恋愛偏差値アップのコラム









恋愛の鮮度限界






八月の中旬、実家に帰省した折に、物置の整理をした。物置の中から、土ぼこりにまみれた「ルームランナー」が出てきた。

「ルームランナー」とは、外見は体重計を平たく押し広げたような形をした、その上で足踏みをすれば「あなたは○○メートル」走りました」と表示される、一時期流行した健康器具である。中高生の人たちなんかは、その商品名をおぼろに知ってはいても、家庭用のそれとしての実物を見たことがある人は少ないだろう。

僕はその旧時代の遺物めいた「ルームランナー」を見て、幼かった時分の記憶を甦らせた。家族生活の中に、流行の新製品としての「ルームランナー」が持ち込まれたとき、家族はもの珍しさから先を競ってその上で足踏みをしたものだった。もちろん、そのような器具の上で足踏みをするなどといった退屈な運動が継続されるはずもなく、数週間もしないうちに、「ルームランナー」は部屋の隅へと追いやられたのだけれども・・・。

人間、新しいものにはとりあえずの興味が湧くものである。それはあまりに自明のことだから論考の必要もないだろう。かつてルームランナーをもてはやした家族らの動機は、ルームランニングへの興味ではなく、ただ「新しいもの」への興味にすぎなかった。

僕はこの人間の興味の性質について、それは対人関係、人と人の関わりについても同様のことが言えるものだと思う。すなわち、「新しい人」「新しい関係」「新しい出会い」にも、人はとりあえずの興味が湧くものなのだ。

僕が色んな人から伺う恋愛の話で、ある種のパターンを見出したくなる、そういうタイプの話がある。典型的に言うと、こんな感じだ。

―――彼とはコンパで知り合い、メール交換をする仲になりました。そのうちに、お互い会おうかという話になって、二回デートをしました。でも、そこから進展しないんです。最近はメール交換も疎になりつつあります・・・。

僕としてこのような話を伺うと、それはいかにもありそうな話だという納得とともに、興味の賞味期限が切れたのかもなぁ、という思いも湧くのである。彼と彼女は、その関係の「新しさ」ゆえにお互いに興味を持ったものの、ふと気づけば、今はもう「新しさ」の感覚は消えつつある中で、お互いに人として分かりあったというわけでもない、親しいかといえばそうでもないという手ごたえが残っている・・・。

「興味の賞味期限切れ」。そのような考え方はどこか殺伐としていて冷酷だと、僕自身思われもするのだけれど、実際のこととしてそのような「興味の賞味期限」というのはあるものだ。人と人との関係には、その新鮮さ、鮮度というパラメーターがあるのである。僕たちは、その鮮度が落ちないうちに、きずなやつながりというものを作り上げなくてはならないのだ。


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僕自身のこととして思い返してみても、例えばプッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」、そのエキストラとして舞台に立つことになってとき、同様にエキストラとしてそこにいた女性と知り合い、後に彼女をデートに誘うようなことがあったわけだが、その彼女との関係は、二回の安穏としたデートの後、それこそ楽曲がディミヌエンドするように自然消滅した。お互いそのデートで、特にそりが合わぬというようなことを感じたわけでもなかったのだが、ふと気づいたときにはいつのまにか、お互い相手を呼び出すまでの理由がないと感じられる、もし呼び出したとしてもどうにもやりにくさだけを予感してしまう、というような状態になっていたのである。思えば、かつて彼女が僕の呼び出しに応じてくれたのは、その出会いの鮮度が主たる動機だったのだろう。僕はそのことに気づかず、二回のデートで積み重ねるべきもの―――ここでは単に、「親しさ」ということにしておく―――を積み重ねず、ただその鮮度のみを低下させてしまったのだ。

あなたが想いの彼を、ついにデートに呼び出せたとして、そのデートは必ずしも関係を深めるものだとは限らない。そのことを心の端にとどめておくことが、案外現実的には大事なことだと僕などには思われる。鮮度というパラメーターは、当然のことながら自然低下していくものなので、そこで積み重ねるべき親しさを積み重ねないと、むしろ関係を深めるという目的からはマイナスにさえなりうるのだ。


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あなたが思いの彼にアプローチする。それは最近では携帯メールからスタートするのがスタンダードなところだが、さてそこから[メール→電話→デートの呼び出し→仲良し]と進行するとして、その具体的な賞味期限、鮮度の限界はどのくらいだろうか。これは当然、その個人と環境によってケースバイケースだけれども、あえて一般論としてのおおよその数字を考えてみることにしよう。

まず、[メール→電話]のタームについて。これについては、せいぜい鮮度限界一ヶ月、というところではないだろうか。二日に一回ぐらいのペースでたわいないメールを送るとして、一ヶ月で十五回(もちろん一回の機会に数通のやりとりがある場合はあるにして)。どうだろう、僕の感覚としては、一ヶ月以上メール交換だけということになると、メル友としての関係が固着してしまう、あるいはメールを送るにしてその話題も尽きてしまう、という方向が濃厚になってしまうように思う。

次に、[電話→デートの呼び出し]のタームについて。これについての鮮度限界は、電話五回というのが僕の感覚である。これが五回を超え、十回二十回ということになってから呼び出しをかけると、「言い出しにくかったけれどついに言った」という雰囲気が出てしまう。あるいは、「もうお互い、十分に話しちゃったかもだけど。なんかもう電話でも、ちょっと話題がないぐらいだし・・・」と思われてしまう、そのような方向が濃厚になってしまうように思う。

最後に、[デート→仲良し]のタームについて。これについての鮮度限界は、デート三回というように僕は思う。三回のデートを重ねて、お互い内心で、特に関係は深まっていないなと感じられるようなとき、不思議とお互い、デートに誘う側も誘いづらければ、受ける側も受けづらい、という気分になるものである。

と、ひとまず僕の感覚だけを頼りに、数字を無理やり提示してみた。もちろんこれは、実際にはケースバイケースになるわけだが、それでも一応の目安にはなるのでないかと思う。メールは一ヶ月の制限で、その中で電話する機会を作る。電話は五回の制限で、その中でデートに誘う。デートはひとまず三回の制限で、お互い仲良しの実感が生まれるまで、親しさを積み重ねる。そのような鮮度限界を意識してアクションしていくのは、現実的に有効だと僕は思う。


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また補足として、次のことも付け足しておこう。恋愛に鮮度限界があるとして、時にはその鮮度を賦活(フカツ)することができる場合がある。例えば、半年来メル友となってしまっていた彼に、「元カレと、ついに縁を切りました」というようなメールを改めて送るような場合。このような、環境としての新展開があった場合、その新しさによって鮮度がある程度賦活されうる。具体的に言うと、この場合なら「でも鳴らなくなったケータイが微妙に寂しいです。よければ少し、話し相手になってくれませんか」というような発信を自然にできるということだ。

この「鮮度の賦活」について、僕自身の体験したことを直接に示してみよう。僕はその彼女から、いくらか久しぶりのこととしてメールを受け取ったのだ。僕と彼女は、大学の構内で偶然会う以外は、電話で何回となく話したというだけの関係だった。お互いその電話での会話に慣れすぎ、会話の途中であくびも出るというような状態だったので、お互い気づいたときには、改まってデートに呼び出すというのは今さらしにくい、というようになっていたのだけれども・・・。

>ネイルアートに挑戦してみた☆どっちがかわいい?

メールの文言はそれだけで、添付ファイルには彼女の左手指先がアップになって写されていた。人差し指にはマリンブルーのネイルアート、中指には夕焼けをモチーフにしたと思われる、オレンジ基調のグラデーションがあった。

僕の知るところの彼女は、あまりそのような乙女らしいことをしない女だったので、僕はごく自然に、おや珍しい、と思わされたのである。

以降のメール、やりとは次のようであった。

>サンセットのほうがすてき。ってゆうか、めんどくさがりのお前がそんなことをするとは意外だな。風邪引いて熱でも出てるのか。
>ちょっとね、最近いろいろあって、反省することにしたの。あたし今までひねくれてたけれど、これからは素直にオンナのコしようって思って。
>ほほう、それはいいコトだ。が、それはオメー、全部の指を塗り終わってから言え。
>ぐっ、言われてしまった・・・。この夕焼け色、実は超時間かかるんだよね。
>おっ、もう投げ出すか。早っ。
>いえいえ、オンナなのでキレイには時間をかけます。夕焼け色、全部きれいに塗ったら、デートにエスコートしてくださる?
>その時は、言われなくても。ただし、友達とか、別の人に塗ってもらうのは禁止な。
>あ、作戦バレてたか。わかりました、自力で挑戦します。
>左手で右手を塗るのは、苦労しそうだな・・・。

このようなやりとりがあって、僕として新しい気分で彼女とデートにするということが実際にあったわけだった。これは僕として記憶する鮮度の賦活の実際例だったわけだが、もしあなたがその鮮度の賦活を必要としている状況であれば、これをヒントにしてあなたなりのアイディアを導き出せるかもしれない。例えば、「パーマかけてピアスあけてみました」「夜にバイトすることにしました」「将来の夢ができたので勉強を始めました」などなど。もちろんこれは、彼に新鮮さの印象を与えうるだけの、今までの自分を打ち壊す類のもの、かつ明るく前向きなものでなくてはならないわけであるから、それぞれそれなりに、容易なものではなかったりする。それは、思い切って言い換えてみれば、あなた自身にとっても新鮮だと感じられるものであるはずだ、ということにもなるだろう・・・。


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人間は、新しいものにとりあえずの興味を抱く。その性質によって、僕たちの恋愛のスタート時点、そのアプローチは、相手に思いがけず前向きに受け取ってもらえることがあるものだ。しかし僕たちは一方で、その鮮度が低下しきってしまわないうちに、次のステップへのトライを行わなくてはならないのでもある。そのトライが上手くなしえぬまま、鮮度限界が過ぎてしまったら、今度はその鮮度を賦活する手立てを考えねばならぬ。

恋愛の鮮度限界。そのような、期限に追い立てられるような恋愛は息苦しくてイヤだ、という人もいるかもしれない。しかし僕としては、そのような鮮度限界というのは実際にあるのであって、それに間に合わせるようにアクションしていくこと、怠惰にならず臆病にならず相手に近づこうとしてゆくことこそが、真剣に恋に向き合うということであるように思えるのだ。僕たちはそれぞれに、有限の時間で、有限の物語を生きているのである以上は。

恋愛には、鮮度限界がある。

鮮度は自然に、落ちていっています。



参考になりましたら幸いです。





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