最終講 われわれはどうすればよいか/現代と恋愛
長い講義を、お疲れ様でした。あえて設けたこの「最終講」は、講義らしい内容を具えていません。講義を終えての、ディスカッションのようなものだと捉えてください。新しくお話しすることはありません。ですがある意味ではこのことが最も大切なのではあります。直接的に……「われわれはどうすればよいか」。ここまでの講義は、この「どうすればよいか」という、決断を下すのに、必要な材料を与えてきたに過ぎないでしょう。
脳だの自意識だのといって、結局何も変わらなかったならば、それはそれで、その人のひとつの選択です。それをどうこう申し上げるのは、すでに講義と受講という仕組みから逸脱するでしょう。ですが僕ももう講義をするつもりはないので、一人の対等な個人にシフトしながら申し上げております。あなたは、あなたの出会う人々にとって、「すごい、脳の人だ」と受け取られるように、実際なるのかどうか。ならないのではあまり意味がありません。そして、「ゆくゆくは」というような言い方をするのは、僕は好きではありません。「ゆくゆくは」というのは、つまるところ、今日も明日も何もしないでゆくという宣言です。結局何もしないでいくというのは、別に悪いことではない、人それぞれに尽きることだと思いますが、そこにわざとらしい工夫をした言い方をするのは、本当は誰にとっても美しいことではないはずです。
お話ししておくべきことが一点あります。それは、ここまで「脳と自意識」という話を、対比的にしてきましたが、これだって、もともとは一つの全体であるものを、やむをえず、分化して説明に充てたに過ぎません。脳の機能と自意識の機能がありますが、その両方があるのが人間です。そもそもは「両方」でもなくて、全体としての「機能」があるのを、わざわざ分けて捉えただけでした。物事を説明するというのはそういう行為ですし、具合の悪い現状を"外科手術"するというのは、そうして区別的に取り扱うよりしょうがないのでした。ですがそのこと自体、全体的情報を直接取り扱う脳の機能から見れば、それぞれにパケタイズ・分離して捉えるようなことではありません。「膝とくるぶし」というと分かれて聞こえますが、「足」といえば全体が足です。「この動作をするときは膝が先行しますよ」ということがあったって、それはわざわざ分けて捉えるから「先行」が出てくるのであって、全体としてみれば何が先行も追随もありません。
講義ですので、説明するに決まっていますし、説明するからには、そうした分化が必要でした。ですが、それが分化されたままでは、「よく理解されている」ということにはなりえても、「完成している」ということには決して到達しません。むしろ遠ざかるばかりになります。講義がここで修了されて、もしこの「先」がそれぞれにあるとすれば、それはそれぞれが理解ではなく「完成」にまっすぐ向かうということではないでしょうか。
われわれはどうすればよいでしょうか。あきらかなことはいくつかあります。心身に全体的情報を浴びることであり、「ついていく」「ついてこさせる」というようなことを、求め、また自分に課すことです。のんきな受け答えや脈絡など通用しないような何かを体験し、その体験を積み上げて、脳を鍛えていくことです。そこによろこびは必ずあります。
むしろ本当に困難なことは、そうして表面上の形式をどう整えても、結局そこに自意識しかなかったら、すべてがただわざとらしいだけだった、全てが冗談じみた、何の足しにもならない無駄だった、ということになってしまうということです。「脳をトレーニングしましょう」という会合があったとします。が、その中で、自意識の持ちこみをどうやって禁止などできるでしょうか。どのように形式を工夫したって、そこで当人が脳を使うか自意識を使うかは、結局当人の決めることでしかありません。まして、当人が、「自意識をやめたい」と言ったって、その思念は自意識の思念なのですから、禁止といったって当人にさえそれができない。どういう「行為」をすればよいか? といって、「行為」というのは全て自意識なのでした。
脳には「はたらき」しかないのであって、この「はたらき」を回復させ、鍛え、引きずり出すしかないのです。それについて何が必要かといえば、強いて言えば、ということになるでしょうが、何かしら徹底した「覚悟」だと思います。自分の自意識などはまったくクソクラエなのだという覚悟、何の役にも立たないのだという覚悟です。この覚悟には、思いがけず勇気が要るものだと思います。これまでに持ったことのないような踏み切った勇気が。そして勇気から覚悟に到達し、その先で、人は脳の「体験」を得ることができると思います。
このことが、役に立つかどうかはともかくとして、ひとつひとつ、考えてみましょう。さしあたり、このテキスト上でできることはそれしかありませんから。
「脳の人」に直接付き合わせてもらう、ただし……
寝床に横になってモンモンと考え、それで解決するなら苦労はしません。覚悟が練りあがるまではそういう時間もあるかもしれませんが、結局のところ「人」です。まったく現実的に考える限り、あなたはそういう「脳の人」と出会い、直接に付き合わせてもらって、とにかく「次元が違う」ということを、もう物理的というように体験するしかありません。もしそのように、あなたが体験することを与えてくれる人がいてくれたら、それはあなたにとってかけがえのない幸運であり、幸福です。誰もあなたにそんなことをして差し上げる"義理"を持っているわけではありませんので、あなたはその幸運と温情をありがたく思うしかないでしょう。そこのところにあなたの精神的な「手抜き」があったならば、あなたに真剣に付き合ってくれる人は誰もいないと思います。それは単純に言って当然のことです。なお「次元が違う」というのは抽象的な言い方ではなく、「先行」から振る舞いが起こっているのだから、彼の振る舞いは実際に時間軸上で「次元」が違うのでした。あなたはそれを、"心身に受け止める"かぎり、その人に圧倒されずにいられません。圧倒されるのがいやな人はうまく逃げ口をつくるでしょう。
あなたは、部屋を飛び出し、家を飛び出して、学校や会社やクラブ・サークルといった、共同体の垣根も飛び出して、群れでいるから強気になれるだけという悪習を軽蔑して断ち、ただ自分として、誰か「脳の人」を見つけて、呼びかけ、付き合ってもらえるように、堂々頼みこみ、お願いするしかありません。これも当たり前のことです。居心地のいいところにいつもどおりずんぐり座り込んでいて、何かが与えられるわけがありません。あなたがその居心地のいい常識の中に住み続けるならば、それはあなたが獲得について結局本気でないということです。「みんながそうしている」ように、あなたもそこに居続けるだけなら、みんなが結局与えられない程度に、あなたにも与えられないというだけです。それは悪いことではありませんが、獲得に動かずに、自覚としては「獲得に本気」のつもりでは、単純にいって自覚と実情がちぐはぐです。共同体や、家族や友人を、捨てるということではありません。ただそういったしきたりや習慣は脳のことには関係ないということです。
脳と脳とで人が出会うとき、それがクラスメートだの知り合いだのということは何ら関係ありません。あなたは100曲のバンド演奏をCDで聴いて、「この音はわたしの知人だ」とわかるようなことがありますか。わからないはずです。前もってそう教えられていない限りは。ですが、その中に名演奏者の演奏が入っていれば、「この音は何者かの音だ」と気づかなくてはなりません。そこに例えばバディ・リッチのドラム演奏が入っていれば、あなたの脳は気づかなくてはならない。あなたの脳に何かが「見えて」、あなたは出会わなくてはなりません。そのときあなたは、脳と脳とで出会うということに、それが知人だの友人だのということは一切関係ないということを自分で体験されるでしょう。脳は知人の演奏を「見えない」と言っています。
バディ・リッチという演奏者を知らなければ、ここで検索して調べるのもやめてください。いつかのとき、本当にドラム演奏に突き当たって、「すごい!」と感じた、耳から脳がそこに何かを「見た」、そしてその演奏者を調べてみたらバディ・リッチと書いてあったという、そういう体験が、この先のあなたにあるかもしれないのですから。そのときになって、「ああ、これがバディ・リッチなのか」と体験されれば、その体験はあなたにとって貴重な体験になるはずです。全てを通して、それはあなたの「思い出」にまでなるかもしれません。
あなた自身動き出し、共同体風土で仲良しじみていくという、手馴れたことをせず、ただ一対一で誰かと出会うべきです。「脳の人」を見つけてください。そしてなんとしても、直接の時間、付き合ってもらう。それはたぶん、もう単純に「お願いしたおす」しかないと思います。そしてそういうお願い事をするからには、女性のほうが有利ですし、なんといっても、若いうちのほうが有利です。若い人が若さゆえにお願い事をするのは自然なことですし、一般によく容認されていることですから。これが若さを失ってからだと、「お願いしたおす」ということのより厳しい覚悟が必要になります。必要とされる「運」も、さらに大きくなってしまうでしょう。
そうして、「脳の人」を見つけ、直接の時間、付き合ってもらう。ただし……
ただし、その体験を、「納得」して持ち帰ってはいけません。「納得」というのはもっとも"おぞましい"ものだとあなたは捉えているべきです。冗談でもなく、誇張でもなく。
「納得」というのは、自意識が脈絡を整理した、ということです。それで一息ついた感じになるのは、脳のほうがまた停止したからに過ぎません。これでは何も体験したことにならないのです。せっかくの体験を自分でキャンセルして返品するような行為です。何が残ったかというと、またひとつ自意識が膨らんだだけでした。
「納得」というのが、おぞましいだけのものだということを、あなたは実はご存知です。人が「納得」するだけというときの、醜い顔をよく想像に描いてください。あなたのことをさんざん傷つけた男がいたと仮定しましょう。その男は、「ふーん、傷つくんだ。納得納得」と、帰っていって、その納得をSNSの日記で「納得したこと」などという題で書いて遊んでいます。それが"おぞましい"ということはあなたによく理解されるでしょう。
それ以上その男を問い詰めたって、「納得以外に何ができるって言うんだよ」としか言いません。彼には自意識しかないので、彼の機能は自意識の機能しか残っていない。それがどうしたという話ですが、あなたはそのようになってはいけません。
「ついてゆき」、叱ってもらう、ただし……
あなたが「脳の人」に出会ったならば、その人は表面的な脈絡を超えているはずです。あなたはそれに「ついていく」ということを、なんとかしなくてはならない。ただし……
ただし、「ついていく」というのは、受け答えをすることではありません。彼のほうがもともと脈絡を超えているのに、あなたがそこに脈絡で口を挟むというのは、なんと横着なことでしょう。
できればそこで、「なに口答えしてんだ」「いちいち眠たいこと挟んでくるな」と、はっきり叱ってもらえるほうがよいです。あなたはそれでショックを受け、いわゆる「傷ついた」と感じるかもしれませんが、彼との関係が清潔でありえたならば、その「傷ついた」うんぬんのことも、やはり「それ眠たいってば」と叱ってもらえます。あなたはそのとき、彼のことを信じて、なんとかして「ついていく」ということをしなくてはならない。「傷ついた」というのは、油断していた自意識がきつい「焼けつき」を起こしたということですから、振る舞いが自意識よりも先行しているうちは、その「傷つく」ということは起こらないのです。彼があなたに「眠たい」というのは、あなたの全てが「現在」という時間から出遅れているからです。「口答え」というのも、彼はあなたに「話すな」と言っているのではない。その口答えがもう出遅れている自意識からの振る舞いだから、それを振り落とそうとしているのでした。
こんにちの教育では、人はとにかく対等であるべきで、上から目線はとにかくいけない、とにかく人に気を遣うべきだ、と教え込まれています。その結果、人が人に「叱りつける」というようなことは、もはや無条件で否定されています。だから、もうその叱りつけるなどということ自体が、天然記念物のように珍しい有様なのですが、現実問題としてはきっと、人はそうして叱られる機会を得ないと、自意識に膠着した次元を超えることができません。自意識の表れを、ただ「眠い」「遅い」「口答え」と叱りつづけてもらえることで、やがて自意識に頼ることをそもそもやめ、脳で直接コミュニケートしようとするようになるものです。その意味では、脳の人に叱ってもらえることがないというのは、地獄行きを決定づけられる「猛烈な不幸」だと捉えてかまいません。ただ、人が実際にそちらを選択することについて、やはりそれが悪いということではないのでした。その「猛烈な不幸」でも構わないから、とにかく自分は対等に扱ってもらう、という選択も、人によってはありえるわけですから。
とはいえ、現実的に考えるかぎり、おそらくそうして「脳の人」に叱られ、教わるということなしには、誰も脳の人にはなれません。不可能と言ってよいでしょう。もしそれが突破できる例外がいたら、その人にはたまたまそれだけ強烈な才能があったということになります。ですがあくまで、才能の持ち主は例外的な話でしょう。
心身に浴びること、ただし……
「現代と恋愛」でいうなら、ときに、「彼氏とは絶対にセックスしなくてはいけませんか」「セックスなしでは男女はわかりあえませんか」と訊かれることがあります。僕はそれについて、「わかりあうことは出来るけれど、それをセックスなしでするというのは、セックスありでやるよりも、はるかに難しい」と答えています。例え話でいうと、「盤面なしでも将棋はできる、7六歩とか8四歩とか口頭で言い合うだけで。でもそれは盤面ありで将棋をするよりはるかに難しい。ただ、達人ならできるので、不可能とは言わない、できるよ」と。もちろん男女でなければセックスはしないので、理屈の上ではセックスと人間の相互理解は関係ないように思えるのですが、それは性機能まで含んだその人間の全体性を理解することにはなりません。サッカー選手同士がサッカーをせずに――必死で意識的にそれを禁じて――分かり合おうとするようなものです。それはそれで悪いことではありませんが、せっかくサッカー選手であることの値打ちがありません。不自然にもなります。また、中にはどうしても自身の性機能が受け止めきれず、去勢して物理的にその機能を除去する人もいます。セックスという現象そのものを消去してしまえば確かに解決はするわけです。(それが残酷な自己否定や人間否定にならないと信じられる限りにおいては)
脳は人についての全体的情報を処理します。そのためには、全体的情報を「心身に浴びる」ように体験しなくてはいけません。履歴書をどれだけ細かに読んでも誰かのことを「わかる」「知る」ということにはならない。一日に送りあうメールの"数"を義務付けたって同じです。だから男女の恋仲ではセックスが、互いにその「心身を浴びせあう」ということに大きな役割を担っており、ひいては、そのことなしにお互いを伝え合う・わかりあうのはより難しくなるということなのでした。
あなたは脳の人と出会い、その人の声や肉体や言葉や表情を、心身に浴びるべきです。そうすることのみで、あなたの脳は彼のことを「知る」ことができ(脳の知識)、またひいては人間のことや、男性のことも知ることができます。脳はますます鍛えられてもいく。ただし……
ただし、一般にコミュニケートというと第一に会話ですが、今申し上げたとおり、会話というのは余計に難しいのです。それは会話に使う「言語」というものが、あまりに自意識と馴染みがよすぎるからです。本当には、自意識に言語が受け止められたからといって、それにこだわることもなければ、それによって脳機能を停止させることもない、そして言葉を語りだすという振る舞い自体を、本当は脳の先行機能からスタートさせることもできるのですが……とにかく、言語会話で関係を自意識化させないのは、実はもっとも難しいことなのでした。あなたは「言葉の力」などいうマヤカシを信じ込んではなりません。「脳の力」によって、言葉がつぎつぎに紡ぎ足されていく、文脈が織り成されていく、ということのほうを体験されるべきです。言葉にこだわって脳が焼けつきを起こしてカーッとなるのは「言葉の力」ではありません。
彼があなたの頭を撫でながら、「この、バカめ、まったく、めちゃくちゃになってしまえ」と言い、矢継ぎ早に、「本当に心配してんだ、お前は賢いんだから、ちゃんと幸せになれよ、おれを困らせるな」と言うとき、あなたはそのいちいちにこだわったり、受け答えをしたり、してはいけません。彼は何を言おうが「彼」だ、と、変わらず脳が受け止め続けている状態を体験してください。実際彼が何語で何を言おうが彼は彼なのですし、シュビドゥバ、ヤーヤーヤ、と"スキャット"を入れたって、彼はやはり彼です。この、脳から見て当たり前すぎることを見失わない体験をしてください。
色んな営みに挑戦する、ただし……
人と、茶飲み話ばかりしているわけにはいかないでしょうから、恋愛も含めて、やはり何かしらの「営み」に、能動的に参加していくしか、実際にはありません。ただし……
ただし、営みの全てには「形式」があります。この「形式」というのが、恐ろしく厄介です。あなたを殺すものであり、あなたの全ての時間を水泡の無駄に帰す、その犯人がこれです。
あなたは形式に注意してください。注意しすぎるということはありません。形式に囚われてはいけない、ということですが、どれだけそう注意していたって、あなたは生涯その形式というのから一ミリもはみ出すことができません。かなり高い可能性で、そうなってしまう、と、前もって、こう挑発的に申し上げておいて、差し支えのないものです。あなたがどれだけの時間と労力をかけて、必死になったつもりでも、とどのつまりが、その形式をなぞっただけに過ぎなかったとしたら、それは全て時間の無駄です。全ての労力は水泡に帰したのでした。これがもっとも恐ろしいことなのですが、事実としては、これが「最も多いパターン」でもあります。
先ほど、言語会話は余計に難しいと申し上げました。言語と自意識はあまりに馴染みがよく、言語を通しつつ関係の自意識化を避けるのはとても難しいことになると。それは言語が典型的に「形式」を伴うものだからです。言語には、主語があり述語があり、意味があり、脈絡があります。一人称や二人称があり、形容詞や副詞があり、その内容は賞賛であったり批判であったり、また言葉の記号そのもの……とにかく「形式」のかたまりです。言語の「形式」が自意識の第一機能だと言えるほどです。この「形式」は、自意識が認識することで捉えるものなので、この言語を十分に操りながら、なお脳の機能を先行させつづけるというのは、特別に難しいことになります。
そして形式といえば、言語だけでなく、全ての営みに、必ずついてまわるのです。それはセックスにさえついてまわります。こうして見つめあうだとか、こうして愛撫するものだとか、こうして感じている声を上げるだとか。演技というのとは違うのですが、形式をなぞるだけということが、実際できます。「セックスのときは男らしく」「女らしく」「ロマンチックに」といって、その形式をなぞるだけというようなことが。そうして形式をなぞっているだけのときは、自意識だけが活発に頑張っている状態で、お互いに「形式完璧だったね」ということしか残らない。それは脳の営みではありません。
だから形式というのはあなたの最大の敵なのですが、かといって、形式がまるでなしに営みというのは成立しません。ステップのひとつもなしにダンスは踊れないというようにです。それでたとえばダンスというのも、単にステップや動作の形式をなぞるだけの"運動"によくなります。それは脳の営みではない。そして偏った努力の方法として、「なぞるのが難しい形式」ばかり追求して、より難しい形式をなぞれるようになりました……としていっても、その挑戦は自意識の営みを強化しているだけであり、脳の営みへの挑戦にはなっていないのでした。
ここまでお話ししているように、脳の営みというのは捉えづらいものです。捉えづらいも何も自意識でそれを認識するよりも「先行」しているというのだから、話になりません。それで、自意識がすでに膨れ上がり、どうしてもその脳の営みということが得られない人は、耐え切れずにその「形式なぞり」のほうへ逃げます。自分の掛けた時間や労力が無駄になってしまうとは信じたくないものですから、難しい形式をなぞれるようになったという、実績を自分に残したがります。
でもそれは本末転倒なので、あなたはそのことから逃げてはいけません。形式は必要なものですが、必要なだけで、それ自体は何でもありません。ワインを飲むにはグラスが要りますし、高級ワインには高級なグラスを当てるべきですが、それで高級グラスコレクターになっても、それではワインの滋味を一滴でも飲んだことにはなりません。グラスはワインの収まる形式でしかありませんので、満たす葡萄酒が貧相ならブーイングです。
まず圧倒されるべき、ただし……
あなたは「脳の人」に出会い、まず"圧倒"されるべきです。鍛えてあるものと鍛えていないものがぶつかれば、一方が一方を"圧倒"するに決まっています。あなたがその"圧倒"されるということを経験したことがないとしたら、あなたはまだ必要な誰かに出会ったことが一度もないと言われるべきです。
あなたは"圧倒"されるべきですし、そういう人に出会い、そういう人に、自ら喰らいついていくべきです。ただし……
ただし、そのような人に出会えたからといって、その人をただ「尊敬する」であるとか、そういうことに落ち着いてはいけません。その人はみんなに尊敬されているので、今さらあなたが尊敬したからといってどうということもありません。問題はずっと、「あなたの脳がどうか」ということのみでした。
"圧倒"されるというのは、気軽な体験ではありません。それは道場で、素人が有段者と乱取りしたような状態になります。有段者の側が少々の手加減をしたとしても、ちゃんと乱取りされてしまえば、もうボロボロにされます。あなたは"圧倒"されながら、胸は苦しいし、息も苦しい、でも眼を離すこともできず、落ち着いて一息入れられるような隙間がどこにもありません。でも自分がいつか有段者になるなら、その乱取りの中で、なんとか一撃でも放り込めるように、必死で喰らいついていくしかないのでした。あなたが伸びるのは、感想を持って帰宅してからではありません。乱取りの真っ最中でのみあなたは伸びるのです。
実際そうして"圧倒"されている中、「尊敬する」なんてノンキな余裕はありません。尊敬しているのは必ず休憩中です。あなたはその苦しい"圧倒"されるという中に、できるだけ長く粘りつづけ、なんなら延長戦まで申し込むようであってください。
疲れ果てた、さらに先の体験をする、ただし……
自意識の営みは基本的に「しんどい」と申し上げてきました。このことは逆転して利用することもできます。人はしんどさにしんどさを重ねていくと、ついにギブアップ、ハングアップする、ということが出てきます。「自意識がしんどい」のですから、そのギブアップの果てに、ついに「自意識をやめる」ということが出現する、そういうことはよくあるものです。自意識がついに完全についてこられないところまで引っ張りまわす。これは、このようにしてくれる人がいれば、その人との出会いは、あなたにとって最上の出会いでした。
「脳の人」に初めて出会い、あなたが喰らいついてゆけば、あなたはヘトヘトになります。なぜなら、まず彼の脳にあなたの脳はついていくことができません。ついていけないので、なんとか、後追いの自意識でカバーしてゆこうとするのですが、自意識でそれをするのはしんどいのでした。テニスになっていないテニスのほうが疲れるということをイメージしてください。飛んでくる球に「ついていけない」ので、落ちて転がっていったものを、いちいち拾ってから打ち返す。それを何十分も休憩なしに続けていけばどれだけしんどいか。自意識でカバーするというのは、そうして落ちた球が止まってから拾い上げている状態です。本人はそれを落ち着いて拾っているつもりでも、向こうが矢継ぎ早にガンガン打ち込んでくるなら、それが本当の落ち着きなどではないことを強制的に思い知らされます。
そうして「球拾い」をするのが、しんどすぎる、もう無理……となったとき、人はしばしば本能的に、脳でそれに「ついていく」ということを始めます。自意識を放棄して、当人は「もう無理」と、投げ出したつもりでいるのですが、そうしてヤケクソになってみたら、逆に「ついていく」ということが、実は自分の機能として出来るということに気づくのです。もちろん引き続き圧倒はされているのですが、それでも一応「テニスになっている」という程度にはできて、あなたは自分で驚きます。また、そこからなら、それは脳のはたらきですから、メキメキ上達もしてゆくのでした。
そうして人は脳の営みを手に入れることがありますし、逆に言えば、それぐらいのことはしないと、脳の営みは一切始まらないという、そういうものでもあります。
自意識の営みはしんどいものです。ですからいっそ、しんどすぎて、それが疲れ果てるところ、それでも容赦なく営みを要求されるという体験を、あなたはしてください。ただし……
ただし、講義の中でも申し上げたとおり、自意識が「もうしんどい」となったとき、ただ「麻痺型」のほうへ行くことも少なからずあります。それはもう、この期に及んでも、脳の機能が回復しない、立ち上がってこないという状態です。テニスで言えば、もう球拾いもしないし、打ち返しもしない、テニスコートに起こっていることを全て無視する、「何も聞こえない」という状態。
どうしようもなく、この「麻痺型」になるしかない、もう回復しない、という方も、いらっしゃるのは確かです。ですが、あなたがそうでない場合は、自分が「麻痺型」に逃避するその習慣は、決して自分に許してはいけません。あなたがボロボロのヘトヘトのヘタクソになることについては、何の問題でもありませんし、あなた以外の誰も気にしていません。あなたが自分を無能に憎らしく思えたとしたら、それはあなたの自意識の責任であり、非難もあるていど事実ですが、それはあなたの脳のことではありません。"幸い"、あなたの脳はあなたが作ったものではないので、あなたのように無能で役立たずなものではありません。あなたにはあなたの脳を非難する資格は無いのでした。
「名作」と呼ばれる作品に触れる、ただし……
陶酔式の文化物は、作品というより、ただあなたの自意識をこすりあげにきて、あなたに陶酔を与えようとします。それは駄作というより、初めからそのように企図して作られたものですから、あまり作品論に取り込んで扱うべきではありません。
それら陶酔式の文化物でない、もう十分な時間に濾過されて、なお「名作」と呼ばれている作品に、あなたは多めに触れてゆくべきです。たとえば、複数の映画をレンタルするなら、その中の一枚にそっと取り込むようにして。
名作、名曲、名演といったものの、実は多くが、今のあなたにとって、しばしば「退屈」と感じられるに違いありません。それはその名作があなたの自意識をこすりあげにこないからです。あなたは「陶酔」が得られないので、それを退屈に感じます。
クラシック音楽の、名演らしい、と、すでに評価が確定しているものがあったとして、あなたはそれを聴いて、正直「退屈」と感じた。そういうとき、あなたにはひとつのチャンスが与えられています。決して、それを「名演なのだ」と思い込もうとしてはいけません。ただ、それが「名演」であると、脳に「見える」ことがあるのです。だからこそそれは名演だと言われている。あなたは、あなたに"その時"が来るのを待ちましょう。名画や文学作品といったものもそうです。退屈に感じられるそれを、退屈なら退屈なまま、自分の感じていることを、決して捻じ曲げてはいけません。それでは「名作だ」という認識が習慣になってしまうだけで、いつかきっと来るはずの、「見える」ということを失ってしまいますから。
チャンスというのは、あなたの脳にはまだそれが「見えない」ということです。作品はあなたに「体験」を与えるのですが、まだそれが「見えない」ので、体験は与えられません。それで退屈だと感じている。その退屈なCDの一枚の中に、どうやらあなたの、まだ未知の体験が眠っているのです。どうすれば「見える」ようになるのか、それは定かではないので、ひたすら思い込みを持つことなく、ときに虚心にそれを聴くしかありません。
その退屈な「名作」の中にある「体験」が、どのような形で、いつかあなたに与えられるか、それは一概には言えません。ずっと与えられないかもしれませんし、まったく意外なところから与えられたり、あるいは十数年の年月が経ってから、ようやく与えられることもあります。あるいは与えられたと思っていたものが、何十年も経ってから、まったくそうではなかったと、本当の体験を新しくすることもある。
よくある例で言えば、たとえばあなたは、その名演のクラシックを「退屈だ」と聴いたとします。それ以上のことではなかったのですが、あるときクラシック音楽のコンサートに連れて行かれると、その演奏を聴いていて、何か無性に「腹が立ってきた」と感じます。何に腹が立つのかわかりませんが。
そしてあなたは、「あのCDには、ひょっとして、そういう腹の立つところがなかったのでは?」と気がつきます。そして押入れをごそごそやって、そのCDを取り出してくる。そして聴いてみると、「あ」となります。何が違うとはいえなくても、「まるで違う」と。同じ曲目なのに「まるで違う」と聴き取られます。「腹が立った」という体験が重なっていますので、その聴き取りは過去よりも鮮やかに聴こえます。そしてふと、「こうして退屈なものが、ひたすら奏でられているのに、腹が立たない……そうか、これは"美しい"んだ」と気づきます。それに気づいたとき、あなたはきっと、静かながら、愕然としていると思います。
たとえばそのようにして「体験」が得られることがあります。そのような体験を得たとき、すでに、それが一般に名演であるかどうかなどは、どうでもよいことになっています。何しろ自分の「体験」のことです。それが世間一般にどうであるとかは、自分には関係のないことですから。
ただし……
ただしあなたは、それから「よし名作を漁ろう」として、「名作に詳しい人」「名作マニア」「名作評論家」になってはいけません。詳しいとかマニアとか評論家とかいうのは、パケット情報を多く持つ人であり、そのことに「体験」を持つ人ではありません。名作を消化するリストを作り、その鑑賞のいちいちにメモを取っていく、というようなことは、きっとしないほうが、最終的にあなたを助けます。
余談ですが、僕はスコッチが好きでよく飲み、百以上もある銘柄のうち、飲んだことのないものはもうほとんどなく、ボトルを見ただけでおよそすべての見当はつくのですが、それでも、自分の飲んだスコッチをメモや写真に取っていくということを、僕はしません。それは僕はバーテンダーではないからです。パケット情報を多く持つ必要はありません。メモなどしなくても、どうせ忘れられない一滴は、舌から脳へ刻まれてずっと残っています。いろんなスコッチのラベルが思い出になって……ちょっとお話しできないようなたくさんのことにつながっています。
遅さを叩きのめされる、ただし……
いわゆる「いい人」は、おそらく、あなたが何かを話しだすのを、ゆっくり待ってくれるでしょう。あなたが動き出すのを、ゆっくりでいいよ、と、待って構えてくれると思います。それは「やさしい人」としてあなたの気持ちを癒すかもしれませんが、実はそのことを続けていると、いつまで経ってもあなたの脳は営みを始めません。それは彼があなたが自意識から「エッチラオッチラ」動き出すのを、善良にも待ってくれるからです。
脳と自意識の決定的な差は、その時間軸上の位置です。自意識の「認識」をゼロの点と取れば、脳は「現在」を捉えていて、その位置は−1の点です。あなたが自意識のゼロ点から出発するかぎり、あなたの全ては全てのことに「間に合っていない」ことになります。
あなた自身が「脳の人」となり、脳の営みを回復するためには、思い切って、そこのところの「遅さ」を、叩きつぶされるほうがよいのです。それも"執拗"に。それは、脳が機能しはじめるまで、とんでもないストレスになるかもしれませんが。
自意識の全ては「遅い」のでした。あなたはあなた自身でも、自分の全てについて、まず「遅い」と、叩き潰してやるのがよい。ただし……
ただし、遅いといっても、それは"スロー"ではなく"ディレイ"です。「出遅れている」という遅さです。「遅い」と言われて、あなたは気が急いたり「焦ったり」する必要はありません。焦るというのは特に間違いです。焦るというのは出遅れているから焦るのです。先に出たものが焦ることはありません。あなたは"ファースト"を心がけるのではなく"フライング"を心がけてください。自意識がトリガーを引くまえに動きだしてしまってよいのです。
脳からみれば、自意識の側はディレイであり、自意識からの振る舞いは、脳からは「今かよ!」と呆れて見えています。
自意識は脳に比べて遅く、出遅れるのですが、そのぶん安全です。確認してから出るので安全性は確保されるわけです。あなたはこのことをよくよく見て、「危険が無いなら出遅れている」「安全・安心なら出遅れている」とも確認してください。
わけのわからないことをする、ただし……
あなたはきっと、わけのわからないようなことを、言う人ではありませんし、する人でもありません。ためしに僕がわけのわからないことを言いましょう。「ペペロンチーノは水道水、アメリカは時間が行く、サルサ!」。このとおり、わけがわかりません。
ではあなたに、わけのわからないことを言ってもらいたいと思います。……と、僕はこのことを、実際によくお願いするのですが、この「わけのわからないことを言う」というのを、理屈ではわかっても、実際にできない人が多いです。ものすごく多い。
なぜこんなことができないわけがあるでしょうか。「エネルギ〜ッシュ、ストンピ〜ング、ホールド! イナフ!」。こんなこと世界で一番簡単なはずです。
が、実際には出来ないのです。「そりゃ出来るよ」「出来るに決まっている」と、思い込んでいるだけで。ひとりでこっそりなら呟くことができたとしても、目の前で「わけのわからないことを言って」と言われると、本当に人は、このことができません。
ちなみに、僕がこのことを知ったのも、最近で、「ふつう出来ないことなんだ」と知らされて、僕は心底びっくりしたのですが……僕は生まれてこの方こんなことに難しさを覚えたことがないものですから。僕はやれと言われたら無限にできます。本来、当たり前のことですが。
改めて申し上げると、この「わけのわからないことを言う」ということには、実は一種のコツがあります。自意識の媒介する前に言葉を選んでしまうことです。とにかく言ってしまうことです。別に何の言葉でもよいでしょう? いちいち立ち止まらず、いちいち、結果や査定を求めたりせず……
自意識が媒介すると、自意識は脈絡の機能にこだわりますので、わけのわからないことが言えなくなります。少しコツをお教えしますと、どうしてもできないという人は、両手をぐるぐる、無意味にデタラメに振り回してみてください。振り回しながらトライしてみる。そうすると、少し糸口が掴めるかもしれない。
「わけがわからない」というのは、案外重要なことです。「わけがわかってしまう」というのは、すでに自意識がその認識を終えたということですから。「わけがわからない」というのは、その認識が終わってしまう前に、ということになります。
このことが、意外に出来ない人が多いというのは、認識が終わってしまう前に動くという体験があまりに無さ過ぎるからだと思います。
あなたはわけのわからないことを言うべきですし、するべきです。自意識がその「わけがわかってしまう」を完了させてしまう前に。そのことを続けていたら、わけのわからない人になるか……というと、そうでもありません。なぜなら、あなたの自意識が監督しなくても、脳の側が成長して、脳なりに全体的な脈絡を持った何かを言うようになりますし、何かをするようになるからです。実際に、自分の脳が勝手にそれをするのを、自意識が遅れて眺め、自意識が「へえ」と"感心"することさえ、少なからずあるのです。
あなたはそのようにして、脳の側にはたらかせ、脳を鍛えていくべきですが、ただし……
ただし、「わけがわからない」といって、残念ながらしばしば見かける、単に奇抜なだけの人、単に珍妙なだけの人になってしまってはいけません。そういうのは、「よし奇抜だ」「これは珍しいもののはずだ」と、十分認識してから動いています。ですから脳のはたらきが現れているわけではないのです。
そして、「わけがわからない」といって、それは「脳にも見えていない」わけではありません。脳には見えているが、自意識が認識する前に動いているというだけです。もし、自意識にも脳にも把握されていない、ひたすらのメチャクチャが良いというのであれば、言い方は気が引けますが、認知症の支離滅裂でもよいのではないでしょうか。
「わけのわからないこと」というのは、感情的に破裂したものでもなければ、ポカーンと呆けたものでもありません。それが何であるかは脳にはハッキリ見えているものです。それは焦りや気ぜわしさのない穏やかな遊びの営みです。あなたに"余裕がなく"、"落ち着いておらず"、"気持ちが激しい"というときは、あなたは脳の営みなどしていないのだと、覚えておいてください。
許しあわれる空間を持つ、ただし……
脳の営みは、自意識の営みに比べて、「わけがわからない」という時点から振る舞いを起こし、そのぶん、危険を伴うものです。ですからそれは、商用の会議室などでは出現してよい振る舞いではありません。商用の場ではそのようなことは一般に許されていません。
ですから、言い換えてみれば、あなたにはそのような脳の営みが(またそのトライアルが)、許しあわれる場が必要です。その中で、わけのわからないだけでなく、チョンボや未熟も出るでしょうから、それはきっちり叱られるものの、全体として許しあわれているという空間が要るのです。あなたはその中で脳を鍛えることができますし、脳の営みを持つということ自体を体験できます。ただし……
ただし、許しあわれる空間というのは、その中で自意識でノロノロやっていることを、「まあいいじゃないか」「頑張ってるもの」と、大目に見る空間ということではありません。それは許すところがずれています。許しあわれるというのは、「ノロマめ」と言いあっても、そのことにいちいち目くじらを立てない、傷ついたりしない、という空間です。「許しあわれて」いるのであれば、ノロマめ、と言うことぐらい許されねば、それは許しあっているとはとても言えません。
あなたが、脳の人を見つけ、出会うだけでなく、もしその「集団」を見つけ、その中に飛び込んでは、"圧倒"されつつ「ノロマめ」と言われ、それでも喰らいついて汗を流してゆけるのならば、それはあなたにとって最大の幸福です。あなたの一生を作るかけがえのない土台の場所になるでしょう。
利得を諦めること、ただし……
人を傷つけたくないという心がけは立派です。立派で、善良に思えます。が、どうでしょう。もし心無い一言をこぼしてしまい、傷つけてしまったのなら、その瞬間、死ぬ気で謝れば済むことではないですか? 確かに、言ってしまったら取り返しのつかないことがあります。が、そんな一言は、生涯にそう多く出現しないものです。言ってしまった瞬間ごとに、本気で頭を下げて、心の底から詫びる、そうすることでなお「取り返しがつかない」などということは、そうしょっちゅうあるでしょうか。
「人を傷つけたくない」は、多くの場合、単に「失敗したくない」というだけのことを、自分に美化しているだけであったりします。そのことの是非はどうでもよいですが、いちいちについて、「これは人を傷つけるのではないだろうか」「悪く思われないだろうか」「空気を読んでいないのではないだろうか」と、認識して確かめているようでは、いつまでたっても脳の営みなどできません。安全・安心であれば脳の営みではないということ、危険が無いなら脳の営みではないというのはこのことです。
もちろん、まだ鍛えられていない脳では、自意識の確認チェックをしないまま素通りさせると、とんでもないチョンボもすることがあります。ですが、それは脳の鍛錬が未熟で、やってしまった失敗なので、その途端、頭をがっつり下げてお詫びすればよいだけです。自分の未熟で失敗したものは自分で詫びるしかありません。そしてその失敗があるからといって、脳を引っ込めては元の木阿弥ですし、そんなことを繰り返していたら、いつまでたってもその鍛錬が得られません。またそうして誠心誠意で詫びれば事が済むように、根本的に許しあわれている空間が必要だということなのでした。許しあわれていない空間に飛び込むのは、十分な鍛錬を経てからになります。
「人を傷つけたくない」うんぬんも含めて。あなたは"利得を捨てる"という決断をしなくてはなりません。悪く思われたくないであるとか、恥を掻きたくないであるとか。それらは全て、自分にとっての利得を勘案しているものです。この利得にこだわるならば、振る舞いの全ては自意識で入念に確認させてからスタートさせるべきです。商用の見積書を何度もチェックしてから発送することのように。
あなたは利得を捨てねばなりません。これは後になって、あなたも知られることだと思いますが、利得が本当に必要ないのであれば、自意識の出番はないのです。自意識というのは必ず、何かしらの「都合」のためにでしゃばるものに過ぎませんから。ただし……
ただし、"利得を捨てる"というのは、これ自体が、価値観的に美しいもののように聞こえてしまいます。ですが、これを美しいと感じ、喜んでしまっているようでは、このこと自体が利得になってしまい、本末転倒です。"利得を捨てる"というのはつまり、「自分はクソでかまわない」ということです。「かまわない」ということは、構わない、ということですから、クソであることにこだわるというわけでもない。クソであってもなくても、かまわない、ということです。かまっていられない、と言えばよいでしょうか。
脳と自意識の、時間軸上の位置を見れば、そういった「利得」や「クソ」も、「置き去りにする」という感覚が正しいと言えます。置き去りにするというのは、まったく「構わずにいく」ということになりますね。
イメージを持たない、ただし……
「イメージ」という語についてお話しします。「イメージ」というのは、自意識の機能によって起こるものです。脳の機能ではありません。このことは最も誤解されています。何度でも申し上げておこうと思います。"イメージというのは自意識の機能"です。
たとえばこう申し上げてみましょう。「パリ」「ロンドン」「ローマ」「ニューヨーク」「上海」、こう言ってみたとき、あなたはそのそれぞれに、すでに豊富な「イメージ」を持っているのではありませんか。たとえそこに行ったことがなかったとしても。
行ったことはなくても、映像で見たことがあるから……と、あなたは言われるかもしれない。では、あなたが生まれ育った町であるとか、今暮らしている町であるとかはどうでしょうか。きっとそこには「イメージ」というのが無いと思います。それは、あなたが「体験」した町ですので、いちいち自意識のイメージで捉えなおす必要が無いのです。あなたは友人の母親について「イメージ」を持っているかもしれません。これまでに聞かされた話などから。けれどもあなたは、自分の母親について「イメージ」なんて持っていません。
イメージというのは自意識の機能なのです。たとえば「イチゴ」という果物の名前を置きます。するとあなたはそれを、写真かイラストのような、イチゴの"映像"に、あなたの中で変換されたかもしれませんが、その映像がまさに「イメージ」です。逆にあなたがイチゴを食べているときに、「イチゴのイメージを持ってください」と言いましょう。それはあなたにとって「よくわからない」話になるはずです。脳がイチゴを「体験」しているとき、イチゴのイメージは要らないし、要らないどころか描くことさえやりにくいからです。
少し専門的な話をするとこうです。作品は「体験」を与えると申し上げました。たとえば、三島由紀夫の「金閣寺」を読んだとき、想像力のうちに描かれる「金閣寺」というものを、読み手は体験します。こうして想像力に描かれるものは、イメージでもイマジネーションでもなく、イマジネールと言います。イマジネールは想像力であり「体験」なのですが、「イメージ」のほうはただの「空想」です。もっと正確に言えば、自意識に習慣的に染み付いたイメージというものを、むしろ歪形化してゆくときに体験されるのがイマジネールであり、想像力は自意識に染み付いた習慣を洗い直し、本来の精神機構に「体験」を取り戻させる作用を持ちます。幼児にクレパスを渡すと、たいへん芸術的な絵を描くことがよく知られていますね。それは、彼らがまだ、自意識に習慣的なイメージを染み付かせていないので、イマジネールが直接描き出されて、そのまま芸術的な描画となります。ところがある程度の年齢になると、自意識に染み付いた「イメージ」を描画するようになるので、絵は自意識に「わかりやすく」はなるのですが、芸術性を失うのでした。これはごく単純に言えば、幼児は脳でしか絵が描けないのに対し、思春期以降は自意識の「イメージ」を描くようになるということです。
もちろんこの専門的な話を、あなたが隅々まで理解する必要はありません。あなたはただ、イメージは空想であり「自意識の産物」「自意識の習慣の産物」でしかないということだけ、知ってゆかれればよいと思います。イチゴといわれてその映像を思い浮かべる、そのイメージ映像は、実は映像化した「記号」に過ぎず、脳の体験としての滋養を持っていません。一時期、右脳とか左脳とか言われるブームがあり、その中で「イメージ」が礼賛される時期がありました。けれども「イメージ」は陳腐なものであり、人間の脳に雄大な作用など持っていませんから、あなたはこのことを正しく理解されてください。イメージは持っていないほうがむしろよいものです。ただの習慣の思い込みなのですから……あなたは目にする芸能人の全てに「イメージ」を持っていると思いますが、その誰とも親しくありません。我々がメディアや舞台を通して「脳」で出会えるとしたら、芸能人ではなくその彼らが持つ「芸」のほうです。僕だって先のバディ・リッチと親しかったわけではありません。彼の「芸」に出会えたというだけです。
あなたはイメージを持ってはいけません。ましてそれを礼賛するように駆使するなんてもってのほかです。ただし……
ただし、イメージを持つなと言っても、すでに持っているというのが前提です。持っているどころか、もう全てのことについて張り付いてはびこり、深々と根を下ろしているといってよいでしょう。まずはそうして自分がイメージにすっかり支配されていることに気づくことが必要です。
「現代と恋愛」という話をしてきましたが、「恋愛」といって、そこにイメージを持っていない人などいるでしょうか。じゃあセックスといって、あるいは結婚といって、そこにイメージを持たない人はいるでしょうか。そんな人は皆無だと言うべきです。恋愛というとヒューといい、セックスというとキャーといい、結婚というとオメデトウという、イメージのコンクリートに空高くまで固められて、われわれは暮らしているのが実情です。あなたはその恋愛のイメージを追う限り、そこによろこびなど得ることはありません。よろこびがある、ような気がしているのは、さんざんそういうイメージを埋め込まれてきたからに過ぎないのでした。あなたはそのイメージを追わず、なるべくイメージから逃れた、直接の「体験」をしてください。
現代は陶酔の時代だ、ただし……
最後に、奇妙なことを申し上げておきます。こう申し上げることが、正しいのかどうか、僕にも自信がありません。
現代は自意識の時代です。これは間違いありません。自意識にはよろこびがないのですから、陶酔式など代替にアテにするのは結局のところ間違いです。ただし……
ただし、現代、つまり、われわれが実際その中に生きているのであれば、それから眼を背けるのも、どこか間違っているのでは、と感じます。現代、われわれの空間が事実としてそうなのであれば、ひょっとしたらわれわれは、その陶酔と、陶酔式というものも、まとめて引き受けていかねばならないかもしれません。つまり、陶酔と、その陶酔式まで、食い散らかしてやると。
そのことまで含めて、自分は誰かと共に、よろこびに到達してみせる、と、そう受けて立たなければ、卑怯なのではないかと、僕はどこかで感じている気がします。まだ僕自身、よくわからないところもあるのですが。
利得を捨てるというならば、よろこびまで一緒に捨てればいい。脳が全体的情報のみを受け取るというのならば、その陶酔式というのも、よろこびと区別して捉えることはない。そこまでゆかねばきっと、本当のことにはならないのでしょう。これは講義の趣旨からは逸脱しますので、講義の中ではあえて排除してお話しせずにきました。が、もう最後なので、一応お話ししておきます。このお話しからの先はもう、僕は講義をする側の人間ではありません。講義をする側される側とか、僕とあなたとかいう分化の捉え方も、最終的には自意識の、クソクラエなのだろうなと思っています。まさにもう「講義」ではなくなりますね。僕なりの何かの意地でお話ししたこの部分は、講義としては忘れてしまってください。今役に立つことではこれはない。
お疲れ様でした。これで全ての講義が終了です。
***
あとがき、ということにいたしましょう。
僕は、柄ではないですが、正直に言うと、人が幸福でいるところを見るのが好きです。友人とであれ、恋人とであれ、よろこびの時間を人が過ごされているとき、はっとなり、思わず道を譲りたく感じます。そして出来る限りの時間、それが何者にも侵されることのないようにと、自然に願われてなりません。僕はこうした話の一々についても、ただ僕が僕の趣味のようなものを、淡々と話しているのであって、ここに芝居がかった美的共感をムズムズ起こされる方がいらっしゃらないことを願っています。僕はそうして騒がしくなるのが好きではありません。好きではないだけでなく、それは間違っていると感じています。「こんな当たり前のことにガタガタ言うなババア」と言えばよいでしょうか。普段はそういう言い方をしています。言い方がひどいでしょうか。わかりやすいかと思ってですが、本当には、言い方などどうでもよいことです。
僕は自分の声が人の脳に届くことは当然うれしく感じますが、自意識に反応を起こされることには、うれしさを覚えません。もちろん、悪いことだとは思わないですし、なんであれ感激のメールをいただけるようなことがあると、それはありがたく、心あるものとして当然受け取っています。なんであれ、僕が語ろうとするのを、心を傾けて聞き遂げようとしてくれる方がいらっしゃったわけですから、それはありがたいことです。
ですが、そこには同時に、一々の焦りもあるのでした。言葉が自意識に回って焼けつきを起こすのは、感動とよろこびではないのに、と。その人の生きていく力の鍛え上げにはなってゆかないのに、と。僕が気を回すのはいかにも大きなお世話なのですが、品性の程度はともかく、そういう焦りを覚えます。「そんなひ弱なプルプル感動なんかしてないで、それよりダチに酒でもおごってこい、ありえないぐらい笑わせてこい」とでも言えばよいでしょうか。やはり言い方がひどいという気がしますが……それでもやはり言い方なんか問題ではない。僕は人が幸福でいるのを見るのが好きです。それも、今回お話しした言い方で言うと、脳と脳とで、よろこびと鍛えあいをやっている、そうして強くなってゆき、輝くようになっていっている、というところを、見るのが好きです。うらやましくて胸が痛くなるほど好きです。その「好き」というのは、僕自身がお礼や感謝や感激を言われることのうれしさを、正直なところ上回るのです。ですから僕はお礼の声をいただきたいのでは本当はない。幸福です、か、幸福にゆけます、というあたりの、"言い方がひどくても"けっこうですので、そちらの声が聞こえたほうが、本当はうれしい。「おっ、こいつ脳がイキはじめてやがるぜ」という、その断片を伺って、つい吹き出してしまうものがある、と、そういうもののほうが好きで、また、そういうもののほうが、正しいのだと感じています。
そして、その正しいもののほうを、現代という時代が、人々から奪ってしまうのだとすれば、それはとても見過ごせないという、気分には、さしあたりなります。現代が人々からそれを奪うというのはシリアスでしょうか? 僕はこの続きに「ふざけんなくだらん」というひどい言い方を続けます。「なんだその、芝居っ気たっぷりの、シリアス大好きです、みたいなものは」と。「テメーの脳が壊死してるというだけのことを、拡大して陶酔オナニーの材料にするのかスゲエなお前」と。だって実際にお話ししたのは、「テメーの脳はポンコツ」という一点張りなのです。ただ、そのようにお話ししては、役に立つかといえば立たないので、精密に順序だててお話ししました。何も見失うようなところや、陶酔に巻き込まれるようなところは無いはずです。自前の脳をポンコツ呼ばわりされて陶酔したらさすがにおかしいです。何か勝手に別のストーリーを作ってやがんな、と……さすがに言い方のひどさが続くので、そろそろ控えましょう。
夏は夜、と言います。まったくだ、と思います。その夏の夜に、美しい少女が、まだ慣れない恋人と幸福そうに歩いている。そこにあるかわいらしい笑顔を見ると、何も問題はない、全てのことは上手くいっている、という気がしてきます。僕自身、瞬間的に、そう思ってしまいます。そう信じたがっているのでしょう。単純に、少女の愛らしさに浮かされてしまっているだけかもしれません。ですが――だからこそ――今回のこの話は徹底して申し上げる必要がありました。"まったく信じがたい"ことに、そうして幸福に愛らしく見える少女が、そのままではまずいほうへ引き込まれていくということなのです。いや正確には、もう十分に引き込まれはじめています。そのことはまったく見つけづらい。思春期というのは、誰が考えたって、陶酔とよろこびが混在していることこそが、むしろ健全な状態です。それは誰も手出しできない、青春の特権です。ですがそれは同時に、ある切なさを受け止め、今後の準備をしていく期間でもありました。つまり、本来は、僕が講義などしなくても、その時期に誰もが知っていくことだった。「自意識じゃだめなんだ」「これは陶酔でしかないんだ」と、誰もが体験で知っていったのです。今、この準備期間が機能しておらず、準備期間を経たはずが、出てきたら、むしろ自意識と陶酔のほうに偏りが増している、という状態になっている。「あんなに愛らしかった少女が」というような感想を、僕は決して持ちたくありません。それで、時代が変質して抜け落ちてしまったところを、僕が一方的にお話しするとして、このような形式を採りました。思春期を越えて大人になるはずが、より子供っぽくなって出てきてどうしますか。営みを通じて、脳が強くなり自意識が縮小されるはずが、自意識が膨張して脳が弱くなる、と、そうして出てきてしまってどうしますか。
美しい少女も、少女ですから、ときにはよろこびで涙を流し、ときには自意識の焼けつきで涙を流すでしょう。それが、やがて美しい女になり、自意識の焼けつきで流す涙のほうは浄化されてしまった、ますます美しい涙ばかり流す女になった、と、そうなったとき、誰に何の異存があるでしょうか。その誰も異存の無い中、彼女がなんでもなく呼吸だけしている、その呼吸だけでもう恋あいです。そういった厳然たる当然のところから、現代は遠く離れすぎてきました。
では、そんなわけで、長い話に付き合っていただき、ありがとうございました。脳と脳とで……というのは、楽しいことです。よろこび、と、言わなくても、勝手によろこびがあります。この講義集を、何度か繰り返して読み込む、あるいはいくつかの箇所をメモにピックアップするにしても、それにしてもまた繰り返して通して読んでみるということは、あなたにとって損にはなりません。そのようになるだけ、実は慎重に書き進めて参りました。あなたはどうせ忘れます。読んだことを忘れるのは人間の常です。忘れてよいのですが、それは脳とよろこびの実際が手に入ってからにしてください。僕自身きっと、自分でしたこの「講義」を、また自分のために読み返すときが来るのだろうな、それもけっこう必死でな、と、予感しています。
それではごきげんよう。
2013年7月19日
九折 空也
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