第九講 麻痺型と決壊型/現代と恋愛
「メンタルが強い」「弱い」という言い方をよくします。気持ちが黒く追い詰められるとき、「メンタルがやばい」という言い方もします。
現代の人々は、「メンタル」ということに注目しているようです。合わせて、メンタルヘルスという言い方も出現し、略して「メンヘル」、er系をつけて「メンヘラ」という言い方も出てきました。"メンヘラ"というのは、狭義には、その症状によって社会生活を困難にし、専門の医療に掛かられている人のことを言います。広義にはどうでしょうか。広義には、今のところ定かではありません。
あくまで臨床心理学の話として、"メンヘラ"というのは、自我・自意識の機能が、生活上に困難をもたらすだけ、不具合を起こしていることを言います。さて現代は自意識の時代だと本講義は指摘していますが、自意識が本来の機能と違う使われ方をして、「焼けつき」「こすりあげられ続ける」のであれば、それは時代の"メンヘラ化"を当然加速します。
臨床心理学では、自我と無意識という分化を捉え、本講義では自意識と脳という分化を捉えているので、主題とする構造は異なりますが、本講義もわかりやすさのため、その「メンヘラ」という語を借用して使うことにします。ただしその使い方は、臨床心理学(および精神医学)における狭義の使い方とやや異なると、先にお断り申し上げておきます。元々の「メンヘラ」という語がスラング的なものなのでよいでしょう。
前回の講義を復習します。脳の機能が失われ、脳の営みが失われると、人々は生きる中での「よろこび」を喪失します。よろこびなしには生きてゆけないので、どうするかというと、自意識に起こる「陶酔」をもって、よろこびに代替するということでした。ただしそれは、機能本来の使い方ではないとも、前回申し上げてあります。
その、機能本来ではない使い方を続けてゆくとどうなるか……機械でもそうですが、それはやがて故障してゆきます。傷んで、不具合を起こすようになる。そこに不具合を起こせば、"メンヘラ"になるか、少なくとも、"メンヘラ的"にはなってしまいます。
ただ、その"メンヘラ的になる"ということの、実際的な表れは、およそ一般には思われているのとは異なります。それはもっと、こっそりとした、目に付きづらい、いつの間にかやってくる、厳しい現象です。それで、その点をわざわざ講義にする必要があります。本講義の完了後、そのことへの見方を、受講生であるあなた自身がすっかり変えられているでしょう。
それでは講義を始めます。
初めは上手くいく
「よろこび」の代わりに、自意識の「陶酔」で、心の養分をまかなおうという発想ですが――以後、「陶酔式」と呼びます――これは初めのうち上手くいくのです。特に、当人があるていど、"要領"が良い場合には。
ある人は、「リア充」であることを目指すでしょう。「イケメン」である彼氏を作り、彼氏ともども、色々なイベントに参加する。「B級グルメ」というブームが自意識に引っかかってくれば、彼氏ともども、その体験へのプランを立てます。「リア充」というイメージを追いかけているのですから、週末の予定は「充実」していないといけません。サッカーよりフットサルのほうがブームなら、そのマネージャー役でも買って出ます。「女子会」なら「女子会」のブーム、「婚活」なら「婚活」のブームに反応します。自意識というのは、そうしてパケタイズされた情報しか処理できないのでした。そうしたパケット情報の"行為"を、自分が「たくさんやっている」というのは、わかりやすいですし、刺激を伴ったジュースとして、自意識を陶酔させます。
要領か趣味かの問題で、「リア充」というのができない場合でも、文化物や無数のコンテンツの中に、陶酔を与えてくれるジュース物が、現代はたくさんあります。これらで陶酔して遊ぶことは、実際楽しいですし、何より今は消化しきれないほどのたくさんのコンテンツが与えられ、また低コストで入手に利便も整っています。こうして、無限にあるかと思える遊びの中で、楽しい陶酔を追求していくということは、実にありふれていますし、何も問題はないように思えます。「別に、やることやっていればいいじゃん」と彼らは言うでしょう。そのこと自体に、確かに何の問題もありません。
現代にまったくありふれた、これらのやり方は、"初めのうち上手くいく"のです。少なくとも、何も問題はないように見えます。たとえ「リア充」の「イベント」が、その中でのやりとりも含めて、「何かわざとらしい」ということであっても、通常、それはそんなに目くじらを立てることではありません。「リア充」がいささか軽薄すぎると感じられる場合は、「自己実現」というのもよいでしょう。
あるいは、新興の文化物やコンテンツが、ひょっとすると、それを楽しむ当人にさえ「何か不健全だ」と感じられていたとしても、通常、「でも楽しいんだもの」ということで、片付けられます。その点は本講義でも、陶酔そのものがただちに悪というわけではない、とお話ししてきました。
ただ、前回もお話ししたように、それらは陶酔である以上、すぐに飽きるのです。飽きますし、すぐに慣れて、耐性がつきます。そうなると、さらに陶酔を得ようとしたとき、麻薬と同じで、拡大投与するしかなくなります。それを拡大投与できているうちはいいのですが……やがて「もう無理だ」という臨界点が必ずやってきます。無限に拡大はしてゆけません。
だからこの現代のやり方は、初めは上手くいくのですが、途中で倒れるのです。そうして倒れたとき、でも他にもうやり方は持っていないのですから、手詰まりになります。
そしてこのことは思ったよりも恐ろしい結果をもたらします。さらに噛み砕いてお話ししましょう。
麻痺型への移行
ある大学生がいたとしましょう。彼はいわゆる「大学デビュー」の野心を秘めていて……それに成功したとします。彼は眉目や髪型を「オシャレ」に整えて、「イケメン」であることを手に入れます。サークルに入ったり、ダンスをやり始めたりして、自分を充実系にしていきます。意識的に、アルバイトもぎゅう詰めにしていくかもしれません。キレイ系の彼女も手に入れて、典型的な「リア充」になります。彼女の誕生日には、「誕プレ」を用意し、クリスマスには「超ロマンチック」な何かをするでしょう。それで物足りないときは、「おれ割とオタクなところあるんだよね」と、いわゆる"ファッション・オタク"のような軽度のオタク趣味にも手を出します。
彼は「負け組」になりたくないので、地位の高い企業に入社します。それで仕事は大変になりますが、彼は「デキる男」を目指して、その陶酔をやはりエネルギーにするでしょう。もちろんそれだけではつまらないので、夜遊びには「チョイ悪」のようなことも目指します。そして家を買い、子供が出来て「パパ」になり、「やっぱ父親って"怖い"存在でないとな」ということをしたり、よきパパを目指したり、「一家の大黒柱」をやってみたり、あるいは「アクティブ系」になってみたりします。改めてジョギングを始めたり、陶芸や一眼レフカメラやヨガを始めることも多い。ワインや料理に凝ることも多いでしょうか。
ですが、さすがにそのあたりで「ネタ」が尽きます。彼はもう若者と呼びづらい年齢になっていますし、その年齢ではもうさすがに何かの「ブーム」には似合わなくなります。
ブーム的な単語や、○○系といったもの……考えてみればそんなパケタイズされたものが、無限に拡大するわけが無いのでした。彼はたくさんのことを、熱心に、精力的に、やってきたように見えますが、ここで振り返ってみてどうでしょう。彼は、本当には、「何もしてきていない」のではないでしょうか。陶酔というのは、そのときいくら盛り上がっても、思い出にはならないと、前回お話ししています。
この、もう「ネタ」が尽きたという瞬間、彼の気持ちはプツンと切れます。「色々と、何かもう、終わった」と感じるのでした。それは「もうこの先、自分が陶酔を得る方法は無くなった」ということの、どうしようもない発見です。
このときから彼は、精気を失い、心が止まってしまったような、「麻痺型」になってゆきます。陶酔を原動力と報酬にするというシステムが停止してしまいました。そのことを説明してゆきましょう。
「陶酔式」の判別法
麻痺型のお話をする前に、ひとつ有用なことがありますから、お話しておきます。何かが楽しいというとき、あるいは有意義と思えるとき、それが脳の営みなのか自意識の陶酔なのか、区別がつきづらく感じられます。ですが実は、それが「人と人とのコミュニケートを含み」、なおかつ「利得を媒介としない」ことであるならば、あっさり判別できる方法があるので、あなたは知ってゆかれるとよいでしょう。
それは単純に、「明日も同じことができない」ということです。
たとえば「鍋パ」というようなものをしたとしましょう。それがいかに盛り上がったとしても、「じゃあ明日もやろうか」と言うと、それについては全員がのけぞり、なんだかんだで拒否することになります。
おかしなことだと感じられませんか。それがとても楽しくて有意義なことなら、明日もやろうという話になり、全員がそれに飛びつかないではおかしいはずです。昔の大学生などは、放っておけば一年中でも毎日麻雀をしているようなところがありました。それに比べれば、華やかで楽しく有意義な「リア充」のことなのですから、それはもう毎日ずっとやっていけばよいはずです。
それが、毎日どころか、明日にも出来ないのはなぜなのでしょうか? 実はそれが、「しんどい」ことだからなのですね。自意識でコミュニケートするのは、台所から食卓へ箸で料理を運搬することのように、使い方を間違っており、しんどいのだと前回お話ししています。そして陶酔というのはすぐに飽きますから、明日同じことをしてもこの陶酔はもう得られないということを誰もが知っています。それで「明日も」というのは拒否することになる。
そうして、一見「リア充」のよろこばしさに見えるものも、実は明日にも付き合えないものだということに、あなたはこっそり気づいていてください。そして「リア充」といって、恋人や伴侶を求めるのにでも、そうして毎日どころか明日にも付き合えないような中から、恋人を得ようというのは間違っています。恋人や伴侶というのは毎日を共にゆくものではないですか。恋人や伴侶というのは、「人と人とのコミュケートを含み」、「利得を媒介としない」ものです。
ちなみに僕は学生のときに、毎日バーベキューをしていた時期があります。「なぜいちいち帰宅して晩飯を食う必要があるんだ」という調子がみんなで揃ってのことでしたが。あるいは、夏休みに出張があり、一泊だけ初対面の知人宅に厄介になるはずが、意気投合して、一ヶ月も一緒に暮らしたことがあります。
「明日もはできない」というのは端的に言って"間違い"です。そこに脳の営みとよろこびがあれば、それを毎日することは、疲れることではありませんし、可能であるどころか、「惜しくてやめられない」ものです。
「麻痺型」の構造
さて話を戻します。「リア充」を体現するように生きても、それで自意識を陶酔させる「ネタ」はやがて尽きるという話でした。「自分はこの先、もう陶酔を得ることができない」と悟ってしまったら、もう気持ちがプツンと切れ、急速に麻痺型に移行してゆきます。
それはやはり、根本的に、自意識の営みが「しんどい」からなのですね。特に、使い方が間違っているそれはひどくしんどい。これまでは、そのしんどさを、陶酔がカバーしてきたのでした。ですがもう陶酔が得られないとなったら? それはもう、むき出しでしんどいに決まっています。だからもう、自意識の機能も、できるかぎり使わないようにしたいと、頑なになってゆきます。「ルーチンワークだけして死んでゆきたい」と真剣に言い始めます。
例えば彼の場合、仕事に新人の後輩が入ってきたら、これまでは指導に熱心だったかもしれません。「デキる人ぶり」「アツい先輩ぶり」「仕事が自己実現」をもって、そのことへの陶酔をエネルギーにできましたから。ところがその陶酔がもう得られないのだとすれば、もう新人の後輩なんて、しんどい、うっとうしい、面倒くさいだけです。また仕事を一から教えなくてはならない。そのうっとうしがる態度は、先輩という立場が強いので、いっそ堂々と表明されます。その態度が冷たいとかどうとかは、もう彼にとってどうでもよいことなので、ほとんど控えられません。
もう陶酔は得られないと判っているのですから……すばり言うと、彼の自意識はもう、"何も聞いていない"という状態になります。そうするのが一番ラクだからです。自意識の営みにもう利益がないので、営みが起こらないようブロックするのでした。陶酔が得られなくなった以上、そうして自意識のしんどさをとにかく減らす、ラクにするということでしか、彼にとっての利益的なやり方はなくなるのでした。
彼はすっかり、「そういう人」になってしまったわけですが……注意すべきことがあります。彼が「そういう人」になってしまっても、彼のような状態は、一般に"メンヘラ"などとは呼ばれないということです。彼にはそれによって社会生活を困難にしているわけではないのですから。
もし、彼のひどい態度によって、彼の下に入った新人後輩が、仕事を続けてゆけなくなったら、その辞職した彼のほうが、たとえば適応障害などといって、"メンヘラ"という扱いになります。
この問題は、取り沙汰のしようのないほど、あいまいな中で起こるもので、どちらがどれだけ悪いというような、安直な結論には結べません。本講義ではあくまで、陶酔式のやり方の果てに、そうした「麻痺型」があるという話に留めます。そして、「巻き込まれる前提で」、本講義は考えなくてはならないと、以前にお話ししてあります。
「麻痺型」というのは、今お話ししたように、陶酔式がついに頓挫し、自意識が「何も聞かなくなった」という状態です。何も聞かない、何に触れても何も聞き取らない。届かないのですから、それは外側からは剛直な「麻痺」という感触になります。これはいわゆる"メンヘラ"ではないので、接触がないかぎり、その感触はわかりません。
が、いざ接触してみると、本当に「何も届かない」という感触で、人をゾッとさせるものを持っています。本講義では彼のことも"メンヘラ"と捉えるのはそれが理由なのでした。本講義では、「麻痺型」も「決壊型」も、ごく自然なこととして、広義の"メンヘラ"と捉えることにします。
「決壊型」との循環
人はよろこびなしに生きていくことはできないと申し上げてきました。「麻痺型」に行き着いた彼は、一見ずっと落ち着いて、安定しているふうに見えます。何しろ「麻痺」なのだから安定していますね。一見は、そう見えます。
ですが、彼は長い間、よろこびのない中を生きていくことになります。いくら麻痺させて、自意識が「何も聞かなくなる」、そうしてラクをさせていっても、しょせんはしんどい「だけ」の中を生きていきます。これまでアテにしていた「陶酔」も、ついに枯渇したので、もう陶酔式は機能しません。
この静かな絶望の中で……彼は苦しさを溜め込んでゆきます。外側には麻痺してますが、内圧はずっと上昇してゆくのです。
すると、この「麻痺型」は、あるとき突然、「決壊型」に移行します。内圧の上昇が極点にきてついに破裂を起こすのでした。
その実際には、色々なケースがあるのですが……やはりここでは、先ほどの彼を例にしましょう。彼は全てにうっとうしそうで、面倒くさそうです。「そういう人だから」で、周囲には通っていたのですが、あるとき突然爆発します。立場の弱い後輩や、部下、女性、あるいは下請けの担当などに向けて。およそ社会的常識からは逸脱した、大声や攻撃的な態度を出します。
彼はこれによって、久しぶりに――何年ぶりか、何十年ぶりかに――「陶酔」を獲得します。それは、自意識の焼けつきの、極限ともいうべき、熱での破裂ですから。ここから彼は、「新しい陶酔式」を始めることになります。過去の、リア充うんぬん、自己実現うんぬんといった、生易しいものではなく、もっと直接的な、自意識の焼けつきのブチマケです。彼はいっそ、「逆に楽しくなってきた!」と鼻息を荒くして言うかもしれません。久しぶりに、自意識の陶酔を取り戻したのですから。
なおこのような場合も、彼はやはり"メンヘラ"とは一般に呼ばれません。あくまで社会生活に困難をきたすという本人の主訴がない場合はそのようには言われないのです。
ただし勿論、衆目には彼はすでに"狂気じみて"いるので、「まともじゃない」というふうに、慎重に距離を取られます。距離を取るわけですから、当然、そのような警告が、直接彼に伝えられることは無いのでした。彼はそれについて、「誰からも文句は言われていない」と捉えるようになります。
こうして麻痺型は決壊型に移行したり、あるいは、その両方を循環したりします。これはケースバイケースなので一概に言えません。初め決壊型から入り、麻痺型に移行するケースもありますし、決壊というのも、犯罪や自傷であったり、事故であったり、器質的損傷になることもあります。
本講義はそこのケースワークを追求するものではありませんので、ここまでに留めましょう。ただ一番多い例、最も一般的な例は、彼のような、麻痺型から決壊型への移行だと思われます。
自意識の「陶酔」を原動力にしていくシステム。その「陶酔式」の行き着く果てに、麻痺型と決壊型があるということを、お話ししました。
「メンヘラ文化」の中で
"巻き込まれる前提で"、我々は考えねばなりません。「陶酔式」が主流になり、その末梢が次々に麻痺型と決壊型を生み出すのだとしても、それは他所の世界のおとぎ話ではなく、我々が今日も生きていく実世界の話です。単純に、「この中をどう生きていくべきか?」という問題が、それぞれ一人一人に、課されているのでした。
「この中をどう生きていくべきか?」。それについて、迎合的あるいは推進的なものを、本講義では「メンヘラ文化」と呼ぶことにします。もちろん、節度として、具体的にどれがどうだということは、本講義では取り上げません。そんなことをしなくても、一般論だけで十分に、理解と心当たりに到達しうることですから。
この現代の中で、或るものは、「どんどん陶酔していこうよ」と呼びかけています。いっそその"陶酔っぷり"を、「どうだ強いだろ」「リア充だろ」と見せつけるような。あるいは、また或るものは、その"スカしている"態度を見せつけて、「超越しているの」と呼びかけています。また或るものは、ギャーッと汚らしいほどの自意識のブチマケを示して、「決壊してこそ真実の陶酔があるよ」と呼びかけています。
これらについて、是非をどうこう言うのは、もちろん本講義の趣旨ではありません。ただこれらは、現代における「この中をどう生きていくべきか?」という、「この中」をなくしては、そもそも生まれてこなかったものです。仮に、今でも脳の機能が活発で、豊かな営みとよろこびの中を生きている人がいたら、その「陶酔していこうよ」「いいえ、超越すればいいだけよ」「いや、決壊するしかないのです」というような呼びかけは、何のことやら、すべて「?」というだけの受け止めになります。
なんだかんだで、結局の土台として、自意識を「こすりあげて」くる呼びかけの声。自意識を、無限にこすりあげてゆこうという声、こすりあげに反応しない超越風味を叫ぶ声、こすりあげにただちに決壊せよという声。これは自意識文化の土台においてしか成立しませんから、本講義ではこれを――やむなく――「メンヘラ文化」と呼びます。
あなた自身、"色んなもの"について、「メンヘラ文化ですね」という指摘を、空想の中でしてみてください。そこにギクッとするような、空気の凍りつくような、何か危険なリアクションが予感されるものもあれば、一方で、そもそも「まったく当てはまらない」「かすりもしない」と感じられるものもあるはずです。
逆の具体例を指摘する分には節度に反しないと思いますので、例を挙げておきましょう。youtubeで1980年代前半の映像などをご覧になられれば、なおわかりやすさが増すと思います。たとえば1983年のコカ・コーラのCM。早見優さんが水着姿で駆け寄ってくる映像があります。それらは、現代の我々からして、映像の造りがつたない、平たくいって「ダサい」のですが、その印象はともかくとして、「メンヘラ文化」という指摘は一切当てはまりません。それが当てはまらないということを、理由抜きにあなたは実感することができるはずです。それは、「ダサい」のかもしれませんが、それにしても、自意識をこすりあげにくるものがまったく見当たらないからです。先ほど、かつての大学生が一年間でも毎日麻雀をしていたという話をしましたが、その退廃的なムードだって、別に自意識をこすりあげるものはなし、「メンヘラ文化」という指摘は当てはまらないのでした。
陶酔三法
単純化して言えば、現代の人々は、陶酔を求めています。「陶酔式」を原理に採用しているのだから当然です。では仮に、その「陶酔式」を積極的に採用するとしたら、「陶酔」はどうやって得るべきでしょうか。具体的に、指針と方法が必要になりますね。
これについて、方法が三通りあります。簡単なことなのでお話ししておきましょう。これらは、必ずしも一つの方法しか採れないというものではなく、あるていどの混在ができます。
1.リア充・自己実現法
言うなれば「王道」です。経済社会の価値観に準じ、自分はその価値観上で「成功」している個体だという認識で、その認識と行為を拡大してゆくことで、自意識を陶酔させます。王道なので、大多数の人はできるかぎりこれを目指そうとします。逆にこの王道からあまりに脱落する場合、大多数から排斥的に扱われる立場になります。また脱落すればその排斥作用があるため、この王道をゆく人も脱落に対する恐怖心を奥底に抱えているのが通常です。
なお経済社会の価値観に準じていますので、たとえば就職面接などでも、この王道を土台とすることが大前提となり、この王道を無視することはほとんどの人にとって不可能です。
2.耽美・貴族法
自分を周囲とは違う特別な「貴族性」のものと捉え、美に強い傾倒があるのだと信じ込み、その貴族気分を拡大することで、自意識を陶酔させていく方法です。先ほどの「王道」とは距離を取り、自分は「一輪の知られざる花」の気分を取り、一方でたとえば"リア充"の集団を、むしろ慈しむふうに眺め、その行為を自意識の陶酔に充てます。
特徴的に、「声をあげて笑わず」「目立たない方向へのオシャレ嗜好が強く」「眠そうで気だるそうな振る舞いを演出するのが習慣になっており」「特別に珍しいふうの言葉をぼそりと自分につぶやく趣味があり」「孤独を積極的に意識して陶酔に充てる」などの点があります。「自分は全て知っている」「わかっている」という立場を採るので、何かに慌てたり声を荒げたりというような態度が自己に禁止されており、すでに大きな声を出せと言われても出せない状態になっていますし、今さら声を上げて笑おうとしても笑えないようになっています。
この耽美・貴族法の多くは、王道であるリア充・自己実現法のほうへ、趣味や要領の点で追従できなかったとき、第一の転入先として選ばれます。
3.不潔・蛮族法
リア充・自己実現法に追従できなかった場合、耽美・貴族法にゆければよいのですが、あまりに当人がその美性や貴族性を乏しくしている場合、その耽美・貴族法を自分の方法に採用はできなくなります。その場合の多くがこの不潔・蛮族法に行き着きます。
耽美・貴族法に対照して、こちらは「不潔さ」と「蛮族性」の追求を拡大することで、自意識の陶酔を得てゆきます。彼は"リア充"の集団を、「クズの集まり」と眺めます。下卑た声で笑える題材を能動的に探し、オシャレうんぬんを「恥ずかしいクズのすること」と否定的に取る。無神経で傍若無人な振る舞いが習慣になっており、嫌味のあるスラングを撒き散らすこと、万人の低俗性を積極的に意識して陶酔に充てること、などが特徴になります。特にハイソサエティのスキャンダルに熱烈な関心を持ち、そのスキャンダリズムを人間普遍に当てはめて、その不潔さのあぶり出しに陶酔を得ます。
以上、大きくみてこれら三つの方法があります。そしてこれらは排他的ではなく混在することが可能です。「メンヘラ文化」ということで言えば、文化物もおおよそこの三つの方法の、どれかを主にし、いくらかを混在させて作られています。
***
「メンヘラ文化」などというのは、もちろん本講義の造語です。「幸いに」と言うべきですが、そのような語でネット検索をかけても、今のところ該当するページは出てきません。合わせて、受講者であるあなたにも、「メンヘラ文化」などというような哀しい語は、この講義限りで捨ててしまい、以降は使われないようにお願いしたいと思います。それは理解を速やかにする便宜の上で必要であっただけで、その後も振り回して活躍させるのに魅力ある言葉ではありません。
この第九講は、たいへんな心苦しさをおして進めてきたということを、白状しておきます。「言い過ぎでは」と、誰よりも僕自身が疑いながら、この第九講を進めてきました。ですが振り返ってみて、今このことは、まったくこのように語られる必要があったと、改めて思います。
健全に生き、また懸命に、善良に、別に歪んだところもなしに、生きている人が、ゆくゆくはそんな「麻痺型」だの「決壊型」だのになるというのは、聞きたくないという以前に、単純に信じにくく感じられます。「そんなわけないだろう」「そんな極端なことにはならないだろう」という気がいかにもします。誰しも、自分とその周囲は、そのような"病的"なところから無縁だろう、と第一に思われると思います。
ですが……それを承知でこの第九講は展開されたと申し上げておきます。僕自身、「そんなわけないだろう」「そんなことにはならないだろう」と言いたくなるケースが、実際に起こってゆくのを、このところすでに、何度も見せつけられています。あんなに「かわいらしい」人であったのに、と、くやしく、苦しく思わされることが、すでに少なくない。そうしたことが起こってくるのは、誰のせいかなどとは言うべきではなく、ただ人々がそう追い込まれていく構造が、現代という時代にあるということです。それには、あるていど、巻き込まれてゆく前提で考えるよりないと申し上げておりますが、巻き込まれていくということは、何の対抗もしないということではありません。この船は沈むとわかっていて乗船させられるのであれば、それなりの備えをして人は乗船するのではないでしょうか。
このことは、その人が実際に、「麻痺型」などになってしまう前に、お話しする必要があります。というのは、当然ですが、実際に「麻痺型」になってしまっては、もう「届かない」からです。十数年の時間をかけて、陶酔式だけで生きてきたものを、麻痺型になり、決壊型と危険な循環を繰り返し始めたという、そんな段になって今さらこんな話を持ち込んだとしても、時間的に出遅れすぎていますし、何よりもう当人に「届く」ということがありません。そこから有為に好転が得られるという見通しは、いくらなんでも甘すぎて、非現実的だと思います。
現代が自意識の時代だというなら、それは大きな全体のことであって、そんなものはにわかに変動しません。ですがその中でも、少なくとも、それぞれにフェイルセーフの仕組みを隠し持つことはできるはずです。フェイルセーフとは、現行のシステムがダウンした際に、自動的に安全・健全なほうへ状況をコントロールするよう働きかける装置のことです。万事が上手くいっている状態、何の問題もなく見える状態の中では、フェイルセーフ装置が不必要なものに見えるのは当然のことです。
そしてもちろん、本講義があなたにお伝えしようとしていることは、それら麻痺型・決壊型の詳細などではありません。そんなことは本来どうでもよいことです。ただ、機能が本来性を取り戻し、営みとそのよろこびが取り戻されればよい。そのとき以降、この講義の内容の一切は不要になります。そのときは、あなたがすでに未来に踏み込み、この「現代と恋愛」をすでに過去にしたということになるでしょう。
「なんだかんだで自意識のこすりあげ」。そうして、実は先の無い「陶酔式」が、はびこってきたのは、いつからだったのでしょうか。それを限定して「ここからだ」と言い切ることは誰にとっても不可能です。ですが本講義では、さしあたりの、有用な見方がありうるとして、締めくくりに、時代の変遷を申し上げておきます。いつからこの「現代」が始まったのか。そのもっとも巨大な「目印」は、どうやら1995年あたりにあります。漫画「ドラゴンボール」の連載が終わり、「新世紀エヴァンゲリオン」や「ワンピース」が現れてくる時代です。阪神淡路大震災があり、地下鉄サリン事件がありました。"プリクラ"が流行しはじめたのも95年、「コギャル」と言い出したのも95年、インターネットに接続するアプリケーションが付属しているのは「WINDOWS95」からです。
色んなものが終わり、代わって色んなものが始まった。その巨大な節目として1995年を捉えるのは、まったく不自然なことではありません。そしてその中でもっとも大きなブームだったのは「小室哲哉ブーム」です。96年4月のオリコンチャートでは、小室哲哉という一人の作曲家・兼プロデューサーが、一位から五位までを独占しています。これは世界史上に例のないことだそうです。それだけ巨大なブームがありました。そして小室哲哉さんが作り出した、その歌曲もブームも、過去にあった昭和から平成初期にかけてのものとは、何かが明らかに違ったということは、当時を過ごされた万人が納得、いやご存知だと思います。
もちろんこれらは全て、巨大でわかりやすい「目印」でしかありませんが、その目印は、あなたが「現代と恋愛」ということの全体を、構造的に把握するのに有効だと思います。
それではお疲れ様でした。あと残すところ、確認問題と、余談めいた、最終講のみになります。確認問題はきっと、あなたが予想しているよりも簡単なものです。このまま一気にどうぞ。
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