No.423 こころはそんなふうには動かない
わたしが初めて社会人になったころ、つまり二十年ほど前、わたしが初めての職場で感じたことは、人々に「こころがない」ということだった。
社会人ぶる人たちは、「それが大人だから」みたいな言いようをするが、そうしてたいした根拠もなく、漠然と厳しいふりをするのはいかがなものだろう。
厳しいことを平然と言ってよいなら、こころがないまま就労を続けて加齢を重ねていくばかりのあなたたちは、ただのひどい負け犬だとも言えてしまう。
そうしてのっぴきならないことを言われたとき、ニヒルに失笑したふりをするという、安っぽい芝居に逃げるのもいいかげんにやめるべきではないか。
どうせあぶく銭が百億でも入ったら、すぐに仕事なんかやめてしまうくせに。
わたしは正直なところ、こころをもって仕事をしている人を尊敬する。
こころをもって生きることができ、こころをもって仕事することができている人は、単純に言って成功者だと思う。
日々、いろんな患者を救うために技術と叡智を振るっている医者は、あぶく銭が入ったからといって毎日の診療をやめたりしないだろうし、「この地区に清潔な水と、安定した電力を供給するんだ」という開発事業をしている人は、やはりあぶく銭か入ったからといってその事業を投げ出さないだろう。
もっと単純なことでもいい。どうしても自分の手で最新鋭のロボットを作りたかったり、どうしても自分の設計でおおきなビルを建てたかったりする、そういう単純な夢だってあるはずだ。
その夢は、ほかならぬその人のこころそのものと言って差し支えないだろう。
わたしはそうして、こころをもって生きている人を尊敬する。あるいは尊重しているというべきか、さらには尊崇しているというべきか。
こころがないまま業務をこなしているだけの人を、わざわざ「社会人」という "悪口" で呼称しているような向きがあると思う。
社会人は、厳しいことを言うのが好きらしいから、それに向けて厳しく言うが、夢もこころも持てなかったということは、けっきょくそこまで有能ではなかったということにすぎないだろう。
真に有能な人は、夢もこころも持ったまま大きな業績を為したはずだ。
そんなことできないという人は、別に仕事にシビアということではなく、単にそこまでの能力はなかったというだけだ。
もちろん、生まれつきひどい持病を持っていたり、生まれた国がずっと紛争状態だったりで、もはや個人の能力ではどうにもできないという状況だってありうるだろう。
だが、だからといって何だというのだ。
社会人というのは、世界でいちばん言い訳に満ちている人種に思える。
社会人は、厳しいことを言うのが好きだから、おれも厳しいことを言うが、どうあがいても人の生きる時間というのは一回かぎりで、過ぎた時間は二度と戻ってこない。
ニヒルで意味ありげな失笑を演じているうちに、一生は過ぎていってしまうのだ。一度きりの人生であって、二度目はない。二〇二四年の一一月二日を二回生きられる人は存在しない。
わたしがそうした「社会人」の一員になったとき、はじめに感じたのは、正直なところ「こころがない」だった。
そのときのわたしは立場的に新人の青二才なので、すべて社会人とは「そういうものか」と受け容れ、学び取るしかなかったのだが、けっきょくのところ彼らが言い張る社会人のマインドというのはただのウソだと思う。
ただのウソじゃねえか。
「意地」みたいなものが出てくるのはわかるが、それも単に「こじらせているだけ」ということがほとんどだ。
わたしは二十年ほど前の話をしている。
わたしが見た「社会人」に、こころはなかった。
それで、いまになって捉えなおすなら、こころはないのに「メンタル」はあったのだ。
そのことに当時のわたしは強い違和感を覚えた。
先に述べたように、当時のわたしは若年者として何もかも学び取るしかなかったので、いちいちそのような構造的な捉え方をしている余裕はなかったのだけれど。
こころはないのにメンタルはある。
あるいは、こころがないからメンタルがあるのではないだろうか。
たとえば、わたしがずっと昔に飼っていた愛犬にはこころがあった。当たり前だ。
そして、わたしの飼っていた愛犬に、「メンタル」があったという覚えはない。
たとえば次のような詩文の一節がある(高野喜久雄)、
写した空の 青さのように/澄もう と苦しむ 小さなこころ
写した空の 高さのままに/在ろう と苦しむ 小さなこころ
ここにある「こころ」を「メンタル」に言い換えることはできない。
わたしはどこかの映像で見た、ムツゴロウこと畑正憲さんの怒鳴り声を思い出す。
若造を叱りつける容赦のない怒声で、
「動物にだって、こころがあるんだよ!」
わたしは映像からその声を聞いたときに一種のショックを受けた。わたしにとって、動物にこころがあるのはあまりにも当たり前のことだったからだ。
けれども、「こころがある」ということ、それについて本当に直接の確信を持っている人は、そんなに多くないのだ。
一時期「こころの教育」といういかにも苦しいスローガンを唱えていた文科省の人たちはまだ元気に生きているだろうか。
動物にはこころがある。わたしはその直接の体験をじゅうぶんに持っており、誰がなんと言おうと疑いを持つことがない確信を得ている。
確信、なんてものが必要ないぐらいにだ。
確信という機能よりさらに真ん中に「こころ」があるので、確信などというものでこころの確かさを保障することはできない。
わたしはここで、自分の飼っていた愛犬のこころを話すことはできない。なぜならそのこころはわたしにだけ向けられたものだからだ。あの愛犬が、わたしに「だけ」それを許して向けたものだからだ。
説明ていどはしてもかまわないのだろうが、それにしても、わたしは愛犬に向けられた無数のこころを、死ぬまで、あるいは死んでからも未来永劫、わたしだけが抱えて持ち続ける。当たり前だ。
わたしが愛犬に向けたこころを、あの愛犬だけは知っているし、あの愛犬がわたしに向けたこころを、わたしだけが知っている。
だからここで説明するのには、もう少し話しやすい例を出そう。わたしの祖父が飼っていた犬は、昭和の当時のころだから放し飼いで、気質がとてもやんちゃだったので、呼んでもまず家に帰ってこなかった。
しかし、わたしが呼ぶとたちまち帰ってきた。そのことは親族たちも不思議がっていたが、不思議なようでいて、見るからに当たり前だという感じもした。当時わたしはまだ幼児とか児童とかいう年齢だった。
なぜわたしが呼ぶとその犬はたちまち帰ってくるのか。それは、その犬がわたしのことを信頼していたからだ。こころが通じ合っていた。こころが通じ合っていたので、その犬はわたしのこころを裏切らなかった。こころが通じ合っていたので、呼びかけたら通じているというのが同時にわかっていた。だから「帰ってくるかな?」という疑問はなかった。通じているのだから帰ってくるに決まっている。
そしてその犬がわたしの呼びかけに応じて帰ってきたのは、特に、親族の前で幼いわたしに恥をかかせたくなかったからでもあった。そういう男気のある犬だった。わたしとその犬は友人だった。友人として、その犬はわたしに恥をかかせることは決してしなかったのだった。
すべての人が、そうした本当の「こころ」を体験できるわけではない。
そしてそのことは、いささか無念であっても、恥じるようなことではない。
本当にこころが通じていることの切なさ、そのこころの震えに、誰しもが耐えられるわけではない。
こころが通じ合っていても、生きものはやがて死ぬし、別れなくてはならないときがくるのだ。
これ以上のことはやはり話せない。
一般化してのみ説明するなら、お別れのときがきたというこころを、ふたりのこころだけが通じて共有するとなったら。痛みと苦しみと悲しさが通じ合い、でも同時に「もう楽になりたい」というこころも通じてくる。
胸が張り裂けそうになる。
それはある意味、もう考えたくもないというほどのこころのつながりだ。
一般化された用語では「ペットロス」なんて言い方をする。一般的にはじつにその言い方でよいと思う。
それ以上のことを直撃で体験したら、本当に耐えられないという人はいくらでもいる。
当時、幼児か児童というような年齢のわたしが、「ペットロス」という言いようを聞いたら、容赦なく鼻で笑ったとは思うけれど。
幼いわたしでも、ひとりで抱えて震えて眠るということぐらいは知っていた。
愛と感謝と、切なさと悲しみとで、際限なく震え続けるのだ。
愛と感謝と、感謝と、感謝と、感謝と、感謝だ。際限なく震え続けてしまう。
そこまでこころの張り裂ける体験をすると、ふつうこころが損傷してしまう。
こころを保つことができなくなり、むしろこころを失ってしまう。
なぜ幼いわたしが生意気にも「こころ」を保つことができたのか。
それは、そのこころを愛犬たちからもらったからだ。
勝手に砕け散っているわけにはいかなかった。
それはいまもそうだ。
わたしは言うほど、幼かったころのわたしから変動していない。
こころが通じ合うというのは切なくて苦しいことだ。
メンタルとかふざけたこと言ってんじゃねえよ殺すぞ、と言いたくなる。
わたしはある金持ちの知人の家に行ったとき、庭に放し飼いにされていたドーベルマンと仲良くなった。
金持ちの家族は、上品な人たちだったので、ドーベルマンとプロレスごっこをするような荒っぽさはなかった。
わたしは金持ちたちとのあいさつもそこそこに、ずいぶんそのドーベルマンと遊んだ。
そして帰り際、わたしは悲痛な声を聞いた。
でかい屋敷の庭から、つんざくような犬の声が響いた。
「帰らないで!」
金持ちの家族が初めて聞いた声だった。
それは、初めて聞いた声なのに、誰もが一瞬で青ざめ、すべてを聞き取った。
「呼び止めているわ」
こころが通じるというのはどういうことだろうか?
これを読んでいる愛犬家のみなさんは、最大限、愛すべきあなたの犬にやさしくしてやってください。いっぱい遊んで、いっぱい理解してやってください。
そのあとあなたのこころが張り裂けて立ち直れないかもしれませんが。
あなたはあなたの友人に、あるいは接するすべての人に、なるべくやさしくしよう。人と人とは、さまざまないさかいも持つから、せいぜい「できるかぎり」しかやさしくできないけれども。
それでも、できるかぎりやさしくするしかない。
できるかぎりそうしようとした、そのことにうそ偽りがないなら、あなたは立派に誰かにとっての友人です。
こころが通じるというのはどういうことだろうか。ここでは少なくとも、それはメンタルなどというふざけたものとは根本的に異なるということがわかる。
にもかかわらず、現代のわれわれを支配しているのはほとんどが「メンタル」だ。
じつにくだらないことで、わたしはこのことをずいぶん研究してきた。
わたしはいま二十年以上前の話をしているのだから、二十年以上そのことを研究してきたということになる。
学門として発見されたことについては、ここに端的に開示しておこう。何も隠すようなことではない。開示できるようにわたしはこのことを学門で捉えようとしたのだから。
まず、こころというのは魂に向かう。(こころの真ん中が魂に向かう)
魂に向かっていないと「こころ」ではなくなる。
魂に向かっていると「こころ」が生じ、このこころに触れると、人は愛したり信じたりする。
そうして愛したり信じたりということが起こっているとき、周辺には聖霊とか祝福とか、福音とか「話」とか呼ぶべき、形容不能の事象が現れる。
そのとき聖霊と祝福と福音と話に包まれていると言ってよい。
聖霊の庇護と共に「こころ」があると考えてよい。
魂に向かっている誰かがいて、その誰かを人々が愛したり信じたりするとき、何もわざとらしくはない聖霊と祝福がひしめく。
立ち込める光に物理的な圧力があるかのごとくに錯覚さえする。
こころがあるとかないとかいうのはどういうことか。
誰だって、褒められたらうぬぼれるし、悪口を言われたらひがむので、誰にだってこころはあるように錯覚する。
しかし気持ちや感情が発生するということは、こころがあるということと同義ではない。
このことは例え話で示す。たとえばクリスマスツリーの部品が無数にあったとする。もみの木も含め、部品はすべて床にぶちまけられている。この状態でクリスマスツリーが「ある」とは言わない。
無数の気持ち・感情が床にぶちまけられていたとしても、その状態を「こころがある」とは言わないのだ。
無数の部品があり、それらが一点、クリスマスツリーの場合はベツレヘムの星に向かっている。すべての部品が魂たる星の一点に向かって組みあがる。このとき「クリスマスツリーがある」という状態になる。
このクリスマスツリーが砕け散り、それぞれ断片化して燃え盛っている状態を、「こころがある」とは言わない。それはむしろこころを失った状態だ。
どれだけ壮麗で美的な部品を集め、各所を強力な接着剤で固めたとしても、すべての部品がベツレヘムの星に向かっていないなら、それはクリスマスツリーではない。ただの「インスタ映えモニュメント」だ。
気持ちとか感情とかメンタルとかが「こころ」なのではない。
こころが通じ合うというのは、もっと切なくて、もっと苦しく、もっと張り裂けそうになるものだ。愛と感謝で。
何者かの庇護がなければ到底耐えられない。
だからか、「こころ」が真に成り立つとき、本当に通じ合ってしまうとき、物理的に圧力がありそうなほどの光が立ち込め、何者かがわれわれのこころを庇護してくれる。
誰も彼もがそうした「こころ」の体験を得てきているわけではないということは、これでいいかげんわかるだろう。
何も恥じるようなことではない。
何しろ、そうした「こころ」の現象は、全体としてはもうここ十数年で完全に失われてしまっているのだ。
若年者はそうした体験がなくてむしろ当たり前だ。
何度も言うが恥じるようなことじゃない。
かといってやはり、ないがしろにするべきことでもないのだ。
仮に自分がそれにまみえることがなかったとしても、なおないがしろにするべきではない。
気持ちが荒れ、メンタルが病み、感情が煮えたぎるのは、こころが失われているからだ。
気持ちがはしゃぎ、メンタルが浮かれ、感情が調子づくのも、こころが失われているからだ。
たとえ「こころ」にまみえることがなかったとしても、やはり「こころ」が正しい。
わたしはこれまで少なからず、人にこころを与えてきた。
こころを与えてはきたが、現代の環境下で、人がこころを保つということはきわめて困難だった。状況によっては現実的に不可能だった。
与えられたこころを、保つことができなければ、どうなるか。
クリスマスツリーが砕けるわけだ。
断片化した気持ちが拍動し、メンタルが慟哭し、感情が鳴動する。
それはどこまでも、正しくはない。
わたしは二十年以上もこのことを研究してきている。
わたしはこの現象をかなりのていど看破し、すでにじゅうぶんというほどの結論を得ている。
ただし結論は得ていても方法論は成り立たない。
方法論で気持ちを落ち着かせ、メンタルを優位にし、感情を満悦させるというようなことは、取り組みとして「こころ」の真逆にあるからだ。
禅やマインドフルネスのようなことも、否定はしないが、根本的な期待はあまりしないほうがいいと申し上げておく。やめたほうがいいなんてまったく言わないが、過度にアテにはしないことだ。
わたしの言いようはいちいちひどいかもしれないし、世の中にはもっと癒しに満ちた言いようをしてくれる人があるかもしれない。
だがあなたがここで考えるべきことは一点、ここで何かを宣(のたま)っている奴が、あなたから見てこころがあるか否かという一点だ。
***
わたしは二十年前、「ファイナルファンタジー10」というロールプレイングゲームをやった。ナンバリングはギリシャ数字で書かれるから、一般的な表記は「FF−X」となっている。
有名なゲームなので、おぼろげに記憶している人も多いだろう。そうした人たちの記憶を呼び覚ますために、関連する語を列挙するなら、ティーダ、ユウナ、アーロン、ワッカ、ルールー、キマリ、リュックだ。あるいはビサイド村、ルカ、ミヘン街道、ジョゼ、幻光河、雷平原、マカラーニャ、ガガゼト、ザナルカンド。「試練の間」「エボンのたまもの」「アルベド」「トリガーコマンド」「オーバードライブ技」「究極召喚」。いわゆる既プレイの方は、これらの用語でなんとなく全体を思い出すだろう。
わたしは当作の、じゅうぶんなファンの一人だと言える。そのていどは、スフィア盤をコンプリートしてデアリヒターをちゃんと倒したと言えばじゅうぶんだろうし、「いえゆい」から始まる祈りの歌を口ずさんでしまうことがあると言えばそれもじゅうぶんだろう。
そうした一ファンの実績の上で申し上げるのだが、わたしは二十年前、はじめて当作をプレイしたときに大きな違和感を覚えた。わたしはそのときの体験をいまも克明に覚えているが、わたしはたしかにこう思ったのだ、
「こころはそんなふうには動かない」
そしていまでもそのように思っている。
こんな話をされても、当作をよく知らない人には何も通じないだろう。けれどもわたしはあえて、ここでこのことについての話を無理やり押し込んでおきたい。なぜならこれは、わたしが記憶するはっきりとした分岐点、「話が壊れている」ということの始まりをはっきりと看取した初めての体験だったからだ。
同時期にはきっと、「新世紀エヴァンゲリオン」もすでにじゅうぶん流行していて、そちらのほうにはもっと早く、わたしの言うところの「話が壊れている」が現れていたのだと思うが、わたしは当時そのアニメを視聴しなかったので、それについて当時のこととして言及することができない。
つまりわたしの個人的な体験に限って言うなら、
「FF−Xからおかしい」
のだ。
もう二十年も前の話だ。わたしは話題になった当作をプレイしながら、しきりに「おかしい」と首をかしげていた。
このころがちょうど、人々が「こころ」を失うことの始まりの時期だったのだと思う。
そして、人々がこころを失いはじめ、人々がこころを失いはじめていたからこそ、話の壊れている ?メンタル劇場? が作品として大ヒットしたのだと思う。
ついでに、どうせわかりっこない話をいくつか押し込んでおいてやる。わたしがイース?をクリアしたとき、盗賊ゴーバンが言ったことばはわたしのこころに深く響いた。
「アドル。魔法ってのは不思議なもんだな。魔法は、俺達の生活をより素晴らしくするために生み出されたはずなのに、いつの間にか、逆に、魔法に支配されてた。自分達の作り出したものに、自ら滅ぼされるなんて、こんな情けないことはねえもんな。」
フィーナという女の子との別れは、そのときの音楽と重なって、わたしのこころはまさに張り裂けそうになった。
ファミコン版の「オホーツクに消ゆ」で、はじめて「おくむらのいえ」に行ったとき、そのグラフィックに思わず「うわああああ」と声が出てしまった。
それはいいとして、エンディングでは、ボスは「しんみり」しちゃうわけだ。それはもう、当時のわたし自身、しんみりという以上のものを胸に抱えて苦しんだ。
メタルギアソリッド?は、登場人物もセリフもめちゃくちゃだが、なぜかめちゃくちゃなままのこころがあった。
そんなことはいくらでもある。
「こころ」があるものは、かつていくらでもあった。いくらでもあるのに、なぜかそれは希少で、それ以前にそれがこころであるゆえに、軽々に扱いたくないので話には取り上げづらい。
それが、「FF−Xからおかしい」のだ。
こっち方面の人はよく知っているだろう。じっさい、その後FF12では本当に登場人物らが「よくわからない」ものになり、FF13では「さっぱりわけがわからない」ものになった。そしてFF15や16というと「もうやっていない」という人がすごく多いはずだ。
FF−Xからおかしい。
わたしは当時、時代の流れだからしょうがないのだろうと、首をかしげながらも見過ごしてきたが、やはりこのことにごまかしは利かなかったのだ。
あのときからおかしく、そしておかしくなったものは拡大して、そのまま現代につながっている。
FF−Xの何がおかしいか。まず、アーロンが旅の構造を秘密にし続けることに無理がある。
(プレイしたことがない人にはまったくわからない話だ、申し訳ない)
「ガード」の一行が、ティーダにだけ召喚士の行く末を話さないことにも無理がありすぎる。
あるいはガードの一行がそれを隠したって、周囲の人がポロッと漏らしてしまうはずだ。
特に、ユウナを救出するために鉄橋を滑降していくとき、いくら爽快感があったとして、そんなときに人は爽快感にほほえんだりしない。
ユウナがスフィアに「好きっ」と記録しているのも無理やり当時の女子大生みたいで気色が悪い。
そもそも人は追い詰められたときに「わー!」なんて言わない。
「オレの物語だ!」みたいな言いようも素っ頓狂だ。
こころはそんなふうには動かない。
ついでに、エボン=ジュは最後にティーダに乗り移らないと話がおかしい。
つまり、わたしは明言しておくが、
「キャラの気持ち」を設定しているだけで、こころはそんなふうには動かない。
「エモさ」を先立たせていて、「話」は本当には成り立っていない。
いつからか、人々は「キャラの気持ち」に肩入れするようになり、こころがどう動くかというのは視えなくなったのだ。
だから、こころが動いていないシーンでも、人は感動するようになった。
その感動は、本当には感動ではなく、「エモ」で勝手に情感を昂らせているだけだ。
何度でも断言しよう、「こころはそんなふうには動かない」。
「こころ」がどんなふうに存在するか、その「こころ」はどういうふうに動くか、それを知っている人は本当はとても少ないのだ。
現代人は「人のこころ」を知らず、「キャラの気持ち」という観点で実生活をしている。
たしかにそれで一部、人のことがわかる部分もある。あの人はけっきょくチヤホヤされたいんだよねとか、あの人は卑屈なんだよねとか、あの人はマウント取らないと人と話せないのよねとか、あの人は潔癖症ですぐイライラするのよねとか、そういうことは「キャラ」の観点からでも表面的には理解することができる。
だがそんなことで、こころを持って生きているとは言えない。
こころを持って生きていないとどうなる。
どうなるかわかったものではないので、われわれは「メンタルが」と言い出す。
FF−Xの大ヒットは、創りこまれたゲーム性と映像・音声の品質から生まれたことは間違いない。
だがFF−Xの文化的な大ヒットは、むしろ人々が「こころ」をわからなくなったことに対する補償として生まれている。
二十年前、わたしは「おかしい」と、ずっと首を傾げながらプレイしていた。
FF−Xが好きな人は、キャラクターたちの珍道中と、ティーダとワッカの "口調" 、「世界一ピュアなキス」「知らなかったのは俺だけかよ!」が好きなはずだ。
あえて強調するなら、「好き」なのだ、成り立っていようがいまいが「好き」なんですと、当作のファンは言うに違いない。
こうして人々は「こころ」がわからなくなっていった。
二十年前のあのときから、それは見過ごせることではなかったのだ。
そしてわたしはいまも、それ以前に人々の「こころ」はどのようであったかを記憶しており、それじたいをいまも保持し続けている。
***
映画「ラ・ラ・ランド」のオープニングは有名だ。
そしてあのオープニングには、違和感を覚える人がいるだろうし、一方、「好き」と感じる人もいるだろう。
きわめて乱暴に言うと、FF−Xを放ったらかしにしておくと、やがてラ・ラ・ランドになる。
ラ・ラ・ランドの反対にあるものは何だろうか。
たとえば初代「ランボー」などがそれにあたる。
ランボーは最後、慟哭して戦士の真相を語り尽くす。
それを、トラウトマン大佐が横に立って聞いている。
すさまじいシーンだ。演技の領域を超え、男の叫びが男のこころへ直接流入している。
ラ・ラ・ランドが好きな人は、ランボーがよくわからないはずだ。
いいかげん、こころがわかるふりはやめろ。
わたしはもうこれ以上、このことで人を追い詰めたくないのだ。
FF−Xのセリフと挙動を、ぜんぶリメイクしてみるか。
このとき人のこころはどう動き、何を言い、どう振る舞うか。
おれの隣であなたも台本を作成するか。そんなことさせられたくないだろう。
こころがどのように存在し、こころがどのように動くものか、じつはよくわかっていないのだ。
じつはよくわかっていないのですと、素直なままでいなさい。
何も恥じることはない。
現在、人々はそれぞれ、どのような割合でいるか、数値化はできないけれども、いかにも次のようなパターンで存在しうるという指標を示しておこう。
Aさんは、ラ・ラ・ランドが好きだ。一方、ランボーのクライマックスでは、正直「えっこの人どうしたの?」と、失笑と知りつつ半笑いの気持ちが起こる。「まあ、つらかったんでしょうね」とは理解しているが、どうしようもなく冷血だ。
Bさんは、ラ・ラ・ランドに違和感を覚え、一方、ランボーのクライマックスでは胸が苦しくなる。けれども、両方ともよくわかっていない。ラ・ラ・ランドのオープニングは「楽しそうではある」と思っており、ランボーのクライマックスは「泣きそう、かわいそう」と動揺する。けれどもどちらもよくわかっていない。
Cさんは、ラ・ラ・ランドを見て「なんじゃこりゃ」と思い、ランボーのクライマックスは「これはつらい、ものすごいトラウマがあるんだ」と嘆く。だが同情的な思念とは裏腹に、Cさんはランボーのこころに通じてそばに立つことはできない。善意と思いやりを向けようとはするが、ランボーの痛みと同じところには立てず、距離を取って不躾(ぶしつけ)に見物している。
Dさんはランボーの眼差しを正面から受け止められると思っている。けれどもDさんはランボーの感情に便乗して自己の感情を高めるだけで、その陶酔傾向を自分で「こころがある」と思い込んでいる。ラ・ラ・ランドに否定的だが、同じようなどんちゃん騒ぎに誘われて仲間あつかいされるとコロッと篭絡され、感情を高めて楽しがるだろう。
だいたいこんな感じだ。
わたしは否定的な何かが言いたいのではない。
はっきりとわかるように、決定的な事実を述べよう。
「こころ」があり、「こころ」がどう動くかわかるというなら、「ランボー」を撮ってみろ。
イーストウッドやトムクルーズを使うのは禁止だ。
二十一世紀の俳優を使え、それでランボーを撮ってみろ。
撮れないだろう。
わたしは厭味を言っているのではない。当のハリウッドがそのことの無念で苦しんでいるのだ。
日本には若くて演技の上手な声優がごろごろいるんだろう。
じゃあ、彼らに声劇でランボーをやらせてみろ。
できないだろう。
わたしは意地悪を言っているのではない。
わたしは二十年かけて研究してきたのだ。
この二十年間で決定的に「こころ」が失われてきたという事実を報告しているのだ。
あなたの気持ちはわかる。
あなたのメンタルは努力している。
あなたの感情はため息をついて切実だ。
それはわかっている。
しかしいま述べている主題はそれではない。
わたしがあなたの気持ちをわからない、のではなく、あなたがわたしのこころをわからないのだ。
わたしはそのことでこれ以上、人を追い詰めたくない。
「こころ」があるか、「こころ」がわかっているかを、どう実験すればどうあぶりだせるか、ということまでわたしはすでに知り抜いている。
だがそんな悪趣味がわたしの本意であるわけがない。無意味なことだ。
わたしが初めて社会人になったころ、つまり二十年ほど前、わたしが初めての職場で感じたことは、人々に「こころがない」ということだった。
こころがない人は、どう取り繕っても、生きていて自信のある人にはなれない。
どんどんジジくさくなり、どんどんババくさくなるが、中身はガキのままだ。
わたしはなるべく、若い人に向けては、年長者として「こころ」を与えるようにしてきた。
他ならぬわたし自身、かつて先人たちにそのようにしてもらったのだから、わたしもそのことをおざなりにはできなかった。
結果、きっとわたしは、多くの人にいくらかこころを持たせることができたと思う。
けれどもこんにちの状況において、その持たせたこころはなかなか保持されない。
わたしが人に与えたこころは、数日もまたず分解されてしまう。
気持ちとメンタルと感情に分解されてしまう。
数日どころか、数分、あるいは数秒で、その分解は起こってしまう。
「メンタル」が正しいと思っているからだろう。
ランボーが慟哭しながら話したこころが、数秒ごとに分解されてしまってよいものだろうか。
それを「メンタル」だと言い張るのか。
こころが通じ合うということはじっさいにある。
その切なさを、苦しさを、愛と感謝で受け止めずに、気持ちとメンタルと感情に分解してしまってよいか。
よいわけがない。
けれども、自動的にそうなってしまうよりない。それぐらい、現代のわれわれは「こころ」から遠ざかってしまった。
目的は、あなた自身が堂々と、
「こころはそんなふうには動かない」
と言えるようになること。
こころはどんなふうに動くか、堂々と示せるようになること。
こころの仕組みについてもう一度述べておく。
こころは魂に向かうものだ。
こころの真ん中が魂に向かうとき、「こころがある」という状態になる。
こころの真ん中が魂に向かうとき、なぜかそのはるかな魂の真ん中にも、誰のものとも言えない普遍のこころがあるのだ。
そうして、人々のうち誰かに「こころ」が生じたとき、人々はそのこころの主を愛し、信じるということがある。
そうしたとき、人々は聖霊やら祝福やら福音やらと言うしかないような、光の加護の中にいる。
その光はまるで物理的な圧力を伴っているかのごとくにひしめく。
この庇護の中で、なんとかこころが通じ合うということの切なさと苦しさを引き受けることができる。
こんにち、さまざまなコンテンツと表現が、無聊のなぐさめとしてわれわれの周囲を取り巻いている。
われわれは正直なところ、それらに聖霊の加護はないと感じている。
キャラクターの気持ちを演出され、それを観ているとメンタルが揺さぶられ、感情が昂る。
しかしよく見ると、キャラクターにこころはなく、話は本当には成り立っていない。
キャラクターの振る舞い、発言、そればかり理解できるようになり、そのことは実生活へも及んでいく。
実生活上も、人のこころではなく、キャラクターの気持ちが捉えられて、それがやりとりの基礎になる。
色んな人が色んな発言をし、色んな挙動を示す。
それについてわたしはこう言おう、
「こころはそんなふうには動かない」
あなたもそう言うようになりなさい、
「こころはそんなふうには動かない」
[こころはそんなふうには動かない/了]