第四講 甘え /Quali,恋愛レクチャー集
問1.甘えの実際
友人と電車に乗っているとき、友人が体調を悪くしました。座席は全て埋まっています。あなたはどうするべきですか。「甘え」を排除して答えなさい。
×誤答例
・体調は自己管理の責任なので、放っておくしかない。
○正答例
・座っている人たちに「友人のために席を譲ってほしい」とお願いする。
■解説
もし座席に座っているのが、あなたの友人たちだったら、あなたは席を譲るようにお願いするでしょう。赤の他人であればそれは難しくなります。なぜ友人にはできて、赤の他人にはできないのでしょうか?
それはあなたが普段から友人たちの中で甘えており、そこから出て他人とはコミュニケートできないからです。
逆にもし、あなたが赤の他人に「体調の悪い人がいるので、席を譲ってもらえませんか」と言われたら、あなたは席を譲ります。だから何もおかしい内容ではない。おかしい内容ではないのですが、甘えの中に住む人は甘えの外側に出られません。
また、こうして「包み込み」、外に出られなくする作用を「母性」といいます。マザーコンプレックスの一種であり、日本はこの母性が強い母性社会です。
問2.甘えの構造
甘えとは何ですか。定説を答えなさい。
×誤答例
・虫が好くて、人に迷惑を掛けること。
○正答例
・自分と他人の境界があいまいであること。
■解説
土居健郎の「甘えの構造」が有名です。
甘えとは自他の境界があいまいになることであり、一方、境界が明確に捉えられていることを、「自他の峻別」といいます。
問3.身内
弱気な少年が、母親に強烈な悪態をつくことがあります。なぜ彼は母親には強気に出られ、友人にはそれができませんか。答えなさい。
×誤答例
・母親は許してくれるが、友達には嫌われるから。
○正答例
・母親は「身内」だから。
■解説
自他の峻別というときに、もっとも自他の境界があいまいなのは「身内」になります。身内という語のとおり、自分の身の内側であるかのごとく、境界はあいまいです。その最大は母親と赤子になります。ついで身内(家族、親族)になり、友人、友人ではないがクラスメートや、同じ職場の人、同じ町内の人、となっていきます。友人でも付き合いが親しくなると「身内」のような関係になることがあります。
少年が母親に「包みこまれて」いる、それによって甘えられるが、外に出ることもできない、ということにも注目してください。母性であり、ユング原型論ではグレートマザーとも呼ばれます。
問4.他者
われわれが「他者」というとき、どのような人を想定するべきですか。答えなさい。
×誤答例
・まったく見知らぬ人。街ですれ違う人。
○正答例
・外国人
■解説
中には「他者」というと、殺人犯や統合失調症患者を想定すべきだという人もいます。それには一理ありますが、ここではわかりやすさのため「外国人」を採用します。
日本は島国で、単一民族性も高く、独自の文化を閉鎖的に共有しています。閉鎖的でないと思えたとしたら、それは閉鎖的でありすぎて、他国に閉鎖的だと思われていることに気づけないからです。この島国の地理環境そのものが、日本を母性社会にしたのではないかとも考えられます。
その中から「他者」を想定するなら、外側の人、つまり「外国人」というのがもっともふさわしくなります。
先にあった、電車の中で友人が体調を崩して……という話は、いっそ外国でならなんとかなることがあります。外国の電車で「エクスキューズミー」と呼びかけるほうがやりやすい。それは日本国内で通用する甘えをそこに持ち込んでいないからです。
問5.甘えの検証
成人式で壇上に乱入し、式を壊して得意になる人たちがいました。彼らは甘えていると感じられます。彼らが甘えているということを指摘しなさい。
×誤答例
・あの独特のイヤな感じ、子供っぽさは、甘えによるもの。
○正答例
・彼らは同じことを外国ではできない。
■解説
外国には外国人がいて、外国人は「他者」です。彼らは「他者」の前でそのような乱行はできない。彼らは身内感覚の中でしかそれをやれないということなので、甘えだと言えます。弱気な少年が母親になら悪態をつける仕組みと同じで、彼らは悪態を振る舞ったのです。
問6.共同体
女子生徒たちが、交友のグループをつくり、閉鎖性を持ちます。いわゆる「派閥」を作りました。この派閥を越えての交友は持ちづらくなります。一方、閉鎖性のグループを「学級」で捉えたとき、学級を越えて、つまり隣のクラスの生徒とは話しづらくなります。学年を飛び越えるとさらに話しづらくなり、一方、同じクラブの部員なら話しやすくなりますが、やはり他のクラブ部員とは話しづらくなります。これらの閉鎖性のグループを、その性質において何と呼びますか。答えなさい。
×誤答例
・仲間
○正答例
・共同体
■解説
たとえば職場でふんぞり返っているおじさんがいたとします。彼は、個人でフランスを旅行したとき、その旅先のパーティでフランス人女性に同じ態度は向けられません。それは彼がいつもの共同体の中にいないからです。
母性はこの共同体を作り、共同体の内部では「甘え」が起こります。自他の峻別があいまいになり、さらには、その峻別のあいまいさが暗黙のルールになります。上司から飲みに誘われるのが断りづらいのはこれが理由です。自他を峻別したとき、誘いを断る権利が当然に認められるのですが、峻別があいまいなため、「おれが誘っているんだから当然受けるだろ?」という同調圧力が発生します。
問7.共同体の性質
いわゆる「ムラ社会」という言い方があります。ムラ社会が閉鎖性・排斥性をもつ理由を説明しなさい。
×誤答例
・ムラ社会ごとに、独特の風習があるから。
○正答例
・ムラ社会にとって、自分のムラに属さない他者は「身内」ではないから。
■解説
「ムラ社会」は、共同体の性質が顕著に現れた例です。
共同体の内部では自他を峻別しないことが暗黙のルール化されていますが、これを「癒着」といいます。境界があいまいになり、溶けてくっついている状態です。溶けてくっついているので、互いが「身内」になります。
外部の他者は「身内」ではありません。ムラ社会は、この他者を癒着に取り込むか、それができないときは、排斥する、という反応を持ちます。排斥の対象を彼らは「余所者(ヨソモノ)」と呼び、また排斥の行為を「村八分(ムラハチブ)」と呼びます。若者は「ハブる」と表現します。(「ハチブる」が変化したのでしょうか、諸説あります)
また、共同体の団子に取り込まれた者は、その外部に出ることはできなくなります。「包み込み、出られなくする」という「母性」の特徴に注目してください。
問8.甘えの確認
自分に「甘え」があることを端的に説明しなさい。[身内、外国人]という語を用いなさい。
×誤答例
・わたしは、身内とは仲良くするのに、外国人とは仲良くしづらい。
○正答例
・わたしは、身内に対する態度と、外国人に対する態度が違う。
■解説
甘えを完全に排除するのは現実的ではありません。社会的には、家族・肉親はさすがに「身内」でよいだろうと全世界的に認められているところがあります。
ですから現実的にはこうです。狎(な)れた友人に対する態度と、街中で外国人に道を聞かれたときに起こる態度とで、差がある、というあたりが注目されます。
問9.甘えの確認2
Aさんは「恋愛とか、マジ興味ない」と言います。Aさんは同じことを、外国人の集まる会合で、壇上に立ってマイクで言うことはできません。なぜですか。また、言えるようになるためにはどうすればいいですか。答えなさい。
×誤答例
・壇上ではヨソ行きの自分になるから。言えるようになるためには、そこにいる人たちと先に仲良くならないといけない。
○正答例
・普段の言葉は、甘えの中での「駄々こね」であるから。言えるようになるためには、ポジティブシンキングによって、「今のわたしが恋愛に興味を持つためには、新しい展望が必要です」と言い換えねばならない。
■解説
子供は何かを買ってもらおうと、地団太を踏み、「駄々」をこねます。けれども母親に対してだけです。「駄々」は甘えの中でだけ噴出することを許され、これは子供の成長過程のひとつとなります。
ですが成長過程で解決するものなので、大人がそれを残していると、「子供っぽい」と軽蔑されます。甘えは不必要なものではなくあくまで子供の成長過程に必要なもので、子供のころにその体験を不足させると、むしろ不足したまま大人になり、子供っぽい大人になります。
問10.甘えの確認3
「他人のことはわからないものだ、だから人の話をちゃんと聞こう」と言います。この言について、甘えと自他の峻別はどう見られるか、述べなさい。
×誤答例
・人を見た目で「こうだ」と思い込むのは甘え。他人のことはわからないのだから、ちゃんと話を聞いて理解するべき。
○正答例
・他人が本当のことを話すとは限らない。聞いても理解しあえるかどうかはわからない。
■解説
「話せばわかる」という言い方があります。それは半分は真実ですが、半分はうそです。「話せばわかる」なら、詐欺師にひっかかる人はいないでしょう。むしろ人は詐欺師と話すことで騙されてしまいます。
それでも人の話を聞くのは、聞かなければその半分の真実も得られないからです。ですが聞いた上で半分です。そのことを知っているので、人はよく自分に「人を見る目」が必要だと感じます。
逆の例としては、その人の話、言っていることはひどいのに、心根はやさしい、という人があります。そういう人を見抜ける人は、「人を見る目」があると言われます。
問11.愛
あるミュージシャンが、手料理をしながら、あるファンの質問に答えて、「お前のために歌ってはいない、おれ自身と、恋人のために歌っている」と言いました。ファンは「……そうか。そうだよな」と落ち込みました。ひとつの話が終わりました。
ミュージシャンは彼に「朝食、食べていけよ」と勧めました。ファンは「ああ」と答えました。
このミュージシャンが朝食を勧めた原理は何ですか。答えなさい。
×誤答例
・お詫び。あるいはやさしさ。
○正答例
・兄弟愛。
■解説
たしか、ジョン・レノンの実話だったと思います。例題のミュージシャンはファンと癒着しておらず、ミュージシャンとファンの共同体を形成していません。互いに他者で、峻別されています。
この峻別の上で、互いの幸福に寄与しようとする積極的な心を、兄弟愛といいます。峻別された他人同士でも、同じ人間だ、と兄弟性を見出す心です。
問12.愛2
B君は、「嫌いな女にでもオゴる。嫌いな女にこそオゴるわ」と笑いました。彼の兄弟愛について指摘しなさい。
×誤答例
・嫌いだからといって差別するのは、人間が小さい。男のマナーとしてオゴるべき。
○正答例
・嫌いでも兄弟性は変動しない。
■解説
自他峻別の上の他者に兄弟性を見るならば、彼について「好き」であっても「嫌い」であっても、その兄弟性自体は変わりません。好きな兄弟か嫌いな兄弟かという差しかない。
このように、愛はむしろ、好きな者に対してより嫌いなものに対してこそ明らかに露出することに注目してください。
問13.愛3
A子さんは、「わたしは家族が好き、友達も好き、知り合った人もみんな好きだし、みんな愛しているの」と言います。A子さんの言を破綻させなさい。
×誤答例
・「みんなを愛しているなんて、誰も愛していないことの証拠よ」と指摘する。
○正答例
・「うるせえぞこのブス」と言ってやる。
■解説
「うるせえぞこのブス」と言われたら、A子さんはショックを受け、その人のことは好きでなくなり、愛しているとも言えなくなるでしょう。
なぜこのようなことが起こるかというと、A子さんは、他人が自分にそんなことを言うわけがないと思い込んでいるからです。けれども本来、他人が何を発言するかはわかりません。つまりA子さんは自他の峻別ができていないことになります。
A子さんは日常的に、「あなたはわたしにひどいことを言わないわよね?」という無言の同調圧力を出力しています。
……ところで、「うるせえぞこのブス」などと言う人は、ひどい人だからと、兄弟性を失うでしょうか? 聖書には「汝のごとく、汝の隣人を愛せ」という文言があります。この「隣人」というのは、外国人、さらには敵国人のことを指しています。
問14.阿諛(あゆ)
B君は結婚式のスピーチに緊張します。そのうち、彼は芝居がかって、「あの、自分は、こういうのが、苦手で、緊張して、その、つまらない話を……」と先に宣言するのが得意になりました。彼のやりかたはどのような作用を求めてのものですか。[他者、癒着、阿諛]の語を使って説明しなさい。
×誤答例
・素直になり、正直に言うことにして、かっこうつけるのをやめた。
○正答例
・峻別された他者に向けて話すことができないため、癒着を呼び込もうと阿諛(あゆ)した。
■解説
甘えに住む人は、甘えの中、共同体の中でしかコミュニケートできません。けれども場面によって、外部の他者とコミュニケートする機会に立たされることがあります。そのとき彼は、まず他者と癒着することを目指し、甘えを形成してからコミュニケートするという方法を採ります。そこで用いられるのが阿諛(あゆ)です。阿諛とは、相手の顔色をうかがい、相手の気にいるようにふるまうことです。おもねり(阿り)、へつらう(諂う)と言います。緊張してしどろもどろになる若者……というのが、そこにいるお歴々の「気に入る」だろうということを見越して、彼はその振る舞いを演出します。そうして彼は他者と「甘えあいっこしましょう」という合意を暗黙に取るのです。
阿諛による甘えの形成は、当人でなく、相手のためによって用いられることもあります。相手が甘えの中に住み、共同体の中でしかコミュニケートできない者だった場合、こちらからアプローチするのには、仮にでも彼と「甘えあいっこ」を合意するのが有効な手立てになります。男性の一部に、レディとお話するよりも、酔客として「シャチョーサン」と呼ばれて相手をされるほうが楽しいと感じる人があるのはそれが理由です。縁もゆかりもない他人が彼を社長よばわりするのは、共同体の仮想を表現するものです。
問15.自他の断絶
甘え・自他の峻別・自他の断絶、この三つにつき、それぞれの性質を[癒着、兄弟愛]の語を使って説明しなさい。
×誤答例
・甘えは癒着。自他の峻別と断絶は、愛があれば兄弟愛。
○正答例
・甘えは自他癒着の関係である。自他の峻別は、それを越えた兄弟愛が交わされることで成立する。兄弟愛が交わされない場合は自他の断絶となる。
■解説
「他人のことなんか関係ないし」という人がいます。彼らは公共の場でも大声で携帯電話で話し続けます。マナーが無いのではなく、彼らには他人が存在しないのです。物理的には存在しますが、「断絶」しているので存在を認めていません。他人がいないので、彼らはどこでも自分の部屋にいるような振る舞いをします。
問16.自他の断絶2
Aさんは、「甘えはダサい」という価値観を持っています。Aさんは、[ある二者択一]によって、自他を断絶することを選びました。[ある二者択一]とは何ですか。答えなさい。
×誤答例
・他人のことなんかどうでもいいや、と思うか、それではいけない、と思うか。
○正答例
Aさんは甘えの関係を作るノウハウしか持っていない。そこで、「甘えのダサい関係を作る」か、「甘えのダサい関係なら要らない」か、二者択一に迫られ、要らない、というほうを選んだ。
■解説
「甘え」が一番ダサい、という価値観が、最近は育ってきています。多くの人に身近に感じられるのではないでしょうか。
「甘え」がダサい、という価値観には説得力があります。が、それは必ずしも、甘えでない関係を作れることを保証はしません。
甘えでない関係を作れない場合、「甘え」を「ダサい」として切り捨てることは、ただ全ての関係を断絶するだけになります。良くも悪くも、これは現代の流行です。
▼復習ポイント
以下の二者択一を比較して、兄弟愛の不可欠を確認しましょう。
・「甘えのダサい関係を作る」or「全ての関係そのものを断絶する」
・「甘えのダサい関係を作る」or「自他峻別の上で兄弟愛の関係を作る」
問17.自他の断絶3
Aさんは、人に甘えを持たないように心がけています。けれども彼氏ができると、彼氏に強く依存するようになりました。なぜですか。答えなさい。
×誤答例
・彼氏は特別な存在で、自分の認めた存在だから。
○正答例
・自他の断絶の中で唯一甘えられる「身内」だから。
■解説
「甘えはダサい」ので、甘えの関係を持たないようにします。けれども甘え以外の関係を作るノウハウは無いので、人と無関係になっていきます。
その孤立の中で、唯一関係を持てる人が彼氏なので、これを失うと孤立に逆戻りすると、恐ろしくて依存が起こるのです。
問18.まとめ
以下の空欄を埋め、選択肢は正しいものを選びなさい。
甘えとは、自他の( )が曖昧になることである。自他がくっついてしまうということで、自他の( )とも言う。この反対に、甘えが解決された状態を自他の( )という。日本は( )社会であるので、特にこの甘えの傾向が強い。ユング原型論ではグレートマザーとも見られるとおり、この性質は「(1.甘やかし 2.包み込み)、出られなくする」である。
自他というとき、他者として第一に想定するべきは( )である。その反対に、他者でないものは( )である。甘えの性質は、人人のグループを作り、そのグループ内を他者でないものにしていく。この性質を持ったグループを特に( )と呼ぶ。その代表的な例が「ムラ社会」である。
ムラ社会は、その性質によって、外部の者に対して閉鎖的で、( )的である。外部性の者を古くから( )と呼び、( )という行為をする。若者言葉では( )ともいう。
こうした甘えの中に住む者は、外部の他者とコミュニケートすることができない。それでも、そのような機会に立たされたとき、彼は( )を用いて、まず甘えを形成しようとする。「( )しましょう」という暗黙の合意を取るのだ。
甘えを断ち切ったなら、他人はしょせん他人で、どうでもいい……というわけではない。あくまで他人であるが、それを越えて人の幸福に寄与しようとする( )が交わされる。これについて特に強調されるべきは、人の愛は(1.好きな人に向けてなら 2.嫌いな人に向けてこそ)露わになるということである。
日本は国際化に向けて精神文化の西洋化を急いだが、聖書まで輸入したわけではなかった。それによって、甘えを断ち切る一方、甘えでない関係を作れるわけではなかったので、ただ自他を( )するという愚かな発想に陥りがちになった。そうして孤立した人間にとって、他人は(1.気にならない 2.存在しない)。彼らはどこでも、自分の部屋にいるかのように振る舞う。彼らの価値観はいま、「甘えは( )」という捉え方だけで育っている。それで(1.便宜上 2.二者択一)の結果として、彼らは「他人なんかどうでもいい」となった。
聖書には、「( )、汝の隣人を愛せ」という文言がある。ここでいう隣人というのは、むしろ(1.家族 2.敵国人)のことだ。これは我々が「他者」をどう捉えるべきかへの強力な示唆である。他者として第一に( )を想定したとして、自分の普段の振る舞いは、いかに他者に向けたものと違う、甘えに満ちたものだろうと、常に観察されてよい。
○解答
甘えとは、自他の(境界)が曖昧になることである。自他がくっついてしまうということで、自他の(癒着)とも言う。この反対に、甘えが解決された状態を自他の(峻別)という。日本は(母性)社会であるので、特にこの甘えの傾向が強い。ユング原型論ではグレートマザーとも見られるとおり、この性質は「(包み込み)、出られなくする」である。
自他というとき、他者として第一に想定するべきは(外国人)である。その反対に、他者でないものは(身内)である。甘えの性質は、人人のグループを作り、そのグループ内を他者でないものにしていく。この性質を持ったグループを特に(共同体)と呼ぶ。その代表的な例が「ムラ社会」である。
ムラ社会は、その性質によって、外部の者に対して閉鎖的で、(排斥)的である。外部性の者を古くから(余所者)と呼び、(村八分)という行為をする。若者言葉では(ハブる)ともいう。
こうした甘えの中に住む者は、外部の他者とコミュニケートすることができない。それでも、そのような機会に立たされたとき、彼は(阿諛)を用いて、まず甘えを形成しようとする。「(甘えあいっこ)しましょう」という暗黙の合意を取るのだ。
甘えを断ち切ったなら、他人はしょせん他人で、どうでもいい……というわけではない。あくまで他人であるが、それを越えて人の幸福に寄与しようとする(兄弟愛)が交わされる。これについて特に強調されるべきは、人の愛は(嫌いな人に向けてこそ)露わになるということである。
日本は国際化に向けて精神文化の西洋化を急いだが、聖書まで輸入したわけではなかった。それによって、甘えを断ち切る一方、甘えでない関係を作れるわけではなかったので、ただ自他を(断絶)するという愚かな発想に陥りがちになった。そうして孤立した人間にとって、他人は(存在しない)。彼らはどこでも、自分の部屋にいるかのように振る舞う。彼らの価値観はいま、「甘えは(ダサい)」という捉え方だけで育っている。それで(二者択一)の結果として、彼らは「他人なんかどうでもいい」となった。
聖書には、「(汝のごとく)、汝の隣人を愛せ」という文言がある。ここでいう隣人というのは、むしろ(敵国人)のことだ。これは我々が「他者」をどう捉えるべきかへの強力な示唆である。他者として第一に(外国人)を想定したとして、自分の普段の振る舞いは、いかに他者に向けたものと違う、甘えに満ちたものだろうと、常に観察されてよい。
あとがき.
長い講になりました。甘えについて正しい理解が得られましたか。
いわゆる「甘え」は、本当に「甘い」のでしょうか? そのことには疑問があります。
日本では近代に入るまで、基本的に、自分の生まれ育ったところを出るものではありませんでした。徳川300年の幕藩体制が特にそうですが、そのはるか以前からも、街道には「関所」というのがあり、通行手形が無いと通れなかった。地域ごとに閉鎖されていたのです。このことを覚えておいてください。つまり社会体制そのものが、「包みこみ、出られなくする」という仕組みで出来ていた。「外部」へのアクセスは基本的に禁止だったわけです。これは歴史であり、日本人の血筋に入っている思想だと言わざるをえません。もちろん、その前近代的な封建制では、国際化の波についていけなかったので、改革せざるをえなかった、その改革が明治維新にあたります。けれども血筋に入っているものが、それで抜けきるというわけでもない。
「甘え」が「甘い」のかは、やや疑問が残ります。関所を通れず、勝手に外に出たら打ち首などというのは、ある意味では厳しいといえます。そのほか、花魁(おいらん)や太夫(だゆう)といった、遊女の世界、「遊郭」というのを聞いたことがありますね。よく映画化もされます。けれどもあの遊女たちも、苦界と呼ばれたあの「遊郭」から、基本的に外には出られない人たちでした。遊郭で生まれ、遊郭の中で育ち、遊郭の壁の内側で死んでいく……という、閉鎖世界に住まわされた人たちだったのです。これだって、厳しいといえばすごく厳しい。
もし何かを「甘い」といえば、そうした閉鎖の厳しさを免れて自由になり、一方で、その自由に課される兄弟愛にも取り組まないとなれば、それはずいぶん虫の好い、「甘い」考えかもしれません。「甘えがダサい」と感じられるとき、それは自由ぶりながら閉鎖の母性を求めていたり、閉鎖の母性に甘えながら、自由を求めていたりという、どっちつかずの虫の好さが、ダサいのかもしれません。
もちろん今さらになって、幕藩制度の閉鎖性へ回帰することは現実的ではないでしょう。けれども、人は危機に際しては「地」が出ると言います。東日本大震災と、経済面や高齢化社会などの危機を喰らって、わたしたちは思わずその「地」、幕藩制度の閉鎖性を夢遊に手探りしてしまうところが出てきているように感じます。つまり、いつの間にか「甘え」の濃厚なほうへ帰ろうとしていると。その血筋にあるものは認めざるを得ない一方、今のところその方向が実りをもたらす可能性は現実的ではないと思えます。
問題と解答を丸暗記してください。「甘えとは何か」を正しく吸い上げるうち、自他を峻別したあなたというのが自ずと立ち上がってきます。
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