第六講 脳は見えるものについていく/現代と恋愛
前回の講義の復習をします。「わざとらしさが横行する」という話でした。もっともわかりやすい例に、びっくり箱反応、というのを取り上げました。びっくり箱に「うわっ!」となれば、周囲は笑ってくれる。あなたの脳がワッなるのが、周囲の脳に触れるから笑いが起こるのでした。それが、びっくり箱だと知っていて、びっくりする「ふり」とか「演技」をするのでは、だめです。しらけます。それは自意識の「行為」だからだ、ということでした。
自意識は「行為」をする。一方、脳はただ「はたらき」を持っているだけでした。自意識の「行為」は、意図的なものですから、「わざと」であり、「わざとらしい」。あなただって、誰かに笑いかけてもらえるなら、そういうわざとらしい「行為」ではなく、ただあなたを見て脳がワッとなってしまう、それで笑ってしまうという、わざとらしさの無い笑いを向けてもらいたい。それはそうに決まっている。そういうお話でした。
あなたが仮に、それをびっくり箱だと知っていて、それでも「きゃっ」と演技をすれば、脳の弱った誰かがあなたを「萌え」だとか「癒されるわあ」とか言ってくれるかもしれない。でもそれは恋愛ではないし営みとしての魅力もない。そう捉えるのが本講義の立場です。
それだけ復習して、では第六講に入りましょう。今回の講義は、いかにも前回の講義とつながっています。
脳は脳が"見える"、自意識は自意識を"理解"できる
"すばらしい先生"がいたとしましょう。仮にA先生と呼びます。その先生のどこがすばらしいのかとあなたに訊けば、あなたはきっと「だってすごく熱心に教えてくれるのだもの」と答えるでしょう。A先生は確かに、すごく熱心に、あなたに「1+1は2です」ということを教えてくれます。先生なのだから当然ですね。
さてあなたは、早速ですが、重大なことを発見しなくてはなりません。あなたがA先生をすばらしい先生だと思うのは、A先生が「すごく熱心に教えてくれるから」です。これは、あなたの脳から、A先生のことが「見えている」という状態です。「A先生がすごく熱心に教えてくれる、教えてくれようとしている」ということが、あなたの脳に「見える」のです。見えるというのは、もちろんあなたの眼と視神経を通してですが、最終的にそれを「見て」いるのは脳だと言えるでしょう。あなたはA先生の授業の内容以前に、まずA先生が熱心に「教えよう」としている、その姿が「見えている」のです。これが大変重要なことなので、あなたはこのことを忘れずにいてください。
このとき同時に、A先生が、熱心に「教えよう」とするのに、わざとらしさがない、ということも発見しておいてください。A先生は、わざとも何もない、ただ生徒を前にすると脳がワッとなり、「教えよう」としてしまうのです。だからこそ、すばらしい先生です。あなたはそのA先生の脳がワッとなるのが、自分の脳に触れてくるので、それ自体によろこびを覚えています。あなたは授業の内容以前に、A先生の授業が「好き」なはずです。
一方でB先生というのを設定しましょう。B先生は真面目で、熱意もあるのですが、「熱心に教えなければ」ということで、その「熱心に教えるという"行為"」にこだわります。だからB先生の授業は熱心ふうなのですが、あなたの眼にはどうも「わざとらしさ」が映る。それであなたは、B先生について、悪い先生ではないけれども、そんなに好きかというと、好きではない、ということになります。授業の内容は、「1+1は2」なので、さして変わりはない。変わりはないのですが、そこに「好き」や「よろこび」がないので、どうもあなたは勉強に意欲も湧かなければ、知識も頭に入ってこない。そもそも、どうしても、B先生の話を真剣に聞こうという気持ちになれないのです。A先生が教壇に立つと、何か熱に巻き込まれてしまうのですが、B先生にはそれがない。B先生の真面目さや熱心さは、どうも空回りしているようにあなたの眼には映ります。
これはどういうことかというと、あなたの脳に「見えない」のです。B先生が熱心に教えようとしていること、そのことは「理解」はできる。理解はできるのですが、あなたの脳には届いてこない。脳に届いてこないので、B先生の「熱心に教えようとしている"姿"」が「見えない」のです。「わかる」のですが、「感じられない」。
脳に届いてこないので、どうも他人事のようになります。B先生について、「いい人なんだろうけど」とは思います。少しフォローしてあげたい気持ちもあって、あなたは積極的にB先生の話を聞く態勢になるかもしれません。が、それにしてもやはり、A先生とB先生とでは、あなたが体験するものは違うのでした。
A先生は脳からの熱心さです。熱心であろう、としているのではなく、ただ脳がワッとなり、熱心になってしまうのです。いわばAさんは"脳の人"なのですが、この"脳の人"の姿は、あなたの脳に「見える」のでした。"脳は脳が見える"と言ってかまいません。A先生の姿が、脳の現われとしての姿なので、その姿はあなたの眼から脳まできっちり届くのでした。それを本講義では「見える」と呼びます。
B先生は自意識で熱心たらんとしています。熱心であろう、という自意識です。その自意識のとおりに「行為」しようと努めています。ところがこちらは「見えない」のでした。自意識は脳には見えないのです。"脳は脳が見える"なら、合わせて、"自意識は自意識を理解できる"ということになります。二種類のケーブルがあると思ってください。「見えない」ということは、脳に届いていないということであり、その代わりに、自意識に届いて理解はできる、ということです。
脳は脳につながり「見える」、自意識は自意識につながり「理解」できる。電子的な用語に置き換えていえば、それぞれフォーマットが違うということになるでしょうか。わかりやすいように例え話にします。たとえば"脳ケーブル"というのがあったとしたら、それを接続すると、テレビ番組が見えるようになります。一方"自意識ケーブル"というのがあったとしたら、それを接続すると、「テレビ番組表」がわかるようになります。実際、ご家庭のテレビにも、そのテレビ番組表を見るための機能がついていると思います。データ通信というやつですね。これもIT技術の一つです。
ですが、そうして番組表のデータを得ても、それではその番組を観たことにはなりません。番組が実際見えるかというと見えませんね。番組表を見て、「これきっと面白いんだろうな」というのはわかります。わかるだけです。番組は見えません。当たり前です。
番組を見るために必要なのは、まあ番組表もあってよいのですけれども、肝心の番組映像そのものが必要です。それが「見える」ようになるためには、脳ケーブルを接続するしかないというなら、それはもう、脳ケーブルを接続する以外に無いのでした。
そして正直、番組がきちんと観れたら、番組表というのは別になくてもかまいません。
脳ケーブルを自意識端子に接続したり、自意識ケーブルを脳端子に接続したりしても、何も映りません。これはただのちぐはぐであり、接続方法が間違っています。変な接続をすると機材に負担がかかり、機材を傷めるだけです。
その例え話のように、「脳は脳が見える」し、「自意識は自意識を理解できる」。"仮に言えば"二種類のケーブルがある。A先生は"脳の人"ですから、あなたはA先生を自分の脳で「見る」ことができます。「見える」のです。一方でB先生は"自意識の人"ですから、あなたの脳でB先生を「見る」ことはできません。「見えない」のです。B先生に対してできることは、あなたの自意識で「理解する」ことだけです。
すこし先走りに言いますと、脳はそうして「見える」ものには「ついていく」ということができます。そう行為しようとせずとも、ついていくはたらきが勝手に脳にあるのです。だからあなたはA先生の授業に「ついていく」ことができる。B先生のほうには、どうしたって「ついていく」ことはできません。見えるものがないので「ついていく」ことができないのです。あなたはだだっ広い何もない空間で「ほら、ついていけ!」と言われてもどうしようもないはず。人間は「見える」ものにしかついていくことはできません。
読み進めるほどにわかりやすくなりますから、引き返さずこのまま進んでください。
あなたの脳が健全であった場合
あなたを混乱させないために、明快な説明が続きます。
あなたの脳が健全であった場合。まずこう、場合分けして考えます。あなたの脳が健全であった場合、あなたはちゃんと「見る」ということができます。"脳の人"の「姿」を見ることができる。本講義では「見える」と言います。一方、あなたの目の前に"自意識の人"がいたら、あなたはからはその人は「見えない」と感じられます。同時に、「わかるけれど」とも思います。
あなたの脳が健全であった場合、あなたは見えるべき人の姿が「見える」ので、あなたはそれに「ついていく」ことができます。「ついていく」というのは、ものすごいスピードで走る車の後ろを、あなたがぴったり張り付いて「ついていく」ようなものだと思ってください。そうして「ついていく」ことができるのは、当然ですが、目の前の車が「見えている」からです。前の車が右にウインカーを出したらあなたにそれが「わかる」。でも、それでたとえ前の車が不意に左折としたとしても、あなたは即座に一緒に左折して「ついていき」ます。なぜウインカーを逆に出したのかはわかりませんが、かまいません、とにかく「ついていく」ことはできているのですから。ものすごいスピードでぴったり張り付いているので、周りのことは見えなくなります。ひたすらついていくだけで、あれこれ余計な事を考える余地はほとんどありません。また前の車も、あなたがぴったり張り付いてきていることを知っており、「ちゃんとついてこい」と思っています。
あなたの脳が健全であった場合、実は当たり前ですが、あなたは人に「ついてこさせる」ことができます。先ほどの立場が逆転するだけですね。あなたは"脳の人"なので、人から見てあなたの"姿"は「見える」ことになります。見えるものに、人は「ついていく」ことができる。あくまで、脳が健全な人は、そのときのあなたに「ついていく」ことができる、ということになります。
あなたの脳が健全であった場合でも、あなたは"自意識の人"の「姿」は見えません。「見える」というのは脳のはたらきなので、脳に届いてこないものは「見えない」。自意識の機能は「理解」や「脈絡」です。だからあなたは、"自意識の人"を「わかる」ことはできます。ただし、わかるだけで、それは「見える」とは別のことです。
あなたは"自意識の人"に「ついていく」ことはできません。「見えない」ものに「ついていく」ことは不可能ですから。もし"自意識の人"に仮にも「ついていこう」とするならば、それは先ほどとは違い、「地図に書いてある線をなぞって走る」という感じになります。のんびりと、自分のペースで行ってよいし、周りのことが見えなくなる、ということもない。これは「ついていく」ということとはまったく異なりますね。「ついていく」というのは、もう一瞬見失ったらおしまいですが、地図に線が書いてあるのをなぞるのは、少々道を間違ったとしても、引き返して途中からやりなおすことができます。立ち止まってもよい。おしまいになる、ということはありません。
このように、脳には「見える」「ついていく」という能力があります。自意識の側にはありません。……少し先走りして申し上げておきましょう。あなたがものすごい速さの車にぴったり「ついていった」なら、あなたがその時間、脳で受け止めているのは前方の車の「存在」です。どう走ったかなんて覚えていません。
一方、自意識で地図をなぞった側が、その時間に受け取ったのは「道筋」です。道筋を理解したというだけで、そこに何かの「存在」は受け止められていない。道筋をなぞるのはそうして一人でできることです。誰でもできます。集中力も要りません。失敗もありません。手に汗もかいていませんし、心臓がドキドキもしていません。
あなたは読み進められるほど理解を容易にされますので、どんどん進んでください。
あなたの脳が健全でなかった場合
あなたの脳が健全でなかった場合。つまり、あなたが"自意識の人"であった場合。あなたはそもそも、人や物事について「見える」ということがありません。「見える」は脳のはたらきなので、脳が弱りきっていたら、脳はその情報を受け取りませんし、受け取っても情報処理ができません。だからあなたの脳が健全でなかった場合、あなたは「理解」と「脈絡」の機能しか持っていないことになります。ものすごいスピードの車が走り抜けていったら、あなたは立ち止まったまま、ただ「わかるわあ」と「理解」することしかできないのでした。
「見える」というのは、単なる視力の問題と、「ついていけるかどうか」の問題に分かれます。簡単な話です。たとえば野球中継を見ればあなたはピッチャーの投げるボールが「見え」ます。これはただの視力の問題です。でもあなたがバッターボックスに立ったら、プロのピッチャーが投げる球は「見えません」。見えるというなら、打ってみろ、ということになります。それが打てるということが、「ついていけている」ということなのですから。
あなたの脳が健全でなかった場合、あなたはものすごいスピードで走る車に「ついていく」ということができません。視力としては車が見えるのですが、「ついていけるように見える」のではないからです。だから、車の走っていった痕跡を分析して、「ついていく」というよりは、追跡する、尾行する、道筋をなぞる、ということになります。でもそれは、手に汗を握って心臓をヒリヒリさせながら「ついていく」ということではない。
このように、あなたの脳が不健全であった場合、あなたは人や物事について「見える」「ついていく」という機能を失います。
同時に、このときあなたは"自意識の人"なので、あなたの「姿」は誰からも見えません。だからあなたは誰かを「ついてこさせる」ということもできなくなります。あなたは"自意識の人"として、人に「理解」はしてもらえるものの、それのみ、ということになります。
先ほど申し上げたように、"脳"は「存在」を受け止めるのでした。「存在」を受け止めるので、「見える」し、見えるからこそ、「ついていく」ことができる。ここで、あなたの脳が不健全であった場合、あなたは"自意識の人"になるので、あなたは人に理解はされるものの、その「存在」は受け止めてもらえないことになります。もしそうなった場合、このことはあなたを長く苦しめます。
人はあなたを理解してくれる。理解してくれるので、あなたはさらに理解を求める。でもそうして理解を拡大しても、あなたの「存在」は受け止められていません。あなたの「姿」はいつまでも誰の眼にも見えていません。こうなったとき、このことがあなたを苦しめないわけがない。
まだ説明が続きます。
入力と出力の問題、「眼と姿」の問題
混乱を防ぐために、ここまで場合分けをして説明しました。「あなたの脳が健全であった場合」と、「不健全であった場合」とです。これに加えて、あなたの目の前に人がいたら、その目の前の人の側で、脳が健全か不健全かという問題があります。
また、これに加えて、実際のこととしては、「ついていく」のは得意でも、「ついてこさせる」ほうはからきしダメ、というようなこともあるのです。脳のはたらきの"片方"だけ健全という感じです。それは、いざ人に「ついてこさせよう」としたとき、途端に自意識が立ち上がってダメになる、というようなことが、実際上の問題になるようですが……とにかく、あなたは本講義では混乱されないよう理解に努めねばなりません。
そこで整理すると以下のようになります。脳のはたらきについて、入力と出力とで、「眼」と「姿」とわかりやすい言葉を当ててあります。
<相手の脳が健全だった場合>
あなた(眼)ON − ON(姿)彼 : ○「ついていく」が成立
あなた(姿)ON − ON(眼)彼 : ○「ついてこさせる」が成立
あなた(眼)OFF − ON(姿)彼 : ×「ついていく」が成立せず
あなた(姿)OFF − ON(眼)彼 : ×「ついてこさせる」が成立せず
<相手の脳が不健全だった場合>
あなた(眼)ON − OFF(姿)彼 : ×「ついていく」が成立せず
あなた(姿)ON − OFF(眼)彼 : ×「ついてこさせる」が成立せず
あなた(眼)OFF − OFF(姿)彼 : ×パケット人間界
あなた(姿)OFF − OFF(眼)彼 : ×パケット人間界
本来、このオンオフの場合分けをきっちり書くと、16通りの煩雑な図になるのですが、それはきっと余計にあなたを理解に苦しめますので、差し控えます。仮に、あなたの姿がOFFでも、あなたの眼がONであれば、姿がONの彼にであれば「ついていく」ということは成立させられます。
あなたはこの場合分けを暗記する必要はありません。ただ、脳と自意識の問題は、自分の側だけにあるのではない、ということ知るために、このことが重要でした。たとえ自分の脳が健全で、眼と姿の両方がONであっても、相手側が両方OFFなら、やはり何も成立しないのです。
あるいは逆に、あなたが両方をOFFにしていれば、彼がどれだけあなたに誠実に向き合い、眼と姿をONにしていても、そこには何の営みも生まれません。
あなたは、「別に何も悪いことしてない」という自覚の中で、実はとてもひどいことを、人にしている可能性があります。それはあなたが眼と姿を両方OFFにしていて、両方をONにしている誰かのことを、知らずしらずに無視していたときです。彼の姿はあなたに向けられ、また彼の眼はあなたの姿に向けられていたのに、あなたは彼の姿も受け取らず、また彼の眼に何の姿も与えなかった。
もしそれを、「そんなの知ったこっちゃない」と言われる場合、さすがに僕からは申し上げることがありません。「勝手に眼と姿を向けた人間の方が悪い」「そんなの向こうの自己責任でしょ」と言われる場合は、それはもう世界観なので、こちらからは何も申し上げることがなくなります。また、そろそろ勇気を出して言えば、現代の世界観はすでにそちらが主流になりつつある。仮に本講義の趣旨から離れて、ある種のリアリズムに傾倒して申し上げるならば、そちらの世界観を採るほうが現実的で、生きていくのには有利だと言わねばなりません。
とはいえ、いくらその"酸味しかない"リアリズムに傾倒したとしても、それで営みのよろこびがあるかというとありません。それは世界観に関わらず事実です。営みのよろこびなど捨てて、単純な有利さを選ぶのだという場合は、それは世界観であり人生観であり、人それぞれの生き方だということでした。ただしあくまで本講義の立場では、僕はそのようなやり方を一切認めるつもりはありません。本講義は浅はかな理屈でなく正当な「人間の尊厳」の方を重く見るものです。
さてあらためて先ほどの8つの場合分けを見てみましょう。まず営みが「成立」しているのは、初めの二つしかありません。当然なのですが、「健全な眼 − 健全な姿」「健全な姿 − 健全な眼」の二つしか、営みの成立はありえません。脳の入出力の話なのですから、「壊れていない出力端子に壊れていない入力端子がつながる」以外にありえません。あとはそのときどきで、あなたと彼のどちらが出力で、どちらが入力になるかというだけです。
場合分けの、後半の4つを見てみましょう。全て×がつき、不成立となっています。相手の脳が不健全なのだから当たり前です。壊れているスピーカーに何をどうつないだって音が鳴るわけがありません。初めから不成立になるに決まっている。
相手の脳が不健全なら、こちらの脳だけ健全だと馬鹿馬鹿しい。そんな気がしてきます。そこから、じゃあこちらも脳を不健全にしていけばよいのだ、ということになりかねません。それで場合分けの最後の二つは、判定が「パケット人間界」になっています。もちろん営みは不成立ですが、それはパケット人間界というやり方が成立してきた、ということでもあります。
こうして場合分けをすることで、思いがけず話はシンプルになってまいりました。場合分けの8つのうち、あなたは上の二つまで上り詰めるのか、下の二つまで沈み込んでしまうのか、どちらだ、ということです。中央の4つは苦しい状態ですから、いつまでもそこにはおれない。上か下かのどちらかに、最後はたどり着く必要があります。
8つの場合分けをさらにシンプルに、本質的な三分割にすると、
営みのよろこび
↑
苦しいちぐはぐ
↓
パケット人間界
ということになる。
今きっと多くの人が、苦しいちぐはぐの中にまだいて、やがてはどちらかに行くことになるだろうという、予感を受け入れています。現代の環境・状況としては、上昇気流はお世辞にも吹いてはおらず、それどころか強烈なダウンバーストが吹き降ろしてきています。この講義でお話ししてきたことの全ては、簡単で、言われてみて当たり前のことばかりだったと思いますが、いざこのダウンバーストに抵抗してでも自己を上昇させられるのかと言えば、現実にそれは容易なことではないのでした。
***
第六講は以上です。お疲れ様でした。
さていよいよ、本講義群も、すでに山場は越えたといってよいでしょう。すでにメインディッシュは終わりましたが、あなたはコース料理の途中で退席はせず、きっとデザートまで味見ぐらいはしてゆこうとされると思います。あなたは少し気を緩めてよいでしょうし、ここまで進めてきた僕も、なんとか話しきれた気がして少し気を緩めています。
「見える」ということと「ついていく」ということ。何よりこれが大切なことであり、あなたに大切なのは場合分けをナルホドと理解するようなことではありません。理解はされたらよいわけですが、それを土台に自意識を膨らましては本末転倒です。あなたの眼に人の「姿」が見え、あなたがそれに「ぴったりついていける」というとき、そこにかけがえのない営みのよろこびが伴うことを、僕は保証できるでしょう。むしろ心配なのは、そのときのあなたの胸がよろこびと切なさで張り裂けてしまわないかどうかということです。もしあなたが今までに、本当にそういう営みを持ったことがなかったのだとしたら、鍛えられていないあなたの心は、巨大すぎる熱と切なさに死にそうになってしまうかもしれません。それでもそうしていくより他はないわけですが。
あなたの「姿」が人に見えることも重要です。あなたの「姿」を見て、人がぴったりあなたに「ついていく」ことができるというのは、それもやはり営みのよろこびがあることです。あなたは生涯の友人と黄金の尊敬を得るでしょう。後ろからお尻を蹴りあったって失われることなどない尊敬です。それは人間が空を破壊できないように破壊できない関係であり尊敬なのでした。
「見える」ということに、どうか意気込まないでいただきたい、とも思います。見えるというのは脳の「はたらき」です。あなたの自意識の「行為」ではありません。あなたが意気込むというとき、たいてい自意識の側がやる気を出していらっしゃいます。それはそれで、しょうがないところもありますが……それでも「見える」というのは、脳の「はたらき」でしかなく、何が「見える」かといったら、当たり前のことが当たり前に「見える」だけです。怒り狂ったヒグマが殺意を持ってあなたのほうへ突進してきたとしましょう。何が「見える」といって、決まっています、「殺される!」というのが見えるだけです。何もガンバって睨まなくても、見えるものはただ当たり前に見えます。
「見える」ものが何かないか……と、ウェブ検索を漁るのだけはどうかやめてください。それはパケット情報であり、自意識に流れ込むだけだと再三申し上げました。ただ、「作品」というのは、また別になるのですけれども、そのこともまた以降の講義でお話しすることができますので、今は置いておきましょう。ひとまず決して忘れてはいけないのは、あなたが脳に受け取れる情報の最大の情報源は「人」です。生身の「人」を心身に浴びることで、あなたの脳は最大の情報量を得ることができます。その情報量の膨大な蓄積の上、人が「見える」ということが生まれてきて、「ついていく」ということができるようになってくる。「ついてこさせる」もそうです。どうかあなたは、"脳の人"と出会われて、その人のことを心身に浴びてあなた自身も"脳の人"となってください。
いったん"自意識の人"である自分に慣れてしまうと、もうその自意識の立ち上がりを抑えるのはとても困難です。困難といっても、そうするしかないのですが、自意識を抑えるという「行為」をしようとするあまり、ますます……というような、悪いスパイラルに巻き込まれていきます。それでも何とかするしかないのが実情です。方法論はありません。死に物狂いでやってください。方法論をよこせと言ってやまないのはあなたの自意識です。それで自意識に肥料をやってもますます自意識が発達するので、最後はあなたがなんとかするしかない。自意識はあなたの自意識なのですから、あなたが管理責任を負うしかありません。あなたが本気でそれを根絶やしにしようとしたら、それはできます。あなたはうすうすそのことをご存知のはずです。
ではお疲れ様でした。クライマックスは過ぎましたが、そのぶん気楽になられて、第七講へどうぞ。
→第七講 脳は自意識に先行する へ進む
→このページのトップへ