おわりに /Quali,恋愛レクチャー集
お疲れ様でした。ここまでの講義は、あなたの脳に一定の負担を強いてきたと思います。最後に確認しておきたく思います。その負担はあなたにとって喜ばしいものです。
ここまで、労り、積極性、ポジティブシンキング、甘え、自己中心性、自信、感じる、関係、素直さ、重さと理知……という講義をしてきました。そしてこれらの単語は、これまでのあなたにとっても、決して知らない単語ではなかった、ということに注目してください。あなたの脳に負担が掛かったのは、これらの、知っていたつもりの単語が、全て正しい知識に仕立て直されたからです。人間の脳は、「こうだ」と思い込んでいたものを変更するのには一種のショックを受けるのです。たとえば観音菩薩像に合掌する人に向けて、これは仏像じゃありませんよ、と言うとショックを受ける。でも菩薩は仏ではありませんから、正しい知識です。ここでショックを受けることは、彼にとって見逃せない体験です。「菩薩とは仏になろうとして修行中の人ですから、いわばあなた自身も菩薩ですよ」という正しい知識は、彼の心を正しく勇気づけるでしょう。
あなたはこれまでに、少なからず、人に愛されようとし、また人を愛そうとしてきた。そして今もなお、あなたはそれをこっそり続けています。人を愛そうというのはつまり、人を労り、積極的に振る舞い、ポジティプに物事を捉え、甘えに堕落せず、ジコチューにならず、自信の輝かしさをもって、人のことを観察するのではなく感じ取り、空虚ではない関係を築こうとし、自分はそれに素直な者であろうとした、そして「重い」と言われないように、明るく賢く、人を励ませるようにと努力してきた……ということです。それは恥じることではなく、あなた自身がひとり誇りに思ってよいことです。
けれども、そうした志はあっても、そのひとつひとつについての正しい知識がこれまであなたにはありませんでした。およそこのレクチャー集に取り組んだ人の中で、自分の物事の捉え方はまったくこのレクチャーの通りだった、というような人は皆無に等しいはずです。それはあなたに責任のあることではない。我々の生きる空間では、重要な言葉ほど、歪んで粗雑に受け取られているのです。重要な言葉……たとえば「無意識」「自己実現」「他力本願」「カリスマ」「トラウマ」といったような語の全ては誤解されています。この誤解を解くのは難しく、説明するよりは、正しい知識を丸暗記してしまうより他には方法は無いというのが実際のところです。そして、あなたはその丸暗記をしたのです。あなたはこれから生きていく何十年もの間で、人を労り、積極的に振る舞い、ポジティブに物事を捉え……ということをしていく。それについて、正しい知識の無い者に、あなたは敗北する気がしますか。むしろ気が遠くなるでしょう。正しい知識の無いまま、それに向けて漠然と努力していたら、どれほど報われなかったかと想像すると。
人は、世の中のほとんどのことを、全てすでに知っているように錯覚しています。けれども、よい例証を挙げておきましょう。知識というのは、はっきりと獲得するその以前は、獲得していないのです。たとえば我々は「無意識に」という言葉を容易に使いますが、人の精神に無意識のゾーンが存在することは、今から100年前にフロイトが気づくまで誰もその存在を知りませんでした。その無意識に夢が繋がっているということや、エディプス・コンプレックス(マザーコンプレックス)というような現象も、フロイトやユングが指摘するまでは誰もそのことを知らなかったのです。クロード・モネの絵は印象派の名画として今や誰でも知っていますが、あれも画壇に初めて出されたときは「描きかけの絵だ」と嘲笑の的になりました。古代エジプトの人人がピラミッドを作り、自身をミイラ化する葬法を採っていたことを、我々は笑うべきではありません。彼らの生まれた時代には、まだキリストもブッダも生まれておらず、当然その教えも無かったのです。人が生きること、また死ぬこととは、何なのかということに、一切の知識が与えられていませんでした。アインシュタイン一人の頭脳が相対性理論を導くまで、我々はエネルギーといえば何かを燃やしてしか生まれないと思い込み、また太陽がなぜ燃え続けているのかをずっと知らなかったのです。
知識は、どこかではっきり獲得するまで、獲得されないものです。この情報化社会の中で、知っている「つもり」にさせられるだけで。海の水はなぜしょっぱいか? 岩盤の塩分が染み出て……という説を真に受けている人も少なくありません。けれども本当は、太古の時代には塩酸の海だったものが、中和されて塩分となって残っているからです。地球は磁極を持っていて、方位磁針が北を指すということは誰でも知っています。が、なぜ地球が磁極を持っているのか、ということまではほとんど知らない。地球の内部の核は帯電した高温の鉄やニッケルで出来ています。地球は自転しますから、帯電した鉄やニッケルも回転します。帯電したものが動くと電流になりますから、この回転電流が地球に磁極を作り出しています。雪の斜面にスキーを履いて立つと滑りますが、あれも寒さが極端になると、逆に滑らなくなってしまいます。現代工学では京都の三十三間堂を作ることはできませんし、村正のような日本刀を作ることもできません。流体力学ではなぜイルカがあのフォルムであんなに早く泳げるのかわかりませんし、それどころか実は飛行機がああして空を飛ぶ原理も本当にはよくわかっていないのです。それらの知識も、人類がやがてどこかではっきり獲得するまでは、それを「知っている」とは言えないままです。
もちろん、それらの自然科学のような知識は、知らなくても済むといえば済みます。けれども、自分自身が生きることについての知識は、知らずに済ませると自分が損をするばかりです。大いなる知識に比べれば、ごくわずかな規模ですが、あなたはこの十の講義で、重要な知識を得ました。これらがやがて、より高度な知識に塗り替えられることがあったとすれば、それはあなたの飛躍です。けれどもそれまでは、あなたが今手に入れた知識を喜び、そして決して、いつぞやの「知っているつもり」に堕落することのないように。保証してよいのは、たとえば「労り」ひとつについても、誰に尋ねてみてもよいです、「それは気持ちの問題さ」と人人は答えるでしょう。そしてあなたはすでに、その答えにまるで満足しないということです。
あと、最後なので、厳しげなことも、あえて申し上げておきます。これは必要な警告です。新しい知識、こちらこそが正しいと信じられる知識に、出合い、触れた……ということで、気持ちよくなって、どうぞそれで「おしまい」にはなってしまわれないように。新しく、正しいと信じられるものに出合ったときには、ある種の快感があります。けれども、その快感を元に、自分が何か特別な存在になったような、正しい知識を持っているような思い込みをしたら、それはとんでもないことです。知識を丸暗記して自分のものにしてしまうまでは、あなたの畑はまだまだ掘り起こしてもこれまでの「雑草」しか収穫できません。そのために、これはあくまでレクチャーであって、丸暗記してしまうまで完了しません、としつこく申し上げてきました。そしてその丸暗記に実際取り組んでいる方は、次のことを痛感しているはずです。つまり、新しい知識を獲得するより、旧来のあいまいな思い込み、その「雑草」を引き抜くほうがはるかに厄介だということを。自分の旧来の思い込みは、しょうもないものだ、といくら分かっていたとしても、それは根深く食い込んでいるので、決別にはかなりの汗を掻かねばならないのです。本レクチャー集を、楽しむというより、「さっさと終わらせたい」と感じ始めたころ、あなたは本当に知識を獲得し始めています。
物珍しい、知識の形態をした、面白いものに触れたよ……ということで、気持ちよくなっておしまい、という楽しみ方も、確かに本レクチャー集の利用法のひとつとしてありえます。それはそれで、有効な楽しみにされたことは喜ばしいことで、それ以上のことはこちらから申し上げるべきではありません。けれども、それはあくまで、新しい知識の獲得であるとか、刷新であるとかいうことではない。そのときは堂々と、面白かったけれど、獲得はしなかったよ、と、一時の余暇の愉しみであったとご確認ください。それは何も不毛なことでも、虚しいことでもない。余暇の愉しみは豊かなほうがよいのです。獲得するということについて、何を決意し、何を獲得していくかは、人それぞれ、人生の選択です。人はときに、「自分は何も獲得しない」と、その習慣の支配に甘んじて数十年を生きていくこともあります。それがどうなのかという価値観や人生観の話は、本レクチャーの取り扱うところではありません。ですが私が胸を張るべきところはきっと、本レクチャーの知識を「獲得」した人とそうでない人とでは、やがて巨大な差がつくだろう、というところです。
知識とその実践は、やはり別のものです。経験不足の精神と身体は、知識として知っているはずのことをしばしば裏切るでしょう。けれどもそれはしょうがないことです。重要なことは、そのとき自分が経験不足と未熟から、大事なことを実践できないでいる、と確信できることなのです。その確信がなければ、多くの失敗の経験が、あなたをただ残念な気持ちにし、次なることへ取り組ませるのに怯ませる、怯懦(きょうだ)という作用しか持たなくなります。もちろんそこから経験を積んでもいくのですが、いわゆるひたすらの我流から正しいフォームに行きつける人は「才能」です。才能のある人は知識など必要ないでしょう。けれども全ての方面にそうした才能を持っているとみなすのはいくらなんでも過信です。人生の日々が無限にあるのなら、そうして実践のみの追求でいくのはきっと楽しいことですが、そうではない、人生の実り豊かな日々というのは、誰にとっても一万日ぐらいしかないのでした。つまり、十五歳から四十五歳ぐらいまでの現実を豊かにするために、本レクチャーはあなたに与えられたものです。
「経験」、経験は確かに必要です。訓練、稽古、といったことも必要です。けれども、経験や稽古というなら、本当のことを申し上げましょう、それが本当に身に付きはじめるのには最低五年は必要で、身に付いたなと言えるようになるには十年ぐらいは必要になります。それだけの長さが必要なら、これはもうレッスンに通ってどうこうできるものではありません。人生そのものが「経験」、その訓練や稽古の場になります。そうでなければ、とうてい時間が足りない。これは珍しくもなんともない、当たり前のことです。たとえば十五歳の少年が、剣道の道場に通うようになった、剣道少年として生きて、十年後、二十五歳になったころ、彼はようやく剣道をそれなりに身につけているのではないでしょうか。剣道というスポーツのあのシンプルなことを見てください。メン、ドウ、コテ、ツキ、残心、ぐらいのものです。そんなものを身につけるのにでも十年の経験が必要になるのです。
両親の教育の重要性がよく言われる理由もここにあります。子供は両親と十年以上、濃密な関係を生きます。その中で、たとえば母親が、人を「労る」ことだけには厳しく、それをおろそかにすることを許さなかった、ということがあったなら、十年後、その子供は人を「労る」ということを身につけているのです。仮に両親が、他のことにはまったく厳しくなかったとしても、「自分の内側の声を聞き取りなさい」と、それだけはしつこく言い続けたとしたら? その十年間は、子供に必ずその「自分の声を聞き取る」という実用的な能力を与えます。よく、子供のうちは頭が柔らかく、なんでも身に付けると思われがちですが、そうではないのです。子供から大人になるまで、子供は長い時間それを続けるから、結果的になんでも身につけてしまうということなのです。
誰でもよいので、この人は一つの経験を、一つの訓練を、ずっと続けているなという人がいたら、尋ねてみてください。それを身につけるにはどれぐらいの時間が掛かるかを。五年やっている人は五年と答えるでしょうし、十年やっている人は十年と答えます。それは経験五年の彼が経験十年の彼になったとき、五年前は実はまだまだ身についていなかったと知ることになるからです。
経験とか訓練とかはそういうものですから、あなたはある種の人人を笑いとばしてかまいません。知識は役に立たないとか、経験を積まなきゃだめだよとか、そればかりを言う人をです。経験を積むしかないということは真実ですが、経験するということの所要時間を知っている人は、それをそのように軽々しくは言いません。そして経験を積むことを実際にしている人ほど、正しい知識、正しいと信じられて自分を励ましてくれる知識を、心の底から求めています。正しい知識か、その指導者がいなければ、そもそも訓練自体できないじゃないか、と彼らは身に染みて知っています。
あなたが知識を丸暗記したら、それをここで学んだということは忘れます。学んだ内容は覚えていますが、どこでどう学んだものかは、意外と忘れるのです。それは忘れてしまってかまいません。それはもう、知識を自分のものにしてしまって、借り物ではなくしてしまったということですから、むしろ喜ばしいことです。もちろん、知っているはずの知識を見失い、どうしても思い出せなくなる、というときもやってきます。けれどもそのときも心配は要りません。それは、「自分は何か大事なことを忘れている」という感覚がずっと残るからです。それはやがて自分を知識の回復に向かわせますし、さらには、新しい知識、新しく必要な知識の獲得に、自然に自分を向かわせます。そうしてあなたの知識と経験は、互いに構築を助けていくのです。
ではでは、あくまで丸暗記、それには繰り返しとスピードだということをお忘れなく。その丸暗記の手法自体、あなたの手に入れた知識のひとつとなるでしょう。やっかいな課題が人生に現れたとき、まず丸暗記だ、繰り返しとスピードで……と、あなたの発想が勝手に機能するようになっています。スピードというのは、あなたの脳にちょっと無理が掛かるスピードにすることが大事です。それによってあなたの脳が、どのテンポについていかなくてはならないのかと、状況を楽しみはじめますから。丸暗記が役に立たないというのはウソです。丸暗記したものほど、たとえば頭に入っている近隣の電車の路線図ほど、無意識に使いこなしてしまうものはありません。それが人生を豊かにするか? というのは、確実になるのは、五年後や十年後の話になりますが、それが確実になったときはもう、出遅れた人が追いつきようのない、そして出遅れた人にとっては認めたくもないような、巨大な差になっています。
まあでも、そこまで大きなことを言わなくても、知識をしっかり丸暗記して次の季節、あなたは人に触れることの楽しみを別の楽しみに引き上げていますし、あなたの友人や恋人は、あなたの存在を以前の倍ほども喜ぶでしょう。その差がどこから生じてきているのかは、あなた以外の誰も知りません。
本レクチャー集をもう一度振り返って。労り、積極性、ポジティブシンキング、甘え、自己中心性、自信、感じる、関係、素直さ、重さと理知。これらの単語は、すでにあなたの知識構造を刺激してやまないはずです。そして、補足になりますが、勘の良い受講者には感じ取られていると思いますが、それぞれの講義はその主軸となる知識の応答が組み込まれています。たとえば、労りとは? 労の返報だ、作法的労役だ、と。関係とはつまり? 持ち込みをしない白紙化の純粋関係だ、と。この主軸をただちに掴まれる方は、いわゆる「要領がいい」のですが、本レクチャーは筆記試験対策のものではありません。どうかごまかさず、主軸以外に思える例題についても、丸暗記されるようにお願いいたします。確かに、武器となる知識はその主軸がメインになるよう設計されているのですが、その主軸がブレないよう、主軸たりえるように保たれるためには、その周辺の知識も必ず要るという仕組みになっています。体系化した知識の丸暗記は有用ですが、ツマミ食いした丸暗記は役に立ちません。
では、最後になりましたが、本レクチャー集を、真剣に受け取ってくれた方に、僕はその作り手として、また一人の人間として、お礼を申し上げたく思います。ありがとうございました。このレクチャー集が、あなたの疑問によく答え、あなたに豊かな実りを与えることを信じ、祈っています。
九折空也
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