恋愛偏差値アップのコラム









この春、大学に入学するあなたへ






今から十数年前、僕も受験生だった。僕の場合、高校卒業時点で偏差値は平均で40を切っていたので、一年間浪人した。浪人した一年間は、一日十五時間勉強した。一年間、サボった日は一日もない。今思い返すと、まったくロボットのような一年間だったと思う。

ロボットのように過ごした一年間は、まったくステキな一年間だった。何がステキか? それはもう、この一年間を受験勉強に明け暮れてきたあなたなら、言わなくてもなんとなくわかることだろうと思う。それがわかるようになったなら、あなたの一年間はとても有意義だったことになる。そういうことのステキさがわからないままに生きている人もいるが、その人は無心に何かに打ち込むということの快楽を知らない。あなたはもうそういう寂しい人生を生きることはなくなったわけなので、あなたとして辿りついた今の場所に喜んでいいと思う。

まあ僕の場合は、それだけ勉強したにも関わらず第一志望に落ちて滑り止めに入学することになったのだから、実際には情けない話なんだけれどね。それでもというか、それだからこそ僕にとってあの一年間はステキで重要な一年間だったと思うわけだ。僕はあの時、自分がどこまでやれるか、まだどこまでやれないか、そのことを深く理解した。そのことを、「経験」と呼ぶ人も多い。

あなたの受験勉強がどのような結果に終わったのかはわからない。でも僕は、ひとまず全員の方におめでとうございますと言いたい。第一志望に合格した人はハッピーで、そうでない人は僕と同じコースだ。あなたは「経験」をしたことになる。それを今の年齢で経験できたことは本当に大きな財産になるだろう。

僕の場合でも、第一志望に合格できなかったのは無念だったけど、今思い返してみて、もしもう一度あのときからやりなおすことができたとしても、やはりもう一度自分の生きてきたこのコースを選びたいと思う。

今となっては逆に、あのとき第一志望に落ちてよかった、とさえ僕は思ってたりもするのだけどね。

まあそれは、僕ぐらいおじさんの年齢になってからわかる話。とりあえず、おめでとうございます。そしてお疲れ様でした。

一年間頑張ってきた自分を、自分で褒めてあげましょう。

あなたは頑張りました。偉かったです。

そして、もう忘れましょう。

僕はもう受験生ではない。そしてあなたも、もう受験生ではないのだ。

あなたはこれから向き合うのは、受験でなくて自分の人生そのものということになる。

安寧の時間は終わった、ということです。

(もう、机に向かっていれば安心と、そういうことではなくなってしまったわけです)



■四月中は絶対にアルバイトをしてはいけない。

今回は、恋愛にまったく関係の無い話になってしまうかもしれない。一応、コミュニケーションがどうこうという話の部分につなげて、強引にそれっぽいところを挟もうとは思っているのだけど、まあ本質的には今回の話は恋愛に関係が無い。これはアレだ、僕として、これから大学に入学するあなたに、いくつかの知恵と心構えを提案しておきたいという意味でのコラムに過ぎない。僕自身の過ごした大学生活は特殊でへんちくりんで、まあそのやり方は肌に合わないと思う人も多いと思うのだけれども、その特殊でへんちくりんだった生活は、まさしく「大学でしかできない」ものだったと今の僕には思い出されるわけで、もしあなたが大学に入ったら大学でしかやれないことをやろうと考えているなら、その僕の経験と提案はいくらかあなたにとって他山の石になりうるかと思うわけだ。えーここで、「他山の石」という言葉については意味を説明しない。もうあなたも大学生になるのだから、それぐらい自分で調べて知っておくべきだ。

そんなわけで、まず僕としてあなたに、一つ実際的な話をしておこうと思う。

大学生の生活というのは、いろいろあるようでいて実は結構シンプルだ。要素を大きく分類すると、実のところ生活を形成する要素は次の6つしかない。このことは、周りに現役の大学生がいたら聞いてみてもいい。どの大学生でも「そうだね」と答えるだろう。

勉強
クラブ・サークル
アルバイト
恋人
趣味


で、この6つは、細かくみると次のように分岐を持っていることにもなる。

勉強(「学問」をやるか「資格」をやるか。予備校に通うかどうか)
クラブ・サークル(四年間みっちりの「クラブ」をやるか、一、二回生が主体の「サークル」をやるか)
アルバイト(コンビニ・ファミレス・家庭教師を長期でやるか。あるいはコンパニオンを短期でやるか)
恋人(独り暮らしの彼とどっぷり同棲するか、あるいは一人の時間を大切にしていくか)
趣味(読書でもスノボでもスキューバダイビングでも、それにハマるか楽しむだけにしておくか)
夢(好きなことを仕事にするか、仕事は普通にして夢を別に持つか)

この6つの点をリアルに考えていくと、結局のところはそれらのバランスをどう取るかということになってくる。あなたは今のところ、どのように考えているだろうか。もちろん、入学する前からそんなことわからないよと、そう言いたくなるのは当然のことだと思うのだけれども、まずこの6つのイメージをある程度自分なりに作っておくのは有意義だと僕は思うのである。

ちなみに僕の場合は、クラブが80点を占めていた。勉強が4点、アルバイトが1点、恋人が5点、趣味が7点、夢が3点で、残りの全てはクラブが占めていた状態だった。

すなわち僕の場合は、けっして6つの要素、それらのバランスが良くはなかったというわけだ。だからバランスを良くしましょう、と言っているのではない。そういうバランスの悪いことをやれるのが、大学という機関のいいところだと僕は思っているのだ。

6つの要素、そのそれぞれを16点ずつ配分したらどうなるだろう。簿記一級の勉強をしつつ、テニスサークルにも所属しており、週二で家庭教師をやりながら、週末は彼とデート、そして冬にはスノボ、夏には海外旅行でパーっとはじける、就職活動は早めに始める、とまあそんな具合になるに違いない。

しかしだ、と僕はあなたに警告をしておきたい。この6つの要素をバランスよく保っていく大学生活は、本当に「大学でしかやれないこと」になっているだろうか?

僕はあなたに、充実の大学生活を送ってほしい。そして大学生活の充実とは、大学でしかやれないこと、あなたとして今その時にしかやれないことが、あなたの生活のど真ん中にあるという状態なのだと思う。

大学に入ったら、大学でしかやれないことをやるべきだ。これはまったく客観的な主張でなく、僕個人の、しかも偏った主観というか平たくいって偏見に満ちた主張なのだけれども、それでも僕はこのことをあなたに聞いていてほしいと思う。それこそ先に言った、他山の石としてでも。

その僕として、真っ先に申し上げるのはこのこと。

四月中は、絶対にアルバイトをしてはいけない。



■あなたがクラブ・サークルを選べる期間は、リアルに考えて二週間しかない。

あなたは大学に入学すると、まずクラブ・サークルから熱心な勧誘を受ける。うんざりするぐらい受ける。先輩が滑落して死んだんだけどねと言うハードコアな登山部や電波が来てしまっていて差し歯がズレているSF研究会やテニスサークルという名の下半身充実系イベントサークルやヨガ・サークルを名乗った血をキレイにするのがモットーの新興宗教、そういうのからお祭りのように勧誘を受ける。あなたは二週間、そういうのにもみくちゃにされる。あんまりしつこいので、次第に嫌気が差してもくる。

しかし、ここであなたは息切れしてはいけない。なぜか? それは、これこそ周りの現役大学生に聞いてみればいいことなのだけれども、その二週間が過ぎた後、その勧誘のムードは突然パタッと止んでしまうからだ。これは本当に、ウソのようにパタッと終わる。そしてそれが終わった頃には、各クラブ・サークルとも新体制として通常の活動を開始しており、それによってもう共同体としての村組織的な意識も形成されているから、そこから新しく誰かを取り入れようという気風がなくなってしまっているのだ。そうなると、あなたはもうどこのクラブ・サークルにも入れなくなる。入るどころか、見学さえできなくなるのだ。

これについて、今年のカレンダーから考えると、まず四月二十一日の金曜日、この日を最終日にして翌週からはパタッと勧誘ムードは止んでしまうと僕は予想する。勧誘ムードの終息は各大学各クラブ・サークルによって違いはあるだろうけど、まずゴールデンウィークを超えることはないと思っていい。これはヨシズミさんの天気予報より確かなことだと思ってもらって結構だ。

だから、あなたは四月中に、絶対にアルバイトなどをしていてはいけない。あなたがクラブ・サークルを選べる期間は、リアルに考えて二週間しかないのだ。その二週間は、興味があってもなくてもとにかくクラブ・サークルの見学に全スタミナを投入するべきである。資格取得のために予備校に通うにしても、絶対に四月中にはそれに手をつけてはいけないし、できればまだ検討さえしないほうがいい。

クラブ・サークルに入るかどうか、またどのクラブ・サークルに入るか、それによってあなたの大学生活は百八十度変わってくる。その違いははっきりいって学部や学科の選択よりも大きなものだ。

四月中は、とにかくそのことばかり考えること。繰り返す、あなたにはその選択をする期間が二週間しかないのだ。



■まじめにやっているクラブ・サークルはそれなりにキツい。そのキツさをやりぬけるのかどうか、それを実験するためにあなたは大学に行く。

あなたが入学して最初の二週間は、クラブ・サークルの見学と、あとは新しいクラスメートとの飲み会などで、あっという間に終わってしまうと思う。それはその時期として大事なことだから、一切手抜きをせずに過労死するぐらいつもりで精力的にやり抜こう。ここで失敗すると、クラスメートとも微妙に疎遠だけど二つ所属したサークルは両方とも欠席しがちで行きにくいしいざ始めてみたら会計士の勉強はあまり楽しくなかった、みたいな状態になってしまう。あなたはそういう大学生活を望んでいないはずだ。だから初めの二週間は、少々肝臓にダメージを与えてでも熱心に活動する価値がある。

さてそのような二週間の中で、あなたは自分の入るクラブ・サークルを決定するわけだが、その決定に際してもあなたは迷うことだろうと思う。これは単純な話で、このサークルは本気でやっていて充実しそうだけど大変そうだなとか、このサークルは気楽で楽しそうだけど途中で虚無感に襲われそうだなとか、そういうことであなたは決断に迷うと思うのだ。

例えば、トリノオリンピックでフイギュアスケートが目立ったから、あなたは大学でアイススケート部に入りたいと思っていたりするかもしれない。でも、アイススケート部の練習が夜の十一時から午前三時までなのだと知ったらどうだろう。あなたは入部に躊躇するのではないだろうか。

アイススケート部でもアイスホッケー部でも、氷上練習は民営のスケートリンクを貸切にして練習しなくてはいけないため、その練習はリンクの営業時間外、必然的に夜中になるわけだ。だからもちろん、アイススケート部の人はろくすっぽ授業に出席はできず、昼過ぎに起きて夕方から夜までアルバイトをして夜中から練習して朝方に眠りにつく、という生活になる。そして夏場はリンクが営業休止になるため暑いグラウンドでひたすら地味でハードな陸上トレーニングになる。そのことを知ったら、あなたはやはり入部に迷うのではないだろうか。

まあそういうのはアイススケート部だけでなく、社交ダンス部で大会に出ようとするとこんなにお金がかかるんだとか、ボート部は冬の練習が死ぬほど寒いんだとか、各クラブ・サークルには各クラブ・サークルなりのキツさがあるものだと思っていていい。

そのようにして迷ったとき、どう考えるべきだろうか? このことについて、僕はあなたに前もって言っておきたいと思う。あなたは、それがキツそうに思えれば思えるほど、そのキツさのあるクラブ・サークルに飛び込んでみるべきだ。なぜならば、大学とはそのようなトライアルのためにある機関だからだ。やり抜けるかどうかわからないけどやってみる、そんな甘いことはもう社会に出たらやるチャンスがない。

僕は大学のとき、六十名が所属する男声の合唱団で指揮者をやった。自慢じゃないが僕の音楽経験は本当にゼロで、ヘ音記号の読めない指揮者だった。一見してドに見えるけどミなんだね、みたいにヘ音記号を読んでは楽譜にドレミを書き込んでいた。音楽というものに触れるのは中学で縦笛を吹いて以来だったし、大学に入るまでは実のところカラオケに行ったことさえなかったのだ。

しかしそんなやつでも、プロのオペラ歌手に発声を習いにいき、プロの指揮者に指揮法を習いにいく、そして部員に指示して演奏を作っていく、そういうことに挑戦し、そういうことを体験できたわけだ。

もちろん、それをやっていくのがラクチンだったかというと、それは決してそうではなかった。「二ページ目のDドゥアのアウフタクトから振ってみろ」と指揮法の先生に言われて、衆人環視の中「でーどぅあってなんですか? あうふたくとってなんですか?」と聞き返さなくてはならない恥ずかしさを毎週体験していたわけだから、取り組んでいるときはそれなりにキツかった。

まあしかし、そういうキツさはまじめに何かに取り組めば必ずあるキツさであって、逃げ回ってどうにかなるものでもない。それに挑戦しないなら僕たちが大学に行く理由は無い。

まじめにやっているクラブ・サークルはそれなりにキツい。そのキツさをやりぬけるのかどうか、それを実験するためにあなたは大学に行く。

アイススケートのために四年間昼夜逆転、まことに結構だと思う。それこそまさに、「大学でしかやれないこと」だ。



■あなたは大学で人間を学ぶ。

そもそも大学に入ったら、学生はクラブ・サークルに入るべきなのだろうか。そのことについて、僕は偏見を承知でYesと言おうと思う。正直、僕にはYesとしか言えない。なぜなら僕は、そっちで体験してきた充実しか知らないのだ。入らなくても充実はできるヨ、などと根拠も自信も無いことを僕は言えないのである。まあこう言うと、実際にクラブ・サークルに所属せずに充実してやっている方々から批判されてしまうのだけれども、それでも僕は批判を覚悟で偏見を主張しよう。あなたはクラブ・サークルに入るべきだ。そしてそれに四年間どっぷり浸かりこんでしまうべきだ。

えー、何度も言うようにこれは明らかな偏見なわけだが、僕はそれを真実としてあなたに主張しておく。偏見を主張するのを怖がって、何事につけ「その人次第だよ」「自分で決めなよ」と言う人が多くて僕はそういう人がショボく見えるので僕はそういうやり方をしません。それは主張していることにならないし、何かを言っていることにならない。だから僕は偏見を覚悟で主張し、あなたはそれを承知で共感したり参考に留めたり無視したりするというわけだ。そもそも偏見を主張しないなら、僕がこうして文章を書いて公示している意味が無い。

(話が逸れてしまった)

まあ僕としては、自分の経験から、あなたにクラブ・サークルに入ること、しかもどっぷり浸かりこめるそれに入ることをおすすめします。

どうせ、辞めるのはいつでも辞められるんだから。


***


僕としての主張は、前提としてクラブ・サークルに入ったほうがいい、そしてそれにどっぷり浸かりこんだほうがいい、ということになる。そしてここから、そのことを含みこみもした、もう少し大きなテーマについて考えていきたいと思う。すなわち、「あなたは大学で何を学ぶか」について。

大学で、あなたは色んなことを学ばなくてはならない。大学でしかやれないことがたくさんあるように、大学でしか学べないこともたくさんある。ここで言う学ばなくてはならないものとは、学問のことを指しているのではない。学問は別に大学にいなくてもやれる。むしろ大学では学問を放棄して(オイそれは言いすぎ汗)、もっと本当に大学でしか学べないことを学ぶべきだと僕は思うのだ。あるいは本気で学問をやりたい人は、早々に留学の計画を練ったほうがいいかもしれない。

さてでは、大学であなたは何を学ぶのか? それを一言で言うなら、「人間を学ぶ」ということになる。このことに基づいて言えば、先ほどからの僕の主張は、大学で人間を学ぶためにあなたはクラブ・サークルにどっぷり浸かりこんでしまうほうがいい、ということになるのだ。

あなたは大学で人間を学ぶ。このことは大きなテーマなので、一言で説明するのが難しい。僕はこのことを、何となく聞こえのいいイメージとして言っているのではない。もっとリアルなこととして、人間を学ぶということ、人間の本質と、その原型としてあるコミュニケーションを学ぶということ、そのことについて言おうとしているのだ。

大学は学問をするところではないし、社会勉強をするところでもない。大学生は誰も学問をやっていないのでその中で一人学問をやるには不向きだし、社会から隔離されているので社会勉強をするにはもっと不向きだ。

大学生はヒマをしている。部室やサークルボックスや学生食堂で、行くアテもないままぼんやりと過ごしている。そこには学問や社会の空気はまったくない。

それが大学という空間の、貴重な価値なのだ。あなたはそこでこそ、本当に生身の人間のことを学ぶことが出来る。



■濃密で虚無的な関係。その中で、あなたは人と関わるということの原型を学ぶ。

家で猫を飼っている人はいるだろうか。そして出来たら、幼児と猫が同じ部屋の中で生活している、そういうシーンを観たことがある人はいるだろうか。

猫と幼児が同じ部屋にいると、色々と面白いシーンが観られる。幼児はまだ幼児なので、猫と遊ぶときに遠慮がない。好奇心のままに思い切り尻尾を引っ張ったりする。当然猫は驚いて、本気で怒って幼児を引っ掻いたりその手に噛み付いたりする。もちろんこれはただのケンカであって、猫としては社会的攻撃をしているに過ぎず第一種攻撃の捕食攻撃をかけているわけではない。(あ、また話が逸れた)

幼児と猫なら、もちろん殺しあえば幼児が勝つのだけれども、そこは単なるケンカなので、勝負は気迫によって決まる。猫のほうはさすがに野生を残した動物なので、裂帛の気合でフーッと唸って、幼児を怯ませたりネコパンチを食らわせて幼児を泣かせたりする。だから猫と一緒に生活している幼児には引っ掻き傷が耐えない。猫のほうも、ヒゲを抜かれてフラフラしていたりする。

でも不思議に、その幼児と猫は、いつも一緒に寝ていたりする。それはある種、胸を打たれるシーンでもある。彼らはいつも無意味にじゃれあっては、無意味にケンカをして、そのまま一緒に眠ってしまうのだ。

僕はそういうシーンを実際に観たことがあるのだが、それは生きものと生きものが関わって生きている、その原型のシーンだと感じた。僕たちはそのことだけで生きてはいけないが、その原型から離れて生きているわけではないのだとも思う。生きものと関わるということ、人と関わるということ、それがどういうことなのかを忘れてはいけないと僕は思う。

さてでは、あなたにとって、人と関わるということはどういうことだろう。その原型としての意味において、人と関わるというのは、あなたにとってどういうシーンのどういうやり方なのだろうか。

あなたはそのことを大学で学ばなくてはならない。そしてまた、大学ほどそのことに向いた機関はない。

原型として人と関わるということ。

もしそれが男女の関係なら、あなたは彼と、無意味にじゃれあい、無意味にケンカして、そのまま一緒にベッドに入ってしまうのだ。


***


大学にある人間関係は、濃密で虚無的だ。もしあなたが、先の僕の主張したとおりお気楽でないクラブ・サークルにどっぷり浸かりこむ生活をしたならば、必ずそういう人間関係を体験するはず。例えばあなたは、クラブの練習が終わった後もなんとなく帰りそびれて、そのまま部室に行ってぼんやりしたりサークルボックスに行ってクラブノートに何か思いついたことを書き込んだりする。そして、同じような動機と同じような当て所のなさで、やはり同じようにサークルボックスに転がり込んでくる先輩や同期の友人がいるわけで、あなたはその人たちと一緒に実に虚無的な時間を過ごすわけだ。しかしその時間は虚無的なのだけれども、同じクラブ・サークルで何かに真剣に取り組んでいる者同士、関係は希薄でなくむしろ濃密なのである。

このような空間の中で、あなたは原型としてのコミュニケーション、人と人との関わりというのを学ぶのだ。それは同じ部屋で暮らす、そしてどこか別のところに行くあてもない先ほどの幼児と猫の話と同質のシーンだ。それが想像しにくければ、例えば修学旅行で友人らと同室になり、まだ眠くないのに床につかされて消灯されたシーンをイメージしてもらえばいい。そこには何もない。やるべきこともなければ、打ち合わせることも何も無い。

しかしそのような中でもこぼれてくる言葉はあったりする。何も無い中、それでもそこからこぼれてくる言葉は、そこにいる人間の本質から出てくる言葉だ。そういう言葉は、なかなか普段の生活ではこぼれてこない。やるべきことや打ち合わせるべきことがあるとそれが優先されるし、関係が濃密でなければ社交をしなければという意識が先に立つ。だから、そういう人間の本質、そこからこぼれてくる言葉の交換なんて、機会はそうそうやってこないのだ。

あなたは大学に入って、そのような特殊な空間で四年間を過ごすことができる。僕があなたに、クラブ・サークルに入ってそれに浸かりこめと執拗におすすめするのはこのことのためだ。クラブ・サークルに浸かりこめば、そこには特殊な空間の特殊な人間関係がある。

濃密で虚無的な関係。その中で、あなたは人と関わるということの原型を学ぶ。

そのために大学に行くのだと、僕は断言してしまってもいいと思っている。



■僕は大学生がアルバイトにハマることに否定的だ。

引き続き、僕の主観と偏見に基づいて話を進めていく。こういう主張というのは案外人の気持ちを逆撫でしたり強烈な不愉快を催させたりするものなので、もし気分を悪くされた方がいたら僕は謝りたい。僕は大学生がアルバイトにハマることに否定的だ。そのことについてこれから話すが、それはアルバイトにハマっているあなたのことを否定しているというわけではない。

あなたがアルバイトにハマってそこでかけがえの無い何かを体験して貴重な何かを手に入れているのだとすれば、それは僕として知らないことをあなたがそこで体験できているということだ。僕はそれを知らないので、知らないことまで含みこんで話はできないということになる。まあ要するに、そこはアレです、大目に見てやってくださいということです。そもそもこれは、これから大学に入る人に向けて書いているつもりで現役大学生の人は読まない前提で書いているわけで(読んでもらってるのにスイマセン汗)、僕としてはその、クラブ・サークルに浸かりこんでバランス悪くやれと、そういうことを言う人があまりに少ないので、あえて現実を無視して誇張気味に話しているのでもあります。まあそんなわけで、出来れば目くじらを立てずに僕のワガママな思想ということで聞き流してもらえたらありがたいです。お願いします。

さてそんなわけで、僕は大学生がアルバイトにハマることに否定的だ。僕はアルバイトが時間のムダだとは思わないけれども、それはハマってまでやることではないと思う。特にそれを、社会勉強だからという言い方で動機付けるやり方には僕は真っ向から反論を示さなくてはならない。

ややこしくならないように、ひとつひとつ話していこう。


・アルバイトは社会勉強にならない。経験としてゼロになるわけではないにせよ、何か役に立ったり武器になったりするほどの勉強にはならない。

まず、このこと。

大学に入ると、九割以上の人がアルバイトを経験する。それは小遣い稼ぎの場合もあれば学費の捻出の場合もあり、出会いを探すためだったりもするしヒマつぶしだったりすることもある。まあでも、その根源的なところと言えば、大学生になればアルバイトのひとつぐらいやってみるものでしょうと、そういう固定概念があることに起因するのかもしれない。また募集をかける側も、大学生を大きなマーケットとして見ているから、そこは需給がスムースにシステム化されているということもあると思う。

そして、これもまあ固定概念と言えばそうなるのだけれども、アルバイトをすることの動機に、誰しもが「社会勉強」という言葉をひっつける。これは別にひっつけなくてもいいような気がするのだが、単純にマネーのためにアルバイトをするという思想は僕たちには馴染みが悪いらしくて、労働をするのではなくて勉強をするのだという立場に立ちたくなるようである。まあそれはいいとして、とにかく僕はこの「アルバイト=社会勉強説」に反論を示さなくてはならない。それは一応、年上というかおじさんとしての義務でもあるように僕は感じてもいる。

アルバイトは社会勉強にならない。経験としてゼロになるわけではないにせよ、何か役に立ったり武器になったりするほどの勉強にはならない。むしろアルバイトの精神が染み付いてしまうと、社会人として働き出したときにはアホウになってしまうことさえある。歯に衣を着せずに言えば、アルバイトとは所詮その程度のものなのだ。もっと口を極めて言うならば、人生に目標も無く働くことに根本的に前向きになれないフリーター、そういう人にでもこなせる程度の仕事でしかないわけだ。

(んんん、ひどいことを言っている気がしてきたぞ。ごめん、大目に見てやってください)

試しにだ、ファーストフードでアルバイトしている店員に、いくつか質問をしてみたらいい。

「御社の経営最高責任者のお名前は?」
「御社の前期経常利益は?」
「御社の資本金と自己資本比率は?」
「全国の店舗数と長期計画上の目標店舗数は?」
「担当店舗の一日平均売上高は?」
「担当店舗の損益分岐点は?」
「変動費中宣伝広報費の占める割合は?」
「ハンバーガーレストランの現況マーケットと、今後の推移の見込みは?」

まあ99%、答えられないと思っていい。そしてこれが答えられなかったら、正社員だったら取引先にバカにされると思っていていいだろう。(例えばアルバイトじゃなくてファーストフード店の店長なら、全部はムリでもその殆どに大雑把には答えられるものだ)

このことは一言で言って、アルバイトが経験するものと、社会人が経験するものはまったく別モノだということだ。そしてそこにあるのは能力の違いではなくてマインドの違い。そしてそのマインドは、アルバイトの立場からはまず到達できない高さにある。だから、同じ店舗で同じように働いているアルバイトと店長がいたとしても、そこで見ているものや学んでいるものはまったく別なのだと思っておいたほうがいい。それを知らないままアルバイトを続けて社会勉強をしていると思っていたら、今度は就職したときに余分な恥をかいてしまうだろう。

アルバイトは社会勉強にならない。このことはおじさんの僕としてはっきり言っておこう。もちろんアルバイトをしてはいけないとまで言うわけではないし、気持ちを高めていれば「自己研鑽」になることはもちろんあるわけだけだけれども、それは「大学でしかできないこと」ではないわけだし、アルバイトをやるにしても、それにハマって満足していてはいけないということだ。

あとこれについては、去年のことだけれども、僕の友人が就職活動で実際に打ちのめされた話に基づいて言っているのでもある。それについても少し、話しておこう。

その友人は、三年間マクドナルドでアルバイトをしていて、また優秀なアルバイトということで周囲には認められていた。しかしその彼は、接客には自信がありますということをウリにして就職活動をして、ホテル業界のほとんどの面接に落ちてしまった。彼は単純に、マクドナルドで身につけた、そしてもはや離れられなくもなった接客の方法が、ホテルマンとしても通用なり応用なりできるものだと思っていたらしい。

彼からその面接の結果と落胆の連絡を受けて、僕は残念だったなという思いを交えて一言つぶやいたのだけれども、それは彼にとってなかなか気づけなかった盲点を指すものだったようである。

「マクドナルドの接客でホテルマンをやったら、ホテルがファーストフードっぽくなってしまうじゃないか」

そう僕が言うと、彼は二秒ほど呼吸を止めたあと、そっか、なるほど、そりゃそうっすね、気づきませんでした、と悔しそうに言った。また彼がそこから話したことによると、彼は日本マクドナルド株式会社が2002年7月に日本マクドナルドホールディングス株式会社に社名変更して日本マクドナルド株式会社を百パーセント子会社として新しく設立したということを知らず、そのことを面接官に指摘されて笑われてしまったらしい。

これはまったく残念な話だった。しかし、アルバイトを社会勉強と思って、その経験がそのまま未来に通用すると勘違いしていると、実際のこととしてそういう失敗に繋がるのだ。アルバイトをしてはいけないとは誰も言わない。ただそれに、社会勉強という言葉を貼り付けるのだけは絶対にやめたほうがいい。しなくてはいけない分はアルバイトもする、そしてその中でも自己研鑽の精神は忘れずにいようと、そう考えているほうが正しいと僕は思うのだ。

そしてついでに言っておくと、学生の間の経験が社会に出た後も役に立つことはあるのだけれども、その経験はあまりアルバイトから得られる類のものではない。社会に出た後も役に立つ経験といえば、さっき僕が話したこと、すなわち「人間を学んだ経験」に他ならないからだ。

例えばだ、あなたがクラブ・サークルにどっぷり浸かって、その中で今後の練習方針や運営方針について先輩と論争する、しかも頭が悪い上に頭が固い先輩に後輩という弱い立場から意見する、さらに言えばそこに自分としてのアイディアを盛り込んでそれをプレゼンテーション気味に混ぜ込みながら主張する、そしてそれを朝が来るまで雰囲気を崩すでもなく語り続けてついに先輩の納得と同意を得る、そしてそれを経てその先輩と無二の親友になる、そういう経験をしたならば、その経験は社会に出ようがどこに出ようが役に立つ。あなたはその経験の中で、自分の感情がどう揺れ動くか、自分の脳みそがどう働くか、自分の情理両面のアプローチが相手にどう受け取られるか、そしてそれを超えたハートや情熱の部分がどう作用するものなのか、そういうことを学ぶ。それは先ほどから僕が言っていること、人間そのものを学ぶということに他ならない。

大学とは社会から隔離された空間で、社会勉強をするのにもっとも不向きな機関だ。でもそれだけに、人間そのものを学ぶのに最適の機関でもある。

だから僕はあなたに、大学では社会勉強などせずに、人間を学べと言いたい。そこで学んだ人間に対する理解、人と関わるということの理解は、あなたの中に入り込んであなたの人格を形成し、あなたが死ぬまであなたを支え続ける。

人間を学ばずに社会勉強だけ学んだとしても、あなたにはパワーが宿らないのだ。社会の構成単位は人間であり、その人間に作用するパワーがなければ有用な人間には決してなれないのである。


・アルバイトは現実的な労働だが、現実逃避に恰好の労働でもある。

なぜかまたマクドナルドの話になって申し訳ないのだけれども、この間マクドナルドに行ったとき、そのトレイに敷かれている下敷き兼広告の紙に、こんなことが書かれていた。

「ヘコんでるときは、わざとバイト入れる。 ワタシ×M」

(Mはマクドナルドのマークね)

要するに、アルバイト求人のキャッチコピーが書いてあったわけで、そんなキャッチコピーに目くじらを立てたら僕がアホウなのだけれども、それでも僕はごく自然にこう感じてしまったのである。

「アルバイトに逃避してどうする」

アルバイトは大学生にとって恰好の現実逃避になる。これもまた僕の偏見だが、このことはアルバイトに明け暮れている当人が告白として言うことも多かったりするものだ。―――わたし多分、バイトに逃げてるんですよ、そう喫とした調子で唇を噛み締める女の子が実際にいるわけで、またこれにウンウンと頷く現役大学生も意外に多いわけなのだ。

(もちろん全てのアルバイトが現実逃避だと言っているのではない。そういう勘違いをする人はもう一度数学の参考書を開いて必要十分条件というところを復習してみよう)


***


大学とはなんなのか、というようなことがかつて議論されたことがある。今でも議論しているのかどうかは知らないが、そのかつての議論の中で、「大学とはモラトリアム期間だ」という意見が提案され、それは今でもなんとなくの定説になっている。

一応、辞書には次のように載っている。

モラトリアム [moratorium] [3] 猶予期間.青年が自己同一性(アイデンティティー)を獲得するまでの試行期・実験期間。

僕はこの大学=モラトリアム説をそのまま鵜呑みにするわけではない。というかあまり面白くもないし何の役にも立たない説なので僕の中で採用している説ではないのだけれども、それでも僕として似たようなことは感じるのでもある。このあたり、僕として言うならばこういうことになる。

―――大学とは馬鹿げた空間で、虚無的な空間だ。そして、その虚無とどう戦うのか、そのことを学ぶための空間でもある。

般若心経を引き合いに出すまでも無く、またニヒリズムを取り上げて議論するまでもなく、僕たちの生きている世界は本質的に虚無だ。そんなことは当たり前であり、そのことを僕たちは日本人だからなんとなくわかっている。僕たちは所詮、唯一神ゼウスなりその他の名称のゴッドが天上界に住んでいるとは信じていないし、生きることの意味なんか後付けでしかないということを根深いところで知っている。そしてそれでも、なぜか生きることに絶望はしないで楽しくやっているし、世界一と言っていいほどの現世肯定的な民族でもあるのだ。

(あ、話が膨らみすぎた。えー、こういうことに興味のある人はアニミズムと土着神道と黄泉平坂のイメージについて文献を参照して勉強しましょう。大学のいいところの一つは図書館が充実しているところです)

そんなわけで、僕たちは自分の生きている世界が本質的に虚無であること、また自分が生きているということ自体が実は虚無であるということ知っていて、ときにそのことの感覚に生々しくさらされることがある。そして大学というのは虚無的な空間だから、あなたは大学生のうちに何度もそれを経験することになるのだ。

―――わたしこの人のことそんなに好きでもないし結婚するつもりでもないのに何で付き合っててこうやってセックスしてるんだろう?

―――生後一週間のハツカネズミの行動についての発達心理学的考察なんてまったく興味も無いし何かの役に立つとも思えないしいつも寝癖がトレードマークになってるあの教授もまったく尊敬できないのになんでわたしはこうやって授業に出て半分寝て半分は机の下でメール打って九十分間が過ぎるのをひたすら無為に待っているんだろう?

―――大学を出たらどうしよう? やりたいことが特にあるわけでもないし、特にやりたくないことがあるわけでもないじゃない? ああ、大学にいる期間も、考えてみれば後1500日足らずなんだ。

あなたは必ず、そういう感覚に何度もさらされるのだ。そしてその感覚は、普段から思索を深めるということの練習をしていない僕たちにとってはかなり苦痛に属する感覚で、できればもうそんなことは考えたくないとすぐに投げ出したくもなるものだ。

しかし、僕はそういう解答のありえようも無い公案のような疑問の想念、それを自分の中に発見して、それにじっくり取り組んでみるというのも、大学でしかやれないことの一つだと思っている。だからあなたには、その想念をすぐに放り出してほしくはない。それを放り出してしまうと、例えば二十年後にあなたの息子が世界の虚無に打ちのめされて引きこもりになったとき、あなたは自分の息子と向き合うことができずに、その種の想念ごと息子を放り出したくなってしまうだろうからだ。

大学というのは、そういう虚無的な想念と格闘するための場所でもある。アルバイトに精を出せばその想念は労働の汗と営業スマイルと闊達さに押しやられて雲散するが、それは塵になっただけで解消されたわけでは決してない。いつか積もりに積もって、あなたにまとめて降りかかってくるだけのことだ。

アルバイトは現実逃避の恰好の場所になる。現実は突き詰めれば虚無で、その虚無と戦わずに逃げ込むのに恰好の場所なのだ。あなたはそれをやってはいけない。虚無とじっくり戦えるのは、あなたが大学生のうちだけなのだから。ついでに言うと、これの正反対、生きていくのに不都合なちぐはぐをやってしまう人が多いのでもある。大学ではアルバイト一色で精力的に過ごしたものの、いざ正社員として働き出したら三ヶ月で辞めてしまってその後はアタシの人生って何なんだろうと部屋にこもって考え始めてしまう人たちだ。それをやってしまうと、何かと人生で都合が悪い。そういうことにならないために、そういう思考作業は大学の間に済ませてしまおう。

何度も言うように、大学とは人間を学ぶための機関である。あなたは大学で、人間の本質、その底にあるものを学ばなくてはいけないわけだから、あなたの底から湧き上がってくる想念から逃げてはいけない。アルバイトに逃げ込まず、トルストイやニーチェやサルトルやキルケゴールやカントやフロイトやユングや西田幾多郎を読んで、それとガッチリ組み合って格闘してみよう。その格闘について、友達と部室でディープな会話が出来るのも大学生の特権だ。

(ちなみに、かつてはそういう思索と知識がオシャレなものだと、大学生の間でブームになったような時期もあったのです。ポスト・モダン主義とかつては呼ばれていました。お父さんに聞いてみましょう)

(あ、ただし僕は、ポストモダニズムの風潮があった時代が正しかったと言っているわけではない。むしろそんなのはただのネクラ文化だと思う。一万冊の哲学書はサザン・オールスターズの一曲にある意味では敵わない。まあアレだ、思索を深めても思索しかしないネクラ人間になってはいけないということだ)

・五年後に残っているのは、なぜか大学の仲間であってアルバイトの仲間ではない。

最後にこのこと。あなたは大学で人間を学ぶわけだが、その中で当然深いレベルでの友人を手に入れる。人間を学びながら人間を語り合い、人間を楽しみながら人間をぶつけあうわけだから、その中で友人が出来なければそれはウソというものだ。あなたが大学で真に人間を学んだなら、あなたは深いレベルでの友人を手に入れる。気が合うとかいつも一緒とか遊び仲間とかいうレベルの友人でなく、自分の思想や信条体系にあの人の考え方や話した言葉が入り込んでいるというような、尊厳と緊張感の伴った、自分の中に宿る巨大な存在でありえる友人。僕ももちろんそういう友人を大学時代に手に入れていて、不思議にそういう友人と会うと一対一だと居心地が悪い。なぜか? それはそれだけ、その友人に尊敬の気持ちと緊張感があり、また人間同士をぶつけあった記憶があるからだ。このことは、「友達」と言わず「友」といえば正しくなるのだろうか。本当に深いレベルでの友を手に入れたとき、その友は決して一緒にいて気楽な相手にとどまらない。一緒にいて馬鹿笑いしあっていても、その底にはもっと厳かな感情が伏流している。

そして、これは僕の周りを見渡すとそう判断するしかないわけなのだが、そういうレベルでの友人というのは、なぜかアルバイト仲間ではなく大学の仲間であることのほうが多いのだ。それも圧倒的に多いと思っていい。五年後に残っているのは、なぜか大学の仲間であってアルバイトの仲間ではない。アルバイト仲間から友人になることももちろんあるが、なぜかその友人はそこまでの深いレベルに至らないことが多いのだ。それがなぜなのかわからない。わからないが、僕が実際に今まで見てきた中では、アルバイト仲間からそこまで深いレベルの友人になる、そしてそのまま一生の関係として残っていく、そういうことはかなり少ないように思える。繰り返すが、その理由は僕にはわからない。ただ事実としてそうだよ、とだけ僕はここで言っておくことにする。(もちろんそうでない経験をお持ちの方もいるだろうからその人にはスイマセン。でも多分、そういうあなたはかなり希少で貴重な経験をされているのではないでしょうか)

あなたは大学で人間を学び、その中で友人を手に入れなくてはならないし、また友人を手に入れたいとあなた自身として願っているはずだ。そのためには、アルバイトにハマらず、大学という機関から浮遊してしまわないようにしなくてはならない。大学という機関は何度も言うように馬鹿げた機関で虚無的な空間だから、それに嫌気がさして実務的なアルバイトの世界に行きたくなるのもわかるのだけれども、人間を学んだり深いレベルの友人を作れるのはその虚無的な大学という空間においてこそなのだ。アルバイトの世界のほうが華やかで実務的で爽やかでしかも小遣いまで手に入るのだけれど、それに吸い込まれないように気をつけてほしい。


というわけで、僕は大学生がアルバイトにハマることに否定的だ。アルバイトをしてはいけないとは誰も言わないが、それによって本来あるべき大学生活の根幹をおろそかにしてはいけない。これは大学に入ってからでないとわかりにくいことだと思うのだが、本当に大学というのはイヤになって逃げ出したくなるぐらい、馬鹿げていて虚無的なのだ。面白い授業なんて百に一つしかないし、クラブ・サークルでがんばっていたってその世界でプロになって将来生きていこうというわけではないし、試験期間はかったるくて試験に授業の感想文やおいしいカレーの作り方を書いておいたらそれで単位が取れたりする。そういう中であなたは必ず「大学って何なの?」と何度も呆れ調子で思うものなのだ。でも、あなたが今しか学べないことはその虚無の中にある。虚無と取り組みそこねて、大学から遊離しないように気をつけよう。



■大学では死ぬほどセックスをしよう。大学では新婚旅行より濃密にセックスに浸れる。

先の段、アルバイトのところで妙に長ったらしくなってしまった。現実にアルバイトで人生を充実させている人もいるのだから、その人には失礼な調子になってしまったことをもう一度ここでお詫びしておく。僕が大学生のアルバイトに否定的になるのは、アルバイトすることが無条件に是とされている風潮が現実にあり、またそれが商業意図を持ったマスメディアの宣伝によるものだということが気に入らないからだ。アルバイトをするときは、それに取り込まれてしまっていないか、それだけでは自分は自分の望むところへは到達できないのではないか、そう警戒しながらすることにしよう。それだけ今の日本社会は大学生をアルバイトに使うことが上手で、またそのことに遠慮が無い。アルバイト先の店長が、お前はこのアルバイトで満足してたらダメだと、そう言ってくれることはあまりにも少ない。

まあでも、とりあえずアルバイトの話はこの辺にしておこう。初めに言った大学生活の6要素に話を戻すとして、また別の一つを見ていこう。

リマインドのため、もう一度6要素を示しておく。示しておかないと僕が忘れてしまいそうだ。(なんてテキトーな著者だ)

勉強
クラブ・サークル
アルバイト
恋人
趣味


この6要素について、クラブ・サークルにはどっぷり浸かれと、またアルバイトは警戒しつつほどほどにしろと言った。勉強については大学の授業を実際に受けてもらってそのしょーもなさにひとまず驚愕&絶望してもらうとして、先に恋人ということについて考えていくとしよう。

大学では恋をしなくてはいけない。そして恋人を作ってそのラブラブに浸り、セックスをしまくらなくてはいけない。まあそれは僕が敢えて言うまでもなく、多くの人がそれを期待して胸とその他の部分を熱くしているはずだ。大学では死ぬほどセックスをしよう。大学では新婚旅行より濃密にセックスに浸れる。早朝に眠りから覚めて、まだ下半身がしびれていることに気づく、それでもまた彼が覆いかぶさってきて、あなたはそれに抵抗する力も無くひたすら抱かれ続ける、そういう幸せをむさぼる機会は大学生活をおいて他には無いのだ。

大学は人間を学ぶための機関であると言った。人間を学ぶとは自分を含めた人間のその底、その本質を知るということだから、そのことはセックスを抜きにして考えることはできない。あなたは自分の好きになったオトコと、あるいは人によってはとりあえず気に入ったオトコと、あるだけの時間でセックスをしまくればいい。その中でこそ、あなたはまた人間を学ぶことになる。一見していい人に見えたオトコが、実はヤリたいだけのオトコで一回ヤッたら急に冷たくなったり、ノリが軽すぎてわたしこういうオトコはキライと思っていたのに、流れでエッチしてしまったらそのオトコは実はすごく優しくて猛烈に好きになってしまったり、セックスは別に無くてもいいやと思っていたのに実際に付き合い始めて彼のセックスが淡白だったらどうしても寂しくなって別れてしまったり、彼のことすごく好きなのにカラダの相性が合わないってこんなに辛いことなんだと知ったり、そういうことをあなたは学ぶのだ。もちろん、そのためにセックスをするというわけではないし、あくまで愛の交換のためにセックスをしてその中でそういうことを知っていくということ、またその際にも妊娠しちゃったりとか病気もらっちゃったりとかそういうリスクは最小限に管理するということも必要なわけなのだが、それはそれとしてやはり大学生活では質も量も回数も快感も濃密なセックスをするべきなのだ。あなたはセックスがあまり好きではないかもしれないが、それがあなたの本質としてそうなのかどうか、そのことを確かめるのもやはり大学生活の中での重要なことの一つになる。高校のころは付き合っていたオトコがしょうもなくてセックスが好きじゃなかったけど、大学で出来た彼氏とのセックスにはハマってしまってそれ以来むしろオトコに辟易されるぐらいそれを求めるオンナになってしまった、とまあそんな話はいくらでもある。

えー、セックスについて力説しすぎてしまった。これでは僕がどれだけセックスが好きなのかがバレてしまう。また僕は女性たちに軽蔑されてファンを減らしてしまうだろう。ここからは、ちょっと話を巻き戻す具合にして、恋人というマクロの視点に持っていくことにしよう。あなたはオトコとセックスをする。セックスをする理由はあなたとしてそのオトコと結合したいからだ。セックスはカラダごとオトコと結合する営みだが、それに先立っては必ず精神の結合がある。その結合があなたの本能を性的に濡らして、カラダを求め合う衝動を起こさせるのだ。

オトコとオンナはいつも出会っている。大学という空間においては特にそうだ。あなたは部室やクラブボックス、あるいは合コンやアルバイト先や授業や学園祭など、あらゆるところでお互い若いオトコとオンナとして出会う。でももちろんあなたはその出会ったオトコのほとんどとセックスをしない。それはあなたが、そのオトコのいちいちと精神を結合させてはいないからだ。そこに精神の結合があれば、男女はセックスの方向へ向かう。その過程を恋と僕たちは呼んでいるのかもしれない。あなたが授業中、教授のサム〜いギャグにガン引きしてため息をつく、そしてふと隣のクラスメートを見ると彼もあなたと同じような反応をしていたとする。あなたと彼は、やってられないよねという含み笑いのアイコンタクトをして、あなたが内心でウフフと思っているところ、突然彼があなたの手を引いて、ちょっと抜けようぜ、とあなたを連れて教室を出て行ってしまうのだ。

(あ、ちょっと脚色しすぎた。そんなパワフルなオトコはなかなかいません。僕もそんなことはできません。やりたいんだけどね)

恋というのはどこまでいってもそういうことでしかない。男女が出会い、そこで精神を結合させ、性的な力によってカラダごと結合したくなるということ。このことに最適な環境が大学であるといっても過言ではないだろう。あなたは大学というその最適環境で、人間を学び恋を学びセックスを学ぶ。それは取得単位にはもちろんならないが、かけがえの無い人間としてのパワーをあなたに身につけさせるものでもあるのだ。

次節で話そう。



■コミュニケーションに話題は必要ない。話題が必要なのは社交においてだ。

コミュニケーションが苦手な人というのは、案外世の中に多い。人付き合いや社交はできるのだけれども、そこから一歩踏み込んで仲良くなっていく、精神を結合させる段階にまで仲良くなっていくということができない人が多いのだ。それができない人は、単に精神のどこかを歪ませていて結合の機能が発揮されないか、あるいは結合の方法を知らないかのどちらかだ。あなたは大学に入ったらその方法を学ばなくてはならないし、自分の精神が歪んでいるならその部分も自分で発見して是正していかなくてはならない。

先に話した幼児と猫の話でもそうだが、生きものと生きものはニュートラルの状態で既に惹かれあうものとして作られているし、それが人間同士、ましてやオトコとオンナなら放っておいても自然に惹かれあうものだ。放っておくと部屋に綿埃のカタマリができるようにあなたは人と友達になっていくし、近づけた磁石がある距離からぺちっとくっついてしまうようにあなたはオトコと結合してしまう。それが自然のあるべき状態だが、あなたはその自然な状態をどうやってこの不自然な人間の生活の中で作り出していくのか、そのことを大学で学ぶのだと思っていればいい。

「彼と仲良くはなれるのですが、友達モードから先に進めません」

そういう恋愛相談はどこにでもあるし、また僕の手元に実際に無数に届いている。

そこから先に進む方法を、あなたは大学で学ぶのだ。


***


お互いに初対面同士、またお互いに特に用件も無い、そういう状態であなたは人と会ったとき、何を話すだろうか。このときにあなたがどう発想するか、またどう発想できるかは、今の時点でのコミュニケーション観を一番明らかにするだろう。例としては、故障したエレベーターに閉じ込められたとか、新幹線で隣に座り合わせたとか、そういうシチュエーションを想像してもらえばいいかもしれない。お互いに初対面でお互いについての情報は皆無、またお互い特に用件も無いという状態。あなたはそういう状態で、沈黙するのでなければどのようなやり方でコミュニケートしようとするだろうか。

案外、こういう設定でコミュニケーションの方法を明確に持っている人は少ない。だから多くの人が、少しは話してみるけれどやがて沈黙、精神の結合には到らなかったという具合にコミュニケーションを終了させてしまうのだ。そういう人は、コミュニケーションにはお互いの情報と共通の話題が必要だと思い込んでいるのでもある。

コミュニケーションに話題は必要ない。話題が必要なのは社交においてだ。このことについて、あなたは電車の中で見かける、満員の車内にめげずに日経新聞を読んでいる通勤途中のサラリーマンをどう見るだろうか。満員電車の中で日経新聞を読んでいるサラリーマンは、実のところ経済と社会情勢の情報を手に入れるために新聞を読んでいるのではないのだ。朝一番、上司と話をする、あるいは来客と話をする、そのための話題の入手のために日経新聞を読んでいるのである。

特殊な仕事でないかぎり、来客があってまず第一に話題に上るのは、日経新聞の一面ネタというのが社会人のルールだ。これは会社に入って半年もしたら覚えることだけれども、まず商談なり打ち合わせなりを始める前に、「そろそろゼロ金利政策も終わりですかね」「そうですねえ、まだ景気がそこまで回復したようには思えないですけれどねえ」と、そういう具合にして世間話が交換されるのだ。これは訪問時・来客時のマナーであって、一言で言うなら「社交」である。このときに日経新聞を読んでいないと恥をかくので、サラリーマンは満員電車の中ででも無理やり日経新聞を読まなくてはいけないのだ。(まあだから、迷惑でも大目に見てあげようね)

さてそのように、「社交」というのは話題を必要とするものである。なぜか? それは商談に来たビジネスマンとしての来客を相手に、精神の結合めいたコミュニケーションをするわけにはいかないからだ。来客を相手に、自分が今日桜の蕾を見て感じたことや昨日久しぶりに古い友人から電話があって考えたことなどを話すわけにはいかない。そのあたりが、精神の結合としての「コミュニケーション」と「社交」の違いになる。

そして、もう言わなくてもわかっていることだと思うが、あなたがクラブ・サークルの部室なりサークルボックスなりに入ったとき、そこにちょっとステキだなとこっそり思っていた先輩が、一人で座ってタバコを吸っていたりする状況があるわけだ。そのときあなたは、その先輩と共通の話題もなければ特に打ち合わせるべき用件も無い。なお大学のクラブ・サークルなんて基本的に毎日同じことをやってばかりなので、そのことはほとんど話題にならないと思っていいだろう。

そのような状況の中で、あなたはコミュニケーションのやり方を学ぶ。そこで学び損ねると、いつも話題が無い無いといって困っている「社交しかできない人」になってしまうだろう。

あなたはコミュニケーションのできる人になるほうがいい。そのことはあなたにとって一生の武器になる。



■ベッドの上にはコミュニケーションの極意がある。その極意を、生活の中に持ち込めるかどうかが問題だ。

セックスが終わったあと、僕はついついタバコを吸ってしまうのだが、その僕を見てあるオンナがこう尋ねたことがある。

「なんで、タバコって吸うんですか?」

それを受けて、まあ僕のことだから一瞬、吸わないと、吹いたって煙たいだけだろう、としょうもないことを思いついたのだけれども、それは伏せておいてこう答えた。

「快楽だから」

僕の答えに納得したのかしていないのか、彼女はフーンと答えて僕の脇の下に頭を預けるようにして目を閉じた。タバコの煙、嫌いか? と僕が尋ねると、彼女はごく小さく首を横に振ってウウンとかぼそく答えた。彼女の口元はかすかに微笑んでいて、僕はそのオンナをかわいいと思った。

それはただのベッドの上のワンシーンだったが、そこで彼女は僕がタバコを吸う理由を知り、僕は彼女の微笑むときの口元の形を知ったのだった。場所はどこかの安ホテルだったが、それがどこだったかはっきりとは覚えていない。

コミュニケーションというのはそういうものだし、そういうものでしかない。こういうやりとりが社交でないのは誰でもわかることだろう。コミュニケーションにさしたる話題は必要ないし、むしろお互いに情報も用件も無いほうがいい。

コミュニケーションがそういうものだとして、例えばこの「なんで、タバコって吸うんですか?」という問いかけと「快楽だから」という受け答えは、実のところベッドの上でなくても成立するものだ。要はそれが、ベッドの上での会話のような雰囲気の中で交わされるかどうかということが問題になる。ここでもし、「カラダに悪いんじゃないですか?」「そうなんだよ、禁煙なり減煙なりしたほうがいいんだけどねえ」とやってしまうとそれは社交になる。それは精神の結合に至らない。それを繰り返していると、「友達モードから先に進めません」ということになってくる。

何度も言うように、大学というのは虚無的な空間だ。その中であなたは、ちょっといいなと思っている彼と話すにおいて、実のところ話題も無ければさしたる用件も無い。だからあなたは、大学でコミュニケーションを学ぶことができるのだ。コトが終わったあとのベッドで無駄話をするのが嫌いなオンナは一人もいないが、それはそのベッドの上には純粋なコミュニケーションがあるからで、あなたはその純粋なコミュニケーションをセックス抜きで出来るようになるため、大学という虚無の空間を与えられるのだと思ったらいい。

ベッドの上にはコミュニケーションの極意がある。その極意を、生活の中に持ち込めるかどうかが問題だ。

あなたはサークルボックスで、彼に「なんでタバコって吸うんですか」と尋ねる。そこにおいて彼とコミュニケーションが交わされる。そこで精神が結合すれば、彼はあなたとベッドに入りたいと望むだろう。そこで交わされる会話が社交にとどまらすコミュニケーションに至るためには、その表情や声音、タイミングや全体の空気といった微妙な要素が整っていないとダメなのだが、それは実際に大学に入ってからじっくり取り組んで研究してみてほしい。そのための環境と時間は、あなたにたっぷり与えられるのだし、あなたは大学で死ぬほどセックスをするので、ベッドの上の空気という感覚を忘れずに生活もできるはずだから。

またそうやって、気に入ったオトコと「コミュニケーション」が出来るようになってしまえば、あなたは恋についてだけではなく全てのことについてコミュニケーションができるようになっている。あなたはオトコに「仲良くしたい」と伝えて仲良くしてもらうことができるようになるわけだか、それに伴う具合にして、「こういうところ直してほしい」と友達に言えばそれを直してもらうことができるようになるし、「ここで働きたいです」と面接官に言えばそこで働かせてもらえるようになっているのだ。

あなたは大学で、死ぬほどセックスをし、そのベッドの上で恋のコミュニケーションを学び、そのうちにいつしか人間の本質を捉えるコミュニケーションを知るようになる。そのときあなたは、自分がオトナになったと感じてもいることだろう。



■単位も資格もTOEICも必要なものだ。しかし大学では、もっと必要でないものを学ばねばならない。

さてそんなわけで、大学では人間を学ぶのだということ、そしてそれは同時にコミュニケーションを学ぶことでもあるのだということを話した。そしてそのことの環境としてある、大学でのクラブ・サークルや大学生の誰もが経験するアルバイト、そして恋とセックスがどのようにしてあるべきかの話をした。僕として本当に話しておきたいのはここまでで、そのことが出来れば大学に行った価値は十分に手に入ったことになると思う。

ここからは、僕としては先に示した本題よりはいくらか予備的なものになるが、その他大学生としてやっていく中で大事だろうということについて話してみることにする。長くなりすぎだとあなたが呆れているのは承知の上だが、まあこれでも僕としてはだいぶ端折って話してもいるのである。何しろあなたたちは、受験勉強のインプットだけさせられて、大学生活とは何なのかということの情報をまったく与えられていないので、その情報を一本のコラムにまとめようとするのがハナからムリな話なのだ。本当は一冊の本にするべきだと思うし、またそういう本も出ているので今のうちに読んでおいてもいいかもしれない。

まあそれはいいとして、話の続き。その他いろいろ、大学でやるべきこと、やるべきでないこと。


***


僕は大学で化学を学んだ。インドに四十二日間個人旅行をしてそこで一応の英会話を学んだし、会社に入る前には一応簿記三級を取っておいた。それは役に立っているかと問われれば、もちろん立っていると僕は答える。どの洗剤を混ぜたら危険かは成分表示を見たらわかるし、海外のアダルトサイトを見るときに英語でつまづかないし、買い物をするときは帳簿の裏側を読んで価格交渉することができる。だから役には立っている。しかし人格形成になっているかというとそれはなっていない。当たり前だ。実用の知識は精神の教養にはならない。僕は携帯電話の解約手数料が消費者契約法の言うところの不利益事実の不告知に当たるとして支払いの必要が無いと某携帯電話会社と係争しているところだが、そんな知識は僕の人格を形成するものになるはずがない。

ここで僕はあなたに、大学では本を読めと、当たり前のことを勧めておきたい。それも、社会に出てから役に立つような本ではなくて、今後一切まったく役に立たないような、それだけに大学時代にしか読めないような本をだ。社会人になったら本を読めなくなるかというとそれはそうではなく、むしろ読む必要性に駆られて読書量が増える人さえ出てくるのだけど、そのときには残念ながら役に立つアテの無い本を読む時間はあまりなくなっている。社会人になってからは社会人としての本を読むようになるし、またそうなるべきなのだ。だから役に立たない本を読むにはまったく大学時代がうってつけだと言っていいだろう。何しろお金が十分にないこともあるわけだから、貧乏学生らしく部屋にこもって読書をするために全ての環境が揃っているのだ。

本を読んでおこう。それも、人が聞いたらそんなの読んでどうするのと突っ込みたくなるような、正体不明の重厚な本を読むのだ。読むのは何でもいい。初めから自分の興味がどこにあるかなどと知りもしないのに限定するのはやめて、図書館をブラブラしながら目に付いたものを拾っていくことにしよう。そして一ページ目を読んで、「わけわかんねー」と笑えるぐらいのやつを選ぶのがいい。そのわけのわからなかったものに取り組んで、読み終えたころにはなんとなく意味が分かるようになっている、それを知的な意味での「成長」と言う。

僕の場合は、まず文学部の図書館にあったフロイト全集だった。全二十三巻で、文字が小さくて読みにくい、出だしが毎回「皆さん!」から始まるところが笑える本だった。(基本的に講義の文字起こしで出来ている本なのだ)

僕は大学一回生の五月ごろから、すでに大学の授業には見切りをつけていた。そんなバカなと思われるかもしれないが、それは実際に大学に入ればすぐにわかることだ。大学の先生というのは、さすがに専門家だけあって知識量は豊富だ。しかし、それをアウトプットする訓練をまったくしていないし、第一に教育するということにあまり興味が無いのである。僕は一回生のころ早々に、ああこの人たちは研究者であって教育者ではないのだと理解し、最後列に座っては気体分子運動論を聞き流しつつ机の下でフロイトを読んでいた。当時の読書力では遅々として進まず、一ページに三十分かかることもあったが、それを二十三巻まで読み終えたのだから、それはおそらくは僕の中での一番大きな読書だったと思うし、今でもそれは僕の中で塗り替えられていない。

大学では本を読むべきだ。それも十冊二十冊では話にならない。読むとしたら百の単位で数えるべきだし、それもある程度重厚な作家なり表現者を選んで読み込むべきだ。僕はフロイトを読み終えたあと、ユング心理学の大家である河合隼雄氏の本を読み始めたのだが、大学の二回生の途中で確認したところ、河合隼雄氏の本だけでその時点で四十冊以上を読んでいた。それだけ一人の人間の知識なり知恵なり思想なりを読み込むと、それはやがて自分の中に根付いてくる。その根付いたものを、僕たちは知恵とか教養とか呼んでいるのだ。

四十冊というと、たいした数ではないように聞こえると思う。実際にたいした数では無いし、今の僕の読書力なら本気を出せば一週間で読めると思うのだけれども、それでもその程度の読書ができない人のほうが多いし、はっきりいってできない人がほとんどなのだ。よくよく考えてほしいのだが、大学生活といってもそれは四年間しかないわけで、四年間というのは1460日なのである。通常はその四年生の春には就職活動に入るわけなので、もし就職活動で「読書が趣味で、大学時代には100冊の本を読みました」と言いたいなら、1095日で100冊、すなわち十日で一冊は読みきっていなくてはいけない計算になる。(ついでに、百冊ぐらいでは就職活動では武器にならないので気をつけよう。そうだな、三百冊ぐらいになれば言う価値があるかもしれない。あ、百冊だけでも、誰か一人の作家を追いかけての百冊なら言う価値はあるけど)

だからあなたは、大学に入ってゴールデンウィークが過ぎた頃、きっと大学の授業については絶望していると思うので、その初夏のころには図書館を攻略することを僕はおすすめする。あなたは今高校を卒業したてで、まして受験勉強を一年間してきたところだから、きっと読書という習慣が無いと思うしもしあったとしてもそれは貧弱なものだと思うのだけれど、その習慣ごと変えるチャンスだと思ってもらいたい。

大学に入って、学問のことを考える人はものすごく少ない。でも、単位を取らないわけにもいかないし、就職のことを考えると資格や語学もやりたくなるだろうと思う。しかし単位と資格と語学に気を取られて、教養と知恵、あなたの人格を形成する大事なそれを、大学時代に取りこぼさないように気をつけてもらいたい。

単位も資格もTOEICも必要なものだ。しかし大学では、もっと必要でないものを学ばねばならない。なにしろその「必要でないもの」は、大学時代にしか学べないのだから。



■遊びを学ぶのも大事なことで、遊び方を知らない人を僕たちはオトナと呼ばないのだ。

大学生は遊び呆けている。オトコの大半はセックスのことばかり考えているし、それを考えていないときは麻雀をしている。オンナの方はといえばこれも似たりよったりで、恋に夢中になっているか、あるいは普段はmixiにはまり込みつつ夏は海外旅行に行き冬はスノボに行っている。僕はそれが悪いと言っているのではない。むしろそれをたっぷりやれとさえ言いたいのだ。大学生は遊び呆けているが、それは遊びを学ぶ期間ということでもある。遊びというのは二種類あり、学ばないと遊べないものと学ばずとも遊べるものがあるわけだが、学ばないと遊べないそれを学ぶのは大学生の必須項目でもある。そこで遊びを学んでおかないと、オトナになってからは毎日テレビを見て過ごすしかなくなってしまうからだ。そういう人を僕たちはオトナと呼ばない。オバサンと呼ぶ。

僕は賭け事をしない。もともとからゲームは好きだが賭け事が好きでないというのと、あまりそういう勝負運が無いからだ。でもその僕ですら、一応麻雀ぐらいはできるし、将棋で矢倉囲いぐらいは作れるのだ。将棋を賭け事にするのは大阪特有の文化かもしれないが、まあとにかく博打をやらない僕でもその程度の遊びは学んできているのである。メンチンの六面待ちは分からなくなってしまうけど四面待ちぐらいならなんとかなるし、八萬のカベを手の内に持ってツモりスーアンコウのところを九萬の出アガリでトイトイサンアンコウなんてアンタ渋いねと、それぐらいのことは理解できるし楽しめるわけなのだ。(九萬でアガったトイトイサンアンコウについては「NANA」の十五巻の美雨を参照のこと)

(マイナーな話題でスマン)


***


大学に入ったら遊びまくろう。誰よりも遊んでやると、覚悟して臨んでもいいぐらいだと僕は思う。その中にどのような遊びが含まれるか、オトコ遊びやセックス自体も含まれるかどうかは人それぞれだけど、ひとまずはカテゴリを狭めることをせずに何でも経験してみようとする態度を持つべきだ。最近は誰も彼も好きなことをやろうとするが、まだあなたは自分が何を好きな人間なのか知らないのだ。それを試行錯誤することの手間を惜しんではいけない。自分はギターとサーフィンに興味がありますがパチスロには興味がありませんと、やったこともないことに決め付けを持ち込むべきではない。

遊びの中にこそ人間の妙味が表れる、ということが往々にしてある。僕の友人でサービス業で起業した男がいるが、彼は新入社員の採用を決めるときに、その男と一晩徹夜で麻雀を打つんだそうだ。まるでヤクザのような就職試験だが、彼いわくは麻雀という遊びはその人間の性格をモロに映し出すのだということ。リスク感覚はあるか、チャンスで冷静さを失わないか、粘り強さはあるか、負けこんで気持ちを腐らせないか、本質的にケチか鷹揚か、緊迫のシーンでジョークを出せる余裕があるか、愚痴るときにマナーがあるか。そういうことが麻雀の中では浮き立つように表れてくるという。彼は実際、ダマテンのピンフでオーラスの親を蹴るようなやつを営業として採用したらしいのだが、やはりそういうやつは仕事においても結果にシビアで頼りになるということだ。

だから逆に言うと、遊びの中で幼稚なところが見えてきたとき、僕たちはそれをオトナとは感じない。僕自身、ダーツとかをやるとすぐにムキになってしまうので全然人のことは言えないのだけれども、例えばあなたがオトコとドライブデートしたときに彼が道を間違えて、彼が「まあいいや、ちょっと遠回りになるけど海岸見ながら走るぜ」とカーナビを無視して走ってくれたらこの人はオトナだなぁと感じるはずだ。それと同じで、例えばあなたがバーベキュー合コンのときにノリについていけずにモジモジしていると、まあ初めはかわいいなと思ってもらえても後輩ができるぐらいの時点からはあのコまだまだコドモだよねと思われるようになってしまう。

遊び方を覚え、遊びを学ぼう。遊びを学ぶのも大事なことで、遊び方を知らない人を僕たちはオトナと呼ばないのだ。遊びを学ばないままオトナになろうとすると、つまんないオトナもしくはワイドショー好きなオバサンになるしかなくなってしまう。そういう人は遊びの中で身につけるジョークセンスや軽口の間を身につけていないのでサムいオバサンになるし、マジメにやるとうまくいかない遊びというものの性質に触れていないので何事につけても「頑張れ」としか言わない人になる。

また一応オトコに向けても言っておくと、麻雀もゴルフもカラオケもビリヤードもダーツもボーリングもキャバクラも釣りも囲碁も将棋も、全部出来ないし楽しみ方を知りませんというのでは働き出してから困ることになるから気をつけよう。外資系で働くのであれば別かもしれないが、普通の企業で働くというのはそんなにヌルいことではなく、そういう遊びをきっちりこなしてその中でも自分の妙味を出せるかどうかということも仕事の一環として問われてくるのだ。

遊びも大学での必須項目だ。

まあでも、留年はしないように気をつけてね……。

(私立で留年すると親が泣くので私立の人は留年しないように。ちなみに留年したらどれだけコストがかかるか、その程度のことは二十歳の時点で知っておかないと恥ずかしい人になる)



■留学で外国のやり方を身につけた人は、その中で日本のやり方を忘れてしまったことに気づいていない。

ええと、先に話した「勉強」の部分について、一点触れるのを忘れていた。留学ということについてだ。僕は留学することについて否定的ではない。しかし間違った留学については当然ながら否定的であり、またその間違った留学をする人があまりにも多いので僕は一応釘を刺しておきたいと思う。

留学について考える。留学するんだと決めている人も、落ち着いてこのことは考えておいてほしい。

まず、留学してきたことは、就職の段階で役に立つだろうか。これはズバリ答えるならNoと言うしかない。具体的に、あなたが就職活動の面接で留学の話をしたとして、それはあまり面接官に興味を持ってもらえない。はっきり言って面接官の人は留学の話に飽き飽きしてさえいるのだ。

なぜか? それは、留学生活というのが案外定型化されていて、誰もがその留学先で似たようなことばかりするからだ。せいぜい、カナダ人のルームメイトと仲良くなって、当地の学園祭でこんなことをしましたという程度しか出てこない。それはそれとしてステキな思い出なのだが、面接官は思い出話を聞かされても肩をすくめることしかできないのだ。そして面接官は、その思い出話を聞き流しつつ、留学先であなたが日本人のコミュニティに埋没しなかったか、また語学だけ少しでも身に付けばいいやと思って怠惰に堕していなかったか、そのことをまず真っ先に疑うだろう。

留学するのは知見を広げることになるし、それはそれでまことに結構なのだけれども、それが将来において武器になると思っているなら留学なんかしないことだ。それを勘違いしたままで、アタシ留学するんだよと田舎者のように浮かれていると、あなたはまちがった留学をしてしまうことになる。最近では留学する人なんて大学生の中にうじゃうじゃいる。それは一見するとカッコイイものに見えるかもしれないが、それは世間的にはまったく珍しいことではないし、それだけだと単に外国に「移動」しただけであって骨太な何かを学んでいることにならないのである。

どうも未だに、語学が出来ればそれだけで優秀で、仕事もバリバリやれると思い込んでいる人が多いように僕には思える。それもなぜか、意識が若いはずの二十歳そこそこの女の子にこそ多いように感じるから不思議なことだ。かつては確かに、英語が達者なだけで社会に重宝される時代があったのだが、それははっきり言って大昔、高度経済成長とかの時代の話だ。就職ということに限っていうなら、まず面接官は語学のできる人というような理由で人を採用はしない。それは語学を専門的に必要とする貿易や大型の商社でさえそうだ。僕はかつて商社で働いていたとき、上海に出張してそこの関連企業で担当案件について五時間ぐらいミーティングをしたが、そこで必要なのは語学より先に五時間の交渉に耐えるだけの精神力であり、そもそもそういう交渉を一人でやりぬける人間かどうかということだ。企業はまず、まずその五時間のミーティングを一人でやりこなせるだろうと思える人(やりこなせるようになるだろうと思える人)を採用しようとする。

あなたは例えばマクドナルドでアルバイトをしていたとして、そこに来る清掃業者の営業担当と、今後の取引とその価格について時間をかけて交渉できるだろうか? それができなければ、何ヶ国語が話せたって意味が無いのである。それは単なる通訳でしかないし、またそういう通訳は結局専門家に及ばないので使ってもらえない。

留学したらハクがつく、語学ができてれば就職はラク、そういう考え方は一切放棄することだ。むしろ就職する際には不利になる、それでも自分は留学するんだと、それぐらいの意識で留学するなら留学したほうがいい。その覚悟ができない場合、あなたは単に留学ということにホンワカと憧れを抱いているだけに過ぎないのだ。

(憧れも大事だけどね。でもまあ、時間もお金もかけてやることだから、憧れだけで安易にやるのはよろしくない。そこに安易さが見えたらますます就職のときには不利になると思っておこう。面接官はそういう安易さを見抜くプロである。面接官はまず、日本だって先進国だから勉強は十分にできるだろうけどなぜわざわざ外国へ? と問いかけてあなたを答えに詰まらせるのだ)


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留学について、もう一点。大学は人間を学ぶためのところだと言ったが、このことで留学することによって混乱してしまう人がいる。そのことも、一応僕として警告しておきたい。

外国の人、とくに英語圏の人たちと、日本人とではコミュニケーションのやり方が違う。アメリカの人たちなんかは、それこそ幼少期から両親に"Say yes or no!"と叱られて育っていて、本当にイエスとノーをはっきりさせる考え方をネイティブとして持っている。また自分と他人の峻別の厳しさは日本人のそれの比ではなく、自分はどうであなたはどうだと、そのことをくっきり分けて考えるものだ。それだからこそ外国の人は自分の主張を自分のものとして臆することなく言葉にするわけであり、またその主張を基に堂々と戦争をしかけて他国の主権を侵害できるわけだ。僕たちは北朝鮮・金正日の言い分を本能的に聞いてしまうが、アメリカはイラク・フセインの言い分を聞かない。耳に入れはするがそれが自分の主張と相反するものであれば戦いで決着をつけるわけで、それで必ず勝利してみせるという気概がアメリカの文化でありお国柄なのだ。それがけしからんと議論するのはここでの本筋と違うのでその話はしないが、とにかくもそういう部分のやり方が日本人とはあまりにも違うのだ。

たがら、あなたが大学で、人間の本質とそのコミュニケーションのやり方を学ぼうとしているとき、無防備に留学するとその理解において大きな混乱に陥ってしまう。あるいは混乱を避けるため、大きな誤解をしてしまう。誤解というのはすなわち、日本でのコミュニケーションのやり方を放棄してしまって、外国流のそれを自分のものとして吸収してしまおうとするということだ。僕はそうなってしまった人をたくさん見てきているが、そういう人は日本で生きていくのにとても大変になる。いわゆる「空気」が読めない人になるし、そこでスベってしまったときにどうやってリカバーしていいものなのかも感覚としてわからない。好きな人に告白して、相手に曖昧なNoを言われるとモヤモヤしてストレスを溜め込むし、オトコを立てるということをまったく知らないので友人の前で自分の彼氏を罵る具合にケンカしてしまったりする。(堂々と主張し戦うということをやってしまうのだ)

僕は外国の人のコミュニケーションが冷たくて間違っていると言っているのではない。外国の人のコミュニケーションには、それはそれとしての洗練というものがあり、その自他の峻別の中にLoveの概念を取り込めている美しい人はたくさんいる。ただ、そのやり方があまりにも日本人と違うということだけを言っているのだ。一言で言って、外国の人はまず自分と他人が分離されているという前提に立ち、そこからLoveの概念でつながりを持とうとするのであって、日本人は逆にまず一体感という前提に立ち、そこからオトナになるという概念で他人から自立しようとするのだ。

うーん、このことはなかなか、かいつまんで話しても説明できることではないのかもしれない。まあとりあえず、留学先には異質のコミュニケーションルールがあって、それを無防備に受け入れているとあなたは必ず混乱するということだけ覚えておいてほしい。それを無防備に受け入れているときは、新しいことを急速に学んでいるようで快感に思えるものだが、それは実のところそうでもないのである。

留学で外国のやり方を身につけた人は、その中で日本のやり方を忘れてしまったことに気づいていない。それはやり方を舶来のものに変えただけで、人間の幅を広げたことにはならないのだ。

あなたが留学するなら、その人間の本質とコミュニケーションを学ぶということにおいて、日本のそれと外国のそれ、両方を身につけるつもりでいなくてはならない。それはものすごく大変なことで、長期留学から帰ってきた人のほとんどは、日本のやり方が「肌に合わない」と感じることになる。それでも外国のやり方がネイティブレベルにまで達しているわけでもなければ神に祈る習慣を手に入れたわけでもなく、またそのまま外国で生活する環境も覚悟も整っていないのだから何かと大変になる。

だから、留学するときは気をつけて。留学で成長するためには、人並みはずれたタフネスと高い意識レベルが必要になるのだ。



■大学にいるうちに、夢に触れられることはほとんどない。しかし、夢に触れている人に触れることはできなくもない。

さて、話はものすごく長くなってしまった。そろそろ終盤として、6つの要素のうち「夢」の話。夢というと話がまたデカくなりすぎるので、僕として考えるところの大学における夢へのアプローチ、ということについてのみ話すことにする。

あなたには夢があるだろうか。僕は十八、十九の時点で夢は別になくてもいいと思っているのだが、もう夢をしっかり持っている人もいるかもしれない。

あなたは大学に入って、一度は夢のことを考えるだろう。いつかフィンランドにオーロラを見に行きたいというような夢ではなくて、もっと自分の将来と、その生活に密着したような夢をだ。あなたは大学に入って、自分の将来と夢に向き合うことになると思う。しかし一方、あなたが大学で実際に夢に触れられることはまずないだろうとも思ったりする。大学というのは社会から隔離された空間だ。そんなところで手ごたえのある夢に触れられることはほとんどない。学問に夢を託す人だけが唯一の例外となるだろう。

かといって、大学生活では夢のことを忘れていていいのかというと、それはそうでもなかったりする。OLになったらそれこそ夢と向き合うところじゃなくて、とにかく残業代のもらえない残業をやめさせてほしいしセクハラ課長のところから異動させてほしいし安いエステサロンを見つけてスキンケアしないとマジにヤバいしと、そんなことばかりに追われる日々になるのだから、考えるならやはり大学時代にじっくり考えておいたほうがいい。

そこで僕としてあなたに勧めておきたいのは、夢について考えるとして、ひとまず夢の内容やジャンルを気にしない、そして夢というものそれ自体について考えるということだ。人間は誰だってじっくり考えたら夢があるわけで、それは決して一つでなくむしろ無数にある。ひとまずあなたは、その無数の夢を一本化することをやめて、まず自分にある無数の夢を確認することにしよう。そしてそのいちいちについて、周りにそれを実現している人、あるいは実現させつつある人がいないかどうかを探してみよう。

大学のいいところの一つは、単純に人数がたくさんいるところだ。クラブ・サークルを選ぶ際も、単純に人数が多いところを評価していっていいだろう。イベントサークルのように有象無象に所属人数だけ多いところだとダメだが、ちゃんとやっているところで人数が多いところがあればそれはそれだけでそのクラブ・サークルに入る動機になりうる。

例えば、同期だけでなく先輩後輩を含めて五十人のサークルがあったとすれば、それに所属したあなたはその五十人とアクセスすることができるようになるし、そのそれぞれは十人ぐらいの友人知人は持っているものなので、結果的にあなたは五百人の人とアクセスできるようになるのだ。その中で、あなたは人を探せばいい。夢を実現している人がいれば是非会ってみるべきだし、実現に向かっている人がいたらその人の話を聞いてみる。そういうのはとても大事なことだ。僕たちは所詮、自分の思索だけで自分を勇気付け推進することはなかなかできず、結局は人から受けた作用、その人から伝わってくる波動によって突き動かされることが多いのであるから。

例えばあなたが、無数にある夢の中の一つとして、電子機器の下請け会社で事務職をやるよりはできたらテレビ局でアナウンサーになりたいと思っていたとする。そのときあなたは、そうなりたいなあと思いつつも具体的には何もできないのである。それは大学が社会から隔離されているからで、それは個人の努力によって乗り越えられるものではない。テレビ局は大卒の人間しか採らないし、まだ大学一回生ですという人をそもそも面接しようとはしないのだからしょうがない。これはおかしなしきたりで、優秀な人材であれば一回生でもなんでも採用すればいいのだけれども、今のところそのしきたりのおかしさに気づいているオトナは人口の1ppmぐらいしかいないので、まあ今後も変わる見込みはないだろう。

だからあなたは、実際にテレビ局で働いている先輩、テレビ局に内定した先輩、テレビ局を受けたけど落ちた先輩、そういう人たちが周りにいないかを探してみるのだ。そして、五百人もいれば必ずその中に、そういう人が一人はいるものだ。あなたはその人になんとかして会ってみて、その人と話をしてみる。それがあなたとして、夢を実現するための巨大な土台になると思っていていいだろう。その人と話すとして、あなたは内定に必要な要件と面接のテクニックを訊くのではない。訊いてもいいが、それは個人によって変わることなのであまり訊いても意味の無いことだ。それよりもあなたは、その人からその人の波動を受け取ることに集中したほうがいい。どこかにたどり着こうとしている人には、必ずあなたがまだ持っていない波動、オーラめいたものを持っているはずだ。あなたはその波動を第一に受け取り、その波動を自分として持てるようになるのかどうかを考えていくことになる。このことを早いうちに体験できたら、あなたの人生は夢に向かうのにとても有利になるだろう。

重ねて言うが、そのときのテーマになる夢の内容、それはなんだっていいのである。むしろ自分と関係なさそうに思える夢についてこそ、あなたはその実現に向かっている人の波動をキャッチするべきかもしれない。夢というのは内容に関わらず、それを追いかけるのに勇気と情熱とタフネスが要るわけで、あなたはその波動さえキャッチできればやがてそれを土台として夢へと向かえるのだ。

例えば、オレは年収一億円を稼ぐんだと、そういう動機で会社を辞めて起業した人がいたとする。もしあなたが、そのあわただしい彼の起業の中で、雑用でも事務でも格安自給でもいいからアルバイトなりとできたなら、それはあなたにとってすさまじい経験になる。企業する人は、当然のこととして社会情勢を命がけで読み、徹夜で経営計画を練ってはその計画書を銀行に提出して融資を百回断られる、それでもめげずに次の方法を探しつつ、現状の企画にさらなるアイディアを盛り込もうと創造性を全開にして愉快な表情をしているものだ。今のあなたにはまずそんなことはできないはずで、もしあなたがそれを実際にできている人を間近にしてその波動を受け取れたなら、それはあなたにとって巨大な経験になる。

大学にいるうちに、夢に触れられることはほとんどない。しかし、夢に触れている人に触れることはできなくもないのだ。医学部を辞めてデザイナーになった人でもよし、二十三歳で四人の子供を育てている人でもよし、ジャズバーでドラムをやっている人でもよし、何でもいいから夢に触れている人あるいは接近している人とあなたは触れてみることにしよう。

(そのアプローチができる程度の積極性は自力で手に入れよう。そんなところでビビっていては話にならない。それを手に入れないまま夢がかなうなんてことは絶対ないだろうしね)

(まあ、お互いがんばろうねということだ)



■大学はディズニーランド化している。それは事実であって、まことにすばらしいことだ。

ぼちぼち、まとめです。

えー、大学のディズニーランド化、というのがマジメな人たちのマジメな議論で提出されたことがある。彼らの言うには、大学生が学問もせず遊び呆けているのがけしからん、またその大学に税金が投入されていることが気に喰わん、これでは大学はまるでディズニーランドではないかァァァァァ怒怒怒ということらしい。

まあ当然ながら、こういう人たちは声が大きいだけで、実のところ誰にも話を聞いてもらえないし、実際に何かを巻き起こしたりすることがない。こういう人たちはたいてい大学卒で、大学の中でガチンコで勉強ばっかりしてきた変人たちだと僕たちは知っているので、まあゴモットモデゴザイマスと理解したフリをしながら実質的には無視する。あなたもきっとそうだと思うし、それはそれでまったく正しい。そういう人にはならないようにしよう。(まあ、なれといわれてもなれないよな)

大学はディズニーランド化している。それは事実であって、まことにすばらしいことだ。そして、ディズニーランドでマジメに振る舞うやつを僕たちはアホウと呼ぶ。あなたは四年間、ディズニーランドをたっぷり楽しめばいい。そのことが、大学という空間の特性として虚無ではあるものの、希薄なことでは決して無いと、僕はここまでで主張してきたつもりだ。

あなたは大学で人間を学ぶ。辞めたいと思いつつもしがらみからなかなかやめられないクラブ・サークルに結局はどっぷり浸かりこみながら、ほどほどにアルバイトもしつつ留年はしないようにしながら最大限遊び呆ける。その中で、恋をしてセックスをして別れてはまた恋をして、時に夢を実現させている人に会ってショックを受けながら、自分は夜中一人で虚無感と戦ったりして、それに勝てないままに一応会計士の参考書を読みながら、それにも飽きてわけのわからないサルトルの本を読むのだ。その中であなたは、人間の本質についてカラダの芯から学ぶ。それをちゃんと学んだ人は、人として人と関わっていくのに強力なパワーを手に入れるのだ。

そのパワーを手に入れていれば、恋も就職も結婚もトラブルも、あなた自身として力強く立ち向かうことができる。あなたは人間の本質を学んできたのだから、彼に愛を伝えるにも、面接官に志望動機を伝えるにも、仕事のミスから取引先に謝りに行くにも、そのことの核にある大事なものを見失うことがない。その核が見えていない人は、何歳になっても恋のマニュアルを読んだり志望動機をねじくって表現したり謝罪文を暗記して取引先に行ったりするものだが、そういう人はヘタすれば一生そのまま幼稚に生きていくことになる。

大学はディズニーランドで、あなたはそこで人間を学ぶ。そして、そこで全てを学びきれば、あなたはあるときふと理解するだろう。

大学はディズニーランドだが、社会だってよくよく見ればディズニーランドなのだ。

そのことに気づいた人が、本当に楽しく生きていくことができます。

(まあそれは、ちょっとイッてしまってると言われるかもしれないけどね。まあでも真実だ。オレが真実を言っていて、常識がウソを言っているに違いないのだ)

ではでは、このへんで。長くなってごめんね。

最後まで読んでくれてありがとう。あなたには根性があります(笑)。原稿用紙換算で114枚分もあるのに、よく最後まで読んでくれました。


えーでは、ステキな大学生活を送ってくださいね。

大学入学、おめでとうございます!




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