カネを稼がない男はやめろ
ラーメン屋の店主はカネを稼いでいる。彼にとって、ラーメン作りは重要な要素だが、それ自体は原動力ではない。カネを稼ぐ、という原動力があり、あくまでその重要な武器としてラーメン作りがあるだけである。カネ稼ぎはそれ自体が原動力になる。もし原動力なしにラーメン作りだけに没頭したら、それはラーメン「作家」である。どんな業界の職人でも、それは「作家さん」と呼ばれる。
カネを稼がない男、稼ぐ気がない男とは、あまり付き合わないほうがいい。彼はカネを稼ぐという原動力がよくわかっていないため、付き合うとやがてあなたまで原動力がわからなくなってしまう。
元来、仕事と稼ぎは別のものだ。仕事といえば、子供が皿洗いを手伝うのだって仕事である。カネ稼ぎは仕事とはまったく別で、何ならギャンブルで稼いでもいいのだし(稼げるのなら)、仕事を一切しないでも稼いでいるのならカネ稼ぎとしては成功している。一方、カネが稼げないからといって、「この仕事はどうでもいいや」で済むかというと、そうではない。それではただの拝金主義である。
たとえば公立学校の先生は手抜きをしても給料は変わらないし、医者なんかは患者の具合を悪くしたほうがカネを稼げる場合がある。部活動に入れば下っ端は色々仕事があるが、一銭にもならなくても仕事は仕事として当たり前にやらねばならない。稼ぎを離れて仕事をどこまでやれるかというのはもう、当人の器量次第でしかない。人は自分の仕事については他人に教えられるが、カネ稼ぎについては教えられない。教えてしまったら自分の稼ぐ分がなくなるからだ。それはいわば、麻雀の打ち方は教えるけれど、自分の手牌を見せるわけではない、ということだ。手牌を見せてしまっては自分が点数を稼げなくなる。手牌を見せるとしたら、その手がアガれないからだ。
あなた自身、仕事がしんどいと感じられたとき、自分はカネを稼いでいるんだ、と捉えなおすのがよい。自分の労働がカネになるから稼げているのだ。仕事は「しなくてはいけない」だが、カネ稼ぎは別にしなくてもいい。自分が困窮するだけだから。ただ、あなたは困窮はゴメンだと思っているので、「明日もカネ稼ぎに行こう」と、夜眠るのである。そのほうが原動力に直結して機能が正常化する。仕事にやりがいのない場合は、何も職場だけが仕事の場ではない。よくライフ・ワークというが、ライフ・ワークはカネ稼ぎでなくてもいい。かといって、もちろんただの趣味というのではつまらないけれど。
カネを稼がない男、その気のない男、カネ稼ぎのわかっていない男は、「だって仕事をしなきゃ生きていけないだろ」と思っている。仕事と稼ぎを混同しているので、力が正しい方向へ働かない。本来、今の稼ぎがまずくても、「今これ以上稼ぐ方法が見つからない、くそう」という捉え方でないといけない。その捉え方なら彼の潜在意識のようなアンテナは、どうしたら稼げるかという方向へ伸びていく。それでアイディアや発明が生まれる。カネ稼ぎを考えず仕事熱心な者は、仕事自体が好きなため、仕事を効率化することをしない。最終的に仕事ゼロで稼ぎが最大になることを目指していないからだ。これで彼は非効率に仕事を増やしてしまい、当人も周りもいらいらさせることになる。
カネを稼ぐというのは一種の本能だ。もちろん厳密には動物的本能ではないが、この社会の仕組みの中で芽生えるゲーム的本能である。ラーメン屋の店主をつぶさに観察してみよう。彼は、「つい、カネを稼ぐほうへ発想を起こしてしまう」という本能を活かして生きている。物事について、「あ、これは稼げるねえ」ということを発見してしまう。むしろ彼は、カネ稼ぎに発想がいってしまう中で、仕事がおろそかにならないよう自戒しているのだ。つまり、いくら稼げたとしても、やはり旨いラーメンを出し続けたい、と。それが自分の「仕事」だからと。
あなたが彼に出来ることは、彼を朝送り出すとき、「稼いでらっしゃい」「たくさん稼いできてね」と送り出すこと。そうしたら彼はいくらか見失わずに済む。この送り出しの妙味が隠し味としてわからないなら、その男はやめておこう。
[カネを稼がない男はやめろ/了]