出会いのコラム









クオリのサイト、その趣旨(マジメVer)





人と出会うことは素敵だ。しかし、その出会いは、不足している。

私が住んでいる東京は、人が多い。およそ1200万人いると言われている。しかし、実際に話をして親交を深める対象となると、その100万分1のぐらいになってしまう。人口が多くても、親交の機会が増えるとは限らないのだ。たとえば、満員電車の中で、人に話しかける人はいない。逆に、山頂で休息をとる見知らぬ二人は、そこで会話を交わすかもしれない。

人は、基本的には、相手の人格を感知する能力を持っている。ただし、その人格の感知がストレスとなる場合、逆に相手の人格を感知しないようにする能力も、持っている。これを心理学用語で、没人格化と呼ぶ。満員電車で、となりのおっさんがやたらに不機嫌であったとして、いちいちそれを受け止めているわけにはいかない。なんだこいつ、と思って、シャットアウトするだろう。そのように、没人格化という能力が、人間には備わっているのだ。ファーストフードの店員は、お客さんに笑顔を向けるが、誰しも知っているように、これは社会的な笑顔であって、個人的な笑顔ではない。お客さんにお客さんというラベルを貼り、没人格化して対応するのは、都会の生活においてしようがないことだ。都会というのは、その没人格化が洗練されているところだ。たとえば新宿で、チェーン店の居酒屋に入ったら、たいていは、元気いっぱいの接客をしてくれる。悪い気はしない。ただしこれは、洗練された没人格化であるとも言える。逆に田舎にいくと、見た目はこじゃれたレストランであっても、接客はどことなく湿っぽい。じろじろ見られたりする。これはある意味、初対面の人格に接触したときの、まっとうな反応であるともいえる。没人格化が洗練されていないのだ。

このように、人口が多くても、常時没人格化が起こっている都会の状態では、出会いの機会は少なくなっている。先に例に出した、山頂で休息をとる見知らぬ二人の場合のほうが、出会いにつながる可能性は高い。相手の人格を感知する余裕があるため、人格同士の会話をかわせるのである。

没人格化は、出会いを加速的に少なくしてしまう。たとえば、一人暮らしをしている人がいたとしよう。その人は、スーパーで買い物をし、ついでに本屋に寄る。たまには喫茶店に行くだろう。その中で、いろいろな人と接触するが、その全ての接触は、お互いが没人格化している。店員が名札をつけていても、その名前を呼ぶことは、まず無い。それが都会暮らしというものだ。このような没人格化の接触だけが続くと、相手の人格とコミュニケートする「親交」というものが、感覚として忘れられてゆく。どうやって仲良くなればいいのか、わからなくなってくるのだ。そうなると、親交に自信が無くなるため、ますます出会いの機会を失っていく。学校に通っていて、いつも友人と会える場合や、会社でいつも同僚と会える場合は、たとえ気に入らない友人や同僚がいたとしても、まだいいほうだ。まだそれは、あくまで人格の接触であって、没人格化ではないからだ。たとえば、旦那さんが帰ってこない家で、新生児の子育てをする人は大変だ。新生児に、母親を一つの人格として認識する能力などあるわけがない。また、出かけるとしても、それこそ買い物や病院ということになる。誰一人として、自分の人格を感知してくれない状態が長く続く。これは、ある種の拷問である。昨今、母親がわが子を絞め殺した、などという話が最近よく聞かれる。それは決して許されることではないものではあるが、この没人格化の生活によって引き起こされるところもあるのではなかろうか。

さて、このようにして起こっている、没人格化による親交の混乱、それによる出会いの不足により、出会い系サイトというものがブームとなった。ではそれで出会いの不足は解消されただろうか。そうは思えない。むしろ、出会い系サイトが隆盛を誇るというのは、ますます出会いが不足していることの証左ともとれる。しかも、今度は別の社会問題が発生するようになった。ストーキング、強姦、果ては殺害に至る事件まで起こるようになってしまった。これは考えてみれば当たり前で、親交の感覚がわからなくなってきてしまい、混乱した人が、そういうサイトに参加して、二人っきりで会ったりするわけだからだ。混乱が生じるのが必定である。出会い系サイトに関連した事件として報告されているのは、もちろん氷山の一角でしかないだろう。事件未満のトラブルとなると、どれぐらい起こっているのか見当がつかない。

だから私は、もっと別の形式で、出会いの機会を作り出すことができないかと考えて、このようなサイトを開いた。まっとうな出会いをアレンジするためのサイトとして。

まっとうな出会いとはなんだろうか。一番良いのは無論、何も意識することなく、生活の中で周囲の人と親交が深まっていくことである。これがベストだ。もう一度整理していうと、このベストの出会いが、都会の没人格化傾向によって、難しくなってきているという現状だ。

では、このベストの状態を、人為的に作ることはできないだろうか。それが、このサイトの目指すところである。最初に述べた、「山頂で休息を取る見知らぬ二人」の場合を、ベストの出会いの例として、従来の出会い系サイトとの違いを踏まえて、考えてみる。

まず第一に、出会いが無作為である。山頂で誰に会うかについて、全く人為はない。人為ではなく、縁によって決まる出会いだ。従来の出会い系サイトと比較してみると、出会い系サイトでは、相手の性別、年齢、趣味、容姿などを確認した上で、アプローチする。女性が、多数の男性のアプローチを受ける、というのが大半だ。これは、女性の側からは、お見合いに近い形になるし、男性の側は、複数の企業に対して就職活動をする方法に近い形になる。それは、合理的な方法として一理あると思うが、ベストの状態の出会いにある、無作為、縁といった醍醐味を捨てることになる。

第二に、直接会っている。言うまでも無く、人格とか人柄とかは、直接相手に会ってこそ感じ取れるものである。従来の出会い系サイトでは、メールでアプローチするため、相手の人柄を知ることはできず、あくまで文章から推測するしかない。そもそも、相手のプロフィールだけをみてアプローチをかけるその段階が、没人格的であり、それだけに、男性が女性に対してコピーメールをばら撒いて、まず網にかかるのを待つ、という作戦に出たりするわけである。さらに、悪質な場合は業者がサクラをやとっている場合もあるし、実は援助交際を希望している人だったり、ネカマと呼ばれる、男性が女性のふりをして冷やかしで遊んでいる場合もあったりする。これでは、せっかくのアプローチが不毛な結果に終わるケースもあるし、そういうケースが重なると、ますます親交という感覚が混乱するのではなかろうか。

第三に、何かの共通項がある。出会いが無作為であるといっても、無秩序ではありえない。何か大きな共通項がある。今まさに同じ時間を山頂で過ごしている二人にとっては、天気ひとつ、山の形ひとつをとっても、立派な話題になりえるからこそ、親交はなめらかになるのである。出会い系サイトの中で、パーティを開いている形式があるにはあるが、それでは完全に無秩序になってしまうだろう。数学オタクと未亡人とヒップホップがパーティ出会ったとして、その無秩序のなかで親交を深められるかというと、かなり難しいといわざるを得ない。また、それでは参加する側も、どんな服を着ていけばいいのかすらわからず、不安極まりない。

これらのことを踏まえて、私は、次のようなスタイルをとることにした。サイト訪問者に、まずコラムを読んでもらう。ある程度共感できる、面白いなと思ってくれた人に、パーティに参加してもらう。参加者に、年齢等の制限はなしだ。これによって、第一の、出会いが無作為であるという点、第二の、直接会うという点、第三の、共通項があるという点をクリアーできると思う。どんな立場の人がくるか、その中で誰が誰と親交するかは「無作為」だし、もちろんまず「直接会う」わけだし、このサイトで表現されているものにおおむね賛同できている人、共感できる人という「共通項のある」人があつまるのだ。

そのように考えて、このサイトを開設した。

ではここから、パーティの風景を具体的に書こう。

参加者は、パーティの中で、適当に周りの人に挨拶なりをしてもらい、このサイトの話から、あるいはコラムの話から話題にしていってもらえればいい。あの九折っていう人、コラムの内容に比べてえらくダサいと思わないか、と、そういう話でもけっこうだ。そんな、リラックスしたスタイルでやりたい。先に述べた3つの点がそろっていれば、必然的に、リラックスした穏やかなムードで始まるはずだ。山頂で出会った見知らぬ二人をモチーフにしているのだから。ついでに、ゲームとか出し物とかについては、今のところ考えていない。それはあくまで余興にすぎないと思うからである。もしあるほうが親交がスムースだという意見がたくさん出れば、やるかもしれないが。

ちなみに、パーティは、ある程度の空間を貸しきれる中で、立食に近い形でやりたいと考えている。テーブルの前にどっしりと腰をすえて飲みだしたりすると、根が生えてしまって、いろんな人と話はできなくなるし、いやおう無く隣の人と話し続けることになる。友達と一緒に来た人は、隣り合って座って、そのままずっと友達と話し込んでしまうのが目に見えている。欧米では、パーティが生活の中に溶け込んでいるというが、まずどんな映像をみても、テーブルを囲んで座ったままのパーティというのは無い。それは、もう十分に仲良くなった者たちがやる、宴会のスタイルだと思う。パーティは、グラスを手に持って、あちこちに談笑の輪ができて、またその輪がほぐれて、というのを繰り返しているのが自然だ。加えて、別の視点でいうと、人と人が会話するときに、その間にテーブルをはさんでいるということそのものもよくない。目の前にある物体は、案外、心のバリアになるのである。これは、対人心理学の初歩的な本に載っていることだ。多数の人間の前で演説するときのことを想像してもらえれば分かると思う。前に教壇があるのと無いのとでは、感覚が全然違うはずだ。また、ダーツバーやダンスクラブなど、スタンディングスタイルの場所に行く人なら、そのときの人との話しやすさがよくわかるだろう。テーブルに座って初対面の人と話して親交を深めるのは、立って話すことの三倍難しい。

ついでに書いておくと、出会いをアレンジする以上、そこに発生するトラブルに対しても、できる限り配慮しなくてはならない。だから、参加者の住所氏名と、身分証明書だけは必ず確認しなくてはならないだろう。これは、いらぬ目論見を持つ人を除外するためでもある。ここで入手した情報は、決して公開することはない。もし参加者の誰かが、トラブルにまきこまれて警察に行くということになったときのみ、警察にその情報を提供する。参加者あるいは第三者には、一切非公開だ。まあこれは常識の範囲内のことである。

以上のような形で、私はパーティを開くつもりでいる。興味を持ってくれた人は、ぜひ試しに参加していただきたいし、何か質問がある人は、遠慮なく掲示板に書いていただくか、メールをいただけるとありがたい。

このクオリのサイトが、出会いの新しいスタイルとして、ごく少数の人にでも支持されれば、それがなにより私にとって嬉しいことだ。






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