出会いのコラム









探さなくても、出会いはある








■出会いは恋愛の「試合」だ。

駅前のモスバーガーにノートPCを持ち込んでコレを書いています。で、モスバーガーの店員さんがかわいかったので、今ちょっといい気持ちになっています。注文のレジでおはようごさいますって言ってみたら、「あ、おはようございます、今日は寒いですね」なんて笑顔で言われてしまいました。スマップの香取君に妹がいたらこんな感じかなと思わせる、褐色の肌が健康的な女の子です。

残念ながら僕はヒゲを剃ってこなかったから、それ以上攻め込まなかったけど。

いいオンナに会うと、気分がいいです。だから、世の中の全ての女性がいいオンナになればいいのになぁ、などと僕は夢想してしまいます。

そうなったら、僕もちゃんと毎日ヒゲを剃るのに。

(いや、やっぱり剃らないかもしれない。それぐらい僕はずぼらな気がする)


***


さて、僕のいい気分とやらは置いといて、マジメに話し進めよう。

あなたはいいオンナだろうか。いいオンナというと抽象的なので、たとえばあなたが同じくモスバーガーの店員だったとして、同じようにかわいい挨拶が交わせるオンナだろうか。

いいオンナというのは、大して複雑な存在ではないので、「こういうのがいいオンナ」というのは誰でもある程度わかっている。でも、それを実際にやれるかどうかは別だ。ダイエットするためには食事制限をすればいいと、わかっているのにやれないのと同じである。僕も常時ダイエット中なのに、先日もついケンタッキーフライドチキンを死ぬほど食べてしまった。わかっていることと実際にやれることとはまったく別のことである。

だから、先の話の店員さんが、そう振る舞うのはステキなことだと誰でもわかっているのに、実際に自分としてそう振る舞える人は少ないわけだ。僕たちはみんな、それぞれにいいオトコ・いいオンナを目指しているのに、実際そうできている人は本当に少ない。

今のところ僕自身も、いいオトコの理想像ばかりレベルが高くて、現実には実力が伴っていないところだ。僕は、このことが無念である。ここを乗り越えて、早くいいオトコになりたいなと思う。いいオトコになれば、人生はもっと楽しいはずだからね。いいオトコにならずして、己が人生に不満を持つのは筋違いだ。

あなたもいいオンナになれば、人生はもっと楽しくなります。

(そりゃそうだ)


***


僕は自分として、いいオトコになりたいと思い、それを実現させるためのものとして、「出会い」というものを重要視することにしている。

なぜか? 

それは、出会いが恋愛の「試合」だからだ。

オトコとオンナが向かい合って、こんにちは、始めましてと挨拶するとき、それはオトコとオンナの「試合」だと僕は思っている。試合とはまさしく「試し合い」であるから、オトコとオンナは互いに出会い、そこでお互いのオトコとオンナを試し合うと僕は思っているわけである。

先にも言ったように、いいオトコ・いいオンナがどのようなものであるか、それは誰でもある程度はわかっている。問題は、それがわかっているのに実現できないということだ。そこを乗り越えるには、やはり「試合」にトライしてみるしかあるまい。

僕たちは何事につけ、技術や思想を自分としてモノにするとき、必ず何かの試合や実戦、あるいは本番というようなものを経る必要があるものである。サンドバッグにいくら美しいストレートパンチを打ち込めても、試合で襲い掛かってくる相手にそれを打ち込めるとは限らないわけで、本当にストレートパンチを自分のモノにするのは、試合でそれを実際に打ち込む経験が必要だ。

これは何かしらの試合なり本番なりに臨んだことのある人なら誰でも知っていると思うのだけど、試合で実際にやってみる、そこでこそ本当にそれを体得する、そういうことがあるものだ。「そうか、ヒザが力んでいるとシュートって入らないんだ」「そうか、ジャブが丁寧だからストレートも当たるようになるんだ」「そうか、和音が決まるというのは自分の音が聞こえなくなるということなんだ」、本番の緊張感の中でそういう発見をすることで、人は何か新しいことをモノにするものである。

だから僕たちも、それぞれにいいオトコ・いいオンナになりたいとして、それをひとつひとつモノにしていくにしても、それらをモノにするために「試合」の経験が必要なわけだ。僕はこのことのために、出会いというものを生きる上で重要視している。事実、僕は平均よりは出会いの多い生き方をしているはずであり、そのことによっていくらかは成長できたと思っている。

リアルな話、「あのコのことが好きでたまらない、ああ、もしあのコとデートできたら、たくさん笑わせて、たくさん楽しませるのに」と一人でモンモンとしているオトコと、僕が一人のオンナを取り合ったとして、僕は負ける気はしない。一人でモンモンとしているオトコは、まったく試合経験を積んでいないからだ。

たくさん笑わせるとか、たくさん楽しませるとか、それはそうできたほうがいいと誰だって分かっている。でも、わかっていることと出来ることは別のことなのだ。そういうひとつひとつのことだって、「モノ」にするには試合なり本番なりを経なくてはならない。その経験のないオトコがライバルなら、僕としては気がラクだというものである。

(っても、実際はそれでも負けたりするけど。まあそれは非才の身の悲しさよ)

僕はいつだったか、人を楽しませるというのはどういうことなのか、そのことについて大事な発見をしたことがある。

「そうか、人を楽しませるというのは、自分を忘れるということなんだ」

これはまったく別の話になってしまうけど、人を楽しませるにはまず自分が楽しむべきだなんて言う人が多い中、それはまったくの大ウソだと僕は思っている。自分だけ楽しんで、相手はまったく楽しくない、そんなことはいくらでもありうる。そんなものは、安物のショーや発表会にでもいけば散々味わえるだろう。酒の席で説教するのが好きなオヤジとかもいるが、それは本人としては楽しいようだけど、聞かされている側はまったく楽しくない。そんなことはいくらでもある。

楽しませるというのは、自分が楽しむということとは別のことだ。僕はそのことを知っているので、そのことを知らない人より強い。それによって、必ず相手を楽しませられるということではないけれども、自分がどの方向で努力すればいいのか、それを見失うことがないのだ。(このことを、一般的に「自信がある」と僕たちは呼ぶ)

僕はその種の発見を、もっとたくさん得たいと思う。そしてもっと、いいオトコに近づいていきたいと思う。そのために、僕は人と出会っている。新しく人と出会うのは、それなりにストレスもあることだけど、それは試合に向かう不安と緊張感だと、僕は前向きに捉えることにしているのだ。

あなたがオンナだとして、今よりもっといいオンナになりたいと望んでいるとするなら、僕はあなたに、もっとたくさん人と出会うこと、それを試合として成長していくことをオススメしたい。新しい出会いには不安と緊張がつきものだけど、それも精神の高まりのひとつなのだということを忘れてはいけない。その高まりの中でこそ、人は本当に成長しうるわけだから。

オトコの目を見て話すのが苦手、愛想のいいことを言うのが苦手、そういうオンナはまだまだたくさんいる。そういうオンナは、十回「試合」に臨めばいいと思う。それが結局、一番手っ取り早い方法だ。その十回の試合で、一回でも相手の目をしっかり見て、愛想のいいことを言ってみる、そういう経験をすればいい。それができれば、あなたはきっと発見を得るだろう。

「なんだ、こんなことでいいのか」

それが、自分として何かを「モノにする」ということだ。

この積み重ねが、あなたをいいオンナにしていく。

(いいオンナの人生は、そうでないオンナのものよりいくらか楽しいよ)






■意思的な出会いは難しい

このコラムを書いている現在、僕は第六回のパーティを企画し、その参加者を応募しているところである。だから、コラム自体いくらかそのパーティの宣伝というか、参加者を増やす一助になればいいナと思って書いているのでもある。それはいくらか作為的だけど、イヤラシイなあとか思わないで読んでもらいたい。僕はいい加減な人間だけど、せっかく発起人としてパーティをやる以上、それをいいものにしたいなとは真剣に考えてやっているのである。

だからここで、堂々と宣伝しちゃう。

Quali's Party 次回の情報はこちら!

←会場はこんなカンジ

読者の皆さんは、そんな僕を暖かい目で見るように。冷たい目で見られるとヘコみます。

(僕は強気のフリをして実はかなりナイーブなのです。イタいオトコです)


***


さて、本題。

出会いには、意思的な出会いと、そうでない出会いがあると思う。これは当たり前の話だろう。自分が生まれ落ちたとき、母と子は出会っているといえるわけだけれども、それは意思的な出会いではない。一方で、あのインストラクターはカッコいいなと思って、スポーツジムの正会員になったとしたら、それは意思的な出会いだ。

そんな感じで、僕たちの周りにある一般的な出会いを、「意思的」「非意思的」という視点でカンタンに分類してみる。

<意思的な出会い>
コンパ
友達の紹介
結婚式の二次会
習い事
異業種交流会
パーティ
ナンパ
出会い系サイト

<非意思的な出会い>
家族
同級生
同僚
クラブ・サークルのメンバー
入院
交通事故
結婚相手の親族

いかがだろうか。分類の仕方に疑問のある人もいるだろうけど、ひとまずこれはこのままにして読み進めてもらいたい。

僕としてこの分類を行うときの判断基準は、「会いたくなくても会わざるを得ないかどうか」だ。後者の「非意思的な出会い」についてその点で見てもらえばいいと思うのだけど、家族や同級生などは、会いたかろうが会いたくなかろうがほとんど強制的に会うしかないわけである。この意味で、僕はこれらの出会いを「非意思的」と捉えることにした。

さてこのような視点で、あなたの周りの出会いと、その後に残った人間関係を眺めてみるとどうだろうか。人間関係で、「意思的」な出会いを主としている人はなかなかいない。

あなたの場合も、そのほとんどが「非意思的」な出会い、という具合ではないだろうか。

僕たちの周りには、非意思的な出会いが多く、そこからの人間関係を作っているケースがほとんどだ。これは要するに、僕たちが意思的な出会いを作ること、そこから人間関係を作ることを苦手としているということである。

僕たちにとって、意思的な出会いは難しいということだ。ヨソの国みたいに、パーティの文化とかが根付いてないからね。


***


僕としては、非意思的な出会いを否定するつもりは毛頭ない。古くからの級友とか、クラブの同期とか、そういう友人・恋人がいてぜんぜん問題ないと思う。

しかし、非意思的な出会いというのは、明らかに運次第というところがあって、はっきりいって環境に依存してしまう。だから、環境が良ければそれでいいわけなのだが、生きているうちにはそうでない状況も出てくる。そういうときには、僕たちの出会いは枯渇してしまうわけだ。そのことが問題になってくる。たとえば、転勤で東京に出てきたが、職場はおじさんばかりで、恋をしたいけれどどこにも素材がない、というようなことが起こってくる。こういう話は、誰にとっても他人事ではない。アルバイトなんかで、今はスムースに新しく人と出会えている人なんかも、いずれ正社員になればこの出会いの枯渇ということに直面することになるだろう。これは断言してもいいことで、同じ会社で長く正社員をやっている人で、出会いに満足している人は特殊な職業を除いてはそうそういない。

またそれ以外にも、環境に依存する非意思的な出会いは、出会いの幅が小さいという問題もある。非意思的な出会いというのは、要するに自分の所属する共同体での出会いというのがほとんどだから、その幅がおのずとその共同体の属性によって縛られる。僕には誰もがうらやむような、かわいい女子高生の友達もいるが、普通の会社勤めをしている二十九歳男性にはそういう出会いはなかなかない。僕はスコッチのラベルを見ただけで、それがどの地方のスコッチでどの程度マニアックなものでどんな味のものかがわかるけど、あなたがそういう人とお酒を飲みに行きたいと望んでいたとしても、そもそもあなたの環境にはそういう人がいないかもしれない。

だから僕としては、非意思的な出会いは、僕たちにとって濃厚な人間関係を作りやすいものであるとはいえ、必ずそれだけで人間関係を豊かにできるとは限らないと思うわけだ。出会いと人間関係は、意思的なものと非意思的なもの、半々のバランスであればいいと思う。

非意思的な出会いで、濃厚な人間関係を作る。一方で、意思的な出会いで、幅のある人間関係を作る。そのバランスを作っていく。それが、出会いが豊かだということだ。人間関係が濃厚なだけでは豊かとは言えないし、出会いの数が多く幅広いだけでも人間関係は豊かとは言えない。

だから僕たちは、今のところ意思的な出会いを苦手としているとして、それを何とか手に入れていくように努力しなくてはならないと思う。足りていないところを埋める、という意味で。

さてでは、意思的な出会いはどのようにして手に入れるべきか?

それは、手に入れるという意思を持つことだろう。当たり前だが、意思的な出会いを手に入れるには、あなたが意思的であるしか方法はない。

出会いに対して、意思的であるということ。

これはきっと、今後の僕たちにとってとても大事になってくるだろう。そのことは、また後で述べていくことにする。






■第三回、四回、五回、パーティの報告。

第六回のパーティを企画する前に、過去のパーティのコラムを書けよというリクエストをいただいた。もっともな話だ。これは僕の怠慢という他ない。ごめんなさい。

でも、僕が過去のパーティのコラムを書かずに来たのは、いちおう理由のようなものがある。というのは、「取り立てて書くようなことがない」ということなのだ。実際にパーティの現場では、フツーの待ち合わせをしてフツーに飲んだくれておしゃべりするだけなので、それを逐一書いたとしたら、とてつもなくつまらない文章になってしまう。また、参加者の話してくれた内容には、いくらかプライベートな部分もあるので、それを僕が勝手に書くこともできないということもある。

それでも書くとしたら、たとえばこんな感じになる。

待ち合わせ場所に一番に来たのは、みるくさんだった。たけさんやタコスさんからは「メトロポリタンってどこですか」というメールを受け、待ち合わせに案外時間を食われる。それでもなんとか集合して、飲みが始まると、真っ先にマシンガントークを開始したのはやはりタコスさんだった。タコスさんのマシンガントークは、意図してのものではなく、あきらかに彼自身の性質によるもの。彼にはオンとオフのスイッチしかなく、微調整が効かないといった具合だ。それが見ていて面白いと感じられるのが、彼の愛嬌というところだろう。飲みが進み、僕は福さんに、隣のいつみさんがせっかくかわいいカッコしてきてくれてるんだからもっとサービスしろ、みたいなことを言った。が、彼は連日の仕事に忙殺されてか、疲労のために思いがけずアルコールが回っている様子。涅槃に近い表情が笑えた。みるくさんは、出された食べ物を残してはいけないという日本古来のルールを遵守するカムイさんをやさしく見守っている。たけさんが、友達と参加したいかがわしいパーティの話を失敗談として話すと、普段は女神サマのようにやさしい笑顔のゆりさんが、「え、それってお見合いパーティみたいなやつですか」と思いがけずキツい突っ込みを入れた。

どうだろう。こうやって書くと、実際に参加した人にとっては楽しく読めても、そうでない人にはよくわからない退屈なものになってしまうのではないだろうか。僕としては、そういうコラムを書きたくないのである。それに、これ以上突っ込んで書くとなると、参加者の皆さんのプライベートを勝手に公示することにもなってきてしまう。

そんなわけで今回は、通常のコラムとパーティのコラム、それをまぜこぜにして書いてみることにしたわけだ。いくらか読みづらさもあるかもしれないけど、そこはどうぞご容赦をお願いしたい。

あと、ここまで読み進めてきたついでに、パーティに興味を持ってくれる人がいたらなおうれしいです。


***


ええと、ここで一応、今までのパーティについて、形式的ですが報告をしておきます。これはこれで、報告しないのは参加してくれた人に失礼なので。

(まったく興味のない人は、どうぞ飛ばしてください)

第三回、四回、五回、それぞれについて、楽しくないパーティはありませんでした。僕には、そのことが何より一番うれしいです。


(以下、[新]と表示されているのは新規参加です)

==========<第三回パーティ>==========
■2004年9月18日(土)@新宿ヘイゼルバーン

ゆりさん  22歳・女性 (千葉県) [新]
たけさん  30代・男性 (東京都) [新]
ルナさん  22歳・女性 (大阪府)
みるくさん 22歳・女性 (東京都)
福ちゃん  27歳・男性 (東京都)
タコスさん 24歳・男性 (東京都)

※コメント>人数が僕を含め7人となり、
やっぱり人数多いと盛り上がるなぁという
感じでした。ここでゆりさんとたけさんという、
常連メンバーをゲットできたのもうれしい。
盛り上がりとパーティ飛躍の回です。

==========<第四回パーティ>==========
■2005年4月16日(土)@新宿ヘイゼルバーン

みるくさん
ゆりさん
たけさん
福ちゃん

※コメント>半年間も放置してしまったため、
前回より参加者が減ってしまった。まったりと
話し込むムードは僕的には楽しめたけど、
幹事としては反省の余地アリでした。
パーティというより、純粋にただの飲み
という回だったかな。


==========<第五回パーティ>==========
■2005年7月9日(土)@池袋のナントカいう店(忘れた笑)

神威さん  25歳・男性 (神奈川県) [新]
いつみさん 20歳・女性 (東京都) [新]
みるくさん
福ちゃん
ゆりさん
たけさん

※コメント>コスト削減のため、
池袋の安い飲み放題の店に会場変更。
僕自身は飲みすぎたため、あまり明瞭な
記憶がありません(笑)。
新規メンバーをゲットする一方、常連さん
たちが馴染んだこともあり、堅苦しさがとれて
自然にみんな酔っ払った回でした。うれしい。


……と、こうやって見るとアレだね、われながら男女比がちょうどいい感じだ。後、新規参加いただいた人が、その次回も参加してきてくれているというところが改めてうれしい。

一回参加したけどつまんなかった、そう思われたなら、その次は参加してもらえなかっただろうからね。

うん、うれしいです。これからもがんばるぞう、という気になってきます。

(改めて、今まで参加してくれた人ありがとう。これからもよろしく)






■これからの出会いについて、マジメな話

現代日本における、これからの「出会い」について、ちょっとマジメに考えてみる。

たまには、マジメに考えないとね……。

あなたは友人に、「出会いって、あんまり無いよね。なんでだろ?」と言われたとき、なんと答えるでしょうか。

そこでビシッと筋道の通ることを答えたら、それはそれでけっこうカッコイイものです。

(そこに惚れるオトコも、出てくるかもしれない)


***


僕たちは、メール(特に携帯メール)という、出会いと人間関係のための強力なツールを持っている。このツールについて、僕たちは当たり前のことのように思っているが、まずそうではない時代もあったのだということを確認しよう。僕が中学・高校のころは、自宅の電話で恋人と長電話をして親に怒られるということが日常としてあったし、自宅にいきなり電話するわけにいかないから下駄箱に置手紙ということも普通のこととしてあったのだ。交換日記というものも本当にあったし、お互いがお互いの留守番電話に「会いたい、○○で待ってます」とメッセージを入れ、お互い会えぬまま切ないすれ違いをするということも本当にあった。これは昔の話だけど、忘れていい過去の話ではない。僕たちの心性は、道具の発達ほどには発達していないのだから。

メールは、あって当たり前のツールではないのだ。僕たちは、メールというツールを「新しく」手に入れ、まだその性質をよく知らないままにそれを使っているに過ぎない。そう認識すべきだと僕は思う。

そして、性質を知らないで使うと、それによる副作用に気づかない、なんてことが起こってくる。メールにはメリットとデメリットがあり、見えにくい副作用を持っている。そういう方向で、僕は話し進めることにしよう。

僕たちは、メールという強力なツールを手に入れる一方で、そのツールの強力さゆえに、それに縛られるということにもなった。僕たちは新しく人と出会ったとき、メールの便利さを利用する一方で、それ以外の方法を採ることはできなくなったのだ。僕が中学生のころは、「思い切って電話してみる」ということがあったし、ダイヤルを回すその指が途中で止まる、というようなことも本当にあった。しかし今は、メールによってそのことが起こらなくなっている。電話をしたいときでも、「電話していい?」と同意を得るのがマナーになってしまったからだ。

メールの便利さと、メールの支配性、そういう現象がリアルなものとして僕たちの環境にある。僕たちは人と出会い、その人と関係を作っていきたいと思うとき、まずメールアドレスを聞く。その人と次に会うときも、メールで申し出るのが一般的だ。また、出会いのありうるコンパやイベントに誘うときも、メールで誘うことが一般的になった。このあたり、メールはとても便利なものだけど、一方では、もはやメールしか使えないという状況でもあるわけだ。

この環境の中で、僕たちはこれからの出会いというものを考えるならば、メールというものを前提に考えるしかないだろう。「メールしかない」、そう言ってしまってもいいかもしれない。(今の彼氏とは一通もメール交換したことがありません、もしそういう話があったら僕はぜひ聞きたいと思う)

メールを前提にして、これからの僕たちの人との出会いを考えるとき、僕はメールの性質として、次のことに思い当たる。このことは、当たり前のことのようでいて、案外誰も気づいていないように思われるのだけれども……。

「メールの特徴は、『誘いやすく、断りやすい』ということである」


***


気になる人をデートに誘ってみるというようなとき、あるいは、友人をコンパなりイベントなりに誘ってみるというようなとき、僕たちはメールを使う。気になる人に電話するのはプレッシャーだし、友人全員に電話をかけて誘うのは手間だし、親しくないうちはマナー違反になるからだ。また、電話だと話し中でつながらないとか、時間が夜遅すぎてかけられないとか、外出中で出られないといったことが起こるが、メールならそういうことがないからでもある。

人を何かに誘うとき、メールのほうが誘いやすい。それは、利便性においてもそうだし、心理的な側面からでもそうだ。

しかし一方で忘れてはいけないことがある。メールは、人を誘いやすい一方で、その誘いを断るときも、やはりメールのほうが断りやすいということでもあるのだ。それもやはり、利便性・心理的側面の両面からのことである。メールで誘われたとき、メールで「都合が悪い」と断るのは容易で気楽だし、場合によっては誘いのメール自体無視してしまうことも可能だ。後日になって、携帯が壊れてたとでも言っておけばいくらでも言い訳は立つ。直接会って誘われる、あるいは電話ででも口頭で誘われるのとでは、断りやすさがぜんぜん違う。

メールは「断りやすい」のである。

この「断りやすい」というメールの性質は、あなたの出会いにどのように影響を及ぼしているだろうか。これについては、あなたから誘う場合と、あなたが誘われる場合とがあると思うが、僕としてここでは、あなたが誘われる場合について考えたい。

あなたがあるオトコに、「週末に、一緒に食事しませんか」と誘われたとする。あるいは友人に、「週末にバーベキューやるから、来ない?」と誘われたとする。

人から誘われたとき、どんなケースでもそうだと思うが、まずあなたは「どうしようかな」と思うはずだ。そしてそこに、新しい出会いなり人間関係があるものならば、それを楽しみに思う気持ちと、それに伴うストレスを敬遠したい気持ちがせめぎあうはずである。オトコに誘われた場合なら、「特に好きでもないし、キライでもないから、行きたいってわけじゃないし、かといってイヤというわけでもない」とあなたは感じ、友人に誘われた場合なら、「面白そう、でもちょっとしんどいかも」とあなたは感じるだろう。

ここであなたは、出会いということに対する期待と不安を天秤にかけて、あなたとしての決断をするわけだが、このことにメールの性質が影響を及ぼしてくる。

もう一度言うが、メールというのは、断りやすいものなのだ。

だからあなたは、いつの間にか易きに流れ、なんとなく断ってしまう。具体的にいうと、二日後ぐらいに「ごめん、やっぱり日にちが合わないや」とメールするということである。

メールは、その「断りやすさ」の性質をもって、あなたから勇気を奪い、易きに流れさせ、出会いの可能性を奪う。

メールによって、あなたは誘われることが多くなっただろう。しかしメールは、それ以上の「断りやすさ」で、あなたから実際的な出会いの機会を奪ってしまっているのだ。


***


メールによって、僕たちは出会いの機会を増やすことになった。偶然隣に座った人と話が弾めば、その人とメールアドレスを交換して、そこから人間関係を作っていく、そのようなことができるようになったし、飲み会をやろうとか、何かしらイベントをやろうとか、そういうことの誘いも、気軽に大勢にかけられるようになった。

しかし僕たちは、その出会いと人間関係を、より安易に拒否できるということにもなったのだ。

さてこのことを、僕たちはどのように捉えるべきだろうか。メールは便利だけどダメなものです、文明の発達は人間性を破壊します、そういうように捉えるべきだろうか。

僕としては、そのような否定的な捉え方はしたくないので、このように捉える視点を提案したい。

「メールによって、僕たちはより『意思的』であることを要請されるようになった」

このことには、少し説明がいるだろうか。

僕たちはメールによって、人と出会う機会、人を誘う機会、人に誘われる機会、それを増やした。このことはまず間違いない。しかし、機会が増えた一方で、それを断りやすくもなったのだ。それがメールの性質、メリットとデメリットであった。

では、そのメールによって、出会いと人間関係を豊かにするにはどうすればよいだろうか? メールに出会いの機会を奪われないためにはどうすればよいだろうか?

そのことは、さして難しいことではない。メールというツールが「断りやすさ」を生むものであるということを前提として知り、そこから、「なんとなく断ってしまいたいけど、あえて受けよう」と思うことを、自分として促進していけばいいのだ。

なんとなく断りたいし、断りやすい。それでも、やはり人との出会いは大切なものだから、受けてみようと思う。そのように考える方向は、「意思的」と言っていいだろう。僕たちが、人との出会いを大切にしていこう、それに積極的であろうという意思を持てば、メールの「断りやすさ」に飲まれることはないのだ。

その意味で、メールというツールは、僕たちに意思を問うてくるものでもあるのだ。出会いには不安と緊張、その他さまざまなストレスがあるが、それでもあなたは出会いを求めますかと、そのことをメールは僕たちにテストしてくるのである。人との出会いは大切だと、そのことを口では言いながら、結局はタフネスがなくストレスを避けてしまうタイプの人を、メールというツールは差別・排斥するのである。

メールは便利で愛想のいい顔をして、こっそり僕たちに、意思的であるかどうかを問うてくる。意思を持つのが苦手な人、できれば誰かに無理やりどこかに連れて行ってもらいたいというタイプの人は、このことに特に注意が必要だ。油断していると、メールの「断りやすさ」によって、出会いの機会と人間関係の可能性を根こそぎ奪われてしまうだろう。


***


僕たちが、出会いについて以前より「意思的」であることを要請されているということ。これはメールのことに限らず、時勢そのものからくる要請でもある。僕たちはいつの間にか、イヤなものはイヤと言うべきだ、つまらない慣習や集団圧力に負けないようにならなくてはならないと、そう考えることが多くなっている。これは明らかに西洋的な個人主義思想の流入だが、このこともどうやら今さら歯止めは効かないようである。

いつごろまでそうだったのかは定かではないが、昔は「付き合い」という言葉が生きていて、会社の飲み会であるとか、サークルのイベントであるとか、町内会のお祭りであるとか、そういうものについては半ば強制的に参加させられる風習があった。会社なんかは年寄りが多いので、未だにそういう風習がしっかり生きているところもあるが、それでもやはり全体的な流れから言うと、強制力は低下してきている。

僕たちは「付き合い」という風習を放棄して、「参加したければ参加する」という立場をとることにしたのだ。だから僕たちは、今までは強制的に参加させられていたものについても、今は断ることができるようになった。たとえば、会社の忘年会があるとしても、その日は母が東京に出てくるんですと、そう当たり障りなく言っておけば白い目で見られることはなくなった。行きたくありませんと、そうはっきりいうと嫌われる風習はまだ生きているが、はっきり言わずに婉曲的に断ることについては「現代的だな」とむしろ賞賛さえ込めて認められるようになりつつある。

そしてこのこともまさに、僕たちに意思的であることを要請していると言えるだろう。何事につけ、参加するときは「参加したい」という意思を持って参加しなくてはならない。それはまさしく意思的ということだ。

ちなみに、言葉として「付き合い」という言葉を使うことがあったとしても、その「付き合い」という思想はすでに崩れている。なぜならその「付き合い」という言葉も、たいていは「わたしは、付き合いとか大事にしたいって思うんです」と、意思的な含みで使われるようになったからだ。


***


僕たちは今、意思的であることを要請されている。ここでは出会いということについて話しているが、それは生きる上のこと全般についての要請であるように僕には感じられる。

サッカーの中田英寿選手は、早くからイタリアでサッカーをやると決めていて、中学のころからイタリア語を勉強していたと聞いたことがあるけど……。

前半で僕は、出会いには「意思的」なものと「非意思的」なものがあると話した。そのことと合わせて、どうやら僕たちは、これからより意思的に生きていかなくてはならないようである。

そんなわけで、僕たちのこれからの「出会い」について、マジメな結論。

僕たちのこれからの出会いは、意思的になるのだ。

(もうとっくに、そうなってるかもしれない)





■あるオンナは、「探さなくても出会いはあるよ」と言った。

「今日、自習室に行ったらね、となりにオトコの人がいたの。でさ、近くに座るわけだから、一応挨拶とかってするじゃない? ここ、いいですか? って、普通にそう言ったのね。そういうのって、挨拶したほうがお互いに気分いいからさ」

彼女はそう、僕に話してくれた。僕は彼女の話を聞きながら、キレイなオンナほど、自信があって、それだけに何事にも強く熱心になれるのかもしれないな、と思った。それは不公平なことかもなと、そう思うと苦笑もしたくなる。

彼女は話を続けた。

「でもね、その人さ、アァ、ハイドウゾって、なんだか愛想の無い感じなのね。そういうのってさ、悲しいじゃない? なんだか、超他人って感じだし……。でさ、わたしなんとなく思うんだけど、そういう人って、最近増えてるよ。その人は何か、その席で携帯でメールをずっと打ってたんだけど、そういうのってどうかと思うじゃない? 目の前にいるオンナに、挨拶ひとつできないのにさ、メールでメッセージ送ってる場合じゃないよ」

彼女は不平不満を言うときも、その若さゆえなのか、奇妙に目がきらきらと光るオンナで、僕はそれをまぶしく思った。また、彼女の言うことももっともなことで、反駁の余地が無く、僕はなんとなく自分がその愛想の無いオトコと同類であるように感じられて、そのオトコの代わりに申し訳ない気分になった。

「そういうところで、出会いっていくらでもあると、わたしは思うんだけどな。ね、探さなくたって、出会いはいくらでもあるよ。そう思わない?」

彼女はそう話を締めくくった。

「探さなくたって、出会いはいくらでもある」。

僕はうなずくしかなかった。


***


探さなくても、出会いはある。僕は彼女の言葉を、まったく正しいもの、そして僕たちのこれからにとても大事なものだと感じた。

探さなくても、出会いはあるのだ。

僕はここまで、出会いについてあれこれと言ってきた。出会いは大切なもので、いいオンナ・いいオトコになるための「試合」になるということ。出会いには意思的な出会いと非意思的な出会いがあって、今のところ僕たちは非意志的な出会いに依存しがちだけど、意思的な出会いを意思的に求めていかねばならないということ。その意思的という部分については、僕たちが生きていく上全般について時勢から要請されていることでもあって、特に出会いと人間関係については、メールというツールの存在によって、より意思的であることが必要になったということ。

その僕の考えを、彼女の一言はうまく総括しているように思う。

出会いというのは、探して見つけるものじゃない。目の前の機会を「出会いにしてしまう」ものなのだ。

それがすなわち、意思的であるということに他ならない。

それは結局、僕が冒頭に話したモスバーガーの店員さん、その彼女の態度とも通底するものなのだ……。

彼女はこれからも、出会いに枯渇することはないし、これからもますますいいオンナになっていくだろう。彼女には、出会いを作っていく明確な意思があり、またそれをいいオンナとして示していく態度がある。

彼女はこれからも、自分から出会いを作っていき、その中でますます、自分としてのいいオンナをモノにしていくだろう。そういう彼女の生き方は、そうでない人の生き方の人より、ずっと楽しいものに違いない。

彼女に負けてられないなぁ、と僕は思う。僕は楽しい人生を生きていきたいので、いいオトコになりたいのだ。いいオトコの人生は、そうでないオトコの人生より百倍楽しいはずだと思うから。

いいオトコになるためには、これからは何事につけ意思的でないといけないだろう。それはいくらか大変なことだけど、しんどいと言って投げ出すようなことを僕はしたくない。

そこでしんどさに負けて意思を失うと、僕は出会いを失う。

出会いを失うということは、いいオトコになるための試合の機会を失うということだ。

僕も彼女と同じように、意思的に出会いを作っていきたい。その中で、自分としてのいいオトコを、モノにしていきたいと思う。


***


さてあなたは、どう思うだろうか。出会いということについて、またいいオンナになるということについて。

いいオンナになるためには、いくつか方法があるだろうけど、意思的に出会いを求める、出会いを作り出していくという方法に、より勝る方法はそうは無いと僕は思う。先にも言ったけど、いいオンナになりたければ、十回試合に臨むのが、一番強力で手っ取り早い方法なのだ。

僕は今、第六回のパーティを企画しているところだ。せっかく企画するのだから、たくさんの人が来てくれたらいいなと僕は思う。

とはいえ、これを読んでくれているあなたが、参加できる距離にいたとして、それでも参加しようと思ってくれるかどうかはわからない。もちろん、参加しないやつはダメだなんてぜんぜん思わないし、なんとなくその気にならないというなら、それはそれで当たり前のことだと思う。

しかし、そういうことであったとして、僕はあなたには「出会いの機会がない」とは言ってもらいたくない。出会いの機会はある。ここでわかりやすく、僕がパーティだなんだと、とてもわかりやすく示している。あとはそれを、あなたが意思的に選ぶかどうかだ。

(宣伝が入ると、われながらどうしてもイヤな感じになるなぁ。すいません。別にウチのパーティじゃなくても、そういう機会があれば何でもいいわけです)

僕はあなたに、「出会いの機会がない」と言ってほしくない。どうせなら、「出会いの意思がない」と言ってほしいと思う。そのほうが正しいし、正しい認識は物事を改善するほうに作用するから。

そして、今のところ出会いの意思をくっきり持てないあなたであったとしても、どこかでそれを持てるようになればいいと思う。そして、目の前にある機会を、実際に出会いにしてしまう、そこで自分としてのいいオンナをモノにしていく、そういうサイクルに入ればいいなと思う。

そのサイクルは、すてきなサイクルです。それはまた、入ってみれば、なんだこんなにカンタンなことだったのかと、そう思うようなサイクルです。

そしてもう、一旦入ってしまえば、二度とそのサイクルから出たくないと思う、そういうサイクルでもあります。

そのサイクルに入ってしまえば、あなたもきっと、目をきらきらさせてこう言うでしょう。

「探さなくても、出会いはあるよ」

(そう言えるようになったら、そのときあなたは間違いなくいいオンナです)






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