家出少女と寝た吉祥寺の匂いは仕事上がりの丸の内に似ている
僕はいつも、世間や立場を攻撃している。
商社マンだったとき、商社マンというだけで食いついてくる女がいたので、うんざりし、以降は「貿易の仕事です」としか言わなくなった。
学歴を聞かれても、ほとんどの場合、一応大学は行きました、としか言わない。
ひどいときは、高卒ですと言い張っていた時期もあったし、職業を聞かれてめんどうくさいので、殺し屋をしていた、なんてひどいウソを通していたこともある。
そういうウソをまことしやかに語りぬくのは、得意だったので、まあまあウケた。
それで、「全部ウソに決まってるだろ」というと、「まあ、よくも、そんなに大規模なウソをつけるものね」と感心される。
その感心、あるいは一種の感動は、いんちきじゃない。何の立場も肩書きもなく、僕が作り出して得たものだ。
僕はそれなりに鼻を高くしてよい。
それに比べると、名刺を出して、そのタイトル(肩書きのこと)でエッヘンと威張るのは、僕にはまるでいんちきに見える。
いや、仕事上では偉い。偉いというか、役職や権限が上位だ。
その上位・下位の設定は、組織の運営に必要なもので、尊重しているが、それが女の子のおっぱいを触りたいというときに、何の役割を果たすのかがわからない。
課長より部長に揉まれたほうが感じるのか?
感じるだろうな。
と、自分で主張した論を自分でひっくり返してしまったが、つまり今回はそういう話である。
女性はぜひ、
「課長にペロペロされるより、部長にペロペロされるほうが感じるわ」
「どうして?」
「権力が違うからよ。わたし、権力にペロペロされると、もうダメになっちゃうの」
というふうであってほしい。
上位のオスにペロペロされると、わたし正しいって感じるの、だからすごくイッちゃうのよ、というのがいい。
これは別に、冗談や悪趣味で言っているのではない。
権力の構成下、虐げられるほうにペロペロされるほうがいいわ、というほうが悪趣味だ。
矛盾しているようだが、矛盾しているのである。
つまり、普段から僕は、世間や立場を攻撃しているけれど、その「立場」から味わうものを、知らないわけじゃないよ、という話をしている。
具体的に言うと、合コンした女性が、この人商社マンなんだわ、わたし商社マンと結婚できるかも、と勝手に妄想して、あとは軽く押し倒すだけでまるで奴隷のように勝手に性に尽くしてくれた、そういうセックスはとてもいいぞ、というようなことだ。
見方によってはもちろん最低なのだが、その最低の中でするセックスが気持ちよくないとは限らない。
名刺に何が書いてあっても、僕はそれを畢竟いんちきだと思っているし、その立場や役職などで生まれた恋は、所詮フェイクだ。
ただし、そのフェイクは、ずいぶん熱くて、とてもよい味がするのである。
いやあ、そう思うと、いろいろ懐かしいことも思い出されてくる。
僕はあのとき、丸の内に勤めていて、帰りに銀座に寄るのが好きだった。一人ででも、友人と連れ立ってでも。
女の子の店にいくのではなく、強引にフレンチに入ったり、とにかくスコッチのあるバーに飛び込んだりしていた。
フランスから空輸されたアスパラガスは、本当においしくて、フォアグラなんか霞んで記憶から消えてしまうほどだった。(その後、パッションフルーツのデセールでアスパラガスも霞んだ)
アホなことをしているので、その波動が伝わるのだろう、「おっここはまたフレンチか」と店の前でムムムと唸っていると、通りすがり、極めて紳士というふうのナイスミドルが、
「ここは本当においしいですよ。正統派より、イタリアン寄りですけれど、素材も腕も確かです」
とアドバイスをして去って行った。
もうとっくに、腹は一杯だが、ただナイスなアドバイスをもらったという理由だけで、ソレ喰え! と飛び込む。
陽気なものだから、他の客の目を盗んで、シェフもじゃんじゃんサービスを入れてくれた。
そんなこんなで、朝起きたら、なぜか吉祥寺のラブホテルにいて、なんだこりゃ、と思ったことがある。
その話は次の段に続く。
それはともかくとして、就労に興味のない人ほど、丸の内に勤めて、帰りに銀座に寄ったらいいと思う。僕はこれを強く勧めたい。
面接の志望動機としては言えないけれど、丸の内に勤めた理由、それは帰りに銀座に寄りたいからだ、というのはまったく正当だ。
これが、ただ夜の銀座に行くのではだめで、丸の内の仕事上がりでないとだめなのだ。
日本のGNPの中にいる気がしないから楽しくないのだ。
GNPの中を、銀座まで歩いていく、それってどんな匂いがする? そのために受験も就職もがんばろうというのは、とてもいい話だと思う。
***
キコキコなる蛇口をひねってお湯で顔を洗っていると、もちろん思い出したのだが、僕が吉祥寺の信じられないぐらい古びたお城ふうのラブホテルで目覚めたのは、新宿で家出少女を引っ掛けたからだった。ただ、それなら新宿のままでよさそうなものが、なぜ吉祥寺だったのかについては、今になっても本当に思い出せない。ただそのラブホテルが、清潔だし、ちゃんと運営されているのだけれど、あまりの古さから地縛霊がいる気がしてならない、それで逆に好きになった、ということだけをはっきり覚えている。
ちなみに、家出少女というと今はリアリティがないが、当時はプチ家出みたいなものも含めて、ちょっとした流行があったのだ。
流行があったとしても、少女が家出しているからには、当人はふざけているわけでなく、深刻な理由があってのことだったけれども。
僕は家出少女について、咎めはしなかったし、救おうともしなかった。当たり前だ。そんなことをやりだしたらきっと僕は気持ちが悪い。
何をしたかというと、もう寒い日だったので、暖かいところでメシを喰わせ、温かい飲み物を飲ませ、カラオケが落ち着くというのでカラオケに連れて行き、でも身体に触れられるほうがどうせ落ち着くふうだったので、切り上げてホテルに連れて行った。
セックスはしたが、それはまるでどうでもいいようなセックスだったので、僕は逆に安心してそれが出来た。たぶん、どういう人とどういうセックスをしたかを、彼女はまったく覚えていない。彼女の心は明らかにそれどころではなかったし、じゃあ何のセックスかというと、ただセックスしている間は、彼女は少し苦しさを忘れられるというのと、一応眠れるようになる、ということでセックスした。僕自身は、家出少女をラブホテルに連れて行って、セックスしなかったら余計に気持ち悪い、という常識的な形を整えたところもあったと思う。
いくら心は凍り付いていても、年齢的に食べ盛りで、上カルビを食べている口元はまったく幸せそうだったので、それはとてもよかった。
割とぐっすり眠っている少女を軽くゆすると、目覚めた彼女はタメ口になっていて、「近くにきて」と寝ぼけて甘えた。今何時? と、彼女がぶっきらぼうに聞く調子は、ああ彼女の家族が平和なうちは、家の中で彼女はこうだったのだと感じられて、切なかった。
まだ幼い少女だったから、彼女に何が必要だったかといえば、愛とかカウンセリングとかではなく、ただ安定的で安心できる暮らしだけだったと思う。
意識が明瞭になっていくにつれて、いつものピリピリして怯えた、俯きがちの彼女に戻って、でもタメ口のままだった。できるだけさりげなく、一旦うちに帰ってみたら、と言ってみると、彼女は先にそう決めていたのか、ンーそうする、とブラウスのボタンを留めながら言った。
よかった、というのでもなく、さてその決心が果たして駅前までさえ続くかどうか、というような不安定さだ。
このコはやはり、意志が空白のまま、風俗嬢になって暮らすのかな、と思うと少し哀しかったが、他人がどうこうできるものでもない。
彼女の心はひたすら家族に向いていた。
きっと本当は、お父さんもお母さんも大好きなコだったのだろう。
その結果、いわゆる不遇な身になって生きていくことになったとして、彼女が不幸なのかどうなのかは、僕には決め付けられないと思う。
僕のほうが不幸かもしれない。特に理由はないが、何かをもって幸福だの不幸だのは決め付けられないものだ。
僕は、意志が空白の彼女に向けて、ひたすら、世界は健全だ、いろいろやることがある、という話をして、駅前で別れた。それはまあ、いつか彼女が、自分の意志に目覚めたときのために。ちょっと遠すぎて現実的ではないけれど、ひょっとしたら、「そうか、わたしも働いて一人で生きていってもいいんだ」と突然目覚めることがあるかもしれない。
そういうことのためには、ごくつまらない、どこにでもいるような人間のサンプルのほうが、役に立つ……と勝手に僕は思っているのだが、まあ何のことやら、特に上等なことは何もなかった。
(なんで吉祥寺だったんだ? という謎は永遠についてまわる)
彼女と別れて駅前を歩いて、買い食いのパンを齧って人ごみを掻い潜る感じでゆく中、僕はとても気分がよかった。
鼻先にずっと、都会の匂い、立場の風が吹いていた。
他人のことは関係ない、なんてことはない。関係はある。「立場」だからこそ。
おれはおれの立場で出来るだけ振る舞ったね、昨日も、今日も、たぶん明日もな、と改めて思って勇気が湧く。
そのときの匂いは、丸の内の仕事あがりによく似ていた。
まったく同じなんだな、とうれしく思った。
いわば僕は、家出少女について、一宿一飯の世話と、眠るためのセックスをし、<<忘れた>>、つまり一仕事を終えてきたわけだった。
仕事あがりに歩くからこそ、その味がする。
「立場」はいいね。社会の歯車というけれど、その歯車には間違いなく一種の快感がある。
自分が少し回転を上げれば、全体の回転を後押しするのだから。
イランのVIP専用列車にアイテムを緊急ハンドリングする雑用丁稚のような立場があり、その立場のまま僕は家出少女の立場に触れた。
なにが、他人だから関係ないなんてことがあるものか。
こんなにいい匂いがするのに、他人だからどうたらとか、あってたまるものか。
もっと「立場」を、炸裂させようぜ、というのは、さすがに普段の主張を裏切りすぎか……
でも、僕の中では何も混乱しておらず、どちらも同じだ、ひたすらいい匂いがするならそれだけでいい。
本当に攻撃しているのは、立場ではなくて、立場へのこだわりだ。
一宿一飯を世話されて抱かれるしかない家出少女という立場は、美しかったのに、それがわかってもらえないとなると、僕は攻撃をやめられないのだ。
あのコがいまごろ、優秀な社会人として歩いていたら、やっぱりいいな。
[家出少女と寝た吉祥寺の匂いは仕事上がりの丸の内に似ている/了]