No.424 こころはそんなふうには動かない2
わたしが高校生だったとき、英語の教師は李(リー)という韓国の人だった。
当人は、自分の国のことを「朝鮮」だと言い張った。
「もともとひとつの国であって、本当にふたつに分かれているわけではないから」
ということだった。
そんなことを言われても、男子校の高校生はそんなことにまったく興味がないので、李先生の言いようはすべて聞き流されていた(当たり前だ)。
そして高校の授業中というのはヒマなものだ。
わたしの通っていた高校は、建前上は進学校だったが、どう見ても三年間で偏差値は10下がるだろうというような、デタラメ進学校だった。
わたしは授業中、いつもどおりヒマだったので、ルーズリーフに李の似顔絵を描き始めた。
当時は「李」と呼び捨てだったので、いまこのときも呼び捨てにしよう。
わたしは別に絵が上手なわけではないので、ひたすら入念に観察を繰り返し、似顔絵を描き続けた。
すると一時間後、思いがけず力作ができあがって、周囲の友人らはその鉛筆画に、
「ウオーすげー似てる」
と讃嘆したのだった。
わたし自身、その似顔絵を気に入り、次第に全体をポスターふうに仕上げ、
「アッ似てる! この顔みたら一一〇番」
というゴシック体の文字を添えた。
非常な達成感があり、わたしは満足した。
その後、もちろんその落書きは放ったらかしにしていたのだが、誰が持ち込んだのやら、いつのまにか職員室の李のもとに届けられてしまったらしい。
翌週の授業中、李がわたしの席の近くに寄ってきて、
「おい、誰が、指名手配犯やねん」
とスゴんできた。
わたしは、エッと戸惑い、直後には状況を悟って、
(あっ、やべえ)
と思った。
しかし一呼吸あって、李は、
「よう描けてたわ」
と捨て台詞を残し、教壇にもどってゆき、授業を再開したのだった。
わたしは、
「ふう、やれやれ、危ないところだった」
と安堵した。
まったくどうでもいい話をしている。
わたしが大学生だったころ、夏休みや冬休みになるとあまりにもヒマで、よくわけのわからないことをした。
台所のコンロにはグリルが無かったので、魚は焼けなかったのだが、あるときどうしても、
「サンマを焼いて食べたい」
と思った。
何か方法はないかと考え始め、思いついたのは、
「中華鍋に石を敷き詰めて、サンマを乗せ、ガス火であぶれば、グリルっぽくなるのではないか?」
ということだった。
これはイメージとしてはいかにもうまくいきそうだった。
石はどこで拾えばいいだろうか。
けっこうな分量がいるし、さすがに地面に落ちている石を集めてそのまま使うというのは、あまり気分がよろしくない。
それでわたしは、原付に乗って六甲川に石を拾いに行くことにした。
もうけっこう夜更けのことだ。
夜更けに懐中電灯を照らし、川べりでビニール袋に石をつめているわたしの姿は、傍からみれば犯罪者か妖怪かのどちらかというふうだったと思う。
いまになっても思うが、そんなバカみたいな労力をかけてサンマを焼こうとするものではない。
というか、ふつうにフライパンで焼いたって、サンマぐらいは食べられるだろう。
ともあれ、わたしは夜中にけっこうヒーヒー言いながら石を集めて帰ってきた。
しかし台所で、それら拾ってきた石をあらためて見つめ直すと、石には苔と藻と土がつきまくっていた。
それらをすべてタワシでこすり落として洗浄したのだ。
いつになったらサンマが食べられるのか、こんな労力に見合わないバカな話はない。
それでも、なんとか無事に中華鍋に石を敷き詰めることはでき、ガス火にかけるともちろん川の匂いが部屋中に立ち込めはしたものの、その石の中にサンマを埋め込むようにしてサンマを焼き魚にすることはいちおう可能だった。
ただし、焼けたサンマの皮は石に張り付き、中華鍋から取り出したときのサンマは、もう元の魚の姿を保ってはいなかった。
それぐらいヒマだったので、夜中には友人宅のFAXに、わけのわからない絵を送信する、というようなことをして遊んだ。
PCのペイントソフトか何かで、手書きでがんばって茄子の絵を描き、それをオンラインFAXで友人宅に送った。
インターネットの黎明期、ダイヤルアップ回線でそうした送信を行うのは、当時のこととしてはハイテクの心地がした。
それから三十分後、友人から電話があって、
「なんやねん!!」
友人は笑っていた。
友人としては、真夜中に突如FAXがピーガー鳴り出して動き始めたので、恐怖に怯えたそうだ。
とはいえ、そのまま眠ることもできないので、彼は意を決して届いたFAXを手に取った。
そこには意味不明な茄子の絵が描いてあったという。
その当時わたしは、あまりにヒマすぎて、手作りでショコラムースを作っており、それを無理やり「趣味」と言い張っていた。
だからいまでも作り方を覚えている。卵の白身でメレンゲを立て、湯で溶かしたゼラチンを加え、ココアパウダーとさっくり混ぜ合わせるのだ。それを冷蔵庫で冷やし固める。
すると、ココアパウダーの味そのままのショコラムースが出来上がる。
わざわざムースにする理由はほぼ見つからない、ココアパウダーをそのまま食ってもたいして変わらないというお菓子づくりだ。
わたしがそのショコラムースのことを話すと、茄子FAXを送りつけられた友人は、
「うわ、ショコラムース食いたいわ」
と言いだし、そのまま大阪から一時間かけて、車でわたしの下宿までやってきた。
それで、夜中に近所迷惑なカシャカシャ音を鳴らしてメレンゲを立て、ショコラムースを作った。
冬のことだったので、下宿は寒い。
何かあったかいものを飲もうということになったが、お茶っ葉などという気の利いたものはなかった。
それで友人が、
「オイスターソースを湯で溶かすとスープになってうまい」
と言うのを信じて、オイスターソースを湯で割って飲んだ。
それはたしかにうまくて、「うまい!」とそのときは絶賛したのだが、たぶん何かがバカになっていてそう感じただけであって、オイスターソースを湯で割ったものをおいしいスープと呼ぶことはできないと思う。
でもたしかにあのときはうまかったのだ。
そんなことはいくらでもあった。
まったくどうでもいい話をしている。
わたしは当時、何かシュールなことをしてウケてやろうとか、面白がってやろうとか、そんなことを考えていたわけではない。
ただとてつもなくヒマで、さびしくて、それ以上に何をどうしたらいいかわからなかったのだと思う。
えんえん、後輩にプレイステーションの「バイオハザード」をやらせ、後輩がゾンビ犬に食い殺されて絶望するのを眺めて楽しむ、というようなことをしているしかなかった。
ただ、情熱はあったのだと思う。
こんな退廃的な光景に情熱なんて言われても説得力がないかもしれないが、たしかに何かの情熱はあったのだ。
たとえば、何か飲食店のオープニングスタッフのアルバイトがあったとする。
これはわたし自身のことではないが、友人がそのオープニングスタッフに応募して、開業の準備を手伝っているうち、
「おれたちの振る舞いで、あたらしい店の第一印象が決まるから、がんばらなあかんわ」
と当たり前に言うようになっていた。
アルバイトふぜいがどうこうなんて、誰も冷たいことを言わなかった。
じっさいの開店には熱気があった。
それは情熱ではないだろうか。
わたしは当時、無理やりフロイトの全集を読んだし、一冊にまとめられて巨大化した「罪と罰」も寝ながら呼んだし、ムツゴロウさんの全集も読破した。すべて無理やりだ。
ちなみに、巨大な「罪と罰」の書籍は、寝ながら読んでいるとそのうち寝落ちして、手が緩んでその巨大な書籍が顔面に落ちてくるのだった。すると顔面に重篤なダメージを受け、寝ているところを叩き起こされるショックを受ける。
わたしはそれをもって、
「まさに罪と罰たな」
としみじみ思ったのだった。
情熱はあった。
わたしがそうして無理やりでも、大学生らしく読書に励もうとしていると、友人のKが、
「うわ自分、めっちゃ頑張ってるなあ。おれもやっぱり、本とか読まなあかんわ」
としきりに改心するのだった。
その改心は三時間ぐらいで元に戻ってしまうのだけれども、それでも本気でそのときは改心するのだ。
情熱はあった。
何かをしなくちゃ、という情熱があり、何かをやり始めると、価値観とは関係なしに情熱が乗っかり始めてしまうということがあった。
当時はまだ、人々は「二十四時間テレビ」にけっこう感動していたし、テレビ番組で「ドミノ倒し世界記録に挑戦」などをやられると、本気でハラハラしながら見入ってしまっていた。
わたしは当時流行していた、イベントの設営・撤去のアルバイトをしたことがあるが、そんなアルバイトでさえ、会場のガレキをすべて撤去し終わったときには、見ず知らずの連中と妙な達成感に浸ったものだった。アルバイト慣れした先輩が、缶のピーチネクターをおごってくれた。それをがらんどうになった広いホールのすみっこで飲んだ。
情熱はあったのだ。
その他の、まともであるべきことがいまいちまともでなく、ただのアホなんじゃないかという向きが強くありすぎたにせよ、情熱と呼ぶべきものはたしかにあった。
別に情熱を持とうとしていたわけではない。
みんなむしろ、「もっとちゃんとしないと」と自己反省的に追い詰められていた。
けれどもちゃんとすることなどできなくて、けっきょくいつも、わけのわからない挙動ばかり湧いていた。
そのわけのわからない挙動には、いま思い返せば、いちおう情熱があるにはあったのだった。
わたしが大学で化学科を選んだのは、花火師になりたかったからだった。
花火師の夢は、いまでもわたしのアナザースカイだ。
花火大会のたび、わたしは空を見上げると同時に、いまでもどこか、あの川の向こうの暗がりに走り回っているであろう花火師たちにあこがれを覚える。
きっと、誰にも真似できない誇らしさに満ちているんじゃないかなと思う。
化学科で専攻を決めていくとき、いちおう教授に相談する手続きがあって、わたしは自分の専攻したいものについて、
「その……火薬と爆発を……」
と真剣に言ったのだが、それを聞いてY教授は、
「危ないよ!」
と見当違いの回答を下さった。
その後わたしは、あやうく原子力関係の専攻へ誘導されるところだったのだが、
「そういうことじゃないんです」
と逃げ切った。ぜんぜん話が通じていなかった。
このY先生も、濃硝酸で自分の皮膚に字を書いてみたということを平気で言う、けっこうなお人だった。
情熱はあったのだろう。
情熱はあって、そのぶん、わざとらしいことは何一つできなかった。
それで、わたしは唐突に現代について思うのだった。
現代において、たとえば飲食店のオープニングスタッフのアルバイトをしたとして、そこで、
「われわれが店の第一印象を決めてしまうから、がんばらないといけないんだ」
と真に受けて情熱に引き込まれていってしまうアホなんているのだろうか。
ごく一部にはいるのかもしれないが、主流ではないだろうし、それは単に何かがズレている奴だろう。
わたしは就職活動のとき、誰でもそうするように、「自分のやりたいこと」を考えた。
考えているうちに、なぜかわたしに湧いてきたのは、
「おばけやしきを作りたい」
だった。
おばけやしき、それも、度を越したクレイジーな、精神に損傷を負うようなおはけやしきを作りたい。
「中に入ったら、二泊三日ぐらい出て来られない、しかもナゾを解かないと脱出もさせてもらえない、そういう巨大なおばけやしきを作りたい」
わたしはそういう夢を話した。
めちゃくちゃな夢だが、一部の友人は、
「うわ、いいなそれ」
と笑ってくれた。
情熱があったのだ。
いまなら鼻で笑われるか、ドン引きされるかキモがられるか、へんなお追従(ついしょう)をされるだけになるだろう。
巨大なおばけやしきを作りたいという夢は、本当にわたしの夢であって、わたしは「ネタ」で言っているのではなかった。
もちろん実現可能性というと、さすがに無理があるというのはわかっている。当たり前だ。
でもネタで言っていたわけではなかった。
本当に、情熱があって夢として言っていた。
わたしは現代について思うのだが、飲食店のオープニングスタッフということに情熱が湧かないのに、恋あいにだけ情熱が湧くなんてことありうるのだろうか。
オープニングスタッフで情熱が湧かないなら恋あいにも情熱は湧かない。
世界一周旅行をしようなんてことにも情熱は湧かない。
読書にもオープニングスタッフにもおばけやしきにもショコラムースにも、情熱は湧かないが、恋あいにだけ情熱が湧いて「彼女が欲しい」?
そんなわけないだろ、それでタイトルどおりの言いように戻るのだ。
こころはそんなふうには動かない。
情熱が無いなら、情熱は無いのだ。
恋あいだけ情熱が湧くなんてことはない。
特定の願望や執着にだけヒートアップするというのは情熱ではない。
こころはそんなふうには動かないのだ。
おれがいまこうして、何かを書き話そうとし、この書き話しもひとつの完成に向かわせようとしているのは、無意味なショコラムースを作ろうとしていたあのときと変わらない、同じ情熱だ。
***
絶望と希望に満ちたことを申し上げよう。
センスではなくて情熱なのだ。
センスではなくて夢と情熱なのだ。
センスに執着することはできるし、価値観を言い張ることもできる。
でも情熱はごまかしが利かない。
わたしがこうして書き話しているものは、面白いだろう。人が書くということ、それを人が読むということは、本来こうして面白くなるものだ。
だが現代になってあなたは、そうしたことを「自分もやりたい」と、堂々とは言えなくなっているはず。
あなたはそこで、
「何を書いたらいいかわからないし」
と言うだろうし、
「書ける気がしない」
とも言うだろう。
けれども真相はそうじゃない。
真相は困ったことに、
「そもそも情熱が湧かない」
ということにある。
あなたはそのことを恥じているし、それ以上に焦り、恐怖して、不安に思い、追い詰められているのだ。
けれども前に言ったように、そんなこと何も恥じなくていい。
単純に「情熱トラブル」と名前をつけて把握していればいい。
情熱が湧かないのだ。
神経は加熱するのに、情熱は湧かない。
醜い。
多くの人は、自分を若いと思っていて、自分にはそれなりに情熱がある、と思い込んでいる。
だがどうしようもなく困ったことに、こころはそんなふうには動かないのだ。
自分では情熱があるつもりでも、じっさいにはこころはそんなふうには動かない、というのが事実だろう。
何度も言うように、わたしは意地悪を言っているのではない。
あなたが必要とする真の知識を伝えているのだ。
「やってみたい」「できるようになりたい」とは思うし、何事にも取り組んでみようと思っている、そういう意欲はあるのだが、それは情熱ではないのだ。
それは情熱ではないし、情熱でない以上、こころはそんなふうには動いてくれない。
まず整理しよう。
たとえば、アルコール依存症の人は、朝からともかく「酒が飲みたい」「飲まずにいられない」のだが、これは残念ながら情熱ではない。
また、夫婦喧嘩で絶叫して茶碗を投げつけている騒々しさも、強烈だけれども情熱ではない。
「わたしあの人のことだけはぜったいに許さない」というのは情熱ではないし、「ぜったいに勝ち組になって見返してやりたい」というのも、残念ながらじつは情熱ではないのだ。
「甘いものが食べたい、気が狂いそう」というのは情熱ではないし、「まじ◯◯クンが尊くてやばい、鼻血出そう」というのも情熱ではない。「わたし自分の気持ちに気づいたの、これだけはぜったいに譲れないってのがあって」というのも情熱ではない。
やはりどこまでも、オープニングスタッフのアルバイトで情熱に引き込まれてはいかない兄ちゃんが、「クラスメートの◯◯ちゃんがかわいくて好き、清楚だしおっぱいも大きいし付き合いたい、超セックスしたい、まじでキンタマがドクドクする、あのコがいまごろ陽キャに好き放題ヤラれまくっているかもと想像すると脳が壊れる、それが逆に何かの性癖に目覚めそう」と悶々としているのは、残念ながら情熱ではないのだ。
整理するために、まず二重丸を書け。
そして二重丸の外側に「認識」と書け。
次に二重丸の外円に「業(カルマ)」と書け。
最後に二重丸の内円に「情熱」と書け。
仕組みはそれだけだ。
ここで図示するなら次のようになる。
(認識(カルマ(情熱)カルマ)認識)
こころとは何か、こころはどのように動くものか。
こころは「心」と書くのだから、とうぜん構造の中心にあることになる。
この場合、情熱がイコールこころだと捉えていい。
では情熱があるというのはどういうことになるか。
情熱があるということは、認識熱がないということだ。
情熱があるということは、カルマ熱がないということだ。
認識は寂静で、カルマも寂静、しかし真ん中「こころ」に熱があるというとき、それは情熱だということになる。
たとえばおれの場合、ショコラムースに対する認識熱があったわけではない。ショコラムースに対する認識は冷ややかだ。
ではショコラムースに何かカルマが燃え盛っていたのかというと、そんなわけはない。ショコラムースにかかわってのカルマは冷ややかだ(当たり前だ)。
にもかかわらず、なぜ夜な夜なメレンゲを立てていたのかというと、その熱は「情熱」としか説明できない。
認識の寂静、カルマの寂静、にもかかわらず真ん中に熱があって挙動している、そのことを情熱と呼ぶ。
また逆に言えば、真ん中「こころ」の情熱に至っているからこそ、周辺の加熱が必要なく、周辺の加熱バーナーを消せるということでもある。
じっさいの例を考えよう。
たとえばあなたが若い女性だったとする。
わたしは、若い女性であるあなたを、何はともあれ笑わせて、楽しい現在と、豊かな未来に押し出そうとはたらきかけるだろう。
それに応えてあなたは、わたしに色仕掛けを向けたとする。ウッフーンと、スケベなアピールをしてわたしを篭絡しようとした。
ところがあなたは、その強力なアピールが、わたしに対して「何か噛み合っていない」と感じるはずだ。わたしは女性のあなたを笑わせようとしているが、それに対してあなたの色仕掛けはズレており噛み合っていないとあなたは感じる。
次に、あなたはわたしに対し、
「あなたのこと、好・き・よ」
と言ってみた。
しかしその強力なメッセージも、なぜかわたしの振る舞いに対しては噛み合っていないとあなたは感じるだろう。
あなたは次第にイライラしてきてしまうかもしれない。
このようなことが起こる理由は次のとおりだ。
わたしが若い女性であるあなたに対し、とにかく「笑わせよう」「足しになってやろう」とはたらきかける、その挙動はわたしの「情熱」から生じている。
それに対し、あなたがわたしの「カルマ」にはたらきかけたり、わたしの「認識」にはたらきかけたりしようとすると、あなたはそれが「噛み合っていない」と感じるのだ。
わたしが情熱からあなたに対する以上、あなたもわたしに向けて情熱で応えればいいのだが、なかなかそうはいかない。
認識もカルマも突き抜けて自分の真ん中「こころ」の熱で向き合うというのは、そんな簡単なことではないのだ。
簡単ではないどころか、多くの人は、生きているうちそこまで自分の中枢に到達することは一度もない、というのがほとんどだ。
ここではこれ以上説明しないが、真ん中「こころ」の情熱は、本当はもっと意味不明なのだ。
一般に知られているような事象ではない。
たとえばあなたが、わたしに向けて唾を吐いたとする。
にもかかわらず、わたしはまったく変化なしに、あなたのことを笑わせようとしている。
そんなことを目の前で体験すると、不気味じゃないか。
あなたは一種のパニック状態に陥ってしまう。
(このパニックがしばしばシャレにならないことになる)
あなたはわたしに向けて、
「大嫌いです」
と言ったとする。
にもかかわらず、わたしはあなたを笑わせようとする。
変化がない。
なぜ?
なぜといって、それは説明したとおり、わたしがあなたを笑わせようとするのは情熱であって、カルマによるものでもなければ認識によるものでもないからだ。
そのときあなたは「こころ」に感動する。
けれども、あなたの「認識」でその「こころ」を捉えることはできない。
あなたの「カルマ」のうちにも、その「こころ」の情報はない。
あなたの捉えうる全情報を、どれだけ精査しても、あなたが感動する真の理由は見当たらないのだ。
にもかかわらず、あなたの真ん中「こころ」は感動してしまう。
それであなたはパニックに陥るのだ。
このことが急激に起こると、冗談でなく精神病院行きになることがある。
それどころか、現代においては、このときに精神に損傷が起こらないケースのほうが存在しないと言っておく必要があるだろう。
どう取り繕ってもブッ壊れてしまうのだ。
あなたが手札をオープンする。あなたは「コール」をかけて、わたしの手札もオープンさせる。
手札はどう見ても、すべてにおいてあなたが勝っているのだ。
にもかかわらず、あなたは自分が「負けた」と体験している。
あなたの視認できる全情報の中に、あなたの負けは見つからない。
にもかかわらず、あなたの直観は負けを体験していて、その負けに感動さえしているのだ。
そんなことだからパニックになって当たり前だ。
そこでわたしが「おれの負けでいいですよ」と言ったとしよう。
そうしたらあなたは、
「そんなこと言わないでください!」
と怒って叫ぶ。
わけがわからなくて、そのときあなたはめちゃくちゃ苦しい。
現代において、すでに「恋あい」というモデルは成立しない。
とっくに成立しなくなったものを、いまだに概念として背負わされている。
いまわれわれが形骸として残している恋あいというモデルは、わたしがショコラムースを作っていた時代のモデルだ。
現代のアルバイトが、オープニングスタッフだからということで情熱に燃えるということはもうないだろう。
そういうものは「やりがい詐欺」ということで死滅の粉末をまぶされてしまった。
アルバイトに情熱を持たせようとするなら「インセンティブでも出せよ」というのが現代のモデルだ。
これだけモデルチェンジが起こっているのに、恋あいだけ旧来のモデルで成り立つわけがない。
何の情熱も持っていない若い男が、スキンケアと眉毛の手入れだけをして、推し活をしながら、
「彼女ほしい」
と言い出しているのは、率直に言って死ぬほどキモいだろう。
しょうがないことなのだが、それでも、直視したらやはり死ぬほどキモいのだ。
逆にそのキモさが、女性にとって性欲・性的嗜好に「刺さる」ということもあるので、表面上はむしろ恋愛は活発かつイージーになったように見えるけれど、それはやはりあるべきモデルに準じた恋あいではない。
だからもうまともな恋あい映画なんて撮れないし、現代のラブソングなんて、なにを言っているかわからない漠然とした「ワードセンス」で、フレーバーをまき散らすだけのものになった。
すでに現時点で、マーケティング機能のあるAIが作詞したものと区別がつかないのが現代のラブソングだろう。
頭の中にマンガとアニメと推しとソシャゲしかないのに、「マチアプ」経由で「恋愛」したいというのは、どう考えてもメチャクチャじゃないか。
こころはそんなふうには動かないのだ。
わたしは意地悪を言っているのではないし、あなたを侮辱して言っているのではない。
わたしはあなたの情熱を肯定し、あなたを情熱に回帰させようとしてこのような話をしているのだ。
ただし現状、何をどうやっても、さしあたりあなたを苦しめることにしかならない。
じっさいどう言われても、情熱に回帰はもう現実的にできないのだから。
それはつまりあなたの「情熱トラブル」を意味している。
あなたの真ん中は情熱に感動する。
にもかかわらず、あなたにはそんなもの与えられていないし、それどころか、あなたはそのことを正しく教わってさえいない。
あなたは現代の文化風潮に教わったとおり、真ん中「こころ」ではないカルマ熱や認識熱を加熱してしまう。
あなたはヒートアップしてゆき、情熱の感動を見失っていく。
このことについて、どうしろとも言えないし、方法論なんて存在しないのだが、ただ言い得ることはやはり、わたしはこのことを二十年以上も研究してきたということだ。わたしはあのときのショコラムースの作り方をいまも覚えている。
***
なぜこんなことになったか、真相を教えよう。
真ん中「こころ」の熱、それが情熱だが、この情熱がなかった場合、この「真ん中」はどうなるのだろうか。
熱がなかったら、真ん中「こころ」は冷えきるに決まっている。
この状態を「さびしい」という。
こころの真ん中は、「情熱」と「さびしい」の対決なのだ。
こころの真ん中に熱があれば情熱になり、熱がなければ「さびしい」になる。
ついでに、こころの真ん中に光があればそれは「魂」であって、魂がなければこころの真ん中はさびしい「闇」だ。
(だから「こころの真ん中が魂に向かうとき初めてこころはこころでありえる」と説明した)
さて、本当には何があったのか、なぜ現在のような状況に至ったのか、そのことはじつはこの「さびしい」という一語をもって説明できる。
「さびしい」ということに、こころは対抗できない。なぜならこころにあるべきものが「ない」状態のことをさびしいというのだからだ。
たとえば、魚がまったく獲れなくなった不漁に、「漁」で対抗はできないだろう。
漁で魚が獲れなくなった状態を不漁というのだから。
さびしさにこころで対抗することは原理的にできない。
さびしさに対抗できるのはこころではなく「魂」だ。
さびしさに対して、こころで対抗することは無力だ。
その無力を悟ったとき、人は「魂を信じる」という選択肢が存在することに気づく。
そこで、こころで対抗することを放棄して、魂を信じるということを選ぶ人も、ごく一部には存在しうるだろう。
そのとき、真ん中「こころ」には魂の光が灯り、そこに熱が湧く。このことを情熱と呼ぶのだ。
このことは、ダサい言い方をするなら、「さびしさが情熱の親」ということでもある。
人は、「さびしさ」という、こころでは対抗できないものに気づいたとき、自分のこころを超える「魂」を求めはじめるのだ。
郵便物がひとつも来ない郵便局があったとして、あなたはどうしても郵便屋さんになることはできないだろう。
あなたのこころをどういじくっても、あなたは郵便屋さんにはなれないのだ。
あなたが「郵便屋さん」になりうる可能性は、ただひとつ、郵便局に一枚のハガキが持ち込まれて、
「これは郵便物だ」
と、それが郵便物たることに魂を見い出すときだ。
あなたがそのハガキを届ける寸前、核兵器が落ちてきたとしたら、あなたはせめてそのハガキを届けてから死のうとするだろう。
そこにあなたのこころと情熱がある。
それであなたは、別に核兵器で消し飛んで死にたいわけではないだろうが、その瞬間、あなたのこころは「さびしく」ない。
真ん中「こころ」に情熱があるのだからさびしさはない。
じっさい、かつてアメリカの9.11事件が起こったとき、ガレキ場になった廃墟の当地で真っ先に立ちあがったのは、ひとりのホットドッグ屋の青年だった。
まだ煙と塵芥の巻きあがる中、ホットドッグ屋はそこでひとり営業を再開したのだ。
そのホットドッグ屋の青年は、マスコミのインタビューに答えて、
「ここはニューヨークなんだ。ニューヨークにホットドッグが無いってわけにはいかないだろ?」
と言った。
彼はつまり、ホットドッグはニューヨークの魂だろ、と言っている。
こころが粉々に砕かれたとき、真ん中「こころ」は魂という選択肢に気づく。
彼の言うとおり、いくら建物が破壊されようが、そこのスタンドでホットドッグが売られ続けているかぎり、そこはニューヨークだろう。
「情熱」と「さびしさ」の対決がある。
情熱とさびしさは拮抗するようでありながら、さびしさが人に魂の存在を教えるのでもある。
この正統な構図は、われわれが「リア充」みたいな言い方をしたあたりから失われ始めた。
さびしさの反対に「リア充」を置き始めたあたりで、われわれは本質をわかっていない人たちになっていった。
正しく説明しよう。
二十年以上にわたる研究の成果として、はちゃめちゃに正しい説明をしてやるので、こればっかりは頭を下げてでも教わっていきなさい。
わたしは若いころ、本を読んだり、映画を観たり、友人と過ごしたりした。
たとえば夜な夜な、下宿でムツゴロウこと畑正憲さんの全集を読んだりしていたのだ。
全集を読むということじたいは誰でもできる。
けれどもそうではないのだ、わたしは「さびしかった」のだ。
わたしはさびしさの中でその本を読んだ。
わたしはさびしさの中で本を読んだからこそ、そこに現れている情熱、その向こう側にある魂を読み取ることができた。
気づいたのだ。
さびしさを引き受けてその中に立つ者のみ、見つけ出せるものがあるのだ。
さびしさに、こころで対抗することはできない。
ではどうやって対抗すればよいのか。
そうした問いかけの中で読むからこそ、対抗手段を持っている人、対抗して超克した人、その情熱、その魂を読み取り発見することができる。
わたし自身の場合もまさにそう、<<さびしさがわたしに情熱を教えた>>。
わたしはさびしさの中で、さまざまなシンガーの声を聞いた。
そのとき初めて、その声とことばの中に、情熱と魂を聞き取ることができた。
真ん中「こころ」に、魂も熱もない、そのさびしさに苦しむわたし自身がある。
そこに、
Sometimes I feel like I've been wasting precious time. / Life passes by when you're slaving to the grind.
とつんざく声が響き渡る。
あるいは映画のワンシーンから、
To make each day count.
と語りかけられる。
意味は誰だってわかる。
しかし意味を理解することと、情熱を教わるということはまったく違う。
さびしさの中でしか聞き取れない真の周波数がある。
さびしさを引き受けて立つ中でのみ、聞き取れる本当のことばがある。
さびしさというのは真ん中「こころ」の事象なのだ。
現代がかつてと異なるのはひたすらこの点だ。
さびしいというのはもちろんつらい状態だ。だから安易には、そのつらさに何かしらの手当てをしたくなる。
そこで現代のわれわれは、いつでも手元に電脳端末を持っており、その向こうには無限というような「コンテンツ」が待機している。そういう環境がある。
若い女性なんか、ちょこっと色気を出せば、いつでも意欲的な男性と「チャット」が出来るだろう。
いくらでもさびしさを慰めることができてしまう。
わたしが若いころは携帯電話がなかったし、インターネットのメールもなかった。
ごくまれに、据えつけの電話機が鳴ることがあるぐらいで、それ以外の夜は下宿の部屋にひとりで閉じ込められていた。
だから夜な夜な、部屋を這い出して大学に行き、部室に逃げ込むしかなかったのだけれど……
部室に行けば似たような連中がいつもいた。
みんなさびしいから来ているのだが、その「さびしい」というのは現代と違う。
みんな可能な限り、その真ん中「こころ」から逃げずにいた。逃げる方法がなかったのでしょうがなかったのでもあるが。
現代では、無限のコンテンツをダウンロード再生できるし、SNSやコメント欄で赤の他人に向けて放言することができるし、とにかくいくらでもさびしさを慰めることができる。
どのようにさびしさを慰めているかというと、つまり、カルマ熱や認識熱を加熱して、その熱で代償的にさびしさを慰めているのだ。
真ん中「こころ」には熱が無いままだけれど、その周辺を加熱して、真ん中のさびしさを忘れることができる。
その効用が強いものを、現代では「バズ」と呼ぶ。
そうして周辺を加熱して、情感を前向きに昂らせれば、表面的には「メンタル」を強く形成することもできる。
周辺を加熱して、「気持ち」を高めれば、それで「モチベ」を得ることもできてしまう。
しかし真ん中「こころ」は熱のないまま、さびしいままだ。
メンタルは強化してあるし、「モチベ」も得ているので、表面的には動くことができる。
でも本当は、こころはそんなふうには動かない。
メンタルとモチベで暴れ回り、しかし本当はこころはそんなふうには動かないのだから、真ん中「こころ」のさびしさはますます拡大していくばかりだろう。
このことはやがてどうなっていくだろうか。
最後までさびしさを自分に隠し通せるだろうか。
そんなわけはない。隠し通すどころか、そのさびしさはもう毎夜のように押し寄せてきている。
それをいつまでもメンタル、メンタル、メンタル、メンタル……の上塗りで固め続けることは多くの人にとって不可能だ。
(ごく一部、アスリートのような人は、そのメンタルの上塗りにおいてきわめて頑強ということもあります)
やがて、真ん中「こころ」のさびしさは、自分ではもはや取り扱えないほどの巨大な脅威になってしまい、もう向き合うことじたいが不可能になってしまう。
向き合うことが不可能になった巨大なさびしさは、早晩、
「誰かに押しつける」
という発想に行き着く。
それで少なからぬ女性が、たとえば「婚活」に取り憑かれ、とにかく結婚したらなんとかなるという妄執に囚われる。
結婚相手が得られたら、自分のその巨大なさびしさは、結婚相手が補って解決するはずだ、と期待しているのだ。
もうそのヴィジョンに縋りつくしか、自分を守る方法がない。
だからもうこの妄執を手放すことは不可能になってしまっている。
もし結婚相手がそれを補わないなら、子供を産むことを考え、その子供がさびしさを補うはずだ、と期待する。
性風俗のキャストがホスト男性に入れあげるのも同じだし、未来のない男性が「推し」に入れあげるのも同じだ。
取り扱いきれなくなったさびしさ、それどころかもう向き合うことじたいが不可能になってしまったさびしさを、誰かに押しつけることで自分が救済される、という妄執に囚われてしまう。
違うのだ、そんなのはどう考えても誤りだ。
さびしさの解決は、魂と情熱だ。
さびしいという状態は、真ん中「こころ」に光と熱がないということ。
真ん中「こころ」が魂に向かい、熱を得るなら、それでもう「さびしい」ということはなくなる。
だが現代人の大半は、もうこのまま、向き合うことじたい不可能という状態で進むだろう。
その場合必ず、「押しつける」ということが「ボクの情熱なんだ」にすり替えられる。
それで、「婚活がわたしの情熱」と言い張られ、「出産と子育てがわたしの情熱」と言い張られ、「◯◯クンがわたしの情熱」と言い張られ、「××ちゃんがぼくの情熱」と言い張られる。
じっさいには、ただの自分の願望(認識・カルマから湧いた願望)でしかない。
自分の願望を、何がなんでも他人に押しつける。
それによってわたしは救済される、それがぜったいのこと、と思い込む。
そのためには政治工作もするし、暴力だって振るうし、どのような立ち回りも謀(はかりごと)もする、というふうに人は妄執に囚われていく。
冗談でなく、たとえば日本の多くの人は、日本が戦争になったら「アメリカが助けてくれる」と思っている。
じっさいには、そのとき戦地に赴かねばならないのは、国を守ろうとする魂と情熱の日本人でしかありえないが、そのことに向き合えないため、アメリカの人を戦地に赴かせるという空想をしている。
「日本を守る、その情熱に燃えるアメリカの兵隊さんが、戦地に行って戦って死んでくれるわ」
自分の向き合えないことを誰かに押しつける。
この妄執に囚われている人は、あろうことか、その自分の妄執を、高潔でうつくしい情熱とさえ思い込んで自己陶酔している。
誰かに押しつける、ということ。
その願望は叶えられるだろうか。
ほとんどの場合で叶えられないだろうし、また、叶えられるべきでもないだろう。
このとき、高潔と思い込まれていた妄執は反転する。
反転して、こんどは「この憤怒がわたしの情熱」になる。
反転して、「こういう男性は絶対許さない」が情熱と言い張られ、「女性が出産を強要される性差別への憎悪」が情熱と言い張られ、裏切ったホストにリストカットの写真を送りつけるのが情熱と言い張られ、「けっきょく女は叩かれて当然、女叩きは正義」が情熱と言い張られる。
現代、「陽キャ」と呼ばれるけたたましい人たちがいる。
彼らは、果てしない無数のさびしさを引き受け、その中に立つことでこそ、魂と情熱を見い出してきた、そうした格闘の突破者だ、という相貌を得ているだろうか。
現代、「陰キャ」と呼ばれる重っ苦しい人たちがいる。
彼らは、逃げ場のない四方のさびしさ、その暴風に晒されながら、己の魂と情熱をただひとり、ろうそくの火をかばうように持ち続けて歩いてきた、そういう足跡の当事者だろうか。
現代はめちゃくちゃじゃないか。
真ん中「こころ」へのアクセスがなく、さびしさは巨大化する一方で、それをメンタルでカバーできていれば「ふつうの人」、カバーしきれなくなったら「メンヘラ」と分類しているだけではないか。
すべてを誰か他人のせいにして、自分のさびしさを慰め、やがてはすべてを「誰かに押しつける」ことで救済される、そういうプランばかり本音で描いている。
めちゃくちゃだ。
これらはすべて、ここ二十年間のツケだ。
真ん中「こころ」の事象である「さびしさ」、それに正当な向き合い方をせずに、電脳端末その他で慰めてきた、回避ばかりしてきた、そのことのツケだ。
このツケをどうすればいいか。
わたしはあなたの実感に反する、本当に正しいことを教えよう。
あなたはさびしさを信じるべきなのだ。
さびしさを信じろ。
それはあなたに真ん中「こころ」があるということの証拠でもあるのだから。
さびしさの中に立つとき、あなたは真ん中「こころ」から立っているということでもある。
そして、そこに若いイケメンの石油王が現れて、ほほえみ、あなたにひざまずいてあなたの手の甲にキスをするなら、あなたは、
「去れ、わたしのさびしさにあなたは関係ない」
と言って追っ払え。
あなたは自分のこのセリフが魂と情熱に満ちていると思わないか?
あなたはいくらでも電脳端末でコンテンツを摂取してかまわない。そんなことは本質ではない。
あなたに必要なことは、さびしさを肯定することだ。
さびしさがあなたに魂と情熱を教えようとしているのだから。
そのはたらきが、あなたの真ん中「こころ」なのだから。
さびしさを敵視し、排除しようとしていることが誤りだ。
さびしさを慰めますよと、カルマ熱や認識熱を加熱してくるものを味方と思っているのも誤りだ。
カルマやら認識やらは冷えっ冷えでよろしい。
真ん中「こころ」でさえさびしくてよろしい。
あなたは真ん中「こころ」がさびしいということが、つらい、耐えられない、と思っているのかもしれない。
あなたはそれを必死で否定排除することこそが自分のこころだと思っているのかもしれない。
違うのだ。
あなたが自分の「さびしさ」に怯え、そのさびしさを排除しようとし、慰めを求め、願望を妄執にしようとするとき、あなたがあなた自身にこう言いなさい。
あなたは自分で本当のことばを発見するだろう、
「こころはそんなふうには動かない」
[こころはそんなふうには動かない2/了]