第二講 「頭が弱くなる」時代/現代と恋愛
さて第二講が始まります。少し先の講義の復習をしましょう。「脳の立場になって考える」ということでした。確認のためにひとつ例え話をします。
たとえば台風が直撃した夜に、玄関先に出てみます。すると空におそろしい風鳴りがしています。低い黒雲がねじれながら飛んでいく。吹き飛んでくる砂塵、頬に当たる痛いほどの雨滴。押し倒されそうになる風があり、肺がウッと詰まって呼吸が止められてしまったりもする。ドタンバタンと、頼りなくて壊れそうなバラックの小屋。なぎ倒される自転車。狂暴な熱帯低気圧の匂いと、温度と、その湿度。それらを一気に身に浴びたあなたは、もう何か怖くなって、急いで家に戻っていくかもしれません。
一方、スマートホンで台風情報を調べます。風速は○メートル、中心気圧は○ヘクトパスカル、進路は北北東で、時速○キロ。
これら両方の情報を比べて、脳に与えられる情報「量」が多いのはどちらだ、という話でした。いわずもがな、生身を台風に直撃された側に決まっています。比べて、端末からピピッと操作で得られる情報などというのは、脳の体験する情報「量」としては、砂粒みたいなもの、実質ゼロと言ってよい、ということでした。IT革命というのは、その砂粒のような情報を、すばやく、「無数」に、扱うことのできる、情報「数」の革命だということでした。
では、その砂粒情報にとても優秀なIT端末ですが、これを使い込むことで人間はどうなるのでしょうか。それについてのお話が、この第二講になります。では駆け抜けてください。
パケット情報と全体的情報
二つの造語を持ち込むことを許してください。砂粒のような情報を「パケット情報」と呼びます。パケットとは「小分け」のことです。それに対比して、身に浴びるように体験することで得られる生まの情報を、「全体的情報」と呼ぶことにします。
人間の脳はそもそも、全体的情報を取ることしかできません。たとえば熱いスープを飲むのに、「熱さ」と「味」を分離して飲むことはできません。その他、香りや見た目や舌触りや、合わせてスプーンの感触なども、人間の脳は分離して吸い上げることができない。
もしその分離が可能なら、「誰が歌っても名曲は名曲」ということになってしまいます。音程と歌詞さえ間違えていなければ。でも実際にはそんなことはなくて、虫の好かない歌手が歌えば名曲も台無しになります。
人間の脳は「全体的情報」しか取ることができず、その情報を後に自意識が分類しています。熱いスープについて、これは「味」、これは「香り」、これは「熱さ」だ、というふうに。でもそれは自意識の仕事であって、脳の仕事ではないのでした。
一方でパケット情報について。これらは小分けされた情報で、IT端末でもやりとりできるほど小さく小分けにされています。
そして、先ほどの全体的情報の性質とは逆に、今度はそもそもが小分けのものを、なんとか一つにできないか、ということが試みられます。簡単に言うと、潮騒の音をスピーカーで鳴らしながら、壁に海のポスターを貼り、アクアマリンのお香でも焚いて、そこを「海っぽくできないか?」とするようなことです。
もちろんそれで自室が海になったりはしません。海のイメージ、みたいなものしか手に入りません。
パケット化された情報はこのように、「組み立て」をして、一つの全体的情報に出来ないか、ということを目指すのですが、まず出来ないものだ、ということを知っておいてください。
重要な、正確なことを、お話ししておきましょう。海のポスターを貼り、お香を焚き、潮騒の音を再生したとして、それで海のイメージが得られるというのは、誤解です。それは、海ということの元の体験、生身の体験が過去にあるから、そこに海を"思い出せる"というだけです。元々海に行ったことの無い人には何のことやらわかりません。実は組み立てが功を奏しているのではなく、組み立てによって元の全体的情報を思い出しているだけなのです。もし元の全体的情報がなければ、潮騒は「何かの音」であり、ポスターは「何かの写真」であり、お香は「何かの香り」でしかありません。
脳は情報飢餓に陥る
「全体的情報」は、「パケット情報」に比べて、一兆倍の情報量があります。前回お話ししたとおりです。
そして人間の脳は、その巨大なほうの情報をそのまま受け取り、処理できる器官です。だからこそ、部屋のドアをバン! と蹴られたときにも、とっさに「誰?」と恐怖することができるのでした。同じバン! という音でも、廊下に立ててあったスキー板が倒れた音なら、「誰?」とは聞きません。脳が瞬間的に音を識別し、状況判断をしているのです。
脳は本来、それだけの情報量を処理できるのに、そこに情報量を与えないでいると、脳は情報に対する飢餓状態に陥ります。人間がIT端末に「没頭」しているとき、実は脳は飢餓状態になっているのです。
人間の、たとえば足腰の場合、使わないでいると次第に弱っていきます。最終的には「寝たきり」になってしまいます。一度寝たきりになってしまうと、これはおよそ回復しないものだと、覚悟しなくてはなりません。足が動くにしても、歩くという機能が回復しない。だからこそ「寝たきり」と言います。そうならないためには、足腰の本来の機能である、体重を乗せて歩くというようなことを、足腰にさせなくてはなりません。
同じことが人間の脳にもあります。人間の脳も、その本来の機能である全体的情報の処理を、させていないと、次第に弱っていき、最終的には寝たきりの脳になります。脳が動かないわけではないのですが、本来の機能が果たせなくなります。そして寝たきりというのはおよそ回復しないのでした。そうならないためにはやはり本来の機能を脳に果たさせていないといけません。
歩かないと足腰が「弱くなる」といいます。それと同じように、すでに我々は、「頭が弱い」という一般的な表現を知っています。そしてその表現は、「頭が悪い」ということとは、慎重に使い分けられている。
怪しげな宗教の勧誘が来たのに、こちらの頭が悪すぎたために、「話がわからん、帰れ!」という場合、それは頭は悪いのですが、頭が弱いのではありませんでした。一方で、神秘主義に関わる文献に詳しくて、怪しげな宗教に引っかかるような人は、頭は良いのですが、頭が弱いのです。
この「頭が弱い」ということは、脳が弱くなることとぴったり重なります。
そのことはまた以降に解説されますので、この段ではひとまず一つのことだけあなたは確実に掴み取ってください。あなたがパケット情報に没頭しているとき、あなたの脳は情報飢餓に陥っています。
パケット情報は自意識を発達させる
さてでは、なぜそのパケット情報などに、人間は没頭してしまうのでしょうか? ここまで、パケット情報は情報量としてゼロで、率直に言えばカスだとかゴミだとか指摘しています。にもかかわらず、なぜ人がそれに没頭してしまうかなのですが、これについてあなたは、単純明快な知見を得てゆかれるべきです。
・全体的情報は"脳"に入る
・パケット情報は"自意識"に入る
こういうことなのです。パケット情報に没頭しているとき、脳は飢餓状態なのですが、自意識のほうは、酒池肉林というよな興奮状態になるのです。だから人はこれに没頭してしまいます。
あなたの家に犬や猫がいたとして、その犬と猫は、あなたの家でテレビをまったく見ないのではないでしょうか。あれだけ、動き回るものが好きなはずの猫が、テレビの映像が動き回ることにはまったく無関心です。なぜなのだろう、と考えられたことが、誰でも一度はあると思います。
それは、犬や猫といった動物にはほとんど"自意識"が無く、脳しか機能していないため、パケット化された情報を受け取る機能が無いのです。犬や猫の目からは、テレビなどというものは、何か知らない、チカチカ光る板だというふうにしか見えていません。テレビモニタそのものがごそごそ動くのであれば興味を持ちますが、本体はじっとしているものなので犬猫は興味を持ちません。
あなたのスマートホンだってそうなのです。我々は自意識を持っているため、そこに表示されるパケット情報に引き込まれてしまいますが、あなたの脳だって実は、それを四角くて鈍く光る板としか感じ取っていません。パケット情報を受け取っているのは自意識であり、脳はそれを受け取っていないのでした。だから前回の講義で、「IT端末から得られる情報量はゼロ」と申し上げたのでした。あくまで脳の立場に立って、と。
四角く光る板を何時間も見つめているだけという、脳が、どれだけ退屈してもらえるか、わかってもらえると思います。なお、動物が自意識をほとんど持たないのは、動物が言語を持っていないからです。これ以上はむつかしくなるので話せませんが、どうやら自意識は言語の所有を基にして発生しています。
脳が情報飢餓になれば、脳は弱っていくと申し上げました。一方で、自意識はパケット情報を酒池肉林に与えられるのですから、自意識のほうは発達してゆきます。
これによって、現代の人間は、「頭が弱く」「自意識は発達している」という、旧来の精神バランスと違うものになっていくのです。
現代と恋愛というタイトルでお話しさせていただいています。まだ焦って話すことではないですが、ここで差し当たり言えることは、現代の人間がそのように変質していくなら、もっとも直接な話、「あなたは、頭が弱くて、代わりに自意識は発達している人と、交際しなくてはならない」ということになります。これについて、さあどうだ、ということを、現代人は見つめないといけないし、答えなくてはならない。
もちろんこんなことは誰にとっても不本意です。誰だって、「あなたは頭が弱くて代わりに自意識ばかり発達しているね」と言われるのを、褒め言葉とは受け取れません。とはいえ、これは唾を吐いて終わりにできることではない。これを実際どうするのかという問いかけに向かうための、正しい知見の土台になりうるよう、本講義集が書かれています。
とはいえ差し当たり、この段では、あなたは間違いようのないことを獲得してください。全体的情報は脳に入り、パケット情報は自意識に入ります。そしてパケット情報だけ与えられると、頭が弱くなる一方、自意識だけが発達してゆきます。
パケット専門人の誕生
それで実際に、脳が弱くなってしまったとしましょう。いくら望ましくなくても、そうなってしまったとしましょう。
では、そうして弱くなってしまった脳に、あえて全体的情報を与えると、どうなるのでしょうか? それは当然、処理できなくなります。寝たきりの人を無理やり立たせたって、転倒するしかないように、弱くなってしまった脳も、今さら全体的情報を処理はできません。どうなるかというと、脳はもう混乱するしかありません。せいぜい、その全体的情報の中から、無理やりパケット情報をつまみ出すぐらいしかできなくなります。
あえて説明の簡略のために、節度のない言い方をすることを許してください。寝たきりの人のことを、立てない人・歩行ができない人と捉える代わりに、「寝ころび専門の人」と捉えることも可能なはずです。どうかこのことが、やむなく伏臥されている方に対する侮辱と誤解されることのないように願っています。さて論理上はそう言い得るように、全体的情報を処理できなくなった人のことを、パケット専門の人、と捉えることも可能であるはずです。脳が寝たきりになり、代わりに自意識ばかりが発達する、その自意識でパケット情報を楽しむことだけを専門にするというような人が、現代には誕生する仕組みがあります。
実際そのような人はすでに散見されています。それもきっと、一般の想像を超えた程度に、その特徴を顕現させている人が、実はすでにいるのです。驚いたことに、彼の部屋のドアをバン! と蹴っても、彼はあまりびっくりしないのです。ドアが蹴られているという音に現実感が無く、当人にしっくり来ていない。それは一見、極端に落ち着いた人に見えますが、本当にはそうではないでした。
彼は頭が悪いわけではなく、自意識における知能は高い場合もある。それによって、ときにナチュラルに、「全体性って何ですか?」ということを、真剣にわからないといった様子で訊くことがあります。
(※以下、少しむつかしい話を挟みますので、読み飛ばされても結構です)
(彼はゲシュタルト(全体性)の機能を失っており、彼が飲む熱いスープは、果たしてどのような感触で飲まれているのか、それはクオリア問題なのでわかりません。ただこのことについて、思春期に限っては、誰でもこのような状態に一時的に陥ることはあるようです。思春期は人格形成において壮絶な時期で、特に自意識が急激に発達する時期なので、自意識側の機能ばかりが過熱し、一時的に全体的情報の処理機能が落ちこぼれることがどうやらある。これは医学的な知見でなく経験論なので責任あることとしては言えませんが、思春期にそのような状態に陥ることがもしあっても、成熟と共に次第に健全な状態に回復していくようです。ただしそのような時期により自意識を刺激するパケット情報端末を誰もが持っているということのリスクは十分にシリアスと言える程度潜在していると言われるべきです。)
「頭が弱い」ということ
脳が弱ってしまい、パケット情報しか処理できなくなるとどうなってしまうか。このことは簡単に例が出せますし、あなたにも心当たりがあると思います。
たとえば、いかがわしい商売に勧誘されたときなど。彼らは口先では、「いかにも儲かりますよ」という、上手いことを言いますが、しょせん悪徳商法です。見ず知らずの他人が儲け話を持ってくるわけがない。儲け話がもしあったら、彼が一人で独占しているでしょう。そんなことはもう言わずもがなのことです。
脳は全体的情報としてそのようなことも含めて判断します。例えばそういうセールスが家に来た場合、「儲け話があったら自分で独占するだろ」というのもそうですし、「実際歩き回ってこの人はヘトヘトじゃないか」というのも情報として脳は受け取っています。そして笑顔の不自然さや、決して本当のところには近づいてこようとしてこない距離感、自信を持っていない人の顔つき、何か肝心なことを隠して話さない人の目の動き。必要以上に信頼されようとしている話し方。暗記してある文言を話すだけの口調。やけにこちらの気配をうかがい、何かダメならさっさと逃げようというような及び腰の感触。あるいは、こちらの訊くことなど本当には無視して、暗記されたセールストークだけを言うように決めている不自然な話の脈絡。
どう考えたって、自信のある商品を売りに来たセールスマンではありえません。そうなると、もう自意識のほうは、一応向こうの話にフンフン頷いていますが、内容はもうまったく聞いていない。内心では、「お前をどう見たってリッチには見えないけどな」という、哀れみしかありません。「確かに顔はイケメンだけれど、こいつを信じろというほうに無理がある」と。そうしてこちらが呆れ返っていると、さすがに向こうにも経験があるので、さっさと引き取ります。むしろこっちが「いや、もういいわ」と言うと、いっそ助かったというような気配で帰っていきます。
ところが、脳による全体的情報の処理ができていないと、なんだかんだで話を聞いてしまい、その話をパケット情報として処理するため、「あれ、本当に儲かるかも」という気がしてきてしまうのです。向こうもプロなので、パケット情報としてはいかにも儲かるように聞こえるよう、工夫してあります。
悪徳商法の彼らが持ってくるお話は、いっそ「すばらしいお話」というべきです。すばらしいお話だからこそ、だまされる人はだまされてしまう。ただこちらの脳が機能している分には、「すばらしいお話だけど、要らない」となります。欲しいのはすばらしい収入であって、すばらしいお話ではないのですから。
悪徳商法に騙されるような人は、そういうのに騙されてはいけませんよ、ということは、テレビで聞いて知っているのですが、騙されてしまいます。彼らはテレビの言うことを真に受けて、同時に、セールスの言うことも真に受けるのでした。
このように話せば他人事に聞こえて気楽ですが、同じようなことが恋愛でもあります。全体的情報としては、明らかに不誠実にしか見えない男性が、女性に「大切にするから」みたいなことを言うと、コロッと行ってしまう女性がいるのです。そのノロケ話を聞かされるこちらは、閉口し、「いかにも彼が言いそうなことだな」「そんなセリフを思いつきで言えるとは相当不誠実な奴だな」としか思えないのですが、彼女はそのセリフのパケット情報を重視しています。
それで(すぐ)後になって、「裏切られた!」というふうになる。「他に女がいたの!」と。こちらは思わず、「いやそうじゃなくて、お前が他の女だろ、彼にとって」「他に女がいた、って、それ一人とか二人の数じゃないだろあいつの場合」と言いたくなる。その男は、いっそ「見たまんまの奴」だったのですが、全体的情報が処理できないと、その見たまんまの地雷を踏みに行くことがあります。
地雷に「ウェルカム」と書いてあっても踏みに行ってはいけません。そういうのは、男運が悪いのではなくて、申し訳ないのですが、頭が弱いのです。
学歴について嘘をつく男性は少なくないようです。なぜか意地のように「早稲田卒」と言うのですが、それを言うタイミング自体がおかしいので、脳は全体的情報において彼を「おかしい人」としか捉えません。全身がいかにも嘘をつく挙動をしているので、嘘をつくんだな、というふうにしか見えない。それでこちらが付き合って、「学部は?」「ゼミは?」「キャンパスはどっちだった?」と訊くと、もうぐちゃぐちゃになります。
馬鹿馬鹿しい話なのですが、そんなつたない彼の嘘にさえ、だまされてしまう人はいます。そういう人は、心が綺麗で純粋だからだまされてしまう、というのではなくて、単に脳が弱っています。全体的情報を受け取れていない。
典型的な「頭の弱さ」についてお話ししました。少し悪口のように聞こえてしまうのはご容赦ください。
典型的なものについてはわかりやすいですが、もう少し微妙なものもあります。たとえば、あなたがある部活動に新入部員として入ったとしましょう。あなたは初めて部室にゆきます。
ある先輩が、どうぞ座って、ゆっくりしたらいいよ、と言ってくれました。ところがもう一人の先輩は、あなたと、あなたと同じ一年生を指差し、「おう、新入りと、お前とで、ジュースでも買ってこい、喉渇いたわ」と言いつけました。
あなたはどちらの先輩をいい人だと思いますか。表面上は先の先輩のほうがいい人に見えます。
ところが後のほうの先輩は、あなたをさっさと仲間入りさせて、あなたにとって早く部活動の居心地が良くなるように、そのような言いつけをしたのでした。あなたは実際、言いつけにしたがって、二人でジュースを買い出しに行きます。道中できっと、「あの人ね、困った先輩でしょ」「うん、びっくりした、いきなりだったから」「でもあの人がキャプテンだから」「えー」というような話をします。それで結果的に、部員同士として親しくなれています。
あなたの脳が処理しなくてはいけない全体的情報はこうです。初対面ですが、その人の向けてきた眼差しや振る舞いは、「陰険な人のそれではなかった」「無神経というのも少し違った」「常識が無い人の感じではなかった」「誰とも親しめるような屈託のなさがあった」というようなことです。あくまでこれらの全体的な情報の上に、「ジュース買ってこい」というのが乗っかっています。そこまで処理できる脳の活躍があって初めて、後者の先輩を、「あ」、と、いい人だと発見します。
前者の先輩のほうに、「気を遣ってくださって」とお礼を言うと、「当然のマナーでしょ」と気さくに言いました。後者の先輩に「気を遣ってくださいました?」と訊くと、「そんな義理は無え」とぶっきらぼうに言いました。
こうなると実践的な話になってきますね。あなたが恋人にするならどちらですか。
脳が弱く、パケット情報しか扱えないと、確実に前者の先輩を選びます。パケット情報としては後者の先輩に良いところはありませんから、後者の先輩は論外になります。でもその先輩は「論外」にして本当によいような人でしょうか?
そうして"大魚"を逃している場合、やはり男運が悪いとは言えないでしょう。
あなたの脳が処理しなくてはいけない全体的情報は、そこに立っている自分自身も含めてです。あなたから見て先輩が二人いる、というだけでなく、あなたもいる、ということも、全体的情報に含まれねばなりません。
あなたが逆に先輩の立場に立ったときに、あなたはその先輩のような計らいができるかどうか。いかに後輩だからといって、初対面の人にジュース買ってこいと言いつけるのは気楽なことではありません。勇気が要りますし、二人で行かせたらその道中でその悪口が話題になることもわかりきっています。
それでもそのように、その先輩はしたのだということです。そこまで含めて、全体的情報の処理です。その全体的な情報が処理されてこそ、あなたがその先輩にこれからどう接したらよいかが決定されてきます。
話が長くなってしまいました。次にゆきましょう。
本来の脳が担う仕事
脳という言葉と、自意識という言葉を、ここまで対比してお話ししてきています。では、そのあなたの「脳」がどのような仕事を担うかということなのですが、それについてあなたはぜひこう鵜呑みにしてください。鵜呑みにしてからのほうが、理解をしていただくのが容易だと思います。
「脳の仕事は脈絡を超えること」
「脈絡」ということなのですが、自意識が認める「脈絡」というのと、脳が発見する「脈絡」というのは、性質が異なるのです。自意識が脈絡を認めている場合、そこに脳の出番はあまりありません。
自意識からは脈絡が破綻していると見える場合、脳の出番となります。自意識はパケット情報を扱い、脳は全体的情報を扱うと申し上げました。自意識の小さな情報量では脈絡が見つからないところを、脳は、その一兆倍の情報量をもって、そこに脈絡の成立を発見するのです。
実はそのことの分かりやすいサンプルをすでにお話ししています。
・初対面→どうぞ、ゆっくりしたらいいよ→いい人
この脈絡は簡単です。脈絡がつながって見えます。これは自意識の扱うパケット情報でも脈絡を見つけることができます。
ところが、
・初対面→ジュース買ってこい→いい人
こちらのほうは、表面上に脈絡が成立しません。「なんで初対面で人をパシリにするような人がいい人なんだよ」と反論できてしまいます。脈絡としてはまったくそう。
ですが本講義ではずっと、「あなたの脳の立場に立って」ということをお願いしています。
あなたの脳の立場からは、脈絡というのは、そういう小さい範囲では捉えられていないのです。
もう一度、あらためて、脳の捉えている「全体的情報」というのを思い出していただきます。脳は、自分の心身に浴びているものを、小分け(パケタイズ)して受け取ることはできませんでした。熱いスープの味と熱さは分離できないように。ですから、初めて部室に行ったとき、そこの空気、自分の足元、人人の表情、その体つきや肩の力の入り方、声の感触や眼差しの色合いといったものまで、全てまとめて全体を受け取っています。あなたの自意識がそれを知らなくても、脳は勝手にそう機能しています。
それで、脳が脈絡を発見するということはこういうことなのです。確かに、初対面でいきなり「ジュース買ってこい」と、いわゆる「パシリ」にされました。ですが脳は、そのように言った先輩が、単に無神経であるとか、単に横暴であるとか、陰険であるとか、親しみづらいであるとか、そういうことではない、ということを、情報として受け取っています。いやらしい人の声をしていなかったというのを脳は見逃していません。もちろんその先輩が本当に喉がひたすら渇いてジュースを飲みたいだけということではないというのも脳は気づいています。そんなに喉が渇いていたらさっさと自分で買いに行っているでしょう。
脳は全体的情報の中で、本当にはそれらのことを知っています。だから、途中で気づきます。ジュースを二人で買いに行く道中、「でもあの人キャプテンだから」「えー」と、ふと、目の前の人と一歩親しくなったことに気づき、喜ぶと同時に、「あ」、と、脳が全体性の整合をあなたに教えます。脈絡が発見されるのです。こうして二人で悪口のようなことを言いながら、早く親しくなって、早く居心地がよくなればいいさと、そう計らってくれたんだ、ということに。
そこまで含めてようやく、
・初対面→ジュース買ってこい→いい人
という"全体的脈絡"が成立します。
このことは、情報量がゼロというような、パケット情報のやりとりでは決して起こりません。自意識の扱う範囲内では、どうしても彼がいい人だなどという脈絡は成立しない。誰かに説明されたら少し立ち止まりはしますが、結局自分の発見ではないので完全な納得はしないでしょう。
パケット情報では脈絡が発見しえないというのは、例えば次のように示せます。インターネットの掲示板に、次のような相談・質問があったとしましょう。
「みなさんは初対面でいきなりパシリにされたことってありますか? 年上の先輩なんですが。正直不快でした。みなさんはどう思いますか」
このようなパケット情報の質問において、当の先輩が「いい人」だという脈絡を発見することは不可能です。いい人「かもしれない」とは言いえても、いい人だ、と発見することはできません。
この質問にはきっと次のような回答が返ってきます。
「先輩風を吹かせたかったんじゃないですか。そういう人って多いですよ。どうか気にしないで」
初対面でパシリにされた→先輩風を吹かせたかったのだろう、という話は、脈絡がつながって見えます。ですから自意識のみではこちらの脈絡を採用してしまいます。
ここまで話せば、あなたには、その自意識の脈絡にのみ縛られるのがいかに貧しいことかを、ご理解いただけていると思います。ですが実際にはそんなことをいちいち誰かが説明してくれるわけではありません。誰だってその現場で「あ」と気づくしかないのでした。そしてそれを気づくのは脳なのです。
脳は自意識を超えて脈絡を発見します。それはいわば、脳という有能なヴェテラン刑事が、新人の浅はかな刑事とは違う、膨大な全体的情報を処理して、「事件の真相にたどりつく」というようなことです。そのとき、事件を糾弾してやまない、当人は真剣であるつもりの新人を、ヴェテランが真相をもって諌(いさ)めるのはごく当然のことでしょう。新人はそれによってすぐにヴェテランになれるわけではないですが、ひとつの経験を積みます。「いかなるときも、浅はかに思い込んではいけないのだ」と、戒めを持っている新人に成長します。
たとえば新入社員が若気の至りで、会社の重役を前にして悪態をついたとします。その途端、課長が立ち上がって、新入社員の頬を張り飛ばしました。課長は重役に向けて「大変失礼いたしました、教育不足でした」と頭を下げて詫びます。張り飛ばされた新入社員としてはどうでしょうか。
彼は腹を立てるかもしれません。友人とでも、インターネット上の相談でも、「いきなり暴力とかありえないだろ」「それってもう警察に訴えたほうがいいんじゃない」「裁判にしたら勝てるだろ、訴訟しろよ」というような意見が飛び交います。
ですが全体的情報が正しく処理されていれば、「事件の真相」はそんなことではなかった、ということが浮かび上がってくる。たとえばそうしていきなり張り飛ばされたからこそ、彼の舌禍(ぜっか)は、若気の至りだなということで大目に見てもらえることになったのかもしれないのです。つまり左遷されたり出世の道を断たれたりということを、その張り手の一撃でまぬがれたのかもしれない。企業の権力構造を甘く見てはいけません。合法の範囲内で、粛清(しゅくせい)が直ちに行われることは、冗談ではないどころか"常識"です。重役というのは正当にその権限を与えられている権力者です。課長はもちろんそのことをよく知っています。(舌禍というのは舌が災いするという意味です)
事件を大きくせずにその場限りのことにしてしまうためには、そうするしかない、と課長がとっさに判断した。それで張り飛ばした。もちろん課長だっていきなり人に暴力を振るえば、自分が社会的なリスクを負うことは知っています。けれどもそれを踏み越えて彼を救おうとした。
仮にあなたが課長であったとして、とっさにそのような判断ができるでしょうか。また判断できたとしても、本当にいきなりそうして人を張り飛ばすようなことができるでしょうか。ふつうできないものです。
自意識的脈絡しかない場合、一般的に彼の舌禍はこう扱われます。「彼も一人前の大人なんだから、自己責任でしょ」「むしろ課長まで立場がヤバくなっていい迷惑、会社勤めに向いてないわ」。舌禍→粛清→自己責任という、目に見える当たり前の脈絡があるのみ。
でも、そんな当たり前すぎる脈絡をニマニマ眺めて、本当に私たちは何かが楽しいのでしょうか? 脳が本当は見抜いている全体的情報はまずこうです。「十分に常識人である課長が何の理由も無くいきなり暴力の使途になるわけがない」。あなた自身が無意味にいきなり暴力の使途になるわけがないのと同じようにです。
もっとも実用しやすく、また忘れにくいように、僕はこの表現を用いました。「脳の仕事は脈絡を超えること」です。あなたはどうかこのことを持ち帰ってください。もしあなたが、目に見える脈絡しか当たり前に見えないときがあったら、あなたが脈絡において賢いのではなく、ただ脳が停止して頭が弱いだけなのです。
(なお、脈絡を超えるというのは逆方向にもあります。悪徳商法のセールストークは脈絡を伴っています。楽に儲かる商売がある→販路の拡大が必要で→あなたもどうですか、と。脳は全体的情報から今度はその脈絡の"破綻"を見つけます。つまり、「あなた楽に儲かっていないじゃない」と。)
脳の知識と自意識の知識
面白い話をしましょう。現役の東大生と専業主婦のおばさまがいたとします。頭の良さで言えば東大生のほうが抜群に賢いと思えます。ですが「脳」ということにおいては必ずしもそうとはいえません。
たとえば東大生に、魚の図鑑を見せて魚を覚えさせます。これはイサキでこれはサヨリ、これはキスでこちらはカマスだと。同じく写真を見せて、この切り身はカンパチでこちらはブリだということも覚えさせます。頭が良いので彼らはそれらの知識を吸収し、記憶するでしょう。
ですが、そこにある情報はパケット情報です。パケット情報だからこそ、猫は魚の図鑑にかじりついたりしません。パケット情報は自意識に入ってゆきます。彼らは頭が良いので、自意識でパケット情報を取り扱う能力に優れています。ちょうどコンピューターのようにです。
とはいえ、いざ魚屋に行って、魚をズラッと見たとき、たとえ東大生であっても、「えーっと、これは確かサヨリですよね」「これはイサキでした」「これは……メバル?」という感じになります。
このとき彼が何をしているかというと、目の前にある全体的情報から、記憶してきたパケット情報と適合する部分を探し、照らし合わせているのです。その作業をしているので「えーっと」となります。
専業主婦のおばさまには、その「えーっと」がありません。彼女は図鑑で研究してきたわけではないですが、毎日スーパーに行き、鮮魚のコーナーを見ていますし、それを買って調理し、食べています。心身から直接、全体的情報を脳に与えていることになります。彼女の脳にとってたとえばイサキがどういうことになっているかというと、それが「イサキに見える」のです。魚を見てそれがイサキだと判別できる、というのではなく、「あ、イサキだ」と見える。逆にいえば、それはイサキ以外の何物にも見えない。
たとえばあなたも今、自分の「手」を見てください。あなたはそれが「手」にしか見えません。図鑑に載っていた情報と照らし合わせて「えーっと、これは手、ですね」と判別できるというのではなく。手が「手」に見えて、それ以外の何物にも見えなくなっている。
専業主婦のおばさまにはイサキがそのように見えていますし、魚屋さんにとってはさらにそうです。たとえば中卒で「勉強はからきしダメだったわあ」という魚屋さんでも、イサキを見てイサキとわからないというようなことはありません。脳という立場から見れば、魚ということに関して、東大生よりもおばさまが優れていて、魚屋さんはもっと優れているのです。
「この魚はウロコを取るのが大変だけどこれはもう取ってあるし、すだちをつけて食べるとおいしいわ、そして大きさの割にはこの値段はお買い得だし、ちょうど旬のころなのよね今、そしてなによりこの太り方はおいしそうですもの」
こういった情報処理は、いくら頭の良い人間でも、パケット情報を寄せ集めては成立しません。
もし、おいしいマグロの目利きというのが、マニュアル化してパケット情報化できるのなら、東大生は即日にでも仕入れの名人になれるでしょう。でも、おいしいマグロの目利きというのが、たとえば「尻尾の赤みがきれいなもの」といったって、どれがどのようであったらきれいなのかということ自体がわからない。大量のパケット情報で分析すれば、さんざん時間をかけて、このマグロは良い味と推定できる、という程度にはなっても、職人がパッと見て「これはすごい、旨そうだな!」と判断するようなことはできません。
もしパケット情報処理でそれが済ませられるのなら、尻尾の切り口をデジカメで撮影すればよいのです。そしたらただちに「目利きアプリ」が、そのマグロの品質を数値化して答えてくれるでしょう。でもIT技術はそんなことをまったく出来ていません。たぶん現状では、その「目利きアプリ」なるものを作ったとして、本マグロとミナミマグロの区別さえできないのではないでしょうか。
クラシック音楽を愛好する人が、「ここのバイオリンがいいんだよね」というとき、吹奏楽部にいる中学生が、「これはビオラだよ」と指摘して言うことが、ままあります。もちろんそのことは"音楽鑑賞"とは関係ありません。別にそれがバイオリンでもビオラでもどちらでもよいではないですか。ただ鑑賞においていい音なら。
ただそこにはやはり、パケット情報と全体的情報の差が現れています。吹奏楽部の中学生は、ただそれが「ビオラに聞こえる」というだけです。寿司職人にとってカンパチが「カンパチに見える」というのと同じに。吹奏楽部の中学生は、楽器の音色を聞き分ける聴音の訓練を受けたわけではないですが、とにかくバイオリンとビオラが鳴る現場に身を置いています。そのとき脳は情報を吸い上げていますから、バイオリンはただバイオリンに聞こえ、ビオラはビオラに聞こえるのです。
それはたとえば我々が、大阪弁が「大阪弁に聞こえる」というのと同じです。これに比べて、外国の言語学者は、いかに知識が正確であっても、それが「大阪弁に聞こえる」ということはないでしょう。我々の脳は常に全体的情報を吸い上げているので、「考えるまでもなく」、標準語と大阪弁は明らかに違う、と聞こえます。
言語学者が分析したら、標準語と大阪弁は、しょせん同じ日本語なのですから、99%同じだ、と結論するかもしれませんね。ですが我々の脳はその結論に「はあ?」としか言いません。標準語は標準語に聞こえるし、大阪弁は大阪弁にしか聞こえないからです。吹奏楽部の中学生には、バイオリンが標準語に、ビオラが大阪弁に、というふうに聞こえるだけなのでした。
面白いお話をしましょう。コカ・コーラや、ケンタッキー・フライドチキンなど、よく知られて飲食業界を席巻している商品があります。それらのスパイスの配合がどうなっているのかを知る人は、世界中で数人しかいません。究極の企業秘密だからです。これがバレたら世界中で同じものを作られてしまいます。スパイスを納入する倉庫なども、各所に分散され、それをハンドリングしている企業ですら、スパイスの配合は知りえないようになっています。
もちろんこれらの商品を、ガスクロマトグラフィなどの高度な分析器にかければ、その成分の99%以上を正確に分析することができます。ところが、その最後の1%が違うと、それはもうまったく別の味の食べ物や飲み物になるのです。理屈では「もうほとんど同じだろ」と思えるのですが、舌がそれを味わい、脳が情報処理をすると、「これは全然違うものだ」と脳が答えるのでした。標準語と大阪弁が我々にとって「全然違う」ように。
それで企業が結局どのようにして飲食物の成分を決めているかというと、官能士という職業の人が、自分の舌と鼻で研究して、決定しています。彼らの鋭敏きわまる味覚と嗅覚、そしてそれらの情報を処理する脳が、結局のところ頼みの綱なのでした。スコッチウイスキーのブレンダーなどもそうです。分析器で味を調えることなどできないので、彼らの脳でブレンドを決定してもらうしかないのです。ブレンダーはカレーやワサビなどの刺激物を代表に、およそ世界中の半分の食べ物を食べることができないそうです。それらを禁じて高精度の舌と鼻を維持しています。彼らにとって、同じウイスキーのA樽とB樽は、標準語と大阪弁のように、「まったく違う」と感じ取られています。それだからこそ、AからZまである樽をどうブレンドするかを彼らは決定できるのでした。
「脳」がする情報処理と、「自意識」がする情報処理の違い、その処理される情報量の貧富の差が、いよいよわかってもらえると思います。いくら分析器にかけてパケット化した情報を集めたってやはりダメなのです。あなたは何につけ、分析士になるのではなく官能士になるべきです。そのためには、あなたは脳を鍛えるしかない。全体的情報を得続け、その情報処理を課され続ける、ということで、あなたの脳は鍛えられます。あなたの脳を鍛えるのは、あなたが心身に浴びる情報です。それを分析などと、横着なことをしないのです。
ニセモノがニセモノだとわからない!
たいへん実践的なことをお話しします。少し長くなりますが、このことを持ち帰ることはあなたにとってとても有益で、かけがえのないことです。
僕があなたの前に、"マネキンの手"をゴロンと置きます。僕はそれについてあなたに、「これは手です」と言います。あなたは、「そうね」と言いますが、同時に「マネキンの手よね」と言います。
それでも僕は、「いや、これは手だ」と言い張ります。あなたは「手だけど、マネキンというか、"模型"よね?」と言います。それで僕はいっそ、「はあ?」と怒り出します。「手だって言っているだろ。手のひらがあって、指が五本あるだろうが」。僕がそう食ってかかっても、あなたは、「何を言ってるの。それでも模型は模型じゃない」と言うでしょう。
「はあ? じゃあ逆に聞くけど、手のひらがあって、指が五本あるのに、手じゃないものってこの世にあるんですか?」
「だから、手だけど、これは模型でしょって言ってるじゃない」
こんな感じになります。
重要なことは、当たり前なのですが、こんなことを僕がどれだけ言い張っても、あなたはそんなことで決して騙されないということです。僕がどれだけそれを「手」であると説明しても、あなたは「でも模型だし」としか思わない。それはなぜなのでしょうか。そのことに改めて気づかれることはあなたにとって大切なことです。
あなたが騙されっこないのは。それが「模型にしか見えない」からです。何をどう言われようが、あなたは、「この人は模型を持ってきて一体何を言っているのかしら?」としか思えない。
この、極めて当たり前に思えるようなことが、実はたいへん重要なことなのです。あなたがそれを「手ではなくて模型だ」と確実に知っているのは、それを自意識ではなく脳で知っているからなのです。自意識よりも一兆倍の情報量を扱えるのが脳でした。確かに手の形をしている。手のひらがあり指が五本ある。表面もそれなりに人体に似せてはいる。が、"全体として、これは手ではない"ということを、あなたの脳は知っています。一兆倍の証拠があって言っています。「これは模型よ」と。
もし、コンピューターに安物の形状認識ソフトみたいなものがあったとしたら、マネキンの手も「手」だと認識するでしょう。手のひらがあって指が五本ある、これは「手」だな、と。コンピューターは、複数のパケット情報を集めて判断、というようなことをしていますが、それではその"全体として、これは手ではない"というミエミエのことさえわからないのでした。
今度は極めて精巧な模型を持ってきます。パッと見た感じ、それは本当の手に見えます。それはデジカメで撮影してツイッターにアップロードすると、本物の手にしか見えないので、「誰かの手の写真だね」と扱われます。
ですがあなたの脳は全体的情報を扱うのでした。手はテーブルにごろりと置いてあったりはしません。いくら表面を精巧に似せても、触ればたちどころにバレます。感触が違う。温度がない。関節や筋肉の動きもない。なによりこれは生きものの感触でもなければ、人間の手の感触ではない。だからやはり、"全体として、これは手ではない"。
騙されっこないのです。それはあなたが、脳の知識として「手」を知っているからです。「手」とはどのようなものであるかを、あなたは全体的情報として知っている。あなたは人間の「手」というものについて特別に研究なんかしたことがないと思いますが、脳は勝手に情報を吸い上げて、いっそ知り尽くしています。そこにパケット情報で茶々を入れられても、情報量は一兆倍も違うので話にならない。たとえ事故で指を数本失っていたとしても、それは"全体として、これは手だ"と見抜くでしょう。
では次に、あなたが脳では知っていない、自意識での知識ではどのようになるかをお話しします。あなたはブランデーというお酒があるのを知っていますし、ラムというお酒があるというのもきっとご存知です。そしてどちらもアルコール度数の高い、強い酒ということをなんとなくご存知です。詳しい方なら、ブランデーの原料は葡萄で、ラムの原料はサトウキビだとご存知かもしれない。そしてどちらも、わりと甘みのある酒だということもご存知かもしれない。
でもそこで、「どうぞ、ブランデーのVSOPです」といって、ラム酒を出してみる。いんちきであり、ニセモノのブランデーということになります。ところが、あなたはそれを飲んだとき、「度数の高いお酒だな」と感じ、「甘みがあるな」と感じます。そして、あなた自身の口から、「おいしいブランデーですね」ということになりかねない。
これはあなたが、人間の「手」というほどには、「ブランデー」のことなど知ってはいないということなのでした。ブランデーの原料が葡萄で、アルコール度数が高く、甘みがある、琥珀色の洋酒だ、ということは知っていても、それは小分けにしたパケット情報です。自意識の知識として知っているのみ。脳で全体としての"ブランデー"をご存知ではない。だからニセモノがニセモノだとわからず騙されてしまうのでした。
脳は心身に浴びた全体的情報を処理すると申し上げました。だから実際にブランデーやラムをよく飲む人なら、その違いは明らかにわかります。あなたが「これは模型よ」と言うときと同じように、当然すぎるようなこととして、「これはブランデーじゃないでしょ」と言います。
なぜその差がわかるのか、という話ですら、それは無くて、ただブランデーからはブランデーの味と香りがし、ラムからはラムの味と香りがするというだけです。ラムはラムにしか見えないのです。いくら、「これはブランデーだ」と言い張られたとしても。
僕自身はスコッチが好きなのでスコッチをよく飲みます。そして、スコッチもバーボンも同じウイスキーですが、この二つの区別がつかないということは決してありません。標準語と大阪弁のように、それは区別するまでもないものです。もし「スコッチです」といわれてバーボンを出されたら、グラスを口元に近づけただけで「え?」となります。「ワテ、東京人でんねん!」と言われたときにあなたがする反応と同じです。実はスコッチとバーボンは液体の色も違い、バーボンはスコッチの色には見えません。黒い画用紙が海苔の色には見えないように、色がそもそも違う。ちなみに海苔を食べない文化圏では、海苔はしばしば「カーボン・ペーパーに見える」と言われます。たとえ「スシには海苔を使うんだろ」と知っていてもです。
あなたが本当に"知っている"こととは、そのように、脳の知識として知っているということです。全体的情報として知っているということです。海苔はどう見たってカーボン・ペーパーではない。そういったものはたくさんありますね。造花というのは見た目にはよく似ていますが、その茎を手に持ってしまえば造花だとすぐわかります。何が違うというのではなく、全体的にこれは生花ではない、ということがわかります。アルミ缶とスチール缶もわかりますし、ガラスとアクリルの違いもわかる。どれだけ食品に似せた蝋細工も、手で触れてしまえば一撃です。自分の母親とそっくりな人を連れてこられても、確かに顔は似ているかもしれないが、目つきが違うし身長も少し違うし声が違うし仕草も違うのですぐわかります。"全体としてお母さんじゃない"。そういう影武者は、テレビモニタを通して遠くからの映像という程度でしか騙せません。いくら整形して仕草を真似させたとしても身近な人にはバレバレです。
インテリアや小物を扱う人なら本皮と合成皮革は触れただけでわかるでしょうし、木工職人が家具の展示場を歩いているとき、そこに使われている木材がスギなのかブナなのかタモなのかサクラなのかケヤキなのかマホガニーなのかラワンなのか、全てミエミエで歩いています。専業主婦のおばさまが、鮮魚売場を歩きながら、それぞれの切り身をスズキとメバチマグロとソイだと見ながら歩いているように。
そして、そういう脳の知識を持っていない人は、パケット情報に引っかかってしまいますので、ニセモノの桐ダンスを買わされてしまいます。桐というのは発泡スチロールみたいに軽い木なのですが、その感触を身に浴びたことがないために、ずっしりと重いタンスに「桐」と書いてあると桐ダンスだと思って買ってしまいます。実際にはそういうタンスは、取っ手の一部分だけが桐でできている、というようなマガイモノです。「桐」というシールが貼ってあるところは確かに桐だ、という。本皮、というシールが貼ってあると、またその貼ってあるところだけが本皮だったりする、そういうバッグを買わされてしまいます。
このことを、あなたはどうか、紛れの無い形で、持ち帰ってください。何も難しい話ではありません。たとえばイカの話をしましょう。あなたが自分でよくイカを買い、自分で調理して食べる人でなければ、あなたはきっと、スルメイカとケンサキイカとヤリイカとコウイカとアオリイカとソデイカの区別がつきません。全部「イカ」としか見えないはずです。ヤリイカは槍先に似ているからヤリイカと言いますが、そんなことを言えばイカはだいたい槍先に似ています。でもこれらのイカだって自分で手づかみにして調理して食べたりしていれば、間違えっこないものになります。僕はコウイカが好きなので鮮魚売場にコウイカがあると「おっ」と思います。それをスルメイカと見間違うことはまずありません。だってそれはチワワとプードルぐらいまったく違うものだからです。脳の知識として知っているというのはそういう状態です。
「桐」というシールにだまされて桐ダンスを買ってしまう人のことを、もう一度よく見ておきましょう。一見、気の毒に、という気がするのですが、あなたは同情するべきではなく、正しく本質を見抜くべきです。
なぜその人は、ニセモノの桐ダンスを買ってしまったか。それは決まっています。「桐ダンスは高級品」というパケット情報を持っているからです。ニセモノの桐ダンスを買ってしまったおばさんは、悪徳商法に騙される前に、自分で自分を騙してしまっています。桐ダンスは高級品……ということを、おばさんは心身に浴びて知っているわけではなかった。知りもしないのに、パケット情報だけで、知っているフリをした。そこのところを悪い業者につけこまれているのです。
もし、そもそもの「桐ダンスは高級品」というパケット情報がなければ、業者もおばさんを騙せません。もし、そのパケット情報なしに、目の前のタンスを手でいじくって、「高級品か?」と訊かれたら、おばさんは「さあ」と答えます。「欲しいか?」と言われたら「別に」と答えたでしょう。
だからあなたはこのおばさんに同情するべきではありません。あなたはひょっとすると、アオリイカが"イカの王様"だということをご存知かもしれません。パケット情報として。でもそれは、あなたが自分で自分を騙してしまう入口です。僕はスコッチが好きだと申し上げました。スコッチの中で、マッカランという銘柄は、「スコッチのロールスロイス」と呼ばれます。これは今でもしばしば聞かれる文句ですが、僕の知る限り、マッカランがスコッチのロールスロイスであったのは、きっと何十年も昔のことです。個々人の趣味でそれが好きだということには、僕は口出ししませんが、僕自身はマッカランを高値で買ったことはありません。何しろ僕はロールスロイスを乗り回したこともないので、キャッチフレーズはピンと来ませんでした。むろん「イメージ」はわかりますが、それは僕が知っている何かではありません。
さて、あなたはたとえば、誰か人に本気で怒られたことがあるでしょうか。あるとしたら、それは幸運なことです。人があなたに怒るということを、あなたは心身に浴びることができたからです。あなたはそれにより、脳の知識として、人の怒りというものを知ることができました。あなたは人の怒りというものを知ることができましたし、それによって、人の心というもの、また人そのものということについても、脳の知識として知ることができたのでした。
ここで仮に、「怒るふうの演技」をする人がいたとします。Aさんとしましょう。Aさんは過去に、「女にはガツーンと言ってやったほうがいいんだよ」と知人に吹き込まれたことがあります。そして言われたとおりにしてみて、うまくいったことがあり、それ以来"味をしめて"いるところがあります。
あなたがこのAさんと待ち合わせをしました。あなたはその待ち合わせに少し遅れてしまいます。遅刻はよろしくないことです。Aさんはここぞとばかり、「お前おれのことナメてんのかよ!」と怒鳴りました。ところが……
あなたは脳の知識として、人が怒るというのがどういうものであるかを知っています。ですから、そのAさんが芝居がかって"ガツーン"とやったときに、驚きはしますが、騙されることがないのです。
彼の大きな声、しかめた顔、睨みつけてくる目、厳しい文言、それはわかります。わかりますが、
「それは模型でしょ」
とあなたの脳は言うのでした。"全体として、これは人の怒りではない"と。そうして見抜かれてしまったらもうAさんはおしまいです。どれだけ「怒っているふう」の証拠を次々に見せても、それは一兆倍の情報量を誇るあなたの脳を覆すことはできません。怒りの模型、怒りのマネキンです。
もちろん怒りのことだけではありません。喜び、悲しみ、楽しさ、笑い、やさしさ、厳しさ、愛情、なんでもよいのですが、あなたが本当のそれを心身に浴びることがこれまでにあったなら、それらは全て貴重なことでした。あなたは脳の知識として「人」を知っています。人の心を知っています。喜ぶふう、悲しむふう、楽しいふう、笑うふう、やさしいふう、厳しいふう、愛情ふう、といった、全てのニセモノに、もう騙されることがありません。どれだけ騙しにこられても「それは模型でしょ」でおしまいです。「模型にしか見えない」のだから騙されようがない。
そして同時に、人が本当に自分に心を向けてくれたとき。本当に心を開いてくれたとき、そのことを見逃さずにいられます。人があなたに向けて、本当に笑ってくれたとき。本当に喜んでくれたとき。本当に悲しんでくれたとき。本当に怒ってくれたとき、それらを見逃さない。初対面で「ジュース買ってこい」と言ってくれた先輩のやさしさを見逃しません。どれだけ表面上はぶっきらぼうで、やさしさの反対側にいるよう見えたとしても、それは"全体的に、やさしさだ"という全体的脈絡を発見します。
その代わり……ささやかな代償ですが、"しょうもない小芝居"みたいなものが、目の前に展開されたとき、あなたはそれに陶酔することができません。それはメディアであっても実際の生活においてであってもそうです。目の前で「感動ふう」のことをされても、あなたにはそれが模型にしか見えないので、あなたは苦笑いすることしかできなくなる。わりと厄介な代償であるかもしれませんが、これはしょうがないことです。周囲と話を合わせるしかないときは、やはり合わせるしかないでしょう。そのようにしている人は、あなたの周りにも誰かこっそりいるはずです。
脳が本来の機能を失い、「頭が弱くなる」、そして自意識でパケット情報しか扱えなくなることの最大の問題は、ここにあります。ニセモノがニセモノとわからないのです。人の心ではなく、人の心「ふう」のものを真に受けてしまう。
恋愛でいえば、愛されている「ふう」のことに騙されることになる。そのまま騙されつづけてゆけるかというと、そんなに甘くはなくて、いつか必ず……破綻するというのでもない、当人がいつか「もういやだ」と膝を折って倒れてしまいます。そしてそうして倒れた人はもう当人が回復を望む気力を残していません。そのことはまた以降の講義で説明しようと思います。
ネズミを獲れなくなったフクロウ
脳が扱う全体的情報と、自意識が扱うパケット的情報。それらが、性質が異なるということ、それも極端に異なるということが、わかってもらえたと思います。よくよく見たら「まったく別の現象じゃないか」ということが。
最後にひとつ、怖い話もしておこうと思います。ある実験の話ですが、健常で生まれてきたフクロウに、生後まだ目が開かないうちから、目隠しをしてしまいます。そしてそのまま、たとえば二年ぐらい、目隠しをしたまま、食餌を与えて生育させます。それからようやく目隠しを外したらどうなるだろうか? という実験です。
フクロウは別に病気ではないので、目隠しを外せば目は見えます。目下にネズミが走り抜ければ、そのネズミを目で追うことができる。
ところが、それで本能のままにネズミに飛び掛るのですが、そのフクロウはネズミを獲ることができないのです。なぜか。それは、目の機能は健常で、目は見えているのですが、その目から得た情報を、脳が処理できないのです。それで、「ネズミを捕らえるように飛び掛る」ということが実際にはできなくなる。
動物は、発達の過程において、「この機能は必要ない」と判断されたものは、機能を丸ごと捨てるようにして発達していきます。フクロウは生後長い間目隠しをされていたので、視覚情報を脳で処理する機能は「必要ない」と判断され、その機能は捨てられてしまったのです。その後、訓練によって機能が取り戻されるのかどうかは定かではない。ですが常識的に言って、その機能は「損傷」ではなく「喪失」したのですから、それが回復されるということはもう無いと見なくてはなりません。このフクロウは、見えてはいるが見えていないというような、本来の姿ではない、哀しい生き物として生きてゆくことになります。
ひいては、人間だって、脳の本来機能である、全体的情報を処理する機能、これを発達の段階で「必要ない」と判断させてしまうことは、取り返しのつかないことになります。これは僕の考え方が残酷なのではなくて、生命そのものがそうして残酷に作られているということでした。
人間は言語を持ち、自意識を持ち、それを高度に機能させて社会を形成しているので、パケット情報の取り扱いができなくては、社会的に生きていくことができません。簡単に言えば、青信号が「進んでよし」だとわからなければ、社会的に生きていくことはできないということです。犬などでも青信号でわたる犬はいますが、それは周囲が進むのに合わせて進んでいるだけで、青信号をパケット情報として処理しているのではありません。
しかし、青信号の理解が必要であっても、同時に、「あやしい挙動の自動車が急接近してきた」というときは、その全体的情報の処理を優先させねばなりません。脳が全体的情報を処理しているからこそ、その挙動が「怪しい」と見えるということです。
「笑顔が大事ですよ」と教えることも大事かもしれません。笑顔であることをまるで、「心の青信号です」「だから進んでよしなのです」と教えることは、きっと無益ではない。
けれども、全体的情報においては、あえて笑顔に頼らない誠実さの人もいるかもしれない。その全体的情報を脳が処理できなければ、そういう人のことを見落としてしまいますし、小ざかしく笑顔の造形だけを利用してくる人にだまされてしまいます。"怪しい"挙動の接近があるのに気づかず、ただ「青信号だから進んだ」というような形で。
子供の教育のみならず、自分で自分を教育するというようなことを、人はします。しかしその教育というのは、自意識に有益なパケット情報を詰め込む、ということに限らないはずです。脳のほうを教育するということがありえますし、むしろそちらの教育のほうが大切だ、というのが本講義の趣旨でした。
脳の教育、脳を教え育てるということが、どういうことか、ここまで読み進められたあなたには、もうあなた自身として言いたいことがあるはずです。心身に浴びうる情報を与え、それを分析に逃げさせないことだと。全体的情報の処理を続けていないと、ただちに落第するような何かの環境を与えてやることだと。そこで落第を喰らいまくることは、教育上決して悪いことではないのでした。僕は子供の教育に進言できる立場ではないので、人がそれぞれ自分を教育することについて進言しています。
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第二講は以上です、お疲れ様でした。長い講義になり、そしておそらくこの講義が全体の中で最長になりますのでご安心ください。最長になったのは、ここが肝だということでもあります。
第二講のタイトルは「頭が弱くなる時代」ということでした。このタイトルは、それだけで、なんとなく分かる気がするわと、了解されうるようなものです。ですが、そうして分かった気になることには、利益がないだけでなく、分析的逃避に陥るだけの、むしろ重大な害があります。頭が弱くなるということが、本当にはどういうことなのか、そしてどれぐらい恐ろしいことなのかを、あなたは正確に知る必要がありました。恐ろしさを分析することが大切なのではなく、恐ろしい、と感じていることが大切です。そのためにあなたはこの長ったらしい解説に付き合ってきたのでした。
あなたがこの講義で持ち帰らなくてはならないものを整理しておきます。ひとつ、自意識の機能と脳の機能はまるで違うということです。自意識の機能が活躍することは、脳の活躍にはまったくなっていません。それで脳に活躍をさせていないと、脳が弱っていき、本来の機能を喪失してしまい、「頭が弱い」という人になるのだということでした。
そして頭が弱くなると、肝心な人を見落とし、しょうもない人に引っかかる。"ニセモノがニセモノだとわからない!"。「現代と恋愛」という大タイトルにおいてはそこが重要になるでしょう。人がする"模型的行為"に騙されてしまう。「模型でしょ」と気づくことができず、また自分自身も、その模型的行為を続けてしまいます。それらは全て、自意識の知識だけがあり、脳の知識が無いことが原因でした。
実際のこととしてはきっと、「脈絡を超える」ということが、引き続き大きな手がかりになると思います。あなたはまず、自分のひどい程度の「脈絡好き」に気づいてください。それは脳が機能していないことの証拠でした。あなたは脈絡を超えていなくてはならない。僕があなたに、「このブスめ、かわいい顔しやがって、死ね、百五十歳まで生きろ」と言いますから、あなたはそこに脈絡を探してはいけません。あなたは脈絡を探すのではなく、あなたが僕に"どう答えるか"を探し、発見しなくてはいけない。それを探すとき、脈絡というのがいかに無力か、いやがおうにも理解されるでしょう。
では引き続き第三講にどうぞ。第三講は短くなりますので、このまま勢いで踏み込むことに適しています。
あなたはこの長かった第二講を自分の中でまとめたいという衝動に駆られているかもしれません。話が長く、広くなりましたから……ですがそれは、大掃除のときに、まずこの本棚の整理を完璧にしたいという衝動に駆られるのと同じで、最終的な失敗に結びついています。そのことに気づいて、あなたはひとまずここはこのままにして、さらに先を進み、全体を片付けてから、またここに戻ってこられるべきです。講義の終盤に確認問題という意地悪なものも設けてありますので、あなたはどうせそのときにこの第二講にも戻ってこられるはずです。
あなたの知見を実用的にまとめたいという衝動について、きっと僕は今のあなた以上に苦慮を忍ばせているつもりでおります。どうかそのことにご高配くださって、しばし僕のことを信用して今は先に進んでください。
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