恋愛偏差値アップのコラム









実力の無い、あなたへ







■「実力」とは本番で発揮される力量のことを言う。

今回のワールドカップ、日本代表は散々な結果を出した。今回の結果を散々なものと見るかどうかはそれぞれの立場によるとは思うが、まあ無心に観ていた人の率直な印象では、やはり散々な結果だっただろうと思う。日本代表は、なんとか予選を通過はしたものの、決勝では一勝もできず。最後の試合は対ブラジルで、二点差以上で勝てばまだ先に進める可能性があるヨ、というような絶望的状況だった。最後の試合を待たずして、実際的には大勢は決したような状態だ。その中で、スポーツキャスターたちの、引きつった笑顔でのコメントは面白かった。まだ可能性はあります、と前向きに言い張るものの、ブラジルの実力をよく知っている当人であるから、内心では「ムリだよ〜」とバンザイしているのが透けて丸見えだった。オーストラリアに負けたのに、ブラジルに二点差以上つけて勝てるわけがない。ブラジルが集団食中毒にでもならなくてはムリだ。実力とはそういうものだと思う。そういうものを実力と呼ぶのだと思う。

ブラジルとの戦いが、やはりというべきか、あしらわれたあげくの大敗に終わった後、中田英寿選手がそのピッチにしばらく倒れこんで天を仰いでいた。後のニュースでも死ぬほど放映されたから、そのことは誰でも知っていると思う。あのときの中田選手の胸のうちには、果たして何が去来していただろうか? その全てを中田選手が語るとは思えないので想像するしかないわけだが、その半分は悔しさであり、その悔しさのうちいくらかはきっと、やりきれなさとでも言うべきものがあり、そして残り半分は、もっとこう、僕たちの想像の範疇を超える、万感と呼ぶしかないものがあったのではないだろうか。僕は中田選手がピッチで流した涙を、単なる悔し涙と捉えるのはいかがなものかと思う。単なる悔し涙というだけなら、熱心なサポーターでも流せるではないか。中田選手はそうではなく、きっと、僕たちが想像していたよりはるかに、日本をワールドカップで活躍させようと、そのことに真剣にひたむきに、夢と情熱を賭けてくれていたのではないだろうか。夢と情熱、この言葉は言い方だけでバカみたいに聞こえてしまう言い方だが、それは僕たちが夢と情熱をあまり持っていないからバカみたいに聞こえるだけで、あるいは夢と情熱が無いくせにユメトジョウネツという言葉を使う人が多いからバカに聞こえるようになってしまっただけで、それ自体は本来崇高な言葉のはずだ。中田選手は日本代表をワールドカップで活躍させようと、そのことに崇高な夢と情熱を賭けてくれていたのだ。そのことの、決意なり誓いなりが、いつから起こり、どのような高潔さで保たれてきたものなのか、それはもう僕たちからは想像することすらできないけれども……

中田は世界レベルで優秀な選手なのに、日本代表チームであるからには、もうワールドカップというお祭りには参加できないことになった。そのことを僕は単純に気の毒に思う。僕はサッカーファンではないので、中田選手が規定上どの国の代表として参加する資格があるのかはわからない。しかし中田選手には、日本代表というチーム自体を恨むというか、そういうネチネチした怨嗟めいたものが無く、そのことを僕はカッコいいなと思う。もしイタリア代表で出場してたら、みたいなことを彼は考えないのだろうか。僕は、この中田選手の潔さというか、サムライめいた男気に感動する。そして同時に、僕たちはそういうことに無頓着でいいものだろうか、と反省する気分になってくる。僕たちはなぜか、油断しているとどんどんアホになってくる国に住んでいるようだ。ぼんやりテレビを見ていると、スポーツニュースの「中田、号泣!」みたいなテロップにだまされて、「ヘェー中田が号泣したんだ〜」としか理解しなくなってしまう。それが積み重なってきて本格的にアホになってしまった人は、何事につけ前向きにガンバリましょうとしか考えなくなり、解凍物のサバのような目が印象的な人になる。それはとんでもない話だが、実際、そうなってしまった人もちょくちょく見かける。(あなたの周りにもいるでしょう)

さて何が言いたいのかよくわからなくなってきたし、そろそろ恋愛のことをちゃんと書かないといけないと焦ってきた。僕が今回言いたいのは、「実力」ということについてだ。今回のワールドカップで、僕は「実力」というものの定義と、そのはたらきを改めて見せつけられた気がする。僕たちが自分に何の能力を求めるにせよ、僕たちは常にそのことの「実力」を求めているはずだ。机の中からドラえもんが出てくれば実力も不要なものかもしれないが、そういうファンタジーはなかなか世の中に起こらない。必要なのは「実力」だ。これは当たり前のことなのに、なぜだろう、「実力がもっと必要だ」というような言い方をあまり耳にしない気がする。

サッカーの試合中継を観ていて、わからないことが二つある。一つには、入らなかったシュートを「いいシュートでしたよね!」と表現する解説者だ。世の中には、入らなくてもいいシュートというものがあるのだろうか? 入らなくてもいいなら僕だってシュートは撃てるだろう。「いいアレンジでしたよね!」と言うならわかる。しかし、入ってもいないのに「いいシュート」なんてあるわけがない。ここのところを訂正してもらわないと、サッカーを見ていて興醒めしてしまう。入らなかったけど、シュートに到るまでのアレンジは良かった、ということはある。そのときはぜひとも、「いいアレンジだった」と表現するべきだ。

そして、わからないことがもう一つ、「実力を出し切れれば」というやつだ。実力を出し切れれば勝てる、というのはどういう意味だろう。ジツリョクが出し切れなかったときは、試合中、いったい何リョクが出ているというのだろう。

僕の感覚では、というか普通の感覚で言えばそうだと思うのだが、「実力」とは本番で発揮される力量のことを言う。「サンドバッグならボカスカ殴れるんですけど、試合はちょっと」と言うボクサーを、僕たちは実力のあるボクサーとは呼ばない。「スクールでは話せるけど、海外ではさっぱり」と言う人を、僕たち英会話の実力がある人とは呼ばない。

実力が出せないケース、というのは確かにある。わかりやすく言えば、たとえばケガをしてそれが治り切っていない場合なんかがそうだ。歩くだけでも痛いような状態で、いつもどおり走ってボールを蹴られるわけがない。そういう場合は、「実力が出し切れていれば」とボヤくことにも一理あると思う。しかしだ、今回のワールドカップの場合、日本代表にそういうマイナスファクターは別に無かったではないか。日本代表は実力を出し切った、と僕は思う。実力を出し切って、相手の実力に及ばず、必然として敗北したのだ。

言わずもがなのことだが、ワールドカップの決勝リーグ、その舞台にはものすごいプレッシャーと緊張感があっただろう。そして、相手チームの気迫も尋常ではなく、それによって気圧されるというようなこともあったはずだ。しかし、それらのプレッシャーを含みこんでどう戦うか、どうコントロールし、支配し、勝利するか、そのことが勝負の本質であり、それは当たり前のことだ。プレッシャーに負けて実力が出ませんでした、カタくなって実力が出ませんでしたというのはロジックとして言い訳にならない。プレッシャーに負けるというのは、マインド面で実力が無かったというだけのことだ。ここを曲げると、物事の考え方が根本的におかしくなってしまう。

真剣勝負には、常に「負けられない」というプレッシャーがつきまとう。従い、常のこととして、相手と戦うと同時に自分とも戦わねばならないということが起こってくる。すなわち、強い相手を制すること、弱い自分を制すること、その両面が必要になってくるわけだ。そしてその両面についての力量をあわせて、僕たちは「実力」と呼ぶ。

いつものことだけど、また当たり前のことばかり言ってしまった。だが、僕たちはこの当たり前のことをしょっちゅう失念するものだ。

友達とはフツーにしゃべれるけど好きな人の前ではダメなんですとか、仲良くはなれるんですけど男女っぽいムードになるとダメなんですとか、そういう人は多い。そういう人は、かわいい。かわいいが、実力が無い。

そういうことの実力を問うのは残酷なような気がするが、このことは避けて通れる類のことではない。

実力ということを避けているうちは、あなたはいつも肝心なところで負け続けるだろう。そのことは、大きなお世話と知りつつもはっきり言っておきたいと思う。



■「ウジウジ」と「落ち込む」の区別がついていない人がたまにいる。

ウジウジしていて、トクをすることはなかなか無い。特に恋愛についてはそうだ。ウジウジしていると、ただでさえ少ない僕たちの魅力と気力が減少してしまう。人からウザがられてしまうことも増えるし、それに合わせて自覚的に陰湿な精神体系になっていってしまうものだ。ウジウジしてトクをするとすれば、ウジウジしている人を見つけてはそれを介護するのが好きな人の歓心を買うことができることぐらいか。それをトクと感じるかどうかは人による。僕の場合はトクとは感じないけれども。

ウジウジしてはいけない、トクすることはない、と僕は思う。ただし、それは悩んではいけないということではないし、考えてはいけないということでもないし、打ちのめされてはいけないということではないし、落ち込んではいけないということでもない。生きている中で、落ち込んだことがアリマセンという人がいたらその人の脳みそはきっと昆虫レベルなのだ。人は悩むし、落ち込む。それは当然のことだ。むしろ、僕たちはどんどん打ちのめされて、落ち込んで、悩んで、苦しんで、考えていかなくてはならないとさえ思う。底の底まで落ちないと手に入らないものは確かにあるからだ。そしてそれが、実力を手に入れるための不可欠な手続きである場合もある。

「ウジウジ」と「落ち込む」の区別がついていない人がたまにいる。たまにいるというか本当はしょっちゅういたりするのだけれども、そういう人は自分を成長させられない。そういう人は、「誰だって落ち込むことはあるじゃないか」と言いながら際限なくウジウジし続けて世の中を恨み始めるか、「ウジウジしていてもしょうがない」と言いながら悩みぬいて考えることを放棄してテニスとアルバイトとフットバスで一生懸命に思考機能を停止させるかのどちらかだ。そういう人に、僕はどう話をしたらいいのかわからない。両者とも根本的に人の話を聞く性質ではないので、ムリなんじゃないかという気がしてくる。

伝わらない人には伝わらない、ただの逆なでになる、そのことを覚悟した上で、僕なりの「ウジウジ」と「落ち込む」の区別を示してみる。要点は、その主体の思考が「実力」ということに向かっているかどうかだ。実力について考え、実力を希求している、そういう思考の人に「ウジウジ」の人はいない。自分の実力不足を思い知らされ、落ち込むことはあるが、それがウジウジすることがない。逆に、思考が「実力」ということに向かっていかない人は必ずウジウジする。「どうせ自分はダメ」「コツがよくわからないもん」としか考えず、思考が閉鎖し膿み始めて、ウジウジしてしまうのだ。

このことは、日常の些細なことからでも見て取れる。たとえば、好きな人に一通のメールを送る、そして返事がこないというようなとき。そういう些細なことでも、ウジウジする人としない人は結構明確に分かれたりする。ウジウジする人は、やはり「どうせわたしなんか」と考える。ウジウジしない人は、「これじゃダメだ、何か上手くない」と自分の実力不足について考える。

ウジウジしないというのは、単に自己否定を一切しないということではない。自分の至らないところを見つめ、考え、改善の努力をしていく。それは健常者なら誰でもやることで、また誰でもやるべきことだ。このあたりで考え違いをし、「ウジウジしないためには全てを忘れることだ」というポリシーで生きている人もいるが、そういう人はやがて破綻する。人は全てを忘れることなどできない。全てを忘れられる人がいたらその人は人を殺しても翌朝目覚めスッキリということになるが、それは到底健常者と認めることはできないだろう。

人は落ち込むし、考えるのだ。大事なのは、そこで「実力」ということから意識を逸らさないこと。もっと言うなら、自分の実力不足から逃げないことだ。

で、ついでに言っておくと、正論はどうあれ、人はやはり時にはウジウジもしてしまうものだ。それは僕自身もそうで、ここで話しているのは決して他人事ではない。ウジウジは、してしまうのだ。ただそれを、いつまでもは続けないで置こうとこっそり内心で忘れないように、僕は自分を戒めている。ウジウジしてしまうこともあるけれど、それに芯まで侵食されないように。ウジウジする時間もあるにせよ、それが無期限にならないように。

心が折れそうなところで踏ん張って、自分を実力の方向に向かわせる。自分に向けて、自分の実力を問い続ける。そこを曲げない。

それによって、自分が正しく打ちのめされたときは、本当にさわやかな気分になるものだ。

そのすがすがしさの向こうに、実力を手に入れるということがある、と僕は経験上知っているつもりでいるのだが、さてさてあなたはどうだろうか。

(僕は、ブラジルにコテンパンにされた日本代表チームの全員が、今きっとさわやかな気分でいると、そしてこれから真に実力をつけていくと、そのことを真剣に信じている)



■足とおっぱいがキレイなオンナにどうやって勝つか。

実力ということについて話したが、これはオンナのコ向けの文章であるから、ここでオンナの実力というもの、オンナのオンナとしての実力というものについて考えてみたいと思う。オンナの実力とはどのようなものだろうか。実力のあるオンナとはどういうものだろうか。

たとえば、こういうシチュエーションを考えてみる。深夜、中野にあるスタンディングバーで、僕はたくさんの水クラゲが青白く光っている水槽の前の止まり木に寄りかかっている。そして隣には、足とおっぱいのキレイなオンナがいる。黒のタンクトップとアーミーテイストのタイトミニが、やや浅黒い肌によく似合っているようなオンナだ。僕は彼女と無駄話をしながら、ふーん慶応のチアやってたんだ、なるほどね、表情も体型もすごくキレイに出てるもんな、みたいなことを話しながら、そのオンナのカラダに触れてみたいと感じる。で、触れてみる。触れてみても、オンナはイヤがる素振りを見せない。触っていいか、と僕が訊ねると、もう触ってるじゃん、とオンナは明るい声で言って笑う。そしてオンナは、触ってもいいけど、触ってそこからどうするのー? とわざとらしいからかい口調で訊ねる。僕は、この感触を、明瞭に記憶して、オナニーするんだ、と答える。オンナは、アハハハハ、バカだ、この人ほんとバカだ、と笑い、ふと思いついたように、じゃあさ、わたしで何回オナニーできる? と聞く。僕は、二回かな、いや、頑張れば三回も……うーん、それ以上できたらその場でメールで報告するよ、だから連絡先聞いておいてもいいかな、と答える。オンナは、ハイともイイエとも答えず、今書くもの持ってる? とざっくり答える。

バカみたいなシチュエーションだ。しかし、バカみたいと言えどもこういうシチュエーションは普通にあるものだし、そういうときはそのオンナを、かわいいなあ&抱きたいなあと思うのも事実だ。そして、実際にそういうオンナと仲良くなって、彼女の部屋にお邪魔したりすると、そういうオンナが外見にそぐわず案外料理が普通にできたりするし、洗い物がテキパキと早かったりするし、一緒にオフロに入ると手の平で体を洗ってくれたりもするわけである。

どういうオンナが好きかは人によりそれぞれとはいえ、そういうオンナは一般的にいいオンナだと言っていいだろう。ここでは、そういうオンナを「実力のあるオンナ」と表現することにする。そういう実力のあるオンナは、ほどほどにオトコ遊びをして、疲弊しない程度に勉強も仕事もして、最終的にはやはりいいオトコを捕まえて幸せになる。そういうオンナは一部のオンナに恨まれたり妬まれたり呪われたりするが、彼女自体がそういうマイナスエネルギーに興味が無いため、結局は干渉されずに明るく生きていくことになる。

これは別に、モテないオンナやいいオンナ未満のオンナ、そういう人たちを絶望させようとして嫌味を言っているのではない。ただ、あなたというオンナが自分の実力で競うべき相手はそういうオンナなんですよ、という事実を述べているに過ぎない。僕がこうして発言している以上、どうしても僕が嫌われてしまうだろうが、そこはアレだ、もし僕がこの世にいなかったとしても、この事実は事実として変わらず在り続けるのだ。(だからあまり僕をキライにならないように)

はっきり言ってしまおう。足とおっぱいがキレイで、その他もろもろを含めて実力のあるオンナ、そういうオンナにあなたは実力で及ばないと感じるのであれば、そういうオンナはあなたにとっての「ブラジル」だ。戦って、勝てる見込みの無い相手。競ったとして、コテンパンにやられるのがありありと予想される相手だ。それでも、真剣勝負ということになれば、決して負けるわけにはいかないということになるわけだが……

そういうふうに考えれば、「実力を出し切れれば勝てる」などというのがキレイごとの大ウソということがよくわかるだろう。実力に対抗するには、やはり実力を持ってするしかないのだ。強い相手を制すること、弱い自分を制すること、その両方において実効的力量を持つより他に術は無い。そこから目を逸らすならば、あとはもうウジウジして世を恨むしかなくなってしまう。

恋愛とサッカーは、もちろん同列に比べられるものではない。恋愛においては、一人のオトコを誰か別のオンナと取り合うなんて、実際にはなかなか無いものだ。恋愛において、具体的な競争になることは現実的には少ない。とはいえだ、それは直接的に目に見えなくなっているだけで、勝負の本質においては変わりがない。オトコは誰だって、サイコーと思えるオンナと愛し合いたいのだ。中にはもちろん、誰でもいいからオンナと付き合いたいと思っているオトコや、とりあえずセックスできる相手をほしがっているオトコ、あるいはとにかくオンナと付き合って自尊心の回復とホスピタリティを得たいと思っているオトコもいるだろうが、それはあなたが求めているオトコではないはずだ。マトモなオトコであれば、まず自分としてサイコーと思えるオンナと愛し合いたいと望んでいるものだし、いいオトコであればあるほど、実力のあるオンナとすでにたくさんの関わりを持っているものだ。あなたはそういう中で、自分を押し出していかなくてはならないわけだし、その中でハッピーを手に入れていかねばならないわけだ。

足とおっぱいがキレイなオンナにどうやって勝つか。そのことが一番大事なことだ。そのことから目を逸らして、女性誌を読み漁っていてもバカになる。髪形を小悪魔風にアレンジして、惚れたオトコを遠目に見たままポカーンとする、そんなことをしているうちに時間だけが過ぎていってしまう。だから、どこまでいっても「実力」というところから目を逸らさずに、自分として可能な限りの「実力のあるオンナ」を目指すしかないのだ。

実力のあるオンナになるためにはどうすればいいか。もちろん、そのことに固定化した方法論は存在しない。存在しないし、第一にそんなことにすぐマニュアルやカリキュラムを求める心性はオンナの本能と直感がデッドになっていることの表れなので、どちらかというとそのこと自体のほうが至近の問題だろう。

ハッピーになるためには、実力のあるオンナになるしかない。そのための方法は固定的なものではないから、ただ実力というところから目を逸らさない、と心がけるぐらいしか有効な指針は無い。

あともし、ヒントになりうるとすれば、こういうことはあるかもしれない。実力のあるオンナになるためには、たくさんの経験をして、たくさんのことに気づかなくてはならない。そして、たくさん経験するためにはタフでなくてはいけないし、気づくためには精神が柔軟でなくてはならないだろう。なんともフワフワしてつかみ所の無い言いようだが、これはこのようにしか言えない。今は何のことやらわからない人もいるだろうし、今大事なタイミングにいる人は、こういう言い方だけでハッと何かを理解するかもしれない。たとえばオンナは、どこかの時点で自分に似合う洋服を見つけ、その「経験」をし、「こういう色とデザインが似合うんだ」と「気づく」わけだが、そういう「経験」と「気づき」が精神の深い部分で起こることで、オンナはオンナとしての実力を身に付けていく。その現象が、試験前にガウスの方程式をいじっているときに起こるか、夜明け前のベッドでオトコの上に乗っかっているときに起こるか、それはわからない。ただ、経験無しに気づくのは不可能だし、逆に経験をしたからといって必ずしも気づくと決まったものではないと、そのことを忘れずにいつでも敏感でいる、そのことが大事になるのは間違いないだろう。

とにもかくにもだ、実力のあるオンナを目指そう。

足とおっぱいがキレイなオンナに勝てるオンナ。

それを目指すということは、リアルにハッピーを目指すということと同義になる。



■愛されるには実力が要る。このことは、十億人のキリスト教徒が反論しても覆らない事実だ。

―――あたし、走るのが速い人しか好きになれないんですよ。

僕は昔、そう言われてフラれたことがある。あっぱれなフラれ方だ。僕はそのとき、自分の実力不足を痛感した。走るのが速い、そういう肉体の優秀性もオスにとっての実力だし、そういうところにオンナが本能を刺激されるのは仕方がない。僕は実力不足によってフラれた。そこに僕のマゴコロとかセイジツさとかは関係が無い。

あなたはオトコを、理性だけで愛せるだろうか。猫背でブサイクで車の運転がヘタで、頭が悪いので仕事ができないしトークもつまらない、センスがないのでいつもヘンな服を着ていて、カラオケでは不愉快な声を出す、そういう人があなただけを一生愛し続けるとして、あなたは彼と愛し合うことができるだろうか。できる、という人はきっと僕とは縁が無い。僕の駄文など読んでいないで、何か宗教の開祖にでもなったほうがいいだろう。

愛されるには実力が要る。このことは、十億人のキリスト教徒が反論しても覆らない事実だ。僕自身、どうしてもステキなオンナを好きになってしまうし、あなたもきっとステキなオトコを好きになってしまうだろう。僕たちは誰もソクラテスではない。ステキでない人を積極的に好きになっていったとしたら、その人は単なるヘンタイでしかない。

(補足。本来、「愛」という言葉はもっと大きな概念を指す。どんなにブサイクなオンナでも、たとえば親御さんであればそのオンナをわが子として愛するし、アニメ・オタクの引きこもりデブオトコでも、飼っているチワワには心底から愛される。その意味においては、愛されるには実力はいらない。しかし、僕たちが通常求めている愛はもっと卑近な意味での愛だ。今回の話では、あくまでその卑近な意味で愛という言葉を使うことにする。愛されるには実力が要る。その「愛」がどれだけ卑近なものであっても、僕たちはその卑近なものを必死で求めているのだからしょうがない)

この、愛されるには実力が要るということを、もっと具体的に、もっとリアルに考えておくことにしよう。ただし、ここで考えるのは僕ではなくあなただ。僕はあなたに問いかける。あなたはひとつ、その問いかけに正直に答えてみてほしい。

―――同年代のオトコが、あなたの目の前に二十人、無作為に集められたとします。その二十人の中に、あなたが「付き合ってもいいな」と思えるオトコは、何人いそうですか?

この問いかけは、たとえば公立中学校のクラスメートの男子を思い出してもらえばいいかと思う。大学や会社ということになると、ある程度経歴でふるいにかけられてしまうが、公立中学校ならだいたい社会的に無作為に人が集められていると言えるだろう(全校生徒が五人とか、そういう過疎地出身の人はごめんなさい)。さて、中学校の時のクラスメートなど思い出しながら、イメージを膨らませて考えてみてほしい。二十人のオトコのうち、付き合ってもいいなと思えるオトコは、はたして何人ぐらいいそうだろうか。

おそらく、この問いに対する答えは、いいとこ二人か三人、通常は五人を超えることはないと思う。一人、あるいは一人未満と感じた人もいるだろう。これは、どう感じてもらってもいい。とにかく正直な感覚、リアルな感覚で感じてもらえればそれだけでいい。

このことで何が言いたいかというと、たとえばここであなたが「二人」と内心で答えたとするならば、あなたと付き合いたいと望むオトコは、十人の中で競い合ってそのトップを取らなくてはいけないということだ。もちろん、このことは男女を逆転させても同様に成立する。あなたがステキな彼とお付き合いするには、十人中一位を取らなくてはならない。

さて、あなたは、何人と答えただろうか?

恋愛は勝負事ではない、はずなのだが、誰でもなんとなく「二十人中○人」というような、分布というか偏差値のような基準を持っているものだ。これは、実際的には恋愛には競い合いがあるということであり、事実上は勝負事なのだということだ。これについては、真実がどうこうというより、そう捉えておいたほうが健康的だということもある。恋愛のステージで負けないように、実力をつけていこうと、そう思っていたほうが力強いしフラれても気持ちよく笑えるし、何より実際に強くなっていくだろう。これはもちろん、僕が僕自身に課している考え方でもある。僕はあつかましく、色恋ごとでたくさんステキな体験をしたいと思っているので、日夜実力アップに励んでいるのだ。(励んでその程度かよ、とか言わないように)

もしここで、恋愛は勝負事だなんて、イヤだなあ、ギスギスしているなあと、そう気持ちを暗くされた方がいたなら、僕はあなたに警告しておきたい。あなたは、どこか生命力の根本が弱ってしまっている。正しい恋愛は、二人が見詰め合ってウッフンアッハンすることであるから、そこでヌルヌルすることはあっても決してギスギスすることはない。そこは大胆に考え直すことが必要だ。僕の主張がギスギスしているのではく、あなたの捉え方がギスギスしているのだ。そこでギスギスしていると、あなたを勝ち取ろうとするオトコはいつまでたっても現れないだろう。

恋愛は勝負事だ。少なくとも、勝負事としての側面はあるし、その側面を積極的に捉えて取り組んだほうがパワフルでさわやかですよ、というのが僕の主張だ。そこに目くじらを立てて疲れてしまう人は、生命力が弱ってしまっていて、きっと勝負事ということに、思考以前のどうしようもないため息をついているのだろう(多分)。そういうコンディションになると、なかなかハッピーは手に入らない。そういう人はまず、元気をいくらか取り戻して、あとはそう、恋愛観をもっとヌルヌルにするべぎだ。何にせよ、ギスギスになる人は、たいていヌルヌルが足りていないのである。そういうことでは、あなたも彼も気持ちよくはなれないだろう。

(あれ、なんかバカみたいな話になってしまった)

足の速い人しか好きになれないんですよと、そうきっぱりフラれたとき、僕は打ちのめされた。そのことを、僕は今でも覚えているし、今でもそれは僕の中で「負けた」記憶として残っている。そしてその記憶が、あるときふと思い出されて、僕を苦笑いさせるのだ。強くならなくちゃな、実力もないのにハッピーになろうなんてムシが良すぎるし、オレ自身だって実力の無いオンナをハッピーにしてやるような慈善家ではないわけだしな、という具合に僕をけしかけてくる。そういうときは、たいてい気分がよく、気に入ったオンナを口説き落とせるよう、デキるオトコになってやろうと、おバカな気力が湧いてくるのだ。

(まあ、気力が湧いてくるときというのは、いつだっておバカなものだったりするけど)



■日本はどうやったらブラジルに勝てていたか。

今僕は、これを書きながら、ブラジルがフランスに敗戦したことと、中田英寿が現役引退を表明したこと、その二つのニュースに驚いている。ナカタのキラーパスを、僕たちはもう二度と見ることができない、それに拍手をすることもできない、そのことを考えると愕然とするほど悲しくなる。一方、ブラジルが負けたということは、あのロナウジーニョをはじめとするゴールデンチーム、そのプレイとカタルシスを少なくとも後四年間は味わえなくなるわけで、そのこともとても残念だ。この二つの残念さは、かなり胸に来るものがある。正直、日本代表が敗退したときより、胸に来るものとしては大きいものがあるように感じる。

話がちょっと横道に逸れるが、ブラジル対フランス、その世界的に重要な試合が、日本では衛星放送でしか観られないのはなぜなんだろう(地上波でやってた? 単に僕が見落としただけなのか?)。僕はそのことに、いくらかムカついている。この国はというか、この国のマスメディアは、サッカーを追いかけるのか追いかけないのか、どちらなのかをはっきりしてほしい。日本代表が敗れたからといって、ワールドカップが終わったわけではない。むしろ、ベスト4が出揃って、いよいよ本番はこれからというところだ。それなのに、日本のメディアはすでにワールドカップに興味を失っている気配だ。これはどういうことだ。その本番前にムードが冷え込んでどうする。やっぱりみんな、サッカーに快楽を感じてはいないのだろうか? 日本が負けたからどうでもいいやと、そう感じてしまうようならば、所詮その人はサッカーファンではなくただのナショナリストだ。それならそれで、「サッカーはどうでもいいが、とにかくニッポンは勝て」と、堂々とナショナリズムを表現する立場でいてほしい。その辺があいまいだから、日本人は日本をキライなようでいて、別の世界のことも愛せてはいない、ブキミな状態になっているのだと僕は思うのだけれども……

(注意。僕はサッカーファンではないし、ナショナリストを否定しているわけでもない。ただ、サッカーファンではないにせよ、ワールドカップなどという世界的に大騒ぎするお祭りなどは大好きであり、その情報が十分に入ってこないことにはまったく憤りを感じるのだ。)

日本はブラジルに先制点を入れたものの、そのあと本気を出したブラジルにコテンパンにやられたわけだったが、そのことから考えて、みんなはブラジル対フランスの試合がどのようなものだったのか気にならないだろうか。フランスは、ブラジルに1対0で勝ったのだ。要するに、一点の先制点を入れて、そのあと守りきる、そうしてブラジルに勝つ方法があったということだ。無論、日本は対ブラジル戦のとき、二点差以上をつけて勝たなくてはならないという状況だったわけなので、そのまま同列に比べることはできないわけだが、それにしてもだ、あのブラジルの猛攻をしのぎきって、0点に押さえてしまう方法があるというのだ。それをフランスは実際にやってのけたことになる。日本は、というか日本のサッカーに興味を持つ人、日本が敗退してガックリした人は、そのことに興味を持たないのだろうか。

日本はどうやったらブラジルに勝てていたか。どのような実力が足りてなかったから、4点も入れられてしまったのか。そのことのリアルな解答が、フランス対ブラジルの試合にはあったはず。僕はその解答を知りたいと思う。サッカーファンではないけれども、次回こそは、この世界のお祭りに日本も主要国として参加できるようにと、そのことの祈りを込めてそのフランス対ブラジルの試合を観ておきたいのである。

(僕は友人に、フランス対ブラジルの試合を録画するように依頼しておいた。まだ観てない。けど、いつか絶対観る)



■勝つ気を漲らせて、実力から目を逸らさない。そのことに早く気づいて、そのことを早く覚悟できた人が、最後に勝つものだと思う。

ワールドカップ関連の特番で、どこの国の選手だったか監督だったかは忘れたが、その業界の人が、日本代表チームについてこのように評した。

―――日本代表チームには、勝つ気が無かった。日本はワールドカップに参加しただけに過ぎない。

ひどい言われようである。が、反論する気にならないのも事実である。日本は逆転負けばかりしたし、それは集中力が途切れた結果であることに疑いはない。参加しただけ、勝つ気がなかった、それは冷静な真実の指摘かもしれない。だとすると、日本のチームというか、日本の全体が、巨大な何かを反省しなくてはいけないことになるが……

フランスがどうやってブラジルに勝ったか、それに興味が湧いてこないならば、やはり日本には勝つ気が無かったのかもしれない。

あなたには「勝つ気」があるだろうか。話は、恋愛のことに戻る。あなたがオンナとして、豊かにハッピーに生きていたいと、そう願っていたとして、その中でいいオトコといい関係を作っていく恋愛という部分、そこにおいて「勝つ気」があなたにはあるだろうか。

今回は、実力ということについてひたすら話してきた。僕として、そのことを話してみたくなった動機は、今僕たちの生きている空間が、実力ということについてあまりにもマヤカシが多すぎる空間なのではないかということの懸念からだ。なぜわたしはいいオトコに求められないんでしょう、そういう問いかけがあったとして、それはあなたに実力がないからです、と答える人が誰もいない。答える人はいないし、答える仕組みもない。それでいて、いいオトコはやはりいいオンナと結ばれていくわけで、実力はやはり実力としてキッチリ作用しているのだ。これは、どこからどう見てもマヤカシだ。誰も実力について語らないが、アタマがトロくて体力のないオトコを好きになるオンナはいないし、気の利かないブスを好きになるオトコもやはりいないのだ。すなわち、愛されることの仕組み、その真実が歪曲なり隠蔽なりされてしまっている。これでは、モテない人はなぜ自分がモテないのかわからないし、モテるようになるのはどうすればいいのか、そのことの正しい道筋もわからなくなる。そういうマヤカシは、一時的に優しく見えて、結果的には殺人的に不健康だ。トロいオトコにはトロいからモテないと伝えなくてはならないし、気の利かないオンナには気が利かないからモテないと伝えなくてはならない。それがフェアということだ。世の中はどうやったって平等にはならないが、よりフェアにしていくことはできるのだから、僕たちはせいぜいフェアを追及していくべきだと思う。できることなら、そのフェアの追求の上に、優しさを重ねていければすばらしいのだが、その優しさという分野は僕の苦手とするところなので、そのあたりはあなたにバトンタッチすることにする。

僕にはオンナの知り合いが多い。こういうサイトをやっていればそれは当たり前なのだが、その中にも、見た目は十分キレイでいて、アタマも決して悪くない、それでもいいオトコといい関係を作れずにくすぶっているオンナは多い。中には、ギャル系の雑誌に読者モデルとして選ばれるような美人のコもいたりするが、そういうコでさえ夜中に電話をかけてきては、「カレシと話してるよりこっちのが全然楽しい」と、根本的に破綻しているようなことを言い出したりするのだ。彼女は、本当に好きになる人とは全然うまく関われず、とりあえず押しまくってくるギャル男に負けてそのオトコと付き合ってしまう、そして何ヶ月かすると別れるというようなことを繰り返しているらしい。僕は当然、本当に好きになれる人にアタックしろよ、命がけでさ、と勧めるのだが、彼女はすぐに、えーだってアタシ自分からいくの苦手だもん、それにアタシ、頭いい人好きになるから、そういう人って何か住んでる世界が初めから違うしー、と諦めてしまう。「勝つ気」が無いのだ。苦手というのは実力不足だということだが、そこを埋めていくだけの気力を持ち合わせていないのだ。(彼女はまだ二十歳なのになんと嘆かわしいことだ)

実力を身に付けていくためには、まず自分の実力不足を自覚し、分析し、その上で「勝つ気」を漲らせていくことだ。勝つ気の無いまま努力をしても、それは悲壮感だけを醸し出して実を結ばない。初めのうちは努力できても、後半で必ずアタマがぼんやりしてくるものだ。それでは結果が出る前にコケてしまう。「参加しただけ」「挑戦してみただけ」という、先の評論がそのまま当てはまってしまうことになるだろう。

僕は、これを読んでくれているあなたに、ハッピーになってほしいし、そのために不可欠な、オンナとしての実力を手に入れてもらいたいと思う。そのためには、何より「勝つ気」が大前提として必要だ。あなたがあつかましく、すっごくいいオトコを手に入れてやろうと、そういうオンナになってやろうと、そうたくらんで日々を過ごせればいいと僕は考えている。ここで勘違いする人は、勝たなくちゃダメなのねと気持ちをぐったりさせたり、勝てばなんでもいいのよと不必要に気持ちを黒くしたりするが、そういう人はもうしょうがないから放っておくとして、そうでない人、勝つ気を漲らせて、かつ人にやさしくできる人、気持ちよく笑うことのできる人であるあなたが、これから実力のあるオンナになっていけばいいと思う。

勝つ気を漲らせて、実力から目を逸らさない。そのことに早く気づいて、そのことを早く覚悟できた人が、最後に勝つものだと思う。そういう人が、結局はさわやかなハッピーを手に入れるだろう。僕自身としても、敗北や不幸に浸って陰湿なポエムを書いたりする趣味はないので、僕なりにあつかましくも、さわやかなハッピーを目指していきたいと思っている。僕の場合、精神が本質的にちゃらんぽらんなので、覚悟したように見えてなかなか覚悟しない、そのあたりは言行不一致のはなはだしいところではあるのだけれど……

今夜、たしかドイツ対イタリアの試合があったはず。僕はそれを観る予定だ。どちらが勝つのだろう? どちらの実力が上だろう? 僕はサッカーファンではないし、ワールドカップマニアでもないので、そのことはまったく予測できない。しかし、何であれ最高峰の実力の競り合いというのはさわやかなもので、僕たちを勇気付ける何かに満ちているものだ。僕は今夜、そのエネルギーをご馳走になることにしよう。ついでに、実力のあるいいオトコとはどんなオトコか、そのこともきっちり見学させてもらうことにする。それを糧にして、いつかあなたを口説くときにむけて、僕はせいぜい努力をこっそり積み重ねていくことにしよう。

ではでは、また。

(ブラジルが敗退したから、ホントにどこが優勝するかわかんないね)


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