恋愛偏差値アップのコラム









心を伝え合うという快楽






お互いに心が伝わる瞬間、が好きだ。自分の心が相手に伝わる瞬間、あるいは相手の心が自分に伝わる瞬間、その瞬間はいつだって楽しいし気分がいい。相手がかわいいオンナだったらセックスしたくなるし、面白いオトコだったら認めてしまいたくなる。セックスしたくなるのと実際にしてしまおうとするのは話が別だ。セックスしたくなる全員とセックスしようとするのはさもしい。さもしいだけじゃなく疲れる。セックスしたいという気持ちはそれだけで実際の行為に至らなくても穏やかな快楽でありうる。そんなことまで言わなくていいか。

まあとにかく、僕は心が伝わる瞬間、心を伝え合う瞬間が好きだ。あなたはどうだろうか。心が伝わる瞬間が大嫌いという人はいるだろうか。そういう人にはこの話を聞いてもらう必要が無い。

心を伝え合うということが大切なことで、またそのことを誰しも求めているということ、それがなくては生きていけないとさえ感じているということ、それは当たり前のことだろう。当たり前のことであればくどくど説明する必要はないはずなのだけれど、僕は最近、敢えてこのことを口に出して表明し、再確認しなくてはならないと思うようになった。

なぜか? 

それはあまりに、心を伝え合うということを知らない人、知っているけど実現できていない人が多すぎるように思えるからだ。

心を伝え合いたいと望んでいる人は多い。望んでいない人はマルチ商法にハマっている人ぐらいだ。しかし一方で、心を伝え合えている人、その営みが基本動作になっている人がどれぐらいいるかというと、これがグッと少なくなる。

心を伝え合うということを忘れている人がいるし、そのことがいつまでもヘタクソなままの人がいる。中には、そもそも生まれてこの方そういう体験をしたことがない人もいるようで、またそういう人が決して少なくないようなのだ。

それはいけない。まったく笑い事ではない。

心を伝え合うことなしに、恋愛も友情も成立するはずがない。それどころか、人を殺してもバレなきゃ平気だし、オレオレ詐欺で善良な老人からお金を巻き上げてグッドジョブということになってしまう。僕たちの善性のうち、「思いやり」という部分は、お互いに心を伝え合えるという前提を支えにしているのだから。

心を伝え合うことはとても大事だ。

(すさまじく当たり前で、言っている僕が恥ずかしくなる)

心を伝え合うというのは、それだけでひとつの快楽だし、救いようのない寂しさに打ち克つ唯一の方法でもある。そのほかにも宗教的な悟りに至るという方法もあるにはあるが、どうせ誰もそこまではいけないのでそれは考えなくてもいいだろう。

僕たちは心を伝え合わなくてはいけない。

これはどこまでいっても当たり前のことだ。当たり前のことなのだが、あなたは本当にそのことを忘れてしまっていないだろうかということだ。

繰り返すが、その営みが機能していない人は世間で言われているよりもずっと多い。

そうだな、ゾッとするほど多いよ、と僕は言っておこう。

あなたはどうだろうか?



■心が伝わらない会話、というものがあるのだ。それは僕たちを最大に疲労させる。

僕は人と話すのが好きだ。ナルシスト君とか浅知恵オンナとか、相手がそういう不愉快な人で無い限り、普通の人と普通に話すだけで十分楽しい。あなたの場合はどうだろうか。あなたもきっと、人と話すのが好きだと信じたい。あなたはもしかしたら、人と話すことが好きな自分に気づいていないかもしれない。そのことに気づいていない人はたくさんいる。ファミレスで友人と話すなら何時間でも夢中になれるが、文庫本を二時間集中して読むことはできないという人はけっこういるのだ。そういう人は読書より人と話すことのほうが好きなのだが、そのことに本人は気づいていないことが多い。そしてそういう人ほど、趣味は読書と音楽鑑賞ですなどと世迷言を言うことが多かったりする。(世迷言というのは言いすぎか。まあでも、人と話すことが趣味ですと堂々と言ったほうがいい)

さてそんなわけで、僕は人と話すのが好きで、また世の中の多くの人も人と話すことが好きだと思うのだが、そのこともよくよく考えてみると正確ではなかったりする。どういうことかというと、正確に言うなら「会話が好き」ではなく「会話することで心を伝え合うことが好き」ということだからだ。これも当たり前の話で、会話さえすれば心が伝わらなくてもいいと考えているような人はいない。あ、中にはマクドナルドで会話になっていない会話をそれぞれがバラバラに放出して笑いあっているオバサン三人組とかもいるので、そういう人たちを考慮に入れると少し話は違ってきてしまうのだが、まあそういう人たちは加齢につれてプチ認知症になっているからここでは例外とすることにしよう。

僕は人と会話して、心を伝え合うのが好きだ。あなたもきっとそうだと思う。このことには誰も異論は無いだろう。でもここで、「あなたの会話は確実に相手と心を伝え合っていますか」とたずねるとどうだろう。誰でもウッと一瞬考えるのではないだろうか。会話したからといって、心が伝わるとは限らない。中には、いつまでも心を伝え合うことのない会話、そういう会話を得意としていて、彼とのデートでそれを存分に披露してしまうオンナのコもいる。そういうデートは、終わったあとにお互いがぐったりしているのがパターンである。

心が伝わらない会話、というものがあるのだ。それは僕たちを最大に疲労させる。これも当たり前のことだが、僕はこのことをここで再確認しておくことにしよう。僕たちが求めているのは「心を伝え合うこと」であって、「会話」それ自体を求めているわけではない。言うなれば、「会話」は手段でしかなく、あくまで「心を伝え合うこと」が目的だということだ。そして目的が達成されないまま手段に労力を費やし続けるのは徒労だ。徒労はやがて絶望になって、僕たちを疲労させてしまう。

僕たちは大事な人と会話をしなくてはならない。そして、会話をするからにはぜひとも心を伝え合わなくてはならない。そこにはひとつのリスクがある。会話を重ねた末に心が伝わらないと、そこには疲労だけが残ってしまうというリスクだ。僕たちはそのリスクを覚悟して背負い込み、大事な人とつながろうとする。そのことにはある程度真剣さが要求されるのであって、それだけに僕たちは本来、人と向き合うのに真剣でなくてはならないのではなかっただろうか。

このコラムは一応恋愛関係のコラムだ。だからここで、かわいいけど未熟なオンナのコであるあなたがこれを読んでくれていると想像して話すことにするけれども、あなたは大事な彼と会話するにおいて、その目的、「心を伝え合うこと」を忘れてはいけない。忘れてはいけないし、そこから逃げてもいけないのだ。

「彼とはそれなりに仲良しなんですが、そこから先に進めません」

そういう話はよく聞く。そしてそういう人にあれこれ尋ねてみると、彼と仲良しを標榜し、また夜中に何十分か電話で長電話などすることもあると言いつつも、心を伝え合っていますかと問われるとウッと答えに詰まったりするものだ。

心を伝え合うことが目的で、会話することが目的ではない。

メールも会話もセックスも、目的のための手段に過ぎないのだ。



■心を伝えるためには心をむき出しにしなくてはならない。

会話していて疲れるオンナというのは実際にいる。そういうオンナは、どれだけ美人でどれだけおっぱいが綺麗でも、とてもお話してられないし口説く気にもなれない。これは僕がひどいことを言っているのではない。あなただって、会話していて疲れるオトコというものがいることを知っているはずだ。あなたがまともなオンナなら、そのオトコがどれだけ男前でも抱かれたいとは思わないだろう。それと同じことだ。

先に言ったように、会話して疲れることの原因は、心がお互いに伝わっていないことにある。たとえば僕が、

「何事でもそうかもしれないけど文章を書くというのは必死になって力んで取り組んでも逆に上手くいかないことだから難しいよな」

みたいなことを言ったところに、

「そうですね、がんばってくださいね」

と相手が答えたら僕は疲労する。

あるいはあなたが、

「似合わないけど、実はああいうガーリーなボレロとか着こなせるようになりたいんだよね」

と言ったところに、

「そうだね、女の子にとっておしゃれは大事だからね」

と相手が答えたらあなたは疲労するだろう。そんなことではお互いに仲良くなれるはずもなく、まして男女であれば恋仲になれるわけがない。

男女が恋仲になれるかどうか、その第一ステップは二人の心が他の人より濃密に伝わるかどうかにあるのだ。問題は会話の内容や量ではない。心の伝達の質と量だ。

どこまで話しても当たり前のことしか出てこないが、この当たり前のことを無視して、あるいは忘却して、僕たちの恋愛の情報は流通しているような気がする。僕は参考資料として女性誌をけっこう読むのだが、その恋愛コラムに書かれているのは、愛され小顔になって甘辛ミックススタイルで小悪魔風にアプローチしましょう、とたとえばそういうようなことばかりだ。何が書いてあるのかさっぱりわからない。さっぱりわからないし、肝心なことは何一つ書かれていない。

僕は今まで、まさかこんな雑誌に書いてあることを鵜呑みにする人はいないだろうと思っていたのだけれど、最近になって実はそうではないということに気づき始めた。雑誌に書いてあることを丸々鵜呑みにする人はさすがに少ないのだが、そうではない、発想の方法自体が雑誌的になっている人が多いのだ。

「一通りラブビームを送ったので、そろそろ押しをやめて引いてみようかなと思っています、メールでちょっとミステリアス風なことも送っておいたので、彼としては気になるんじゃないかなと思います」

とまあたとえばそんな感じでマジメに話すオンナが結構多いのである。僕としては、夜中の電話でそういう話を聞いていると、気になってるのはどこまでいってもあなたのほうで、彼は今頃あくびしながら耳掃除でもしてるんじゃないかな、などと混ぜ返したくなってくる。

恋愛において、押し引きとかラブビームとかミステリアスとか、そんなことはどうでもいいことなのだ。それが物語をつなげていくフックになることはあるにせよ、そのこと自体が恋愛を成就させるわけでは決してない。心が伝わること、それが性的な作用も加わって深く進行することが肝要なのであって、それさえ成立していれば、めちゃくちゃに押し切って成就する恋愛もあるし、彼のことが猛烈に好きで苦しいと一人で泣いているところに彼から突然電話で告白されて成就するというような恋愛もある。オレは恋愛に興味が無いんだよと、たとえば彼にそう冷たく突き放されて、それでもあなたは食い下がる、

―――うそついてるよ、恋愛に興味が無い人があんな情熱的なセックスをするはずがないよ?

とたとえばそう食い下がって、彼をたじろがせつつ成就する恋愛もあるだろう。


***


「そうですね、がんばってくださいね」

そう言って僕を疲労させたオンナは実際にいたわけだが、そのオンナはその前から僕を疲労させていたのだった。僕は冗談口調に少しばかり芝居をかけて、オレは優しい人間ではないけれども、強い人間になりたいとは思ってる、特に自分が弱い人ですよと宣伝して、人の同情と庇護を無言に要求するようなうっとおしい人間にだけはなりたくない、とそんなことを話していたのだったが、そのオンナはそれについて、

「そういえば昔の彼が詩を書く人で、似たようなことを言っていました」

と言ったのだ。

僕はそれにカチンときたので、はっきりと彼女を罵る声で言った。

「お前さ、さっきから、わざとやってるのか? お前と話してると、オレは節々でムカついてしょうがないんだけどな。なぜお前は、人の話をまったく聞かないで、なんでもかんでも知ってるフリをするんだよ? 今話してるオトコと昔の彼を同類項でまとめる、そういうことが失礼だってわからないのか? 気分が悪い。真剣に気分が悪い」

僕が大人気なくそう言うと、彼女は数秒間沈黙した。そこから僕は、怒鳴る寸前の声で、

―――聞いてんのか! 

と言ったのだったが、それを受けて彼女は、一撃で僕を後悔させるだけのか細さの声で、

―――はい、

と答えたのだ。

そして、幼児めいた素直さと弱々しさで、

―――ごめんなさい、

とも言ったのだった。

そこからの会話で、僕は彼女のことをいくらか知った。彼女には、そのような意地悪さ、いけすかないオンナのやり方で人と会話してしまう、そのことがクセにならざるをえない事情があったのだ。これはこの彼女の個人情報に関わることなのでここで全て話してしまうわけにはいかないが、とにかくもそのようなお上品でないワンシーンから、僕と彼女の心は伝わりあい始めたのである。

事情を説明する中で泣き出した彼女が泣き止むのを待ち、そこから彼女が屈託なく本当の笑い声を聞かせてくれるようになるまで、僕は何時間も必死で彼女と話した。自分の大人気ない態度を謝りながら、彼女を和ませようとしたり笑わせようとしたり、さっきまでのお前はムカついてしょうがなかったけれど今のお前はかわいくてしょうがないなどと冗談交じりに口説いたり、朝が来るまで必死に話し続けた。そのようなシーンが訪れると、男と女の心というのは特殊なチャンネルでつながるものである。僕は彼女の泣く声に引きずり込まれて、自分が悲しいのか彼女が悲しいのかわけがわからなくなったし、相手も自分も傷つけるような悪いクセはなんとしてでも解決するんだ、と自分のことのように感じて唇の内側を噛んだりもした。

そういうシーンに突入すると、僕たちはものすごいエネルギーを使う。しかし、はじめから言うように、そうして心を伝え合うことは、そのエネルギーを費やすに足るだけ、僕たちにとってかけがえの無い快楽なのだ。

心を伝え合うというのは、ものすごく大事でかけがえがなく、それだけに手抜きのできないことだ。心を伝えるためには心をむき出しにしなくてはならない。そこには結合の快楽があるが、傷つけあうことの不安と恐怖もある。むき出しにした心が、目も当てられないぐらい未整理で俗悪なものであれば、それだけでどうしようもない嫌悪を買ってしまうこともあるだろう。逆に、先の話のように、怒りと罵りというマイナスの感情の発露が、お互いを素直にさせ結合に導くというようなこともある。

それは一言で言うなら、真剣勝負、ということになるだろう。勝ち負けの見えない、予測不能の真剣勝負だ。それは誰にとっても不安なことで、またそうそうは取り組むエネルギーを持ちえないものだ。

それでも僕たちは、それから逃げ出すわけにはいかない。

僕たちは、心を伝え合って生きていくしかないのだ。



■心を伝え合うということを、自分から自然にできるようになってください。

また前段で自分のことを話してしまった。自分のことを話すと僕はいつも後悔する。恥ずかしいし、僕の話なんて誰が聞きたいものかと自分でクレームをつけたくなる。それでも僕は、僕自身のことを話すしかないようだ。最近気づいたが、文章を書くというのは結局自分の主観をさらけ出すということらしい。そこには僕が何をどう考えてどう感じたかが全てさらけ出されるので、どのように格好つけても恥ずかしくなる。格好つけようという意図が見えること自体が恥ずかしいとも言えるだろう。それでも自分のことを本気で書かないと、芸風にならないしそもそも人が読むに耐える文章にならない。謙虚ぶって自分のことを隠蔽すると、文章はすべてクソつまらない一般論になる。それだけは避けねばならない。

このあたり、結局は人に何かを伝えようとするとき、媒体によらず真理は一点に収束するのかもしれない。人に何かを伝えようとするとき、うそ臭く謙虚なフリをすることなく、真剣勝負するしかないということだ。そこから吐き出されるものが、おぞましいものになるか痛いものになるか、あるいはいくらかでも見どころのあるものになるか、それはその人間の器によるだろう。それは僕が文章を書くときでも、あなたが彼と会話するときでも、あるいはあなたが彼とセックスするときでも通底するルールだ。

まあそう考えると人に何かを伝えようとするのは結構大変なことなんだということになってくるが、それでも僕たちはそれに怯まず正面から取り組むしかない。少なくとも、僕はそのようでありたいと望んで生きている。僕は利口ではないし人に優しくもない、そしてそれを自覚しているだけに人にバカな奴とかヒドい奴とか言われても一向にかまわない人なわけだが、エネルギーの無い奴と言われるのだけは気に入らないのである。そんな評価まで甘受するわけにはいかない。僕はもうじき三十歳になるが、近所迷惑極まりない、元気いっぱいの三十歳になってやろうとたくらんでいるのだ。

(センスのない人でかまわない、と言っているわけではない。センスを磨かないなら、人は年を取る価値がない)

話が逸れた。元に戻そう。

前段で僕は、心が伝わりあうということのシーンを描写した。それがどこまで伝わったかはわからないが、とにかく心が伝わりあうということは、お手軽でも上品でもおしゃれでもない、もっとむき出しで生々しいものなのだということを僕は説明したつもりだ。

ここで少し、僕が最近になって疑問に思っていることがある。心が伝わりあうというのがそのようなシーンになるものであったとして、みんなは、というかあなたは、そのようなシーンを本当に体験してきているのだろうか? 

ひょっとしたら、そもそもそういうシーンを体験したことがなかったりする人もいるのではないだろうか?

これは別に、僕が経験豊富であなたは経験の貧しい人ですよと言っているのではない。ただ純粋に、疑問なのだ。僕は他のみんながどう生きてきて、どのような経験をしてきたのかを知らない。知らないし、話を聞く分には、―――あれ? と思わせられることが結構多いのだ。最近特に、僕として話すいろいろなことが、空想事のような手ごたえのなさで、フワフワしたまま聞き遂げられることが多いのだけれども……

本当のところ、みんなはどうなのだろうか。

いまさら言うまでも無いが、僕は何につけ今まであまり穏当なやり方をしてこなかった。人生波乱万丈というわけでは全然無く、経歴としては平凡極まりないのだが、何しろ根本的に出来が悪く、それでいて好奇心だけ妙に強かったため、いろんな人に迷惑をかけては、いろんな人に叱られ、いろんな人に嫌われたり好かれたりして、要するにいろんな人にお世話になって生きてきたのだ。親にも先生にも先輩にも友人にも、数え切れないぐらい怒鳴られてきたし、またその倍以上、本気で励まされ勇気付けられてもきた。女運だけは世界最強に良いので、たくさんのオンナが信じられないぐらい捨て身で僕のことを好きになってくれたし、また僕のために泣いてくれることもあった。

余談だが、僕は今まで出会ってきたオンナを思い返すと、その一点だけでこの国に生まれてよかったと神様に感謝する。多分、日本人のオンナは世界最高に優しいのだ。僕がアメリカに生まれていたら、きっと今までに何度も往復ビンタなりスタンガンなりを食らわされていただろう。僕はこの国に生まれた運命と、この国のオンナ、そしてこの国のオンナを作ったこの国の土壌と文化と伝統に感謝している。もしこれから戦争があって、徴兵令が出たならば、僕は恩を返すために潔く兵隊になるだろう。(まあ、兵役検査に合格すればの話。運動不足だから落ちるかもしれないな。甲乙丙丁、豚、みたいなランクで)

また話が逸れた。僕のことはどうでもよく、あなたについてのことだ。あなたは今までに、心を伝え合うということ、そのことの生々しいシーンに触れてきただろうか? もちろん、新生児から幼児にかけては誰でもそういうシーンを経験してきているはずなのだが、そんな頼りない記憶ではなく、もっと確固として残っている思い出のシーン、自分の人格形成を担っていると確信されるようなシーンを、あなたは本当に体験してきているだろうか。

「オレはオトコだから、お前とセックスしたいし、またそう思えるだけかわいいオンナが目の前にいてくれる今の時間がとても幸せなんだけど、お前はどうだ? お前はオレとセックスするのはイヤか? オレとセックスするところを想像すると、イヤな気分になるか?」

僕は以前、そのような言葉をあるオンナのコにぶつけてみたことがある。こうやってバラしてしまうと、僕がどれだけ低俗な生活をしているかがバレる上に、僕の手口はもうあなたにバレてしまうため僕はもうあなたを口説けなくなってしまうのだが、まあそれはあなたにすっきり忘れてもらうとして、そのように僕として軽く口説きをぶつけてみると、その彼女は僕をひっくり返すような答え方をしたのだった。

「イヤじゃ、ないです。思ってたよりもずっと」

オトコとオンナはそもそも結合するための性質を持っているので、状況によってはものすごい勢いで心が伝わりあう。その作用が助勢してのことでもあるのだろうけれど、彼女はそう言って僕を精神的に転倒させてから、さらには、

「あの、それってホントに言ってくれてるんですか?」

と言い足して、目をきらきらと、少女のように娼婦のように輝かせたのだ。

そして、僕はもちろん、その彼女の反応をどうしようもなくうれしく、またかわいく感じてしまったのだが、それとは別にこのように思いもした。さすがに苦笑しながら、である。

―――心を伝えられることに、慣れてないんだなぁ。

僕には自己卑下する趣味はなく、また謙虚さと傲慢さの割合は一対九ぐらいなのだが、それでも根拠なくうぬぼれに浸れるほど幸せな人間でもない。彼女の究極に好意的な言葉は僕にとってうれしいものだったけれども、それでも僕は彼女の反応が、僕に対する異性的な好意というよりは、単に目の前の相手がわたしのことを抱きたいと思っているんだと、そのことを新鮮に喜んだというだけのことだと理解した。彼女の目が、少女のようにきらきらしたのはそのせいだ。彼女は僕に抱かれたかったわけでは決してない。抱きたいとオトコにまっすぐ言われたことが、新鮮で嬉しかったというだけのことだ。

まあ、それでもオンナはオンナであって、いくらかは娼婦のような表情を見せるから、オンナは怖くて魅力的なのだけれどね……

ええと、もう少し説明を足しておこう。この彼女は元々、彼氏のことについて、いくらか相談交じりに話していたのだった。彼がカラダを求めてくるが、求められれば求められるほどこちらは気持ちが引いてしまう、どうしたらいいのかわからない、やっぱりオトコの人ってどうしてもそういうコトがしたいんでしょうか? と、そんなことを元々は話していたのだ。その話の流れから、先のようなくすぐり程度の口説きを入れることになったわけである。別に僕が突然セックスの話を持ち込んだのではない。むしろ突然だったのは彼女の側の答え方だったろう。

(あ、なんか言い訳がましくなったな。やめとこう)

そんなわけで、僕は彼女について、心を伝えられることに慣れていないんだなぁとしみじみ思ったわけだった。そして、似たような印象を、他のオンナのコたちから受けることも多いのである。前段で話したオンナのコもそうだが、こちらから心を伝えようと一歩踏み出すと、それを受けてものすごく劇的な反応を示すオンナのコがとても多いのである。それもなぜか、人並みより美人なオンナのコのほうが割合として多いように感じられる。

なぜなのかはわからない。

が、そういうコはひょっとしたら、心を伝え合うということを経験してきていないのでは? と僕は考えてしまうわけだ。

美人であれば美人であるほど、うじゃうじゃとオトコにたかられる、そしてオンナには微妙に遠慮される、というようなこともあるだろうしね……

繰り返すが、もしこれを読んでくれているあなたが、「あ、わたしもそうかも」と思ったとして、僕はあなたが経験不足でダサいとは言っていないし、僕の方が経験豊富だからエラいと言っているのでもない。また、これを読んでくれている男性諸君に対しても、ガツンと攻め込めばオンナなんて落ちますよと言っているのではない。それは女性に対する侮辱だ。まあそんな短絡的な発想しかできないオトコはどこまでいってもオンナに尊敬されることはないから大丈夫だろうけど。

僕はそんなことを言っているのではなく、ただ、若くてキレイなオンナのコであるあなたが、ひょっとしたらそういう原型的な体験をしてきていないんじゃないかなと、そして、その経験なしに無理やりオトナになろうというのはムリがあるんじゃないかなと、なんとなく心配しているのである。

まあ大きなお世話だと思うが、僕は敢えて心配していることを表明することにする。

心を伝え合うということを経験してください。

そして、心を伝え合うということを、自分から自然にできるようになってください。

ステキなオトナになれ、ということです。

(で、僕があなたを口説いたときは、軽くあしらうようにしてください)

(不用意にイヤじゃないですとか言われると、僕も自分を抑えるのがタイヘンなのです)



■僕と彼女は、完全な合意において、静かにトロイメライを終曲まで聴き続けた。

心を伝えるということについて、少し具体的なことも言っておこう。

心を伝えるといっても、そのインパクトは大小さまざまだ。天気がいいと気分がいいですねというようなささいなこともあれば、抱かれてもいいですけど今夜だけはわたしのことだけを想って欲しいんですというような大事なこともある。僕たちはその大小いずれも上手に相手に伝えられなくてはならないが、もちろん手続きとしては小さいほうからはじめるのがマナーだ。

僕が思うに、小さいほうについてこそ、上手に伝えることができない人、あるいは伝えるということをすっかり忘れている人が多いのではないだろうか。特に好きなオトコを目の前にすると、彼のことが好き、彼と付き合いたい、彼に好きになってもらいたいと、そのことしか考えられなくなる人はよくいる。その気持ちはよくわかるが、残念ながらそれでは逆効果だ。あなたは結局、あなたの心について伝えられないまま、ある日突然追い詰められたように告白するしかなくなるだろう。

心を伝えるにも、手続きやマナーといったものがあるのだ。

あなたはまず、自分の心の小さな動き、その小さな感動を彼に伝えられるようになろう。

僕の古い女友達、もう会うこともなければ名前も覚えていない女友達だが、その彼女はかつて、ごく短い言葉とごく小さな感動で、僕に深い印象を残したことがある。

ピンクに光るサテンドレス、その胸の中央にはペンダント、頬には緋色のチークを大胆に乗せた、そのお姫様ふうのいでたちがしっくり似合う女の子だった。彼女は、自分からはまったく話さない、極めて穏やかな性格をしていた。それでも、人の話を聞くのは無心に好きらしく、僕は彼女の視線、瞬きのないその大きな目に無抵抗に促されながら、何十分も彼女に向けて一人で話をしていたのだった。僕と彼女とはキャラクターがまったく違っていた。その僕の、穏やかでもなければ上品でもない話を、なぜか彼女はずっと黙って聞いていたのだったが……

「きれいなメロディだね」

僕の話が一段落したところで、彼女はそう呟いた。デンオンの立派なスピーカーは、神戸の高台にある古い喫茶店、そして愛想のないマスターに似つかわしい木製のものだった。僕も彼女も、そこでヌワラエリヤを飲んでいたように記憶している。彼女は首をかしげてそのメロディに集中しながら、

「なんていう曲かしら」

と僕に尋ねた。

それはシューマンのトロイメライだった。ドイツ語のトラウムから派生して、夢想とか夢見心地とかいう意味の題名だ。しかし僕は、それを今話すのは野暮に思えたので、―――さあな、と答えた。僕はもともと、音楽の題名なんてどうでもいいものだし、題名を必要としないから音楽なんだという考えでいたのもあり、そのときは彼女に雑音を与えないことを優先したのだ。

それについて彼女は、どこまで僕の考えを察したのかわからないが、一拍の沈黙をおいてのち、

「ありがとう」

と言って微笑んだ。それは貴族のような笑い方だった。事実、彼女は庶民とは違う家の子女だったのだが、単なる金持ちとは違う、本当の貴族にあるべき、厳かさのようなものを持っているオンナだった。

そのまま僕と彼女は、完全な合意において、静かにトロイメライを終曲まで聴き続けた。

心が伝わるというのは、そういうことだ。

しっちゃかめっちゃかに会話を盛り上げてもダメだということです。



■些細な会話でこそ、いいオンナは上手くやる知恵を持っているのだ。

僕は恋愛に小細工を持ち込むのが好きではない。恋愛において、小細工が必要になることもあれば、それが有効に働くこともあるのだけれども、小細工が決定的な結果を出すことはない。それは言わずもがなのことではあるのだけれども、恋愛について悩み迷う人の中には小細工の情報だけをひたすら求めている人もいて、そういう人に小細工を伝授して感謝されるのがキライなのだ。

彼からメールを返してもらう小細工、彼をお茶に呼び出す小細工、彼をドキッとさせる小細工、そういう技巧はあるにはあるが、それらを駆使しても結局、最後は彼があなたを好きになってくれるかどうかが問題だ。だから僕は、あなたに心をむき出しにして、心を伝え合って、真剣勝負をしなさいと勧めている。小細工はせいぜい、そのためのきっかけ、そのトライアルの機会をスムースにつくるという程度の働きしかない。

技巧的なものを駆使すると、技巧的なものが伝わる。

それは、心が伝わることを自ら阻害しているようなものだ。

そのことを前置きした上で、少しこまごましたことを話そう。

心を伝えるということについて、こまごました、具体的なことを。


***


まず、心が伝わってない会話を提示してみる。考えるだけでもウンザリするが、例を出さなくては説明ができない。

「いい天気ですね」
「そうだね」
「今年の春は雨が多かったのに、今日は晴れてよかったですね」
「そうだね、ついてるね」
「今日はどこに行きましょうか」
「あったかいから、映画館はもったいないかもね。公園で、お散歩でもしようか」
「そうしましょうか」
「あ、でもその靴で、歩きにくくない?」
「はい、大丈夫です」
「じゃあ、コンビニに寄って、何か食べ物と飲み物を買っていこうか」
「そうですね」
「あ、コンビニと、あそこにモスバーガーもあるけど、どっちがいい?」
「どちらでもいいです」
「そっか。じゃあ、とりあえずコンビニに行くか」
「はい」

どこにでもありそうな、デートのオープニングでの会話だ。平凡で、なんら問題の無いやりとりに見える。

たしかに、問題は無いのだ。しかし、評価するところがあるかというと、それもまた無い。あなたには、わかるだろうか? この会話のどこをどうしろと僕が言いたいか、わかるだろうか?

このありがちな会話、どこにでもあるやり取りの、改善すべき点を発見できる人はほとんどいないと思う。僕たちは、そういうことについての教育や訓練をまったく受けていないのだ。これはいい機会でもあるから、ひとつあなたも、「わたしならこう言うかな」的なやり方で、修正案を考えてみてほしい。会話の大筋は変化させない。大筋はそのままで、会話の発想を変化させるのだ。

誰も知らないことだが、こういうどうでもいいような会話のシーンでこそ、うまく心を伝えられるオンナとそうでないオンナが分かれる。あなたがもし、この会話のどこをどう改善できるのか見当もつかないということであれば、あなたはきっと損をしている側だ。些細な会話だが、改善するところはいくらでもある。

些細な会話でこそ、いいオンナは上手くやる知恵を持っているのだ。

じゃ、僕なりの改善案、次に示します。

(もちろん改善案なんて無限にあるけどね)


***


「空、気持ちいいですね」
「そうだね」
「今年の春は雨が多かったのに、○○さんって晴れオトコですね」
「そうかな、まあそうかもしれないな」
「今日はどこに行きましょうか。えーと、なんだか照れますけど、わくわくしますね」
「あったかいから、映画館はもったいないかもね。公園で、お散歩でもしようか」
「あ、それステキですね! 大賛成です」
「あ、でもその靴で、歩きにくくない?」
「はい、大丈夫ですよ。ありがとうございます。のんびり歩いてもらえたら嬉しいです」
「じゃあ、コンビニに寄って、何か食べ物と飲み物を買っていこうか」
「そうですね。そういう買い食い、大好きです」
「あ、コンビニと、あそこにモスバーガーもあるけど、どっちがいい?」
「えーと、コンビニで朝から甘いもの買い込んだら、○○さん引きます?」
「そっか笑。じゃあ、とりあえずコンビニに行くか」
「はい」

さて、これでどうだろう。これもまた、どこにでもありそうな会話だ。展開の大筋も先の例と変わらない。

しかし、伝えようとしていることの内容が違う。

もう一度先の例を振り返ってほしいのだが、先の例は、客観的な状況説明(「いい天気ですね」)やYes・Noの意思疎通(「そうですね」)しかしていない。それに比べて後者は、主観的な印象の伝達(「気持ちいいですね」)とYes・Noにとどまらない感情の伝達(「ステキですね」)をしている。このことはすなわち、後者のほうが心を伝えようとしているということだ。

この会話は、会話自体が些細なものだから、そこまで気にすることでもないかもしれない。しかし、あなたが彼と会話を積み重ねていくとして、そのやり方の基本は会話が些細であろうが重大であろうが同じなのだ。

問題は、あなたの会話のやり方だ。やり方として、心を伝えるということを含みこんでいなければ、いくら会話を重ねても無駄になる。ゼロの掛け算みたいなものだ。そしてそういう会話に、やがてお互いが疲労するというのは前に述べたとおり。

よくわからないという人は、もう一度、二つの例を見比べてみましょうね。どうしてもわからない場合は、このことについて友達と話してみましょう。わかる人には、すぐにわかるはずです。特に、「二つとも、大差ないんじゃない?」と感じる人は要注意。差はあります。ものすごくあります。そのことが感じられない人は、残念ながらニブいと言わざるをえません。

些細な会話の中で、心を伝えようということ。このやり方、後者の会話のやり方が、当たり前のことになっているオンナもいます。そしてそういうオンナは、ごく自然に気に入ったオトコと仲良くなっていけるし、そのことを当たり前だと思っています。そして、それができない人について、なんでできないの? と不思議に思っているものです。(そういう人に相談しても、あまり有効なコーチングはしてもらえない)

些細な会話でこそ、心を伝えられるようになりましょう。

(ついでに言うと、それだけでかなりおトクな人生を生きられることにもなります)



■意志の目的は畢竟快楽の外にない。

さて、そろそろ今回のお話はおしまいにしよう。心を伝えあいましょうと、ものすごく当たり前のことについて話してしまった。当たり前のことだけれども、僕たちはそういう当たり前のことをすぐに忘れる人たちなので、そうだな、何人かでも、大切なことを思い出した気分になってくれたらないいなぁと思っておくことにしよう。

タイトルにも書いたとおり、心を伝え合うことは快楽だ。快楽というとお下品な印象になるかもしれないが、快楽というのは本来は下卑た言葉ではない。それは哲学の本を読んだことのある人なら知っているだろう。哲学にはちゃんと「快楽説」というカテゴリもあるのだ。

ちょっと場違いになるが、ひとつ引用しておこうかな。

岩波文庫ワイド版・西田幾多郎著「善の研究」167Pから。

―――合理説は他律的倫理学に比すれば更に一歩をすすめて、人性自然の中より善を説明せんとする者である。しかし単に形式的理性を本としては、前にいったように、到底何故に善をなさざるべからざるかの根本的問題を説明することはできぬ。そこでわれわれが深く自己の中に反省して見ると、意志は凡て苦楽の感情より生ずるので、快を求め不快を避けるというのが人情の自然で動かすべからざる事実である。我々が表面上全く快楽の為にせざる行為、たとえば身を殺して仁をなすという如き場合にても、その裏面について探って見ると、やはり一種の快楽を求めているのである。意志の目的は畢竟快楽の外になく、我々が快楽を以て人性唯一の目的となし、道徳的善悪の区別をもこの原理に由りて説明せんとする倫理学説の起るのは自然の勢である。これを快楽説という。この快楽説には二種あって、一つを利己的快楽説といい、他を公衆的快楽説という。

ええと、難しいね。難しいけど、まあ気合を入れて読めば理解できなくもない。簡単にいうと、「ってか、そもそも何で、善をやらなきゃいかんわけ? 善より、快を求めちゃうよアタシは」「まあそうだね、一見していいコトしてる人でも、よくよく見ればその裏側には快楽があるわけだしね」「でしょ。だから、アタシたちの人生の目的は快楽なんだよ」「うーん、快楽説だね」ということだ。

僕たちは快楽に向かって生きている。

意志の目的は畢竟快楽の外にない。

ひとまず快楽説を無批判に肯うとして、これは事実だとしてしまっていいだろう。

そして、ここで僕は思うのだ。

―――快楽を目的としているだけに、快楽がどこにあるか、それを見失ったとき、人は迷妄するのではないか?

僕はあなたに、人と心を伝え合うことを勧めているわけだが、それはすなわち、快楽を味わえ、それを見失うな、迷妄するなと勧めていることになるだろう。

(だからいいコトを勧めているはずなのです。快楽快楽、言ってますけど)

人と心を伝え合うことの快楽を、ぜひこれからは、見失わないでほしい。

見失った人は、なんというか、自分も他人も傷つけて、苦しい思いをしなくてはいけないみたいだからね。

今、何かが苦しくて、行き所の見えない人は、快楽のありかを見失っているのかも……

ではでは、今回はこのへんで。

またね。


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