恋愛偏差値アップのコラム









コミュニケーション再考






犬にエサをあげるのが好きだ。

僕の実家にはチビという雑種の犬がいるのだが、こいつにエサをやるのがおもしろい。粒上のドライフードをエサ皿にガラガラっと入れてやるのだが、そのうち数粒はエサ皿からこぼれてしまう。チビは必ず、そのこぼれた分から食べていくのだ。こぼれた分を食べきるまで、皿の中の分には決して取り掛からない。それはあれだ、アイスクリームを食べるときにまずフタについている部分を舐めとらないと本体に取り掛かれない、そういうのと同じ感じだ。チビにはそういう小市民的なところがあって、かわいい。

僕はそんな具合で犬を観察しているわけだが、観察という点では人間に向ける意識もあまり変わらない。僕は人を観察している。例えば、会話にすればこんな感じで。

「お前、ルーズリーフの綴じ方が雑だよな」
「え、そう?バレてた?」
「細かいことが苦手なんだろ」
「うーん、実はそう」
「ネイルアートしてるけど、中指ぐらいで早くも飽きた痕跡がある」
「あはは、やばい、あんましじっくり見ないで」

そんな感じで僕は人間を観察し、冗談を交えながら会話している。これが僕の、日常のコミュニケーションだ。僕はこのようなコミュニケーションを重ねて、人と仲良くなっていく。

人と仲良くなっていくなんて当たり前のことで、それこそ子供でも当たり前にやっていることだけど、最近はそれが苦手になっている人もいるようだ。仲良くなる、という当たり前の感覚がわからなくなっている。しかもそれは、メールを代表とした通信機器の発達によって加速しているようでもある。

仲良くなるということ。もちろん、人はコミュニケーションで仲良くなっていくわけだが、じゃあコミュニケーションとはいったいなんだろうか。僕はそのことについて、あまり難しくは考えないようにしている。僕にとってのコミュニケーションとは、「笑い」と「相互理解」だ。

僕は人といるとき、いつもその「笑い」と「相互理解」のことを考えている。たとえば、こんな感じ。

「あー、あたし、髪染めよっかな〜。ね、どう思う?」
「なに、イメチェンしたいの?誰かいい人が現れたな、さては」
「ちがうよ、そういうわけじゃないけどさ」
「赤を入れようぜ。日が当たるとキラッと赤く光るやつ」
「赤?似合うかな」
「いや、それは知らんけど。似合うかどうかには興味ないし」
「なにそれ、あいかわらずひどい人だねぇ」
「まあ案外似合うかもだよ。ストパーあてて、お嬢風にして」
「ストレートかぁ、憧れるけどね。でもあたしのキャラじゃないしなぁ」
「なんだ、意外にキャラとか、気にしてんだ?」
「それはまあ、あたしも女の子だからね、一応」

まあ何ともテキトーな会話だが、コミュニケーションなんてそんなものでいいと思っている。こんなことを重ねていけば、人と人はそれなりに仲良くなっていく。

さて、それが僕にとってのコミュニケーションなわけだが、このことが上手くできなくなっている人が結構いるわけである。ここから、コミュニケーションというものについてもう少し深く考えてみよう。

例えば先に示した僕の会話の例だが、ここからしてうまく出来ない人がいる。こんな感じでだ。

「あー、あたし、髪染めよっかな〜。ね、どう思う?」
「え?・・・うーん、それは、自分の好きにすればいいんじゃないかな?」(どう思う、って言われてもな・・・)

このような会話の展開を してしまう人は、コミュニケーションというものを根本的に勘違いしている。心理学用語を借りて言えば、コミュニケーションには「道具的コミュニケーション」と「自己完結的コミュニケーション」があるのだが、それを使い分けられていないのだ。

簡単に説明しておこう。

「道具的コミュニケーション」とは、読んで字のごとく、道具として用いられるコミュニケーションのことである。例えば、業務連絡などがそう。例えば、「本日正午、筆記用具持参の上、会議室にお集まりください」といったようなもの。あるいは、「まずは所見を申し上げます。CT検査の結果、心房中隔欠損症の・・・」といったようなもの。用件なり必要事項なりを伝える、道具としてのコミュニケーションだ。

それに対して「自己完結的コミュニケーション」とは、コミュニケーションのためのコミュニケーションというべきもので、用件もなければ伝えるべき事項もとりたてて無いもの。例えば、「ケヤキって、よく見るとかっこよくない?」「そうか?そう言われれば、ちゃんと見たことないなぁ」といったようなもののことだ。コミュニケーションをするという目的しかなく、コミュニケーションだけで自己完結しているから、自己完結的コミュニケーションという。ここでいう自己完結的とは、独りよがりとかそういった意味はまったくないので注意。

だから、先の例での「あー、あたし、髪染めよっかな〜。ね、どう思う?」という問いかけは、明らかに自己完結的コミュニケーションのものであるから、それに対して道具的に答えようとするのは間違いなわけだ。ここを取り違えると、コミュニケーションは根本からうまくいかなくなる。またそういう人は、「なにを話していいかわからない」というような心境にもなるようである。そういう人は、とにかく自己完結的コミュニケーションの感覚を身につけなくちゃいけない。それがよく分からなければ、とにかく「笑い」と「相互理解」に向かおうとするのがいいだろう。道具的コミュニケーションしか出来なくなっている人は、会話には笑いがつきものだということすら忘れていることがある。

コミュニケーションが苦手だという人には、また別のパターンもある。それは、「人を観察できない」というパターンだ。コミュニケーションは「笑い」と「相互理解」によって成り立つものだが、「相互理解」のためには人間を観察する能力が要る。だから観察が出来ていないと相互理解なんてありえないわけで、したがいコミュニケーションも成立しないのだ。

人を観察できていない人と会話すると、こんな感じになる。例えば、会社の先輩に二年越しの片思いをしている女の子と僕が会話した場合。

「その彼の、どこが好きなの」
「やさしいところ、かな」
「どのへんに優しさを感じるの?」
「どのへん、っていうか・・・。全体的に。雰囲気というか」
「そっか、全体的に、か。その人、将来は独立してベンチャーをやろうって人なんだろ?てことは、激しい部分とか厳しい部分もあるんだとは思うけど。そのあたりは、どう?」
「うーん、多分あるんだと思う。よくわかんないけど」

こういう人は、僕に言わせるともはや観察と言語表現を放棄してしまっているというように思えるわけだが、こういう人は実際に結構いるようである。曖昧主義としてやっていくということであれば僕として口出しをする筋合いではないわけだが、多分苦労するのは本人だろう。コミュニケーションといっても大半は観察と言語表現でやるものなのだから、観察と言語表現を放棄するのはコミュニケーションを放棄しているに近いように、僕には思われるのだけど・・・。まあこういう人は、肝心の彼と話すときにも言葉につまり、あちこちで「よくわかんないけど」と会話を中断してしまうに違いない。(それはかなり失礼なことです)

人を観察できないというパターンには、他にもいろいろある。ひとつは、根本的に人に意識が向いていない場合。またほかにも、人を観察する以前に、自分を観察できていないという人もいる。

人に意識が向いていない場合とは、例えばこんな感じ。

「昨日もメールしたんだけど、昨日は返信こなかったの。なんでかなぁ?」
(メールの内容を僕に見せる。内容はごくフツーだ)
「単に忙しかったんじゃないか?内容は普通なんだし」
「うーん・・・」
「実はオレも、前にダンサーの人と付き合ってたことあるんだけどね」
「そうなんだ」
「ダンスやってる人って、本当に熱中しちゃうし、柔軟体操とか筋トレとかも含めると忙しくなっちゃうみたいだよ。お金もかかるから、バイトもかなりしなくちゃいけないみたいだしね」
「でも忙しいならさ、忙しいからゴメン、って一言だけでも入れてくれたらいいのに。ねぇ?」
「あ、ああ。まあ、そうだね」

書いていて自分でむかついてしまうが、こういう人は根本的に人に意識が向いていないから、目の前で会話している僕のことを完全に無視してしまう。

まともな人なら、例えばこんな風に会話が続くのが普通だ。

「単に忙しかったんじゃないか?内容は普通なんだし」
「うーん・・・」
「実はオレも、前にダンサーの人と付き合ってたことあるんだけどね」
「へえ、そうなんだ。やっぱり苦労した?」
「うん。基本的にいつも放置プレイだった。一人で編み物でもしてようかと思ったよ」
「あはは、そんな恋をしてた時もあったんだね」

目の前にいる人に意識が向いていれば、こういうふうに会話になっていくのが当然だ。これは当たり前のことだけど、出来ていない人というか目の前にいる人を意識に入れない人は本当にいる。(これもかなり失礼なことです)

コミュニケーションなんて基本動作のものだから、目の前にいる人に意識が向けられない人が、お目当ての人と会っているときだけ意識を向けられるようになるなんてことはまずない。だから、こういう人は結局のところ何もうまくいかないだろう。お目当ての彼と話す機会があっても、五分で話が詰まる。

もう一つ、人を観察する以前に、自分を観察できていない人の場合。

自分を観察できていない人との会話は、こんな感じになる。

「なにが食べたい?」
「うーん、何でもいいよ」
「そっか。じゃあパスタ屋いこっか」
「パスタ・・・、は今ちょっと気分じゃないかも」
「そうか。ていうか、もともとあまりゴハン食べないよね?」
「そうかな」
「うん。すごい小食。昔からそうだったの?」
「うーん、そうかな。どうだろ」
「昼ごはんがわりに、ケーキでも食べに行くか。一駅移動するけど、いい?」
「うん、別にいいけど」
「そういえば、割とフットワークは軽いよな」
「そっかな?」
「一人でも、けっこう出歩くほう?」
「うーん、たぶんそう?」

成立していないコミュニケーションは、書くだけでも疲れてくるなぁ・・・。こういう人は、相互理解の前に自己理解ができてない、下手すれば自分にすら興味がないので、コミュニケーションのしようがない。

まともな人なら、次のように会話は続くはず。

「うん。すごい小食。昔からそうだったの?」
「そうなの。小学校のとき、掃除の時間まで食べてた」
「ああ、いたね。クラスに一人はそういう人が」
「あれって、超ミジメだよ〜。昼休みないし。いじめられるし」
「うん、わかるわかる。俺はいじめる側だったけど」
「やっぱり」

そんなわけで、色々と書いてきたが、それぞれのパターンでコミュニケーションがうまく出来なくなっている人がいるわけである。道具的コミュニケーションしかできない人、相手を観察できない人、自分も観察できてない人、まあそのほかにも探せば多分あるだろうな。でも、成立してないコミュニケーションについて考えるのは非常に疲れるのでこの辺にしておく。

さて、自覚的にコミュニケーションが出来なくなっている人は、自分のパターンというか問題点を自分なりに突き詰めていって、それを解決するしかないだろうな。そして結局のところは、人と会話するときに、「笑い」と「相互理解」を志向していくということになると思う。敢えて繰り返して言ってしまうが、コミュニケーションとは「笑い」が半分、「相互理解」が半分だ。だから、何時間会話しても「笑い」と「相互理解」がなければコミュニケーションとしてはゼロなんだということを忘れてはいけない。コミュニケーションというものを見失っていると、ただ会話さえすればコミュニケーションになっていると思ってしまったりするが、それはまったくの勘違いである。「笑い」と「相互理解」が密ならば15分で仲良くなることもあるし、それがまったくなければ何年かけても仲良くならない。(むしろただのストレスだな)

コミュニケーションについて、また別の面についても話そう。先に僕は、コミュニケーションなんて基本動作のものだと言ったが、そのことについて。

基本動作というのはあれだ、簡単に言うとサラリーマンが名刺を交換するときの動作とか、道を曲がるとき交差点の手前十メートルでウインカーを出すとか、そういう動作のことだ。特別に意識するまでもなく、ごく自然に出る必要動作。この点、コミュニケーションが基本動作であるということはまず間違いのないところだろう。「これからコミュニケーションを始めます」なんて宣言する人もいないし、コミュニケーションを始める前にマニュアルを確認する人もいないのだから。特別に意識することなく、自然に出る動作。コミュニケーションとはそういうものだ。もちろん、その基本動作も洗練されている人とそうでない人はいるわけだけど。

コミュニケーションが基本動作である以上、誰とコミュニケーションするときでも、取り立ててそのやり方には違いは出てこない。サラリーマンが名刺を交換するとき、相手によって動作が変わらないのと同じだ。

コミュニケーションは基本動作であり、相手によってやり方が変わるということはない。これは例えて言うなら、あなたが仲の良い近所のおじさんと話すときの動作も、思い焦がれる彼氏と話すときの動作も、基本的には変わりがないということだ。隣のおじさんに、「あら、スーツ召されて、今日はどちらにお出かけですか」と話しかけるのと、思い焦がれる彼に、「あ、髪型、かっこよくなったじゃん!」と話しかけるのと、動作としては本質的に同じである(もちろん心中は違うけど)。これは言い換えれば、となりのおじさんとうまくしゃべれない人は、思い焦がれる彼ともうまくしゃべれないということにもなるだろう。

なぜ僕がこの基本動作としてのコミュニケーションについて言及しようとするのかというと、この点を勘違いしている人が多いからだ。よく聞かれるのは、こういう言い方。

「他の人とは全然普通にしゃべれるんですけど、彼としゃべるときは緊張しちゃって、全然だめなんですよ」

この言い方も、中学生や高校生が言うならまだわからないでもない。年齢的に幼すぎて、頭に血が上ってどうにもならなくなるということはたしかにある。

しかし、ある程度の年齢になってそのように言う人は、たいてい認識を間違っている。好きになった人とコミュニケーションが出来ない人は、やはり他の人ともコミュニケーションができないものだ。

このことについて説明するのに、例えばこんなケースを考えてみよう。あるサークルに所属する女の子がいて、彼女はある先輩のことを好きになったとする。彼女と彼はまだあまり親密ではないが、帰り道に偶然一緒になったりすると挨拶程度の会話は交わす。サークルの活動中はそれぞれの回生ごとのグループで群れているので、自然に先輩に接近できるような機会はない。彼女は同回生のみんなとは男女とも仲が良いが、他の回生とはあまりつながりがない。

このような場合について考えてみるとして、彼女がこう言ったらどうだろう。

「たまに帰り道とかは一緒になるんですけど、そのときも緊張しちゃって、うまくしゃべれないんですよ。他のみんなとは、普通に話せるのに・・・。先輩は来年、フランスに留学するらしいんです。なんか、真剣に勉強したいことがあるらしくて。そのことについて色々聞いてみたいなって思ってるんですけど、なかなかそれも切り出せなくて・・・」

この場合、彼女が「他のみんなとは普通に話せる」と言っているのは、まず同回生のみんなとの会話のことを指している。しかし、その場合の「他のみんな」とのコミュニケーションと、想いの彼とのコミュニケーションとでは、あまりに状況が違いすぎるのではないか?それを同列に並べて考えると、勘違いを起こすのである。

それぞれのコミュニケーションにおける状況の違いを、わかりやすく列挙してみる。

<他のみんなとのコミュニケーション>
・集団でのコミュニケーションである
・既に親密度は高い中でのコミュニケーションである
・無駄話中心のライトなコミュニケーションである
・関係を深める意図のないコミュニケーションである

<彼と(したい)コミュニケーション>
・一対一のコミュニケーションである
・まだ親密度が低い中でのコミュニケーションである
・留学のことを含め、真剣なコミュニケーションである
・関係を深めたいという意図のあるコミュニケーションである

要するに、既に仲のいいみんなと、集団で「やべえ、俺マジで留年する」「あはは、もう無理なんじゃない」「お前も仲間入りだな」という具合にだべっているのと、先輩と一対一で「あの、先輩が留学するって聞いたんですけど、本当ですか」「・・・ああ、誰から聞いたの?」と会話する、しかもその後ラヴラヴの関係になりたいと企んでいるのとでは、あまりに状況が違いすぎるのである。

このような場合、こう考えると正しい認識が見えてくる。あえて、特に好きでもなんでもない先輩を架空に設定してみるのだ。その先輩とは、あまり親密ではない。その先輩は、近々転学するという噂である。

さてそのような場合、その親密でない先輩と、一対一になって転学の話ができるだろうか。そしてそこから、その先輩と仲の良い友人の関係になっていけるだろうか?

そう考えたときに、やはりそれは難しそうだということがイメージされたら、その場合はその好きな彼とだけコミュニケーションができないというわけではないのである。それは正しく言うなら、「一対一で、親密度が低い中で真剣なコミュニケーションをして、関係を深めていく」ということが出来ないということだ。その先輩が好きな人であるかどうかは、実は関係がないのである。

このことについては、恋の真っ只中にいる人にはなかなか理解されないかもしれない。そこで念のため、もっとイージーな例を挙げておくことにする。

僕が、スターバックスの店員さんを好きになったとしよう。僕はスターバックス以外にタリーズにも行ったりするが、タリーズの店員さんは特に好きではない。

さてここで、僕として、タリーズの店員さんには話しかけられるが、スターバックスの店員さんには話しかけられない、なんてことがありうるだろうか?

そんなわけはないのである。コミュニケーションというのは基本動作であって、相手のことが好きかどうかは直接には関係がない(嫌いな場合は別だけど)。この場合、もし僕がスターバックスの店員さんと仲良くなれたとしたら、そのときは背後でその基本動作が出来ていたということなのだ。よく行く酒屋の主人に、毎度、と挨拶する。コンビニの店員さんに道でばったりあったら、今日はバイト無し?と話しかけてみる。ドトールに行ったら、今日は贅沢してココアにします、と余計なことを言ってみる。そういう基本動作の練成があってこそ、スターバックスの店員さんとも仲良くなれたということである。(なんか僕の生活を暴露してる気分だな)

これは言い換えてみれば、好きな人とだけコミュニケーションしようというのは虫が良すぎる、ということでもあるだろう。先のサークルの女の子の例で言えば、他の先輩とはコミュニケーションする意思がないのに、その好きな先輩とだけ濃密なコミュニケーションを求めているのだ。それは、まったく虫が良すぎる話だろう。第一、それは相手からして不自然に感じられるものだ。例えばあなたが、クラスで一番陰気な男子生徒から突然に、「○○さんは、どこに住んでるんですか」と話しかけられたとしたらどうか。あなたはギョッとするだろう。逆に、誰とでも仲良くなってしまう愉快な人がいたとして、その人から「そういえば、○○さんってどこに住んでるの?」と聞かれたとしたらどうだろう。それはごく自然な興味の発露のこととして、あなたに抵抗なく受け取られるはずだ。

コミュニケーションとはまったく基本動作であって、誰か特定の人だけを相手にうまくやろうとしてもそうはいかないものなのだ。だから、普段から相手によらず話していく、コミュニケーションしていく、そしてその基本動作を練成・洗練していかなくてはならない。そうでないと、好きな人があらわれたときに本人が損をする。もちろん、恋愛以外の場面でもコミュニケーションすることはいくらでもあるから、恋愛に限った話ではない。例えば就職面接なんかもそうだ。普段から真剣な内容でのコミュニケーションを練成せずにきて、その本番になっていきなりそこだけ真剣なコミュニケーションができるかといえば、それはやっぱりできない。で、落ちる。そのようなときも本人が損をするわけである。

さてここまでの話をまとめてみると、こういうことになる。

「コミュニケーションとは、『笑い』と『相互理解』を作っていくことであり、基本動作として身につけていくものである。我々は普段からその基本動作を練成・洗練していかなくてはならない」

ものすごく当たり前のことを仰々しく言って、我ながら恥ずかしくなるな・・・。まあ、結論としてはそういうことなのだ。誰とでもお話していきましょう、誰とでも一緒に笑って、相互理解していくように努めましょう。それがあなたのためなのです。(ああ、なんて当たり前なんだ。バカみたいだ)

まあ、大事なことというのは、いつでも当たり前の結論に行き着くのかもしれない。それは僕たちが、その当たり前のことすらできないような狭量な人間だということでもあるのだろう。僕たちは当たり前のことが当たり前にできない。だから、当たり前のことについて確認しあったりもする。

「会話をしたからってコミュニケーションになるとは限らないだろ」「笑いのない会話って、普通に考えてダメだろ」「相手のこと何も分かってないじゃん」「自分で自分のこと分からなくてどうして相手のこと分かるわけあるんだよ」「目の前にいる俺ともコミュニケート出来てないじゃん」「自分のことばかり話すなよ」「会話っていうかそれじゃ尋問みたいだよ」「ちゃんと聞けよ」「ってゆうか他の人とも仲良くなろうとしろよ」「相手からするとすごい不自然だと思うよ」「ユーモアってかなり大事だよ」「それを一生苦手なままいく気なの」「すごい失礼なことしてるの自分で気づけよ」。

そうやってお互いに確認していかないと、すぐにコミュニケーションというものを見失ってしまうのだ。コミュニケーションが好きなくせに、それをすぐに見失うのは不思議なことだけど。

僕たちはコミュニケーションが好きなくせに、コミュニケーションに対して横着でもある。たいてい、学校とかサークルとか職場とか、そういう共同体に入って、そこから自然に関係が醸成されるのを待つばかりだ。初めのうちは心細いから、誰かが飲み会をやろうとか言い出して、それに参加して熱心にコミュニケートしようとしていくのだが、関係がある程度できてしまったら後は途端に横着になる。慣れきった関係の中で、ぼんやりしたままの脳みそでおざなりな挨拶をし、気の利いた冗談なんか考えるのも面倒、相互理解なんか興味がない、という感じになるのだ。それで、好きな人ができたらそのときは頑張ろう、なんて思っている。

その横着さに加えて、最近はメールという道具も入ってきてしまった。メールは便利なのだが、誰でも感じているように、人間関係を希釈してしまう副作用があるものである。メール交換なんて情報量としては希薄なものだから、それによって人間を観察することは到底できない。だから、相互理解はますます難しくなるばかりなのだ。例えば、「今度一緒に飲みに行きましょう」という言葉があったとして、メールではそれが社交辞令なのか本気の誘いなのかわからない。直接面と向かって言われれば、そのあたりのことは雰囲気からすぐにわかるし、その誘い方一つでも相手のことを観察し理解することができるんだけど。「顔を赤くして、意外に恥ずかしがりやなんだ」とか、「へえ、意外に堂々としてんだ」とか・・・。

そんなわけで、僕たちのコミュニケーションは環境からしてあまりよろしくない状況なわけで、またそれだけにすぐにコミュニケーションとはなんだったのかを見失ってしまいがちなのだが、かといってそれをぼやいていてもしょうがない。コミュニケーションなんていらないヨという超人は別にして、僕たちは所詮コミュニケーションなしでは生きられないのだから、普段からコミュニケーションの練成、「笑い」と「相互理解」を作っていけるように努力しようではないか。努力ったって、僕なんかはどうせすぐにやる気がなくなってしまうから、まあ一応の心がけという程度になってしまうけど。

ところで、仲良くなるということで思い出したが、そういえば僕にはひとつ疑問があったのだった。仲良くなるということについて。実家の、チビの話なんだけど。

僕は実家にたまにしか帰らない。それなのに、家族の誰よりも、僕がチビに懐かれているのはなぜなんだろう。たまにしか帰ってこないから、逆にそれがチビには楽しいのだろうか。チビはいつも、ちぎれそうなぐらいに尻尾を振って僕を迎える。僕はそういうチビを見ると、可笑しくて思わず笑ってしまうが、その時のチビの顔も、まあ人間の思い込みはあるにしても、やっぱり笑っているように見える。

家族全員の認めるところ、僕は家族の誰よりも、チビと仲が良いのだ。
なぜだろうな。

チビのことについて、次に帰ったときに、僕としてひとつやってみようと企んでいることがある。それはあれだ、粒上のドライフード、それを皿からこぼすというのではなくて、思い切って地面に撒いてやろうかなと思うのだ。というのは、僕としてふとこう思ったからである。ひょっとしたらチビは、こぼれた分が気になるということ以前に、地面に落ちているものを鼻で探って食べるのが好きなんじゃないか。やっぱり犬なんだから、匂いで食べ物を探すということが、本能的に楽しいのかもしれない・・・。

地面に無数のドライフードをばら撒かれたら、チビはどんな顔をするだろうか?けっこう、楽しみだ。僕はそのチビの表情をみて、笑うだろう。そしてたぶん、チビも笑っていると思うのである。

コミュニケーションなんて、そんなものだろう。









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