はじめに /Quali,恋愛レクチャー集
本シリーズ稿は、私自身がこの数日(2012年12月)に、全て書き下ろしたものです。これについて、いささかの前置きが必要だと感じ、この「はじめに」のページを作成しました。このページは、レクチャー内容に前向きな効果をもたらすものではありませんが、ある強引な手法に受講生を引きずりこむ前に、お話しておくべきことがあります。
恋愛などというものに、前もって「答え」を据えつけるのは、根本的に誤りです。私はその誤りを信じて、長い間このような手法を採ることを拒否してきました。また私は私自身について、教育や教材を手がけるのに足りる器量も教養も持ち合わせていないと自覚する者です。それでも本レクチャー集は、その「答え」を、一方的に教授することを目的にしています。今さらこのような手法を選択したのには理由があります。
「はっきりとした答えを教えてほしい」と、踏み越えての要請を受けることが、じっさい僕自身にあります。またそれを与えられるために、はるばる遠方からお越しくださる方も少なくありません。「教えてくれる人がいないんです」と、正直さの告白をぶつけられると、私が内心の引け目などから、その「答え」の教授をしないことが、むしろこれまで不誠実に感じられてきました。
また逆に、全てを踏み越えて一方的に「教える」という態度を採ったとき、それこそが人の眼を輝かせ、実りをもたらした、ということも実際に多くあったのです。
それらの、実際にある要請や経験に基づき、私はこれを作成するものです。恋愛をレクチャーするということ、「答え」を与えるということの不健全さを認めながら、これに打ち勝つためには、中途半端なやり口にするべきではない、と信じます。私自身、教養のレベルはともかく、恋愛の周辺にある現象、我々自身が持つ心のはたらきについて、まったく無知かというと、そうではない、という自負があります。そして、それを教授可能な「知識」の形にまとめること、それが私には出来るという自負によって、これを作成します。
恋愛はきっと、個人的な経験です。「答え」を先に授かってするものではない。けれどもどうでしょう、教習をまったく受けずに路上で運転を始めるのは、合理的だと言えるでしょうか? 教習を十分に受けてさえ、ドライバーは事故を起こすというのに。確かに、事故はドライバーに疑いなく強力な経験を与えます。けれども、その経験は本当に喜ばしいのか。またそこに費やされるコストを、本当に我々は平気で負担してゆけるのか。
事故を起こしたドライバーが、経験を得て、豊かな運転技術を得るのならばまだ良いですが、意外にそうでもないのです。恐怖心だけが植えつけられて、息苦しい安全運転しかできなくなる人も、実際には多い。その有様を見て、実地経験だけを賛美することは、いささか偏っているのだという見方を、我々は認めることができるはずです。我々の生きる日々が無限にあるならば、実地経験の中をひたすらゆくのは、きっと美しいことでしょう。けれどもそうではない、我々が実りの豊かな中を生きてゆけるのは、せいぜい一万日ぐらいしかないのです。つまり、せいぜい、十五歳から四十五歳まで。
このレクチャー集は、その限られた一万日を豊かにするために、先に一定の「答え」を教授することを目的にしています。
どのようなレクチャーが展開されるかを、予告しておきましょう。たとえば恋愛に関わって、人を「労(いたわ)る」ということは大切なはずです。そのことを認めない人はいませんし、また「労る」ということ自体を、知らない人は一人もいません。誰でも知っている、自分も……
という気がしているのです。
けれども、「では、労りとは何ですか?」と問い重ねたとします。するとそこには、あいまいな答えしか返ってきません。そして多くの場合、重要なことがらの全ては、けっきょく「気持ちの問題」で片付けられるのです。本レクチャー集は、そのあいまいな返答の仕方を、「わかっていない」と断ずるものです。「労り」とは何であるかの「知識」がない。
本レクチャー集の第一講は「いたわり」です。その中で、「労りとは、労の返報である」と解説されます。確認していただきたいのは、「労りとは何ですか」と尋ねたとき、よもや「労の返報だ」と答えるような人は、実際にはいないということです。
「知識」があったとして、それが「実践」されるかは、また別問題になります。それは当然のことですが、本シリーズ稿はあくまでレクチャーですので、その実践には口出ししません。本レクチャー集の立場は、あくまで「知識」の教授に徹するものです。その立場は、「知識なしに実践などできない」という土台に立っています。ガイドブックを持たずに旅をするのが、きっと本当の旅でしょう。けれども全てのガイドブックを根絶やしにしたらどうなるか? 人人はきっと、旅に出ることそのものをやめてしまうでしょう。
前置きは以上です。レクチャーはあくまで「知識」の教授として進行します。「知識」を吸い上げるのは、しんどくて、おっくう……という気がしますが、それはあくまで、その吸い上げの効率が悪いときだけです。これは確かに「知識」だと信じられるものが、ぐいぐい自分に吸い上げられていると感じるとき、人はそれをおっくうには感じません。
ではお楽しみください。
2012年12月20日
九折空也
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