恋愛偏差値アップのコラム









彼に「選ばれる」オンナになる (後編)


(←前編へ)




■あなたは彼に五つの作用を与えればいい。

あなたは彼に「選ばれたい」はずだ。単に「好かれる」だけじゃなくて、「選ばれたい」というのが本音のところだろう。まだ特定のオトコが決まって無くても、やはりオンナとしてはいつの日かいいオトコに「選ばれたい」と望んでいるはず。

この「選ばれる」という観点から見たとき、いかにオンナの側が「魅力的」であってもそれだけでは結果には繋がらないことになる。オトコはオンナを一般的魅力―――外見と人柄とステータス―――の点数で選ぶのではないからだ。ある程度点数を見る部分はあるにしても、本当の意味で選ぶときはやっぱり「自分にとって大事なオンナかどうか」が最大のパラメーターになる。

例えば僕は小池栄子が好きだが、彼女が今プロポーズしてきたとしても僕は断る。彼女は魅力的な人だが、僕にとって大事な人ではないからだ。

(断るのに、たっぷり躊躇はする。悶絶する)

(ところで超厚かましい妄想をしたことにつき深く陳謝します)

オトコは自分として大事だと思わないオンナを決して選ばない。もしオンナを「大事さ」でなく「点数」だけで選ぶオトコがいたとしたら、それはそのオトコが何かを大事に思うという機能を持っていないだけだ。そんなオトコに選ばれてもしょうがない。オトコは大事だと思えるオンナを自分のオンナとして選ぶ。またあなたは、そういうオトコにこそ選ばれなくてはならない。

だから、あなたが彼に選ばれるためには、あなたは彼にとって大事なオンナにならなくてはならないわけだ。

これは当たり前のことのようだけど……

オトコにとって大事なオンナとは、どういうオンナか?

それについて、ここまで話した方向で捉えなおそうということだ。オトコにとった大事なオンナとは、自分に貴重な作用と快感の作用を与えてくれるオンナである。

(それはメリットのあるオンナといことではない。点数主義から離れられない人もいるので念のため言っておく)

さてでは、そのあるべき「作用」というのはどういう作用だろうか? 僕はここで、それについて五つにカテゴライズして説明したいと思う。人によってはもっと多く、あるいは少なく分類したくなるかもしれないが、ひとまず僕としての分類では五つになった。

すなわち、

―――感動、励まし、発見、引き締め、癒しと慰め。

この五つの作用を最大に彼に与えるのが、あなたとして彼に選ばれようとするときの努力の方向になる。この方向で考えるとき、「かわいい」とか「明るい」とか「元気一杯」とかは関係がなくなってくる。例えば、自分として性格の明るいオンナであっても、それが彼を明るい気分にするように作用するとは限らないからだ。明るいオンナでも、バカっぽく見えてしまったら彼はため息をつきたくなるかもしれない。そのときそのオンナの明るさは彼に貴重な作用を与えてはいないことになる。

同じように、元気一杯のオンナがTPOをわきまえなくてウザったいオンナになることもあるし、顔がかわいいオンナでもその表情が硬かったり性格に陰険なところがあれば彼の気持ちを晴れやかにする作用は持たない。

大事なのは「作用」だ。「素養」「素質」があっても、「作用」に到らなければ0点だと考えるのである。

そのあたり、この「作用」という視点で考えようというのは、自分の魅力ということの視点から離れて考えようということでもある。自分の魅力を考えるのではなく、自分として彼に与える「作用」が、彼を気持ちよくさせるか、気分を明るくさせるか、元気一杯にさせるか、そのような視点で考えていこうということだ。

さてでは、五つの作用についてひとつひとつ見ていこう。もちろん五つに分けたからといって、その五つは五日間でマスターできますというようなものではない。そういう発想をする人はもうそろそろそういう発想をやめないとやがて知能の低いオバサンになるので注意だ。

「五つの作用」。これは作用をカテゴリに分類しただけで、それについてノウハウが示せるものかというとそれはちょいと難しい。難しいというかムリだ。ただまあ、何かしらのカテゴライズがあったほうが人間は努力がしやすいだろうと思う。(一応、ノウハウ的なことも入れられるだけ入れるけど)

そんなわけで、あなたが彼に与えるべき「五つの作用」について考えていく。ここにおいて、次のことは断言していいだろう。すなわち、「ただあなたは彼に五つの作用を与えればいい」ということ。それによって、彼はあなたを自分のオンナとして選びたいと望むようになる。

えー、このことが、あなたがいいオトコをゲットする、その背後の知恵になることがあればいいなと思ってます。



・感動の作用

さて、感動の作用というのをまず初めにもってきた。これを初めにもってきたのは、やはりこれが一番大事だと思うからだ。あなたの存在が彼を感動させたとき、あなたは間違いなく彼に貴重な作用をしたことになる。そのとき、彼はあなたを大事な人と思うし、それは彼としてあなたを選ぶ動機になりうる。

感動の作用があれば強い。これは男女が逆転しても同じはずだ。例えば、オトコの言葉に胸が熱くなったとか心に光が差したとか、振る舞いやものの考え方や持っている世界にワクワクしたとか興奮したとか、そういうときオンナはオトコに惚れる。これはオンナの側から見れば当たり前のことだろう。そしてこのことはオトコの側に置き換えても同じなのだ。オトコだって、オンナの言葉にジーンときたりオンナの仕草に興奮したりするとそのオンナのことを好きになる。オンナの非常識な優しさに涙腺が熱くなればこのオンナはオレにとって特別だと思うし、オンナの精神の高潔さに心が震えればやはりこのオンナをオレは選びたいとオトコは思う。

このことは当たり前すぎてフーンと聞き流されてしまうかもしれない。しかし、僕はこれは何回確認しておいてもよいことだと思っているのだ。フーンと聞き流す人はきっと生まれてこの方感動というのを体験したことが無いのだと思うので、その人については理解されなくてもしょうがないかと僕としては思い切ることにした。

感動の作用が一番大事だ。ただし、あなたが一人で感動していてはいけない。あなたが彼を「感動させるかどうか」が一番大事だということだ。

とはいえ、このことを大事ですよと提示したところで、だからこうしましょうというようなマニュアル的なものは提出できない。それは先に述べたとおりだ。ただ、それだけでは愛想が無いので、僕の経験から少し参考になるかなというようなことを話しておこう。

今からもう十年以上前。僕が阪神大震災のときに住み込みでボランティアをしていたとき、その避難所で僕はあるオンナを心底から好きになった……

(まあ、この話、当時の僕が若かったのもあるんだけどね。昔の自分の話をするのは非常に恥ずかしいのでみんな笑わないように)

僕と彼女は、その避難所で救援物資の毛布を被災者達に分配していた。分配していたといっても何しろ統制のとりようのない被災地でのこと、中には余分に受け取る人もいたし、中には受け取れない人もいた。それはどうしようもないことだった。何しろ、電話の一本も使えず、毛布を分配しますよーと大声で言ってまわるしかなかったのだ。

しかしその分配について、不公平だろうということで後に一部の被災者からクレームが入った。それを矢面に受けたのは僕と彼女だった。まあクレームを受けたといっても、とりあえずは向こうの不満をひたすら聞くしか無い。何しろ、毛布を出せと言われても手元にないから出せないのだからしょうがない。

そんなこんなで、僕と彼女は二人協力して、その理不尽なクレーマーたちを(もちろん先方だって切羽詰った状況だったのだからしょうがないのだけどね)なだめてすかして追い払った。時間にして、小一時間程度だったろうか。災難だったね、というようなことを二人で言って肩をすくめて笑い合ったのを覚えている。

しかしそれから、五分も立たないうちである。僕は避難所の裏口、普段は使わない階段の昇降口でしゃがみこんで泣いている彼女を発見してしまったのだ。僕は驚いて、どうしたの、そんな気にすることないよ、あの人たちもただ八つ当たりに来ただけなんだからさ、というような言い方で彼女を慰めようとした。そのまま僕は、うずくまっている彼女の肩に手を乗せたが、彼女の身体はカタカタと震えていた。どうしたの、と僕が重ねて尋ねると、彼女は僕をギョッとさせるぐらい激しく震えた声で言った。

―――怖かったの。ごめん、わたしほんとは、すごい怖がりなの……

彼女はそう言うと、堰が切れたようにえっくえっくと子供の泣き方で泣き出してしまった。僕はその瞬間、どうすることも出来ずに突っ立ったまま、自分を本気でぶん殴りたくなった。

―――なぜオレは彼女を、あんなきな臭いやりとりの場に立たせてしまったのだ?

僕は自分の迂闊さに情けなくなって、彼女とは理由の違う涙が出てきそうになった。

そして同時に、うずくまったまま何とか泣き止もうと嗚咽をこらえている彼女を見て、

―――ああ、なんて高潔な人なんだろう。

と、それまで経験したことのなかった高純度の恋心が自分の中で爆発するのを感じたのだった。

(了。嗚呼、非常に恥ずかしい)

というわけで、僕はその彼女にそのように感動させられてしまったわけだ。感動によって生まれた好意は高温の高純度で、単なるかわいいナという好意とは質が異なる。こういう感動のシーンがあったとき、オトコはこのオンナを自分のオンナにしたいと真剣に思うものだ。

とはいえ、そんなものは演出でやれるものではないので、こうして話してもあまり参考にならないかもしれない。まあでも、感動の作用が一番強力でやはり一番不可欠だということは忘れてはならないと思う。

その他にも体験として思い起こすことはいくらでもあるが、あまり話すと僕として恥ずかしすぎるので何でもかんでも話すのはやめておく。あとはそうだな、こんな話もあったか。僕はある女の子に告白されて、それをごめんねと断ったとき、思いがけないことを言われて気持ちが熱くなってしまったのを覚えている。

「……ごめんね、やっぱり付き合うっていう気にはなれないや」

「そうだよね。それは、わかってた」

「うん……ごめん」

「……でもさ、わたしはあなたのさ、そうやって断るときの顔まで好きなんだよ?」

彼女がそう言って、涙目で笑ったので僕は感動してしまった。このコは僕のことをここまで本気で好きになってくれたんだと、そのことを神様に感謝したい気分になった。

……あ、やめよう。やっぱり話しすぎると恥ずかしくなってくる。あとはみんな、自分で考えましょう。えー、彼を感動させるのはカンタンです。あなたの精神の発條で、あなたの心を感動的な高みへと跳躍させて光らせればいい。

(わけがわからない。けどまあ、そうとしか言えないのだ)



・励ましの作用

励ましというのも貴重な作用だ。オトコはオンナに励まされて、それによってズキューンと気持ちのチャンネルが正しいほうに変わったとき、このオンナはオレにとって特別なオンナだというように感じる。オトコはそういうオンナを自分のオンナに選びたいと思う。まあこれも、男女逆に考えても同じことだな。ここで話していることは全て、男女逆転しても同様に成立することだ。オンナだって、あの人の言葉で冷え切っていた心に火がついたとか本当に自分を変えることができたとか、そういうことがあったらそのオトコのことを好きになる。だからあなたは、その作用を彼に与えればいい。

ここで、中には「じゃあ彼を励ませばいいのネ」と、そう短絡的に考える人もいるかもしれない。が、その人には僕としてちょっと待ったをかけたい。ええと、実際その手の短絡的発想をしてしまう人は、結構若いコに多いんじゃないかなと僕は個人的経験から思っている。ここまでの話をもう一度思い出してみて、冷静に考えてみてほしい。大事なのは「あなたが彼を励ますこと」ではない。大事なのは、「彼があなたに励まされること」だ。

大事なのは、「彼が励まされること」。このことの意味がわかるだろうか。ええと、わかりにくいときはこのように考えてみてもらったらいいかもしれない。

例えば彼が、何かガンバってる人だとする。で、その彼に「ガンバってね」と声をかけるのはカンタンだ。それは一応、分類としては「励ましている」ということになるし、それはそれで悪いことではない。

しかしだ、それで彼が「励まされる」かというとそれは甚だ怪しい。怪しいというか、普通はそんなことでは人は励まされない。村上龍的に言うなら「ガ・ン・バ・ッ・テ・ネ」という音声は社交辞令的に用いられる音の集合でしかないので、そのようなことで人は励まされない。ガンバッテネという音自体は、入力しておけばアイボでもアシモでも出力できる。それでも一応国語の分類としては「励まし」になるのだけれども、肝心なのはそれによって彼が「励まされるかどうか」なのだ。

極端な話、例えばこのように考えてみればいいかもしれない。あなたは子宮の病気にかかってしまい、子宮を切除しなくてはならなくなった。あなたはそれによって深い衝撃を受けているのに、折り悪く父親が交通事故にあってしまい、寝たきりの状態になってしまった。あなたは病気のことで精神的に追い詰められていて、ひとまず会社をやめて安静の時間を持とうと思っていたのに、父親の収入がなくなるのであなたは両親を扶養する分まで稼がなくてはならなくなった。どうしよう、と彼氏に泣きついてはみたものの、彼氏は事態の深刻さを読み取って急に態度が冷たくなった。あなたはそれにもショックを受ける。

さてそのような状況の中で、ちょっとイケメン風のオトコ友達に、

「がんばってね!」

とウィンクされたらどうだろう。あなたはそれに励まされるだろうか。ヨッシャ、やる気出た! というようになるだろうか。

(それで励まされる人がいたらもう僕の手に負えない)

例え話は少し極端ではあるけれども、とにかく大事なのは「励ましの作用が彼に働く」ということであって、実際に彼が「励まされたかどうか」なのだ。そのことを無視して、ただハゲマシ=ガンバッテネとやってしまうとそれは社交辞令になる。社交辞令どころか、会話を打ち切るためのキーワードにすらなりかねない。

ここまで話せばもうわかってもらえているとは思うが、要するに人を励ますということ、励ましを作用させるということは難しいことなのだ。その難度は、先の感動の作用とまったく変わらない。これを安易なものだと捉えていると人間性の浅さを見られてしまうので注意しよう。もしあなたが人を励ますのなんてカンタンだと思うのならば、演技終了直後の安藤選手にどのような言葉をかければよかったかを三秒間で考えてみればいい。人を励ますのは難しい。難しいからときに人は沈黙せざるを得ないし、またその沈黙が正しい励ましになることもある。

(ところでまた安藤選手の話になるけど、その演技直後のインタビューで「また四年後ガンバってください」と締めくくったアホのインタビュアーはどこのどいつだ。僕がもし国王だったらヒザ蹴り+懲役モノである。僕はかのインタビュアーに、お前さんは自分の女房が流産した直後にもその手術室でツギ・ガンバッテネと言うのかと問いたい)

ええと、話がまた横に逸れた。そんなわけで、人を励ますのは難しいわけです。難しいわけですが、それもやはりできないうちは彼に選ばれるオンナにはなれません。

また、人を励ますのに、残念ながらノウハウはない。僕自身、そのノウハウを持っているわけではないし、僕はあまり人を励ますのが得意ではない。

ただ僕の知る限り、人を励ましうるのは、自分自身何かと戦ったことのある人だけの特権のようだ。何かと戦って、窮地に追い詰められるようなことがあって、そこで自分なりの戦い抜き方を手に入れた人は、人を励ます力を持っているような気がする。

こんなことで自分のことを引き合いに出すのは気が引けるが、それでも僕が自分の経験から思い出すところ、励ましの作用というのは励まそうという意思よりも何かしらの戦いに対する向き合い方から発生するように思う。僕の経験では、頑張れといってそれが励ましになったことはないし(そもそも僕は人にあまり頑張れと言わない。頑張れという言葉で人を励ませるのはよほど精神のエネルギーが前面に出ている人に限られるだろう)、逆にいくらか僕らしい意地悪の言い方で、「がんばりすぎでしょ。がんばってなんとかなると思ってるところが甘いよ」とか「それはがんばってるつもりだろうけどどちらかというと力んでるだけだよな」とか「苦しいのに耐えてるようじゃダメで苦しさの先にある恍惚を手に入れてエヘラエヘラできるようにならないと勝てないよ」とか「出来るかもとかムリかもとか、そういうのって振動するみたいに行ったり来たりするのが当たり前のものだからいちいちそれに動揺してたら消耗するばっかだよ」とか「仕事がんばるときは遊ぶほうもがんばらないと片輪だけ回ってその場でグルグル回転するだけになるよ」とか、そういうことを言うと案外それが相手にとっては励ましの作用になったりすることが多かった。あるいは僕らしい丸見えのアホっぽさで、「いや、アンタはマジにすごいよ。尊敬するよ」とか「んーソレはオレの価値観的には超重要っていうかサイコーのことだから今後にめっちゃ期待してしまうんだけど」とか「超興味あるから、これからもちょくちょく話を聞かせてくれ」とか、そういうことを言うとそれも思いがけず励ましになることがあるようだった。

まあ、そこから先は自分で考えましょう。というか、誰かたまには僕を励ましてくれと言いたい。「とっても参考になるアドバイスでした」、以外のことをたまには僕も言われたいのである。

(ところで、人に教わったことを「参考」と表現するのはものすごーく失礼なことなんだけど、そのことを本当にわかっていない若いコは多い。たまに社会人でもそうだったりするのだから、僕は少し驚かされる。「参考」というのは心の本棚の隅に一応置いておきましょうという意味なのだが、それでも人に親身にしてもらってその感謝に「参考になりました」と言ってしまう人は多い。多分、「教わった」とか「救われた」とか「蒙を啓かれた」とかそういう言葉を知らないんだろうなと思う。
それにとどまらず、最近、本当に人を励ますということについて、常識というか当たり前の感覚の無い人がいるようだ。励ましが社交辞令にならないよう気をつけよう。特攻隊員の遺書を読んで、あなたは「ステキなメッセージでした」とか言うだろうか。十万人が興奮し歓喜したマイケル・ジャクソンのブカレスト・ライブの締めくくり、Man in the mirrorのクライマックスでマイケルが"You can't close your...your mind!" と膝立ちになって叫んだところで、あなたは「とっても参考になりました」と言うだろうか。)



・発見の作用

僕たちは人生を生きている。幼児の頃はその自覚が無いが、誰でも高校受験あたりから自分が人生を生きていることを自覚する。アタシって所詮このレベルの高校に行くオンナで、彼はアタシと違ってクラブ活動で忙しくしてたのにトップクラスの高校に行っちゃうのね、これじゃあ好きになってもらうどころか初めから彼と付き合う資格なんて無いのかも、そもそもアタシと彼が住んでいる世界が違うのかも、アタシの人生と彼の人生は全然違ってそもそも釣り合いが取れてないんだ、とそのようなことを感じる中で人は自分が人生を生きていることを実感する。僕は学歴差別をしているのではない。そういう社会的慣習の差別というかヒエラルキーに組み込まれていく中で、自分が人生を生きているということを人は実感するということだけを言っている。

僕たちは人生を生きているし、それはそれぞれにとって大事なことだ。それはヘヴィなものだが投げ出すわけにもいかないものである。投げ出すとホームレスになるか、あるいは未来よ来るなと念じ続けてフリーターとして刹那的に生きていくしかない。僕はフリーターを否定しているのではない。時間を費やして社会的に不利になっていくのを覚悟でそれでも見出したいものや手に入れたいものがある、そういう意味でのフリーターは人生を投げ出しているとは僕は思わない。それはそれで一つのトライアルだ。初めからトライアルに挑む気が無い人はフリーターでもキヤノンの技術者でもいつも大脳と発言で社会全体を非難しているが、それは端からみると自分はトライアルに挑む気はありませんヨというシグナルでしかないので残念ながら誰からも尊敬してもらえなくなる。もちろん自分で自分を尊敬もできなくなるのでその悪循環は致命的だ。

えー、話が横に逸れてしまった。僕たちは誰しも人生を生きていて、それをよりよくするため、より発展させていくためにいつも頑張っている。そしてそれを実現するために、僕たちはいつも「発見」を求めている。それは知恵であったり思想であったり知識だったり感情だったり人間観であったりするが、とにかく僕たちはいつも「発見」を求めているのだ。

だから僕たちは、誰かと一緒いて「色々気づかされる」「ハッとさせられる」「新しい道が見えた」と感じるとき、その人を自分にとって大事な人だと思う。「この人といると、自分は発展する」「自分の未来にきらきらしたものを期待できる」と思う。そのようなとき、オトコもオンナも相手に惚れる。この人と人生を歩んでいきたい、この人と寄り添って生きていきたい、と思うようになる。

あなたは彼に、そのように思ってもらわなくてはいけないわけだ。あなたは彼に、何かを「発見させる」オンナでなくてはならない。これも難しいことだが、これができないとあなたは彼にとって特別なオンナにはなりえない。このオンナといても何も発見は無い、そう思われたときあなたは彼に選ばれない。それは男女の立場を入れ替えて考えてみればわかることのはずだ。僕たちにとって、それだけ「発見」ということの作用は大事なのである。一枚の鏡でさえ、寝癖がついてるよということを僕たちに発見させるし笑顔の時には下の歯も見せるとかわいいよということを教えてくれる。だから僕たちは鏡を生活の場に必ず置いている。あなたは彼にとって、何かを発見させてくれる、何かを教えてくれるオンナであればこそ、彼の生活の場にいつも置いてもらえるのだ。

「どうすれば彼に発見の作用を与えられるオンナになれますか?」

そういう発想で僕に尋ねてくることはしないように。そんなものはテクニックで身につけられるものではない。そういうテクニックを手早く身につけたいと考えてしまう人には、あなたは人間が小さい上に発想が浅ましいからそれが彼にバレていてそもそも彼に好いてもらえないんですよ、と僕として言っておこう。僕はそのことが、あなたに発見の作用として働くことを期待する。

えー、それでも少しノウハウめいた話をするならば。

発見というのは、必ずそれに先立って「研究」「観察」という段階を必要とするものでもある。

物事の全てに真剣な研究と観察を向ければ、必ずそこには発見がある。

ただそれだけだと、僕としては言いようがないな。

初めに言ったように、僕たちは誰しも人生を生きている。

あなたはその人生に、真剣でゆがみの無い研究と観察を向ければいいだけのことだ。



・引き締めの作用

あなたはたるんでいる。おなかの贅肉のことを言っているのではない。僕が言っているのは精神のことについてだ。あなたは精神がたるんでいる。僕自身、精神のたるみ具合については曙が着古したTシャツのレベルにまで至っていると自覚しているが、あなたはそこまでではないにしてもそれなりに精神をたるませている。

僕たちはたるみながら、これじゃだめだなあといつも思っているし、それを何とかして引き締めたいと思っている。やらなきゃ! と自己暗示をかけても翌日にはその効果は切れているのを知っているので、誰かアタシを引き締めて、と僕たちはいつも思っているのだ。

そのことは、彼としても同じ。彼も頑張って真剣に生きているが、それでもどこかたるんでいる。そしてそれを、なんとかして引き締めたいと望んでいる。

あなたはそれを、引き締められるオンナであればいい。そのときあなたは、彼に貴重な作用を与えるオンナになる。そして彼は、そういうあなたを自分と寄り添う者として選びたいと思うし、そのことでより自分が豊かに生きていけると希望を持つようになる。

彼が例えば、「就職活動ダルい、てゆうかオレ面接とか苦手なんだよね」と気持ちを腐らせていたとする。

そういうときあなたは、「そんなんじゃダメだよ!」と言ってはならない。言ってはならないというか、言っても意味が無い。そんなんじゃダメということはもう彼自身わかっているのだから、そんなことはもう言わなくてもいいのだ。

さてあなたは、そのようなとき、彼にどのように言うだろうか。彼の気持ちをどのようにして引き締め、活性化させようとするだろうか。

それはあなたとしての個性が活きてくるところだと思う。そしてその個性が彼の感性と共感しうるものだったとき、あなたは彼にとって大事なオンナになりうる。

どのようなやり方で相手を引き締めようとするか、それはあまりに様々なので、僕としてのノウハウをここに示すことはできない。というか、もうそろそろノウハウを期待するのはやめにしてもらいたい。

その上で僕としての経験を話すなら、例えばこのようなことがあった。

「そっか、九折さんでも限界ってあるんだね」

僕はそうしみじみ言われて、反射的に反発してしまった。

「いやオレ、限界とか無いから」

これはまったくのウソで、僕には限界がアリアリだ。三日以上のダイエットは続かないし、ざーますおばちゃまと一分以上話すと疲労困憊するし、三時間以上セックスすると息が上がって腰が動かなくなる。

まあでも、僕はアホなので、ゲンカイとか言われるとナニクソと思ってしまうわけだ。そういうことをオンナに言われて、引き締まったことは実際あった。そのオンナは僕にとって貴重なオンナである。

(あくまで僕個人の超特殊なケースなのでコピーして使ったりはしないように)



・癒しと慰めの作用

これは先の引き締めの作用と対を為す作用であるかもしれない。人はたるんだとき引き締められたいと思うが、ヘシ折れたときは癒されたいと思う。運動不足による慢性疲労は運動しないと回復しないが、骨折したときは療養しないと回復しない。あなたは彼に癒しと慰めの作用を与えられる者であったとき、彼から大事なオンナだと思ってもらえることになる。

この作用についてくどくど言うのは、あまり適切でないかもしれない。なぜなら、誰しもこの癒しと慰めの作用については、恋人とはかくあるべきということの中に常識として知っているからだ。僕からすると、最近の恋人たちはこの作用にばかり傾倒しているようにも感じられる。恋人にホスピタリティを求める人は多い。「彼といると落ち着く」「安らぐ」「癒される」「だから好き」という人はものすごく多い。多すぎて、ちょっと不自然な気がする。だからむしろ、このことだけに傾倒しすぎないように気をつけるほうがいいのかもしれない。

僕たちが恋人にホスピタリティを求めるのはそれだけ時代がストレスフルになっているからというのもあるのかもしれないが、まあそういう方向で考えるのもほどほどにしよう。僕は東京都内で生活していて、それなりにストレスフルだと自分を哀れんだりして遊んでいるが、それでも実際のこととしてルメイ将軍率いるアメリカ軍に焼夷弾で空爆されるわけではないのである。こんな平和な時代にストレスがどうこうと言うのは、この地下に埋まっているはずの死者たちの骨と霊に失礼なような気がする。考えすぎか? まあでも、ストレス生活に恋人の癒し、とそう単純な図式で考えると結局うまくいかないのでバランスよく考えてはいこうと思う。

ただし、このホスピタリティという面でも、頑張っているのに全然うまくいっていないオンナは結構多い。自分なりに彼を癒そう慰めようと努力しているのに、それが全然うまくいかないという人は多いのだ。

(ちなみに、このホスピタリティという言葉は本来はホテルや病院やスパなどで「客扱いが良い」ということを指す。だからここでの使い方は不正確なのだけど、思考の基点にするとして便利な言葉だから使うことにした。正しい意味と使い方は辞書で調べてね)

そういう人は、たいてい原因が似通っている。

すなわち、たいていは次の三点が原因だ。

「人の話を聞かない」「自分のことを話さずにいられない」「頑張って、と言わずにいられない」

彼が心底打ちのめされて落ち込んでいるとき、あなたは彼の話を聞かない。彼が「もういいんだ」と言ったとき、「そんなことないよ」「頑張れるよ」「わたしだって辛いときはあったけど」とすぐに言ってしまう。「そっか、とりあえずここでよければ休んでいって」「話せることがあったらもっと話してくれたらうれしい、とにかく今日一日はあなたの話を聞くことに費やしたい」とはどうしても言えない。言えないというか、そういう発想が無い。

そういう人はアレだ、彼を癒し慰めることと励ますこと、その区別がついてないわけだな。だから、中途半端に癒し慰めるフリをして、突然彼の話を遮っては中途半端に励まそうとする。そして彼をさらに疲労させる。

そういう中途半端な癒しと励ましの未分化は、何もいいことがないのでちゃんと区別するようにしましょう。

あとさらに言うなら、癒しと慰めは器によって為されるものであって、善意によって為されるものではない。

僕はかつてゲームセンターに通い詰めていたころ、大麻のブローカーをやっている知り合いがいた。そしていつだったか、僕が打ちのめされてどうしようもなくなっていたとき、マジ何かラクになるクスリ売って下さいとその人にお願いしたことがある。

しかしその人はその日、なぜか何も言わないままに僕を雀荘に連れて行って、冗談では済まないような高いレートで朝まで麻雀を打たせた。それは僕にとって、一生で一度だけの博打の経験だ。

その日僕は、実力によってではなく、運によって勝った。

そして清算を済ませて膨らんだサイフにびっくりしている僕に、その人は、

「やるやないけ」

と言ってニヤリと笑った。

僕は興奮のままに笑って、そのあとは送ってもらう車の後部座席でひとしきり泣いた。

癒しとか慰めとかは、そういうものだったりする。

……あ、また恥ずかしい昔話をしてしまった。しかも例え話としては極端すぎる。

まあでも、極端すぎるにしても、癒しと慰めについて考えるならこれぐらいの気持ちで取り掛かるほうがいいと僕は思う。

あなたはオンナだ。

彼を癒し慰めようと本気で思うなら、それに相応しい真剣さで臨めばいいと思う。

(それが本当に、彼の心を打つ)



***


そんなわけで、五つの作用についてあれこれと書いてみた。五つの作用はどれもこれも重要で、どれもこれも実現するのに容易なものではない。まあそれは容易でないのが当たり前で、容易なものというのはありふれたものなので貴重なものではないのだからこのことはしょうがないのだ。あなたは彼に選ばれるために、その容易でないことに向かっていくしかない。

あなたがこれから、その容易ならざるに向かっていくとき、この五つの作用の話が何かの役に立てばいいなと祈ってます。

えー、ここまでにいくつか恥ずかしい昔話を暴露してしまった。それについてはみなさんさっさと忘れるように。覚えられていると思うと恥ずかしくてしょうがない。忘れられないときはこめかみに高電圧の電気をバチッとやるか、あるいは何か人生のテーマに没頭して忘れるようにしましょう。

僕はオンナが好きで、極めて助平な人間だ。それでも風俗にいく性質じゃないというのがタチが悪くて、僕はかわいいオンナに好きになってもらえたら嬉しいなといつも望んでいる。それも、単なる「好意」をやや超えて、いくらか真剣な「好き」がもらえたらなぁといつもこっそり願っている。

さてそんなわけで、ここまで長々と話してきたけれども、あなたは僕のことを好きになってくれただろうか? 単なる「好意」を僅かでもこえたそれが、あなたの中には一ナノグラムでも芽生えただろうか。

僕としては、百人に一人ぐらいはそういう物好きがいてくれるものと信じている。

で、その物好きな一%のあなたへ。

あなたは僕から、「作用」を受けたわけだ。

人と人は作用する。作用を与え合う。

僕たちはその作用の積み重ねに、人とのつながりを感じて、その中からかけがえのない人を見出していく。

感動させられたり、励まされたり、発見させられたり、引き締められたり、癒され慰められたり……

あなたも、人に作用する人であってください。


ではでは、今回はこのへんで。



(追伸……次回パーティでお会いできるミナサマ方、僕は楽しみにしてますぜ^^/)





恋愛偏差値アップのコラムに戻る
出会いと恋愛のtopへ戻る