恋愛偏差値アップのコラム









恋愛の奥義、「思いやり」








どんなコが好みなの? という質問を受けて、

「ノーブラで堂々としてて、思いやりのあるコ」

と答えたことがある。

質問の主は、そんなコ、そうそういないね、と言って呆れて笑った。

たしかに、そうそうはいない。

海外に出ればノーブラで堂々としているコはいるが、そこからさらに思いやりのあるコとなると、これがグッと少なくなる。

堂々としてて、思いやりのあるオンナ、それは希少なオンナであり、貴重なオンナだ。

あなたはどうだろうね。

まあ、わたしこそはそのオンナですと、そう自己申告できる人なんて、それこそそうそういないだろう。

ノーブラはともかく、思いやりのあるコがいい。

思いやりのあるコとのセックスは、なんというか、身も心もとろっとろにやられちゃうものだけど……

思いやりのあるオンナと交わるのは、それが心であれカラダであれ、あるいはその両方であれ、それはもうステキなものだ。

思いやりのあるオンナは、フェラチオしながら、

「いいよ、疲れたらギブアップするから、気にしないでそのまま寝そべってて」

とか言ってエッチな笑顔を見せてくれたりする。

そういうのは、される側のオトコとしては、うあーコイツやべぇ今のマジかわいい、という気分になってしまう。

それに比較して、思いやりのないオンナとセックスすると、なんというか「やらされてる感」が先に立ってくる。

経験の少ないオンナの場合は、まあ自分の状態にテンパってしまっていて、そうなってしまうのはしょうがないところなのだとは思う。

それがまあ、かわいいな、と思えることもある。

ただ、とろっとろにやられてしまうセックスと比較すれば、その恍惚感は比較にならないというのも事実だ。

(あれ、なんでオレはセックスの話をしてるんだろう。夏のせいか)

えー、今回は、「思いやり」ということについて話したい。

思いやりというのは、言葉としてはものすごく幼稚で、まあ事実そういう言葉を習うのは幼少期なのが普通なのだが、思いやりということの心の機能自体について言えば、それはむしろ高度な機能、オトナの心の機能だと言うことができる。

思いやりは、プリミティブな概念だが、心の機能としては高度なのだ。

僕たちの「思い」は、通常、その主体である「自分」を核にして発生する。

思いやりというのは、その「思い」を相手サイドに「遣る」ということだ。

そのことのためには、精神のエネルギーが要るし、知性と経験が要るし、想像力が要る。それらを駆使して、「思い」を自分から相手へと移行させる営為が「思いやり」なのだ。

そのような機能を、高度と言わずしてなんと言おう。

そのあたり、まあ要するに、僕たちは誰も彼も、思いやりなんて実現できていないよな、と僕は思っているわけだ。

今回は、思いやり、ということについて話す。

「思い」を「遣る」こと、それは恋愛においては、ひとつの奥義なのじゃないか、と僕は感じている。

このことが未熟すぎて、あらゆる恋愛のシーンでコケている人を、僕はちょくちょく見かけるしね。

(ところでカンのいい人なら、「ノーブラで堂々としていて思いやりのある人」という表現に、愛と独我の複雑なニュアンスを含ませていることに気がついただろう)



■オトコは、「このコは人を思いやれるコなんだな」と感じたとき、そのオンナを本気で愛し始める。

僕はお金に余裕のあるとき、オンナには出来るだけオゴるようにしている。

それは別に、僕がフェミニストだからではない。

単に、オゴったほうが口説きに入るときスムースだから、そのためにオゴるだけだ。

僕はフェミニストではないし、善人でもないのである。

まあ一応、オンナだって、口説かれるならオゴられてるほうが気分が出るだろう、という程度の配慮はあるのだけれどね。

それはいいとして、僕がオンナにオゴったとき。

オンナはたいてい、ごちそうさまでしたとかお礼を言うわけなのだが、そのときに思いやりが見える人と見えない人がいる。

お礼を言わない人は完全なマナー違反というか、もうどうしようもない人なので、それはもう知らない。

ついでに言っておくなら、オゴられてもお礼を言わない人なんてほとんどいない、と見せかけて、実は世の中に結構いる。

お礼を言い忘れていたり、言うタイミングを逃したりしている人だ。

繰り返すが、ホントにけっこう実在するのだ。

そういう人は、心がポンコツになっているので、もうそこからなかなか変化できない。

僕はむしろ、そういうときに、オゴってよかった、とホッとしたりする。

なぜかというと、オゴることによって、比較的早い段階で、そのポンコツ具合を知ることができたからだ。

そういう人と、間違って寝たりすると、そりゃあもうグッタリする結果が待っているのだから、そういう展開を避けられてよかった、と胸をなでおろすのだ。

まあ、今回はそういう人の話ではない。

(というか、僕は今後一切そういうポンコツさんについての話をするつもりがない)

本題に戻って、お礼の話。


***


「あの、本当にありがとうございました。高かったのに、すいません、わたしなんかにお金使わせて」

これが、お礼の一例。

このお礼だけ見たら、別にいいじゃん、と誰でも思ってしまうだろう。

しかし、これが「思いやり」という側面から見ると、あまりよくないじゃん、ということになってくるのだ。

もう一つ、お礼の一例。

先の例と、対比的に。

「ありがとー。ってか、マジいいの? そりゃうれしいし、マジありがとうだけどさ、全オゴりは金額的にキツくない? だってなんかさぁ、さっきお金あったら万年筆買いたいとかって言ってたじゃん」

カンのいい人なら、この例を見てハッと気づくだろう。

相手に思いを「遣って」いるのはどちらか。相手の立場に立って発想できているのはどちらか。

もちろん、思いやりが見えるのは、後者の例のほうだ。言葉遣いは悪くても、心に「思いやり」の機能が働いている。前者のほうはどうか? 前者のほうは、丁寧で、また謙虚っぽさも出ているのだが、あくまでそれはマナーの範囲でしかなく、思いやりという機能の働きはまったく見られない。

このあたり、微妙な差、どうでもいい差に見えるかもしれないが、実はこれが致命的な差なのだ。

オトコがオンナに対して、気持ちを開くとき、要するに「こいつホントにいいオンナだ」と思うとき、必ずそこには思いやりについての確信を必要とするからだ。

(二つの例で、差がよくわからないという人がいたら、そんなあなたは大ピンチです。ご両親と思いやりについて話し合いましょう)

オトコは、「このコは、人を思いやれるコなんだな」と感じたとき、そのオンナを本気で愛し始める。

思いやりが見られないうちは、どれだけお上品に振舞っても、オトコはそのオンナについて性根のうつくしさの確信が持てない。

だから、愛が始まらない。

まあそれは、オトコとオンナを入れ替えても同じだろうね。

もう少し、この話を続けます。



■「いい人」の中には、「思いやりゾンビ」がいるのだ。

思いやりのあるなし、について話を続ける。

今度は、電車の中で、あるオトコのワンシーンをイメージしてもらいたい。

そこでの彼のつぶやきは、次の二通り。

「老人が立っていたのに、オレは寝たフリをして座席を譲らなかった。ああ、オレはなんてダメなやつなんだ。マナーがなっていない、イケてないオトコだ」

「老人が立っていたのに、オレは寝たフリをして座席を譲らなかった。ああ、老人はお疲れになられたに違いない。なんと申し訳ないことだ」

さて、この二つの例も、先ほどまでの話と同じ、思いやりのあるなしという視点で観察してもらえるだろうか。

相手サイドに「思い」を「遣れている」のはどちらか。

まあ当然、それは後者のほうということになる。

これは、実際的に席を譲らなかったという意味においては、両方とも思いやりが無いと言えば無いことになってしまうのだが、「思いやり」を成立させる心の機構、すなわち「思い」を「遣る」機構について言えば、後者のほうは機能しているということになる。

前者のほうは、どこまでいっても、どこまで反省して自己嫌悪しても、発想の主体は「自分」であり、興味の方向も「自分」でしかない。

それは、思いやりのための心の機構が無い、ということだ。

繰り返して言うが、二つの例にある差、それは些細な違いに見えて、実は致命的な違いなのだ。

言葉が違う、ということが問題ではない。

言葉が違うということは、すなわち「発想」が違うということであって、思いやりを成立させるものは、まさしくその「発想」―――「思い」の主体を相手サイドに移行させる―――という点に他ならないのだ。

この「発想」は、ほとんど意識されないレベルの「発想」なので、そもそもその「発想」を持っていない人に説明するのがとても難しい。

難しいし、そういう発想に興味を持てない人に、あまりごり押しする気にもなれない。

伝わる人には伝わると信じて、先の例をひねってもう一つ。

電車の中のワンシーン。

「ご年配を、立たせているとマナー違反になるだろう。オレはマナーを守る人でありたいので、席を譲ろう」

「ご年配で、立たれているとお疲れになるだろう。どうぞオレの席を譲るので、ゆっくり座っていかれてほしい」

そろそろ、僕の言いたいことが、わかってきてもらえただろうか?

この例のように、実際にお年寄りに席を譲ったとしても、その背後に働いた「発想」に、「思いやり」の機構があるとは限らない。

思いやりがあるかないかは、行動の表層だけでは判断できないのだ。

行動の表層として「いい人」であっても、その背景にある発想のシステムに、「思いやり」の機構がまったく無い人がいる。

すなわち、一見すると「いい人」で、実は「思いやり」の機能がない人がいるのだ。

僕は、そういう人のことを、「思いやりゾンビ」と呼んでいる。

「思いやりゾンビ」は、見た目には「いい人」で、にわかには「思いやりのある人」と区別がつかないものなのだ。

(哲学用語でいう、「哲学的ゾンビ」という言葉を剽窃した造語だ。意味的に精密には剽窃できていないので、「哲学的ゾンビ」について正確に知りたい人は専門書をドライアイになるまで読もう)

よくよく観察してみれば、あなたの周りにも、そういう人はいるのではないだろうか。

「いい人」のはずなのに、心にグッとこない人。

やさしいと言えばやさしいのに、じっくり考えると、アレ? 
と思ってしまう人。

「いい人」の中には、「思いやりゾンビ」がいるのだ。

あなた自身は、はたしてどうだろうか?

「思いやり」の機構が、心に生き生きと働いているだろうか?



■「思いやりのある行動」を、コピーしたってダメなのだ。

思いやりということをさらに正確に認識するために、ひとつの童話を思い出してもらおうと思う。

「笠地蔵」の話だ。

誰でも知っている話だと思うが、ここでその重要なワンシーンを抜粋しておく。

<雪がこんこんと降りしきる中、少女は野ざらしにされているお地蔵様を目に留めた。少女は「お地蔵様、寒そうでかわいそう」と思った。そして少女は、自分が雪に打たれることもかまわずに、お地蔵様に自分の笠を与え、雪除けにかぶせてあげたのだった>

これだけのシーンだが、このシーンには「思いやり」の原型がある。

この原型から、僕はここに、思いやりということの定義をざっくりと示してみたい。

思いやりとは、

・相手の立場に立って(「思い」を相手サイドに「遣って」)
・その立場から、相手に能動的・具体的に働きかけ
・そこにやさしさを実現する

ということだ。

「笠地蔵」の話の場合、少女は「まずお地蔵様の立場に立って」「そこに能動的・具体的に働きかけ」「やさしさを実現している」。これを思いやりと呼ぶ。少女は思いやりのあるコだったということだ。

このことに、誰も疑問は持たないだろう。

このことを「思いやり」の定義にして、確認しておく。

「ご年配を、立たせているとマナー違反になるだろう。オレはマナーを守る人でありたいので、席を譲ろう」

たとえばこの例で、この人物はどのような営為をしたのか。

それは、思いやりの定義になぞらえて言うならば、

・マナーに思いを馳せて(マナーのある人でありたいと思い)
・その立場から、相手に能動的・具体的に働きかけ
・そこにモラルを実現した

という具合になる。

ここで念のために言っておくと、僕はマナーやモラルを軽視しているわけでは決してない。そうではなく、マナーやモラルと思いやりは別物だということを言いたいだけだ。また、マナーやモラルで行動を塗り固めた人間は、一見すると思いやりのある人のように見えてしまう、そのことを「思いやりゾンビ」と呼ぼう、とそのことの提案をしただけだ。

その上で重ねて言うが、思いやりが思いやりであるためには、どこまでいっても「思い」を「遣る」ということの定義、そこから一歩も離れてはいけない。「思い」を「遣る」ということ自体、その心の営為自体がまず「思いやり」の大前提なのだ。

もしここであなたが、自分には思いやりが足りていないと、そのように反省する気持ちであるならば、このことを忘れないでいてもらいたい。

マナーやモラルは、人と人とがうまく付き合っていくための潤滑油ではあるが、それ自体は「思いやり」と似て非なるものなのだ。

「思いやり」を花とすれば、「マナー」「モラル」は造花である。

「マナー」「モラル」は、「思いやり」を一般化して定型化した、「思いやり」の模造品、コピー品なのだ。

だからもし、あなたが、思いやりのある人間になりたいと望むならば。

「思いやりのある行動」を、コピーしたってダメなのだ。

あなたが、「思いやりのある行動」を、自分のうちに一万通りコピーしたとしても、それは「思いやり」にはならない。

それは「思い」を「遣って」いないので、ただの真似っこ、思いやりふうの態度でしかないのだ。

世の中には、そういう真似っこを自分の中に積み重ねて、すっかり「思いやりゾンビ」になりかけている人もいるわけなのだけれど……

もしあなたが、そのあたりのことがわからなくなったら、「笠地蔵」の少女を思い出せばいい。

彼女の行動は、何をコピーしたものでもなく、何のマナーを遵守したものでもないのだから。

思いやりのためには、「思い」を「遣る」、その機構を心に持つことだ。

それにはエネルギーが要るし、知恵も経験も想像力もいる、要するに大変なことだ。

大変なことなのだが、人を思いやるというのは、そもそもそれだけ大変なことなのだ。

(ここで、「ラクチンに思いやりを手に入れる方法は?」と考える人はもう救いが無い)



■僕はそのとき、その照れて笑う表情の奥に、玲子の心の深いはたらきを見たように思う。

思いやりが無い人、について話し出すとキリがない。

何事だってそうだが、たとえば「宇宙人は存在しない」ということの証明ができないように、「無いもの」について話し出すとキリがなくなる。

(学問ではこのことを、非存在証明とか悪魔の証明とか言ったりする。お好きな人は図書館へどうぞ)

第一、思いやりがない人について話すのは、僕自身としてしんどすぎる。(疲労する)

思いやりがあるオンナ、について僕は話すことにしよう。

夏の夜に、ある状況でタバコを吸うと、僕は一人のオンナを思い出す。

玲子、というオンナだ。

そのオンナとの、一夜のシーンを、なんとなく話してみることにする。

(もちろん「思いやり」ということのカラミはあるが、野暮な説明はあまりしないので、そのつもりで読んでやってください)


***


僕がまだ神戸に住んでいたころの話。玲子というオンナから電話が掛かってきた。梅雨が明けて、ようやく夏らしくなってきた夜のこと。時刻は深夜に近かったが、夏独特の奇妙な活気がまだアスファルトに残っている夜のことだった。

「こんばんは」

「おう。玲子。珍しいな、玲子の方から電話くるとは」

「そう、かな? まあいいや、ちょっとさ、聞いてくれる?」

「うん。なに」

「わたしまた彼に、ダメ出しされちゃったよ」

玲子はそう、冗談半分の愚痴というふうの調子で言った。またかよ、お前これでダメ出し何個目だよ、と僕は鼻で笑うフリをする。

「もうお前、ダメ出しされすぎで、ダメ・コレクターみたいになってるよな」

「ねー? もうわたしも、何がダメって言われたのか覚えてらんないよ。わたしってさ、要するに何がダメなのかな。ってゆうか、いつも思うんだけどさぁ、向こうも人のこと言えたもんじゃないんだよ?」

「あー、はいはい」

僕は玲子の愚痴が具体的なところまで出てきそうになるのを受け流しながら、ビデオデッキの液晶で現在時刻を確認した。

そして、

「……玲子、悪い。三十分経ったらこっちから掛け直していいか? ちょっと、やることあんだ」

と玲子の話を差し止めた。

「そうなんだ? ごめんごめん、じゃあまた今度、掛けなおすね」

「いや、三十分だけ待ってくれ。こっちから必ず掛けるから」

「ううん、いいよいいよ。また今度でいい。忙しいところ邪魔してごめん」

「いや、お前がよくても、オレがよくないの。オレは人の話、始まったら最後まで聞かないとモヤモヤするタチだから。知ってるだろ?」

「うん、まあそれは」

「だから、三十分だけ待ってくれ。こっちから掛けるから、必ず出ろよ。必ずな」

「うん、じゃあわかった。待ってる。あ、じゃあわたしシャワー浴びとくから、ゆっくりでいいよ」

僕は電話を切り、急いで着替えて家を出た。髪の毛が寝癖のままだったが、まあしょうがないと諦め、原付に乗って東に走った。

国道二号線をまっすぐ走る。

一人暮らしの玲子の部屋まで、二十分程度だった。

玲子はあまり人に甘えないオンナだった。そもそも甘えるということが好きではなく、甘えていいよというふうなことを言われても喜ばないオンナだった。逆に言うと、それよりも強くあれるときの自分が好きなオンナでもあった。オトコにやさしくされるよりは、オトコに惑いなく大きな気持ちで接されて、自分の中の気持ちが強く支えられ焚きつけられる、そういうことのほうが好きなオンナだった。

その玲子が、自分から僕に電話を掛けてくるのはごく珍しいことだった。珍しいことであり、それは玲子にとって何かしらのピンチの可能性を意味していた。夜は一人の時間を大切にする玲子が、自分から電話を掛けてきたという違和感、そのことから僕はアラートの可能性を嗅ぎ取ったのだ。

玲子の住むマンションの前に着くと、玲子の部屋からは蛍光灯の明かりが漏れていた。

「もしもし」

「あ、オレ。お待たせ」

「あ、はーい」

「着いたよ」

「え? ついた、って?」

「お前んちの前」

「……えー!? 何それ、ほんとに?」

「うん。ほらオレ、ストーキング初段持ってるから。ベランダから外覗いてみ」

「ええっと、って、それホントに? ダメだよわたし、今すっぴんだもん」

「いいじゃん。すっぴんか、じゃあその妖怪フェイスを見せてくれ。オレ走って逃げるから」

「えー、っていうか、どうしよう。今、ホントに家の前なんだよね?」

「うん。ってもまあアレだよ、だからって別にお前に出て来いってわけじゃないんだよ。だってお前って、こういうことされるの、アリはアリとか思いつつも、九割方ウザいって思う人だろ」

「……うーん、はい。そうです。よくご存知で」

「だからまぁ、試しに来てみただけだ。九割ウザくても、一割の例外がある」

「なるほど。なるほどっていうとアレだけど、なるほど」

「で、どした? 電話の話は」

「あ、はい。うーん、まあその、彼からまた、ダメ出しされたってことなんだけどね」

「うん。聞かせて。てゆうかその前に、お前ちゃんと髪乾かした?」

「あ、いやまだ。まだだけど、大丈夫だよ」

「カゼひくぞ。いいよ、オレそこのファミマに行ってるから、髪の毛乾かしたら出てくるなり電話してくるなりして」

「うーん、はい、わかった」

「で、どう。その今日の話と、玲子の気分は。会って、話す?」

「うーん。どうしよう」

「お前さ、こういうときに、義理で出てこなくていいからね。お前そういうのすごい気つかうし。玲子がそういう気分じゃなかったら、そのときはただオレの読みが外れたってだけなんだからね。そんときは電話でいいんだよ。ただまぁ、なんだ、お前が自分からオレに電話してくるってことは、何か思いつめてんじゃないかって思ってな」

「……うん。それはちょっとあった」

「でな、何かピンチなことになってるんなら、出てこいよ。そんときは会って話そ」

「うん、わかった。じゃ、ちょっと待っててくれる? 髪乾かして、あと部屋かたづける」

「お、それはいいな。またベランダで青春やるか」

「うん。こういうときはそれしかないね」

「じゃオレ、タバコの予備買ってくる。お前は? いつものピース、スーパーライトでいいの?」

「あ、タバコはまだあるからいいよ。ありがと」

「はいよ」

「あ、あと」

「ん?」

「来てくれて、ちょっとびっくりしたけど、実はちょっと嬉しかった。ありがと」

「そうだろ。いい読みしてただろ」

「うん。さすがだね。ってゆうか、来るなら来るって言ってくれたらよかったのに」

「行くって言ったら、お前百パー断るじゃん。とくにこういう、自分ネタのときにはさ、そこまでしてもらったら悪いとか言って絶対OKしないもん」

「そう、かもしれない」

「まあオレも、声聞いたら会いたくなったし、それにこういうのは不意打ちでやるから盛り上がるんだしね」

「そうだね」

「まあでも、こういうのはハズしたときが痛いよな」

「だね。まあでも、今日は実際アリな気分だったから成功だよ。ありがとうね」

「じゃ、またあとで」

僕と玲子はその夜、ベランダの地面に座り込んで、何時間ともなく話に耽った。二人でタバコをパカパカ吸いながら、愚痴のようなぼやきのような、それでいて新しい方向を探るような、当て所の無い話を続けた。玲子とそうしてベランダで話すのは二度目だった。一度目も、似たような話題で話し続けたことを覚えている。

玲子は頭がよく、努力家で、また実際何事につけ優秀なオンナでもあった。歌が抜群に上手く、その気になれば今からでもプロになれる力量があった。記憶力が異常によく、一度掛けた電話の番号をその日一日は覚えたままでいる。胸が大きくて格好が良く、足は細すぎず滑らかで色気がある。また、僕が入れ知恵する、こうすればオトコなんてすぐに動揺してちょろいもんだよ、みたいなことを実際にやってのけて、さらに応用して上達さえしてしまうオンナだった。

ただ玲子は、彼氏を選ぶことにかけてはあまりセンスがなかった。運がなかった、ということもあったかもしれない。玲子は人当たりがよく、初めはオトコ連中に好感触で受け取られるのだが、その玲子の多才さがあらわになってくると、オトコ連中はたいていがしり込みしてしまうのだった。そして結果的に、玲子はそのことにしり込みせず迫ってくるオトコと付き合うことになるのだが、玲子が選ぶそのオトコは、しり込みしないというよりは、単に無神経なだけだったり、傍若無人なだけだったりするのだった。

「別れるしか、ないのかな。やっぱり」

玲子はタバコの煙を吐き出しながら、自分に確かめるように言う。僕はそれについては何も言わなかった。

「なんでだろ。別れるってこと考えても、なんだかあまり悲しくない」

玲子は短くなったピースを灰皿の中にねじ込んだ。次の一本を取り出そうとして、吸いすぎか、と思ったのかそれを箱の中に戻す。

「そういう悲しさって、後から急に来たりするもんだよ」

「そうなの?」

「そうだね。悲しさって、感情だけどな、感情は、その原因の事象と同時に発生するとは限らないんだ。もっと複雑だ。原因の事象を体験したって、その体験を心として体験することを保留にすることもあるんだしな。って、なんかワケわかんないなこれじゃ」

「……ううん、なんとなくわかるよ」

その日は結局、空が青白んでくるまで話し続けた。

「じゃあ、オレそろそろ帰るね」

「うん。今日はありがとうね。原付で帰るの、大丈夫? 眠たかったら、ウチで寝ていってもいいよ?」

「んー? それもいいな。まあでも、それはやめとこう。このまま二人でベッドに寝転んだら、多分ヤッちゃうよ」

「うーん、まあ確かに」

「オレはお前とヤリたいけどね、相変わらず。まあでも、このまま流れでヤッちゃったら、お前もイヤがらないくせに、そのあともう二度と会ってくれなくなったりするんだろ?」

「うーん、そうなる、かも。いや、多分そうなる」

「な。困ったやつだよ」

「はーい、ごめんなさい。わたし困ったやつです」

玲子は性欲の豊かなオンナだった。僕と玲子は、まだセックスをしておらず、またこれから先もする予定はなかったのだが、その線はいつでも崩れそうな危険なものだとお互いに了解していた。その危険なところ、崩れそうなところを慰めるかのように、玲子は僕とキスすることについては受け入れてくれている。舌を深くからめるまで丁寧なキスをしながら、僕が玲子のカラダに触れても、玲子はそれにも抵抗はしない。カラダに触れられて、玲子は明らかにオンナの反応を示しさえする。そのまま僕が強引に押し倒せば、もう玲子の側も抵抗の気力を保ち得ないと、そのことまでお互いに了解しながら、僕と玲子はその崩壊の一線をぎりぎりに保ち続けているのだ。

「じゃ、今日はオレ帰るよ」

「うん。ホントありがとね」

玄関先で靴を穿いて、ドアノブに手を掛けたときに、玲子が何かを思い切ったように、

「ちょっと、待って」

と言った。

「ん?」

怪訝な表情をする僕に、玲子は照れくさそうに歩み寄ってきて、その両手で僕の頬を挟んだ。玲子が軽く背伸びをして、やさしく唇を重ねてくる。

キスは十数秒続いた。

僕は玲子の唇の感触と、そのやわらかい動きを楽しみながら、コイツはオレがどういうキスを好きか知ってくれてるんだなぁ、とうれしく思った。

「はい、じゃあね」

玲子は照れくささの表情のままに、キスを終えてそう笑顔を見せた。

「玲子からキスしてくれるなんて、初めてだな」

「うーん。だって、こういうときって、なんかそっちからキスしてこないじゃない?」

「ん? そうかな」

「うん。なんかね、ヘンに気つかってくれてるでしょ。なんていうか、わたしに断る権限がないときっていうか、そういうときって求めてこないよね」

「断る、権限。いや、その権限はいつだってあるだろ」

「いやさ、今日みたいなのはさ、わたしのためにわざわざ来てくれたわけだから、わたしの立場からしてみれば、迫られたら断れないじゃない? それで、そういうわたしが断れないときって、いつも求めてこないんだよ」

「そう、なのかな」

「うん。いつもそうだよ。ヘンな話だけど、いつも断られる余地がある前提で求めてくるよね」

「そうか。オレそんなことしてるのかな。確かにまあ、ぶっちゃけガマンしてるのはあったんだけど」

「うん。ガマンしてくれてたよね。それも見ててわかるから、なんかちょっとかわいかった」

「ちっ。なんだ、わかっててからかってたわけか」

「あははは、そうでーす。ガマンしてくれてるみたいだから、わたしからチューしたら、喜んでくれるかなって思って。恥ずかしかったけど」

僕はそのとき、その照れて笑う表情の奥に、玲子の心の深いはたらきを見たように思う。玲子は冗談めかしながら、僕の気持ちの本当のところ、生々しいところを汲み取ってくれて、さらにそれだけでなく、そこに捨て身めいて能動的に働きかけてさえくれたのだった。僕の中のささやかな、それでいて内心でいささか格闘はせねばならぬ類の葛藤、それを汲み取って、玲子は僕を解放するために、自分の唇をもってやさしさを与えてくれたのだ。

「ね、わたしキスはホントに拒絶する気ないから、ていうかもう拒絶する気とかとうの昔に打ち砕かれたから、気をつかってもらわなくていいよ」

「そっか。じゃあもう、あまり気にしないことにする。まあでも、断る断れないがどうこうって言っても、いつも求めるときはアレだ、オレはお前ごときではかわせないような思い切りの良さでいくから一緒だけどな」

「うん、それも知ってるよ。よくよくね。実際かわしきれてないんだから」

「そうだよな」

「うん。だからそこはそれでいいよ。それにこっちだって、求められないと寂しいときもあるし」

「そうか。じゃあ今、改めてこちらから求めようか?」

「あら、そうなる? うーん、それも悪くないかな」

「さてオレ帰るわ」

「あ、コラ。そういうのってオンナのコに対してヒドくない?」



■「思いやり」が持てないまま、「尽くすオンナ」を振舞ったら、それはキモいと言われてもしょうがない。

また自分の話をしてしまった。自分の話をネタにするしかないとはいえ、こういうときはいつもウワアアアという気分になる。要するに恥ずかしいのだ。まるで僕が自慢話をしているようで、読み返したりすると全て削除したくなってしまう。

まあでも、いいオンナの記憶は、僕の自慢といえば自慢なんだけどね。

それはいいとして、さて思いやりの話。

先の小話には、思いやりということの働き、その描写を混ぜ込んでおいたが、それはうまく読み取られただろうか。

僕の描写力についての批判はさておき、思いやりのある恋愛はステキだ。

思いやりがなければ、それはもう恋愛じゃない、という気さえしてくる。

あなたの恋愛はどうだろうか。

あなたの恋愛の物語、その登場人物であるあなたは、思いやりのあるオンナだろうか。

(思いやりの発想を手に入れたら、あなたは幸せになるよ)


***


思いやりについて、ずっと丁寧に話してきた。「思い」を「遣る」という話。「思い」を「遣る」ことなしに、思いやりっぽい振る舞いを続けても、それは「思いやりゾンビ」です、という話。「笠地蔵」に見る、思いやりの定義の話。思いやりというのは、「発想」であって、行動のコピーではないという話。そして、実際に僕が体験した、思いやりのあるオンナとの一夜の話。

ずっと話し続けてもキリがないので、最後のこととして、思いやりということの能力、そして知恵と経験と技術、ということについて話すことにする。

思いやりの「能力」とは何か。それは第一に、「他者性」だ。「他者」を認識する能力なしに、思いやりの機能は成立しない。

それはまあ、当たり前の話ではある。なにしろ、相手に「思い」を「遣る」という営為なのだから、「相手」という「他者」を認識できなければ、そもそも思いを遣るもへったくれもないわけである。

この他者性というのは、要するに世界には「自分」がいて、そのほかに「他者」がいるという知覚のことなのだが、このことがそもそも、後天的に身に付ける「能力」だということがあまり知られていないような気がする。

それについて、確認のため話してみる。これは心理学において、実験で確かめられている話なのだ。生きものはどの段階で、他者性を学習しているのか。三歳児の、サルを使った実験。

実験1。

まず二匹のサル、AとBを、向かい合わせにしておく。

そして、Bの背後から、サルにとっては「敵」である、獣医を近づかせる。

それを見たAは、警告音をキーッと発する。そして逃げようと暴れだす。Bは警告音を受けて、同じように逃げようと暴れだす。

実験2。

まず二匹のサル、AとBを、隣り合わせにしておく。

そして、二匹の前方から、サルにとっては「敵」である、獣医を近づかせる。

それを見たAとBは、逃げようと暴れだす。警告音は発さない。

実験は以上。

この実験と結果、何を意味するものか、わかってもらえるだろうか?

この実験においては、まず実験1の場合、Aは敵の接近を受けて、警告音を発している。なぜ警告音を発したかというと、その敵の接近が、Bにとっては背後からの接近であり、Bには認識されていないということを、Aは認識できるからだ。

「おいお前、後ろから獣医が来たぞ! お前見えてないだろ!」

そういう意味合いで、Aは警告音を発したのである。もちろん、実験2においては、お互いが同じ方向を向いているので、Aは警告は不要と判断し、警告音を発していない。

すなわち、Aは「Bの立場」を想像することができるということで、三歳児のサルには相手の立場に立つ能力がある、ということをこの実験結果は示しているわけだ。

そしてまた、これと似たような実験を、人間の三歳児にやるとどうなるか?

なんと、人間で実験した場合は、人間の三歳児にはまだ相手の立場に立つ能力が無い、という実験結果が得られるのだ。

(人間の三歳児についての具体的な実験方法は正確に覚えてない。申し訳ない)

この実験から何が言えるかといえば、三歳児の時点で比較すると、人間よりサルのほうが「オトナ」なのだということだ。それはすなわち、「知能の高さ」と「他者性の学習」は別モノという知見でもあるだろう。そして、「他者性」という能力が、先天性のものでなく、後天的に学習するもの、ということもわかってくる。

「相手の立場に立つ」というのは、知能の高さとは別個の、学習して身に付ける能力なのだ。


***


思いやりのための前提能力として、「他者性」がある。そしてそれが、生きものとして後天的に学習するものだとして。

ここで僕は、はっきり言っておきたい。

僕たちは、この「他者性」について、まったく未熟だ。

これは、多神教国の日本だからとか、甘えの文化の日本だからとか、そういう背景もあるとは思うが、そんなことはどうでもよく、とにかく僕たちには「他者性」がない。

もしあなたが、自分には「他者性」があると思っていたら、そういうあなたこそ一番危ない、と僕は警告しておきたい。

それぐらい、成熟した「他者性」を持っている人は、僕たちの周りに少ないのである。

「他者性」の未熟が、実際生活においてどのように現れるか?

それについて説明するならば、たとえば僕が掲示板でやっている、恋愛相談なんかにもそれは見て取られる。

「クラスメートのことを好きになってしまったんですが……」

そういう話があったとして、自分の年齢を書いていない人がたまにいる。たまにというか、けっこういる。

年齢を書いてなければ、そのクラスメートというのが、小学校か中学校か高校か予備校か大学か、僕には判断できないわけだ。

それは当たり前のことなのに、そのことに気づかない人はいくらでもいる。

「他者性」が無いのだ。

話を受ける側に立って考えてみれば、「っていうかアンタ何歳よ?」という疑問はコンマ五秒で湧いてくるのに、そのことができない人がいるのだ。

そのレベルで「他者性」が無い人は、本当にごろごろいる。

あなたの周りにもいるだろう。

遅刻するのに前もって連絡してこない人。仕事で意味不明な指示を出してくる課長。人の話を最後まで聞かない人。歩いていていきなり立ち止まるおばさん。エスカレーターの終わりで溜まっているギャル。後方を確認せず車線変更するドライバー。久しぶりのメールでいきなり週末デートに誘ってくるオトコ。セックスで寝転んでいるだけのオンナ。レバノンを攻撃するイスラエルをただの戦争好きのバカとしか思えない人。北朝鮮とか意味わかんないし戦争はダメだから経済制裁したらいいじゃんと言い放つ人。

(注……死にかけの国に致命的な経済制裁をかけるのはほとんど戦争行為と同じだ。ついでに、戦争で死ぬのは基本的に兵士だが経済制裁で飢え死にするのは無辜の民衆だという話。うまく軍事費だけを対象に制裁できれば別だけど……)

そういう人たちは、まあ要するに他者性については三歳児のサル以下の人たちなのだが、そういう人たちが僕たちの周りには決して少なくない。

僕たちはこのことを、本当に真剣に自己反省しなくてはならない、と僕は最近強く感じているのだ。

僕たちには、ホントに「他者性」が無い。

無いのだよ、ホントに。

(オレら、ホントにバカになってるよ)


***


思いやりの「知恵と経験と技術」について。

思いやりというのは「技術」でもある。相手の言葉や振る舞い、相手のいる状況や、ときおり見せる表情、そのあたりから相手の本当の思いを洞察する、そういう技術の営為であり、また一方で、そこからどのようにして「能動的・具体的」に働きかけるか、そしてどのように「やさしさを実現」するか、そのことの技術の営為、知恵と経験に裏打ちされた技術の営為でもあるのだ。

このあたり、「笠地蔵」の話であれば、そこにさしたる技術など必要ないのだが、人と人との関わりは、残念ながら少女とお地蔵様の関わりほど単純ではありえない。

「お前にはわからないだろうけどさ、今こうやって仕事が連日キツくてさ、ほとんど毎日終電で帰ってきて、それでもウチの部は赤字のまま、要するにそれはもう部が赤字体質だからしょうがないということなんだけど、その中でコキ使われてると、そこにやりがいは無いではないけど、オレの生きがいってなんだったんだろうって、そのことがアタマから離れなくなるんだ」

たとえばあなたの彼が、このように苦しそうにあなたにこぼしたとしたら、あなたは具体的にどうするのだろう。

具体的にどうする、ということについては技術が要る。

技術がないと、まず「大変なんだなぁ」「悩んでいるんだなぁ」としか、相手の立場を想像できないし、そこから働きかけるにしても、「仕事辞めたら?」とか「がんばって!」とか、そういうアホウの発言しかできないことになるのだ。

残念ながら、そこにいくら善意があっても、無効なときは無効だし、逆効果のときは逆効果にさえなりえてしまう。

ここで例えば、技術のあるオンナなら、

「仕事のことって、ホントにわたしにはわからなくてゴメンなんだけど、なんというか、『考えどき』なのかな。わたしはそれに口出しできないけど……でもなんていうか、まだ何のローンも組んでないから、そこはよかったよね。生きがいのこと、ちゃんと考えられるもんね。やりがいと生きがいが違うなんて、わたし考えたこともなかったけど、○○君はそんなところまで意識が高まってるんだね、そういうのオトコとしてカッコいいと思うよ」

と笑いかけて、後は彼の答えが出てくるのを静かに待つ構えで、たとえばひたすら彼のカラダをマッサージしてあげたり、食事を用意してあげたり、彼が望むなら口で抜いてあげたりするわけだ。実際に人は、そういうことで癒され、励まされ、勇気付けられる。

無知無能のままでは、いくら善意があっても、思いやりを実現することなんてできないのだ。

なんとなく、僕が残酷なことを言ってオンナのコに嫌われていっている気がする。が、もうこのことは事実なのだからしょうがない。

初めに言ったように、「思いやり」とは能力と技術のいる、すなわちオトナの心の機能であって、お子ちゃまでは実現できない営為なのだ。

そういうことで、コドモはコドモである以上、どうしても思いやりが持てないわけだけど。

あなたは、思いやりが持てる人だろうか。

あなたは自分のことを、コドモだなぁと、こっそり甘やかしたりしていないだろうか?


***


嫌われついでに、もう一つ言ってしまおう。

「わたし、けっこう尽くすタイプなんですよ」

と、そのことを自称するオンナは結構多い。

結構多いが、その中で、他者性があり、心の機能が成熟している、要するに「思いやり」を持っている人はかなり少ない。

そういう人はたいてい、「わたし彼に尽くしてる」と思いながら、「思い」を「自分」から取り外す試みをしていない。

「思い」を彼に「遣る」ことなしに、何か善意的なことを相手に押し付けているのだ。

そして、

「尽くすんだけど、尽くしすぎて、『重い』って言われちゃってー」

と、そういうケースを繰り返してしまうことになる。

そういう人がもしいたら、その人は早く目を覚まさなくてはならない。

あなたの「尽くす」は、まったく「思いやり」になっていない。

「重い」と言われるのは、まだ彼の側にやさしさがあり、あなたを傷つけたくないという意図から、言葉をごまかしてそう言っているだけのことなのだ。

「色々してくれるけど、別に思いやりあるなぁって感じはしないし、なんかむしろ独りよがりでキモいっていうか、関わっていてこのコどーなのって、ちょっとコワいっていうか。『尽くすオンナ』をやりたがってるというのはわかるけど、なんかそれにつき合わされるのはちょっとね、オレとしてはカンベンしてほしい」

本当は彼はそう言いたいのだが、なかなかそうは言えず、「重い」と世間的に認知されている言葉でまとめようとしているだけなのだ。

あー、ここまで言ったら、深刻に嫌われるな。

まあでも、これはホントのことなのだからしょうがない。

大事なのは「思いやり」だ。

「思いやり」が持てないまま、「尽くすオンナ」を振舞ったら、それはキモいと言われてもしょうがない。

どうせ目指すなら、「尽くすオンナ」なんていかがわしいものじゃなく、「思いやりのある人」を堂々と目指せばいい。

「尽くすオンナ」というのは、どこか湿っぽくて粘着的だ。

「思いやりのある人」は、もっと凛々しくて、清潔感があるじゃないか。


***


今回の話は、このへんで。

思いやりということについて、こまごまと話してみた。

伝わったかどうか、怪しいけど、とりあえず僕に話せるのはここまでしかない。

何かひとつでも、伝わっていればうれしいな。

いろいろ話したけど、とにかく、思いやりの無い人はイヤだね。

特に恋愛においては。

せっかく身も心もハマるなら、思いやりのあるオンナと、底の底までハマってしまいたいと僕は思う。

思いやりのないオンナと交わるなんて、というか思いやりのない人と交わるなんて、考えるだけでグッタリするものな……

(事実、書きながら何度もグッタリした)

思いやりということは、プリミティブなことだけど、精密に考えると案外難しく、また実際に実現しようとするとこれまた難しいものだったりする。

難しくて、ときに人は、そのことに混乱してしまったりする。

で、混乱した人は、相手に思いやりを向けるつもりで、結果的には相手の立場に立てないうちに一方通行の思いをぶつけてしまい、粘着的な「尽くすオンナ」になってしまったりする。

世の中には、マジメで善意的なオンナのコが多いから、とくにそういうタイプのコは多いのじゃないかな。

そういうタイプは損をするから、どうか早めに、気づいてくれればいいと僕は思うのだけど……

ええと、最後まで、伝わるかどうかよくわからないことを言ってしまおう。

思いやりとは、なんであれ、まず自意識から手を離すことなのだ。

自分がどうであるとか、自分がどう見られているとか、自分がどう感じるとか、そういうことからいったん手を離す。

そして、相手はどうであるか、相手はどう見ているか、相手はどう感じるか、そのことに意識の核をスライドさせるのだ。

その先に、思いやりは自然発生する。

そこに生まれる思いやりは、粘着性がなく、もっと穏やかで凛々しく、清潔なものだ。

ここで、カンのいい人は気づいてくれたんじゃないかな。

「ノーブラで堂々としてて、思いやりのあるコ」

そのことにある、自意識からの離脱、凛々しさと清潔感、そのあたりの含みを、感じてくれた人はきっといるだろう。

僕が言いたいのは、結局それです。それだけです。

ではでは、今回はこのへんで。

またね。



→九折さんにアンケートを送ってあげる
→九折さんにメールしてあげる




恋愛偏差値アップのコラムに戻る
出会いと恋愛のtopへ戻る