恋愛偏差値アップのコラム









デートを拒否られた、あなたへ






恋愛には情熱が必要だ。

情熱というものは、「熱」という文字が与えられているように、物理的な熱の如く、否応無く相手に伝播するという働きがある。オンナが、その気になれないオトコに熱烈に口説かれて、不本意なままに「そこまで言うなら・・・」という具合にデートの誘いを受けてしまったりするのは、その情熱の作用による。情熱とは、相手の拒否の意思をさえ半ば無視してしまうものなのだ。この情熱の作用があるから、僕たちの恋愛は、しっちゃかめっちゃかになるし、時には危険なぐらい感動的にもなる。

情熱というものは、誰でもが持っているものではない。ある程度真剣に生きている人にしか宿らないものだし、明日から情熱を持とうと思ってにわかに持てるものでもない。恋愛において、相手の拒否なり躊躇なりを踏み越えて関係を深めてゆく、そこには当然情熱が必要になってくるわけだが、ここで情熱を持っていない人は、情熱の代わりに「粘着」を持ってきたりする。「そこを何とか、一回だけでも、お願い」と食い下がってくるオトコに、オンナが百万年経っても心動かされないのは、そこにあるのが情熱ではなくて粘着だからだ。粘着は情熱と違って、エネルギーも爽やかさも無いものだから、それをぶつけられた相手はむしろ嫌悪すら覚え始める。情熱がいかにエネルギッシュで爽やかなものか、それは高校野球を観たりすればすぐにでもわかることだ。彼らは真剣そのものだが、そのハートにはネバネバしたところが全く無い。

恋愛には情熱が必要だ。こんなこと、当たり前すぎることだと思われるかもしれないが、案外忘れ去られてしまっていることのように僕には思われてならない。なぜかというと、恋愛のシーン、特に片思いのシーンにおいて、こういう発想をする人があまりにも多いからだ。

「彼の態度からして、まずムリだとはわかってますけど、ダメモトで告白してスッキリしようと思います」

恋愛というのは、相手の気持ちあってのものなので、残念ながら何をどう頑張っても実らない場合がある。というか、むしろそういう場合のほうが多いのかもしれない。しかし、だからといって初めからそう諦めがちなのはどうだろう。僕はあまり、そういうやり方に感心できない。なんだか、前もってダメモトを設定しておいて、フラれた時のダメージを軽減させようとする作為ばかりが透けて見えてしまう。(その気持ちは、よくわかるんだけどね)

告白するにして、それが実る実らないということ以前に、相手の記憶に一生残るような告白にしたいではないか。自己防御のためにダメモトを設定して、情熱を放棄するようなやり方に、僕は賛同できない。自分の情熱が、相手の意思を踏み越えて作用することがありうると信じて、本気で口説くつもりで告白すべきだ。でないと、あなたの告白は、実る実らないの以前に、三日で忘れ去られてしまう貧弱なものになるだろう。

・・・というわけで、僕なりに情熱というものについてアツく語ってみた。もちろん、僕が毎日情熱的に生きているというわけではないので、僕自身として情熱というものを忘れないでいたいなと思って言ってみたのである。いつもいつも情熱的でいろというのは僕たち凡人には難しい話であって、僕も体調の悪い日なんかは、廃屋のガスコンロのように情熱は冷え切ってしまう。実はコレを書いている今も、僕は扁桃腺をやられてしまっていて、実は体調があまりよろしくない。僕は扁桃腺が普通の人よりかなり大きくて、扁桃腺炎になると途端に元気がなくなるのだ。今、伊東美咲がコンパに来るから参加しろと言われても、僕はきっと断るだろう。それぐらい僕は、喉が痛いときには情熱が出ない。(なのでみなさん、僕が喉痛いと言ってるときは、どうか優しくしてやってね)

さて僕は、喉の痛みで情熱を臨時休業させて、その中で逆に情熱というものが大事だなぁと再発見したわけでもある。最近の風潮の中で、情熱なんてはっきり言って死語、そんな旧時代的な言葉をマジメに取り扱っているのは僕とブルー・ハーツの古いCDだけじゃないかなどとすら思われてくるわけだけど、気がつけば僕たちは、その時勢の中で情熱とは正反対の発想、正反対の生き方ばかりしているように思えてくる。僕はそのことに、少し深刻さを帯びた不安と寂しさを覚えるのだけれど。

僕たちは情熱の正反対へ向かっている。僕としてそのように感じる理由はいくつもあるのだけれど、ここでは端的に説明するために、ひとつの言葉を取り上げて話したいと思う。いささか突然話が切り替わることになるが、その言葉とは「モチベーション」というやつだ。この外来語は、最近になっていつの間にか僕たちの中に定着してしまった。しかもその定着はけっこう根深くて、例えば中学生が高校受験のために勉強するといったようなシーンにすら、「モチベーションの維持が大変なんですよね」、といったような使われ方で出てくる。

モチベーション、これは日本語に訳すと「動機」という意味の言葉だけど、そのニュアンスは実のところ曖昧でよくわからない。よくある使い方は、サッカー選手が試合前にコメントするときなどで、

「後はメンタル面の強化だけですね。そのためには各自、自分の中でモチベーションを再確認することが必要でしょう」

といった具合のものだ。僕が思うに、これは「後は根性だ、それぞれが気合を入れなおすべし」と言っているのとあまり違いがないようにも思うのだが、どうやらそういう古い言葉は禁止になっている様子。これは多分、監督やキープレイヤーが外国人だからということによる部分もあるだろう。日本人が、最後の決意を固めようというのに、そこで外国の言葉を使うのはどうかとも僕は思うけど。(話が逸れていくな)

このモチベーションという言葉は、すっかり僕たちに馴染んでしまったわけだが、僕が感じるところ、やはりこの言葉には日本語には無い思想の含みがあるように思える。それは、透徹した個人主義の思想だ。すなわち、モチベーションとは個人がそれぞれに持つべきものであって、みんなで共有するものではないという思想の含みである。このことは、次の二つの言葉を並べてみればわかる。不思議に、前者は言葉としてしっくりくるが、後者については首を傾げたくなるのだ。

「みんな、やる気出していこうぜ!」
「みんな、モチベーション出していこうぜ!」

ここで後者について違和感を覚えるのは、モチベーションというのは皆で出し合って共有するものではなく、それぞれ個人が保有するものだという暗黙裡の了解によってである。「モチベーションは、各自で高めるもんだろ。出していくっていうか、そもそもモチベーションは持つものであって出すってもんじゃないだろ」と、誰しも感覚として思うのである。

モチベーションはそれぞれ個人が保有するもの。最近になって、このモチベーションという言葉が必要とされだしたのは、実のところこの思想の含みが必要とされたからなのではないだろうか。周囲がどうあろうとも、自分は個人として、高い意欲を保持し続けなくてはならない。そのような、いかにも現代らしい思想の要請によって、僕たちはモチベーションという言葉を導入せざるを得なくなったのだ。

ここで、モチベーションという言葉と概念は、確かに必要なもので、目的達成のために強力な作用を持ちうるものではある。今の時代は情報だけが氾濫していて雑音が多いし、ニヒリズムにも成りきらないいやらしさで物事を批判する人も多いから、何をやるにつけても周囲のネガティブな反応を思い切って無視しなくてはならないところがある。以前にテレビで聞きかじったことだが、ライブドアの堀江社長も、会社設立当時には「上手く行きっこない」というようなことを、圧倒的多数の意見として周囲に言われていたらしい。そのような状況においては、確かに個人としてのモチベーションを持つことなしには何事も為しえなかっただろう。その当時の堀江社長を支えたのは、間違いなくモチベーションであったに違いない。モチベーションというのは、そういうところで現代の日本に必要とされている、確かに今生きている言葉である。

しかし、である。僕としてはそのモチベーションという言葉と思想の有効性を了解しながらも、その思想の副作用に危険性を感じずにいられない。それは、次のような観点においてだ。

―――周囲がいかようであっても、それに影響されない個人としてのモチベーションを保つということは、逆の立場に立ったとき、自分がいかようであっても、相手のモチベーションには影響し得ないということではないか?

お互いに影響しあうことのない、モチベーションという概念。僕は、それを情熱と正反対の概念であるというように感じる。情熱は、物理的な熱の如く相手に伝播するものである。モチベーションを確立するということは、個人として他に影響されない動機の確立であり、情熱の真空遮断であるという側面を持つのだ。

っと、話がなにやら難しげになってしまった。僕の悪いクセである。僕が言いたいのは、恋愛における情熱についての話だ。あなたが想い焦がれる彼をデートに誘う場合、あるいは僕が下心であなたをデートに誘う場合でもいいわけだけど、例えばそういうデートの誘いが断られたとき、相手にはそのデートの誘いを受ける動機=モチベーションが無いわけだ。僕はあなたとデートしたいが、あなたは僕とデートしたいとは思ってくれない。ここで、相手の意思を踏み越えて作用しうる「情熱」の作用を信じる意外に、状況を打破する方法があるだろうか。僕としては、単にそのことを言いたいのである。

僕たちは、情熱という言葉を死語にして、モチベーションという言葉を使うようになったわけだけど、果たしてモチベーションの思想だけで、僕たちは恋愛をやっていけるだろうか。僕はそのように考えたとき、モチベーションとか言ってカッコつけてると危ないよな、やっぱり情熱を信じてないと生きていけないよな、と素直に思うのだ。

さて、皆さんはどうだろう。ステキなあの人をデートに誘ったものの、あっさり断られたとして、相手にその気がないならしょうがないとサクッと諦めるか、いやいやここからがハートの見せ所だよと奮起するか。僕なんかの場合、ステキな人をデートに誘っても、九割の人がひとまずは拒否するので、そこでいちいち引き下がってはいられないわけだけど・・・。

恋愛はやはり、情熱を必要とするものである。僕はここで、情熱を「取り戻そう」という表現をしたい。もともと僕たちは情熱を持っていたはずなのに、それをどこかで旧式のものとして破棄してしまったように、僕には思われてならないからだ。情熱を取り戻そう。自分の熱が相手に、理屈ぬきにして伝播してしまうということがあるのだと信じて、それを指針にしていこうではないか。それも、恋愛のことだけにとどまらず、生きること全般において・・・。

僕たちは情熱の風景を見なくなった。それこそ旧時代的なテレビドラマ、不良の学生が教師に怒鳴りつけられて、暴力事件を起こしつつも、クラスメートに支えられて、徐々にあるべき状態に立ち直るといったような物語も、かつてはいくらかのリアリティをもって僕たちに感じられたが、僕たちはいまやそんなものを見せ付けられても、ただの絵空事、古めかしいファンタジーというようにしか感じられなくなっている。それどころか、そのような不良少年について、「言っても分からない奴なんだから、退学にするか少年法を改正して刑務所に入れろ」というような、立ち止まって考えてみれば冷酷無比なだけの意見が僕たちのなかに湧きすらしてしまうのだ。そのことと同根の現象として、僕たちは恋愛についても、「フラれたならさっさと諦めて次にいけば?」とか、「そんやつとは早く別れなよ?」とか、「離婚して慰謝料もらったら?」とか、そういうような発想をするようになっている。そのような考え方が、やがては自分を寂しさの底へ突き落とすということを、心のどこかで薄々気づきながら。

情熱を取り戻して、情熱で恋愛をやろう。好きな人ができたら、デートを断られてもそんなことは気にせずに、バカみたいに熱烈に口説こう。その人がやがて、照れくささに苦笑してしまうまで。





恋愛偏差値アップのコラムに戻る
出会いと恋愛のtopへ戻る