あなたが就職活動をしていたとします。あなたとしてはやはり優れた、上位の仕事と収入が得られそうな企業に入社したい。けれども当然そういった企業は人気ですから倍率が高くなります。あなたはその中で面接を受け、比較競争の中で勝ち抜いていかねばなりません。
素のあなたは、もともと張り切って初対面の年長者に向けて自己PRをするようなタイプではありませんでした。もともとそんなタイプが「素」でどこにどれだけいるのかあやしいものです。あなたはこれまでに数社の面接を受けましたが、どの企業からも二次面接はなしのつぶてでした。
自分が面接でする受け答えは、覇気がなく、すべてのことを言いよどんで薄気味悪いものでした。われながら、そうしたときの自分のありようは、あまりにもみじめだと認めざるをえず、あなたとしては思い出したくもないというやけっぱちの気分にさせられます。けれども同じみじめさを、第一志望の企業の面接で晒すわけにはいきません。
どうすればあなたは就職面接で、比較競争に勝ち抜けるようなパフォーマンスを示すことができるでしょうか。あなたにはそんな能力があるのでしょうか。そういった能力はぜひあってほしいものですし、ないでは豊かに生きていくことは差し迫って困難になります。実にのっぴきならないことです。
あなたはそこで、動画サイトを検索し、就職面接のコツを教えてくれる講習ビデオを観ました。そこに映っていた模範例は素のあなたとはまったく異なる様子のものでしたが、あなたはその映像を観てこころあたりを見つけました。
「これに出ている人、雰囲気やしゃべり方がAくんによく似ている」
そういえばAくんも就職活動中でした。あなたはAくんに連絡を取り、就職活動の相談に乗ってもらうことにしました。
Aくんいわく、
「ブティックの店員さんでも、不動産の営業の人でも、ファーストフードの店員さんでも、ちゃんとプロとしての自分を作って仕事してんじゃん? 社会で活躍するってそういうことでしょ。誰がプロの店に行って、素のその人を見たいなんて思うんだよ、ちゃんと仕事しろとしか思わないじゃん。芸能人だってそうでしょ、誰だって個人的にはいろいろあるんだろうから、楽屋ではどんな顔しているか知らないけれど、スタジオや舞台に立ったら、そこではちゃんとプロの仕事をするわけじゃない? どんなキモオタとも笑顔で握手しきれてこそアイドルで、アイドルになりたい人はそういう仕事をするプロになりたいっていうことじゃない。そこは割り切りってというか、そういう厳しい約束で世の中は成り立ってんだからさ、そこのところ覚悟しない奴は初めから負けていて損だよ」
Aくんは、素の自分なんてプライヴェートで十分なんだから、社会の現場ではその場にふさわしい自分で勝負するのが筋じゃん、と力強く言います。「そもそも人付き合いっつーもんが、誰しもそんな素の自分のままやっているわけじゃないでしょ」とも。じっさいそれで、Aくんの就職活動は、あなたのそれより順調で大きく進んでいるそうです。
あなたはAくんの調子に気圧されながら、その話に深く納得もしました。就職活動をやるならやるで、確かに覚悟を持って臨まないようでは初めから気持ちで負けている。
一方であなたは、ひょっとしたら自分はそういうサラリーマン方面の仕事は向いていないのかもしれないと思い、なんとなく高収入のチラシに引き込まれて、キャバレー・クラブのキャスト応募にも行ってみました。面接は短時間で、その日からすぐ「お店に出てみる?」という話になり、見習いの扱いで体験勤務してみることになりました。
あなたはその店内で、毎回丁寧に、
「見習いで、講習もまだのコだから、大目に見てあげてね」
と紹介されます。あなたはよくわからないまま低頭して、よくわからないままお客さんの隣に座ります。ドレスは店で共用のものを貸してもらいました。
あなたはそこで、よくわからないなりにホステスさんの真似事をし、お客さんに万事、
「そんなんじゃダメだよ〜」
と大笑いなどされながらも、内心で、
(うん、これは、その気になったらそこそこやれる)
とも感じていました。あなたはニコニコ笑いながら、表面上はウブなふりをして、
「ご、ごめんなさい〜」
と酔客たちの歓心を買うことがいちおうできたからです。もちろんそれだけでずっとやっていけるわけではないにせよ、まったくそのことが不能というわけではなさそうでした。
慣れない一日の体験勤務を終えて、あなたは店長やママに言われたことをひととおり真面目に聞くようにしながらも、その帰り道、
「これはこれでけっこうやれるな、わたしってこういう能力あるんだ、自分でも意外だ」
と感じてなんとなく笑いました。
「でもこんなペースで日常的にお酒を飲み続けられる気がしないなあ、やれたとしてもけっきょく長続きしなさそう」
そしてあなたはこう考えました。
「お客さんを相手に、まあ品を作って、猫かぶって、はしゃいでウブなキャラをやったり、それとなくお客さんを調子に乗せるということをやるなら、就職面接だって同じか。わたしにもそういう能力があるってこと。誰もこんなことを素でやっているわけじゃないもんな。だから、けっきょくAくんの言っていたとおりか。じゃあやっぱりわたしは昼の仕事に向かうことにしよう」
翌日、あなたはおとなしげなブラウスとリクルートスーツを着て、
(これはこれで、こういうコスチュームなんだ)
と気を取り直し、改めて就職面接の講習ビデオなども観ながら、就職活動をやっていくことになりました。
「こないだはありがとう、Aくんの言っていたとおりだと思う。わたしも覚悟した」
とAくんにメールを送ると、
「だよね。一緒にがんばろう。あ、こんどまた面接の相互練習会やるけど、来る?」
と返信がありました。あなたはそれに「ぜひ!」と応えます。
素のままのあなたでは、就職面接で明るい眼差しを見せ、にこやかにハキハキと自己PRをするというようなことはできませんでした。素のあなたにはそんな能力はないからです。就職面接の比較競争を突破していくためには能力の注入が必要です。その能力の注入も、ここでは「L」という一語に集約しましょう。あなたは素の人として就職面接を突破するのではなく、Lの人として就職面接を突破していきます。
さてここで「L」について、仮想ですが、より究極に近いLを注入するとどうなるでしょうか。営業マンも素のままでは成績をあげることができませんから、Lを注入するとして、より究極に近いLを注入する。あたかもLの原液を満量注入するという具合です。
そうするとこの営業マンは、人並みならぬ能力を発揮し、「営業の神様」みたいな扱いを受けるようになるかもしれません。
また前半でお話しした、美にかかわっての方面においても、より究極に近いLを注入するとどうなるでしょう。かわいらしい顔、無垢な愛嬌があふれた表情、ときには妖艶で氷のような眼差し、そして清楚さと色気に満ちた肉体。
そうするとこの女性は、人並みならぬ魅力を発揮し、被写体としても際立って目立ち、「天使かな」とファンに言われるようになるかもしれません。
どちらにせよその究極は、もはや人為のレベルを超えるというような印象を覚えるということです。よってここで「L」は、原液においては「エンジェルL」だと言うことができます。美と能力の神がかりドリンクとして「エンジェルL」が仮想しうるということ。
これを注入すればするほど、われわれは自分の「みじめさ」から脱出してゆけるようになり、万能感に接近してゆくことができるということを、ここまでに示しました。もちろんわれわれはエンジェルLなるドリンク剤などをじっさいに手にしたことはありませんが、その仮想はさておき、現象そのものはまさにわれわれが日常的に目撃しているもの、また自分としても経験してきているありふれたものです。就職面接や人付き合いのときにLを注入しますし、自撮りをするときにもささやかなLを注入します。
素の人
あなたが「ロミオとジュリエット」に出演したとします。あなたが女性として、ジュリエット役を演じるとしましょう。
あなたは、
「おおロミオ、あなたはどうしてロミオなの!」
と二階バルコニーから言うセリフを、素のあなたのまま言うでしょうか。
言うわけがありません。素のあなたはコンビニエンスストアで春雨スープを買っているあなたです、「おおロミオ!」というあなたではありません。
自撮りで自分を撮影するときにさえLを注入するわけですから、ジュリエット役にかかわってLを注入しないわけがない。
Lを注入しなければ、その人は素の人で、熟語にすれば「素人」のままということになりますが、いわゆるシロウトでもそんな舞台に立たされれば、へたくそなりにLを注入します。
もし、完全な素のまま、
「おおロミオ!」
と言ったらどうなるでしょう。
そこには、とてもじゃないが観るに堪えない、とてつもなくみじめなものが現れるでしょう。われわれは生まれつきあわれな者だという定義を思い出してください。あわれな者が満座の劇場でフィクションの名シーンを気取るなどということが出来るわけがありません。だからLを注入します、それ以外に方法はありません。
あなたが「ベートーヴェンの五番」を指揮するとします。有名なジャジャジャ・ジャーンですが、あなたはその指揮棒を素のまま振るでしょうか。振るわけがありません。そんなことをしたら、やはり見るに堪えないまぬけさ・見苦しさのシーンが現れるでしょう。
われわれは生まれつきあわれな者ですから、交響曲というような荘厳なものを気取ることはできません。だからLを注入します、それ以外に方法はありません。
あなたが武術家として組手をしたとします。相手は頑丈な肉体をもった男です、あなたはその男の手首を取って投げ倒すとき、素のまま投げ倒すでしょうか。投げ倒すわけがありません。素のままそんなことをしようとしても、組手の相手は余裕の膂力で抵抗して、あなたの行為など弾き飛ばしてしまうでしょう。
われわれは生まれつきあわれな者ですから、人の手首をひょいと取って軽やかに投げ飛ばすなどということはできません。そういう演舞の約束でもしないかぎりはそんなことは起こりません。だからLを注入します、Lを注入して相手が抵抗できないほどのテコの原理で相手を投げ飛ばします、それ以外に方法はありません。
どれもこれも、われわれに生まれつきの「美と能力」があるのであれば、Lの注入は不必要なところです。けれどもどこまでもそうではないのです。われわれは生まれつきあわれな者です。自分がそうしてあわれな者だと暴露されることは、認識・比較の中で強烈なみじめさの感情に変化します。とても耐えられるものではないし、耐えたとしても永遠に内部で引きずり続けるものになります。だからLを注入するしかない。Lを注入しないことは、無気力および、さらには周囲への近所迷惑にさえなります。そこまで含めて、Lの注入は "やむを得ないこと" です。Lを注入して万能感へ近づく努力をしましょう。
われわれは生まれつきあわれな者なので、生きているうちに何かしらのみじめさに出くわします。みじめさに出くわして、その感情が強烈なものだからこそ一定の方向へ押し出されるのだとお話ししています。みじめさから脱出するのに何かしらLを注入することになります。みじめさから脱出して万能感のほうへ進もうとするのですから、やはりLは突き詰めるところ「エンジェルL」というのがふさわしくなります。この世界で万能なものはもはや人に属したものではなく、天使ほどの美と能力があってこそ真の万能感ですから。
このことはまた、われわれがじっさいによく知るところ、われわれは生きているうちに「素人」ではなくなっていくということにも適合します。素人に対極する語は玄人あるいは「プロ」でしょうが、たとえば毎日料理をしているベテランの家庭人においては、今さら料理するといっても「いちおう年季が入っているから」「素人じゃないんだから」という余裕があると思います。もちろんプロと比較すると素人ですが、家庭科で初めて玉子焼きを習った児童に比べればやはり毎日料理をしている人は「素人じゃないんだから」という余裕があると思います。
先に述べたロミオとジュリエットや、ベートーヴェンの五番、手首を取って人を投げ飛ばすがごときについても、つまりはそうしたことは「素人には無理」とわれわれは思っています。だから、そういう高度なことができる玄人・プロになろうということを、生きる上での目標や課題にしています。そうしてわれわれは「素人」から離れていくわけですから、本稿での言い方でいえば「素人から離れ、Lの人になっていく」ということになります。もちろんじっさいには、ドリンクを注入するというようなイージーなことでは済まず、歯を食いしばり、血の汗を流して努力しなければ玄人にはなれないということもあり、そのことを経て人は大きな自負を持つようにもなるわけですが。
ここであえて、素の人が偉大なことを現成する可能性はあるだろうか? ということについて考えてみましょう。つまり、素人がジュリエットを演じ、ベートーヴェンの五番を指揮し、人の手首を取って投げ飛ばすというようなことです。素人にそんなことができるわけがないという前提の中、それでも強引に可能性を探せばどのようなことがありうるでしょうか。
ひとつには、その者が生まれつき、アポロンかアフロディーテのごときであればよいわけです。自身が生まれつき神格に近いのであれば、確かに「エンジェル」と冠されたLの注入は必要なくなります。自身に生まれつきそのていどのものは具わっているということになりますから。
ですがもちろん、このことは論外です。われわれは誰も人であって、人である以上はあわれな存在です。ある伝説を採用して言うなら、われわれは土くれから作られたものにすぎず、しかも罪を犯して楽園を追放されて地上に落とされた身だと言われています。そんなものがあわれでないわけがない。
われわれが神格を得ているという可能性は論外です。もし神格を得ている人があるのであれば、われわれはそれを「われわれ」の中にカウントするべきではありません。「われわれ」という一人称複数形にはブッダやキリストは含まれていないでしょう。
もし神格や聖霊というようなものまで仮想に含めるなら、「素の人」が偉大なことを現成するという可能性についてはこのように考えるべきです。つまり、われわれがあわれな者ということに変化はないが、そのあわれなものを、神格あるいは聖霊などが極端に庇護し、<<あたかも素の人によって偉大なことが現成されたように見せる>>ということがありうるということです。もちろん、そのような言い方ができるというだけであって、こんなことは検証の方法さえありません。よく言えば思考実験、通常で言えばただの与太話でしょう。
与太話を続けます。ここで示した「素の人」の可能性は、何も穿った見方ではなく、われわれの一般教養にある知識だけでも当然に見出せるものです。たとえばモーセと呼ばれる人が民衆を連れて逃避行を続ける中、逃げ場がなくなったので、救済を求めて神に祈ったところ、海が割れて逃げ道が現れたという伝説があります。この伝説は信仰者でなくても誰でも印象的に知っているところのものですが、このことを誰も「モーセという人のスーパーパワーで海が割れた」とは認識していません。もしそんなパワーがあるのであれば、追跡者どもを一撃で吹き飛ばしてしまえばいいのです。そうではなく、モーセは神に祈ってその報いを得たのであり、海を割ったのはあくまで神だということです。モーセが海を割ったわけではありません。海を割るようなことは素人には無理ですし、いかなるLを注入したところでちょっとわれわれには不可能に思えます。
モーセは海を割るプロでもなければ玄人でもなく、あくまで素人、素の人です。そのモーセを神格が庇護したがゆえに、あたかもモーセによって偉大なことが現成されたように見えました。伝説の真偽についてはここで考えるものではありません。ただそういう伝説が、われわれの一般教養にも知られているということだけでこの話には十分でしょう。
素人にも海を割ることができた、ように見えるのであれば、素人にジュリエットを演じることができた、ように見えることもありえるでしょうし、ベートーヴェンの五番を指揮することができたように見えることも、手首を取って軽やかに投げ飛ばしたように見えることもありえるでしょう。そのときモーセに対して「あなたが海を割ってくれたのです」と言って差し支えないように、「あなたがジュリエットを演じたのです」「あなたが五番を指揮したのです」「あなたが手首を取っただけで軽やかに投げ飛ばしたのです」と言って差し支えないことになります。
伝説・伝承についてここで細かく書き話すことはできません。ただ、細かく書き話さずとも、一部の伝承について肝腎なこととして言われていることは、教養のある方にとっては先刻承知のことと思います。教養がまだ深くないという方は、ここでは教養があるふりをしてください。つまり一時的に、ここに書かれることを真に受けて……伝承において肝腎なこととして言われているのは、そうした神格や聖霊に頼る者は、<<Lに頼る者であってはならない>>ということです。完全な素の人・素人だけがその庇護を受けるチャンスがあるとされています。文脈としては、神格・聖霊の庇護があると信じる者ならば、そのLの注入は必要としないはずだということです。Lの注入を持ち込む者は、けっきょく神格・聖霊による庇護をそこまで信じていないから、自前でそうした注入をするのだろうということ。
確かにここは肝腎なところなのですが、話を複雑にしても利益がありません。より単純にこう考えましょう。「素の人の可能性」と「Lの人の可能性」を同時に要求することはできないということです。素の人になるということはLを放棄するということですし、Lの人になるということは、素の人はみじめだという理由でLの人になるはずです。素の人に真の栄光があると思うならLを注入するわけがありませんし、Lの人に真の栄光があると思うならけっきょくは素人の否定です。
素の人として神格・聖霊の庇護を期待するということと、Lの人としてその注入の効果を期待するというのは、そんなに差分がないように思います。なにしろLのほうも「エンジェルL」なのですから、一種の神格に恩恵を期待しているということは同じです。ただ自分がどちらを選ぶかということにすぎないでしょう。
とはいえ、そのどちらにするかという選択はあまりフェアではありません。なぜかというと、
・実際に目撃するものとしてはLの権勢があまりに多い
・Lの注入は即効性があって、じっさい自分磨きや就職面接にもリアルな効果が出る、またその実感もある
・あわれな「素」の人のまま、野ざらしに比較されるのはまずみじめさが強烈すぎる
・素の人が庇護を受けるという実例も根拠も実感も見いだせない
という大きな偏りがあるからです。
じっさい、あなたが「素」の人のまま――「素」の人のつもりで――舞台上にえんえん突っ立っていたとしても、あなたがジュリエットを演じられるようにはならないでしょう。指揮台に突っ立っていてもベートーヴェンの五番が聞こえてくるわけがありませんし、畳の上に突っ立っていても人を投げ飛ばせるようになるわけがありません。
われわれは通常、努力を当然に信じています。ジュリエットを演じるならそのための努力をし、ベートーヴェンを指揮するならそのための努力をし、人を投げ飛ばすならそのための努力をします。努力をすればそれが実るだろうと期待し、もしそれが実らない場合は、漠然と「才能」という語で片づけるのが様式になっています。
それで、われわれが信じているその努力というのは、つまりは「素人でなくなっていく」ということです。ですからその努力信仰じたい要するにLの注入ということになります。じっさいわれわれは、いつだってその「美と能力」への努力をこころがけているのではないでしょうか。
これぐらい、二つの可能性の追求は偏っており、とてもフェアではありません。われわれのほとんどはけっきょくのところLの注入・Lの人としての可能性を追求していくというのが唯一の選択になります。
そしてもし――あくまで「もし」ですが――伝承のとおり<<Lの人は神格・聖霊の庇護を受けられない>>のだとすると、われわれのほとんどはすでにその庇護と縁がない存在ということになります。であれば、けっきょくその庇護と縁がないのだから、われわれにとってはますますその与太話は聞く値打ちがないものになるでしょう。
仮に伝説上でモーセが神の庇護を受けて海を割ったとして、
「で、その庇護がないわたしが、そのモーセの話を聞いてどうしろっていうの? わたしの場合は自力で逃げ延びないといけないんだけど」
と突っぱねられるのが道理になります。
始まる以前は万能感の中にある
心理学の知識がある方は、幼児性万能感という語を聞いたことがあるかもしれません。
幼児のあいだ、人のこころは万能感で満ちています。そのこころは空っぽではありません。幼児に将来の夢を訊けば、幼児はためらいなく、
「サッカー選手になる」
「総理大臣になる」
「お金持ちになる」
「ノーベル賞をとる」
「Youtuber になる」
などを答えるでしょう。幼児はまず万能感の中にあり、サッカー選手となってワールドカップで活躍するというようなことに、引け目や困難の予感を覚えてはいません。なぜそうした万能感があるのかというよりは、まだ万能感しかないという状態です。
この万能感は、この時点でただの万能感であり、「うぬぼれ」には転じていません。幼児はうぬぼれとして自分が総理大臣になれると自負しているわけではもちろんありません。幼児の万能感がうぬぼれに転じないのは、まだみじめさの体験をしていないからです。認識して比較する・されるという体験と、そこにまつわる強烈な感情の体験をまだしていません。それはいわば「開封前に満ちている万能感」と捉えてよいでしょう。
幼児がそうした万能感を徐々に脱却していくのは――あるいはそのゆりかごから叩きだされるのは――たとえば自分の欲しいお菓子やおもちゃを買ってもらえないときなどでしょうか。自分の目の前で、まったく知らない誰か、同じような子供がソフトクリームを食べています。幼児はそれを見て、
「ぼくもあのソフトクリーム食べたい」
と要求します。ところが母親は、
「もうすぐ晩ご飯だからだめです。それに、昼にケーキも食べたでしょう」
となだめます。
母親の言うことは正当なところですが、幼児にそのような道理を汲み取れるわけがなく、幼児はただ「納得がいかない」ということの不快感で泣きわめきます。いわゆる駄々をこねるということをする。周囲の迷惑などに配慮する発想はもちろんありません。自分はどんな状況でどれだけ駄々をこねてもけっきょく許される、という感覚もやはり万能感の中に含まれているからです。
幼児は万能感の中にあるのですから、ここで自分の求めたものが与えられないということじたい理由がわかりません。それに加えてここでは、目の前の誰かがそのソフトクリームを食べているのです。そこに認識と比較が起こります。
「だってあの子は食べているじゃない」
と、言語化するかどうかはわかりませんが、そのことに強烈なネガティブ感情の体験をします。
みじめさです。
このときはじめて幼児の万能感は「開封」されて、
「あの子が食べているソフトクリームを、ぼくは食べさせてもらえない。あの子は他者であって、ぼくとは違う存在だからだ。そしてあの子はうらやましい、ぼくはみじめだ」
という体験を幼児はします。もちろんそこまで言語化できるわけではありませんが。
幼児はこのとき初めてみじめさという感情の脅威を知り、そこから「ひがむ」という感情の強烈さも学びます。この幼児は「あの子が食べているソフトクリーム」をひがみました。
このことが転じて、幼児は「うぬぼれ」も覚えていきます。誰かが自分をひがむとき、自分はうぬぼれることができるということを感情のまま発見していきます。
たとえばこの幼児が、かっこいい帽子を買ってもらうと、そうした衣装を与えられていない幼児を見つけては、
「ぼくの家はきみの家よりお金持ちだからこうしたかっこいいものを買ってもらえるんだ、ぼくときみは違う存在で、きみはみじめな存在なんだ」
という感情を見せつけるようになります。幼児と言っていますが、こうした感情のやりとりをするようになればもう幼児ではなく子供あるいは児童でしょう。
そうして人は、もともと万能感の中に住んでいたものが、そのゆりかごから放り出され、万能感は開封され、すべてのことについて「みじめさと万能感のどちらが出るか」というスリルの中を生きていくことになります。付随して、うぬぼれたりひがんだりという感情を往復し、その中で現実的に万能感に近づけるほうへ押し出され、努力と選択を積み重ねていくことになります。
といって、一般的にはそうなりますが、どこまでいっても一番はじめの幼児的万能感、そのゆりかごから出られないという人もいます。そうした人は、自分がサッカー選手になれないという現実を知り、そのみじめさとひがみを学習しながらも、やはりそのことに「納得がいかない」と感じ続けています。他の誰かが食べているソフトクリームを自分が食べられないということに今も納得がいかないまま生きているということです。さすがに大人になるとソフトクリームがどうこうということではないですが、たとえば自分が豪邸に住めないことや、高級車に乗れないこと、美女と交際できないことを、どこまでも「納得がいかない」と不快に感じています。万能感のゆりかごから出ていないので、周囲のすべてに納得がいかず、また心底では、自分はどんな不始末をしてもけっきょく許されるはずだとも感じています。万能感というのは許されるということも含めての万能感ですから。
本稿の冒頭は「みじめさから始まること」と書きましたが、例外的に、その「始まる」ということじたいがない人もいるということです。「始まる」ということじたいがないといっても、現実的にサッカー選手にはなれないし、豪邸や高級車や美女との交際には無縁なのに、そのあたりの事実をどう "やりくり" しているのでしょうか。実はこのことにもLが活躍しています。次の段に続いて説明します。
傲慢L
冗談みたいな言い方ですが、エンジェルLは、腐敗すると「傲慢L」に変質すると思ってください。このLは、失効するとSに変化するという面白さもあるのですが、そのことはまた後に出てきます、そのときまで楽しみに取っておいてください。
幼児性万能感の中に居座り続ける人がいたとしても、その万能感は、どうしても認識させられてしまう自分の事実とあまりにも矛盾するはずです。ふつうに考えれば「現実を見ろよ」という話で、万能感など幻想だと放棄するよりなさそうなものですが、ここですべてを超えてただ傲慢になってしまえば、そうした理屈はすべて吹き飛ばされるということになります。つまり、「そうかもしれないけれど、やっぱりぼくは万能だからなあ」と無条件に言い張り続けるなら、もうわけがわからなくなるということです。事実がどのようであっても、それを無視して万能感に浸るということは、麻薬めいた精神作用まで含めれば十分可能でしょう。もちろんすでに理性的な認識ではありませんが、この場合は当人が理性を優先する動機をまったく持っていません。
Lを注入すると、本来、われわれは一般的な努力に押し出されるはずでした。みじめさから脱出するためのLの注入です。ですがこの場合、その努力というのは決して楽なものではありません。みじめさから脱出するためというのは、つまりそのときみじめさの只中にあるということですから、強烈な不快感情の中でその努力をしなくてはならないということです。どんな小さなことでも、それはわれわれにとってそれなりの試練となります。しかもそうして努力をしたとしても、努力の上でさらに敗北して、さらに濃厚になったみじめさを味わうはめになる可能性もあるのですから、この試練はそんなにイージーではありません。
そこで、その試練をまるごと回避できてしまうLの使い方があるということです。意図的にLを腐らせて使用する。するとそれは傲慢Lになります。
目の前のすべて・世の中のすべて・認識しうるすべてに対して一方的に「クズだ」と決めつければどうなるでしょうか。自分より努力して能力のある者に対して無条件で「あいつはクズだから」と決めつけて見下せば、自分のほうが比較において上等なものになります。上等な側なので自分は万能感の側に属し、みじめさに陥ることはありません。
そんな非現実的な認識を保つことは不可能だろうと思えますが、案外そうではないということです。ここではたらいているのは、見せかけの理性ではなくて腐敗させたLの効能です。自分の精神を内側に引きこもらせ、常時その腐敗させたLを注入し続ければ、何よりも先に「自分が道において最も美しく、最も能力が高い」という認識を――非理性的に――持つことができ、それによって、現実的にはもっとよくやっているすべての人に対してさえ、自分は見下してうぬぼれを持つことが可能だということです。このことは、非理性的なレベルに行ききったいわゆるストーカーのような存在をよく説明するでしょう。アイドル女性に入れあげたストーカー・ファンが、本当に「彼女を愛してあげるのにふさわしいのは自分しかいない」といううぬぼれで彼女を追いかけ回すということ、並びにそれにかかわってあらゆることは許されるはずだと思っているということが実際にあるということがすでにわれわれに知られています。
そうしたものは傲慢Lの極端な現われですが、そこまで極端なものでなくても、傲慢Lはわれわれの身近に日常的に出現します。通常われわれはLを、みじめさから脱出するときに注入するのですが、そうして注入して努力をしても、およびそうにない、勝てないし、努力した上で比較されてさらに濃厚なみじめさを味わうしかないと感じられるときがあります。あるいはそうした努力にもう気力が尽きたという場合もあるでしょう。それでさらにLを追加注入するかというと、さすがにもうギブアップで、Lの追加注入は腐敗Lで、ということになります。たとえばA大学を志望していた人が、最大限努力したものの、次点のB大学にしか合格できなかったとき、単純に「くそう、残念」とみじめさを引き受けることもありえますが、そのみじめさに耐えられない場合、
「学歴としてはともかく、A大学に行っている奴よりおれのほうが頭はいいと思いますけど?」
というような、よくわからない言いようが出てくることがあります。よくわからない言いようなのに、まるで当人は何かの確信をもってそれを言っているような調子です。これが傲慢Lのはたらきです。
われわれは日常的に、たとえば政治家のすべてと自分を比較して、自分のほうが頭がよく、自分のほうが政治力や判断力に優れているというようなことを、漠然と思い込んでいるようなところがあります。政治力や判断力があるといって、もちろん具体的な政策や予算案が作れるわけではありませんし、その折衝を担えるわけでもありません。けれどもただ、そうしたことにおいて自分のほうが上位だと思っているのです。それは傲慢Lのはたらきです。われわれはすべてのテレビディレクターより自分のほうが面白い企画を作れると思いがちで、ほとんどの(自国の)俳優より本気を出せば演技力に優れていると思っています。自分は絵を描くことはできないが、マンガのストーリーだけ考えさせればたぶんプロの漫画家より自分のほうが面白いものが作れると思っています。近所の料理屋に行ったとき、自分が本気で料理の道を目指していたら、この人よりもっと上手だっただろうなと思っています。自分がタクシー運転手だったら自分はこの運転手よりもっと運転が上手だっただろうし、自分が女性だったらこんにちの女性よりもっと上質な女だったろうし、自分が男だったら現代の男よりはるかにやさしくて優秀な男になっているだろうのになと思っています。自分が学校の教師だったらもっと面白い授業をするだろうし、自分が金持ちだったらもっと有意義な活動にお金を使えるだろうになと思っています。
われわれは日常、そうして思い込んでいるところがとてもありますから、腐敗させたL・傲慢Lといっても、そのはたらきは特に珍しいものではありません。むしろうっすらとした傲慢Lは、もともとのLと同等ていどに、われわれの中に染みわたっているといってよいでしょう。Lの注入はけっきょく万能感の注入なので、万能感をよく染み渡らせるのに傲慢さの触媒が入っていないほうが不自然です。和食に日本酒が入っているていどには、Lには腐敗あるいは発酵済みの傲慢Lが混ぜ込まれていると捉えてよいでしょう。
Lの多様なはたらきについてお話ししています。また構造上、「素」の人はこうした傲慢さに縁がないということになります。
憤怒・悲嘆S
Lは失効すると、その性質が急激にSに変わります。Sは感情Sなのですが、その感情は主に憤怒と悲嘆です。その感情は本当に激烈なもので、ときに心身を損傷しかねないほどにその感情は強く起こります。みじめさの感情をも超える、まさに耐えがたいほどの感情で、その直撃はわけもわからず当人に「破滅」という直観さえ与えます(本当にその場で破滅するわけではありませんがそういう感情に囚われます)。
Lはどのようなときに失効するでしょうか。ひょっとしたら死の際には失効するのかもしれませんが、そのことはわれわれ生者のうちにおいては知る由もありません。さしあたりわれわれが知りえるじっさいのケースは、単に「素の人に負けたとき」です。たとえるなら、Lを十数年にわたって注入していた格闘家が、そうしたことをまったくしていない素の人に負けたときです。そのとき、これまでに注入してきたLがすべていっせいにSに変質し、すさまじい感情の嵐が体内から・地の底から爆発してきます。その感情は憤怒であり、多くの場合、同量ていどの悲嘆も含んでいます。
Lの投与において、Lの人同士が勝ったり負けたりすることで、そのLが失効することはありません。仮にLの強度が、原液のエンジェルLを頂点として、もっとも初心者向けのL、それよりも強いL+、またそれよりも強いL++、さらにL+++……というふうに分類されていたとしましょう。Lの投与者がL++の投与者に敗北しても、それはむしろ「さすが、上位者は違うわ」という体験になり、Lそのものが失効することにはなりません。「L+++の人もいるのだから、まさに上には上がいるってことだよなあ」ということで話は収まります。
素の人はLの人ではありません。ですので万が一、Lの人が「素人」に負けるようなことがあると、Lはその万能感を一斉に失います。万能感を失うだけならよいのですが、それでLの人が素の人になるわけではありません。Lは変質してSになり、Lの人はSの人になります。激しい感情、特に憤怒と悲嘆の感情の人になります。破滅という感情も急激に突き上げてきます。
このことは一時的に急激に起こり、その後はいったん落ち着くように見えますが、これは一過性のことではありません。単に精神が自己の感情に耐えられないからという理由で抑圧され、表面上いったんは過ぎ去ったように見えるだけです。Lの失効によってSの人になった彼は、その激烈な憤怒と悲嘆を無意識の底に沈殿させてその先を生きていくことになります。抑圧化にそれだけ強い感情を持って生きると、よく知られたとおり、何かしらの神経症を抱えていかざるを得ません。
ですから万が一にも、玄人やプロが、その素人、素の人に負けるようなことがあってはいけません。「負ける」という言い方は粗雑なので訂正しましょう。たとえばプロ・玄人として数十年、舞台に立ってきている俳優に対し、素人のやったジュリエット役のほうが「よかった」というようなことはあってはならないのです。Lの注入はそんなに気楽ではないということを思い出してください。みじめさを脱出するためのこととは言え、じっさいには歯を食いしばって血の汗を流すような努力を課されるものです。それが、そうしたLをいっさい経てきていない素人に劣るようなことがあったとしたら、自分のしてきた努力と労苦はいったい何だったのかと、とうぜん受容不能の認識が起こります。その受容不能の認識は、憤怒の炎で焼き尽くされ、悲嘆の洪水で押し流され、「何もかも終わりだ」という破滅の感情にさいなまれるでしょう。
また、傲慢L、腐敗したLもまた、そのとき憤怒と悲嘆のSになることを見落とさないでください。プロや玄人でなく、何もしていない人でも、その傲慢さが変質したSの洪水で、激しい感情が爆発するということが起こります。それは、とても珍しい例になりますが、素の人に万能感を見い出してしまったときです。傲慢さがないのに万能感が見えたとき、傲慢Lの注入は無意味なことだということになりますので、傲慢Lはすべて失効してSになります。たとえば傲慢Lによって「自分がタクシーの運転手だったら、もっと運転が上手だったと思う」と言っているLの人がいたとして、そうした傲慢さのない「素」の誰かが、運転の経験は似たり寄ったりのはずなのに、じっさいそのタクシー運転手やらよりはるかに乗り心地のよい、安定した、機敏でかつ安全な運転を見せたときなどにそのことは起こります。傲慢Lがこのときに「次あなたが運転して」と言われたら困り果てるということは想像がつくでしょう。その困り果てたときに、わけのわからない破滅という直観がやってきて、「あいたたた、ちょっとお腹痛いわ」というような言い訳がものすごい勢いで飛びだしてきたりします。この時点ですでに内部の感情は荒れ狂っていて、すでに激しいSの作用を受けているということになります。あるいは、傲慢Lによって「わたしなんでか子供を寝かしつけるの得意なんだよね」と言っているところ、じっさいにそれをさせられてみるとまったくそんな事実はなく、さらにはそのことを素の人がやったところ、子供はすんなり寝てしまったというようなときに、やはりLはSに転じて、激しい感情の嵐と「破滅」の直観が起こります。
こうしてLの注入は、素の人との接触によって、ごくまれのことですが、急激な破滅に直面するリスクを負っているということです。そして、そこに破滅の直観があるということは、Lの人と素の人は、潜在的に戦争リスクを負っているということでもあります。ですから入念にそのことを避けようとする仕組みがあるわけですが、そのことは次の段で説明しましょう。
Lと素の戦争
われわれは生まれつきあわれな存在です。そのあわれさが、さらにあわれなことに、互いに認識され比較されます。認識・比較を経ると、片側は万能感を味わい、片側はみじめさを味わいます。万能感を味わった側はさらにうぬぼれを持ち、それも味わい、みじめさを味わった側は、さらにひがみを持ち、それも味わいます。みじめさを味わう側はとてもつらく不快で、万能感を味わう側は抑えきれないほど快感です。このどちらもけっきょくポジティブな感情ではないのですが、それにしても、生理的に「みじめさ」の側を味わうほうが目の前のこととしていやです。ですからわれわれは、その「みじめさ」から始まって、そうではないほうに押し出されるのだという話でした。なるべくみじめさを味わわずに済むように、Lを注入して「美と能力」に長けていく。
Lを注入していくことで、われわれはあわれな存在でなくなっていく、ように思えますが、けっきょくそういうことではなく、われわれが回避できるのはあくまで「みじめさ」のみです。「あわれさ」を回避することはできません。生まれつきずっとそのままなのですから。何しろ、生まれてきたからにはいずれ死なねばならないのです。ただ生きていくだけでもけっこう大変なのに、そのあげくに死なねばならないという。しかもその道中は年老いていきます。若さゆえの美しさが失われていくぶざまさを無力に晒し続けるしかありません。風邪を引いただけでもそれなりに苦しんで寝込まねばならず、それ以上の悪い病気にならないよう祈りながら暮らさねばなりません。先日までスポーツマンとして快活に笑っていた人でも、重大な怪我をしたらそこから生活に介助を必要とする人になります。われわれはこれらのことに対して、最大でも「やけくそ」になることしかできず、われわれがこれらのあわれさから逃れるすべはありません。
ここで「素の人」とは何でしょうか。詳述は以降の段に持ち越しますが、完全な「素」の人とは、その「あわれさ」の中にずっといる人です。ここまでお話ししてきているように、あわれさが進行・転化してみじめさに襲われ、たまらず万能感のほうへ押し出されようとするのだということでした。ここで完全な「素」の人は、「あわれさ」という場所から動かない人のことを指します。みじめさにも万能感にも行かないということです。あわれさから「進行しない」ということ。ただしそれは、生まれつき進行しないということではなく、じっさいにはあわれさのところへ引き返してきた人ということになります。
「みじめさから始まること」と冒頭にお話ししたのですが、素の人においてはそのみじめさじたいが始まりません。みじめさが始まる前、人はまず幼児性万能感の中にあり、場合によってはその幼児性万能感の中に居座る人もいると申し上げましたが、「素の人」においてはどうなるでしょうか。素の人も、初めは幼児として万能感の中にいたかもしれませんが、その後みじめさからの始まりを受けて……思いがけず、この人は元の「あわれさ」のところに戻ってきました。「素の人」は、幼児的万能感の中に居座っている人とは異なり、根源的あわれさの中に引き返してきた人ということになります。みじめさや万能感もひととおり体験したかもしれず、うぬぼれやひがみもたくさん目撃したきたかもしれないですが、それらの知識を経て、もともとの「あわれさ」というところに引き返してきた。素の人とは、この根源の場所から「何もしていない人」です。一定の方向に押し出された人ではなく、思いがけない方向へ引き返してきた人。
素の人はいわば、Lの人がやってきたすべてのことを、一ミリも「やってきていない」ということになります。かつてはいくらかやったことがあるかもしれませんが、それらのすべてを放棄してきた。それは、Lのやってきたこと・今もやっていることに対する完全なアンチテーゼになります。それだけならもちろん、アンチテーゼといっても「それがどうした」「お互い勝手にしていろ」というだけでしかありませんが、例外的にそれだけでは済まないケースがあります。それは先に述べたとおり、素の人に神格・聖霊の庇護が与えられ、素の人によって偉大なことが現成してしまうというケースです。もちろんきわめてまれなケースですし、先ほどもよく知られたモーセの伝説のようなものを例に出すしかなかったのですが、いちおうこのことは原理的にはいくらでも起こっておかしくないことであり、さらには起こって当然のことでもあります。もしそのようなことが起これば、あってはならないこと、つまり「Lの人が素の人に負ける」ということが起こります。そのことに直面させられると、Lの人のすべては失効してSになってしまうということでした。
これまで注入してきたLのすべてがSに変わると、激しい感情、憤怒と悲嘆の嵐に呑み込まれます。破滅が直観される。破滅が直観されるとき人が選ぶのはどのような行為でしょうか。よく知られたとおり、戦争を選ばざるを得ません。自分たちが破滅させられる前に、相手を破滅、あるいは無力化させるしかないという発想と行為に及びます。
こうした戦争が起こるのは、まったくLの人の本意ではないのです。Lの人にとっては、ただ破滅の直観に対し、防衛的に戦争を仕掛けざるを得ないという状態です。ただしもちろん、素の人がLの人に対して破滅的な攻撃を仕掛けているわけではありません。攻撃などまったく仕掛けていない。けれども、事象の性質として、素の人のそれはLの人を破滅に追い込んでしまう。素の人に神格・聖霊のごとき、庇護のごとき何かが現れたら、Lのすべてが失効し、Lの人はSの嵐に自ら飲み込まれるよりなくなる。それは受容などできようもないすさまじい感情の伴う破滅です。その破滅を回避するために戦争に押し出されるのはどうしようもありません。
そうした戦争をなるべく避けるために、われわれの世の中には、入念な仕掛けがほどこされています。どのようにすれば戦争が起こらないようにできるか。要は、Lの人が素の人に後れを取るようなことがなければいいのですから、つまり「素人ではぜったいに勝てない」というような仕組みを作ればいいということになります。
たとえばピアノのショパンコンクールがあったとして、こんなものに素人が出場して勝てるわけがありません。そもそもドレミも引けないのだから勝負にならない。そうして勝負じたいをできない・させないという状態を前提にすれば、それにかかわっての戦争の出現はなくなります。アクロバティックになったクラシック・バレエも、衣装と舞台装置とキャスティングにお金のかかる演劇も、素人はそもそも勝負をすることじたいができません。これが最も安全でよい方法です。将棋のプロに素人が(その競技において)勝利することはありえませんし、ボクシングのプロに同階級の素人が(その競技において)勝利することはありえません。
そうして比較競争のプラットフォームをマニアック化あるいは選民的にすれば、勝負の発生じたいを避けることができます。これは良いことです、そもそもすべては「勝負」などという対象では本来ないのですから、戦争を避けられるだけ賢明な装置です。
これが仮に、マニアックでない、根源的な、プリミティブなものでは危ないのです。たとえばタンバリンをただ叩き、力強いシャウト一声上げるというようなコンクールをしたら、音楽大学を首席で卒業した人だってチンパンジーに負けるかもしれません。だから、そうしたものは文化的に音楽でもなければ芸術でもない、表現でもないとして、勝負の発生じたいを消去し、戦争のリスクをなくします。「音大の首席のくせにチンパンジーに負けてやんの」ということは可能性ごと文化的に発生しないようになっているということです。
一方で、ひょっとしたら神格や聖霊の庇護を受けている "かもしれない!" と楽しめるような誰かがいた場合、そうした人は文化的には一種の「奇人変人」という枠に当てはめ、娯楽として消費することでやはり戦争のリスクをなくすことができます。たとえばマイケルジャクソンが有名になり出したころ、多くの人にとってマイケルジャクソンは一種の奇人変人でした。それはわれわれの「文化」とは切り離され、それによってたとえばわれわれは文化コンクールの課題にマイケルジャクソンを連想はしないでしょう。生前のマイケルジャクソンがダンス・コンクールに出場するというようなことは想像しえません。
われわれの世の中は、こうしてLの人と素の人が直接同じ場で接触しないように仕組みをしつらえているのです。たとえば落語家の立川志の輔さんが、学校の教師の代わりに歴史の授業をしたらどうなるでしょう。志の輔さんは教師としては素人ですが、その授業の語り口は一種の神がかりになるかもしれません。そんなことになったらその学校の歴史の教師はどうすればよいか。そんなこと、 "ややこしいこと" になるに決まっているので、われわれはそうした根源的な試みはなるべく発想しないようにしています。発想しないようにしているものを、実行しようとするのはさらに戒められるでしょう。それでもなお、あえてそれを実行までするという場合は、われわれは入念に「これは文化的なことではなく娯楽的なことです」という前提を構築して、そこで起こることを必ずそのときかぎりに完全消費されるものとするのです。
あなたはここまでの話で、Lの人よりは素の人、その人が受けるかもしれない神格や聖霊の庇護というほうに興味・関心が向いているかもしれません。けれどもそれに先立っては注意が必要だということです。これまでのあなたにLの人たる成分が内蔵されていないわけがないのですから、あなたが「素の人」に肩入れしていくということは、あなた自らがする戦争のリスクに接触しにいくということでもあるのだということです。LがSに転じて激しい感情、わけのわからない破滅の直観と、耐えがたい憤怒と悲嘆に呑み込まれるということは本当に起こります。「こんな奇人変人の……」という差別感情もそのときになって本当に起こりますし、これは断じて「このときかぎりの娯楽として完全消費するものでしょ?」という鋼鉄めいた主張もそのときになって本当に自分の体内から起こってきます。
もしそうした、嵐か火山の噴火のごときすさまじさに呑み込まれながら、そのときにもあなたが唯一まともに考えうることがあるとしたら、
「これがLなんだ」
ということだけです。これがLで、失効すると本当にSになるんだ、ということだけ、前もって知っておけば、あなたはそのときの嵐と噴火を、まさかのまさかでしのぎ切るかもしれません。ただしどのように心構えを持ったとしても、そのじっさいはまったくただごとではないのではありますが。
Lの人と素の人、その属性は、両極的なものではありません。ですので厳密には、本当は衝突・戦争をしなくても済む関係です。Lと素は、両極にあるのではなく以前と以後にあります。「みじめさ」の以前にあるのが素の人、「みじめさ」の以後にあるのがLの人です。人は誰でも生まれつきあわれな存在だと繰り返していますが、生まれつきみじめさを味わう存在ではありません。われわれがみじめさを味わうのは、認識・比較の業(カルマ)が起こってから以降のことです。
素の人でいることの単純さと困難さ
素の人は、みじめさからすべてが始まる以前の、あわれさのところに留まっている人です。ひとしきりみじめさや万能感も体験したかもしれませんが、それらのすべてを破棄して、もとの生まれつきのところ、あわれさのところに帰って来た人。
そのように聞くと、なんとなく理解できるような、イメージできるような気もしますが、そのじっさいに至ろうとすることはたいへんな困難を極めます。それは、何がむつかしいというより、<<とてもじゃないが信じられない>>ということに尽きます。仮にあなたが素の人を目の前で見て、それを十年間見続けたとしても、やはり相変わらず「とてもじゃないが信じられない」と思っていておかしくありません。
われわれは業(カルマ)として認識・識別・分化・比較の機能を持ちます。このことじたいは避けられないのですが、このことを「採用するか」どうかはまた別です。たとえばあなたの部屋に電気ポットがあったとして、その電気ポットの機能を採用するかどうかはまた別でしょう。その機能を採用せず、あくまで花瓶として使い続けるというようなことも可能ではありますし、勝手に通電してお湯が沸いてしょうがないというなら、加湿器として使い続けるということも可能でしょう。それであくまでお茶を飲むときはやかんで湯を沸かしますというようなひねくれたような行為を冷淡に続けることもわれわれには可能ではあります。電気ポットの機能を「採用しない」ことはできるということ。
ことが電気ポットならそのように簡単でよいのですが、われわれの生身においてはそう簡単にいきません。われわれの生身に起こる認識・識別・分化・比較の機能は、われわれに特級の「実感」をもたらしてきますので、われわれはその実感の威力をもって、この機能を「採用」してしまうのです。その「実感」の説得力はわれわれの体験するもののうち最上位におよぶひとつで、これを採用しないなんてことはありえないというほどに。
どういうことかといって、もっともわかりやすいあけすけな例を出しましょう。それはたとえば、あなたのスマートフォンをAさんが勝手に持って帰ってはいけないということです。なぜならそれはあなたのスマートフォンであって、Aさんのスマートフォンではないのですから。もはや説明も不要なほど、このことは実感でただちに、疑いなく、輪郭をもって捉えられることです。
じっさいにそんなことをされたら、あなたはどのように感じますか。Aさんに対して「はあ?」という意味不明の不快感しか覚えないでしょう。何がおかしいといって、「いやそりゃ、Aさんがおかしいでしょ。フツーに泥棒だよ」としか思わない。当たり前です。当たり前すぎてこのことはまったく動きようがないように思いますし、もちろんここで、Aさんがあなたのスマートフォンを持ち帰ってよいということにはなりません。
あなたはあなたの持つ認識・識別・分化の機能によって、自分自身とAさんを「分けている」ということです。自分とAさんを分けているのですから、それぞれの所有物・所有権も分けられなくてはなりません。このことが「分からない」ような人は、単に認知症をわずらっているとしか思えないでしょう。Aさんがあなたのスマートフォンを勝手に持って帰るのは、法律の以前に「おかしい」という絶対の実感がふつうあります。なければめちゃくちゃな話であって、そんな人はいま話していることよりもっと手前に重大な問題を抱えていると言うべきでしょう。
ただし、ひとつ例外があります。Aさんが生後六か月の赤子だった場合です。赤子がスマートフォンを勝手に持って帰るというのは無理がありますが、手を伸ばしてきてあなたのスマートフォンを鷲掴みにするということはあるかもしれません。そのときあなたは赤子に対して「おかしいでしょ」と立腹はしません。
「あら」
と、赤子の無垢な挙動に微笑みかけるだけのはずです。
何が違うかといって、生後六か月の赤子には未だ認識・識別・分化・比較の機能が起こっていないということです。同じ「人」という存在ではあれ、その血の中に潜在している業(カルマ)が未だ解発されていない。赤子から見て「自分と目の前の人」という分化は起こっておらず、それを「分けてもいない」ですし「分かってもいない」存在です。もちろん自分の所有物や誰かの所有物というようなことも「分かっていない」。
赤子は完全に「素」のまま、あなたのスマートフォンに手を伸ばしたというのは明白です。ひいては、ここでいう素の人というのは、われわれの特級の実感たる認識や分化という機能を十全に持ちながらも、それを「採用」はしておらず、生後六か月の挙動ができる人ということです。ちょっと現実的ではない・想像がつかないと思われるかもしれません。それでもわれわれは確かに、誰もが生後六か月のその時期を我が身で経てきているわけですが……
素の人は「あわれさ」の中に留まっている人です。赤子においてはあわれさなんて感情は知らないじゃないかと思われるかもしれませんが、きっと赤子の泣きようを見ているかぎりはそうではないのでしょう。赤子が泣くのは主に母親を呼ぶ本能だと思われており、それはそのとおりでしょうが、それにしてもその泣き方はブザーではなく、こころを伴った泣き方です。あわれみをまったくもたない者が「泣く」でしょうか? 単に空腹で母親を呼ぶなら「オイ」とでも無機的に発声すればよさそうなものです。けれども実際には赤子はあたかも母親にあわれんでもらおうとするがごときの「泣く」という方法を採って母親を呼びます。
素の人でいるということは、根源たるあわれさの中にいて、「何もしない」ということです。何もしないということは、認識さえしないと言いたくなるところですが、それだと寝ているときが最良ということになって誤解に迷走します。だが寝ている人はただの寝ている人であって「素の人」ではありません。
素の人でいるということは、認識機能が十全にはたらいている中で、それを「採用」はせず、何もしないということになります。認識しているものに対して何かを思うわけでもない。いや、思ってもかまわないですが、思う元になっている認識は「採用されていない」のですから、採用されていないものに対して思うということはそもそも成り立っていないはずです。たとえば自分の靴よりあの人の靴のほうが高級品だなと認識できたとしても、その認識を採用しないのですから、「あの人の靴のほうがいいな」というようなことを思うということは実は成り立っていません。よってみじめさの感情も成立しません。成り立っていないということは、実は何もしていないということです。たとえば合格していない大学に入学するというようなことは、成り立っていないので実は何もしていないでしょう。
この「何もしない」ということの単純さが、素の人のわかりやすさであり、同時に困難さです。「何もしない」というのはどのように考えても不可能に思えるほど困難です。このことについて考えようとしても、そのときの考えるという機能が実感に基づいている場合、もうその考えるということじたいがつまずいています。実感に基づいて考えるということは、すでに認識の機能を「採用」してしまっているということだからです。
赤子があなたのスマートフォンに手を伸ばし、それを鷲掴みにしたとして、そのとき赤子は何かを「した」のでしょうか。外形的にはそのように認識可能ですが、本当に赤子はそのようなことを「した」のでしょうか。
われわれは自分の認識が成り立っていないものについて、それを「した」と表現することは憚(はばか)られると感じます。手元が狂ってコップを取り落とし、その水を植木鉢にこぼしてしまった場合、「植木に水やりをした」とは言いにくいはずです。玄関に行って靴を履いてみてください。そのときあなたは「靴底に体重をかけるということをした」と言えるでしょうか。外形的にはそのことは起こっていますが、あなたはそれを「した」とは言いにくいはずです。あなたが自分で被写体になって撮影会をしたら、あなたは写真撮影を「した」と言えるでしょうが、カメラ小僧が望遠レンズで勝手にあなたの写真を撮った場合は、あなたは自分が写真撮影を「した」とは言えないはずです。
自分の認識が十全にはたらいていても、それを「採用」しないのであれば、自分がそれについて何かを「する」「した」ということは成り立ちません。こうして「素の人」においては、さまざまなことをふつうに――あるいはふつう以上に――こなしていながら、実は当人としては「何もしていない」ということになります。それはいわゆる「無意識に〜」というようなこととは次元が異なります。たとえばいわゆる無意識に爪を噛むクセがある人があったとして、それはやはりその人が爪を噛むということ「して」いるはずです。だから、いくら当人がそのことを無意識のことだと言い張っても、周囲の人は「その爪を噛むクセ、やめてよ」と、それを「した」当事者に申し付けるでしょう。それを「した」からこそ「やめて」と言われているのです。そうした「クセ」というのはあくまで認識が "麻痺" したゆえに無自覚化してしまっただけであって、十分な認識がはたらきつつもそれを採用はしていないというような高度な状態とはまったく次元が異なります。
認識機能が十全にはたらきながら、それを採用せず、それでいて「ふつう以上に」物事がこなされるというのはどういう状態でしょうか。それはまったくありえないような話です。先に話した、演劇・ロミオとジュリエットの例を思い出してください。あなたがジュリエット役をやるとして、そのセリフをまさか舞台上で「素」のあなたとしては言わないでしょうという話でした。
ジュリエット役の俳優は、たとえその人が「素の人」であったとしても、自分の配役を認識しているはずですし、そのシーンを認識しているはずです。そのセリフをちゃんと認識しているし、舞台と客席という装置もちゃんと認識しているでしょう。けれども、その認識を「採用」するとは限らないということです。
「素の人」は、「何もしない」ままそのジュリエット役をこなすことが可能でしょうか。そんなことはまったく不可能だとしか思えません。何もしないということはもちろん芝居じたいをしないということです。演技じたいをしない。セリフに感情もこめないし、抑揚をつけたりもしません。表現というややこしい概念のこともしません。そこまで「何もしない」のですから、その舞台上にはほとんど意識を失ったような誰かの棒立ちしかイメージできないような気がします。
けれども、もしそれでもなお、その役とそのシーンが成り立ったとしたらどうなるでしょう。その人は何ら芝居も演技もしていないのに、そこには芝居も演技も現れたのです。セリフが響きわたり、ジュリエットの姿とこころが出現した。配役の人は「何もしない」でいるのになぜ? じゃあ、<<そこで何かを「した」のはどこの誰なのでしょう>>。われわれはそのようなとき、神格や聖霊の庇護、そういったもののはたらきというのは、ひょっとしたらあるのかもしれないという考えを、半分は空想のものとして許すでしょう。ただしその外形には「文化ではなく娯楽消費物としてね」という前提が大急ぎでしつらえられますが。
なお、ここでこうした「素の人」におこる奇蹟のようなこと、あるいは卑近には「素人だけど天才」というイメージで言いたくなるようなことに、興味をお持ちの方、あるいは興味以上の関心をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。そうした方に向けて、まったく蛇足というべき但し書きを添えておきたく思います。あまりに安直な話で気が引けますが、そうした神格や聖霊の庇護「かもしれない」と楽しみうることについて、そのことへ「憑依ごっこ」のスタイルで踏み出しを試みることは前もって不毛だと、万が一のケースのこととして申し添えます。何度も申し上げているとおり、このとき認識機能は「採用されない」だけであって、その機能は十全にはたらいています。何なら、万能感やみじめさ、うぬぼれやひがみの一切などへの進行がない状態で認識機能がはたらいているのですから、この当事者の認識機能じたいは通常のわれわれよりもずっと怜悧に冴えわたってはたらいているというのがじっさいのことです。われわれは、やけくそと自己陶酔をブレンドすれば、憑依ごっこやシャーマン気分に浸ることは容易に可能ですが、そうした方法、つまり認識機能をノイズだらけにするというだけの粗雑な発想と方法で、ここに話した「素の人」の可能性が拓けるということはまったくありません。認識機能を混濁させるだけでどうにかなるなら、そうした薬物を投与した人のすべてには神格と聖霊の庇護が降りてくるということになってしまうでしょう。じっさいはそうしたことは起こらないと、われわれは客観的にはすでに知っているはずです。当人の思い込みがそのような「つもり」を暴走させることはあっても、われわれのじっさいとしてはそうしたことはまったく起こっていないということを、われわれはすでによく知っています。
以上をもって、「素の人」ということの単純さと困難さが、いくらか視認してもらえたものと思います。そしてこの「素の人」および、その人に "ひょっとしたら起こるのかもしれないこと" が、Lの人の属している現象の側とまったく違うということも、いくらか視認してもらえたことと思います。「何もしない」まますべてをこなすというようなことは、何年取り組めば得られるものか、あるいは千年やってもわずかも得られないのではないか、はたまたそのことは今日にでも起こっておかしくないじゃないかと思えることで、われわれがLの常識で追求している「美と能力」とは事象じたいがあまりにも違い過ぎるのでした。
Lは素を欺瞞する
意地悪な言い方をすると、「ナチュラルメイク」という語にはそれじたい欺瞞が含まれています。ナチュラルといえばメイクをしていないことを指すのですから、ナチュラルメイクという語じたいが自己矛盾しているでしょう。もちろんこんなくだらないことをもって何かを非難しようとしているのではありません。ただのことばあそびです。われわれがハイキングコースで「自然を満喫」といっても、自然といえば本来はコースなど敷かれていない原生林のことを指すでしょうから、それだって欺瞞が含まれているといえば含まれています。もちろんそうしたことはわれわれにとってどうでもよいことです。「やらない偽善より、やる偽善が善」と言いだせば自己矛盾していますし、「不美人も美しくていい」というのも自己矛盾しています、そういったことはいくらでも見つかりますし、どれをあげつらうこともしょせんただの悪趣味の領域を出ません。
しかし、たとえば「お笑いに命かけています」と言うお笑い芸人が、じつはそうではなかったというような場合、その欺瞞は完全に看過できるものではないような気がします。料理に命をかけているという「ふう」の料理人が、じつはそうではなかったという場合や、教育に情熱をもっているという「ふう」の教師が、じつはそうではなかったという場合なども、そのまま看過することはできない引っ掛かりを覚えます。こうした薄気味悪い欺瞞はどのように発生してくるでしょう。お笑いに命をかけてなどいないのであれば、素直に「商売でやっています」「一攫千金にあこがれてやっているだけです」と堂々と言えばよさそうなのに。いやいや、そのように正直に告白してしまうと、客が醒めてしまうということがあるでしょうか。もしそうだとしたら、なぜ醒めるのだろう、ということも考えてゆかねばなりません。
Lの人、というのがどういう仕組みで生じてくるものか、そのことをおさらいしましょう。冒頭の副題にあったとおり、われわれは多く「みじめさから始まる」のでした。みじめさという耐えがたい感情体験によって、一定の方向へ押し出される。押し出される方向は「美と能力」でした。美と能力を獲得することで、自分を万能感のほうへ立たしめたいと願うのでした。Lの人の動機はこのようにして、第一に「みじめさからの脱出」でした。言い換えれば「美と能力の獲得」、また別の言い方をすれば「万能感のほうに立つ」ということでした。それが彼らの動機であり目的です。
若く勢いのあるお笑い芸人が、陽気なキャラクター(ふう)で、「自分ら、お笑いに命かけてます!」と力強く言ったとして、もし彼らがLの人であれば、彼らの第一の動機は「笑い」ではありません。第一の動機は「みじめさからの脱出」であり、それは第一の目的かつ、最優先の目的と言っても同じです。彼らが手にしなければならないものは何か、それは「笑い」ではありません。美と能力です。お笑い芸人といっても、きょうびはファッショナブルですし、身ぎれいにしているから若い女性にモテるということもあるでしょう。そうした美と、そうした美を具えられるだけの財力や知名度、また業界での活躍力などを持てば、彼らはみじめさから脱出できるということです。彼らはそれが第一の目的であり、最優先かつ最終の目的です。「笑い」などはまったく関係ありません、「笑い」は彼らの動機でもなければ目的でもありません。彼らが若く派手な女性たちにモテるようになったとして、それだって彼らの目的は目の前の女性ではなくて、そうした女性と交わることによってみじめさから脱出できるという点にのみにあります。さらには、上等な女を連れているということじたいが美でありまた能力でもあるでしょう。そうして細かによくよく見ていくと、やはりここにある欺瞞は看過しえないどころか、率直にいえば許しがたい、魂の根本的な尊厳に悖(もと)るという憤(いきどお)ろしさが改めて感じられてきます。これはあくまで「Lの人だった場合」というサンプルですが。
神父さんや神主さん、あるいは寺の僧侶なども、ひょっとしたら彼らの第一の動機は神仏ではないかもしれない。もし彼らが、俗物としての欲求や生理を解決できていないせよ(そんな超越的なことができる人がやすやすといるわけがありません)、それでもじつは第一の動機は神仏だった――その存在とそれによる救済のことだった――ということなら、彼らはまさに聖職者だと思います。けれどもそうでない場合、要は「そんなにみじめではない就職先」でしかなかった場合、彼らはけっきょく魂の根本的な尊厳に対する侮辱者ということになります。われわれはこの侮辱者を敬ったり崇めたり拝んだりしなくてはならないのでしょうか。
このことは総じて、「Lの人が素の人を欺瞞することには看過しえない罪を直覚する」と言えます。このことは本来、われわれの世界においてまかりとおってはならないことなのだろうと思います。事実がどうであったとしても、それはけっきょく「赦されない」というようなレベルのことなのでしょう。
Lの人は、ただみじめさから脱出したいだけです。それが始まりであり、それがゴールという場合がほとんどでしょう。われわれが完全な万能感に到達することなどありえないので、けっきょくLの人は、「せめて地球上ですべてのことにおいてすべての他人を見下せるように」なるまで、みじめさからの脱出はかないません。本当の話、資産が十億円ある人は資産が百億円ある人に引け目を覚えますし、資産が百億円ある人は、資産が数千億円ある人に対して自分を「みじめ」に感じるのです。ですからそうした人はよく、自分よりも資産が少ない人に対して万能感を見せつけることを自分のなぐさめにしています。その見せつけが仮にチャリティの方面に発揮されたとして、それでもやはり彼のやっていることは自分のみじめさのなぐさめ、見せつけ万能感の補充です。そして当人とはまったく無関係の、たとえばF1レースの優勝者のパイロットを、「車で同じところぐるぐる回ってバカじゃないの?」と内心で見下していたりします。なぜ見下すかというと、Lの人の動機と目的は徹頭徹尾「比較認識において他人を見下すこと」じたいにあるからです。見下す側が万能感であり、見下すということがみじめさからの脱出ということですから。
街中でガレキの撤去をしている作業員が、「われわれはガレキ撤去を愛しているのです」と言い張る必要はないでしょう。「なんだかんだ、実入りはいいんだよ」「実入りがよけりゃ比較的みじめではないからよお」「もっと実入りのいい仕事があるならぜひ鞍替えするがね、何も好きでこんな砂ぼこりの中に立っているわけでもねえしよ、はっはっは」と彼らが正直に言ったとして、その彼らの気風に不快感を覚える人は少ないはずです。彼らに大なる罪があるなんて誰もまったく思わないでしょう。これと同様のことが、なぜたとえば先ほどのお笑い芸人においては成り立たないのでしょうか。「一攫千金があればみじめでなくなるから、それを狙っているだけです」とは公言しづらいものがあります。「もっと実入りのいい仕事があったらすぐにも鞍替えするさ、何も好きでこんな煙たい舞台の上に立っているわけでもねえしよ」と言えば、客から白い眼で見られて人気を失いそうです。
なぜ白い眼で見られるのでしょうか。ガレキ撤去の人は白い眼で見られなかったのに、お笑い芸人さんは白い眼で見られました、同じ「仕事」ということをしているのにどうしてこうした差別が起こるのでしょう。それは単純に、人は「素」のままの魂に得たいことと、別にそうではなくてもいいことの、二種類の希求を持っているからです。先ほどのガレキの撤去の話でいえば、ガレキの撤去の作業を魂のものとしてほしいと望む依頼人はあまりいないということです。ただガレキを撤去するだけなのですから、時間効率もよければコスト効率もいい、周囲への騒音やストレスも少ない、高品質な業務の腕前をふるってもらえればそれで十分ありがたいでしょう。「あそこはいい業者さんだった」と素直に評価も上昇するはずです。
ですがわれわれはすべてをそうした業務の中で生きてはいません。
もっとも単純な話、夜遊び好きのおじさんが、キャバレー・クラブのホステスさんから誕生日プレゼントを受け取ることがあったとして、せめてそれぐらいは、業務ではなく素のこころからのものであってほしいと望むところがあると思います。それがささやかなハンカチひとつであったとしても、それがささやかであればあるほど、
「これぐらいのこころは、素のまま向けるところがあってもいいじゃないか」
という期待と希望を寄せます。それはそのとおりかもしれませんし、あるいはそうではないかもしれません。どだい、ホステスさんはあくまで業務として、お金をもらっているから酔客の隣に座っているにすぎないにせよ、そのことが何も完全な百パーセントでなくてもいいじゃないか、と人はどこかで期待しています。もしそれが初めから完全百パーセントと保証されているとしたら、あまりにも物悲しくてわざわざおじさんはそんなところにお酒を飲みにはいかないのではないでしょうか。
われわれは、たとえばお笑い芸人という文化に触れるとき、それをいちいち「お笑い業者」という殺伐としたものと捉えたくはないのです。笑う気が失せるではありませんか。われわれにとって笑うことや愉しむことは冷たい「業務」ではなかったはずです。現代はアイドル・タレントのグルーブと、そのファンがとても多くなっていますが、アイドル・タレントのすべてが完全百パーセント「アイドル業者」だと保証されていては、さすがにファンたちもその愛嬌を眺める気が失せるでしょう。アイドル・タレントをあっせんしている事務所のほうはそうした業者なのかもしれないが、舞台に立っている彼女たちはそれとは異なる無垢な、素のままで愛らしいショーをするのに懸命になっている少女たちなのだと信じたい、ないしはそう期待しているところがあると思います。
とはいえこんにちの状況において、きっと現実はそんなにやさしさを含んだものにはなっていないように思います。アイドル・タレントを例に採ると、果たしてアイドル・タレントの中に「素の人」がどこまでいるでしょうか。また、そんな「素の人」を受け容れるような環境が現代の風土の中にあるでしょうか、とてもあやしいものです。
たとえばこのように考えてみます。あるドキュメンタリー番組のスタジオに、コメンテーターとして十代のアイドル少女が出演していたとしましょう。ドキュメンタリーの特集はマハトマ・ガンジーでした。ガンジーがインド独立を求めて塩の行進をし、その独立運動の中でも非暴力をつらぬいて人々を牽引していく。それでもガンジーは強国にないがしろにされ、嘲弄され、屈辱を受けるのですが……やがて暗殺に斃れることになったガンジーは、最期、その暗殺者に対してまで祈るようだったと伝えられています。マハトマとは「偉大な魂」という意味でつけられた冠語だそうですが、ガンジーはまさにそうした偉大な魂の人だったのかもしれません。
こうしたことに、スタジオ出演している十代のアイドル・少女は、魂の共鳴としてその偉大さに感動し、肺腑を打たれるということがあるでしょうか。本当に? 表面的にはそのようなことがありえる気もしますし、そのように期待もしたくなります。けれども……
彼女は個人的にはアニメオタクかもしれません。そうした人はいまとても多いでしょう。そしてこんにちのアニメといえば、表現が派手で耽美的、中にはグロテスクな表現・残酷な表現が繰り返されるのが特徴のものもあります。いわゆる「中二病」という自己陶酔を興奮させる内容ばかりのものもあるでしょうし、いわゆるテンションが「アガる」というような、音圧と作り声が騒々しいアニメソングを振り回しているものもあります。個人的にはそうしたものにどっぷり浸かっている彼女が、本当にいきなりマハトマ・ガンジーの話「だけ」に急激に魂の共鳴たる感動を覚えて横隔膜ごと打ち震えるというようなことがあるのでしょうか。急にそんなことになりますか。そうではなく、どのような伝説的な史実を聞かされたとしても、その情報は彼女のうちでマンガやアニメの表現に書き換えられ、彼女の内部ではまったく別の「中二病」のイメージ世界に作り替えられて、陶酔的に楽しまれるだけではないでしょうか。むしろそのようでなければ彼女自身がアイドル活動が出来なくなってしまうのではないでしょうか。彼女の職業としてのパフォーマンスやスタイルも、ガンジー的かアニメ的かというと、どう考えてもアニメ的であらざるをえないからには。
彼女は大量の白黒映像と、当時の複雑な社会情勢の話を一方的に聞かされて、その内心は、
「なんか、よくわからない。というか、さっぱりわからない。こんな大昔のことにまったく興味ない」
としか思っていないかもしれません。むしろそのほうが自然かつ当然だという気がしませんか。仮にその番組収録のあと、彼女と食事にいって、ずっとマハトマ・ガンジーの話をこちらがし続けたら、彼女は退屈そうにスマートフォンをいじりだすのではないかという気がします。根こそぎ興味ない、という当然の態度で。
それでも彼女は、番組収録中は別です。彼女はさも、マハトマ・ガンジーの各エピソードと、彼がインド独立に向けて生を捨てて取り組んだ歴史の一幕に向けて、それがただの四十五分の資料映像を解説つきで閲覧しただけであっても、
「感動して涙が出そう」
という表情を見せるでしょう。またその表情に合った、「すごい人だったんですね」「感動しました」というようなコメントもするかもしれません。
なぜ彼女はそのようなことをするのでしょうか。なぜそのような表情を作り出し、そのようなコメントを発するのか。いわずもがな、そういうふうに撮れ高を出していかなくては、次から使ってもらえないからです。呼んでもらえる番組が減り、仕事が減っていって、つまり未来を失っていくでしょう。そうならないよう、自分が画面に映る尺が増えるよう、またワイプに自分の顔を抜いてもらえるよう、表情をおおげさにして目をなるべくうるうるさせなくてはなりません。
われわれは彼女の「素」を見たいでしょうか。彼女の素といえば、つまり先ほど申し上げたように、ガンジーの話は退屈だし根こそぎ興味ないのでスマートフォンを取り出していじり始めるというのが彼女の素ということになりますが、もしそんなものを堂々と撮影して放映したら、それは別の意味でのドキュメンタリーになってしまいそうです。
素の彼女は、そこから派手な絵柄のソーシャルゲームをして、課金して「ガチャ」を回すかもしれません。そのガチャでレアカードを引く率が悪いと、
「なんなんこれ、イベントのくせにクッソ渋いな、この運営終わってるわ、センスなさすぎマジ死ね」
と言い出すかもしれません。いかつくあぐらをかいて、指で鼻くそをほじりながら。
ドキュメンタリー番組のワイプで目をうるうるさせていた彼女のイメージとはあまりに違いますね。こうして冷静に捉えなおしてみると、われわれはいったい、現代の無数のメディアで「何」を見せられているのか、改めてよくわからないという不安な心地がしてきます。
彼女の「素」はすでに開陳できるようなしろものではありませんし、彼女のいる現場も、そのような「素」を露出させて受け容れるというような余地はまったく持っていません。だからどうするかといって、<<素を欺瞞する>>ということがミエミエでしょう。われわれは彼女がアイドル「業者」ではないという期待を寄せています。もちろんプロ・職業としてそれをやっているのはわかるけれど、そうしたプロフェッショナリズムの冷酷さはアイドルの「事務所」が担っているものだと期待して、当の彼女はそうではない、無垢で純粋な、どちらかというと「素」の彼女の姿をあどけなく晒して、まだそのことに自覚もないほど無防備なのだと信じたがっている。彼女のファン、あるいは現代ふうに言うと彼女を「推し」にしている人たちは、彼女について、
「あのコはこういうコで、◯◯なところあるから、しょうがないんだよなあ〜」
と、素としての彼女のことを推しているつもりでいるはずです。ですから、彼女が栄達していくためには、「素」を偽装し、このパフォーマンスがわたしの「素」なんですと、期待されているとおりに欺瞞していくしかないことになります。
すでに誰でも知っているようなことですが、いつのまにか誰も忘れてしまったことのような気もしているので、ここで細かく描写しています。
Lは素を欺瞞します。Lの人が、自分のことを「Lでやってんだよ」と堂々と告白することは割合としてまれです。何かしらの、素からの情熱、素からの思い、素からの愛でそれをしていますと、どうしても言い張ることのほうが多い。未来を失うわけにはいかないからです。そしてそうした欺瞞が、果たして看過できることなのか否か、赦されることなのか否かについては先に検討して話しました。この点についてこれ以上の話は、もう単純に「それぞれの考え方」という不明のものに流し込むしかないところでしょう。
Lの第一の動機は「みじめさからの脱出」です。美と能力を獲得して、可能なかぎり万能感のほうへ進み、みじめさからは遠ざかりたいのです。見下す側に立つのです。それが第一の動機であり、最終の目的です。他には何もありません。アイドル業の彼女にとって、番組のプロデューサーについていかなくてはならないというのはLの作用でわかりますが、ガンジーについていかなくてはならないとは可能性としてさえ一ミリも感じません。
それでも画面の中で、あるいは彼女を「推し」にする人々の視界の中で、またイベントや握手会や Youtube チャンネルにおいて、彼女は、
「天使かな?」
と言われてふさわしいものに見えます。
なぜ偽装された素が「天使」に見えるのでしょうか。
彼女に注入されているのが "エンジェル" Lだからです。
Lは素を欺瞞しますが、その欺瞞は必ず「天使がいるふう」というテイストを帯びます。アイドル少女の場合は彼女自身がそのテイストを帯びようとしますし、そうでない他の業者の営業マンは、お客さまは神様ですという「ふう」をしたり、あるいは家族の写真を見せて「子供が生まれて、天使みたいなんですよ」とほほえむ「ふう」などをします。それぞれ、信義誠実の天使がいる「ふう」、人情の天使がいる「ふう」、人懐こさの天使がいる「ふう」、他人思いで良心的な天使がいる「ふう」を欺瞞します。
それは、「人」の欺瞞をするというような甘いものではないのです。
Lが素を欺瞞するといっても、単に「素のままの自分を装う」というような甘いことは誰もやりません。必ずちらりちらり、「天使」の気配を漂わせるということをします。「天使がいるからにはウソ偽りないだろう」と思わせるという欺瞞を仕掛けてくるということです。
神格・聖霊の庇護を受けるのは「素」の人だけという仕組みですから、素を欺瞞するには天使をちらつかせるのが最も有効です。天使がちらつくということは、神格・聖霊の庇護を受けているということのように思え、だからこそ、
「これがこの人の『素』ってことだよな」
と欺瞞されます。
「天使をちらつかせる」ということは比喩ではなく本当のことなので、もっとも有用な知識のひとつとしてよく覚えておいてください。
Lの人は自身も欺瞞される
先の段で使用した例を引き継ぎます。あくまでLの人がアイドル・タレントを志したとしたら、その動機は「みじめさからの脱出」であり、舞台で客にショーを見せるようなことなどは動機になっていません。そんなことはどうでもいいのです。ただ、華やかな舞台に立って喝采をあびれば万能感の側なので、「そういうふうになりたい」と望んでいるだけです。「もう見下されるのはイヤなの」という猛烈な本音があるだけです。それでも人は、そうした少女は「素」の姿を振る舞っているのだと期待したがるものですから、喝采を浴びるために彼女はますます「素」を欺瞞するという一手になっていきます。
彼女は決して、Lの人として、
「みじめさという耐えがたい屈辱の感情を脱出し、万能感の側に立って他人を見下せるようになりたいです。ただそれだけです、そのために美と能力を獲得していくだけです」
と正直なところを語りはしないでしょう。当たり前です。彼女は必ず、目をなるべくうるうるさせて、
「こうやって、人に元気をあげられる、人を励ますことができる、そういう自分になりたいとずっと思っていました。それで、今みんながこうしてここに来て、よろこんでくれている、そのことに……ヤバいわたし泣きそう! あの、ありがとうって言いたいです」
というようなことを言うはずです。
それではここで、ひとつの疑問を提出したいと思います。疑問はこうです。彼女はLの人で、素を欺瞞しているのですが、<<彼女は要するに「ウソ」をついているのでしょうか>>。
「ウソでやっているだと?」。彼女を「推し」とする人たちは決してそんなことは認めませんし、そんなことの可能性じたい考慮に持ち込まないでしょう。
「そりゃ、業界としてはいろいろあるだろうけれど、それとは別、見たらわかるよ、彼女自身は何もウソはついていないよ」
彼女はウソをついているのかそうでないのか、このことについて、目覚ましくもあり、別のスリルも立ち上がってくるような捉え方を一説として示したいと思います。彼女はおそらく本当にウソはついていないということです。ただしそれは、彼女が欺瞞をしていないということではなく、<<彼女自身も欺瞞に掛かっているので、彼女としてはまったくウソをついていない>>という状態です。
このことは、まざまざと目撃するまで注視すると、いささか度を越したサイコスリラー、あるいはそれ以上の趣きを帯びてきます。そうしたスリルも悪くないですが、ここではあくまで合理的な説明が進むようにこころがけましょう。
Lが素を欺瞞するのには、「天使をちらつかせる」のがもっとも有効だと申し上げました。よくよく点検してみると、このことはまったく本当で、われわれはふだん見落としていますが、Lの人は本当に随所でこのことをしています。あくまでその気配を「ちらつかせる」だけなので、当人としてもそこまでのことをしている自覚はないのですが……
天使をちらつかせるのはまったく有効です。それが有効すぎるあまりに、じつはL自身もそのとき同じ欺瞞に引っ掛かるのです。天使? 「天使がちらつく」というのは馬鹿げた話でしょうか。まったくそのように思えますが、ここではこう説明しておくことにしておきましょう、「何しろ "エンジェル" Lを飲んでいるじゃないか」。Lという総称で呼びうる注入物のごときを "仮想" したのですから、その仮想の中にはそのまま「天使」の存在も含まれて話は破綻しないはずです。
天使をちらつかせるのは素の欺瞞に有効ですが、その有効性のあまり、じつは当人もその欺瞞に呑み込まれます。
天使がちらつくと、彼女はこのように思います。あるいは感じます。
「なんだろうこの感じ。わたし、他の人とは違う……そっか、 "ありのまま" でいるわたしが、報われて、わたしのところに神格・聖霊のようなものがやってきてくれたんだわ。わたしは間違っていなかったのよ。だって今、すごい感じするもの」
「なんだろう、この感じ、わたしはきっと何でもできる。わたしはきっと、他の誰よりも美しくて、他の誰も持っていない、特別な能力がある。だからわたしはここに立っている。わたしには何でもできる。すごい勇気が湧いてくる。わたし、もう何にも負けない」
先ほどはファンの人が「天使かな」と表現すると言いましたが、じつはそのとき彼女自身も、公言はしませんが、同じようなことを思っているし、同じようなことを感じているのです。自分のことを「天使かな」と思っていますし、そう感じています。
ファンの人たちは、彼女のことを、
「本当に天真爛漫というか、あるがままというか、とにかくピュアなんだよ」
と思っているところ、じつは彼女自身も同じことを思っているということです。
「わたしはあるがまま、この天真爛漫なままで居続ける。わたしは、このピュアさだけはぜったいになくさない」
ファンの人たちがここで目をうるうるさせているなら、同様のことで彼女自身も目をうるうるさせています。
こうして考えると、やはりファンの人たちが言うように、彼女はウソはついていないということになります。さすがに誰だって、ミエミエのウソにはいつまでも騙され続けないでしょう。誰もウソはついていないからこそ騙されるということが起こります。いや、誰も騙してはいないのですから、騙されるという表現も引き当たりません。ですからこのことはやはり、そうした「欺瞞」の現象が起こるという説にしておくしかありません。
そうしたアイドル・タレントの、特に地下劇場の現場などは、しばしばファンの人たちともども含めた風景が「一種の宗教みたいなもんだよ」と外部から揶揄されることがあります。ちょっとおっかないですが仮にそうした現場の動画を一瞥でもするならば、それを「宗教」と言いたくなるのは誰にでもわかるところです。といって、われわれは宗教がどのようなものかをよく知っているわけでもありませんけれども。
悪質なカルト宗教も、人々を騙すかといって、やはりカルト宗教においても、単にウソをついて騙しているという単純なことではないのでしょう。何であれば教祖自身、その欺瞞に自らもひっかかって、本当にその目をうるうるさせ、「ウソはついていない」という状態で信者を増やしているものだと推定されます。もし教祖がいかにもウソをついているふうだと、さすがに信者の獲得と拡大はむつかしいと思います。
さてここまで、わかりやすさのためにアイドル・タレントを代表例に採り上げてきました。もちろんこのことはアイドル・タレントに限ったことではありません。よくよく強調してお伝えしておきたいと思います。<<天使をちらつかせるのはアイドルだけでなくすべてのLの人です>>。なぜならそれはエンジェルLですから。アイドル・タレントは、そのエンジェルLの特徴をもっとも正面に押し出したものだと言えます。ですからどうしても代表例に採り上げるしかありませんでした。ただしあくまで、これは真相が「Lの人」として活動している場合にのみ限られます。そうでない人の場合はまったくそうではないことになります。その見分け方など、ありませんが、ひとつの判断の尺度はあるといえばあります。頼りない尺度ですが、またそのことは後の段に説明しましょう。
この段での話を続けます。「天使をちらつかせる」のはアイドル・タレントに限ったことではありません。
たとえば悪徳な不動産業者は、ほほえみや人情味を見せることに長けており、小さな事務所内にはちゃんと神棚が祀られていて、その社長は墓参りや法事を大切にする人だったりします。社長はいつもニコニコして社外への人当たりがよく、近所づきあいでも愛想がよかったりします。でもそれらはすべてウソであって、彼はけっきょく客が無知で無力であれば、可能なかぎり財をむしりとろうとし、そのむしりとった財で自分をみじめさから脱出させることにしか目的がありません。こうした人にだまされてはいけないのですが、これにしたってこの社長は、人にウソをついて騙しているわけではないのです。いや、その悪徳商法のテクニックとしてほとんど詐欺のようなウソはいくらでもついているのですが、当人はもうそこでウソをついているという自覚の能力を失っています。彼は本当に、客に対する善意を土台にした、良心的な商売しかしていないと感じているのです。そのことがいかに事実と齟齬していようともです。
彼もまた、「素」としての自分の善人たるを欺瞞しているうちに、自分自身もその欺瞞に呑み込まれてしまった一人です。エンジェルLの効能はそれぐらい強いということです。日々、商売をしながら、朝には神棚にかしわ手を打ったりしていると、「自分は善良にがんばっている」というような、天使のちらつきを感じます。やはり彼もそのとき、自分のところにやってきた天使からの祝福に、その目をうるうるさせているのです。「がんばってやってきたじゃないか、不器用なりに正直にやってきたじゃないか」。それでもじっさいに彼がやっているのは、すでに血も涙もない「むしり取り」でしかないのですが、なぜか彼はそのことに矛盾は発見しませんし、むしり取られた客のことで自らの胸を痛めるということが起こりません。彼は本当に自分が善良な道をゆき、良心的な商売をしていると思っているので、こころからの笑顔で子供たちにあいさつし、近所づきあいに愛想よくできるのです。このあたりはどうしてもサイコスリラーの味わいを帯びざるをえません。
たとえば男性であるAさんは、「男女ってどこまでも平等であるべきだと思う」と言います。また、「恋愛まで遊びでしかやれない人って、どうなってんのって思う」とも笑って言います。「遊ぶなら他の遊びをすればいいじゃん、恋愛ぐらいは真面目にやればいいのにって。ふつうそう思わない?」と言い、また、「まあそういうところ、おれが繊細すぎて、純愛しかできないってだけかもしれないけど」とも照れくさそうに言います。彼は実家が裕福なので、上等な身なりをしています。
しかし彼は、高級なもてなしのデートで女性を酔わせ、一度寝てしまうと、その女性に対する態度が不遜になりました。彼自身にその自覚はありません。彼は自分が待ち合わせに遅刻しても何も思いませんが、彼女の側が遅刻してくると明らかに不機嫌になります。自分の部屋はあるていど彼女が「自動的」に片づけてくれるものだと思っており、料理をするとなれば基本すべて女性である彼女の側がやるものだと思っています。その料理が不出来だと存分に否定していいと彼はどだい思い込んでいます。
彼女はいいかげん愛想を尽かし、あなたとはやっていけないと思うとやんわり申し出ました。すると彼は「いきなりそんなことを言われても、おれは傷つくことしかできない」と、彼女を責める口調で激高しました。「おれにも悪いところがあったんだと反省はするけれど、ちょっと時間が掛かる。お前もおれの彼女なら、おれの繊細すぎるところをわかってくれ」と感情を激した口調で彼は言います。
彼女としてはわけがわかりません。それでけっきょく「あなたはわたしとどうなりたいの」と彼女が訊くと、Aさんは「いま、結婚を考えている女性がいて、自分としても迷っている」と突然言い出しました。彼女は「は?」と、しばらく唖然とするばかりでした。彼いわく、その女性とは五年間交際しており、「その人とどうなっていけばいいのかわからず、迷っているところに、君が現れた」ということでした。「おれそのことで、本当は悩み続けていて、もう長いこと、本当には笑えないって時間を過ごしてきた。本当はすごく苦しかったんだよ」。こんなわけのわからない話には付き合えるわけがありません。彼女はとうぜん別れると決断してそのとおりに言いました。すると彼は「わかった、それもしょうがないと思う。おれも自分の悪かったところを反省している。こんなことになってしまったけれど、おれは君のことが好きだった。本当は君のことのほうを大切にしたかった。でもおれはもう、ずっと君のことを引きずって生きていくしかないんだと思う」と言って泣き始めました。彼女はAさんについて、混乱し、それ以上に呆れましたが、繊細ということはあるのかもしれないと、首を傾げながらですが思いました。そして、彼女の知らないことですが、彼女と別れたその日、彼は夜にはいつものパチンコの店に行きました。久しぶりに大当たりして、機嫌をよくして帰宅しました。そして彼は別れた彼女に、
「おれはうそがつけない男だと思う。君なしにこの先をやっていける気がしない。もう一度考え直してくれ」
とメールしました。
このとき彼の目は、落涙せんばかりにうるうると震えていました。
彼もまた、自分の欺瞞に自分自身も引き込まれた者です。彼は以前にも「恋愛ぐらいは真面目にするべき」と言い、また「恋愛にかかわっては繊細で純愛しかできないから」とも言い、そのとき天使をちらつかせることが、女性を引き込むのに有効だと知ったのでした。その有効性を発見したときに彼は「あっ」と驚いたのです。そして天使をちらつかせたことの威力と有効性は、自分自身にも及んでいきました。彼のセリフは狙った女性を引き込むことよりも、彼自身を惚れさせることのほうにこそ強くはたらいたと言ってもいいでしょう。彼は自分のことを「時代錯誤の、純愛野郎」と思っていて、そう思うたびに天使のちらつきを覚え、目をうるうるさせます。熱い感情が湧いてきて「なんだってやってやるさ、この野郎」という思いが止まらない。彼女に向ける愛は本当にウソ偽りなく本物だと思っています。そのとおり、彼はすべての振る舞いと発言において、本当に一切ウソをついていないという点に注目してください。彼自身も含んだ欺瞞という現象が発生しているだけであって、彼が自覚においてウソをついたことはまったくない。信じがたいが本当の話です。もしこの話に混乱するようなら、次のような一文で整理して捉えてみてください、<<天使がちらつくとき、ウソは存在しなくなる>>と。
ボランティア活動をしているBさんは、「自分の関わった地域が、少しでも活性化することが、やっぱりうれしいんですよね」と言います。また、「生きるのに不利なところを持っている人が、自分の助けで少しでも楽になってくれる、そういうときに無上のよろこびを覚えるんですよね」とも言います。「父が医者なので、やっぱりその血筋なんですかねえ、人に対して少しでも助けることをしていないと、いてもたってもいられなくなる性分なんです」。Bさんは大きな声ではっきりと「あははは!」と笑うのが特徴でした。周囲からは、気さくで裏表がなく、さばさばしていながら人にこころを寄せる人だという評判です。
けれどもBさんは、たとえば自分に懐く子供には明るく親し気に振る舞いますが、自分に懐かない子供に対しては、ずっと仲間外れにするという仕打ちを恣意的にしていました。また、少年のうちひとりが持病の発作で倒れ、そのまま搬送先で薬石効なく亡くなったというとき、全員が悲しみ打ちひしがれて泣いているところ、Bさんはトイレの個室に駆け込み、泣いているふりをして本当は平然と過ごしていました。自分で目をこすりあげて赤く腫らすという演出にもぬかりがありませんでした。
少年の死去があり、急遽、喪中になってしまったからということで、施設長が雑誌のインタビュアーにお詫びを言って帰らせたことについて、Bさんが「それは違うんじゃないですか」とよくわからない不平を面前で言ったのも事実です。Bさんはイベントの立役者としてインタビューを受けること、またその記事に自分が写真つきで掲載されることに欲望を覚えていたので、それがフイになったことに憤怒を覚えたのでした。「やってらんないわ」とBさんは思って珍しく態度を荒げました。
Bさんがどうも気分を害しているらしいことを気に掛けた同僚が、何かまずかったのかな、と窺ったところ、Bさんは「えっ何が? わたし何も気にしていないよ〜」といい、いつもどおり明るくはっきりした笑顔を見せました。「あははは!」。その笑顔と笑い声は、少年が死去したばかりの夜にそぐわないもので、どこまでも違和感が残りましたが。
Bさんは、自分の幅が利くこと、自分の評判が高いこと、周囲の誰もが自分に一目置くこと、そうしたことで承認欲求を満たすことで、みじめさから脱出していました。本当のところ、施設の子供たちのお遊戯などはBさんにとってまったくよろこびでも何でもありませんでした。ただ、そうしたことをよろこびとしているように振る舞い、明るい顔と声で笑うようにすると、パッと注目を浴び、そうした注目を浴びることじたいが快感な上、あたかもこの人には天使が降りているのかと思われるようで、「わたしそういう人なんです! あははは」ということがそのまま信じられて通るということをどこかで知ったのでした。天使がちらつくときにウソは存在しなくなるので欺瞞が最大効率で成立します。そしてその欺瞞はBさん自身も飲み込みますから、Bさんもすっかり、自分のあるがままのこととして「わたしそういう人なんです」と思っています。
ミュージシャンのCさんは、関西なまりで、「ウチはライブさえできたらええねん!」と、マイクからものすごく大きな声で言います。観衆はそのいきおいにドッと大笑い。「そんなさあ、お金とか、名誉とか? あるいはセックスとか、そんなんどこまでも追い回しても、キリがないねん!」「ごめんなあ、いっつもこんな下品なライブで。でも、これがウチなんやからしょうがないやろ。あんたらもなんだかんだ、こんなウチが好きで、こんなところに来てるんやんか」。
まったく素のままというか地のままというか、あけすけな語り口調が人気のCさんです。このCさんは後に、そそのかされた財テクが詐欺のたぐいで、破産して人前から姿を消しました。自分かぎりのことであればまだよかったのですが、周囲の人も勧誘して大損害を与えたため、責任追及を逃れるには姿をくらますしかなかったのです。周囲の人たちは、Cさんが「いつものCさんの、素の調子」で勧誘してくるため、まさかそれが後ろ暗さのあるものだとは思わず、かなりの金額を投資してしまいました。
政治家のDさんは、不法な営業をしている物流業者からわいろを受け取って便宜を図っていたことが週刊誌にすっぱ抜かれ、リコールされました。後援会の人たちと共に支援者のところへお詫びにしにいったところ、支援者の人が「見損ないましたよ」と言いました。するとDさんは、「なんじゃ貴様、わしに向かってなんちゅう言い草じゃ!」と猛烈な怒気を発して掴みかかりました。そしてDさんは、
「天地神明に誓って、わしは地域に貢献しかしとらんわ」
と怒鳴ったのです。そしてなおも、
「私腹を肥やすだけの俗物どもと一緒にするな、腹立たしい!」
Dさんは誠実そうな印象の、無私と情熱の政治家という触れ込みでこれまでの選挙活動に勝利してきました。Dさんが選挙カーから涙ながらに市政の改善を訴えるとき、われながらまるで天使がちらつくようで、Dさんはそれが自分自身の「ありのまま」なのだと欺瞞されました。その欺瞞は、裁判の証拠やリコールぐらいではくつがえりません。
わかりやすさのためにくっきりした例を示しましたが、じっさいのケースはこれよりもいくらでも巧妙です。それにしても、仕組みを知ればこの現象は原理に忠実に起こっています。その原理は、天使をちらつかせることで素を欺瞞するということ、そしてその欺瞞に自分自身も飲み込まれるということです。捏造された自分の「素」を、当人もすっかり信じ込むため、当人もそのことについて本当にウソはまったくついていないという状態になります。日常的には「そんなわけないでしょ」と思えても、そうではない、<<天使がちらつくとき、ウソは存在しなくなる>>ということが起こります。もちろんそれでも、散見される事実とは齟齬が出てくるので、この現象の周囲には不穏な圧力が高まっていくのでした。
この人がウソをついているとは思えない・ウソでやっているとは思えない、という感触のものに出くわしたとき、このことを思い出してみてください。その人がウソをついていなくても、欺瞞はあなたに仕掛けられてきます。それで、けっきょくすべて完全にウソだったというおどろきの結末がしばしばあるものです。
共鳴
たいへん有用な上に、あなたの芸術にかかわる造詣が格段に向上する、おいしい話をしてみましょう。世の中にはたくさんの詩文があります。文学者が書いたそれもそうですし、ポップスシンガーが書いたそれもそうです。テレビCMのキャッチコピイなども広義に見れば詩文かもしれません。
どのような詩文でもかまいませんので、あなたの思い当たるところ、なるべくたくさんの詩文を、つぎの三つの分類のうち「どれに当てはまるか」と考えてみてください。
・「あわれな人」に関わる詩文
・「みじめな人」に関わる詩文
・「万能感の人」に関わる詩文
たとえばサザンオールスターズ(桑田佳祐)の有名な「いとしのエリー」では、「おれにしてみりゃ最後のレディ、笑ってもっと Baby」と泣くように歌うのですから、これは「あわれな人」に関わる詩文です。あるいはボブディランの「風に吹かれて」なら、「どれだけの道をゆけば一人前の男と言ってもらえるのだろう」「友人よ、答えは風の中だな」と唄っています、これもやはり「あわれな人」に関わる詩文です。
「みじめな人」に関わる詩文については、身近な実例を引用するのはなるべく控えたいと思います。「あわれ」と「みじめ」は区別がつきづらく、ほとんどのみじめさの詩文は、あわれさの詩文とも言い得るように思えてくるのですが、正しい視点を得ていくほどに、このことは見分けがついてきます。
先に「万能感」に関わる詩文に注目してみましょう。こちらについても実例の引用は避けますが、たとえば「わたしの翼があなたを守るから、大丈夫」というような詩文の一部を考えてみます。あるいは「果てしない無敵の官能、光輝き二度と忘れはしないだろう」というのでもいいかもしれません。あるいは「黄色いスニーカー、きみのほほえみ、髪の毛くるくる巻いちゃって、お菓子みたいな毎日に、すっかり夢中のとりこなんです」など。こうして人が万能感に及んでいるのであれば、万能感に及んでいる人に対して救済は必要ありません。そもそも万能感の人に救済は必要ないというのはそれじたい自明の理ですね。これは言い換えれば、「万能感は救済を拒絶している」ということになりますが、同様のことがみじめさにおいても言えます。
「あわれな人」に関わる詩文は救済を拒絶していないのに対し、「みじめな人」に関わる詩文は救済を拒絶しています。それが判断の基準となります。
とはいえ、「救済」というと急に大げさな感じがしてしまいますので、もう少し進めてよりイージーな判断基準を得ましょう。救済を拒絶しているということは、語られている以上の先はないということですから、語られていることで起こる感情だけが結末になる。つまり<<感情だけがゴールになる>>という性質があります。ここで「みじめな人」に関わる詩文の場合、代表的に「かわいそう」という感情がゴールになるのが典型としてわかりやすいでしょうか。実例を引用するのは気が引けますが、たとえば「マッチ売りの少女」はどう観ても最終的に「かわいそう」という感情にしか行き着きません。同様に、ただ「かわいそう」という "激しい感情" にしか行き着かない詩文、あるいはアニメ映画などは、こころあたりを探せば誰のうちにも見つかると思います。
対して、先ほど「いとしのエリー」を例に出しましたが、その詩文の内容はラブソングというよりは失恋を窺わせるものです。けれどもその失恋について「かわいそう」という感情は覚えません。そもそも感情がゴールになるという感じがしません。これが救済を拒絶していないということの顕れですが、それでは大げさすぎると感じる場合は、やはり「感情がゴールになるか否か」ということを判断の基準にしてください。
「みじめな人」に関わる詩文として、たとえばこのように作詞してみましょう、「笑えないほど安月給で 笑いたくなるよな年齢のリアルで 疲れて生きてごくろうさま 明日も自分をごまかして生きてね」。こんな詩文を、煽り立てるような声の調子で唄われたら、聞いている側は感情を刺激されるでしょう。侮辱され、挑発され、嘲弄されています。そのぶん、「くそ、やってやるよ」という反骨の感情も湧いてくるかもしれませんが。ここ数年はウェブ上などで特に、こうして人の感情に干渉してくることだけを意図したインディーズの歌などがよく流行しています。そうして感情を引き起こせばそうした詩文の目的は完了したことになります。
たとえばここでウイリアムブレイクの詩文の一部を引用したとして、
――それからはじめに私は見た、天頂から落ちる星のように垂直にくだってくる、つばめのように、あるいはあまつばめのように素早く/そして私の足の(フ)骨のところに降り、そこから入りこんだ/しかし私の左足からは黒雲がはねかえってヨーロッパを覆ったのだ
これに対して「感情をゴールにする」というのは不可能です。先ほどの「明日も自分をごまかして生きてね」という詩文とはじつはまったく性質が異なるということがよくわかると思います。ブレイクのそれは叙事詩であって、「明日も自分をごまかして生きてね」は叙情詩です。そして、じつは「いとしのエリー」や「風に吹かれて」も、見かけは叙情詩に思えるのに本当は叙事詩にあたるということです。感情をゴールにしていません。
加えて、叙景詩ということも考えておきましょう。叙景詩は光景・景色をゴールにした詩文です。たとえば「秋の夕陽に照る山もみじ 濃いも薄いも数ある中に」「菜の花畑に入り日薄れ見渡す山の端霞深し」などは典型的に叙景詩です。あるいは「知床の岬にハマナスの咲くころ 思い出しておくれおれたちのことを 飲んで騒いで丘に登れば はるか国後に白夜は明ける」(知床旅情)なども叙景詩です。人のこころも詠まれていますが、詩文は光景・景色をゴールにしています。
叙事詩、叙情詩、叙景詩があるわけですが、これらは「どこをゴールにしているか」ということで見分けがつきやすくなります。ひいては先の三つの分類を、次のように書き換えることもできます。こうすることでよりわかりやすくなるでしょうか。
・「あわれな人」に関わる救済の叙事詩、あるいは叙景詩
・「みじめな人」に関わる感情の叙情詩
・「万能感の人」に関わる感情の叙情詩
もちろん後者のふたつが、Lの人あるいは失効したSの人のものに所属することは明らかです。ですがここでは、あなたが記憶にある詩文をこの三つに分類するということにだけ差し当たり向かってください。
ポップス曲などで誰でもよく知っているところですが、人によってそれぞれ、「いい」と思う歌、「いまいち」と思う歌は違うものです。「すっごくいい」と思う歌もあれば、「さっぱりわからん」としか思えない歌もあります。ビビっと来る歌、すごく突き刺さる歌がある一方、まったく「ピンとこない」歌、どちらかというとバカにしたくなる歌というのもあります。それらは一般的には単に好みの問題、つまり「好きな歌とかってある?」というポビュラーな問いかけに含まれるものとされているのですが、ここでは別の捉え方をすることができます。
素の人は素の詩文にしか共鳴できませんし、Lの人はLの詩文にしか共鳴できないということです。周波数が違って共鳴が起こらないので「ピンとこない」のです。この「ピンとこない」という感触は、かなりのていど明瞭に個々人に体験されます。もちろんその詩文だけでなく、それを歌曲で唄うならその歌声も、素のそれとLのそれは、聞き手側が素の人がLの人かということによって共鳴が支配されます。それぞれが素の人かLの人かによって、「めっちゃ刺さる」ということもあれば、「まったくピンとこない」ということもあるということです。
さらに詳しく、明確にしていきましょう。素の人が「みじめさの叙情詩」を聞かされた場合、このような反応になります。
「うーん、わかるけど、それでいったいおれにどうしろと……」
理解はできるが受け取れない・受け取りようがない、という状態になり、こうした「とまどい」「ピンとこない」が起こります。
一方、Lの人が「救済の叙事詩」を聞かされた場合も、
「……なんとなく、わかる気はするけれど。で? これでわたしにどうしろということ?」
という反応になります。やはり、理解はどうでも受け取りようがないということで「とまどい」にしかなりません。
周波数にまったく倍数関係がないもの同士は、物理的に共鳴を起こしようがないことのように、素の人とLの人も、あたかも物理的と言いたくなるほどに共鳴が起こりません。その共鳴が起こらないということ、受け取りようがないということを、一般によく「ピンとこない」と表現します。表面的には「わかる」けれど、自分の芯には響いてこない、響いてきようがないと感じられます。
とはいえ、人は誰しも赤子として生まれ、生まれた直後からしばらくはただ「あわれな存在」でした。生まれつきみじめさを感じていた人はいませんし、生まれつき万能感に浸ろうとした人もいません。また、いまは元のあわれな存在に立ち返ることができ、素の人となりえた人でも、かつてはそれなりにLの人としての経験を積んできているものでもあります。
ですので、この「ピンとこない」という問題、共鳴が起こらない・起こりようがないという問題は、確かにそのとおりなのですが、共鳴が起こらない中にも、ある種の周波数の干渉は受ける――ような気がする――という成分が紛れ込みます。
あなたが、ここで記憶にある詩文をそれぞれ三つの分類に当てはめていったとき、自分として「ピンとくる」、あるいは自分に響く、自分に刺さる、自分か受け取れる詩文は、むしろ後者のふたつ、「Lの人のそれじゃないか」ということを自身で発見することがあるかもしれません。そのときあなたは妥当な不安を覚えるでしょう。これまでの自分のことを考えると、自分が共鳴してきたのは明らかにLだ、そうしたものが正しくないと自分では考えているのに、「共鳴」と言われると確かにわたしはLの人だ……そのように考えて動揺するかもしれません。どうすればいいでしょうか。なにぶん、あなたがそう考えたとしたら、あなたのその思考は明晰で理に適っているだけに、その演繹と動揺については「そのとおりです」と言うよりないのがつらいところです。
そこでこのように考えましょう。ここまで書き進めている本稿じたい、またあなたが読み進めている本稿これじたいは、どう考えても感情をゴールにするものとは思えません。つまり、これはLの人に共鳴を起こさないものとして書かれているはずです。それでもあなたはこれを読んでいるのですから、あなたは共鳴の物体としてはLの人かもしれませんが、それでもここにある素の人からの干渉をこそ正しいものだと、それをなんとかして受け取ろうとして苦心しているところです。共鳴の物体としてのあなたを撞(つ)いてゴーンと音を鳴らせば、どうしてもLの周波数が響き渡ります。あなたからはそういう周波数のものしか出ない。それはいまのところしょうがありません。それを、物体としての周波数ごと変えてしまうにはどうすればいいのか。どうすればいいという便利な方法はきっとありませんが、ここで徹底的に「L」の正体を暴ききることは、あなたにとって強力な対抗策になるはずです。そのために今回の話が書き進められ、またそのために今回の話があなたによって読み進められているということです。
手ぶらと空洞
素の人はいかにも「手ぶら」という印象があります。徒手空拳、持参してきているものがない。
素人なのだから当然とも言えます。これが玄人やプロなら、「腕に覚えがある」ということになりますが、素人の場合は腕に覚えなどありません。ですから素人は「手ぶら」です。玄人やプロは手ぶらではありません。
Lの人は手ぶらではなく、いろいろな持参物を持っています。「腕に覚えがある」だったり「身に覚えがある」だったり、あるいは自らが背負っている何かがある、つまり「自負がある」ということもあったりします。生後六か月の子供には何の自負もないでしょう。これが幼児であっても、かけっこで一等賞を獲れば、足には自信があるということになり、そういう「自負」を持つようになります。
素の人は「手ぶら」で、Lの人はいろいろ持っているということであれば、差し引きを考えるとLの人のほうがプラスなのでしょうか。手ぶらで遠足に行く子供よりは、上等な紅茶やお菓子を持っていく子供のほうが総量としては大きくなるというように。見かけ上のプラスマイナスは確かにそうなります。ですが本当にはそうなりません。
Lの人は確かにいろいろ「持っている」ことになりますが、そのぶん内部が空洞になります。対照的に、素の人は「手ぶら」で何も持っていないように見えますが、その内部に何かが確実にあるということになります。「内部が空洞」などというのは、まったく漠然とした頼りない言い方ですが、ひとまずはそのように知っておいてください。
「内部」とは何のことを言っているのでしょうか。まず初めに述べたツリー構造を思い出してください。
[あわれ]―┬―[万能感]―[うぬぼれ]
└―[みじめ]―[ひがみ]
われわれは誰しも「あわれなもの」として地上に生まれ落ちているのでした。それが認識・識別・分化・比較の業(カルマ)が解発されていくごとに、万能感になり、この万能感は劣等比較されると「みじめさ」に転じるということでした。そしてこの劣等感が耐えがたいほどつらいものなので、人はLを注入して万能感のほうへ転じようとします。
われわれはもともと「あわれなもの」として生まれ落ちているので、われわれのオリジナル、その原点は「あわれなもの」です。ですので、われわれはこの「あわれなもの」のまま物事を体験しないかぎり、自分の原点・中央に物事を体験できないことになります。素の人はこの「あわれなもの」たる己のところに帰ってきたので、物事の体験を己の中央のものとすることができますが、Lの人はそうはいきません。
仮に「あわれなもの」たる己がわれわれの0次の姿、万能感およびみじめさたる己がわれわれの一次の姿だとすると、Lの人はすべての体験を一次の層でキャッチすることになり、0次たる己のところにはまったく体験が届かないということになります。このことで、Lの人は「内部が空洞」というふうになっていくのです。それは、そう感じられるというだけでなく、真実としてLの人はその内部が空洞ということになっていきます。Lの人がどれだけ内省して、すべての体験を己の内部のものにしようとしても、その体験は己の「中央」には届きません。ですから、どれだけ内部を充実させたつもりでも、それは一次の層を充実させるだけで、「中央は空洞のままだ」ということになります。
誰でも好きな映画があり、好きな音楽があり、思い出の場所や、思い出に残っているシーン、感動した小説や、大切にしている写真や手紙などがあると思います。自分にとって友人といえば誰かというようなことや、本当に感謝している先輩や先生、あるいは尊敬している誰かというものもあると思います。
ところが、本当は内心では、すべてのそうしたことに首をかしげている人は少なくないのです。もっと単純な、「いちばん好きな食べものは何」とか、「いちばん記憶に残っている旅先ってどこ」とか、「自分がいちばん努力した瞬間っていつ」とか、そうしたことにさえ、ちゃんと答えられるものを持っていながら、その答えにみずから首をかしげているという人はまったく少なくありません。
なぜ当人が首をかしげているのでしょうか。それは、ひとつひとつのことについて、自分なりの答えを持っていたとしても、その答えが「自分の中央にはない」と感じられているからです。たとえば「これまでにいちばん感動した映画って何ですか」と訊かれて、正直に「うーん、やっぱり◯◯かな」と答えます。その答えはまったくウソではない。ウソを答える必要はまったくないのですから。ここで内心に迷える候補が二十も三十もあったとしても、そのときあえて「◯◯」と答えたことまで含めて、そのことにはやはりウソはありません。にもかかわらず、その二十でも三十でもありそうな答えが、正直なところ、
「どれもぜんぶ、自分の中央に届いているわけではないって感じる」
と思っているのです。
あるいはたとえば、
「大学受験のときはめっちゃ努力しましたね」
と言います、そのこともやはりウソではありません。ウソではまったくないのに、自分の答えに当人が内心で首をかしげています。内心で、
「確かにめっちゃ努力したけど、じっさいにはしぶしぶ努力を続けたということだから、手抜きはいくらでもしていたし、本当に全力出したのかと言われると、うーん」
と思っています。
それで、己の中央に届いた何かがあるのかというと、
「ひょっとしたらそんなものは何一つないかもしれない」
とも思えて、少し怖くなります。
それでいて一方で、
「でも、たとえば映画とかって、そんなに何というか、必死で観るものなの? ふつうに娯楽として観て、面白かった、ハッピーエンドでよかった、っていうだけでいいんじゃないの?」
とも思っています。
タイプとして、行動や文化性が「アクティブ」な人は、色んな問いかけに、むしろ鼻息荒く、勇んで答えたがるほどのこころあたりを持っていることがあります。好きな映画といえば「えーたくさんある、話が長くなるけどいい?」、尊敬している人は誰かといえば「あーそれってわたしにとってすごくたくさんいて、そういうのじつはめっちゃ話したいんだよね、いい?」と、そうした「持ち物」がたくさんある人もいます。旅先で思い出に残っているところはどこかと訊けば、気色ばんですべての写真アルバムを出して来、ひとつひとつを語り出してきりがないという人もいます。「◯◯って歌の、歌詞のこの部分、めっちゃ刺さると思わない? これマジ天才だと思う」と言って、そこから当該アーティストの音楽性や作品性について言い出したくてたまらないという人もいます。
そして、誰しも経験から知っているところだと思いますが、そうした人の話、当人としては熱烈で価値のある話が、聞かされている側としてはいまいち面白くなく、退屈、それどころか聞かされていて「しんどい」ということがしばしばあります。もちろん、たまたま「気が合う」「意見が合う」ときは、盛り上がってすごく楽しいという場合もありますが、それにしても盛り上がった翌日もまたその話が聞きたいとはふつう思わないものです。
そうして多数の、自分の思いや意見、感じたことや語りたいことを持っている人でも、それらの「持ち物」は当人の気分に持参されているだけであって、当人の中央にあるものではありません。当人のPRは外見上「充実している人」ですが、それは一次層や二次層の充実であって、その内部・中央はやはり空洞のままです。その話を聞かされている側は、けっきょく中央の空洞を聞かされているのが「しんどい」ということになります。ただし例外的に、聞く側も己の空洞を隠したい・忘れたいと焦って望んでいる場合は、積極的にその「持ち物」の話を無理やりでも聞いて自分を補いたいと求めることがあるかもしれませんが。
ここでAさんとBさんに、同時にこう訊いてみましょう、
「いままでに大恋愛ってしたことありますか」
するとAさんはこう言います、
「あー、おれってじつは、けっこう恋多き人だから、そっち系のエピソードは超あるんだよね。えー、マジどれのこと話せばいいんだろう? おれ恋愛系はけっこうピュアで、純愛しかできない人だから、若いころとか超純粋な恋愛とかしたことあるんだよね。われながらマジ泣けるような話ある! どうしよ、じゃあとりあえずさ、高校のときの話をしていい? そのあと、大学に入ってからの話のほうが、エロもあるからより恋愛っぽくはなるんだけど、それはちょっとあとで話すわ」
一方でBさんはこう言います、
「ない。あったかもしれないけれど、話せない。話せるわけがない」
この両者のうち、なぜか「話」が聞こえてくるのは、むしろBさんからのような気がします。Bさんはそれを話さない・話せないと言っているので、その内容は知りようがありませんが、Bさんにはきっと何かそういったこともあったのかもしれないということの気配が聞こえてきます。内容は知られなくてもそうした「話」があったのは聞こえてきます。どこに聞こえてくるのか、どこから聞こえてくるのかといえば、おそらくBさんの中央から聞こえてきてきて、こちらの中央に響いているのでしょう。
いっぽうAさんのほうは、訊かれたネタへ答えうる「持ち物」は豊富に持っているのですが、それらはすべてAさんの持ち物であって、Aさんの中央にあるものではありません。むしろAさんの中央はそのテーマについて空洞なのじゃないかと察せられます。あなたが女性だった場合、Aさんから一輪の花をもらうことと、Bさんから一輪の花をもらうことはまったく別の感触がすると思います。
中央に届いていないということで、本人は首をかしげていますし、本人にとってはじつは深刻な悩みになっている場合もあります。けれどもその当人として深刻なつもりでも、われわれは立ち止まってよく考えなくてはなりません。
「いろんな異性と交際してきたけれど、どれも、自分の中央に届いたってわけじゃないかな。すごく楽しいときもあったし、そのぶん、別れるときは悲しかったりもしたけど。うーん、まだそこまでの相手に出会っていないってこともあるのかもしれない。付き合った人、みんな好きは好きだったんだけど」
異性と交際していながら、その相手を己の中央に受け止めてはいないというのはどういうことでしょう。そうしたことはじっさいによくあることだと思われますが、それにしても、われわれは道義としてそのことに "平然" としていていいのでしょうか。当人としては恋愛交際について真剣に考えているつもりでいるようですが、客観的にはこの人はけっきょく自己憐憫しかしていない。そのことをわれわれは看過するべきではありません。この人の中央には幼稚な自己愛しかなく、誰のことも己の中央で受け止めようとしたことがない。そうすることで、自分だけ中央で傷つくということを避けてきているのでした。その意味では、この人は恋愛だけでなくすべてにおいて、人と付き合ったことなど一度もありません。
先の段で「Lは素を欺瞞する」と述べました。そのことに引き当てていうと、Lの人は内部が充実しているふうを装います。Lの人は、じつのところ自分の中央が空洞だということに焦りや劣等感を覚えているのですが、だからこそ逆に、自分の中央にはかくかくしかじかがあるということを強く演出して主張します。
中央が空洞だからこそ「いますっごく充実していてさ」と言いますし、「◯◯にハマっちゃってさあ」といつも大げさに言います。「××の文化とかすごい好きなんだよね」と言い出すと、やたらそのグッズなどを集めたりします。いろんなことに意識を高くすると、「△△って人の講演会に行ってきました、超おすすめです」というようなことを喧伝します。これらは残念ながら中央が空洞であることの裏返し、その焦りと一種のコンプレックスからの挙動にすぎません。Lの人が抱える「中央が空洞」という問題は、客観的に見ると軽薄な問題ですが、当人にとってはすごく苦しい、息の根を止められそうな切迫した問題ですので、当人の様相も見かけよりずっとのっぴきならないものになります。
自分の中央が空洞かもしれないと考えること、さらには「まさにそのとおりだ」と認めてゆこうとすることは、多大な精神的負担を伴います。容易にできることではありませんが、それでもLの人が素の人へ自らを帰らせようとするのであれば、どうしてもこれは必要なプロセスになります。このことじたいがプロセスの第一歩といっても過言ではありません。自分の中央が空洞というのは、思えばとても悲惨な気分になるかもしれませんが、そのときになってこのことを思い出してください。<<われわれは誰しもそうした「あわれなもの」として生まれ落ちたのではなかったでしたか>>。
あなたがLの人から素の人へと転じていこうとするとき、そして仮にそのことに成功し始めたとき、あなたはやがてこのように言い出すことになると思います。明るいといっても無理に明るくする調子のものではなく、むしろとまどい、恥ずかしさを覚えているらしいまなざしで、
「以前の自分のことが思い出せない。いつからか、たぶん◯◯のあたりから自分は本当に生まれなおしたような気がする。それ以前の自分って存在していない。そして、同じ契機を境目に、これまで執着していたものがまったくどうでもいいものになっていった。なぜむかしはそれに執着していたのか、その感覚ごといまとなっては思い出せない。あのときは何に必死になっていたのだろう。そしてあのころは、本当は何もかもがしんどかった」
あなたが素の人に帰ることができたら、きっとそのように言います。そして、自分の新しい体験のすべてが自分の中央に得られるものになり、中央が満ちることで、これまで振り回そうとしていた「持ち物」をいつのまにか手放していくことになります。持ち物の一切は、率直に言って「要らないし役に立たない」からです。手ぶらになって、そのときのあなたは笑っているでしょう。
答え合わせ
それでは答え合わせに移りましょう。ここまで長くお話してきましたが、主題は簡潔なままです。人は「あわれなもの」として生まれ落ちているということ。それが「あわれなもの」のままであり続ければわれわれは「素の人」ですが、ふつうそうはなりません。あわれさはやがて認識によって万能感とみじめさに振り分けられます。みじめさというのはとてもつらい感情で、とても耐えられるようなものではありませんから、なんとかして万能感のほうへ行けるようになろうとします。万能感のほうへいくためには美と能力が必要です。美と能力を得、万能感のほうへ移るためにLを注入します。ただし、Lを注入してもみじめさから脱出できないこともあり、その場合はLを意図的に腐敗させ、傲慢Lとして効かせます。またこのLは、失効するとSに変質します。Sは感情Sであり、その感情の成分は主に憤怒と悲嘆です。ただしSによって、そのときの感情はきわめて激しく、理性を逸脱して顔面を崩壊させるものになります。
Lの人はそうして美と能力に優れていきますが、この人が、素の人と接触するといろいろややこしいことが起こってきます。Lの人は素の人に負けるわけにいきません。負けられない競り合いの結果、けっきょくLの人は最強のエンジェルL、その原液を満量注入します。それによってLはほとんど「天使がちらつく」というほどのものになります。ほとんどの状況において、このことでLの人は安定と勝利を得ます。それほど「天使がちらつく」ということの威力は高いです。その威力は、Lの人たる当人をも欺瞞するということでした。Lの人はすべてのことを、自分の「素」でやっていると言い張ります。もしここでLの人と素の人がイーブンに対面し、Lの人が負けるようなことがあったらどうなるでしょう。さらにはLの人が素の人に「仕えなさい」ということにでもなったとしたら。Lの人はとても受容できずにすべてを転覆させようとする戦争を起こします。
答え合わせです。Lとは何なのでしょうか。原液なら天使がちらつくというほどの、それはよく知られた伝承に引き当てるなら天使「ルシファー/Lucifer」です。そのように信じなさいということではなく、そのように伝承を当てはめると今回の話が捉えやすくなるということです。そのように見てゆきましょう。
伝承において、ルシファーは天使です。ルシファーというと悪魔という印象が強いですが、ルシファーが悪魔になったのは堕天してからのことであって、それ以前は天使でした。それも天使の階級において一位の、美と能力(特に知力と伝承されます)の頂点にある天使でした。翼が他の天使の倍あり、そのうつくしさは「明けの明星」に例えられたといいます。
なぜ第一位の天使が堕天して悪魔になったのでしょうか。それはルシファーが神に戦争を仕掛けたからだと伝承されています。なぜルシファーはそれまで主としていた神に戦争を仕掛けたのでしょうか。それは神に命じられたことに不服で従えなかったからです。神はルシファーに何を命じたか。神はルシファーに、土くれから作ったアダムに「仕えなさい」と命じました。そのことはルシファーにとって受容しがたかったようです。何しろ自分は第一位の天使であって美と能力の頂点にいます。いっぽう、アダムはいかに神に似せられて作られたとはいえ、ただの土くれから作られた「人」です。どうして自分はこんなものに仕えねばならないのだということに納得がいかず、反旗を翻して神を否定する戦争を起こしました。けれども、ルシファーの力がいかに強大だとて神には及びようもなく、堕天して地獄の王となります。堕天したルシファーが地獄のサタンとなり、ルシファーとサタンは同一人物だというのが通説のようです。ルシファーはその謀叛によって「傲慢の王」となり、サタンはその抱え込んだ感情から「憤怒・感情の王」となりました。
この伝承されるストーリーにおいて、考えうる分岐点はひとつだけです。つまり、
「土くれのアダムは、美と能力の一等天使より、権威が上だったのだろうか?」
という一点です。
仮にわれわれが、この伝承されるとおりのものを目の前で見たらどのように判断するのでしょう。一方に土くれから作られたアダムという「人」がいて、一方に十二枚の翼をもった光り輝く天使、明けの明星のようなうつくしいそれがいるのです。どちらがどちらに「仕える」べきか。
もしあなたがその天使だったらどうでしょう。その翼で空にたたずみ光り輝く美のあなたは、土くれで作られた「人」などに仕えるという気にはならないのではないでしょうか。むしろ土くれのその人こそが自分をあがめて仕えるべきだと、われわれは考えるかもしれません。
ルシファーというのはそれほどうつくしく、能力のある天使でした。そこでこのように考えてみましょう。一般に言われているように、神学的にはそうした超越的存在に「帰依」することで、その権威なり神通力なりを借りる・分与してもらうことができ、つまりその恩恵を受けられるということであれば、あなたはルシファーに帰依すればどうなるでしょうか。それはきっと、美と能力を分け与えてもらえるでしょう。その権威をいくらか授けてもらえるでしょう。第一位の天使からその権威を授かったあなたは、それによって「天使かな」と言われるようになっておかしくありませんし、あなたの立ち振る舞いのことごとくに「天使がちらつく」ということがあっておかしくない。じっさいその恩恵を受けているのですから、じっさいに天使はちらついているということになります。
一方、アダムはただの土くれから作られた、あくまでただの「人」でしかありません。この時点ではまだ禁断の果実(善悪の知識の実)も食べていないのですから、認識や識別の能力さえ自分としては持っていなかったということになります。ですからアダムは「素の人」です。
ひいては、われわれの分岐点もひとつに収束してきます。Lの人は素の人に「仕える」べきなのかということです。あくまで伝承に重ねて思考実験しているだけにすぎませんので、ここでは演繹しうる分岐点について考えてみるという "遊び" をしているだけということを確認しておきます。
Lの人は「天使がちらつく」ほどですから、「素の人」に仕えるべきというふうにはとうてい思えません。それでも「仕えよ」と命じられることがあったら、Lの人は反旗を翻して戦争を起こすしかなくなります。Lは腐敗して傲慢Lになるでしょう。そしてもし、Lの人の権威が素の人のそれに敗北するようなことがあれば、Lの権威は失効してSになり――Lucifer は Satan になり――激しい憤怒と悲嘆の王となります。
われわれのこころはどのような仕組みなのでしょうか。また、われわれにこころとは異なる「魂」のようなものがあるとしたら、それはどういう仕組みのものなのでしょうか。そのことについて、にわかに知ったかぶりの神学を当てはめるのは浅はかなことに違いないでしょうが、一方でわれわれは、「解決するのならば何でもいい」という現実的な考え方も持っています。ここではその現実的な考え方のほうを採りましょう。一般教養にも知られている伝承についての、真偽や是非、信仰とそうでないものについては、どこかの専門的な人がちゃんと考えてくれるものとして、われわれはそんなたいそうなことを取り扱いたいわけではありません。聞きかじりの伝承が当てはまるよう、LやSといった記号を当てはめても、このことはわれわれの仕組みをおおいによく説明するところがあるということです。われわれは自分の祖先が永遠のエデンにいたアダムなのかどうかはよく知りませんが、そんなことまで問わなくても、われわれは直観的に「素の人」というのがありうることは知っています。われわれにおいてはそれで十分でしょう。
伝承に引き当てて考えると、われわれは「善悪の知識の実」を食べなければ、認識・識別・分化・比較というような機能を己のものとして持ちませんでした。しかしそれを食べてしまったからには、われわれの肉には生まれつきその機能が入ってしまっているということになります。なお伝承のストーリーでは、エデンにはもうひとつ禁止されていた木と果実があり、それは「命の木」とその果実だったということになるのですが、その命の果実へわれわれが向かうのかどうかについては、今回の話としては逸脱になりますので、ここではこれ以上に申し上げません。
ただ、われわれがその善悪の知識の実を食わなければ、われわれは自分たちについて万能感やみじめさを覚えることはなかったであろうということ、そして万能感やみじめさを持たないのであれば、ルシファーの権威を借りようとする発想もなかっただろうということです。伝承によれば、エデンでその果実を食べたときから、われわれは「素の人」ではなくなりました。あわれなものです。さらにそこからその咎によってエデンを追放されたという話ですから、ますますあわれなものでしょう。それで、あくまでこちら現実的なことを考える向きにおいては、われわれはそれでも「素の人」へ帰ることは不可能ではないということです。確かにわれわれの肉には認識・識別・分化・比較の機能が宿されていますが、かといってその機能からもたらされる認識を<<採用するとは限らない>>ということです。万能感も採用せず、みじめさも採用しない。そうしてひたすらずっと「あわれなもの」のまま居続けることだって出来るでしょう。われわれの肉体には、そうはさせじとする強烈な「実感」が襲いかかってくるのはむろんのこととして、それでも理論上は、それを採用するか否かはわれわれの主体性にのみ掛かっています。
「素の人」と、「エンジェルL」があります。けっきょくどちらの権威が上なのでしょうか。どちらがどちらに仕えるべきなのでしょうか。このことに関わっては戦争も起こります。エンジェルLが素の人に仕えるというのは、一般的な感覚・常識・価値観として理不尽のきわみですから、それは戦争も起こすでしょう。それは当然ですが……ここで逆に、もしエンジェルLがすんなり素の人に仕えることを選んだらどうなるのでしょうか。どうなるのかは誰も知りません。仮に知っていたとしても、つぶさにレポートするようなことではないでしょう。何かの利益によってそれを選ぶという話ではないのですから。ただ論理的には、伝承に基づけば、それはただ「神の御心に沿った」ということになります。神の御心に沿えばどのようなことになるのでしょうか。そんなことは誰も知りようがありませんが、一般教養に知られるていどから演繹すれば、その人たちは祝福と栄光を受けるはずです。それはルシファーの栄光ではなく神から授かる栄光です。
今回の話はその一点、素の人にはひょっとして「それ」があるのだろうか? というお話でした。あくまで現実的にわれわれが解決あるいは改善するのであればそれでよく、もとの伝承をどのように捉えるかについては、どのようでもいい、本質には関わらないことだと思います。
最後に、弾圧とフィクション
伝承のたぐいを軽んじることはできません。信仰にかかわってという以前に、社会的な事実として軽んじることができません。なぜなら、たとえばいまでもヨルダン川のほとりでずっと紛争が起こっていることは誰でも知っていますが、それらの紛争の出どころはけっきょくのところ、二千年前からある「ナザレのイエスなる人物は、自称するようにキリスト(救世主)だったのか否か」という問題から起こっているからです。二千年前にナザレのイエスなる人物は「救世主を僭称し、神を冒涜した、また人々を惑わせた」ということでユダヤ教のパリサイ派によって処刑されています。イスラム教ではナザレのイエスなる者は「ただの人」でしかありません。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、採用する伝承として旧約聖書を認めているのは同じです。そこまでは同じ伝承を採用しているのに、キリスト以降は三者の採用する伝承が異なるのでずっと「揉めている」という状態です。いわば二千年前に揉めだしたものが(イスラム教は七世紀ごろからですが)現在にも続いていると言っていいでしょう。伝承のたぐいを軽んじることなど事実としてできようがないということです。
そのことはわれわれの日本でも同じです。説明は不要だと思いますが、天皇家の存在は伝承に接続しており、そのことを軽んじるということは、大学生のディベートのテーマとしては気楽なものですが、じっさいにはそんなに軽薄に扱える問題ではありません。「ナムアミダブツ」と「ナンミョウホウレンゲキョウ」のあいだでさえ、同じ仏教なのに揉め事は起こりうるでしょう、これも採用する伝承にそれぞれのこだわりがあるからです。
もし伝承のたぐいをすべて軽んじるということであれば、われわれはすべての寺院や神社を即刻打ち壊してそこに公共施設でも建てなくてはならないことになりますが、じっさいにそんなことが今月中にできるでしょうか。伝承のたぐいは軽々に扱えないということがよくわかると思います。
では伝承のたぐいはどのように扱えばいいのでしょうか。それは、「そもそも扱わないほうがいい」というのがおよそ正解になると思います。われわれは伝承のたぐいから手を放しましょう。伝承のたぐいに直接触れることは避け、それをLだのSだの、「素の人」だのと言い表わすほうがよい。
そんな、LだのSだのと言っても、その話には権威がないじゃないかと言われそうですが、そこでわれわれは「そういうフィクションです」という言い方を通せばよいと思います。お手製の粗末なフィクションに過ぎないということであれば、くだらぬ児戯として誰からもお目こぼしがもらえるでしょう。先に述べたとおり、現実的にはわれわれの問題が解決なり改善なりすればそれだけでよいのですから、そのための用途としてはフィクションとしてのLやSでじゅうぶんです。
こうした理由から、あるいはさまざまな理由から、ここでは「フィクション」という語と捉え方を、わざとらしく強調して推奨しておきたいと思います。フィクションは何も「ウソ」や「作り話」ではないのですし、<<フィクションは「体験できる」のですから>>、それでじゅうぶん、あるいはそれ以上のものだろうということになります。
ひとつの矛盾を発見してください。それで今回のお話は終わりになります。
Lの人は「みじめさ」から始まっています。万能感とみじめさの往復に呻吟し、なるべく万能感に浸りたいからLを注入する。このとき、Lの人が怨嗟している「みじめさ」は、あくまで現実的なものです。フィクションではありません。ノンフィクションにおける「みじめさ」に苦しみ、それに特効があるものとしてLを注入します。それはそうでしょう、そもそも「みじめさ」がフィクションであれば当人がそんなに苦しむ由がありません。
一方で、「素の人」に栄光があるとしても、その栄光はフィクションです。ここまでに申し上げてきているように、「素の人」がプロボクサーと試合をしても勝てるわけがありませんし、「素の人」が証券会社でいきなりプロの業務ができるわけがありません。「素の人」がマダイの活けづくりに挑戦したところで玄人のそれに見栄えとして及ぶわけがありません。「素の人」は、ノンフィクションで設定された比較競争においてはこのように負けっぱなしです。負けっぱなしの人に栄光などあるわけがないですから、素の人の栄光というのはあくまでフィクションということになります。
栄光がフィクションでは何の意味もないでしょうか? そこで先に申し上げたように、ひとつの矛盾を発見してください。太陽に栄光はあるでしょうか。太陽は確かにわれわれの暮らしの要で、これがなくなれば地球まるごとが終わりですが、そのような人間の都合で太陽の栄光は決定しているでしょうか。仮に太陽がフレア爆発をしてわれわれを炎で焼き殺してしまったとして、そのとき太陽の栄光は否定されるのでしょうか。
視界のはるか向こうに霞む雄大な嶺の山々には栄光があるでしょうか。栄光がなければそれを「雄大」とは言えないはずです。夜の星空はわれわれに何の利益ももたらしていませんが、ノンフィクション上は無利益でも、それらの星々と夜空に栄光は見つからないでしょうか。夏の積乱雲がもたらす落雷とその雷鳴は、ノンフィクションとしてはただの騒がしさでしかありませんが、古代の人々に雷神を描かせたその稲光には権威がないでしょうか。
そもそもフィクションとノンフィクションの違いは何でしょうか。一般にフィクションというと「架空の、仮想の」と思われており、ノンフィクションというと「現実の」と思われていますが、この定義はまったく不正確です。われわれが地平線から現れる「日の出」の光とその偉容に栄光と権威を見つけるとしても、太陽そのものは現実に存在しており架空の存在ではありません。一方、たとえばノーベル賞の受賞者というと、ノンフィクションとして偉い人ですが、その人の体細胞のどこを調べたところで、体細胞からノーベル賞は検出できません。あくまでその人の経歴として受賞歴がつくだけです。そして宇宙のどこを探しても「経歴」というものの実物は見つかりません。ではノーベル賞の受賞歴は現実でなくフィクションなのでしょうか。そうではない、とわれわれは当然知っています。知っているのですが、それがなぜなのかという仕組みと理由はよくわかっていません。あるいは、地面のどこを探しても国境線にあたる土は見つからないのですが、では国境線はフィクションなのかというとそうではない。それどころか国境線はノンフィクションにおける最も重いもののひとつでさえあります。
本当には、ノンフィクションというのは、「われわれの認識機能で確かめられるもの」を指しています。いっぽうフィクションというのは、「われわれが直接体験するらしいもの」を指しています。われわれはノーベル賞の受賞者や国境線を「認識」の機能で確かめることができます。太陽という天体の存在も確かめることができますし、山々や星々の存在も「認識」の機能で確かめられます。このことをノンフィクションと呼んでいるにすぎません。
一方フィクションというのは、認識機能で確かめることはできないが、直接体験する "らしい" もののことです。なぜ「らしい」という言い方がくっついているかというと、やはり認識機能で「確かめる」ということができないからです。確かめることができないので、あくまで「らしい」としか表現できません。
われわれはたとえば、戦争映画を観たとき、その映画がロケなりスタジオセットなりで「撮影」されていることを知っています。映画は何もそのことを隠していません。映画に出演しているのは俳優たちであって兵士たちではない。そのことは認識機能で明瞭に確かめられます。
にもかかわらず、その映画が魂に及ぶものの場合、われわれはそこに戦争を体験する "らしい" のです。そのことは人によって違うでしょうし、どこまでも「確かめる」ということはできませんから、あくまで体験する "らしい" としか言えない。それにしても、その "らしい" がまったくの嘘っぱちなら、人々はこうまで映画を観るということをしないでしょう。
われわれにとって「認識機能で確かめる」というのは得意分野です。いっぽう、「直接体験するもの」については、得意分野ではないので、直接体験する "らしい" という言い方しかできません。
たとえば恋愛というようなものについては、どのようにして「認識機能で確かめる」でしょうか。それはたとえば、「わたしたち付き合っているんだよね?」というような確認と言質や、婚姻・入籍を登記簿上で認識することで確かめられます。定期的に入念な・安価ではないプレゼントを授受することも、恋愛を「認識機能で確かめる」ということに役立つかもしれません。無関心な人に対してはきっと、入念なプレゼントを定期的に怠らずするというようなことはしないはずでしょうから。
ですがそうしたことは、恋あいの「直接体験」ではないということを、誰でも前もって知っていると思います。もちろん、そうとは知っていても、その得意分野たる「認識機能で確かめる」ということのほうを重視するのだという人もいるでしょうし、「けっきょくその認識機能で確かめるということしか存在しない」と結論する人だっているでしょう。それでも、人はそれが本当には直接体験ではないということを知ってしまっている。人は寝ているあいだに夢を見ますが、その夢の中ではオバケだって出てきますし、自分が空を飛ぶことだってあります。寝ているあいだに自分の中央で起こる「夢」では、そうしていくらでも、認識機能で確かめることができないものを直接体験するということが起こる。認識機能では夢の存在はまったく確かめられないのに、われわれは確かにそれを直接体験します。そして「夢」が典型的にフィクションであるように、物事が直接体験されるということは性質じたいがフィクションなのです。だから恋あいだってそれを直接体験するためにはフィクションの機能で体験するしかありませんが、それはあまりにわれわれの得意分野ではないので、われわれはしだいに恋あいからは遠ざかってゆき、たいていは恋あいに対しては否定の結論に至り、「若いころの性ホルモンのはたらきにすぎない」というノンフィクションの主張を示すようになります。
Lの人と素の人のあいだには、常に戦争のリスクがあると述べました。そこで、Lの人が素の人に向けてくる、戦争未然の「弾圧」は、それが潜在的な圧力の段階にすぎなくても強大なものです。このことについて考えておいてください。先に述べたとおり、その弾圧は何もLの人にとっての本意でもなければ本懐でもありません。ただ、失効したLがすべてSに転じるという破滅の予感を回避するために、やむをえない急激な手当てとしてその弾圧が出現するというだけです。それはすさまじい圧力です。素の人を志向する者はこのときどう対処せねばならないか。覚えておきましょう、「フィクションです」と言うのです。Lの人は自分の中央が空洞であることに焦りと劣等感を持っています。それらのすべても「フィクションです」という一言で鎮静させることができます。それぐらい「フィクション」はあなどられているということです。その、あなどられているところを逆手に取りましょう。
Lの人は「ノンフィクションの人」です。ノンフィクションのみじめさからLを注入しているのですから、それはノンフィクションの人に決まっています。素の人は「フィクションの人」です。素の人は手ぶらで、己の中央で物事を体験することしかしないので、その直接体験はすべてフィクションの機能に属します。そして、素の人の栄光とは、その直接体験する "らしい" すべてのことを指します。太陽なら太陽を、山々なら山々を、星空なら星空を、稲光なら稲光を、直接体験する "らしい" 。映画だって直接体験する "らしい" 。そのことじたいがすべて栄光であり、この栄光は、そもそもノンフィクションの人であるLの人と噛み合いません。その噛み合わないということを良しとしてください。噛み合わせようとすると戦争が起こります。同じ盤上にあるなら互いに入玉することがあるかもしれませんが、フィクションとノンフィクション、違う盤上なので互いに入玉するということは起こらないでしょう。双方のあいだには何も伝わらなくていいのです。素の人はフィクションを、Lの人はノンフィクションを、それぞれ存分にやればいい。
それでもなお、双方を噛み合わせたいと望み、しかも戦争にならないように噛み合わせようとするなら、それはもう、Lの人がフィクションの人に転じるしかありません。けれどもそのことはたいてい、これまでに注入したLの質量において不可能です。これまでLに帰依していたものが、いきなり気分しだいで転属というわけにはなかなかいかない。もしそれでも、Lの人がフィクションの人に転じるということがありうるとすれば、ほとんど唯一の可能性はきっと、Lの人が素の人に「仕える」ということだと思います。これまでけっきょくエンジェルLに仕えてその恩恵にあずかっていた人が、仕える先を変えたならば、それは確かに転属することになるでしょう。裏切られたLからの強烈な報復もとうぜん想定されますが、いちおう原理的には、素の人が所属している栄光のほうが権威において勝つはずです。<<「おいで」と言われたチャンスをなるべく逃さないようにしてください>>。
以上、今回は「素の人と、エンジェルL」についてお話ししました。
[素の人と、エンジェルL/了]