恋愛偏差値アップのコラム









自己中な、あなたへ







自己中心的かどうかということは、人が生きる上において常に付きまとう問題である。特に恋愛などは相手の気持ちとの関わりが中核をなすものなので、自己中心的かどうかということは極めて大きな問題になってくる。恋愛をする上で、このことに注意しなくていい人などいないのではないか。よっぽどの聖人君子でないかぎりは、自分が自己中心的になっていないかどうか、そのことに常に注意しながら相手に気持ちを注いでいかなくてはならない。それを超越してしまったような、それこそ聖人君子は、そもそも恋愛なんて人間として小さなことはしないだろうと、僕にはそのようにさえ思えるのだ。恋愛において、自己中心的になると全てを悪いほうへ持っていってしまうし、また恋愛だからこそ、自己中心的にもなりやすいので、僕達は重々そのことに気をつけていなくてはならない。

自己中心的うんぬんの話をするとして、僕として前置きしておきたいことが二つある。まず一つは、本格的な自己中の人に向けては、僕は何も話すつもりはないということ。なぜならそういう人は、僕が百万字を費やして何を言ったとしても、どうせ聞きやしないからだ。自己中とは、もともとそのような性質のものである。他者性がないので、僕があれこれ言ってみせたとしてもどうせ、―――でも!そんなこと言われても、だって!という具合に拒絶するに決まっているのだ。そういうところに関わっていると不毛なので、僕はそういう本格派の人に向けては話さないことにする。そしてもう一つは、世間では「ジコチュー」という言い方をされることの多いこの自己中心的うんぬんの話だが、僕はここではあえてジコチューとカタカナに略さず、「自己中心的」、あるいは「自己中」という言葉を使うことにする。なぜかというと、「ジコチュー」という言葉はどこかポップな響きで、またその語感に相応しく、軽いニュアンスに用いられることも多いからだ。それだと意味が厳密でなくなってしまうので、僕はここで「自己中心的」「自己中」という言葉を使うことにする。自己中心的というのは、それだけ取り扱うのに繊細なテーマだから。

そんなわけで、今回は僕として、普段はかわいい女の子、気質は善良で、ごくまっとうに彼のことが好きなのだけれども、ふと気づくと自己中心的になってしまっている、そういう人に向けて書くことにします。



「純愛自己中」

さてさて、僕としてまず初めに、この「純愛自己中」ということについて話すことにする。なぜかというと、純愛こそが最大の自己中を生み出すものなのに、そのことに気づいていない人があまりに多いからだ。そのことの仕組みを解き明かすのが、まず今回の第一の目的。それ以外に目的は無いといってもいい。

あなたが彼のことを、心の底から好きだったとする。そういうとき、たいていあなたは自己中心的だ。なぜかというと、彼のことを好きという気持ちが大きすぎて、それに支配されてしまうからだ。あえて確認する具合に言っておくと、彼のことを「好き」という気持ちは、あなたの気持ちであって彼の気持ちではない。「好き」の気持ちが自分の中で大きくなりすぎると、僕たちははたいていこのことを忘れる。

その仕組みを説明しよう。あなたは、彼のことが心底好きで、もうどうしようもないのだ。それで、今日こそは電話ででも、あるいはメールででも、気持ちをぶつけてしまおうかと考えている。しかし一方で、今そんなことを言っても、彼は困ってしまうかもしれない。あるいは、迷惑かもしれない。一度デートに呼び出して、そのときに告白するほうがいいだろうか。でも、デートに誘った時点で半ば告白してるようなものだし、デートに呼び出すほうが彼にとっては迷惑かもしれない。あなたが彼のことを好きなら、たいていはこんなことばかり毎晩考えているだろう。

このような煩悶の中で、状況に押されて決意が固まることがある。例えば、これから夏休みでしばらく会えなくなるから、というような状況がそうだ。夏休みの間ずっと会えなくて、忘れ去られてしまうのはあまりに悲しい、また作戦的にも不利だから、思い切るなら今しかないと、そのように考えてあなたは携帯電話を握り締めるわけだ。そして、メモリから彼の電話番号を呼び出して、エイヤッと通話ボタンを押す。コール音が鳴りひびく中で、動揺せずに明るく振舞うことを心掛けよう、あと、今電話しても大丈夫ですかと初めに確認するのを忘れないようにしよう、などと自分の中で決めごとをするかもしれない。

それでも、この時点であなたは既に自己中心的なのだ。

何回目かのコールで、彼は電話に出る。が、彼の声はあなたのまったく予想していなかったことに、いつもよりはるかに話しづらい具合にぶっきらぼうだ。

「はい?」
「あ、こんばんは。○○です。先輩、今電話大丈夫ですか?」
「ん?今?ああ、別にいいけど」
「あの、少し話したいことがあって、その・・・」
「ん?何?ごめん今ちょっと聞こえなかった」
(う、なんか話しづらい・・・)

このような展開は、まったくありがちである。なぜこのようになってしまうことが多いかというと、あなたに彼のシチュエーションを想像するだけの、心理的な余裕がなかったからだ。

今彼は、テレビでワールドカップ予選の試合を観ていて、その試合が中だるみで面白くないなと思っているのである。2−1で日本が負けているのに、日本チームの動きはまったく悪い。彼は、今日はパチンコに負けてしまったということでただでさえ気分が沈んでいるのに、そのような試合展開はまったく、彼をして「今日は冴えない日だよなぁ」と思わせるものなのである・・・。

シチュエーションなんて何通りでも考え付くことができるが、何にせよ要点は、あなたとして告白スルゾと気合を入れた時点で、あなたは自己中心的になってしまうということだ。あなたは気合を入れすぎるあまりに、まったくの日常の気分でいる彼の気持ち、その温度に合わせていこうというような発想をしなくなってしまう。ここに示した例でいえば、非自己中心的なベストの展開は、話を適当に取りまとめて、さっさと電話を切ってしまうことなのだけど、そのような柔軟性をあなたは既に失ってしまっているだろう。

自己中心的であるとは、すなわち、発想が自分基準のものになってしまうということである。フラれてもしょうがないから告白しよう、そう心に決めて携帯電話を握り締めたあなたは、脳裏にパッフェルベルのカノンが流れているかもしれない。が、彼はそうではないのだ。彼は部屋の片付けの真っ最中で、こんなの一日で片付くかよ、ダリィ、と思っているところかもしれないのである。

僕として重要なことを、ここで言っておきたいと思う。「純愛自己中」、そのワナにかかってしまう最大の理由は、あなたが「自己中=ワガママ」だと思い込んでいるからだ。自己中心的であるとは、わがままであるということでは決して無い。それはまぁ、わがままが極まればタチの悪い自己中になるのではあるけれども、きっとあなたはそんな女ではないはずだから、もうそんなことは考えなくてもいいのである。考えるべきは、わがままどうこうではなく、相手の状況と心境を汲み取れるか、それも前もって根拠無く想定するのでなく、電話が繋がった瞬間に、彼の声音から読み取ろうとできるか、そういうセンサーがフリーズしてないか、という点なのだ。

これについては、例えば友達と電話で話すときのことなどを想像してみればよくわかる。友達との電話には、あなたは気合を入れないので、自己中心的になることはない。

「もっしー」
「あ、もしもし。どしたん?」
「いや、別になにもないけど。ヒマだから電話してみた」
「そっか」
「あれ、どっかしたん?今電話、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「あれ、でもなんかしゃべりにくそうだよ。いいよ、また掛けなおすよ」
「そう?実は今、姉が怪我してさ、病院にきてるの」
「ホント!?お姉ちゃん大丈夫?」
「うん。もう何ともないけど、今は薬できるの待ってるの」
「そっか。ごめんね、じゃあまた、落ち着いたら電話ちょうだい」
「うん、ごめんね。またね」
「はーい」

友達と話すときは、たいていこんな感じだ。気合を入れていないので柔軟性を失うことも無く、いくら自分が愉快な気分であっても、相手の声色ひとつで方向を修正できる。それが、自己中心的でないということなのだ。

このようなことが、好きな人相手にはできないところに、恋愛の難しさがある。相手のことが好きだと、色んなところで気合が入ってしまうから、結果それによって自己中心的になってしまう。これはいっそ、「好き」という気持ちこそが、自己中の巣穴なのだと思ってもらってもいいぐらいだ。あなたが心底から好きな彼、その彼に接近するとして、ヨシ!と気合を入れたときには重々このことに注意しなくてはならない。あなたが気合を入れていても、彼には気合が入っていないのだから。


「炊飯器自己中」

最近僕は、炊飯器を買い換えた。新しく買った炊飯器は、早炊きモードがあって非常に便利。米と水を入れておけば、三十分足らずでお米が炊ける。早すぎて、まだ全然おかずが出来上がってないのに炊きあがってしまう場合もある。

さてそんなわけで、米と水を入れとけば勝手に炊き上げてくれる、炊飯器というものは便利なわけだが、僕としてこれによく似た自己中があるなぁと思ったりもする。突然電話がかかってきて、「こないだのアレは、どういう意味でおっしゃったんですか」と尋ねられて、僕としては「え、こないだのアレってナニ」とブサイクな返事をするしかなかったり。これはまぁ、先の「純愛自己中」と、おおよその仕組みは同じなのだけれども・・・。

あなたが彼のことを好きなら、このことにも注意しなくてはならない。あなたは彼のことが心底好きだから、きっと日本の行く末や世界の核兵器状況を考えることなどせず、日夜彼のことばかり考えているはずだ。例えば、以前に彼と偶然街で会って、そのまま成り行きで半日デートすることになったあの日のことを、あなたは思い出しては切ない気分になり、そういえばあのときの彼の言葉、「○○ちゃんはモテると思うけどな」という彼の言葉は、はたしてどういう意味だったのだろうかと考え始めたりする。考えても答えに至るわけではないけれど、考えずにはいられない、今度会ったときにもう一度そのあたりのことを聞けないだろうか、とも思う。

そんなふうに思いつめているうちに、あなたとして彼のことが好きだという気持ちはいつのまにかスイッチが入ってしまって、ある日の夜にはついに、ピーッと鳴って炊きあがってしまうのだ。そして、話の進みゆきは次のような具合になる。

あなた「先輩、やっぱりこないだのお礼もしたいので、よければこんど一緒に食事に付き合っていただけませんか?」
彼(・・・え、こないだのって、何のことだろ?うー、まいった、返信しづらいな)

僕としてこのような展開を、「炊飯器自己中」と呼ぶことにしている。そのようになってしまう気持ちは誰でもよくわかることなのだけれども、これもやはり、とにかくも自分基準で物事を発想してしまっていることから、自己中心的であることは否めないのだ。これもやはり、彼のことが好きすぎることによって生じる自己中だから、彼のことが好きであれば好きであるほど、注意するにしくはない。繰り返して言っておこう、「好き」という気持ちがそれ自体、自己中の巣穴なのだ。

勝手に、炊きあがってしまわないように。


「ときめき自己中」

僕がここで説明しようとしている自己中の話は、全て始めの「純愛自己中」というところに集約されるのだけれども、いくつかの言い回しがあったほうが現実には応用しうると考えて、このように造語してみることにする。「ときめき自己中」、これは特に、デートの時などには注意すべき点だ。

あなたは勇気を振り絞って、彼をデートに誘った。すると、彼は思いがけずその誘いを受けてくれて、楽しみにしてるよ、というようなことまで言ってくれた。あなたは待ち合わせ場所に三十分前に到着し、胸の高鳴りを鎮めなきゃと思いつつ、まだ来ているはずも無い彼を視線で捜している。早く来てほしいと思いつつ、まだ今来てもらったら困るとも思いながら。

このような胸の高鳴りの時間、ときめきの時間は、あなたにとって一番幸せな時間だろう。そういう時の女の子は本当にかわいいくて、それこそおめかしして駅前でキョロキョロしている女の子を見るだけで、あの子は初デートか何かだな、がんばれよ、という気分に僕などはなるものである。しかし、そこに水を差す具合になって恐縮なのだが、このようなときめきの真っ最中にいるときこそ、「ときめき自己中」に注意しなくてはならない。そのときめきも、あなたのものであって彼のものではないから、それにあまりに支配されていると自己中心的になってしまう。

この「ときめき自己中」が、典型的に現れるのは次のようなシーンだ。

彼「パスタなんか食べにくるの、久しぶりだよ。ここ、あまり混んでなくていいね。静かで話しやすいし」
あなた「そうですね、話しやすくてよかったです」
彼「○○ちゃんは、デートでよくこういうところに来るんだ?」
あなた(ドッキーン)「い、いえいえ、そんなことないです。ホントにないです」
彼「そっか?けっこう男連中に人気あるし、こういうデートよくしてるのかなと思ってたけど」
あなた(ドッキーン)「な、ないです、全然ないです。そんなことは」
彼「ふーん、そうなんだ?なんか、意外だね」
あなた(赤面&俯きがち)「はい、あ、いえいえ、あたしなんかだめですよ」
彼「そうかなぁ。あ、そろそろ注文決まった?」
あなた「あ、はい。決まりました」

このような会話は、やはりありがちだ。しかも、女の子の照れる様子がかわいいだけに、これのどこが自己中なんだよ?というようにも思えてくる。もちろん、この会話がそのまま致命傷になるようなものではない。しかし、このような会話ばかりをしていると、知らず知らずのうちに、関係は悪いほうへと進行していくのである・・・。

この例に示した会話から、「ときめき自己中」を看破できる女の子はそうそういまい。僕として端的に説明するならば、この会話が自己中心的になっているのは、次のような展開があなたから出てこないからである。

あなた「先輩こそ、デートに引っ張りだこなんじゃないですか?女の子たちに、ほんと人気ありますもん。あたし、デートとかって慣れてないから、今日は先輩を退屈させてしまわないか不安です」

相手の側から、ここでいう先輩は、あなたのことを話題として、いくらかリップサービスをこめて話をしてくれたのである。それによってあなたは、たっぷりドキドキさせてもらった。それを嬉しく思わない女の子はまずいないだろう。しかし、自分のことを話題にしてもらって、そのまま自分だけそれを味わうというのでは、それはやはり自己中心的なのだ。自分のことを話題にされたら、次はあなたがその話題をスライドさせて、彼のことを中心に話さなくてはならない。それは、考えてみれば当然のマナーでもある。ところが、彼の言葉の一つ一つにときめきまくってしまっているあなたは、そのときめきに支配されるばかりで、そのマナーを喪失してしまうのだ。

僕としてこのことを、「ときめき自己中」と呼ぶことにしている。あなたがデートするとして、その相手が気の利いた彼であるならば、優しく手をつないでくれたり、あなたのおめかしを褒めてくれたり、どの表情がかわいいかと言ってくれたり、あなたのがんばっていることについて励ましてくれたり、そういうことをしてくれるだろう。あなたはその一つ一つにときめいてしまうはずだが、そのときめきに支配されてはならないのだ。彼がそのようにしてくれるならば、あなたも彼に向けてそのようにしなくてはならない。もし、彼が知恵を絞ってあなたを励まし、勇気付け、また褒めてくれたとして、あなたがそれをときめきとともに味わうだけに終始したら、彼はデートの帰り道、このように思うだろう。―――なんか俺、一日ホストみたいだったな。

ときめきに支配されないように注意だ。何度も言うが、好きという気持ちこそ、自己中の巣穴なのである。


さて、以上三つの造語を使って、自己中ということについて話してみた。自己中というのは、まったくうまく人の心の隙をついて、こっそり忍び寄ってくるものである。これに対処するには、好きという気持ちこそが自己中の巣穴だと認識しつつ、彼と関わる折、幸せなアドレナリンが出るときこそ要注意、と心に刻んでおくしかない。

今回は、「純愛自己中」「炊飯器自己中」「ときめき自己中」と、どちらかというと良性の自己中について話してきた。が、悪性の自己中、要するに本格的な自己中に捕らわれてしまっている人も、仕組みとしてはさして変わらない。自己中というのはすなわち他者性の欠如であって、他人の視点で物事をとらえられなくなるということだから。良性の自己中は、好きという気持ちの高まりによって、相手の視点というものを「見失う」、そして悪性の自己中は、そもそも相手の視点というものを知らないので、その位置に自分を置くことができないで生きている、ということなのだが・・・。

好きという気持ちに、注意しよう。自己中の発動を封じ込めれば、あなたと彼はもっとステキな関係になります。








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