第三講 人が最大の情報源である/現代と恋愛
さて前回までの内容を振り返りましょう。情報にはパケット情報と全体的情報があるのでした。パケット情報は"自意識"に入り、全体的情報は"脳"に入ります。情報「量」としては、後者のほうが一兆倍も多い。パケット情報はまるで砂粒のようなもので、IT技術はその情報「数」を集めるのが得意なだけだ、ということでした。だから端末でパケット情報数に遊んでいると、自意識では楽しいのに、脳はひどい飢餓状態になります。それによって、自意識が膨らみ、脳は弱くなってしまった人格が出来上がってゆきます。弱くなってしまった脳はもう全体的情報を処理できなくなるので、その人格は「パケット専門人」になってゆく。パケット専門人は、表面的脈絡しか見えなくなり、全体的脈絡を発見できない人になっていく。頭が弱いので、表面上の脈絡から逸脱すると、すぐについてゆけなくなり、それで本当に面白いことや本当にいい人のことを見落としてしまう。そして表面上の脈絡が整っているだけで、悪徳商法や悪い論調にあっさり騙されていってしまうのでした。
"脳の知識"と"自意識の知識"がある。心身に情報を浴び、脳に全体的情報を吸い上げさせることで、人は本当の知識を手に入れていきます。自意識にパケット情報数を与えても、それは本当の知識ではないのでした。たとえば我々の耳が標準語と大阪弁を「まったく別物」とただちに聞き分けるのが脳の知識でした。比べて、「シャンパンとスパークリングワインはまったく別物なんでしょ」というパケット情報は自意識のもので、本当の知識ではありません。舌に触れさせてみても「まったく別物」とは感じられないので、それでは本当の知識ではないのです。心身に浴びて得た脳の知識しか本当の知識ではない。たとえば我々にとって、「海苔」と「黒い画用紙」はまったく別物です。ところが海苔を食べない文化圏の人たちにはそれが「カーボン・ペーパー」に見えるのでした。
我々が本当に知っていること……たとえばマネキンの手は模型であって本当の「手」ではない。これはどうやってもだまされない。見た目はごまかせても触れてみれば一撃です。脳にある一兆倍の情報を騙すことはできません。それと同じように、たとえば人の笑顔だって、「これは本当の笑顔ではない」「笑顔の模型だ」と、脳は本来見抜く力を持っている。それは笑顔「ふう」なだけだと見抜いて騙されない。ところがパケット専門人になり、心身から脳へ本当の情報を浴びていないと、人はその笑顔「ふう」にも騙されるのでした。いい人「ふう」に騙される。それで交際すると恋愛「ふう」になり、充実「ふう」になる。けれども「ふう」でしかないので、いつか人は倒れてしまう。「ふう」のものなんて、人は本当は「要らない」からです。自分自身もいい人「ふう」であったなら、何年もかけて、ついに自分自身を「要らない」と感じてしまいます。
それが前回までのお話でした。それで、パケット専門人に好んでなりたい人はいないでしょうから、脳を鍛えなくてはならない、ということでした。ではそれで、鍛えるというのはいったいどうやって、ということになるのですが、それを鍛えてくれるのは、なんだかんだで結局人です。そのことについてお話しする必要があるだろうということで、この第三講が書かれています。それではどうぞ、簡単な講義です。
人の脳は人間の情報を得意分野にしている
猫はどれだけ居眠りしていても、ネズミの足音がするとただちに跳ね起きて、迷うことなく、音のしたほうへまっすぐ歩いていきます。そして何時間でもそのあたりを周回し、ついにネズミを見つけて捕まえてしまう。これは猫が生きていくために本能に宿された機能でした。猫の脳は、ネズミの物音について情報処理することを特に得意にしていると言えます。
それと同じように、人間の脳にも得意分野があります。人間は、人間同士の集団で生きていくので、人間そのものの情報についてが得意です。例え話をするとこれはわかりやすい。
たとえば透明人間がいたとします。透明人間が、後ろからあなたの肩をぽんと叩いた。あなたは振り返りますが、そこには誰もいません。あなたは驚き、恐怖します。「今のは誰?」と。
でも不思議なことに、そこには誰もいないにも関わらず、肩を叩いたのが「誰か、人の手だった」ということだけは、間違いないと判断しているのです。それは、人間の手が自分の肩に触れて呼びかけてくるときの感触について、脳が情報処理することを特に得意にしているからです。不思議なことだと思いませんか。たとえ満員電車に振り回されて、全身をこづかれるようであっても、その中で肩をぽんと叩かれたら、その感触は「呼びかけられている感触だ」とただちに感じ取ります。
たとえば通学路で、友人に後ろから肩をバシンとやられても、「うわあ」とびっくりはしても、同時にそれが打撃や攻撃でないというのもただちに感じ取っています。そしてそのバシンの感触から、それが友人であるか先輩であるか教師であるかというようなことも、感じ取っている。同じ肩を叩くのでも、親愛のそれもあれば、何かしらの警告という場合もあります。肩を叩かれた感触だけからでも、その感触がとっさに男性か女性かということも感じ取っているところがある。これに比べると、たとえば壁に立てかけてあったものが倒れる、それが肩に当たったら、「いてっ」となります。そして振り向いて確認しないと、肩に何が当たったのかわからない。人間の手で肩を叩かれたときほどには、脳は情報を豊かに処理していないのです。別に肩を叩かれることに限らず、後ろから「おーい」と呼びかけられたときでも、それが親愛の呼びかけなのか警告の呼びかけなのか用事の呼びかけなのか、ちゃんと感じ取っている。脳はそういう、人間同士のやりとりについて情報処理が得意です。これには合わせて、ツイッターで「おーい」と呼ばれても、それがどのような声なのかはわからないということも見ておきましょう。パケット化した情報は、自意識にはわかりやすくても、脳には豊かな情報を与えてくれません。
あなたの「脳」が、人間についての情報を得意分野にしているということがわかってもらえたと思います。それはあなたに具わった本能でもありますし、与えられた環境でもありますし、その分野こそをあなたは伸ばしてゆかねばならない、というものでもあります。
もちろん脳の機能自体は、どの分野に向けても発達していきます。心身に情報を浴びれば浴びたぶんだけ。たとえば釣りの達人は、魚が針にかかると、その糸を引かれるサオの感触だけで、だいたいかかった魚の種類がわかるのです。これはフグだ、これはベラかな、これはメバルだろう、これはタイが来た、というふうに。ほとんど針にかかった瞬間にわかるようです。釣り人はその糸を引かれる感触を心身に浴びてきたので脳が鍛えられたのでした。
あなたにはそんな釣り人の能力はなくても、ただの人としての能力があります。たとえば見知らぬ子供が後ろからあなたの手をつかんでくいくいと引っ張っても、あなたはその感触をただちに「子供の手だ」と感じ取ります。見間違うわけがない、と。まるで魚が針にかかった瞬間のように、「これはコドモだろ」と手の感触でわかります。あなたにはもともとそういう得意分野があるのですから、脳を鍛えるといえばそこを鍛えるのが第一の選択肢です。
関わりのある人だけが情報をくれる
とはいえ、駅前ですれ違うたくさんの人が、みなあなたに大量の情報を浴びせてくれるわけではない。はっきりいって、彼らは何もあなたに与えません。それは駅前ですれ違うとき、人は人同士、基本的に無視しているからです。心理学では没人格化というのですが、そのことはまた次回以降にお話しできるでしょう。
簡単に言って、人が最大の情報源であるといっても、あなたと関わりのある人しか、あなたに情報はくれません。あなたの心身に情報を浴びせてはくれない。だから駅前に座り込んで過ぎ行く人の人間観察をしていても何も情報は得られませんし、何も脳が鍛えられはしない。
関わりがあるとはどういうことを指すか。それについてお話しする前に、今一度、このことのご確認をあなたにお願いしておきたいと思います。「関わりのある人だけが情報をくれる」ということ。その関わりは脳の問題であって、社会的な立場の問題ではありません。たとえ家族だって、夫婦だって、教師と生徒だって、情報をくれるとは限らない。あなたと彼が「脳」で関わっていないかぎり、どのような立場の設定も無意味です。あなたがすでにご存知のとおり。
一日中、スマートホンを握り締めていたとします。そして一日中、熱心にネットサーフィンをした。没頭した。丸一日というのでなくても、気づけば半日もそうしていた、という人は少なくないはずです。その間、自意識は情報数によって酒池肉林ですから、満足し、興奮し、何なら陶酔しています。でもあなたの脳はひどい飢餓になっています。
これに比べて、誰かの手を一日中握り締めていたならどうか。ときに強く握り、ときに弱く触れる。いたずらでつねってみたり、つねられて、逆にやさしく撫で返したりもする。何も話さずにそんなことをしている。
その穏やかな時間には、何の情報も無いように見えます。ですがそうではないのです。自意識から見たら情報はまったくなしです。が、脳は一日中、豊かな情報を受け取っています。手を握って仲良し、ということではありません。そういうわかりやすい小分け情報の話ではない。
脳は全体的な情報を受け取りますから、その手のつながった先、人の心身、そこにある匂い、取り囲む季節、ソファの感触、温度、呼吸の音、それぞれの皮膚のなめらかさ、細い髪の擦れる感じ、骨と関節の細さとたくましさ、ささやかな動き、肌の茶色みと白さと血の透けたピンク色、空をゆく飛行機の音、遠い雑踏、カレンダーに並んでいるゴシック数字の几帳面さ、そういったものの全てを、小分けにせず丸ごと受け取っています。一方その間、自意識はすることがないのでまるで眠るようになります。
たとえば恋人として関わりがあるというのはそういう状態です。別に恋人同士という立場でなくてもよい。ただ、スマートホンを握り締めていた一日との違いをよくよく見ておいてください。そこにある興奮の違いも。後者の一日には何の興奮もありません。穏やかで、陶酔というのもありません。
パケット専門人に、パケット専門の一日があるなら、一方でこれは、"脳専門"の一日を過ごした、と言えるでしょう。仮にこの翌日、友人に「きのう何してた?」と訊かれても、答えられません。「別に何もしてなかった」としか言えない。じっさい自意識では何もしていないのですから答え方は正しい。何をしていたのかはパケット的には説明できません。
「いろいろ見ていたら、あることに興味が出てきちゃって、調べ物してたの、それでちょっとそのことに詳しい友人に相談もして、さっそく通販サイトで注文もしちゃったわ」
スマートホンを握り締めていた一日というのはたとえばそんな感じです。このことには実に問題のない表面上の脈絡があることにも注目しましょう。見ていた→興味が出てきた→調べた→相談した→注文した。これは自意識の一日です。
手を握っていて、人の心身、匂い、取り囲む季節、ソファ、温度、呼吸、皮膚、飛行機、雑踏、カレンダー……こちらのほうには何の脈絡もありません。ときどきつねったり、やさしく撫で返したり、というのにも、表面的な脈絡はない。脳の一日に脈絡は要らないのです。注目とか動機とか興味とか結果とか、そういった脈絡の連結は要らない。注目とか動機とか結果とか、別に企業広告じゃないのですから、必要ありません。
脳と脳の「関わりあい」
つまらない図式を説明します。これはつまらないぶんだけ、理解も簡単なものです。人には脳と自意識の両機能があるのですから、人と関わるというのも、それぞれどちらの機能において関わるのかということで差がある。それは当然ながら次の四通りになるはずです。
自意識−自意識
自意識−脳
脳−自意識
脳−脳
「自意識−自意識」という関わり。これは役所の手続きや、弁護士との法律相談、あるいは何かしらの情報交換会、などがそうです。これ自体は何も悪いものではありません。役所は必要ですし、弁護士も必要です。情報交換も必要なことです。
ただ、これはパケット情報を扱う関わりなので、できれば「コンピューターのような」人のほうが望ましいのです。役所の人が、業務上の専門知識を完璧に知っており、すばやく説明できるということ。弁護士がコンピューターのように過去の判例を頭の中で検索できること。情報交換といって、その情報の持ち主があいまいで不正確な情報しか持っていないのでは役に立ちません。役所や法律事務所に行ったとき、人が一番喜ぶのは、「一瞬で終わっちゃった、さすがにプロだなあ」というときです。こんなものはコンピューターで済めば一番よいので、役所の手続きも次第に電子化が進んでいます。
この関わりにおいては脈絡こそが評価されます。弁護士などは特にそうですね。圧倒的に明瞭で滑らかな脈絡が突き抜けて進むほうが、こちらの関係においてはよいのです。
次に、「自意識−脳」「脳−自意識」の関わり。これは一言でいえば「ちぐはぐ」です。我々に心当たりがあるのは、たとえばサッカーの試合でスーパープレイを見せた、試合直後の選手に向けての、レポーターのインタビューなど。職業上の役目なのでしょうがないとは思うのですが、明らかに激しい試合の中で脳をフル回転させたばかりの爛々とした目の選手に、「今後の課題は?」みたいなパケット情報的質問をぶつけるのを見ると、何かちぐはぐだなあと誰もが感じてしまいます。
あるいは、スマートホンを覗き込んでいるところの女性に、ある芸術家が「あのクスノキをごらん、雄大だ!」と指を震わせて言ったとしても、「んー? ああそうだね、でっかいねえ」と言われておしまいです。これもちぐはぐです。
最後に、「脳−脳」の関わり。本講義で、本来の意味で「関わり」と呼ぶのはこれだけです。脈絡ということには引き続き注目していてください。「あのクスノキをごらん、雄大だ」というのに、「そうね、すばらしいわ」というのは、割と脈絡がつながってしまっています。
「あのクスノキをごらん、雄大だ!」
「風に、潮の匂いが混じっているわ!」
こういうほうが、きっとあなたに感じを掴んでいただきやすい。ぜひアクセルを踏みすぎて、ドライブウェイを走り抜けているところにそういうやりとりが挟まれたらいい。あなたはバッと前方を指差し、見つけたそれに「飛行機!」と勢いのよい声を発する。そしたら彼が、「おれたちゃ自動車!」と答えてアクセルをさらに踏む。
説明が続きます。さしあたりあなたはここで、人こそがあなたの脳に情報を与えてくれるということ、ただしそれは、自分と関わってくれる人に限るということ、そして、その関わりというのは脳と脳の関わりを言うのだということを、覚えていってください。
さきほど、一日中手をつないでいた恋人同士のことをお話ししました。彼らは恋人同士として関わりを持っている。そのことをあなたが正しく捉えるのに一番スマートな言い方はきっとこうなります。
「彼らは一日中、脳と脳をつないでいた」
単に手をつないでいたというだけではなかったのでした。だからそれは、おじさんとホステスさんが腕を組んで歩いているデートは違うのです。
手をつなぐのか、唇をつなぐのか、互いの性器をつなぐのか、その箇所はさして問題ではありません。本当の焦点は、手を媒介にして、唇を媒介にして、性器を媒介にして、脳と脳がつなげられるか、というところにあります。全て、人と関わりを持てるか、ということなのでした。
全体的脈絡は、本当に自意識脈絡の一兆倍ありうる
少し余談じみていますが面白いことがあるのでお話しましょう。
あなたが僕に「1たす1は?」と訊きます。僕は何と答えるでしょうか。
ふつう、「2だ」と答えます。これは何も間違っていません。脈絡どおりにいくならまさにそのとおり。
ですが、あなたは本当に、それ以外の答え方が無いと思われるでしょうか?
もし、どうしても、それ以外に答え方はありえないように思えたなら、それは残念ながら、あなたの「脈絡好き」が深刻にあなたに染みこんでしまっています。もちろん、1+1=2という数学的な解答は変化のしようがありません。でもそういうことではなくて……これはきっと答え方を見てもらったほうがわかりやすいでしょう。
「1たす1は?」
「算数だな」
たとえばこういう答え方もあります。"1+1"は確かに「算数」です。答えは間違っていない。
あなたはもしこういう答えが返ってきたら、ちょっと意表を突かれて笑うと思います。「確かに間違ってないけど」と。
「1たす1は?」の問いかけに対して、答え方は「2だ」だけではありませんでしたね。ここではそのことが重要です。あなたの友人が百人いたら、百人とも「2だ」と答える……ということでは、実はなかったということです。
それぞれの場合について、あなたの脳が――死んでいなければ――一瞬に描き出す全体的脈絡の幽玄を、どうか見逃さないでください。あなたの脳は別に表面的な脈絡なんか欲しがっていないのです。
「1たす1は?」
「足し算だな」
「1たす1は?」
「たとえばお前のおっぱいだな」
「1たす1は?」
「偶数だな」
「1たす1は?」
「もっとだ」
脈絡を外した答えに触れるたび、あなたの脳はとっさに、「フッ」「フッ」とですが、全体的脈絡を掴もうとするはたらきをするはずです。あなたはその中で、ありもしない正解を、どうか探さないでください。正解といえば「2」しかありえません。ただその正解を堂々示したとして、あなたはその人を「頭がいい」なんて思わないはずです。
「1たす1は?」
「算数だな」
「え? どういうことですか?」
こういう人はいかにも"頭が弱い"。その頭の弱さについて、あなたは何か「危なっかしい」、「怖い」「不安だ」という印象を覚えませんか。
「1たす1は?」という問いに対して、自意識の脈絡は「2」という答えしか持ちません。けれどもそんな脈絡を外してしまえば、答え方はいくらでもある。一兆個でもあります。だから本当に、脳の情報処理規模は自意識の規模の一兆倍あるのです。
あなたはこのように捉えても構いません。
「脈絡で答えるなら脳は要らない」
まさに1+1がそうであるように、脈絡で答えるなら脳は要りません。電卓で十分です。電卓は、一個しか答えがないとか、二つか三つか、とにかく数えられる程度の答えしかないときに、すばやく答えを出すのに優秀です。その演算をさせたら、人間が電卓に勝てるわけがない。
あなたが男性を飲みに誘ったとき、
「飲みに行きませんか」
「いいね、行こう」
こういう答えしか返ってこない、そういう空間にあなたがいたなら、あなたは存分に残念がるべきです。
答えは本当に、二個しかないのか。イエスとノーの二個しかないのか。
「飲みに行きませんか」
「おれビールね」
「注文が早いですよ」
たとえばこうして脈絡をジャンプすると、脳がフッとはたらいて、全体的脈絡を掴みなおします。イエスとは言っていないけれど全体にイエスが含まれています。このときあなたと彼は脳でやりとりをしているのです。
あなたは自分の自意識が意地っ張りであることを本当には自分で誇らしく思っていないはずです。いきなりにというのはきっとむつかしいですが、あなたは人と脳で関わり、またあなたを脳で迎えてくれる人を見つけ、脳を鍛えていってください。
脳同士なら全ての人がまったく違う
二人の男性についてお話しします。Aさんは、二十代の男性で、好ましい顔をしており、人当たりがよく、スポーツがそこそこ好きで、仕事熱心ですが、おしゃれのセンスはありません。頼りないところもありますが、人柄はけっきょく誠実です。女性を口説くのは不慣れなのですが、結婚したら奥さんを大切にして、幸せな家庭を作れたらいいなあと夢に描いています。
Bさんについてお話しします。Bさんは、二十代の男性で、好ましい顔をしており、人当たりがよく、スポーツがそこそこ好きで、仕事熱心ですが、おしゃれのセンスはありません。頼りないところもありますが、人柄はけっきょく誠実です。女性を口説くのは不慣れなのですが、結婚したら奥さんを大切にして、幸せな家庭を作れたらいいなあと夢に描いています。
あなたが今読んだのは誤植ではありません。AさんとBさんのことについて正しく点描しました。あなたに不毛な作業を与えてしまって申し訳ないですが、講義のためなのでご容赦ください。
このようなAさんとBさんがいたとして、何がおかしいでしょう? 二十代の男性……誰だって一時期は二十代です。引きつった顔をしていなければ、ふつう若者の顔は好ましいものです。人当たりはふつう良くするようにしますし、スポーツは誰だってそこそこ好きです。仕事は熱心にするのが当然です。おしゃれのセンスが本当にある人なんてそんなにいません。頼もしい男性なんて世の中に少ないですし、誠実でない男性より誠実な男性のほうが大多数です。女性を口説くのに慣れているなんて大半が男の思い込みです。誰だって結婚したら家族を大切にして幸せにありたいなあとは、子供のころから思っています。
つまりこんなものは、個性でも何でもないのでした。まるで乗用車の説明のようです。乗り心地がよくて、よく走り、そこそこ燃費もいい。長持ちすればいいなと思う。乗用車なのだからそれが当たり前です。
脳が弱くなり、自意識でパケット情報しか処理できなくなると、こういうパケット情報の断片でしか、人を見られなくなります。特に、女性が今でいう「婚活」などで焦っていたりすると、年収がこれこれ以上で、酒と博打はやらない人、たばこはこっちが我慢しよう、安定した仕事をしている人で、女ぐせが悪くない、何歳から何歳までで……と、まるでそのパケット情報に該当する誰かを「さっさと検索で出したい」と望むようになります。
こういう人に話を聞いてみれば、別に問い詰めるまでもなく彼女のほうから白状します。「正直、別に誰でもいいと思うの。ごく普通の、誠実な人であれば」。それは別に責められるようなことではなく、彼女の現在のまったくの本音だと思います。
ただ、「誰でもいいからあなたにするわ」というのを、当の婚活相手に言うわけにいかない以上、やっていることは何かおかしいわけです。明らかに本道から外れている。本音のところでは「正直、誰でもいい」と思われているのに、やれ指輪を買わされたり式を挙げさせられたりしたら、とんだ茶番で、ピエロです。だから、「正直、誰でもいい」というのが本音だったとしても、それに付き合わされる相手は馬鹿馬鹿しいので付き合っていられないし、だからこそ本音を隠して建前を押していくわけですが、そうなるともうその建前に騙されるような人としか付き合えなくなってしまう。こんなことはもう、とにかくおかしいわけです。
「正直、誰でもいい。条件にそこそこ当てはまれば」というのは、彼女の本音に聞こえるのですが、本当にはそうではないのでした。脳が弱り、今やパケット情報を自意識で捉えているだけなので、もう「誰でも同じにしか見えない」のです。AさんとBさんがパケット情報ではまったく同じ人間であるように、彼女の眼には多くの人がまったく同じ人間に映っています。
パケット情報での人間認識は、せいぜい「○○系」という程度の、組み合わせパターンしかありません。「雰囲気イケメン系で、自営業のややリッチ系?」というように。「萌え系」とか「ツンデレ系」とかいうのも同じです。草食系、肉食系、脱力系、オラオラ系、ちょいワル系、いい人系、母性本能系、職業ならデザイン系とか飲食系とか……パケット専門人はそういうふうに人間を認識しています。だから、そのお目当ての○○系がある程度当てはまるなら、本当に「誰でもいい」し、正直なところ「誰でも同じ」になります。もうどんな映画を見ても感動は「感動系」にしかなりません。ヒューマン系、サスペンス系、アクション系、どんな名作でも○○系です。
そのことが、いいとか悪いとかではなくて、脳が弱ると、そう「なり」ます。本人の意志に関わりなく、そういう機能の人間になるのでした。
もちろん本当には、人間には個性がないとか、○○系に当てはめて後は同じとか、そんなことはありません。確かにパケット情報しか処理できないとそうなりますが、脳と脳とで関わりを持つ場合は、情報量が一兆倍も違うのですから、そんなことにはなりません。
仮にAさんとBさんの"脳"を解放したとして、彼らが朝起床して、まっさきに叫ぶことは何でしょうか。たとえばこのようであったらどうでしょう。
A「……あああ〜カステラが〜食いてえ〜!!!」
B"...Fuckin' peaceful, shiny day... Ah..."
僕はAさんBさんが必ずしも日本人であるとは申し上げていません。パケット情報がいかにも思い込みを貼り付ける性質があることに注意してください。Bさんは青い眼で金髪のアメリカ人です。
二十代の、好ましい顔の、けっきょく誠実な男性が、ふとカステラを食べたくなり、ブーツを履いて駆け出すのはおかしくないですし、朝の光を喜んだり、そこに言葉のリズムとしてファッキンという語を差し挟んだり、昔から枕元においてあるぬいぐるみの頭を眠気のままに拳でぐりぐり挨拶したりするようなことは、別におかしいことではありません。
このAさんとBさんが「同じ」に見えるのはおかしいことです。
今やAさんとBさんを同じ「○○系」でくくれる気がしないように、脳と脳とで人と関わりを持つ限り、個性的でない人間とか、○○系でくくられて済むような人間は一人もいません。
パケット人間界と脳人間界
日本人の脳には虹が七色に見えます。でも別の国だと四色に見える民族もあるようです。それは色を捉える文化の程度がそれぞれで違うからですね。日本はどうやら青の分解能が文化的に高いようです。青色、水色、空色、群青、藍色、紺色、紺碧、浅葱色、瑠璃色、などなど。日本が青色の情報処理に長けたのはきっと四方を海に囲まれていたからでしょう。大陸の内陸部には、青色といえばきっと空の青しか天然には存在しなかったはず。青色というのは動植物の天然には存在しにくい色で、だから我々は青い食べ物を食卓に見ません。一方で、血液に神の存在を信じる部族などでは、赤色の分解能が文化的に発達しています。
色を専門にする職業、たとえば服飾のデザイナーなどがそうですが、彼らは色に対して脳の情報処理が鍛えられています。色辞典に詳しいのではありません。目で認識する色の分解能が高いのです。色彩官能士と呼ぶべきか、いわば色のブレンダーでしょう。彼らはPCでデザインをしますが、PCのモニターが正確な色を発してくれるとは限りません。それでデザイン用途専用のモニターを使います。色を正しく発色する高性能のモニターです。
でもそれでデザインしたデータを、染色業者のところへ発注に出しても、向こうのモニターが正確に発色してくれるとは限りません。ですから彼らは、高精度に印刷されたカラーパターンを郵便で送ったり、色見本から番号で指定したりします。
その色見本からたとえばシャツを染色するのですが、染色は化学的な工程ですので、これが狙ったとおりの色に染まってくれるとは限らない。染め上がりを見て、素人にはまったく見本と同じ色に染まっているように見えても、プロの眼には「全然だめだ」と映ります。素人にはどう見えても、プロの脳にとってはそれは同じ色「ふう」でしかないのでした。
もし、このことになぞらえるとするなら、人間の色は何色あるでしょうか。十人十色といいます。でももし人間が10パターンしかないなら、百人でも千人でも10色です。
説明のしやすいように、「パケット人間界」と「脳人間界」という、二つの世界があるとしましょう。パケット人間界では、人間は人間をパケット情報の組み合わせで認識します。○○系という数十のパターンがあり、それらを組み合わせることで数百のパターンを作り出します。
ある男性がC子さんのことを好きになります。C子さんは彼から見て、「黒髪の、清楚系で、ちょっと天然の癒し系」でした。彼はしばらくC子さんにぞっこんでしたが、あるときC子さんが髪色を明るく脱色しました。すると彼は途端に熱が冷めます。黒髪の清楚系でなくなったからです。
天然の癒し系かと思っていたが、最近はスキューバダイビングというアクティブなこともしていることを知りました。彼はますます熱が冷めます。そして彼女は意外と、飲み会のときには煙草を好んで吸うのだという、そのことも現場で見て知ってしまいました。すると彼はもう、熱が冷めるどころか、「もういいわ」、さらには、「煙草吸う女って結局最低だと思う。さっさとやめたほうが自分のためだと思うよ。絶対ビッチくさく見えるし」みたいなことを、どこかに撒き散らします。熱が冷めるどころか、軽蔑と攻撃というあたりにまで転じるのです。
これが、冗談でも誇張ではなくて、「マジ」なのだと、僕はもう現時点で言わねばなりません。現代と恋愛という大タイトルでお話しをさせていただいています。過去にも勿論そういう人はいましたが、今はもうそれが珍しくないと言わねばならない。珍しくない、どころではない、とも言わねばならない。
彼はC子さんが好きだったのではなくて、黒髪の清楚系、プラスちょっと天然の癒し系が好きだったのです。その○○系がズレたら、それはもう彼の好きな人ではなくなってしまうのでした。逆にいえば、黒髪の清楚系で癒し系なら、別にC子さんでなくても誰でもよいのです。先ほど婚活女性が「正直誰でもいい」というのを本音にすると申し上げました。それと同じです。
今度は逆に、すでにやさぐれてパチンコ通いが好きな、やる気はないが計算高い女性がいたとします。彼女は最近フリーターから事務職に転職しましたが、業務に要求されるレベルが思いがけず高かったので、「マジはやく結婚して仕事早く辞めたいわー」としか思っていません。それで彼女は友人としゃべりながら、作戦会議のようなことをします。「結局オトコってさあ、清楚系みたいなの好きじゃん。おとなしい系で、箱入りっぽいのとかさあ。結婚するとなったらそっち選ぶじゃん」みたいなことを結論付けます。そして黒髪に染め直して、「それ系」にイメージチェンジします。
そのようにすると、先ほどの彼ですが、彼はその女性にコロッと騙されるのです。もちろん彼女は彼の前では煙草なんか吸いませんし、パチンコ通いもバレないようにしています。ちょっと天然ふうであるとか、清楚ふうであるとか、その程度の演技ができない女性なんていませんから、彼女もそうします。彼女の友人はその清楚キャラにゲラゲラ笑うのですが、彼はすっかりその気です。彼女は友人と作戦会議で、「あとはこれで妊娠しちゃえば勝ち組じゃね」「だよね、彼絶対それで落ちるもん」「よーしわたしの卵子ガンバレ〜」「超ウケるんですけど」「だって結婚しちゃえばだいたい同じなんじゃん、ぶっちゃけ」みたいな話をしています。「彼、いいんだけどさ、ちょいちょい説教してくるのがウザいよね」「まあそこはキャラ的にしょうがないよね」みたいな話を。
パケット人間界というのはそういうところです。誇張でも何でもなく。念のため申し上げますと、彼らはそのように「落ちぶれた」のだとは思っていません。もともと"こういうものだろ"だと思っています。この世界と人間について。
さてでは、もう一方の「脳人間界」のほうから、その猫かぶりの上手な女性を見てみます。猫かぶりは上手かもしれませんが、女性の全てにはその程度の猫かぶりの能力は具わっていますし、それがいくら上手でも、猫かぶりは猫かぶりです。いくら清楚ぶっても、姿勢や箸使いや言葉遣いや目の色まで清楚になるわけではない。清楚「ふう」にできるだけです。脳はパケットの一兆倍の情報量を処理しているのですから、清楚と清楚「ふう」とに区別がつかないわけがありません。
ですから、こちらからは、その女性が「怖い」と見えます。いちいち疑って見ているわけではないのですが、「何か知らないが怖い」のです。何か異様な雰囲気がある。「何かずっと怒っている気がして怖い」と。それはそうです、彼女はずっと猫をかぶり、自身の性格からは不本意なことをしているのですから、不満が溜まっていて当然です。何しろ煙草ひとつでさえ隠し持って隠れて吸わねばならないのですから面倒くさくてかなわないでしょう。またそういう面倒くさいことが本来大キライなのが彼女の性格です。
仮に、僕と彼女が正直に話し合うことになったら、僕は彼女に、「それって幸せになれるのかなあ」と、単純な疑問を呈するでしょう。そしたら彼女はきっと――僕は何度もこれを聞いてきました――「だって幸せとかって、わっかんないんだもん」と答える。そういうことはとても多かった。彼女にだって疑問がないわけではない。そして僕は立場の無い干渉が正義とは思えないので、ポリシーとしてそれ以上は不干渉を選びます。たとえ黄金に価値があったとしても、何にでも黄金を塗ってよいとは限らないと、僕は思うからです。彼女の人生は最後まで彼女の人生であってほしい。"わっかんないんだもん"と言われたら、僕だってわっかんないです。
立場の無い干渉が正義とは思えないので、僕はふだん、こういう干渉的なことを言いません。だからこそ、これは「講義」だと繰り返し申し上げてきています。講師と受講生という立場においてなら、僕はこの干渉的な話をしうるでしょう。あなたはぜひ、パケット人間界などに行くことなく、脳人間界に居てください。
パケット人間界が○○系の組み合わせで数百の人間認識パターンを持つなら、こちらは数百兆の人間認識パターンがあることになります。そこまで拡大してあるものはもうパターンとは呼びません。あなたと同じ系の人など存在しませんし、あなたはパターンの中のどれかではありません。
そして同時に、あなたにとっての誰かも、一人として「○○系」などではない。一人一人が、パケット情報処理などでは済ませられない、巨大な情報の塊です。
その上で、この脳人間界において、脳と脳とで人と関わりを持つということの、インパクトの大きさを見てください。巨大な情報の塊と巨大な情報の塊が接続するわけです。しかも人間の本能は、その人間の情報を吸い上げるのを一番得意としているのでした。それは巨大な掛け算になるでしょう。
だからこの第三講のタイトルは、「人が最大の情報源である」でした。人こそが最大の情報源であり、その情報処理が脳を鍛える。それはあなたが人を鍛えるということでもあります。あなただって人に対して最大の情報源です。だからどうぞ、人の心身に巨大な情報量を浴びせるようであってください。
そのような形で、あなたは人を必要としていますし、人もあなたのことを必要としています。あなただけが人の手を握るようなことはできず、そのためにはあなたの手も人に与えねばならないのでした。
「もう一通り知っている」という典型例
ひとつわかりやすいお話をしておきます。パケット人間界では、しょせん数百程度のパターン化で人間を認識していると言いました。○○系の○○系、というふうにです。でもこれらのパターンはあまりに有限ですので、すぐに枯渇します。枯渇するとはつまり、「もう一通り見たし、一通り知っている」という状態になることです。これはパケット人間界に起こる典型的な心境ですので、指標に知っておくとよいでしょう。パケット人間界では、だいたい二十代の中頃までにでしょうか、用事とストレス発散以外にはもう人と会う理由を失います。「もう一通り見た」と。体験すべきパターンが枯渇するのです。
それはたとえば、「もし世界中の飲食店全てが、限定的なチェーン店に支配されたらどうなる」と、想像される様相に似ています。もう世界中のどこに行っても、すでに行ったことのあるチェーン店です。なんだかんだ、工夫はしてあっても、○○系列チェーンの同じ味しか結局しない。アフリカに行こうがヨーロッパに行こうが同じです。これはつまらないですね。外食に行こうという気がなくなります。用事かストレス発散しに行くかでしか、もう外食というのは行かなくなります。初めのうちは便利で楽しくても、すぐに全てが「もう一通り食べた」になってしまいます。
もし人間がそんなことになってしまったらどれだけしんどいことでしょう。新入社員が来るたび、いちいち初対面からやりなおさないといけない。どうせ何の変わりばえもないのにです。初対面のストレスしかそこにはない。でもパケット人間界というのは本当にそういう世界です。一通り見てしまったら、後はもう人がどう入れ替わっても、新しい体験なんか無いのです。それでもそのあと何十年間も生きるのですから、それはもうしんどい。「付き合ってもさあ」「デートしてもさあ」「セックスしてもさあ」と、もうやるべきことが枯渇しているのだからその先にはおっくうさしかありません。
何もかも「もう一通り見た」「もう一通り知っている」という感じがするのは、脳が弱まったときに現れる典型的な症状です。それで対処法があるわけではないですが、自分に対する診断に、このことは指標として使えるでしょう。
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第三講は以上です。お疲れ様でした。
そろそろ、一息入れましょう。たくさんのことをお話ししていますが、本当にはそう広大な話はしていません。どこまで行ってもあなたの「脳」の話です。現代と恋愛、という大タイトルですが、何のことはない、現代は脳が弱くなる時代で、脳が弱くなると恋愛には大変まずいという、それだけの話でした。
「田んぼ」には何が必要でしょうか。肥料は必要かもしれません。でも第一に必要なのは水です。あなたは農家さんが田んぼに水も入れずに肥料だけ熱心に入れていたらどう思いますか。それは間違っているでしょう。「田んぼ」というものの機能を生かすにはそういう使い方はしないはずです。
あなたの脳はちょうどその「田んぼ」のようなものです。水はどうやって入れますか。ホームセンターや農協で買ってくる、わけではないはずです。田んぼにはもともと水が引いてあって、あとはその水門を開くだけです。
ところが現代、肥料が発達したために、人人は肥料にばかり関心を持つようになりました。それでいつの間にか、水のことを忘れてしまったのです。稲はどんどん枯れていきます。それでどんどん肥料を足すのですが、稲が枯れるのは止まらないわけです。
長い間、水に触れていないので、農家さんは「水ってどれだ?」という状態になっています。それでホームセンターに買いに行くようなことをする。でもそこで何かを買ってきたら、それはまた肥料です。水門の開け方もよくわからなくなっていますし、何より、「水には何の栄養もないのだから、稲が育つわけがない」「脈絡がない」と思っています。「むしろ水を入れたらせっかくの肥料が薄まってしまう」とも。
その田んぼはあなたの持ち物です。が、あなたの「思い通りになるもの」ではありません。ここには重大な差があります。どの肥料を買うかとか、どの程度撒くか、というようなことは、あなたの思い通りにできます。けれども、あなたの田んぼが稲を育てるというのは、田んぼの機能であってあなたの機能ではありません。あなたは田んぼを扱うことができるだけで、あなた自身が田んぼになれるわけではないのです。あなたの頭から髪の毛の代わりに稲が生えてきたりはしないように。
あなたは自分の田んぼをまず眺めてください。それは自分のものですが、もともとは、自然に与えられたものです。あなたの脳もそれと同じなのです。あなたの脳も、もともとは自然に与えられたもので、そこで作物がどう育つかというようなことは、あなたの思い通りにはならないのでした。ただあるのは、正しい扱い方だけです。最も重要なのは水を入れることです。田んぼの水を枯らした状態で、あなたがどう歯軋りしても、それで稲が実ったりはしません。
そういうことを、ずっとお話ししています。では一息入れられたら、第四講へどうぞ。あなたが、半ばヤケクソでもいい、水門を開いて田んぼを水まみれにする、そして肥料はやらないという、ひと夏を過ごされるかどうかが問題です。
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