第七講 脳は自意識に先行する/現代と恋愛
この第七講では、難しいが有益な話をします。有益ですが難しいです。あなたに難しい話を理解してもらうためにはどうすればよいでしょうか? それはきっと、筋道立ててゆっくり語りつくすことではなく、「つまり要点は何だ」ということを、あなたにぶっつけ続けることだと思います。そのようにこの講義は進めてまいりましょう。あなたがここで体験される難しい話は、そのままあなたの役に立つことはありません。ですが、あなたに「ではこういうことでは?」という発想を起こさせるのに、決定的な役割を果たす可能性が十分にあります。
自分を磨くというとき、それが磨いた結果、光らないのでは何の意味もありません。本講義はそのような不毛をあなたにさせないつもりです。難しい話というのは、その難しさが大事なのではなくて、あなたに「じゃあどこをどう磨けばいいんだ」ということを導き出させるために有効です。それでは始めましょう。「脳は自意識に先行」します。
自意識は現在を捉えていない
あなたの部屋のドアを蹴ったら、あなたは部屋の中で驚く、という話をしました。あなたはビクッとして、その後に「誰だよもう」と、それが「誰かがドアを蹴った音だ」というのを認識します。でもあなたはその認識に到る前に、自動的にびっくりするし、自動的に音のしたほうを振り向くのでした。それは脳のはたらきだとずっと申し上げてきています。
このことだけでも、自意識の認識が「現在」という時間を捉えきれていないことを示しています。脳のはたらきに比べて遅れていますね。これは感覚的に驚かれることかもしれないのですが、たとえばあなたは今、この講義集のテキストを読んでいます。まさに「現在」、そうしているように思えるのですが、実は厳密に見ると、その認識は「現在」という時間を捉えられていないのでした。
われわれにはどうしても、自意識の全能性に対する思い込みがあります。自分が物事を認識している、これが全てだと思い込んでいます。ですが本当には、自分の心身に宿された機能はそれだけではないかもしれない。ここでは一度、その自意識の全能性について思い込みを捨ててみてください。実は現在という時間は、あなたの知らないところで粛々(しゅくしゅく)と流れている。その時間の流れを、脳は正しく眺めていて、一方で、あなたの自意識はその「過ぎ去った現在」という、よくよく見ればもう過去でしかないそれを眺めているのでした。だからドアをバンと蹴られると、あなたの"認識"は遅れるのですね。ドアがバンと蹴られたという「現在」が、もう過ぎ去った後にしか、あなたの自意識は「何があったか」ということは認識できない。単純に言えば、「認識」というそのことに時間が掛かってしまうのです。脳が全体的情報をそのまま受け取っていることに比べて、自意識はそれをパケタイズしてからしか認識できないので、ナマの情報を自意識用のフォーマットに変換する一手間が時間を食っているのでした。
あなたはこのことに驚かれるべきです。たとえばあなたは、「右手を上げてください」と言われて、右手を上げることができます。自意識から動作に移れるということです。自意識による「動作行為」ですね。ところが、背後で花瓶が割れてバッと振り向くときのように、あなたがその行為をする前からあなたの動作が始まることがある。つまりあなたの身体を操作しているのは、あなたの自意識だけではないのです。あなたが「こう動かそう」とする以外にも、あなたの身体を動かす方法が実はあるのでした。
"脳の人"と"自意識の人"という差分をお話ししてきました。あなたは自分の動作・振る舞いをスタートさせるのにも、「脳」からそれをスタートさせることができますし、「自意識」からそれをスタートさせることもできます。それを思うままにできるわけではないにせよ、少なくともその機能はあなたに具わってある。「脳」、つまり「現在」という時点から、「行為」という機能を媒介せずに、実はあなたは動作・振る舞いをスタートさせられる。一方で、「自意識」、つまり「認識」という時点から、「行為」という機能で、動作・振る舞いをスタートさせることもできる。
強引に例えるならばです。あなたがテレビの主電源をバチンと操作できる一方で、リモコンでプッと操作することもできる、という違いです。操作のルートが二種類あるのでした。そして実はリモコンのほうがやや遅い。リモコンのボタンが押された「現在」に、本体が動作しているのではない。
例え話と、あまりにらめっこすることなく、このまま進んでください。
「無意識に」ということの誤解
このことを先にお話ししておく必要があります。あなたはひょっとすると、ここまでの話で「無意識に身体が動く」というような表現に、あなた自身の内側で取り替えられたかもしれません。ですが、申し訳ない、その表現はたいへん誤解をもたらすものなので、この講義においては取り下げていただくようお願いします。今お話ししているのは、いわゆる「無意識に」ということではありません。
一般的な「無意識に」ということについてお話しましょう。それはいわゆる「クセ」のことです。たとえば爪を噛むようなクセ。初めは、誰だってそんなクセを持っていませんから、初めはそれを自意識で把握した「行為」としてやるのです。ですが、繰り返しているうちに「習慣」になります。「習慣」になると、それを自意識で「行為している」という感覚を忘れます。感覚を忘れるのですが、それはやはり自意識からの行為なのです。
あなたは「花瓶の割れた音がしたら振り向くクセがある」というでしょうか。そんなことはないと思います。ですからそれはクセではなく、脳のはたらきによる動作です。
一般に「無意識にやっちゃった」というのは、ほとんどがその「クセ」のことを指します。それは自意識の習慣に過ぎないので、本講義でよろこばしく捉える現象ではありません。もちろん習慣・クセというのが悪いわけではない。たとえば正しい箸の持ち方だって、一種の習慣・クセであり、まず正しい持ち方を習慣づけることで、手はやがて箸の力学を覚えることができます。ただそれにしても、繰り返しの行為が習慣化して「無意識のクセ」になるのはここでの話と違いますからご注意ください。
コミュニケーションは「起こってから」わかる
人との関わりは「脳−脳の関わり」だと申し上げました。このことに改めて注目してください。脳というのは、時間軸上、「現在」という時点を捉えています。自意識はそれから遅れて「認識」という時点にいる。
ですから、これも驚くべきことなのですが、全体的情報におけるコミュニケーション、「脳−脳の関わり」というのは、それが今まさに起こっている瞬間というのは、自意識では「わからない」のです。自意識の機能は、そうして起こったコミュニケーションに、ただ「追随して」、コミュニケーションが「あった」ということを「確認」することしかできません。
脳と脳の関わり、全体的情報のコミュニケーション、脳に触れ合うよろこび、その営みというのは、自分でやろうとしてやるものではないのでした。これは驚くべきことです。確かに言われてみれば、言葉も自意識もまだ持たない乳幼児だって他の人間とコミュニケートはするのですから、当たり前なのかもしれませんが、現代の大人の我々にとってはやはり驚くべきことだと思います。
脳には人や物事が「見える」という機能があり、その「見える」ものには「ついていく」ことができると申し上げました。その「見える」にしても「ついていく」にしても、脳と脳とでやる営み、時間軸上「現在」に起こる営みなので、自意識でやれることではありません。自意識は追随・確認しかできないのですから、その追随はもう時間軸上で遅れており、「ぴったりついていく」ということにはなっていません。
やっかいなことがあるわけです。我々がつい自意識の全能性を信じているところ、なにやら「肝心なことは全て"現在"に起こっている」ということであり、「自意識はその"現在"を捉えることができない」というのです。
自意識に対する全能性の思い込みを捨ててくださいとお願いしました。仮にあなたが自意識をオフにできたとしましょう。それにしたって、背後で花瓶が割れたら振り向きます。振り向きますし、その音が「何かが割れた危険な音だ」というのは、自意識と関係なしに脳が受け取ってしまいます。
では、本当に、目の前に人間がいるという状況は、花瓶が割れたことに比較して、インパクトはゼロ、というようなことなのでしょうか。そこには本当に「何もない」のか。一ミリも脳は「ワッ」としないのか。実はそういうことではないのです。目の前の人間の「姿」が「見える」ものであれば、自意識なしにでもあなたの「脳」はその「姿」に「ついていく」ということをする。何かしらの動作や振る舞いを起こしていくのです。
とりあえずこれは「講義」なので、あなたに仕組みをお話しすることしかできません。その実践や訓練はまたまったく別で、互いに心身を浴びせあうような何かの関係の中でそれをやるしかありません。ですがこれが講義でしかないというのは、当たり前のことですね。どうぞこのまま進んでください。
脳は「受け答え」をしない
新人の兵士が軍隊に入ると、まず「サー、イエッサー!」と大声で返事することを訓練させられます。少しでも声が小さいとやりなおしさせられるので、もう全力で声を出すしかありません。「お前らはクズだ!」と言われても、ただちに「サー、イエッサー!」。「腕立て百回!」と言われても「サー、イエッサー!」です。わずかな躊躇も許してもらえません。
これは何の訓練をしているのか、あなたは本当にはご存知のはずです。自意識の機能を立ち上がらせない、自意識の機能をジャンプさせる訓練をしているのです。そうでないと、肝心なときに隊としての動きができません。「お前らはクズだ!」と言われたときに、その「脈絡」を「理解」などして、「はい、そう言えると思います」などという、「受け答え」をしていたのでは、いざというときの行動が遅れます。上官の声が、ただちに脳に飛び込むように、自意識で「受け答え」をしなくなるまで訓練を続けるのでした。
これは子供に対する熱心な教育塾でも同じことがあります。問題用紙を配り、教師が「よーい、はじめ!」というと、子供は「やれやれ」という態度では解答を始めません。号令と共に、弾かれたように解答を書き始めます。空手の道場でも同じことをやるでしょう。「○○!」と名前を呼ぶと「押忍!」と返事をします。返事をしないと、「貴様、返事はどうした!」と怒号が飛んできますから、もたもたしていられません。
脳は「受け答え」の機能を持っていません。「受け答え」をするためには、「脈絡」の「理解」が必要で、それは自意識の機能にもとづいての行為でした。
あなたにはもちろん、受け答えをする機能もあり、その権利も持っています。受け答えをするのはあなたの自由といってもよいでしょう。けれども、もし「受け答えをしない」というやり方があるのを、ご存じなく、またその訓練をしたこともなければ、それが実際にできないというのであれば、あなたは自意識をジャンプして関わりを持つという方法を、単に修得せず取りこぼしてきていることになります。
自意識の全能性についての思い込みを捨ててくださいとお願いしてきました。あなたはここに示されたいくつかの例について、「受け答え」という行為が、本当に不可欠で重要だと思われるでしょうか。きっとそんなことはないと思います。受け答えをしないことのほうが大事で、受け答えしないことでしか成立しない関係があるのというを、あなたは感じ取れもしますし、またどこかでうすうすご存知でもあると思います。
「受け答え」というのは何も上等なことでもなければ有効なことでもありません。受け答えの必要なシーンも勿論ありますが、そうでないシーンについては、それはきっと「自意識を挟み込まずにいられない」という意地っ張りな習慣です。あなたがどうするにせよ、確かなことはひとつ、「受け答え」はあなたから営みのよろこびを奪うだろうというのは、間違いのないことです。脳は受け答えはしないという、その仕組みをよくよくご覧になってください。
脳は衝突しない、脈絡は衝突する
先日、社会的に、教育における体罰問題の議論が活発になりました。あなたはここでイメージしてください。体罰容認派と、体罰否定派が、論争をする会議室です。そこに営みのよろこびはあるでしょうか。まず無いと思います。そのようなシーンに、参加したいとも思えなければ、よほど悪趣味でないかぎり、そのシーンを見たいとも思われないはずです。
一方で、このようなシーンもイメージしてください。ある教師とある不良少年が至近距離でにらみ合っています。教師がバシンと、強烈に少年の頬を打ちました。それでも少年は教師を睨みつけるのをやめません。それどころか、「それで終わりか、先公」と静かに食って掛かります。睨み返す教師も負けていません。「これで終わりだ、席につけ」と静かに厳しく言います。
教師と少年が、立場の違いこそあれ、お互いに一人の人間として「勝負」をしています。このようなシーンは、緊張感はありますが、きっとあなたはヒヤヒヤするものの、不快に思われるシーンではない。このシーンのあと、教師と少年はそれぞれにイライラしているでしょうか。少年はきっと、「どうってことねえよ」と言うでしょうし、教師のほうも「どうってことない」と言うでしょう。
あなたは、この教師と少年のやりとりを見て、そこに営みによろこびが無い、とは断言されないでしょう。教師と少年が、何年後かに街中で出会ったら、かつての少年は「よお、クソ先公じゃねえか」と言うかもしれませんし、教師のほうも、「よう、悪ガキ」と言うかもしれません。少年はその後友人に、「古い、知り合いでね」と意味深に説明するかもしれませんし、教師のほうも、「教え子、でね」と意味深に言うかもしれない。あなたもご存知のように、本当の問題は頬を打ったかどうかということではないのです。人と人の関わりが残ったかどうかが問題です。もし人の関わりなどこの世に存在しないというなら、あなたは体罰の全てを単なる暴政だとして否定しなくてはなりません。
会議室の議論のほうは、ビンタこそ飛び交いませんが、きっとキリキリして、イヤな口調の口論が続きます。そして終わったあともお互いにイライラしているでしょう。表面上だけ握手して、内心ではいがみあっているに決まっています。なぜそのようなことになるかというと、脈絡を衝突させあうからでした。一方は教育理念からの脈絡を持ち出し、一方は基本的人権などの法理論の脈絡を持ち出してくる。これは衝突するに決まっているし、まず整合することもないのです。よほど理知的にすすめば弁証法的に矛盾が解決される道筋が見えてくることもあるのですが、まずそんなことは期待できません。
一方、教師と不良少年のほうは、会議室とはまったく別のシーンです。一見、二人は衝突しているように見えます。けれども、別に教師は少年に「死ね」と思っているわけでもないし、少年も教師に「死ね」とは思っていない。会議室のほうは正直互いにそう思っています。下品にならないように我慢しているだけで。
教師と不良少年は、衝突しているように見えて、互いにつぶしあってはいません。互いに向き合って、どれだけヒリヒリと緊張感が高まっても、互いに一歩も「引き下がらない」というだけです。お互い、周囲がどうこうとか、世の中のルールがどうこうとか、そんなことは気にしていません。教師から見て「コイツ」というのがあり、少年から見て「コイツ」というのがある。そして互いに、「コイツを相手に引き下がってたまるか」と向き合っています。ある意味では「存在」を認め合っているのでした。
会議室のほうは、それぞれ自分の派閥が持ち込んだ脈絡のほうが優先されるべきだと信じていて、相手にそれを「理解」してもらおうとしています。理解してもらおうとするのですが、相手はまったく逆の立場から、同じように「理解」してもらおうとしている。それで初めは相互に協力的なのですが、いったん火がつくと、「脈絡のわからないバカどもめ」とお互いにつぶしあう気持ちになる。
脳は人の「存在」を受け止めます。そして「存在」というのは、それだけでは衝突はしないのでした。脳は「存在」を受け止めるからこそ、その存在が「見える」ようになるのでもあります。また、睨まれても頬を打った教師、頬を打たれても睨み続けた少年、両方が「引き下がらない」ということを見てください。引き下がらないということは、お互いにオリてないということで、それは同時にお互いがお互いの用意したものに「ついていっている」ということでもあります。お互いに逃げておらず、かといってお互いに衝突したりつぶしあっているのでもなければ、それは「ついていっている」という状態しかありえません。
自意識の機能は「脈絡」と「理解」です。その「脈絡」というのは、自分の中で抱えている分には、正しく思えて有用に思えるのですが、向こうは向こうでまったく別のところから脈絡を持ってきますので、衝突します。こんなことは痴話喧嘩でもあります。「あいつが悪いんだからあいつから謝るべき」「わたしが悪いのかもしれないけれどこういうときは男性から謝るべき」「それは男性が男として立ててもらっていたらの話」「でもその男を立てるとかいうところからこの喧嘩は始まったのよね」と。こんなのはもう、衝突するか、オリるか、破局させるかのいずれかしかないのです。こんなことに営みのよろこびを見出す人はいません。
脳は存在を受け止め、衝突はしないということをよく見てください。犬でも猫でも野良はさかんに喧嘩をしますが、そのあとでイライラしている犬猫を見たことはないですね。彼らがイライラしないのは、別に脈絡を衝突させあったのではないからです。
コミュニケーションは「行為」ではない
先ほど教師に頬を打たれた少年が、今度は隙を見て、教師に後ろから「カンチョー」をしたとしましょう。教師は「ぐわっ」ぐらいは言うはずです。教師は「貴様ー」と言うとしても、そのころには少年はもう「ざまーみろ」と捨て台詞を残して走り去っている。このとき教師は少年を憎むか、あるいは軽蔑したりするでしょうか。「まったく困った奴だ」ぐらいには思うかもしれず、でも同時に、「何か、見どころのある奴だな」とも感じるかもしれません。
一方で、体罰問題で討議した両派の論客が、同じく隙を見て、後ろから「カンチョー」をする。「ぐわっ」となりますが、一体どんな感じになってしまうでしょう。きっと呆然として、「ありえない」「信じられない」と、純粋な軽蔑において見捨てるのではないでしょうか。唾を吐き捨てたい気持ちになるかもしれない。
極端な例で、冗談みたいですが、わかりやすいのでこのままゆきます。コミュニケーションというのは、本質的に「行為」ではありません。もしコミュニケーションが「行為」であるなら、「カンチョー」はそれぞれに等しい効果を残すべきです。ですが実際にはそうはゆきません。
同じようなことが、実は日常的にもあります。あなたは冷たい人と握手するより、あたたかい人に「デコピン」をされるほうがはるかに心地よく思えるはずです。握手とかデコピンとかいう、「行為」の内容は実は問題ではない。だからそれは、キスでもセックスでも同じなのでした。
あなたと、ある初対面の男性がいたとしましょう。あなたと彼が初めて会い、一対一で対峙する形になります。別に何でもない、ありふれた初対面です。でもそのときに、お互いが"脳の人"であったら、もうコミュニケーションは起こっています。お互いの「姿」が見えるので、お互いにそれについていきますし、「引き下がる」というような根性なしの理由も特にありません。
初対面の、いきなり冒頭でも、男性が女性のおでこにデコピンぐらいはできます。その「行為」は特に問題ではありません。それをしたからといって、何かよいコミュニケーションが得られるわけではない。ただ「確認」ができるだけです。デコピンぐらいはしてよい程度の、「人の関わり」、そのコミュニケーションが、今あったよね、ということの「確認」が。
少し講義から離れて、僕の個人的な体験からお話しすると、初対面の女性をデコピンで出迎えることぐらい、何も珍しいことではありません。なんでもないナンパのシーンでさえ、そんなことは普通にあります。いえ、「ありました」というべきでしょうか。講義の大タイトルは「現代と恋愛」ですから。
僕はよくこういう言い方をします。我々は、原子力発電所が吹っ飛んでも、それをなんだかんだ受け入れるのに、人が人にデコピンをすることも受け入れられないのかと。そんなさびしさの中で、愛だとか恋だとか、人を思いやるとか大切にするとかを、議論しなくてはならないのかと。そういうとき、僕は正直なところ、僕の性格によって、「まるでクソだな」と内心に思います。我々はしばしば、重要な国会議員の選挙でさえ投票を棄権するのに、たかがデコピンのひとつをとって、見逃せない重大事のように捉えます。
それで「心を開く」というようなことを大真面目に議論するような、滑稽な構図に参加してたまるか、と、僕はよく思います。講義に戻りましょう。あなたはそんな滑稽な構図に参加してはいけません。デコピンの問題は周辺国との領土問題よりも重大性はきわめて軽微です。
いわゆる「ビビビっときた」であるとか「一目ぼれ」であるとかを、本講義は肯定的に捉えません。認めない、と言ってしまってよいでしょう。「ビビビ」と来ることは、本当にはきっとあるのだと思いますが、人々が自意識を膨張させた現代の中で、期待して得られるようなものではありません。あきらめましょう。そして少なくとも、デコピンひとつをする程度のことで、運命の赤い糸や超心理学的な「ビビビ」は必要ありません。デコピンのそのようなところまで含めて、コミュニケーションは「行為」によるものではないのでした。「行為」によって得られることもなければ、「行為」によってつぶれてしまうことも、本当は無いのです。
自意識は振る舞いに取り残される
さて話はいよいよ難しくなってしまいます。ですがあなたを混乱させる話ではありません。あなた自身が"脳の人"であった場合、その感覚はどんな感じなのだろう? という話です。"脳の人"であるあなたの「姿」と「振る舞い」は、相手に「見える」として、あなた自身にはどのような感覚で捉えられるのか?
この話はどうしても難しくなるので、ひとまず一連の流れを順番に箇条書きにしてみます。
1.あなたの「振る舞い」は、自意識から切断されている
2.あなたの「振る舞い」は、あなた自身の脳にも見えている
3.あなたと相手は、あなたの「振る舞い」を、まったく同じに「確認」している
4.その「確認」と、やはり切断されて、「振る舞い」は次に続いている
このことを理解してもらうためにはきっと、あなたに思い切った「もし」という仮定を想像してもらう必要があります。そうでもしないと、どうしても、脳と自意識を区別して捉えることができないものですから。
あなたの名前が花子さんだったとします。ではあなたは、「花子さん」の身体を、SFのように「乗っ取った」ものだと想像してください。そういうSFがよくありますね。あなたはあなたの自意識を、花子さんの身体に侵入させ、その身体を乗っ取りました。今のあなたの身体は、花子さんのものを乗っ取って借りているだけです。
そして、その身体には、当然ですが、脳みそも入っています。それで、あなたが侵入した自意識として、気を張っている間は大丈夫なのですが、あなたが油断していると、あなたの身体を花子さんの脳が勝手に動かしてしまうことがあるのでした。花子さんの脳は、友人の姿を見ると、脳がワッとなるらしく、「おーい!」と勝手に声を出して大きく手を振ってしまう。あなたはそれについて、「おいおい、元気だな花子さん」と呆れています。そのうちあなたは、この花子さんの脳がどのようなものなのか興味が湧いてきます。どうせ花子さんの身体を借りている間だけのことなので、いいでしょう。この脳はどういう挙動をするんだろう、と、面白がって、一度好きにやらせてみることにする。あなたは、花子さんの身体が脳からケラケラ笑ったりするのを見て、それを「へえ、こういうふうに笑うのか」と「確認」します。花子さんはとくに太郎君と仲良しで、よくこづきあったりしています。そのときあなたは、「仲良しだねえ」「わかるけど」と苦笑して二人を眺めているでしょう。あなたは自意識の立場から、「太郎君を」ではなく「花子さんと太郎君を」眺めているはずです。花子さんの脳と太郎君の脳がどう遊んでいるのか、それはわからないけれど、遊んでいることを「確認」はできる。
強引にでも例え話をするならそのような具合になります。さて、もう一度さきほどの箇条書きに戻りましょう。あなたの振る舞いは自意識から切断されています。あなたが花子さんの脳に振る舞いをあずけたら確かにそうなります。そのとき花子さんの振る舞いは、花子さんの脳には「見えて」いるのでしょう。あなたの自意識からはわかりませんが、脳は脳で何をやっているか自分で見えているはずです。太郎君の側にも自意識はあります。太郎君の自意識は、ちょうどあなたと同じように、花子さんの振る舞いを「確認」しているはずです。あなたとまったく同じタイミングで。あなたはまるで、太郎君の自意識と、友人であるかのように、花子さん面白いわよね、と肩をすくめあっているかもしれない。あなたがそうして花子さんの振る舞いを面白がって確認しているときも、花子さんの脳は次へ次へと振る舞いを進めています。
そろそろ、例え話から離れてもご理解いただけると思うのですが、つまりです、「あなたの脳は思っているほどあなたのものではない」のです。あなたは生まれながらに自意識はもっていなかったので、自意識については「あなたのもの」と言ってよい。けれども、脳は生まれたときから勝手に身体についてきたはずです。だからそれは、実はいうほどあなたのものではないのです。あなたの心臓が、あなたのものというには、あまりに勝手に機能してくれているように、あなたの脳という器官も、いうほどあなたのものではないのでした。
時間軸上、現在→認識と進むわけですから、脳は自意識に「先行」します。そして、その先行する「脳」というのが、いうほどあなたのものではないということです。あなたの振る舞いを、先行して勝手に決めて作り出している装置が実はあるのです。それが脳なのでした。そして、その先行する「脳」は、相手に「見える」もので、相手に「ついてくる」ということをさせうるのです。その先行機能が、コミュニケーションを生み、人との関わりを作り出し、営みのよろこびを作り出しています。あなたの自意識はそれを確認するだけで、実はあなたの自意識は何も作り出してはいないのでした。あなたの自意識は、振る舞いを生み出す装置ではなく、脳が生み出した振る舞いを「確認」するための"モニター装置"にすぎないのです。
先行機能をどうするか
"脳の人"と"自意識の人"という言い方をしています。そして、もう察しをつけていらっしゃると思いますが、そのとおりで、"脳の人"と"自意識の人"は、時間軸上の立っている場所が違います。自意識は「現在」の時点に立てないので、「確認」をする時点は誰でも同じです。が、"脳の人"は、その振る舞いのスタートを「現在」の時点におき、それを少し後の「認識」の時点で確認しています。一方で"自意識の人"は、「認識」の時点から、認識と同時に振る舞いをスタートさせています。数直線を作図すると、"脳の人"は-1の点から振る舞いがスタートしており、それを0の点で認識・確認しています。脳の振る舞いが先行している。"自意識の人"は、0の点に認識・確認と振る舞いのスタートが一緒くたになっています。そして人間の脳に何かが「見える」というのは、その-1の点側のことなのです。
この脳の機能、自意識に対して-1のぶん先行できる機能を、単純に「先行機能」と呼ぶことにしましょう。先行機能は脳の機能なので、自意識では真似できませんし、自意識で「先行しろ」と命令することもできません。
ただ、あなたは自意識で振る舞いをコントロールはできるので、「自意識があるまで振る舞いを起こさないように」と、自意識からの命令を下すことはできます。「先行機能を受け付けないように」という命令だけはできるのでした。
つまり先行機能を「自制」できます。このような機能は状況によって必要です。たとえば仕事で取引先に行って、そこで自意識に確認させていない振る舞いを先行で出させるわけにはいきません。場合によっては、思わずバチンとやっちゃった、ということで、犯罪にさえなりかねません。
ですから、この先行機能の自制という能力も、やはり必要にはなります。必要というのは、それだけ便利ということです。
ただ、便利なのですが、その自制機能を使うかぎり、脳は振る舞いを禁止されていますので、脳が鍛えられるということが起こりません。先行機能が自制されている間は、脳はずっと自宅謹慎を命じられている状態だと捉えてください。これでは脳は鍛えられるわけがないし、いずれもう、出てこいと言っても今さら出てこなくなります。
あなたの脳が、今さら出てくるかどうかは置いておいて、あなたは一つのことを考えてください。「先行機能をどうするか」と。それを使う権利と使わない権利があったとしたら、あなたはどちらを選ぶのかを。
先行機能を使ったとき、それがまだ鍛えられていない場合、脳はいうほど賢くありません。経験がなさすぎるからです。振る舞いにバリエーションがないため、TPOが利かず、恥を掻くことになるでしょう。人に迷惑をかけることも十分あります。ただ、そうして恥を掻いたことは、脳は学習しますので、そのことによって鍛えられてゆきます。まるで子供のようなのですが、昔から謹慎処分で閉じ込められていたら、脳は当然未熟な子供のままなのでしょうがない。それを鍛えるには、野原に子供を走り回らせるように、脳の先行機能を走り回らせるしかありません。そのうちに脳はどんどん賢くなります。そうそう自意識で自制しないでも、脳の先行だけでそこそこなんとかしてくれると信頼できる。もちろん自意識に先行しているので、どのような振る舞いをするのかはわからないのですが、「鍛えてあるから」という信頼があれば、思い切ってまかせられるでしょう。この、自分の脳の先行は「大丈夫だ」「ちゃんとやってくれる」という、鍛錬を根拠にした上での信頼が、いわゆる「自信」です。自意識の判断力や価値観に自信があるのではありません。自分の脳が先行、「やらかす」ことが、大丈夫だ、と信頼できるのが自信なのでした。もちろん、いくら信頼するといっても、任せきるには、度量のいることでもあります。
その信頼と度量についての問題です。あなたは自分の振る舞いを、脳の先行に任せられるかどうか。あるいはいっそ、そうして「やらかす」ようなリスクは徹底的に排除するか。排除すれば安心ですが、営みのよろこびの一切は得られません。それでも、どうしてもプライドの高い人は、徹底して恥を掻かないほうを選ぶことがあります。そのようなことは少なくありません。特に加齢が進むほど、今さら恥を掻けない、という思いは強くなります。
あなたの脳が「今さら」、その先行のために出てきてくれるどうか、それは個人差があるのでわかりません。ですがそれを脳に今さらながら任せてみようということであれば、あなたにはあなたの脳の振る舞いを許す度量が必要になるはずです。また友人同士、脳の振る舞い(とその未熟)を許しあえる度量の関係も必要になるでしょう。
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第七講は、これで主題部分はおしまいです。この後に付録として、「自意識とは何か」ということの、一般論のようなものを書き足しておきます。本講義の趣旨にはあまり重ならないのですが、やはり隙間のない理解をされたいという方にとっては必要な部分になると思います。こちらはまったく難しい話ではないので、是非合わせてお読みください。
「現代と恋愛」という大タイトルの中で、迷いましたが、この第七講に、「脳は自意識に先行する」を選んでお話ししました。迷ったのは、この内容は厳密にはもう「未来と恋愛」に差し掛かるというべきだからです。現代は自意識の時代だと本講義は指摘しているわけなので。でも、「とはいえ」という気持ちで、この講義内容を差し挟みました。いかに"講義"だからといって、未来の方向を指し示さなくていい、というようには、僕には信じきれませんでした。それでいささか、講義というよりは講演というほうへ踏み出していますが、ご容赦ください。
この第七講、「脳は自意識に先行する」は、どうしても主題として難しくなります。突き詰めるところ、自分で「確認」する前に、脳にはもう何かが「見えて」いて、また自分で「確認」する前に、「ついていく」とか動くとか振る舞いを起こすことが可能だというのです。それはにわかにわかりやすい話ではない。特に、自意識の万能性、自意識で「確認」できることが全てだと、いつの間にか思い込んでいたのだとしたら。
賢明な方は、すでに手元にメモ書きを残されているかもしれません。ある作図の入った……その作図の中で、「脳」と「自意識」が分離されて書かれていれば、ひとつの正解です。そして脳は脳とコミュニケートしており、自意識はそれを一方的に確認しているのみだ、という矢印が書かれていれば、それも当たりです。脳と自意識の立つ時点、「現在」と「認識」を数直線上に書かれた方は、「認識」の点であるゼロ点から、「現在」の点である−1の点への、わずかな距離が、実はどれだけ重要で犯しがたいものであるかを感じ取られると思います。
では、ここでひとまず、第七講のしめくくりとします。お疲れ様でした。続いて第八講へどうぞ。この講義より難解な話はもう出てきませんので、その点はご安心くださって、どうぞ進んでください。
<以下付録>
「脈絡」は、実は数学
数学というと、y=ax+bと、すぐ黒板の授業を思い出される方がいらっしゃるかもしれませんが、実は数学といっても、物理や化学と同じように、この世界の実情から切り離された学問ではないのです。あなたにひとつ問題を出します。あなたの前に、五体満足の人々がたくさんいます。足の数を数えると20本でした。人数は何人でしょうか? 答えは当たり前ですが10人です。これを数式で書くとy=2xとなるだけです。足=2×人数ですね。仮に事故などで両足をなくされた方がその中に1名いらっしゃるなら、y=2x-2となります。動物によっては足の数が2本とは限りませんし、足を持たない動物だっていますから、それらのことを一般化すると、y=ax+bと書かざるを得ない。そういうふうに数学はできています。
あなたが駅の改札口にいて、ポケットをもぞもぞしています。右ポケットに入れたはずの切符が無いのです。次にどこを探りますか。当然左ポケットを探りますね。つづいて、「あ、ハンカチを出したとき、あやまってカバンに」ということに思い至り、カバンの中を探ります。そしてようやく「あった」となる。
もしあなたに、脈絡という機能がまったくなかったらどうでしょうか? あなたは友人に電話を掛けて、「あなたの家にわたしの切符置いてなかった?」「あなたわたしの家に来たことないじゃない」というような、荒唐無稽な話になりかねません。なくした切符が友人の家にあるわけがないですね。なぜありえないかといえば、「脈絡上ありえない」とあなたは言うはずです。まず友人の家に行ったこともなければ、そもそも切符を入手したのは券売機に触れたあとで、さらには、その切符を使ってしか自分は駅の構内に入れなかったわけで、電車に乗って移動したということは、必ずその道中のどこかで切符をなくしているはずなのです。
これは数学的に、「切符の移動した座標をもっとも確率の高い順に述べよ」というような問題を解いているのに等しいのでした。右ポケットがだめなら左ポケット、それでもだめならジャケットのポケット、そうでないならカバンや財布。でも少なくとも自分の入った改札口から現在の立ち位置までのどこかに座標は限定されます。
脈絡の機能とは、実はこのような数学の機能なのでした。部屋の窓を開けると風が入ってきたします。ということは、必ず部屋のどこかから風が出ていっているということを、あなたはご存知のはずです。難しく言うと、部屋の容積は一定で、部屋の気圧も一定に保たれているとすれば、流入した分の空気はどこかへ出て行かないと脈絡が合わないからです。これを数式で書くと、たとえばV(const)=V(const)+v(in)-v(out)というようになり、この数式を解くとv(in)=v(out)が導かれるということになるのでした。
数学とは何に必要かといえば、この場合、あなたが「別にわたしの部屋に限らずね」と一般化して言うために必要な学問です。誰の部屋だって容積はV(const)と書いてしまって一般性を失いませんから。あなたの家の台所に換気扇があると思いますが、その羽を仮に逆回転させたとしても、換気される空気の量は同じです。v(in)=v(out)ですから。ただ、肝心の台所の煙が、集中的に排気されるわけではないので、逆回転では実際困りものですが。
自意識は五歳以降に成熟する
x×yという積の結果が必ずマイナスになる、とします。このときxの値はプラスでした。ではyの値はプラスでしょうかマイナスでしょうか。当然マイナスですね。逆にxがマイナスのときは、yはプラスになりますね。例外があるとすれば、xやyがゼロのときだけです。ゼロのときは、掛け算をすると、プラスもマイナスもよくわからなくなります。
こんな数式には何の意味もないように思えるのですが、これは例えば、交差点の信号などのことなのです。青信号は「進んでよし」なのですが、それがなぜ「進んでよし」なのかというと、交差側が赤信号だからです。逆に、赤信号が「進んではいけない」なのは、交差側が青信号だからですね。これが「脈絡」です。もし子供に「赤信号は進んじゃだめ」というのを、脈絡と共に教えたいというときは、「こちらが赤ならあちらは必ず青なの」と教えなくてはいけません。
水道の元栓を締めてあれば、いくら蛇口を開いても水は出てきませんね。これも脈絡です。水量を元栓×蛇口と表せば、元栓がゼロなら蛇口をいくら大にしてもゼロです。これは当たり前に思えるのですが、そうではないのです。実際過去には、「蛇口を買って壁につけたけど水が出ないぞ!」というクレームがあったという逸話が残っています。
子供にはいかにもありそうなことだと感じませんか。「この蛇口を取り外して二階につけたら、二階からお水が出るの?」と。医学的なレポートではありませんが、およそ五歳未満の子供は、まだ脈絡の機能を成熟させておらず、ただ脳によって「この蛇口というものをひねると水が出る」としか知っていません。僕も子供のころの記憶が残っています。ビデオテープの「巻き戻し」というのが不思議で、「これってずっと巻き戻したら、ずーっと昔のテレビも観れるの?」と両親に聞いたことがあります。まだ脈絡の機能が弱いとそんな具合です。
ターベル・コースという手品の百科事典に、このことが書いてあります。手品というのは、5歳から105歳までの人間が楽しめる芸術であると。やんわり書いてあるのですが、それは五歳未満の子供には手品がわからないということでもあるのでした。実際僕も、ある機会に幼稚園で手品をさせられたことがあるのですが、先生たちが夢中になるばかりで、肝心の園児たちには何のことやらポカーンとわかりません。コインを手の中に握った、それは手の中にある「はず」という、その脈絡がわからないのです。ですからコインが消えてなくなったとしてもまったく驚きません。
なるほど子供だからなあ、という、面白い話なのですが、われわれ大人も、じっくり見ると大したことはありません。あるとき銭湯で、もう中年のおじさんでしたが、同じく連れ合いの中年のおじさんと、「この電気風呂の湯って、洗面器に汲んだら、それを浴びてもビビビってなるのかよ?」「ええっ、怖いこというなよ。そうなのか?」と大真面目に議論していました。その後、おそるおそる、洗面器に汲んだ湯に手を突っ込んでいましたが……
自意識の仕事
「脈絡」が難しい話になると、たとえばこんな話になります。未成年者と金銭貸借の契約をしても、それは後に取り消しができます。自由契約の作り出す法的効力より民法に定められた未成年者の行為能力制限が優先されるからです。ですが未成年者が成年であると偽っていたら今度は同じ民法上の「制限行為能力者の詐術」というのに該当し、取り消しが利かなくなります。未成年が親を連帯保証人にする架空の書類を作ったとして、そのようなものも無効ですが、それを受けて親が「十円だけ払ってやる」としたら、これは「無権代理行動の追認」になってしまい、その架空だった種類も追認されて有効になります。
こうして複雑化した脈絡は、素人にはもう追跡できなくなりますので、専門家が必要になります。
あるいは、誰かが大怪我をしたとき、それが「大怪我だ」「たくさん血が出ていて危ない」ということは、誰にでもわかるのですが、だからといってどうしたらよいかは素人にはわかりません。われわれだって、「心臓が全身に血液を送り出して人体は生命を守っている」という程度の機構脈絡は知っていますが、それ以上のことは知りません。だからどうしたらよいかわからない。医師は専門的にこの機構脈絡を知り抜いている職業です。医師はただちに、「ショック状態があるから、麻酔して、それからクロスマッチと、輸血の準備、あと抗生剤と昇圧剤も準備して、まず血管を縫合して止血し、開放部骨折を洗浄してインプラント修復します、鎖骨の骨折はひとまず保存療法とします。外傷は大きいですが幸い意識もあり脳波の異常や内臓破裂は見当たりません」というような治療方針を立てます。全て、人体がどのように生命を保っているか、それが今どのように損傷しているか、そしてどのようになら治癒しうるかという、脈絡を頭に叩き込んでいるからこそできることです。
ぐっと簡単な例に引き下げてみましょう。あなたの部屋にスピーカーがあり、右のスピーカーから音が出なくなりました。あなたはスピーカーを買い換えるべきでしょうか。きっとその前に、左右のスピーカーのケーブルを入れ替えてみるべきです。それで今度は左のスピーカーから音が出なくなった。それなら壊れているのはスピーカーではなくケーブルです。「脈絡」ですね。あなたは無駄な出費をせずに済みました。
自意識というのはそのような「脈絡」の仕事をしているのでした。また勉強というのも、そういう脈絡の機能を鍛えるために本来するものです。
勉強は自意識の機能を合理化する
あなたのPCをパワーアップさせてあげます、といって、僕があなたのPCを改造し、「巨大なサイズで」「高熱を放ち」「ブオオオンと轟音のする」PCに仕立てたなら、あなたはきっと怒るでしょう。PCのパワーアップとはそういうことではないはずです。むしろ「小さく」「静かに」「必要最小限の消費エネルギーで済む」PCこそが、パワーアップしたものだといえます。
あなたは勉強をしなくてはなりません。社会的な立場のためにもそうですし、あなた自身のためにも必ずそれは必要になります。それは自意識の機能を強化し、鍛錬するためです。自意識の強化と鍛錬は、PCと同じく「合理化」に向かいます。自意識の、不必要な大きさを縮小し、動作に消耗するエネルギーを削減し、ドタバタ音を立てないようにする、そのためにするのが勉強です。そのために勉強を「みっちり」します。「この問題を解きなさい」と問題を与えたとして、ぎゃあぎゃあ騒ぐのは勉強をみっちりしてきた側ではなく、してきていない側です。騒ぐどころか、発熱にやられてドタバタ逃げ出したりさえするはずです。
言い方は悪いですが、「感情的なおばさん」をイメージしてみてください。何事についても「んまあ」と大げさなおばさんです。あなたはそのおばさんの運転する車の助手席に乗るのが少し怖いはずです。それはそのおばさんが自意識の鍛錬にいまいち優れていないからだと言えます。三車線が二車線に狭まり、後ろの車がウインカーを出して煽るところ、左に工事中の看板が出ていて、カーナビが「まもなくバイパスがあります」と警告します。こうなるとおばさんは与えられるパケット情報の処理ができず、ハンドルにしがみついて必死になりますが、もう頭が沸いてしまって判断能力を失っています。車の運転なのですから、脳の機能も要るのですが、自意識の脈絡の機能も要るのです。もし脈絡の機能が要らないのならば運転免許に学科試験は必要ありません。助手席にいたあなたはたまらず、申し訳ないですが、「高性能な運転手さんに取り替えたい」と思われるでしょう。あなたの身が危険なのでしょうがありません。
人間の生活は、そのように脈絡の機能も駆使できなければ、滑らかに豊かに生きていけません。そのために勉強を課されるわけですし、あなたもできる限り、それに「みっちり」応えていくべきです。脳を鍛えることとは、まったく別次元で。
自意識の握力
勉強を「みっちり」というのは、自意識の機能の、いわば「握力」を鍛えるためです。PCでもそうですが、高性能でも機能が不安定だったり、耐久性が虚弱だったりすることがあります。家庭用でひっそり趣味に使う分にはそれでよくても、たとえば医療現場であるとか、戦場で使うようなコンピューターだとそれでは困ります。雨に濡れても風に吹かれても、土ぼこりの中でも、やはり高性能でありつづけるコンピューターでないと、危なっかしくて実用に耐えません。
自意識の機能が「ストレス下でも失われない」という頑強さが必要です。本来は頭のよいはずの人間が、運転をしていて、運転自体は上手なのに、後ろからクラクションで煽られたら、とたんに慌てて動作が不安定になるということがあります。これは性能は足りているのですが頑強さが足りていないのです。そのためには勉強は「みっちり」やられる必要があります。後ろから少々蹴飛ばされても脈絡の機能が狂わない、というような鍛えられ方が要る。
このようなことがあるので、しばしば、頭の生まれつき良すぎる人が、実用に耐えない具合に育ってしまうことがあります。彼は「みっちり」やらなくても東京大学に入れてしまうのです。誰も文句のつけようがないので、後ろから蹴飛ばされることがありません。けれども、それはたとえば恋愛などになれば、プレッシャーやストレスが掛かりますから、話が変わってきてしまいます。彼の数学的頭脳から言えば、自分が彼女に愛されていないということの脈絡は、理解に容易なはずなのですが、その理解が受け止めきれず、ストーカーになったりします。
ある大学の教授が、自分が感電事故に遭いながら、その物理学の知識で自らを救ったという逸話があります。トラクターで作業をしていたのですが、あやまって電柱を倒してしまいました。電柱が倒れてきて、電線を浴びて感電してしまいます。
それを助けにきた若者に向けて、「片足でトラクターに乗ってはいけない!」と、教授は制止しました。「両足でジャンプしてトラクターに乗るんだ。そうでないと、君の片足はアースになって、全身に通電してしまう」と。トラクターはタイヤで地面から浮いているため、地面とは絶縁で保たれています。ですからトラクター上は今高電圧なのですが、今電流が大量に流れてしまっているのではないのでした。そこに若者が片足なり片手なりをつけたら、彼自身が電線になってしまい、電流の流れる流路になってしまう。一瞬で即死するでしょう。それで若者は両足でジャンプしてトラクターに乗り、トラクターを後退させて、事なきを得ました。
全身が高電圧に痺れていてもなお、「電気は電気だ」と、物理学の脈絡が失われない。ここまでくるとまさに「筋金入り」です。勉強をやるなら「みっちり」やらねばならないというのは、この筋金を入れるためなのでした。
自意識は「陶酔」する
勉強を「みっちり」やると、いよいよ表面的な楽しさはなくなってきます。妙な「ハイ」の状態にはなりますが、いわゆる「楽しい」という状態ではなくなってくる。この、「勉強は楽しくない」ということは、意外に大事なことなので、覚えておいていただけるとよいと思います。後の講義にまた出てくる話ですが、先に少しお話ししておきましょう。
自意識はパケット情報を処理する装置だとお話ししました。それがみっちりした勉強となると、さんざん噛まないと飲み込めないし消化もできないというようなものになるので、逆に自意識のダイエットによいのですが、そうではないパケット情報、とにかく自分に流し込めるような、ジュースのようなパケット情報もあります。
自意識は、そういった甘露のパケット情報を流し込まれると、「陶酔」と呼ばれる状態になります。一種の楽しさで、これは麻薬的に人を中毒にさせるものです。それは甘露のジュースなので、自意識は肥え太っていくのですが、それに起こる「陶酔」に中毒性があるので、やめることができなくなります。
「陶酔」は、めまぐるしい映像や、言葉や数字などの記号、意味のある音などを、次々に流し込むことで起こります。自意識をわかりやすく"こすりあげる"ふうにして、陶酔が起こると捉えて間違いありません。たとえばパチンコ遊びなどがその代表です。めまぐるしい映像、動き回る球、激しい音、明滅するランプなどが、人を陶酔させます。そこに金銭的な得失も加わって、自意識をひりひりこすりあげます。パチンコは無論、負ける人のほうが多いので産業として成り立つわけですが、負ける人でもなぜ遊びに行くかというと、そこに起こる「陶酔」が楽しく、中毒性があるからです。
「陶酔」だからといって、何もかも否定する必要はありません。陶酔がまるで無いというのも少し寂しい気がしますし、あえて「陶酔」の仕掛けの中で自意識を振り回されないようにするという、自意識の握力の鍛え方もありますから。とはいえ、その陶酔中毒にすっかり自分の機能を持っていかれるだけ、というのでは話が違います。
パチンコ遊びに限らず、「陶酔」を遊ぶ場合には、きっとそれに対極にある何かで、バランスが取られていなくてはならないでしょう。パチンコなどの遊びはきっと、ハマらないではいまいち面白くないはずです。そうしてハマっていても、一方で何かが強烈にバランスを取っていてこそ、それは汚染的でない遊びになりうると思います。あなたもきっと、車の運転が上手でないおばさんが、パチンコにハマりだしたら、それはさすがに制止したい気持ちに駆られると思います。
「自意識過剰」とは
一般によく「自意識過剰」と言います。「みんながわたしに嫉妬している」というのは自意識過剰ですし、「みんながわたしを嫌っている」というのも自意識過剰です。過ぎた増長も自意識過剰なら過ぎた卑下も自意識過剰です。正解は大半の場合、「周囲はいうほど注目していない」です。仮に一瞬注目したとしても、半日も経たず忘れます。自分がそうするように、他人も同じようにそうするのでした。
自意識過剰というのは、空間における「自分」の存在感を過大に見積もることを言うのですが、それは当たり前だとしても、問題はなぜそのような誤った見積もりをしてしまうかです。それはやはり自意識の肥え太りに原因があるのでした。
自意識の鍛錬は、自意識を合理的に高機能にし、縮小・静音化することでしたが、その逆に「甘やかし」は、ジュースをさんざん与えて肥え太らせることです。<<肥え太った自意識は、中毒の習慣によって、ほとんど瞬間的に、自分が「陶酔」できる筋道を見つけます>>。「みんながわたしに嫉妬している」という"空想"は、自意識を陶酔させますし、「みんながわたしを嫌っている」という空想も、自意識をマイナスに陶酔させるのです。陶酔中毒を起こしている自意識は、まったく瞬間的にこの発想を掴み取って陶酔します。肥え太った自意識は、もう脈絡を掴んでいる握力がゼロなので、もう脈絡とは関係なしに、ただ陶酔が深く起こるほうへばかり行きます。中毒が習慣になった自意識は、もうそうして陶酔している状態のほうに慣れ親しんでいるので、今さらその状態から離れがたいのです。ヒートアップしていない自意識という状態が、もう感覚的にわからなくなっています。
もちろんこのことは、「脳」の側を機能させるのにも、致命的な障害となります。ヒートアップした自意識が、脳の先行機能を認めたりするわけがありません。自意識過剰の正体は、このように自意識がむしろ「みっちり」鍛えられていないことによるので、根本的な改善は、何かをみっちり勉強するのみであるとか、「まったく陶酔できない」時間を課すしかないように思われます。
作品は体験を生み出す
ここまでIT端末を代表としてパケット情報を槍玉に挙げてきましたが、「作品」についてはいささが話が変わってきます。今や映画や音楽は十分にダウンロードから得られる時代になりました。それらもパケット情報なのか、ということになると話がややこしくなります。それについての結論は、「作品」については、あなたを陶酔に遊ばせる意図のものでないなら、どんどん触れてゆけばよい、ということになります。
なぜかというと、芸術の技法でよく作られた作品というのは、あなたに訴えかける表現の仕組みが違うからです。このことを精密に話すと、おそろしく長く、また難しい話になってしまうのですが、端的に言うならば、それらの作品はあなたにパケット情報ではなくて「体験」を与えようとしています。あなたに吸い上げやすい世界の情報を与えるのではありません。ややこしく描かれたその表現の隙間から、あなた自身の想像力が、ふと世界を自ら作り出してしまう、そういう技術が凝らされているのでした。
実は芸術作品の体験というのは、あなた自身がそれに呼応することによって、あなた自身で作り出しているのです。だから、たとえばピカソの絵などは典型的ですが、芸術作品の表現は、奇妙に脈絡を外してきます。これはいくら脈絡で追っても理解できないのですが、まったく脈絡が無いだけの無意味に作られているわけではない。ピカソは脳でその絵を描いているので、あなたもひょっとすれば、その絵に何かが「見えて」しまうのです。それに「ついていく」ということが起こる場合がある。それが芸術作品の体験です。
さきほど、「勉強は楽しくない」ということを申し上げました。それと同様に、美術館や文学作品を読むことやクラシック音楽を聴くことは、パチンコ遊びのように楽しくはありません。「陶酔」に慣れた自意識では、とにかく面白くない、ということばかりが先に立つでしょう。それは確かに、ジュースの流し込みのような陶酔を与えてはくれないのでした。
ただ、みっちりとした勉強と同じように、何か「ハイ」になるところはあり、また、「みっちり」ということにあるように、身体にじっとり汗を書き始めます。重厚な文学作品を読み終わった場合、それに呼応しきるように読んだとしたら、あなたはまったく「クタクタ」になっているでしょう。それはあなたの脳がはげしい仕事をしたのでクタクタになっているのです。
映画などを代表に、作品というのは、けっきょく娯楽と芸術の境目を明確に示すことはできません。混在していますし、折衷しています。ただ本当に良い作品であれば、あなたをクタクタにさせたあげく、あなたからその批評やコメントをしようとする気力を奪い去るでしょう。それは脳機能が活性化して、自意識の機能が低下している状態を示しています。
クラシック音楽の演奏があったとき、その後にしきりに「ここが素晴らしかった」とあなたに批評させるならば、それは実はたいしたものではなく、「ホールを出てもまともに歩けなかった」「コメントどころか、とにかくしばらく放っておいてくれとしか思わなかった」というほうが、より深い芸術体験です。その強烈な体験性は、たとえば失恋直後の人間に似ています。「まともに歩けなかった」「コメントどころか、とにかくしばらく放っておいてくれとしか思わなかった」、確かに失恋直後の人間はそのような状態になります。芸術体験というのは、そうして単なるパケット情報の受け取りではなく、はっきりとした体験を人間に与えます。ですから、メディア(媒体)が何であっても、優れた芸術作品に出会えることは、まったく別のことだと捉えてよいのです。
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以上で第七講を終わります。付録を含めるとずいぶん長くなってしまいました。けれども残すところあとわずか二つです。どうせなら最後まで駆け抜けてから、一休みにされるほうが、その一休みもあなたに官能を与えるでしょう。本講義は、ひとまず駆け抜けてから、またもう一度、次はのんびり読み進められることを推奨します。
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