出会いのコラム









出会いのデタミネーション




デタミネーションというのは、日本語では「決意」とか「覚悟」という言葉に訳される。訳されはするが、実のところその言葉はデタミネーションという語義に対して等式で成り立つものではない。日本語に無い概念が必要になるとき、ヨソの国の言葉が引っ張り出されてくるわけだが、デタミネーションというのはやはり日本語には無い概念なのだと思う。敢えて言うなら、「決して揺るぐことの無い確固たる決意」というところだろうか。真剣を持つ佐々木小次郎に対して木刀で挑んだ宮本武蔵、そのときの武蔵にあった迷いの無い確信のようなもの、それをデタミネーションと呼ぶ。

無人島や刑務所で暮らす人でないかぎり、出会いというものはある。ただ、その機会をモノにできるかどうか、そこに大きな個人差が生まれる。

あなたは人との出会いのチャンスがあったとき、どのような態度、どのようなスタイルで望んでいるだろうか。僕が思うに、この点が定まっているかいないかで、出会いの数は大きく左右されているように思う。

僕の場合は、気になった人にはとにかく話しかけてみる、そしてフラれたら諦める、というスタイルに徹している。この「徹している」という部分が、デタミネーションというわけだ。例えば、コンビニでアルバイトしているお嬢さんが気になったとして、僕はそれだけでも厚かましく話しかける。ここで、ビビったり、引いたりしてはいけない。ここで引くようでは、デタミネーションとは言えないのだ。(ただし、体調の悪い日は避けます)

で、話しかけたとして、結果は非常にクリアだ。アクセプト or リヒューズ。受け入れてもらえるか、思いっきり引かれるかだ。

僕の実感としては、まあ8割がリヒューズ、僕のことを気持ち悪がって、間違ってコンビニに迷い込んだゾンビを見るような目で僕を拒絶する。そのとき僕は、諦めて退散する。そういうデタミネーションだからだ。気になったら話しかける、フラれたら諦める。フラれるのは、しょうがない。あのイチローだって、三振することはあるのだ。むしろ僕が2割もバットに当てられるのは、異常な高確率と言える。これは、世の中の男前たちがボケっとしている証拠だろう。

2割がバットに当たっても、その殆どはピッチャーゴロ、要するに、特に関係は進展せずに終わる。だから、後々まで人間関係として残るのは、そのトライアルの回数に比較すれば本当に微々たるパーセンテージでしかない。それでも僕は、自分の人間関係が貧しいと思ったことは今まで一度もない。中には天使のような女性がいて、メールを送ってきてくれたりするし、ノリの良いナイスガイが、飲みに誘ってくれたりするのだ。そんな人たちの善意と好意で、僕は楽しく生きさせてもらっている。

あなたの場合はどうだろうか。どういうスタイルで、人との出会いに臨むのだろうか。繰り返しになるが、そのスタイルに対するデタミネーションの有無で、出会いの貧富が生まれていると、僕は考えている。

 (ここから、これを読んでくれているあなたを女性だと設定して話を進めます)

わかりやすく僕自身の例を出したが、それはあくまで男性側においてのみ通用するスタイルだろうと思う。バカバカしいことだが、女性の側から男性に声を掛けるのは、やはりこの国の世間においては一般的ではない。だから、あなたはいやおう無く、ひとまず「待ち」のスタイルにならざるを得ないだろう。

では、その「待ち」のスタイルをどうデザインするか。「待ち」は決して無力ではない。

「待ち」とはいえ、あなたのほうからまったくシグナルを出さないスタイルになってはいけない。それはさっきの例に譬えるなら、バッターボックスにすら立たないということに等しい。あなたのほうから発信できるメッセージもあるはずだ。「おはようございます」「いらっしゃいませ」といった一声は、女性の側から発することが社会的に認められている。あるいは合コン(なんだか懐かしい言葉だ)においてなら、「お疲れサマでした〜」と乾杯のグラスを差し出すこともできるだろう。

そういうささやかな一声にも、あるいはそういう一声だからこそ、メッセージは籠(こ)もる。「おはようございます」の後ろに、音にならない「今日もがんばりましょうね」というメッセージ、「いらっしゃいませ」の後ろに、「一昨日もいらっしゃいましたよね?」というメッセージ、そういうものを籠めることはできるのだ。それはあなたも、どこかで感じたことがあるはずだ。それは、親しみやすさの波動とでも言おうか、そういう印象で感じ取られるものだ。

それでも、最近の男性は気弱な人が多いから、なかなか結果には結びつかないかもしれないが、それでもいつか何かの形で結実する。デタミネーションには、不思議と結果を呼び込む力があるものだ。

僕は、そんな方法で出会いのスタイルをしっかり持つことができれば、「待ち」を基点としてであっても、人間関係を深く大きく育てていくことができると思う。一応言っておくと、僕の考えでは、どこかのコラムに書いたように、生活環境が都会化すればするほど、有効な出会いの機会は減っていくものだから、こういうスタイルを確立することによって、その機会の減少に対抗することができると思う。

ただし、そこでお話をしたからといって、それが充実した人間関係に発展していくかどうかは別の話だ。出会いと人間関係の発展は、そのまま必然としては進行しない。ところで、僕はなんとなく今、人間関係のステップについて体系化してみたいなぁという衝動を感じている(それはまた別の機会に書きます)。大雑把に言って、単純接触→挨拶→社会的親交→個人的親交→告白(色んな意味での)→親密化、というモデルを考えているのだが、その中で言えば、ここまでの話は第三ステップの社会的親交に至るためのスタイルの確立についてのことということになる。そこから先は、また別のこととして考えてほしい。

さて、あなたの出会いのスタイルは、どのようなものだろうか。ここで僕は、待ちベースの一例を提出してみたが、これはもちろん個人差のあることだから、人それぞれ考えるべきことだろう。また、こういうのを考えるのは案外楽しいことだから、あまりそこに深く突っ込んで、それぞれの考える楽しみに水を差したくない。また、どなたか、わたしはこういうスタイルです、と教えてくれたりするとうれしい。あと、女性には集団を形成して仲良くなっていく能力が男性より高いと僕は思っているが、同時に、それだけでは手に入らない人間関係もある、とも僕は考えている。そのことも、一応付け足しておきたい。集団における親交は、得体の知れない拘束力を持つので、集団に依存する形になり、人間関係の可能性を奪われるケースがあるからだ。職場にはおじさんしかいないのに、それ以外には人間関係がまったくない、とお悩みの方も結構いるだろう。

最後に、一番大事なこと、デタミネーションという言葉に戻ることにしよう。なぜここで、デタミネーションという言葉を使ったか。それは、揺らぐことの無い確固とした決意、という概念が説明上必要になったからだ。いろいろな出会いのスタイルがあったとして、それをいざというときになってしり込みして放棄してしまっては何の意味も無い。また、それはかなりダサいことでもある。僕は、出会いのスタイルについて、そのスタイルの良し悪しより、このデタミネーションの有無が大事だと考える。それは僕自身も、一番気をつけているところだ。

僕が犬を散歩させているお姉さんに話しかけたとして、僕のデタミネーションが出来ていなければ、僕はきっとオドオドしているだろう。そうなれば、それは相手にとってものすごく不気味で、迷惑なことだ。それだけは、是非とも避けたい。だから僕は、デタミネーションを重視する。デタミネーションを伴った自分のスタイルは、すなわち自分の個性とも言えるのかもしれない、とも思う。

あなたは、どうだろうか。人との出会いについて、自分の持つべきスタイルがデザインできていて、それがデタミネーションに支えられているだろうか。そう考えると、これはなかなかに難しいことだ。しかし、それが出来れば、これから先の人生、人間関係がだんだんと充実していく。だから僕は、おせっかいながらに、そのことを勧めたいと思う。

というわけで、最後まで読んでくれたあなたに、何か参考になるところがあれば幸いです。余談ですが、この「自分のスタイルのデザインとデタミネーション」、これは出会いだけじゃなく、シヴィアになってきた最近の世の中のあらゆるシーンで、必要になってきたことのように思われます。いやな先輩や上司がいる、就職先が無い、父がリストラされてお金が無い、あたしもいつまでも若くない。そういうシーンで、自分のスタイルとデタミネーションが必要になってくるんじゃないでしょうか。

あなたは、どう思いますか。





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