出会いのコラム









リラックス、について



マルケビッチが指揮するケルビーニのレクイエム・ニ短調、その中のディエス・イレ(怒りの日)を、CDで聴いています。まったくよく出来た曲だから、知らず知らず引き込まれていってしまう、といった具合で。そして、いつのまにか、全てを漏らさず聴き取ろうとすらしてしまっていることに、僕自身で気付いたりもする・・・。

ところで、あなたは音楽を聴くとき、どのくらいの精度で、その音楽を聴き取れているだろうか。それについて、ちょっと簡単なテストをやってみてほしい。テストといっても、点数を付けたりする類のものではないけれど。テストの方法は簡単だ。音楽のジャンルは何でもいいから、とにかく、それを出来る限り注意深く聴いてみるだけだ。

さて、あなたがそのようにして音楽を聴いたとして、その音楽の中に、いくつの音、いくつの楽器の音色が含まれているか、あなたは果たしてどこまで聴き取れるだろうか。例えば、ごくありふれたポップスがあったとして、こけた音色のバスドラム―――そうするために、バスドラムの中に毛布を押し込んだりすることがあるけれど―――、テンションを微妙に変化させてグルーブを創っているハイハット、ガムテープを貼ってサスペンドを消したタム、スティックではなくてブラシで叩いているスネアドラム、ストリングスを模した音色のシンセサイザー・キーボードが奏でるアルペジオ、バスドラムに同調している目立たないベース、コードを鳴らすだけの、しかもバレーコードが鳴りきっていない素人じみたギター、ハモリではなくコーラス・エフェクトをかけられたヴォーカルの声・・・といったふうに、細かく聴き取れるだろうか。

もちろん、そんな聴き取りが出来なくてはいけない、というわけじゃない。別にそういった専門家を目指すわけでもないだろうし、むしろそういうのを得意げに語るオタクは鬱陶しい。あくまで、どのように聴き取れるかということだけ、そのテストだ。僕が予想するに、大半の人は、ただ伴奏がジャカジャカ鳴っていて、ヴォーカルが歌っている、ドラムとギターが入っているのは分かるけど、といった程度に聴き取られるのじゃないかと思う。それが普通だ。特別に音楽をやった者じゃなければ。

音楽の専門家、オーケストラの指揮者とかになると、そういう聴き取りにおいて、とんでもない感度を持っている。僕が見てきた限りでも、「トランペットの真ん中の人、Eの音が20分の1音ぐらい低かったです」といったような指摘を、プロの指揮者はするものだ。それも、数十人のメンバーが一斉に演奏する中において、それを聴き分けるのだからとんでもない。また一方で、タチの悪いことに、プレイヤー(楽器を演奏する人)も、指揮者の力量を量るために、わざと間違ってみせたりもする。指揮者というのは、そういった中で、棒一本のみを使って、演奏を創っていく仕事なのだ。先に言ったテストをやってみた後なら、その困難さが、はっきりと分かると思う。指揮者というのは、ただ踊っているだけのように見えて、実はとんでもない仕事をするプロなのだ。プロである彼らは、新聞を読む速さで楽譜を読み、「あ、ここ間違ってる」とミスプリントを発見するし、演奏を始める前に、Aの音は440Hzじゃなくて442Hzでいきます、といったような決め事をする。2ヘルツの差、そこから生まれてくる印象の差なんて、常人の耳では聴き取れたものじゃない・・・。

僕自身、実は大学生時代、恥ずかしいことに、合唱団の指揮者をやっていた。団員は男性のみで、60名ほど、4つのパート(声部)に分かれて演奏する。無伴奏が多かった。
その中で僕は、指揮者としてあったわけだが、まあ僕はとんでもないニセモノ指揮者だった。何しろ音楽経験といえば、中学校の授業でタテブエを吹いたことがあるというだけだったし、鍵盤を弾くことも出来なかった。挙句には、ヘ音記号の楽譜を読むことも出来なかったのだ。学生のいいかげんなクラブ活動だったとはいえ、あまりにひどすぎる指揮者だったと思う。

それでも僕は、とりあえず、指揮者をやったわけだった。やるからには、何とかして、やらねばならない。ドミソの和音を聴き取ることすら出来なかったが、それもなんとかして聴き取れるようにならねばならない。授業にはろくすっぽ出席しない団員も練習時間になればちゃんと集まってきやがるわけだし、演奏会には、1000人からのお客さんが来るわけだから。

そんなわけで、僕はその時期、音楽を聴き取るということについて、真剣に向き合わざるを得ない状況になったのだった。曲目は、フェリックス・メンデルスゾーン男声合唱曲集。僕はそのメンデルスゾーンという人が、どこの国の人なのかすら知らなかったのに・・・。

どのようにすれば、「聴き取れる」のか?まして、聴音の訓練など生まれてこの方したことがない僕が、どのようにしてそれが出来るようになるか?僕が悪戦苦闘しながら身に付けたのは、つまるところ、「リラックスする」、という方法だった。リラックスすること、それは今考えてみても、やはり正しい、唯一の方法だった。今では、何かに真剣に向き合った人は、いかなるジャンルにおいても、このことに突き当たったに違いないと、僕は確信すらする。そして僕としては、その発見によって、色々と得たことがあったのであるから、そのことについてここに話そうと思う。

4つの声部から成る、和音があったとする。そしてそれが、どこか歪んでいて、またバランスが悪く、気持ちの悪い音だったとする。さて、その原因がどこにあるか?そしてどのようにすれば解決できるか?そういった聴き取りは、血管を浮かせて、歯を食いしばってガンバっても、まずどうにかなるものじゃない。そのことは、何となく分かってもらえるのじゃないだろうか。ガチガチに強張っている奴こそが、風に揺れるピッチャーフライを取りこぼすように、ガンバるといった方法では、そういった微妙なものはキャッチできないのだ。であればやはり、目も耳も広く保ち、リラックスという心の静けさにおいて聴き取るしか、方法は無い。だから僕は、必然的なこととして、リラックスという方法を身に付けていくようになったのだ・・・。因みに、僕として、そのリラックスについて究極のものを持っていると思うのは、後ろに目がついているような神業じみたパスを出す、あのサッカーのナカタだ。あれこそ、目も耳も広く持っていないと出来ないことだし、彼には歯を食いしばってガンバるというイメージが、最も似つかわしくないものだと、ほぼ万人に納得されるのじゃないだろうか。

ここで、リラックスということについて、誤解をする人がいる。大きなお世話ながら、あえて言っておこう。リラックスということが、わかっているようでわかっていない人が、結構いるようだから。

リラックスというと、寝転んでポテトチップスを食べながらテレビをぼんやりと見ている、といったような光景を思い浮かべる人がいる。それは、まあリラックスと呼ぶことはあるのだけれど、僕がここで言うリラックスとはまったく別物になる。そりゃそうだ、そんな方法で、和音がどうのこうのと、聴き取れるわけがない。

リラックスは、散漫とか怠惰とか、そういったものと正反対にあるものだ。むしろ、集中しきっている状態、と言ったほうが近いように思う。僕としては、リラックスすること―――余計なこわばりを消失させること―――によって集中が促される、という感覚でもあるけれど。

リラックスというのは、ゆるんだ状態ではない。むしろ、集中力が高まって、またそれが同時に拡散されてもいて、脳も体も全く無駄な動きをしない、といった状態を指す。そう考えてもらえれば、寝転がってぼんやりテレビを見ているときなどは、たいてい番組内容をはっきり覚えていないものだし、足を無意味にパタパタと動かしたりしていることもあるのだから、ここで言うリラックスとは別物だと了解されるだろう。リラックスとは、そういうゆるみきった状態のことではなく、むしろ「静かな高まり」のような状態のことを指す。また、集中力が拡散されるというのは、分かりにくいことかもしれないが、これもやはり重要なことだ。例えて言うなら、車の運転などに、それが表れるかもしれない。新人ドライバーは、自分の進行方向に全意識を向けるのだが、そのくせ進入禁止の道路標識を見落としたりする。その点、ベテランドライバーは、リラックスして運転できるから、「あのおばちゃんはいかにも飛び出して来そうだな」といったことにまで注意を向けることが出来る。そういったものを、集中力の拡散という。中には、それを「方中力」と呼ぶ人もいるようだ。また、出来ることなら、もう一度先のテストに返って、そのようなリラックス―――静かな高まりと拡散―――を心がけて、聴いてみてほしい。才能のある人なら、直ちに違った聴き方を手に入れることがある。僕は、散々苦労したけれど。

僕は、そんなふうにしてリラックスについて理解し、それによって曲がりなりにも、和音を聴き取り、演奏を創っていけるようになったわけだった。あくまで、素人に毛が生えたレベルとしてではあるけれど・・・。

さて僕は、そのような経緯でリラックスという方法を身に付けたわけだったが、いつの間にかそれは、僕の生活全般における、基本姿勢のようなものになってしまったのでもあった。本を読むとき、文章を書くとき、食事をするとき、映画を観るとき。そして、人と会って話したりする時も、いつの間にかそのように、リラックスして臨むことが習慣になっている。

僕は、人と仲良くなるのが、割と早いほうだ。人によっては、異常に早い、と言われることもある。それは僕の、数少ない自慢できることの一つだ。そして、今まであまり意識しなかったのだけれど、どうやらそれも、このリラックスという方法によって、生み出されている特性のようなのだ。

僕たちは、会話というコミュニケーションと、またそれに付随する非言語的なコミュニケーションとによって、親密さを創り上げていく。その会話において、リラックスが実現されていたとすれば、どのような結果が期待されるだろうか?それはもう、自明のことだ。僕は、元々は和音を聴き取る為だった姿勢、リラックスした状態で会話に臨むのであるから、相手の言葉、そのニュアンス、表情、態度、そういったものを、より精密に、取りこぼすことなくキャッチできることになる。それは疑いなく、コミュニケーションの密度を上げるものであるから、そこから創り出される親密さについても加速を得るに違いないだろう。僕はそのような仕組みで、比較的早く、人と仲良くなっていけるようなのだ。僕と実際に会話した人から、肯定的に寄せられた感想としては、次のようなものがある。僕として、ありがたい、嬉しいと思いつつ、そんな大げさな、と照れくさく思うものでもあるが。「本当に聞いてくれてる、って思う」「逆にこっちが緊張してくるぐらい」「話してるうちに、自分で色々発見する感じ」、等々・・・。

リラックス。それはありふれた言葉でありながら、実はいい加減に使いまわされるだけで、役に立っていない言葉だ。僕としては、改めてリラックスについて捉え直して、それを生活の実用において実効のあるものとして身に付けていくことを勧めたい。特に、人とコミュニケーションをとるにおいて、それはかなり有効なものだと僕は思うから。それは、逆の立場で想像してみれば、明らかなことだろう。自分の言葉が、丁寧に、望外の真摯さによって受け止められたとして、それはあなたを勇気付けずにおくだろうか。親密さは加速せずにいられるだろうか。しかも僕たちはともすると、そういう励ましをこそ、一番切実に、常のこととして求めているのでもあるから・・・。ついでに、僕たちはしばしば、コミュニケーションに疲れるといったような感想を持つことがあるけれど、それについても誤っていると言っておきたい。僕たちは決して、コミュニケーションに疲れるのではなくて、それがちぐはぐであったり、未完結であったり、要するにコミュニケーションが成されていない状態に対してこそ、疲れるのであるから。コミュニケーションが、正しく、濃密に成されれば、僕たちはいつだって元気になるものだ。

集中力が高まり、またそれが広く拡散し、脳にも体にも無駄な動きが無い状態。そのような状態をもって人と会話していくことを、志向しようじゃないか。特に、好きな人、大切にしたい人がいる人にとっては、それは大事なことだろう。会話の最中に、視線がちょろちょろと動く人、びんぼうゆすりをする人、受け答えがちぐはぐな人、生返事をする人、そういった人は、自覚しないままに相手に不快感と疲労を与えてしまうのであるが、そのことについても、リラックスの方法によって、是正されていくだろう。また、それを改善していくことは、人生そのものを改善していくことでもあるのじゃないか、などと僕は思ったりもする・・・。

最後に、「リラックスするための方法」について。その方法は人それぞれ、個性によるところはあるだろうけど、とにかく勘違いして、「散漫」や「力み」に向かっていかないようにするのが大事だ。リラックスしようとして、口を半開きにしてウトウトしてはいけないし、リラックスしなくては!と力んでもいけない。具体的な方法としては、やはりまず、深呼吸の繰り返しが、一番分かりやすいだろう。ラジオ体操でやるやつではなくて、腹式で、肩を動かさず、鼻から吸って、鼻から吐いて、深くというよりは、ゆっくりと、一定の速さを心がけて。一息吐くごとに、体の力が抜けていくことをイメージしながら。背筋が丸まらないように、注意もしながら。そして視線は一点に固定したまま、出来る限りまばたきをしないこと。そのような状態を十分間も続ければ、イヤでも集中した状態が作られる。これはそのまま、ヨガとか座禅とかで実践される方法と、全く同じでもある。このような方法で、準備をしてから人に会うというのは、それなりに有意義なことだろう。僕自身、そのようなことを、実際にやっている一人でもある。一応、人にバレないように、こっそりとではあるけど・・・。

さて、CDも終わってしまいましたので、このへんで。
もしいつか、僕とあなたが会うことがあったとして、その時にはお互い、リラックスして、ゆっくり話せればいいな、と思います・・・。


P.S.
話の展開上、偉そうに言う形になりましたが、僕は音楽について、やはり全くのニセモノです。その点、誤解のありませんよう。色々と努力の時期はありましたが、いかんせん、素養と才能が、足りなかったようなので・・・。






出会いのコラムへ戻る
出会いと恋愛のtopへ戻る