恋愛偏差値アップのコラム









恋愛の思想(前編)






このあいだ、24時間営業のモスバーガーで、ある女性とお話する機会があった。23歳のホステス嬢。23歳という年齢が本当かどうかはわからなかったが、銀座の六丁目でホステスをやっているというのは本当だっただろう、彼女は外見だけで明らかにそれと分かる身なり―――ドレープをたっぷり取った、光沢のあるダークレッドのワンピース、その肩から背中にかけてが大胆に露出、という姿―――をしており、またその顔かたちも人並み外れて整っていた。釈由美子をやや面長にした感じの顔に、ブラウンの髪は軽く縦ロールしたセミロングで、一人でシェイクを飲みながらホットペッパーをつまらなさそうに眺めていた。時刻は、ちょうど誰もが終電を諦めたころである。

僕が彼女に話しかけたのは、まったく偶然のこと。たまたま震度3程度の地震があって、僕はトレイをもって歩いていたところを立ち止まり、あ、地震だ、とつぶやいた。それを受けて彼女は、地震だね、と、同じくつぶやくように言ったのだった。周りには他に一組の客しかおらず、その一組も韓国語で会話していた。

そこでやめておけばいいものを、余計なことを言い足してしまうのが僕の性質である。

「机の下、隠れますか」
「・・・いや、隠れないっしょ。てゆうかそれって、すっごい懐かしいね」

彼女はそう言って、プロのそれをうかがわせる、上手な笑顔、それでいて気の強そうな、隙の無い笑顔を示した。そこから、地震、恐いっすねえ。うん、そうだね、恐いね。というような会話を交わして、僕は阪神淡路大震災の時の経験から、ホントにデカい地震が来るときは、揺れの前にすんごい地鳴りが聞こえるんすよ、ズゴゴゴゴって、地獄の底から鳴るような音、というような話をした。ついでに、そんだけ地鳴りがしてるのに、そん時ウチの犬はガン寝したままだったし、というようなことも話した。彼女は笑った。その笑いは無邪気なものなのか職業的・意識的なものなのか、俄かに僕には見極められない。それだけに、やはり彼女の笑いはプロの笑いだった。

僕と彼女は相席した。僕がそれを希望すると、彼女はごく手慣れた調子でそれを受け入れてくれたのだ。僕は着席すると早々に、すっごいべっぴんさんですけど、プロの方っすよね、と確認した。返答はイエスだった。彼女は銀座で働いていて、日給四万円を稼いでいるホステスだった。日給四万円ということは、銀座のホステスの中でもやり手の部類に入る。見た目からはどっちかというと六本木系に見えましたけどね、と僕が言うと、ついこないだまで六本木にいたよ、最近銀座に移ったの、と彼女は言った。銀座も六本木もクラブ街としては一等地だが、一般的には六本木のほうがホステスの年齢が若く、またメディア系を意識した風貌の人が多い。

彼女は、いわゆるアフター、要するに店に来たお客さんと店外デートの約束があって、その時間まで時間つぶしをしているのだということだった。今日は体調的にお酒飲めない日だったから、早めに上がってきたの、というようなことを彼女は話した。今日のデートのお相手はと尋ねると、もう結構トシだけど、インサイダーでばりばりに稼いでる人だよ、と彼女は言った。

彼女は僕に、何してる人なの、と尋ねてきたので、僕は正直に自分のことを話した。モノ書きになりたい、そのために毎日努力したり挫折したりしているということ。ひとまず今の僕にはそのことしかない。僕はその話の中で、わざとらしくならないように気を配りながら、自分が国立大学の理系卒ということ、また昨年まで総合商社にいたということ、また住職の長男でゆくゆくは跡継ぎであるということにも触れておいた。これは別に自慢話をしたかったわけではない。一等地に勤めるホステス嬢と話をするなら、せめてそれぐらいの肩書きは出しておかなくてはろくに口も聞いてもらえないからだ。特に銀座や六本木はそんなにぬるいエリアではなく、学歴も社会的地位も収入もありませんが気立てはいい人間です、というような人間はまったく通用しない。よっぽど外見が秀でていない限りは、平たく言って無視される。それがいいことか悪いことかはさておいて、とりあえず彼女はそういう世界で生きているのだ。銀座や六本木の会員制クラブにいくと、民主党のリーダー格やアパレル大手の副社長や暴力団の幹部や25歳で既に資産家になった実業家や元ラスベガスのバウンサー(用心棒)というような人に会うことがあるが、そのような人たちと比べられるからには僕の肩書きなどまったくザコのもので、せいぜい誇張気味に言わねばやはり口もきいてもらえないものなのだ。(このことは、ホステスさんを口説くつもりのオトコは知っておいたほうがいいかもしれない)

彼女とは二時間ばかり話をした。彼女は銀座づとめで、僕は銀座のバー、というよりはモルト屋にある程度詳しかったので、そのあたりの話が中心になった。銀座は世界一スコッチの品揃えがいいエリアで―――蒸留所の工場長に言わせると、スコットランド当地のバーより品揃えがいいらしいんだよ―――、僕の知っているだけでも店内全体にモルトの匂いが染み込んでいるステキなモルト屋が三軒はある、そこにはアフターで女の子連れてきているおじさんもたまにいるけど、そういうところで高い金出して山崎の三十年とか水割りで飲むオジサンはどうかしてるよ、ゴードンマクフェイルの1950マッカランをニートで飲んだほうが同じ値段ではるかに美味しいのに、というような話を僕がすると、彼女はスコッチには詳しくなかったけれども、わたしも店に来てロマネコンティとか注文する人はバカなんじゃないかと思う、高いばっかりでそんなに美味しいと思わないし、という話をした。彼女は日常的にドンペリニョンのロゼやロマネコンティを飲んでいるとのことだったが、ペトリュスは飲んだことがあるかと聞いてみると、ペトリュスって何?と言った。ロマネコンティとか飲むつもりなら、温度調節したセラーで最低一週間は休ませてからにしないと味の端っこがボケて美味しくなくなるよ、と僕が言うと、彼女は、そうなんだ、じゃあウチの店は普通に冷蔵庫に放り込んであるだけだからダメだね、と言った。

気がつくと、韓国人の二人組はいなくなっていて、喫煙席のエリアには僕と彼女しかいなくなっていた。彼女は細長いメンソールのタバコに火をつけて、ため息のようにその煙を吐き出した。安物のスピーカーから、どうでもいいようなジャズがどうでもいい音量で流れている。僕は彼女に、彼女の仕事の話を聞いた。彼女は、仕事は楽しい、けど、奥さんがいるのにお店で一晩に十万も二十万も使う男ってどうかと思う、わたしはそういう男とは絶対付き合ったり結婚したりしたくない、と言った。僕は彼女に、あれ、結婚とかって考えてるんだ?と聞いた。彼女は、わたしは早く結婚したいよ、マジ早く結婚したい、と強い調子で言った。

毎晩夜の銀座でやり手の男たちを接待している彼女の、その結婚願望というところに少し興味を引かれたので、そこに話を振ってみた。

―――「そういう男」とは絶対付き合いたくない、結婚したくないということは、お店で出会う人とは、そういう展開は考えられないってことになるのかな。そもそもそのお店には、「そういう男」が来るわけだから・・・。

僕がそういうと、彼女はなぜか目を丸くして、

―――そっか。そうだね、そういうことになるね。

と言って一人納得するように頷いた。僕は彼女の反応を奇妙なものに感じながら、

―――となると、早く結婚したいにしても、どういうふうにオトコに出会って、どういうふうに恋をして、どういうふうに結婚に至ればいいんだろうね?もちろん、それだけ美人で、そのへんの男よりも収入あるわけだから、高望みは致しませんってわけにもいかないだろうし。

と言った。僕がそう言うと、彼女はしばらく押し黙ってから、

―――さあ?わかんない。

と言ってタバコの煙をため息のように吐いた。彼女は僕の目から視線を外さない。彼女は自分の顔にまとわりついたタバコの煙を手で振り払った。

僕はいくらか居心地の悪さを感じながら、

―――・・・まあ、そもそもあれだね、何のために結婚するかということによって、その辺は変わってくるね。今の自分としては、何のために結婚するんだ、と考えてる?

と尋ねた。しかしそれについても彼女は、一拍の沈黙の後、

―――うーん、さあ?わかんない。

と言った。

彼女がどのような結婚をするか、それがどのような出会いとどのような恋愛を経るものになるか、それは本来僕にはまったく関係の無いことである。僕は興味が無いというわけではないにせよ、無理やりに聞きだしたいほど興味があるわけではない。

とはいえ僕としては、毎晩ドレスを着てやり手の男たちを接待している彼女のことであるから、そこに何かしらの洗練なり成熟なりを持った、僕のようにのんきに生きている人間とは違う、恋愛と結婚の思想があるのではないかと期待したのだ。それについて彼女が、わかんない、とあっけらかんと言ってしまったのは、正直僕としては拍子抜けだった。内心に湧き上がった気持ちをそのまま言葉にしたならば、―――わかんないって、なんだそりゃ、君は毎晩オトコ相手に何してるんだよ、という具合になっただろう。

まあここでは、彼女としては単に見ず知らずの僕にそのようなことを話して聞かせてやるつもりはない、ということだったのかもしれない。とにかく、その話はその彼女の―――さあ?わかんない。という言葉で打ち止めになった。

僕はここで素直に、話題を変えようか、と申し出た。

―――話題、変えよっか。なんかあれだ、ヘンなこと聞いて、気分悪くさせたんならごめんね。別の話にしよう。

僕がそのように申し出ると、彼女は思いがけない反応を示した。細い首を、急に激しく横に振る。

―――ううん、違う違う。もうちょっと、今の話してよ。

彼女は小さい咳払いを一つしてから、次のようにも言い足した。それは僕の意表を突くものだった。

―――わたし今、わりと真剣に考えてたの。ほら、普段はさ、そういう話って真面目にしないからさ。

僕はこの彼女の言葉が、どこまで本心のものかわからない。僕はホステスという仕事は大変な仕事だと思うし、本物のホステスが持っているプロ意識というのはかっこいいものだとも思っているので、ホステスがホステスであると名乗ったときは、その言葉が100%ウソであってもいいと思っている。それでこそプロだと思うし、本音で話されたりしたらむしろ興ざめだとさえ思う。

これは僕個人の完全な私見だが、ホステスは虚構をつくるオンナ、それでオトコを楽しませるオンナであって、彼女らはその虚構の中で生き、その虚構の中で死んでいってほしいとさえ思うのだ。

しかしこのときの彼女の言葉は、その声色や表情からして、ひょっとしたら本心も含まれているのかもしれない、と感じさせるものだった。

―――話してよ、って言われても、俺は別にたいした経験も哲学も持ってないよ。ただ俺はさ、第一線でホステスやってる人が、オトコとどういう物語を作っていくものなのかなって、それを聞きたかっただけなんだから。

僕は半ば逃げを打つ具合にそう言ってみたのだったが、彼女はまた思いがけない食い下がり方をした。

―――モノガタリ?なんか、すごい考え方だね。モノガタリとかって、わたしは考えたことなかったよ。

彼女はそう言って二本目のタバコに火をつけ、話を促す視線を僕に向けた。

僕はその視線に少し気圧されながら、百戦錬磨の彼女に、恋がどうだの愛がどうだのと、僕が話すのはまったくバカげているな、と思った。そして、できればそんなことはしたくないよ、と思った。

しかし彼女は、本当に僕の話を待つ姿勢だった。


***


そんなことが、深夜のモスバーガーであったわけだった。今になって思い返してみても、銀座で毎晩オトコを接待している美しいオンナが恋愛の思想を持っていないなんて、そんなことがあったらまったくバカげていると改めて思う。

とはいえ、恋愛の思想を持っていない人が、最近は男女を問わずたくさんいるようだ。最近はとは言ったものの、昔はどうだったのかよく知らない。昔からそういう人はたくさんいたのかもしれないけど。

恋愛には思想が要る。

思想のない恋愛はつまらない。

「恋愛の思想」。こういう言葉を使うと、即座にこういう反応が返ってくることを僕は予想する。

―――恋愛とかってさ、思想でやるものじゃないよ。もっと自然な気持ちでするものだよ。

そういう反応をする人は、「思想」という言葉を僕とは違った意味合いで捉えている。僕がここで言う「思想」は、ロジックや演繹的思考のことを指すのではない。恋愛を自然な気持ちでやるとして、その気持ちがどのような方向で生まれ育っていくか、その方向性のことを僕は思想と呼んでいる。

このあたりでややこしくなっても意味がないので、簡単に説明しよう。例えば、僕たちは食事の前に、手を合わせて「いただきます」と言うし、食べ終われば「ごちそうさま」と言う。そして食べ物を残すと「もったいない」と思う。このことでさえ、思想といえば思想なのだ。これは決して人間の本能ではない。だからこれらの言葉を和英辞書で調べても、それに完全に当てはまる英単語は載っていない。これは日本の―――遡っていくと神道に突き当たるのだけれども―――伝統と文化によって育てられた、僕たちの「思想」なのだ。僕たちは食事の前に、ごく自然に「いただきます」という気持ちになるし、食べ物をゴミ箱に捨てるとごく自然に「もったいない」という気持ちになる。

学術的に精密に考えるならもっと厳密な定義が必要なのかもしれないのだけれども、とりあえずここでは、そのような自然な気持ちの起こり方、そのことを「思想」と呼ぶことにしよう。

僕たちは、この「思想」によって、気づかないうちに物事の見方を大きく支えられているところがある。例えば柔道の試合では、戦う前に必ず互いに正式に一礼、また試合後にも必ず互いに正式に一礼するのだが、K−1の試合ではゴングが鳴ればそのまま打ち合う。僕たちは、柔道の試合、その戦いの前後に一礼、様式化されたそれがあるのを当然だと思っているが、それは文化圏を一歩はみ出れば当然のことではないのである。

僕たちは今僕たちが生きている文化圏、そこに根付いている「思想」に支えられて、今ある「当然」を「当然」だと思っているのだ。僕たちはこの「思想」を無視して生きてはいけない。僕たちは所詮、授業中にガムを噛むのがいいことだとは思い切れないし、寺の法事に参加すれば一応は正座するものなのだ。

僕たちは物事を考えるとき、思想によってある程度方向性を支えられている。

では僕たちが恋愛を考えるとき、それを支える思想とはどのようなものだろうか。

僕たちは本当に、その思想をちゃんと持っているのだろうか。


***


僕がここに書く文章は、全て「読み終わった人が少しでもイイ女(男)になるように」と意図してのものである。それがどこまで実現できているかは甚だ怪しいものだが、一応は僕なりにそのように心掛けているつもりである。

なので僕は今回も、その意図に基づいて書き進めることにする。今回は「恋愛の思想」という話で少し堅苦しい話も混じってしまうが、それでも一応はあなたがいいオンナに近づけるようにと僕なりに企図して話しているつもりなのだ。

僕は、思想の無い恋愛はダサい恋愛になると思う。同時に、恋愛の思想の無いオンナは、やはりいいオンナとは言えないように思う。だから平たく言えば、みなさん恋愛の思想を持ちましょう、そしてそれを成熟させましょう、そうでないとカッコ悪いです、というのが僕の主張ということになる。

恋愛をカッコよくやりたいなら、それを支えるカッコいい思想が必要となる。(当たり前だな)

例えば、こんな話を考えてみよう。あなたがオトコにフラれたとする。あなたはそのオトコとセックスをした。その時、あなたはてっきり「彼はわたしと付き合ってくれるつもりなのだ、だから肌を重ねるのだ」と思っていたのだが、彼の気持ちはそうではなかった。彼は、単なるひまつぶしにあなたを抱いたのだった。

彼はコトの済んだベッドの上で、「え?ってゆうか、OKっぽかったし、他にすることがなかったし、それだけだよ」と言った。あなたは彼に、震える声で「え、じゃあなに、わたしとは付き合ってくれないの?」と言ってみたが、それに帰ってきた彼の言葉は、「はあ?君さ、何か勘違いしてない?」というものだった。あなたはそれによって、深い悲しみを体験する。

しかも、そのような悲しみを体験して後、まだわたしは彼のことが好きだと、あなたは自分の中で再確認さえするのである。

あなたは一人、自分の部屋で泣きつぶれていたところで、メールの着信音を聞いた。そしてその時あなたは、「彼からかな?」と、一瞬期待する自分を自覚した・・・。

こんな話があったとしたら、この話の主人公であるあなたは、経験からどのような恋愛の思想を培うであろうか。

もしそれが、

「オトコは所詮カラダ目当てだよ!」
「オトコは口先で何とでも言うけどそれを信じちゃだめなんだよ!」
「セックスはちゃんと付き合ってからでないとダメだよ!」
「アタシ被害者だよ!」
「もっと自分を大切にしなくちゃ!」

というようなものだったとしたら、これほどつまらないものはない。それは単なる思考の硬直であって、思想と呼ぶほどのものではない。そしてそういう硬直を抱えたまま生きていくと、そのオンナはどうしてもダサいオンナになっていく。

恋愛には色んなシーンがある。出会いのシーンがあり、メール交換のシーンがあり、会話のシーンがあり、デートのシーンがあり、ドキドキするシーンがあり、停滞のシーンがあり、気まずさのシーンがあり、ベッドシーンがあり、恍惚のシーンがあり、別れのシーンがある。そしてそれぞれのシーンにおいて、あなたがどう感じるか、そしてどう振舞うか、それはあなたの恋愛の思想によって決定される。ここでその根底にあるべき思想が安く未熟なものであったり、そもそも思想自体が存在しなかったりしたら、それはそれぞれのシーンが美しからざるものになるのは自明のことである。

恋愛の各シーンで、あなたはあなたらしく振舞う。そこにある「あなたらしさ」とは、すなわちあなたの持つ恋愛の思想に他ならない。

あなたの恋愛の思想は、どのようなものだろう。

あなたは先の例え話のような境遇にいたら、どのように振舞うのだろう。

相手にフラれたとき、泣きわめくだけのオンナ(オトコも)とか、被害者意識に固まるオンナとか、ヒステリックになるオンナとか、自己嫌悪に深々と落ち込むオンナとか、そういうオンナは思想が成熟していない。そういうオンナは、ただ幼稚な情緒反応をほとばしらせているだけだ。

そんなのは、いいオンナとは言わないだろう。

「フラれちゃったから、今日は歩いて帰ろう。わたし、こういうときこそ胸を張って歩けるオンナになりたい」

いいオンナとは、例えばそういう発想をするものだ。


***


あなたが二つの合コンに同時に誘われたとする。あなたはどちらの合コンに参加するだろうか。一方は、自動車整備工が相手の合コン、もう一方は都市銀行の若手社員が相手の合コンである。

こういう設定において、積極的に前者を選ぶ人たちはどれぐらいいるだろうか。これは残念ながら少数派になる。そしてその少数派は、自分に自信が無くて、相手の肩書きに怯んでしまうという理由で後者を選んでいることが多い。

まあそれはおいといて。たいていの人は、どうせコンパをするなら後者の方、聞こえのいい方、ぶっちゃけて言えばエリートの方を選びたいと思うものだ。設定としては、ネジ工場の従業員 or キャノンの営業マンでもいいし、ビル清掃会社の従業員 or テレビ局のディレクター、あるいは偏差値45の大学 or 慶応大学でもいい。ともかく、こういう設定で前者を選ぶ人はどうしても少なく、そこには社会的格差と恋愛が無関係でないことが見て取れる。そのようなサベツはいけませんとか、そういうことを考える以前のこととして、現実にそういうことは確かにあるのだということをここでは確認することにしよう。

(ついでに言うと、僕は総合商社で働いていた時代、この社会的な格差というのを体験として実感した。女の子はどうして商社マンというやつが好きなのだろうね。僕は商社マンという言葉がキライだし、そもそも何々マンとかいう言葉は聞くだけで背筋が寒くなる。僕は何マンにもなりたくないと思う。スーパーマンとかスパイダーマンとかならなってもいいけどさ)

さてそのような設定の中では、あなたもきっと「いい方」を選択するのだと思う。もちろん僕は、それがフツーのことだと思うし、そのことを責め立てる気持ちは微塵も無い。むしろ、あえて後者を選ぶという人のほうがねじくれているのではと疑ってしまうぐらいだ。

僕がここで言いたいのは、その選択の善し悪しではなくて、その選択を支える思想についてである。あなたが先の設定の中で、当然のこととして「いい方」を選択するとして、あなたはその選択の理由をどのような思想で支えているだろうか?

「だって、どうせ知り合うなら、華やかなオトコのほうがいいじゃない?」
「長く付き合うとなったら、やっぱりお金のことも無視できないじゃない?」
「やっぱり、誰だってそういう虚栄心ってあるじゃない?」
「優秀なオトコに惹かれるのは、オンナの本能だからしょうがないじゃない?」
「会ったことない相手だから、ひとまず肩書きでサベツするしかないじゃない?」

言い方は、いくらでも出てくると思う。ここでどんな思想をもつかは個人の自由というか個人の楽しみなので、どういう思想がイイのだと僕としてここで強硬に主張するつもりはない。

ただ、ここで僕は、あなたに「なぜ『いい方』を選択するの?なぜそっちのほうが『いい方』だと思うの?」と問いかけたとして、あなたから返ってくる答え、その思想がステキなものであればいいなと期待するわけだ。僕はこういうところで、ステキな思想を持っているのがいいオンナなんだと思う。

さてここで改めて問い直すとして、あなたが合コンの相手として「いい方」を選択する、その支えとなる思想はどんなものだろう。それは口に出したとして、カッコいいな、力強いな、キッパリしているな、スマートだな、勇気付けられるな、そのように人に感じさせうるものだろうか。

「なぜ合コンの相手に、『いい方』を選ぶか」。このような問いかけに、実際に明確に答えられる人は意外に少ない。ほとんどいない、と言ってもいいかもしれない。たいていの人は、「だって、それは普通そういうもんじゃない?」と言うのみで、もうその先は考えるのがしんどい、という反応をする。そして、実はそのような選り好みをすること、会う前から社会的格差でサベツをすることが、実は内心で後ろめたいのだ、というような表情を示しもするものだ。

このような、自分の選択について、自分自身でも胸を張って正しいと感じられないという状態、この状態が「思想が無い」状態だ。そして、思想が無い状態はカッコわるい状態でもある。例えば僕たちは、首相が終戦記念日に靖国参拝するかしないかということについて、参拝しないと後ろめたく感じるし、参拝してもやはり後ろめたく感じるわけだが、これはそれを支える思想が無いことによる。思想が無いというのはそういう状態のことだ。「なんで墓参りのことを外国にそんなにとやかく言われなくちゃいけないんだよ」と思いもするし、「なんで外国にブーイングされてるのにそこまでして参拝しなくちゃいけないんだよ」と思いもする。人間はそういう思想の無い状態で不安げな表情ばかりしている人をカッコ悪いと感じるもので、それだけに思想全体を失った日本人について、日本人が自分自身で「日本ってカッコ悪い」と常々感じていたりするのが現代日本の状況だ。

(いかん、話が逸れていく。ちなみに、靖国公式参拝はするべきです。東京裁判についてはパール判事の言葉を正とするのが僕の見解。アメリカ大統領だって、アーリントン墓地には行くんだから)

まあそんなわけで、思想が無い、それで不安げな表情をしている人はそれだけでカッコ悪いわけです。

ここでは一応、先の話において女性が「いい方」を合コンの相手に選ぶことについて、僕自身が持っている思想を言葉にして示しておくことにする。

合コンというのは、単なる「イベント」なのだ。だから女性たちは、せっかく合コンに参加するなら、できる限りワクワクするイベントに参加したいと望む。そういうとき、はっきりいって相手の人柄どうこうは関係ない。なんとなくスゴそうな、キャッチーな肩書き・経歴が相手にあればそれでいいのだ。それは単館モノの芸術映画を観にいくのではなく、オシャレな恰好をして六本木ヒルズに話題のハリウッド映画を観にいくときの心境に近い。企画段階で重要なのは、その内容よりも、イベント全体のわかりやすい華やかさなのだ。

だから女性たちは、合コンの相手に「いい方」を選んで全然問題ないし、そのことについて問われたとしても、「だって合コンって、イベントだもん」と答えればいいわけだ。そこから先に発展して、本当に心から交流することも出てくるかもしれないが、どうせその時は相手の肩書きのことなど忘れてしまっている。イベントはイベントとして、華やかなものを期待する、心の交流はまた別のものとして考えておく。若い娘さんはそんな感じが爽やかでよろしい。

(肩書きに惚れるオンナも、中には本当にいるけどね。自力では自分の人生を華やかにできないと悟ると、次点としてパートナーの華やかさに依存しようとせざるをえない、それはある程度やむをえない真実かもしれない。)

ついでに、合コンなどで花形になれないオトコたちは、そのことに露ほどの不満も持ってはいけない。そういうオトコは、花形になる方向(ハデな肩書きを手に入れていく方向)で生きていくことをどこかで放棄したか、あるいはその努力が足りなかったのだ。だからそういうオトコは、合コンなどに頼らず、いいオンナと出会っていく方法を独自ルートで見つけていく、あるいは創っていかなくてはならないし、また肩書きが無いことを逆手に取ったある種の「迫力」でオンナを口説いていかねばならない。それはすなわち、花形のオトコたちとは努力の方向が違うということだ。花形のオトコたちは、自分の華やかさを増していくために努力していかねばならない。一方で、そうでないオトコたちは、そうでない方向で努力しなければならないというだけのこと。相撲部屋で稽古する力士が、「俺もオリンピック出たいっス」とか言うだろうか?力士には、力士のまい進する道があるのである。

オンナはオシャレをして、「合コンはイベントだもん」と言い切る。

オトコは、「俺はそういう方面で攻めても不利だからね、そこは自分でルート創っていくよ」と不敵に笑う。

そういうのがいいんじゃないかな。それが僕の、恋愛の思想である。

(以下、後編に続く)





恋愛の思想(後編)*準備中*
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