インド旅行記@ヴァラナシその6
ピューイピピピピ・・・・・
ホテルプージャでの目覚めは、鳥の鳴き声がBGMだ。残念ながら、インド親父の「エ゛アッ!」というシャウトも聞こえてくるが。
そう、ここはインドである。
顔を洗ってから屋上のレストランに行き、チャイとバタートーストを注文した。私は、いつも目覚ましになる鳥の姿を見たいと思い、屋上を囲っている腰までのフェンスから身を乗り出し、耳をそばだてた。ピューイピピピピ・・・・・エ゛アッ!んー、音はあっちから聞こえてくる・・・・・鳥は、どこだ。
!
私は、愕然とした。すべては、私の常識を超越していた。ピューイピピピピ・・・・・それは、鳥の声ではなかった。何の声か?それは鳥の声でなく、おっさんの、「指笛」だったのだ!それは、鳥ではなく、おっさんの、鳥の「モノマネ」だったのだ!ピューイピピピピ・・・・・その音声模写テクニックは、非常識なまでに卓越していた。しかも!それだけではない・・・・・。その鳥オヤジは、自分の家の屋上に立っているのだが、そこにエサをまいて、ハトを集めている。エサをまいてはピューイと鳴き、ハトたちを呼んでいるのだ。そして、ハトが集まって、ついばみ出した頃合、「エ゛アッ!」というシャウトとともに旗のついた棒を振り回し、ハトたちを追い払うのだ。そして再びエサをまき、ピューイ・・・・・エ゛アッ!呼んでは追い払い、呼んでは追い払い・・・・・
何なんだ?なぜ、毎朝ハトにエサをやる?そしてなぜ追い払う?なぜ鳥の鳴きまねをする?
陽が高くなるまでつづく、その不可思議な行為を解明せんと、私はレストランのウェイターをつかまえてたずねた。
「・・・・・あれは何をやっているんだ・・・・・?なんであんなことしているんだ・・・・・?」
答えて曰く、
「習慣だから。」
答えになっていないが、もう私には重ねて問うだけの力が残っていなかった。習慣じゃあ、しょーがないよな。俺が悪かったよ。ふともう一度目をやれば、鳥オヤジの隣にぽつねんと、彼の息子が立ち、父を見取り稽古しているではないか。こうして一子相伝、鳥オヤジの秘法は連綿と受け継がれていくのだろう。たしかに、「習慣」だ。ピューイピピピピ・・・・・
さて、ヴァラナシからリクシャーで30分、「サールナート」という仏教の聖地がある。初転法輪の地、と呼ばれるもので、「ここにてお釈迦様の教えが初めて人に伝わった」という仏跡なのだ。というわけで、今日は「サールナート」にいこう。手荷物をぶらさげて、とりあえずリクシャーと交渉だ。ちょいと遠出になれば、リクシャーは行き帰りセットでたのむことになるから、言ってみれば、リクシャーワーラーのおっさんと一日デートになる。これは選ばなきゃ。と思っていても、1歩町に出れば、ハロージャパニー!リクシャー!?の声がかかる。向こうはおとなしく選ばれるのを待つつもりはないので、選ぶとかそういう上品なことはやってられないのが現実だ。テキトーに若いあんちゃんワーラーと交渉し、100ルピーで一日デートということになった。リクシャーワーラーは、たいてい若いほうが愛想が無い。そのかわり、若さゆえスピードは速い。
改めて言うと、リクシャーにはオートリクシャーとサイクルリクシャーがあって、オートがスクーター、サイクルが自転車だ。もちろんオートのほうが速く、値段もおよそ5割増だ。だがオートはピザ屋のスクーターように、幌で囲われた座席になっていて、視界がとてもせまい。それに比べて、サイクルは座席が剥き出しだ。いわばサイクルには青空の下でゆられるという特典がある。だから私は、急いでいない時は、サイクルのほうが好きだ。ゆられながら、子供たちの「ハロー、ジャパニー」に手を振ることもできるし、痩身をきしませてペダルを漕ぐワーラーも、切なげでよいのだ。ぜひこの国には、フォーディズム(注1)が行き渡らないでほしい。ところでサイクルリクシャーの座席は小さく、初めは揺れで座席から落ちそうになるが、ちゃんと脚の置き場所が決まっていて、体を安定させるコツがあるのである。慣れれば居眠りもできる。ただ、二人乗るとすでに窮屈なこのリクシャーに、朝夕の通学の子供が10人ぐらい乗っているのを見ると、リクシャー道も奥深く、私などまだまだだ。
注1。フォーディズムとは、車の会社Fordが打ち出した経営戦略のこと。「車をつくっている連中が、車を買えるようになってこそ、自動車産業が循環し、発展するんや!それぐらい車が安くなるまで、大量につくりまくるんや!」というのがそれで、なんか大成功をおさめたらしい。インドでは、例えば車を組み立てる作業員などは、車を買ったりできない。フォーディズムが実現していないということであろう。
サイクルリクシャーにゆられながら、ヴァラナシのバザールを離れ、ややへんぴな町並みに入っていく。いつもどおり牛と砂埃、そして濃い影が風景を彩っている。ゆらゆらとゆられていたいところだが、リクシャーはガタガタとゆれる。道路が道路だからな。振動しながら、日本で一応勉強してきた、釈尊ゴータマ・ブッダの人生と、それにまつわる出来事、ゆかりの地を反芻してみる。
ブッダ、というのは、悟りを開いた人、という意味で、ブッドという動詞のer形みたいなものだ。古代インドのサンスクリット語は、アルファベット語族に属するのだ。釈尊が親からもらった名は「シッダルタ」で、本名は「ゴータマ・シッダルタ」という。たしか、ゴータマは「よい牛」、シッダルタは「事を成す」という意味をもっている。シッダルタは、シャカ族の王家の子として生まれ、カピラヴァストゥという地に育った。シッダルタは王位継承者だったが、親の意に背いて、29歳のときに出家した。苦行を経て、ブッダガヤーの菩提樹の下で、悟りをオープンする。そして悟っちゃったシッダルタ(このときから、「ブッダ」と呼んでよいことになる)は、その教えを説いてまわるのだが、実はそのとき誰も聞いちゃくれなかった。そして、ようやく初めて教えが伝わったのは、そのときサールナートにいたかつての苦行仲間であった高僧たち5人だったのである。
実に、ブッダガヤーからサールナートまでは、500キロもある!この区間を、足で歩き、猛暑や渇きやスコールの中、教えを説いてまわって、誰にも伝わらなかったのだ!普通なら速攻であきらめポンチ+ヤケ酒となるところであるが、さすがにそこはブッダ、根性が違うのであろう。私はまず、釈尊の歩いた距離、そして失意に耐えた根性という点で、ゴータマさんにはかないませんヨと思う。実はゴータマさんは、かなりの極道モンだったのかもな。
さていよいよ初転法輪の地、サールナートに入ったようだ。寺院が混じった簡素な住宅街、という風情。だが、他の地域に比べて緑が多い。かつてはサールナート一帯が、広大な園だったのかもしれない。
私が心に描いたサールナートと、現実のサールナートが強く結びつくところは、「木」だ。インドの夏は、当然赤道直下の猛暑だから、古えの僧たちは、木陰で涼をとった。いろんな本に、その描写が出てくる。サールナートの道端になにげなく生えている樹木は、日本のそれとはちがい、猛烈な乾季雨季に耐えられるだけの太い幹と根をもち、うっそうと葉が茂っている。その雄大な根元は、たしかに僧侶がよく似合う。リクシャーの座席から見ていても、かつての僧たちが座し、瞑想したなごりが漂っているかのように見える。僧の中には、はるか遠方からシルクロードを通り、命がけでここ天竺に到着し、歓喜の中でこの木々の下に座したものもいたかもしれない。そう、ここは、聖地サールナートなのだ!
サールナートは、そんなに大きな地域ではないので、観光すべきところもごくわずかである。メインは、なんといっても、鹿野苑である。ロクヤオン、と読む。メインというより、他には何も無いか。鹿野苑、当地では、一応Deer parkという名前なのだが、その中にある「ダメーク・ストゥーパ」という塔が観光名所が有名になっているため、ほとんどは「ダメーク・ストゥーパに行ってくれ」という感じで用を足している。
そしてリクシャーは、鹿野苑に到着した。そして、巨大なダメーク・ストゥーパが姿をあらわした。ダメーク・ストゥーパとは、釈尊が説教をし、初めて教えが伝わった初転法輪を記念して、その場所にレンガを積み上げてこしらえた、塔のことである。
巨大な塔!・・・・・なんで、そんな余計なコトをする。この場所にてブッダの教えが初めて伝わった、そういう場所こそ、そのままそっとしておくべきではないか。塔がデカいのは認めよう。だが、この塔をみて、どうやって感慨にふけれというのだ?しかも、塔を作るなら、ちゃんとデザインを考えろっ。なんかテキトーに積み上げて、塔になるやろ、という感じで作り上げられたのがありありとわかる。はっきりいって、塔と呼ぶには問題アリである。アイスクリームのコーンには、先がとんがっているものと、「鍔とグリップ」状になっているものとがあるが、そのグリップ状の巨大なコーンを、さかさまにして、ありゃりゃちょっと上が欠けちゃったね、という形である。塔というには、縦横の比率がよろしくないであろう。太っている。まあでも、胴回りはデカい。うーむ、手入れもされていないし、とにかく神秘に耽るムードには程遠いな。
しかも、入場料は5ドル=235ルピーである。もちろん外国人料金だが、高い。インド人の感覚からすると、15000円ぐらいになるだろうか。USJより高い。それはおカド違いか。まあそんなわけで、私はダメークストゥーパには入場しなかった。特に見るべきものがあればガイドブックに強く推されているであろうし、神聖なムードを買うつもりなら、こんなに大金を払うと神聖でなくなってしまう。まーいい、ストゥーパは鹿野苑の中に囲われるような形になっているから、鹿野苑をうろちょろしながら、塔は外側から眺めておきましょう。ちなみに塔の語源はス「トゥー」パである。また、墓地に立ててある慰霊のための「卒塔婆」(ソトバ)は、そのまんま「ストゥーパ」の訛りである。木造建築が主である日本では、塔という概念は薄いので、あまり塔の文化は発展していない。五重塔と、ドラクエにでてくる塔ぐらいのものであろうか。
リクシャーからおりると、聖地であろうがなかろうが、いつもどおり、わらわらっと物売りがやってくる。記念の仏像を売りつけにくる、ガイドをかってでてくる、数珠を売りつけにくる、まあ色々だ。それらを振り切り、とりあえず無料の鹿野苑に入る。鹿野苑は、木々と芝生によって緑につつまれた公園になっている。だが、区分や仕切りが無計画なので、うまくまわれるようなつくりにはなっていない。公園自体はもっと奥にもつづいているのだが、そちらへの道は施錠されている。入れる時期と入れない時期があるらしい。その施錠された柵と水の張られた堀の向こうには、本当に鹿が放し飼いにされている。これはもちろん野生の鹿ではなく、公園に飼われているものだ。きっと、鹿の事情で、入れる時期と入れない時期があるのだろう。私は公園にいる鹿のエサ売りのおばさんからエサの果物を買い、堀の向こうにいる鹿に向けて、堀ごしにエサを投げた。鹿がノソノソと集まってきた。うーん、これでは奈良公園だ。そうしていると、家族旅行であろうか、インド人の子供が二人、はしゃぎながら寄ってきたので、エサをわけて、一緒に投げた。小さいほうの女の子は、かなりがんばらないと、堀の向こうまでエサが届かなかった。
鹿野苑の中央には、ムルガンダ・クティー寺院という小さな寺院がある。小さいが、わりと新しいようで、妙にきれいである。寺院というものの、材質はどうもコンクリートだし、見てくれは小ぶりの体育館のようだ。苑内をまわり終えた私は、寺院の入り口でサンダルを脱ぎ、はだしになって、中に入った。
中に入ると、ひんやりした空気があった。壁一面が全て壁画になっており、正面には仏像、そして仏像前では祈りをささげる人が10人ほど、好き好きに祈っている。オレンジ色をした僧衣をまとっているのは、きっとチベット僧であろう。聞きなれない各国各宗派のお経が、ごにょごにょと聞こえてくる。この中だけは、ちょっと聖地かなと思わせるムードだった。日本物とはちがうお香が焚かれていて、鼻をくすぐる。
この寺院の壁は全て、釈尊の生涯を描いた大きな壁画になっている。釈尊が生誕し、すぐに7歩歩いて「天上天下唯我独尊」と唱えたという伝説の図、王城カピラヴァストゥにてバラモン祝福される図、苦行姿、悟りを開いたところ、悪魔に誘惑される図、そして入滅の涅槃像(寝釈迦)まで、和風の筆遣いで見事に描かれている。和風なのもそのはず、この壁画を描いたのは、戦前の日本人画家、野生司香雪なのだ。まあ実は、この画家の名前の読み方すらも私はわからないのだが。ガイドブックにそう書かれていたから、そうなんだろう。日本からきてこの仏教の本拠地に大壁画を残すのであるから、いわば仏教界でのメジャーデビューである。
寺院をでたら、日は南中を過ぎたらしく、暑くなってきた。またペプシでも飲むかな。日にあったまったサンダルをはいて鹿野苑を出て、次は周囲の寺院を見てまわった。中国寺、チベット寺などが多い。で、どの寺も、なんでか色がケバケバしいな。インドではこういうのが、神を奉っていることになるんだろうなぁ。たいてい、中にある仏像も、超キンピカだし。もうちっと、「渋さ」というやつを理解すればステキなのだが。そう思っていたら、ニスでテカッた、実物大お釈迦様人形を発見した。座っている。そしてまわりを5人の僧人形が座って囲んでいる。ああ、まさしく初転法輪之図。でも、人形の素材と表情が、どうみても食いだおれ人形だし、周囲を原色の万国旗みたいなもので飾り立ててある。これでは「ありがたや」というより「めでたや」である。まったく。なんでインドの宗教はこうもハイテンションなのだ。もっとキリストやヨハネを見習って、世界の無情と尊厳を知りなさい。
さて、地図によれば、少し歩いたら、日本寺もあるらしいので、あとでぜひ行こう。
と思っていたら、道端で、日本人男性に声をかけられた。観光客の日本人でない、在印の日本人である。話を聞いてみると、この人は後藤さんといい、年齢は50歳ぐらい、30年間インドに在住している、日本寺法輪精舎の住職らしい・・・・・日本寺法輪精舎の後藤さん?ああ、そういえば、この人はガイドブックに載ってたぞ!
後藤さんのことは、ガイドブックの読者投稿欄に書いてあった。「仏教を通し学校教育に携わる日本寺の住職。貧しい地元の子供たちに無料の日曜学校を開き、軽食を施し、仏教や英語を教え、医療や古着の配布・・・・・」とガイドブックには書いてあったので、私は仏道に帰依した明鏡止水の聖人君子ををイメージしていたが、現実の後藤さんには、思いっきりインドが染み付いていた。その手のしぐさや表情、特に言葉のイントネーションなどは、もうすっかりヒンディーだった。話のメインは、日本に帰ったら、こっちに文房具などを送ってくれということだったのだが、「ニホンニカエッタラネ、コンナユカイナジュウショクガイルヨッテイウコトヲニホンノミンナニネ、オシエテモラッテネ、・・・」という感じでまくしたてられるので、私は「ああ、はあ」と言うしかなかった。とくに僧衣をまとっているわけでもないし、俗世を断ち切ったホーリーマンというわけでもなかった。ただパワフルなおっちゃんだった。うーむ、たしかにそうでなくては、インドではやっていけんだろうな。哲学チックに例えば「我思う、故に我あり」などと寝言を言ってみても、インド人に「エ゛アッ!!」と叫ばれれば、全てかき消されるだろう。
途中でコーラを飲んで一服し、リクシャーに戻った。次は日本寺、「日月山法輪寺」にいこう。日は傾いて、そろそろ風も涼しくなってきたようだ。インドは常夏のようなイメージがあるが、北インドでは11月は冬の入りであり、朝夕は長袖がほしくなる。また、日照時間も、赤道直下だからといって、長いわけではない。むしろ逆で、例えば北極南極の夏は、日照時間が24時間である。白夜とよばれるやつ。緯度が高いところの夏のほうが、日照時間は長いのだ。だから、インドは夜は意外とあっさりやってくる。6時にもなればもう暗くなってくるのである。
リクシャーは走り出した。
「・・・・・お前はダメーク・ストゥーパに入場しなかったのか」
と、リクシャーを漕ぎながら、ワーラーがこっちを振り向いた。
「ああ、5ドルは高すぎるよ」
「お前はマトモなツーリストのようだな。5ドルなんてとんでもないよ。お前が入場しなかったのは正しい選択さ」
そういって、ニカッと、白くない歯を見せた。んー、なんや、喜んでええんやらなんやら。まあ何にせよ、金持ち馬鹿ジャパニーばかりじゃないぞ、ということで日印の友好ができてめでたしである。
それはよかったが、このワーラーは、日本寺法輪寺の場所がわかりやがらねえ。その辺の人に尋ねてまわる。その会話風景を見ているとどうやら、地域は違えどもサイクルリクシャー同士は連帯感があるようだ。彼らから道をきき、西日の中をリクシャーはのんびりと走って行く。
日本寺に到着、リクシャーを待たせて、中に入った。久しぶりに、「ごめんくださーい」と、日本語をつかった。
中には、アタマを丸めた若者二人と、年のころ50ぐらいの住職らしくない住職がいて、こちらに気づくと会釈をした。特に僧衣をまとってもいないし、おだやかな表情をしているわけでもなかった。若者は若者らしいくフランクな感じで、おっちゃんはおっちゃんらしかった。ども、こんにちは、旅行者です、と挨拶をすると、日陰の椅子をすすめてくれた。敷地内は、特に仏教関係のブツが居並ぶわけでもなく、ごく普通の庭と倉庫、住居部と、あと奥には本堂があった。敷地の大きさはささやかなもので、かくれんぼをするにはちょうどいいくらいであろう。皆で机を囲んで座ったが、インドなのでお茶が出されることない。
私は浄土真宗西本願寺派の住職の息子で、仏跡巡りという名目でインドにきた、と話をした。いくつか、仏跡に関して、アクセスのしかたなどたずねたいとも思っていたので、地図を出して2、3質問をした。私を含めて4人の指先が、地図の上を滑っていく。ここには温泉がある、ここはたしか法華経の聖地だったっけ、ここへの電車は不便だよ、等々。
この雰囲気・・・・・この日本寺の空間は、なんというか、日本そのものだった。若者は浜崎あゆみを聴いていそうだし、住職も阪神巨人戦を楽しみにする人のように見えた。珍しいよね若いのに仏跡めぐりなんてさ、と談笑し、まあそれは建前ですけどね、ははは、と、なぜか心に違和感を感じたまま、それこそ、日常会話を楽しんだ。日常!私が24年間慣れ親しんだ日常がそこには展開されていて、私は24年間の生活空間を、今まさに外から見たのかもしれない。
もちろん、この日本的空間が不愉快なはずはない。だが、少々面食らった。何より、とっさに日本的空間に馴染んでしまう自分に心底驚いた。ついさっきまで、例えば、強引な物売りをやり過ごすなど、インドを楽しんでいたのに、いきなりこの平和で控えめな日本的空間を楽しむ自分を見て、自分が何なのか、わからなくなるような感覚に襲われたのだ。
何やらあさってにイベントがあるらしく、人手が要るので手伝ってくれると助かる、と依頼されたが、丁重にお断りした。
寺の外に出ると、待たせておいたリクシャーワーラーが怖い顔をして、えらく長かったな、だいぶ待ったぞ、とぼやき、遠まわしにチップを要求した。まあ、ヴァラナシに戻ったら、少々はチップも弾んでやろう。ゴドリアー交差点に戻ってくれ、というと、繰り返し、彼は長く待たされたことをアピールした。
リクシャーは走り出す。交差点でとまると、冷たい風がやんで西日が顔を焼く。目を細めて、影が長くなった風景を、見るともなく見ながら、私は日本のことを考えた。さっきの日本寺の空間は、まさしく日本だった。なんとなく、インドに在住する日本人住職、という肩書きから想像すると、それこそブッダの化身か、あるいはイッちゃったヒッピーか、そういうものだと勝手に思いこんでしまう。が、現実はさにあらざるなり。そこには普通の日本人がいて、普通の日本的空間を作っていたのだ。
ちょっと話が飛ぶが、私はインドで、ここまででも、たくさんの日本人ツーリストに出会った。でも、さすがにインドに来るだけのことはあって、ちょっと変わった人が多かった。海外旅行通のような人が多く、そういう人はあまり日本人らしくない(非常に乱暴な表現であるが)ことが多かった。また、その人たちも、自らが日本人らしくないことを、誇りに思っているようであった。日本人らしくないため、あまり日本人とは馴染めず、海外にいるほうが楽しい、と、彼らは口をそろえて言うようである。
だが、あの日本寺を見るかぎり、海外に長くいるから日本人らしくないとか、日本人らしくないから海外に馴染むとか、そう断定するのは杜撰であるようだ。私にしても、とりあえずインドで楽しくやっているが、日本寺に入った瞬間、いきなりネイティブの日本人パワーを発揮することができる。そう、海外に馴染めることと、日本に馴染めることは、二律背反の関係ではないのだ。
今ここにいない人についてぼやいても埒のないことだが、日本に馴染めないから海外に行くという人は、海外でなら馴染めるのではなく、旅人としてなら馴染める、ということではないだろうか、と思う。えげつなく言えば、旅人としてしか、通用しないのではないだろうか。日常や人生を彩る友人や家族としては、何かが欠落しているか、何かが邪魔なのかもしれない。
ともかく、私は今まで出会ってきた海外旅行通の人々に、「?」を持ちながら、海外ってのはそういうものなのかな、と納得しようとしてきたのだが、やはりこの疑心は正当なものであると思いなおしたのである。彼らは海外に通用するワールドワイドな新人類を気取っているが、実のところ、他人と、旅人としての絆しか結べない人たちなのだ。とまあ、ちょっと語が荒くなったが、これはデフォルメすればそういうことだ、と言いたいのである。もちろん、会う人会う人がそうであったわけでは無論ない。ごく一部の人たちについてである。ついでに、日本と海外という、度を過ぎて大味な言い方をしている点は、便宜上のものとして、突っ込まないでいただきたい。
さて、もうそろそろサールナートを出てしまう。ここは聖地サールナートであった!もちろんポイントでは入場料をとられる観光地でもある。聖地は神聖だったか?私が神聖を感じたのは、観光名所ではなく、ただ道端に生えている木々と、それにまつわる故事来歴であって、言ってみればそれは私の想像力に依存するものだった。そしてこのインドの聖地にも、何やら日本の空間があったりした。そして、それに馴染む私は日本人であった。海外に住みつこうが、聖地を巡礼しようが、そんなことでは何も自分の中に宿りはしないし、神聖なムードに浸るのもフリだけである。インドの何が、聖地の何が偉い?要は、場所うんぬんじゃなくて、テメーのハートなんだよ。
ワーラーには世話になったので、150ルピーをやった。彼は照れくさそうに笑って、去っていった。そのボロいサンダルを買い替えな、と心に思った。そして私は、日の暮れたバザールの喧騒の中、ぐーっと背伸びをした。あとは、帰りにムーンスターホテルのチキンカレーでも食って、また翌朝、ピューイピピピピを聴こう。
[インド旅行記@ヴァラナシその6/了]
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