射精前後の友情
男が褒めてもらえるのは射精の後だけで、励ましてもらえるのは射精に向かうときだけだ。なんとしてもこのコに射精する、したいんだ、と必死に腰を振る、集中する、そのときだけ、女の子はガンバレと純粋な眼差しを向けてくれる。まったく純粋な応援。男の子だもんね、いいよ、がんばれ、いっちゃえ! と。このときだけはまったく人は純粋なもので、僕のことを好きでない女性、中には割と嫌いだという女性でさえ、この瞬間だけはガンバレと応援してくれる。翌日会うと、死ねと言われるのだけれど。射精の直後はよくガンバったねと女神のようにやさしく身体を撫でてくれるが、一息ついて落ち着いたら(つまり五秒ほど経てば)、はいもう終わりよ、終わったことにいつまでもうっとりしないの、しゃんとしなさい、と叱られる。つまりその純粋な、男の認めてもらえる時間はすごく短いのだけれど、あの時間にあるあれは、もう一種の友情だと思う。真の緊急事態には赤の他人も連帯するように、射精前後は一種の緊急事態なのだ。友情が生まれる。
ここに恋が生まれるとしたら、女性から見た場合、元々好いてもいて尊敬もしていた男が、「このコに射精したいんだ」と必死に腰を振っている、そのことに感激してのことだと思う。わたしなんかに必死になってくれるんだ、ということを疑いなく体験するのであるから。
そういうときは、射精の後、さあしゃんとしないと叱られるぜと男が思ったところ、彼女の両手が伸びてきてやさしく頬を包んでくれる。何も言わないが、わたしこのときのことをずーっと忘れないわ、と言ってくれている。男はびっくりする。それで、あ、そうか、彼女は僕を好いてくれているんだ、と気づく。なんてことだろう、と脳がしびれて、そのまま彼女の上に突っ伏す。
そういう恋も友情も生まれないわということであれば、たぶん射精前後の男が悪い。セクシャルな遊びとオーガズムに互いが合意しただけで、本来最低限のマナーである、「このコに射精したいんだ」という腰のぶつけ方をしていない。自分の中だけで気持ちよがっているのである。
そういう男は、根本的に女が嫌いだ。スケベなくせに嫌いなのだ。矛盾しているようだが、実際にはありがちな話である。それが多数派であってさえおかしくないとも言える。女が嫌いで、人間が嫌い、そもそも人間も女も存在として信じていない。彼らは女体とまったく同一の感触を持ったダッチワイフの安価開発を心待ちにしている。
女性にも同じタイプがあって、男が嫌いで人間も嫌い、根本的に信用しておらず、逆に自信の回復のためセックスを頻繁に求めるということがある。彼女も自分の中で気持ちよくなりたいだけなので、スタミナのある高性能のペニスを直接求める。
彼らのセックスは互いの利害としてきれいに一致している。誰に迷惑をかけるものでもない。ほとんど、体調や気分やあとくされの問題レベルで、そのセックスは決定している。
もしそのようなセックスはいやだと、あるいは、そのようなセックス「だけ」ではいやだと思われる場合、女性はある方法で目の前の男がどのようなものかを試し、確認する方法がある。
男がイクためのセックスをすることだ。自分が気持ちよくなるのはむしろ抑えて。あなたに利益のないセックスだから、あなたは燃えない。
けれども、射精前後、必死になる彼に向けて、がんばれ、という純粋な気持ちがあなたに起こることがある。少し可笑しいような、しかし真剣なところもある応援の気持ち。いいよ、来て、という気持ちになる。
射精後、あなたに利益のないセックスだったのに、「今の、何かよかった」「何か好きだった」と気持ちが明るくなったとき、彼はあなたに向けて、「このコに射精したいんだ」と必死に腰を振ったのである。彼は最低限のマナーを持っている。あなたに気持ちを向けるということを、ごく限定的な時間だが、したし、それがあるということを知っている。
彼はさしあたり、無意味や虚しさの苦しみには、あなたを落とさない。
友情は無意味ではないからだ。
[射精前後の友情/了]