恋あい適性診断
こういう話はわかりやすくてきらいだ。
正直、いらいらしてしまう。
なぜこんな話を入れようと思ってしまったのだろう?
わからないが、必要だ、というのはわかる。こういう当たり前の話が、ぜひとも必要だ。
僕はどうも、その「必要だ」という動機で話をするのが、どうしてもきらいらしい。
ああ、なぜだろう、まったくいらいらする。
そんなもん、人それぞれでいいじゃないか……
と、言いたくなるが、わかっている、それではあまりに人として冷血すぎる。
物事には、適性というものがあるのだ。
それで、適性について知ったって、自分の適性が修正されるかといえば、されない。
修正されないんだから、知ったってしょうがない、とも思うが、知らないのはまずいというか、それではかわいそうだ、という気がする。
適性が無いまま努力したら、努力がフイになり、あまりにも報われないからだ。
当人は混乱し、失望し、やがて絶望してしまう。
つまり苦しむわけだが、僕は人が苦しむのを見るのが好きじゃないのだ。
適性が無くても、求めるなら、がんばったらいい。
それはもう、がんばる、という適性を持っているのだから、がんばったらいい。
それが、なんだ、適性の有無も知らず、がんばっているのか何なのか……それで結果、苦しむだけが残る、というようなのは、わけがわからない。
人が生きるのに、努力があるべきなのか、無いべきなのか、わからないけれど、努力が報われなかったとしても、その努力は不公正に行われてはならない。
不公正な努力とは、つまりインチキカルトで修行するようなもので、報われないどころか、せっかくの瑞々しい人格が汚損してしまう。
そういうのは見たくないのだ。
おばちゃんの言う、「女っていうのはね」「男っていうのはね」というやつは、インチキカルトではないという保証が、どこにあるだろう?
ある指揮者の先生が、「僕はハッキリ言います」と話してくれたことがある。そういう世界ですから、と。
「あなたは指揮者の才能はないから、ピアノの道に進みなさい」と、指揮法を特修している人に言うのだ。
これは、公正だ。
夢はコナゴナになるかもしれないが、努力は公正に営まれていくし、それでもやりたいんですと言い張るなら、先生もそれ以上は言わないだろう。
僕が総合商社にいたとき、商社志望の就職活動生に会った。ちゃんとした大学を卒業予定の女の子だった。
外国と色々な仕事をするのに憧れて、という話は、個人的にはわかるが、そのコはちょっと頭が弱そうで、話にならなかった。
商社はモノを作らない。モノを作るのはメーカーだが、それを厄介なところにまで売りに行くのはしんどいので、そのしんどいところを進んで引き受けに行くのが商社である。
アフリカに支部を作って自動車を売る商流を作るなんて、リスクも手間もめんどくさい、風土病とか宗教とか怖い、というところを、「おれはタフだからおれがやってやる」というのが商社の立場だ。
そんなところに、休日はイラストを書くのが好きです、みたいな女の子が来るものじゃない。
場所によっては本当に、AK−47をぶら下げたゲリラに賄賂でコネクションを作ったりするんだぞ。
二年かけて見積もり、作った発電プラントの入札を、入札日、襲撃されてはいけないから、六台の自動車を用意して、同時に発進して別々のルートで届けるのだ。
実際、先日、テロで犠牲になった方々の報道があったばかりだ。
それで、お悔やみを、というのは普通の仕事と同じだが、そうではない、「じゃあ次は誰が行く?」という仕事になる。いくらテロの被害に遭ったとしても、仕事なのだからその後をほったらかしにしておくわけにはいかない。
同じことがないように、どう対応策を講じるのか。政府と折衝して正規軍を警備に当ててもらうのか、あるいは現地の強力な警備会社に依頼するのか、へたすればPMCに傭兵を頼むしかないのかもしれない。
プラントが襲撃されて、社員が殺されて、その損害の保険求償をしなければならないから、その損害額の算定と折衝を自分がやる。他の誰もやってくれるわけないし、何よりそれが自分の仕事だ。
いいねえ、そういう仕事、したいねえ、という人なら、商社志望になって自然だ。
頑丈で、タフで、現実的で、恐ろしいプレイヤーでなくてはならない。ハエのたかる馬乳酒を勧められて「飲めません」というのじゃ話にならないだろう。
男女雇用機会均等法、そんなの無視して、素直に会社四季報でも見て、正社員の男女比を調べたらいい。社員が1000人中、女性は10人もいなかったりする。
雇均法のせいで、そういう業界でも男女差なく募集をかけるしかないのだが、それで女性にエントリーシートを書かせるというのは、不公正な努力をさせることだ。
これから就職活動だという人は、学歴は役に立たないとか、十五分の面接なんかで人の何がわかるんだとか、そういう議論を、決してしてはならない。
なぜか。それは、上場企業の社員は誰もそんな議論をしていないからだ。ズレているのである。議論の内容がいくら正しくても無意味だ。
面接官の第一の仕事は、そのズレている人をバッサバッサ切り捨てていくことだ。
つまり、外国と色々な仕事をするのに憧れて、とか、イラストが特技ですとか、それは素敵なことだけれど、ズレているからさようなら、ということだ。
それはあなたが悪いのではないし、企業側が悪いのでもない。ただ互いにズレているだけで、誰も悪くない。
エントリーシートには、気持ちを込めるのではなくて、第一に、わたしタフなんです、というのが滲み出るようなことを書こう。
ヘコたれるなんていう人の神経はまったくわかりませんわ、という力強さで。
「大切なこと」なんて書いたらだめだ、「自分の地力でどこまでやれるか? そのためには、大切なことなんてドンドン捨てるべきなんですよ」という方向へ書くんだ。
前置きが長くなったけれど、それぐらい、わかりやすい話へのいらいらを除去するのに時間が掛かった。
物事には適性がある。素養、と言ってもいい。
恋あいにも、それはあって、実はその適性や素養が、根本的で、致命的な作用をおよぼしている。
短いスカートを穿いたら全部オッケーという人もあれば、それはあまり意味が無い、という人もいる。
男性で言えば、「うるせえ、ヤラせろ」の一言で済む人もいるけれど、そうでない人もいる。
ヤラせろの一言で済ませられる場合の素養としては、たぶん、彼は抜群に頭が良くなくてはいけない。
頭の悪い男が「うるせえ、ヤラせろ」では、本当にバカのみで悲しいからだ。
東大にいたけれと、つまんないから芸大に転校した、今はシンクタンクにいる、それより早くヤラせろよ、というのがいい。
「女でタバコを吸うのはなあ」という男は多いけれど、その女が抜群のジャズピアノを弾けるなら話は別だ。
咥え煙草で、すっごくきれいな声で、ほっそりと、きれいに話すのなら、話は別だ。
以下、恋あいの適性・素養について、実はこういうことが根底だよね、というのを列挙する。
列挙されても、そんなに役には立たないけれど、自己診断したら、あなたの努力の公正化には、ちょっと役に立つかもしれない。
***
一、仕事熱心であること
「務め」と言ってもいいけれど、女性は男性のペニスに触れるのが仕事だ。男はあなたの手のひらごしに、あなたの「仕事」に触れると言っていい。そこに、純粋無垢な仕事熱心さがなかったとしたら、それはやはりうれしくならないのである。このことを覚えておこう、<<仕事熱心の手のひらが恋あいを充実させる>>のである。
僕はある女性からの教示によって、こう話すしかないのだけれど、男というのは生物的に、女に射精するのが仕事なのだ。
「だから、女に射精していない人って、仕事してないってオーラが出てて、だめなの、好きになれないの」
そう彼女は口を尖らせて言い、うわぁこれは金言だぞ、と僕はシビれてしまったので、僕はこのことに違反せずに、話をしていくしかない。
仕事熱心というのは、バリバリ稼ぎます、というのとは違う。仕事と稼ぎは別物だと、これは以前に話した。
あなたがウェイトレスとホステスを兼業していたとする。
ウェイトレスをしている時間、今日はお客さんがさっぱり来ないね、というとき、
仕事熱心なら、
・そうだ、今日こそあの窓の高いところのヨゴレを拭こう
と発想する。
仕事熱心でなかったら、この発想は起こらず「ヒマね」「まあ気楽に過ごせるからいっか」という具合になる。
仕事熱心というより、稼ぎのほうに熱心だったら、
・この時間に、営業メールを済ませてしまおう
と発想する。営業メールとは、ホステスさんがお客さんに定期的に送るメールだ。
ほか、仕事熱心な人は、たとえば店長に、
「あの植木、左側のほうがよくないですか?」
と、改善点を見つけ、積極的にアクションする。
それによってパートタイムの時給が上がるわけではない。
じゃあなぜそんなことを、というと、これはもう、仕事熱心だから、としか言えない。
「だって仕事なんだもん、お客さんが気分よく、おいしく食事するところでしょ?」
と。
仕事熱心という適性、素養。こういう少女は、いわずもがな、ベッドの上でも自然と仕事熱心なのである。こうしたらどうかしら、とか、あっこうしたら喜んでくれる、これ好きなんだ、とか、言われなくてもいろいろやりはじめる。そういうのは、粘膜に直接伝わる。
仕事熱心というのは、何だろう、まあ仕事熱心としか言えないのだけれど、仕事をすることに単純に燃えるわけだ。だから彼女の手のひらは、控えめな手つきであっても、さあ仕事するぞという熱意に燃えて、ペニスに触れてくるのである。
この適性・素養が、まったく無い人がいる。セックスが嫌いかというと、別にそうじゃない。手抜きしているかというと、それも違う。
だから、適性であり、素養なのだ。それがあるか無いかの話のみである。
恋あいの適性診断、「あっ自分にはこの適性は無いなー」というときは、自分のライバルにはその適性があることを前提にしておこう。
いい男を捕まえたいわよね、せっかくの人生だから、というとき、あなたはあなたのような人と競っているのではない、空き時間に窓ガラスをにこにこ拭いてしまうような仕事熱心の少女と競っているのだ。その手のひらで触れられるほうが……というのは、女性にだってわかるはず。
この適性はまずい、自分も身につけよう、と、巻きなおすのもいい。ただ、それで適性が身につくのかどうかは、僕にはわからない。適性や素養は、それの持ち主と付き合って、自分に伝染させる、というほうがよいかもしれない。
間違ってあなたが彼女に仕事冷淡を伝染させないように。あなたの側がおずおずと、傍にいさせてもらい、彼女の素養を吸い取るのだ。
二、男が好きであること
男の人って、かわいいよね」。これを呪文にして、強引に唱えるといい。そのほうが運が上がる。運が上がるどころか、決定的に変わってくる。
これと対を為すのが、「好きな人になら」という呪文。これはつまり、「男って基本的に、いまいちというか、正直どうでもいいんだけれど、好きな人になら別、わたし幸せでがんばっちゃう」ということだ。これは運を下げる。下げるも何も、この呪文の上で上手くいった話を僕はいまだに一件も聞いたことがない。
男女を入れ替えてみたらわかる。
「女の子って、とにかくかわいいよなあ、ちくしょう、卑怯だ」
「俺、女って生きもの自体は、どうかと思うんだけれどね、正直あんまり好きじゃない、でも好きになったコなら別だよ、付き合いたいし、守っていきたいって思うよ」
後者のほうはまずい臭いがプンプンしている。
「じゃあ、何、おれさまが認められるような、まともな女はいないかなって、いつも見繕っているわけ?」
幸せになるといいね、なんて言われたら、もう男は青褪めて死ぬしかない。
恋あいの適性、素養として、<<まず異性そのものが好き>>でなくてはならない。
この適性が無いと、それはもう、たいへんな苦労をすることになる。なにしろ、そもそも土台が嫌いなものと恋あいしようというのだ。
「好きな人になら」というのは、たとえば、この国は戦場だけど、難民区は平和区に指定されているから安全よ、安心して、というような話だ。ヘイブン制度とでも言うべきか。
でも、それはそもそも、戦場になっているから平和区が必要になっているわけで、別に上手い方法じゃない。安心してと言われても、それなら初めから戦場が無いほうが安心できる。
誰でも、自己の性別を持っていて、異性との関わりあいがあることを知っている。でも、その性別・異性との関わりあい自体が、それぞれ好きか嫌いかというのは、決まっていない。
根本的なことを言えば、人間は動物として、異性に無条件に惹かれるものだ。当たり前だ、そうでなかったら、人間に思春期はなかったろうし、そもそも種としてここまで繁栄しなかっただろう。
男は女が無条件で好きで、女は男が無条件に好きだ。そういう生理を宿されて作られている。
だからこそややこしくなる。単に嫌いというなら、たとえば女性は毛虫が嫌い、嫌いだけどただそれだけで、それが人生の問題になったりしない。異性についてややこしくなるのは、それが文化的に嫌いなのに、生理的には好きで、反発と吸引が矛盾してこじれるからだ。
異性がそもそも好きというのはもう、「食事は基本的においしい」という話と同じだ。食事がイコールおいしいのであって、だから生育が可能なのである。母乳グルメな赤ん坊が生まれたらたぶんその子は衰弱死してしまうだろう。そうではなく、たとえばワンちゃんにドッグフードをあげれば、基本的にガツガツ喰う、うれしそうだ、だからこちらも見ていてうれしくなる。それが健全というか、天然自然のままの喜びの姿だからだ。
異性や恋あいについても、そうであればよいものの、そうでない場合がある。そうでない場合というのは、非常に多い。「男ってさあ」と、そもそも男性自体が嫌い、その男性に言い寄られるのが嫌い、という女性は少なくないのだ。女性には身体的な不利とリスクがあるからあるていどしょうがないとして、男性にもそういう人は少なくないものだ。「女ってさあ」と、言うことと口調はやはり同じだ。
その口調、「男ってさあ」というセリフは、背後に「許せない」という響きを持っている。多いケースとしては、たとえばご両親が愛し合っていなくて、お母さんが泣いていた、それを子供心に繰り返し見てショックだった、というようなケース。そのお父さんを原型に、男は女を傷つけ、泣かせる、ひどい存在、と認定されてしまうのだ。じっさいショックだったのだからしょうがない。お母さんが泣くのを慰めて、「わたしがお母さんを守る」と決意する女の子も少なくない。男を敵視する始まりだ。
そうして父親に対して覚えた「許せない」が、ずっとその後も残っている。もちろん父親だけでなく、兄弟であったり、同級生や交際相手、レイプ犯、ということもある。
許せない、という、根源的な憎悪があり、それでも異性には生理的に惹かれるから、それを整合させようとして、「好きな人になら」という文脈になる。間違っていない。
間違っていないが、「男の人って、かわいいよね」という適性と素養の側から比べたら、圧倒的な不利はまぬがれない。
恋あいの適性診断。自分にこの適性がなかったとして、さあどうすればいい、という話は残念ながら無い。だいたい、男が嫌いなのだから、うっすら僕のことも嫌いなはずで、たぶん僕があれこれ言っても受け取ってくれない。
何かありうるとしたら、自分で認めることだと思う。自分は男が嫌いだということと、そのぶん不利だ、ということを。不利というのは、不利なだけで、何もできないわけじゃないからね。
三、幸福であること
静かに、幸福そうである少女を、想像してみよう。あなたはその少女が好きであるはず。逆に、どこかムンとしていて、不幸そうである少女を、想像してみよう。あなたはその少女が好きになれないはずだ。
困ったことに、恋あいというのは、恋あいしたら幸せになるというものではなく、幸せだから恋あいになってしまう、というものだ。
幸せそうな、若く、筋肉がわくわく遊びたがる、でも皮膚は風を受け止めてうっとりしている、そういう幸せの中にある二人がいる。
「なによ」
「なんだよ」
「うふふ、へんね」
「うん、へんだ、笑うなよ」
これだけでもう恋あいになる。
恋あいの適性の第三は、<<幸福であること>>。
じゃあ幸福になるためにはどうすれば……という話は、初めから不毛がミエミエなので、しない。
できることはやはり、自己診断だと思う。
自分は今、幸福かどうか。うっとり、うふふ、わくわく、静かに、しているかどうか。
幸福だわ。
それウソついていないか?
まあそうね。
と、自己診断する。
僕が僕自身に言いつけている口調で言えば、「不幸そうなオスにどこのメスが寄ってくるわけがあるんだよ」ということで、やはりこれも自己診断だ。
人は、自分が不幸であるときほど、恋あいにその救いというか、活路を見出したがる。恋あいに、ウヒョヒョとなるのではなく、こだわり、深刻になる。必死になり、取り乱したりもする。
根本的に幸福なやつがストーカーになったりするわけがないものな。
幸せを見失うと、恋あいに救いを求めはじめるけれど、すでに恋あいには適性を失っているので、報われない。これは悪いサイクルだ。それでますます、不幸な感じが増していく。
気をつけなくてはいけないのは、そうして悪いサイクルにぐいぐい入り込んでいく男女が、いっそお似合いとして出会いがちであることだ。そうすると、典型的に依存関係になる。
まあ、そうした依存も恋あいのうちで、「自分がどう見失っていくか」という強烈な教訓を後に遺してくれたりもするのだけれど……
暗い調子になるのはやめよう。
男は所詮、幸せそうな女の子が、「隣、いいですか?」とにこにこ接近してきてくれたら、嬉しいのだ。どうしようもなく嬉しい。それだけで活きのいい奴は恋に落ちる。
ただし、それは幸せそうな女の子に限る、と。不幸そうな女がジメッと接近してきたら、嬉しさより不安と違和感が勝つ。
あなた自身、思い出してみよう、あなたが苦手とする男性の全ては、何かしら不幸そうだったはずだ。
四、感動が深いこと
(正直に言うとこのあたりで「やっぱりこういうわかりやすい話はイヤだ、と苦しんだのだが強引に続けよう)
誰だって、映画を観たり、本を読んだり、音楽を聴いたりする。みんなそれが「好き」だが、それによって、魂の底から打ち震わされることのある人と、そういうことは特にない、「面白かったなあ」で収まる人とがいる。適性、素養の違い。
感動する、という、精神の機構が、浅造りの人と、深造りの人があるようである。そして、機構が浅造りの人は、対象が恋あいになったからといって、急に深く感動したりしない。
これはあなたが男性を見るときにも役立つ視点だ。この人は、何かに触れて、魂の底から打ち震わされることがあるかしら? と思って眺めてみると、「いや、それはないだろうな」というのはなぜかわかる。知らず識らず、人は人を見抜いているものだ。
それが良いとか悪いとかの話ではないけれど、あなたがもし、あなたの恋人について、「わたしの存在に感動して震えるような夜の姿を見せてくれるなら、全てと向き合って付き合いたいの」と望むようなところがあるなら、その感動の機構が浅造りの人とお付き合いするのは不適切になる。感動するということ自体が、実は適性や素養のものだということなのだけれど、その適性が不可欠だと感じる人もあれば、むしろ要らない、という人もいる。そういう深い次元でのお付き合いって、わかるけれど、実はあんまり欲しくない、しんどい、という人もいるのだ。
自分の適性や素養がどちらであるか、「わたしってそういえば、何かに深く感動したことあったっけ?」と、自分に問い詰めてみるのはきっと有為だ。
適性としてどちらが有利かというと、感動が深いほうが、やはり有利ではある。感動の深いところから「あなたのことが」という声が出るとき、やはりその声には説得力がある。恋あいというのはそもそも、人の存在、人との関わりあい、人と触れ合うこと、向き合うこと、その人の人となりに、感動するところから始まる。
「別にあなたに感動するわけじゃないが、魅力的だと思うし、付き合おうか」
これでは何か馬鹿にされている気がするに違いない。
僕自身は、人は誰しも、深く感動する心の機構を持っているものだと信じたいが、もしそれが真実あったとしても、伸びやかに機能しているとは限らない。人それぞれ事情があって、機構があっても長く埋没させている人だってあるわけだ。
「ときめきが欲しいのよ」と、愚痴のように言う女性があったとする。その言い分はもっともに聞こえるのだけれど、彼女自身の適性が、「そういえば何にも深く感動したことないや」というのであれば、そちらに向かっての努力は不公正なものになる。何事にも感動しませんという人にときめきを覚えさせるのは無理だ。恋あいとはイコールときめきだ、と、どこかで聞かされているかもしれないけれど、自分もそうだとは限らない。
男女のときめきを描いたテレビドラマを観て、「こういうの、いいなあ、うらやましいっしょ、マジイケメン」みたいな感想を持つ場合、感動の機構は浅い。そこにある適性は、ときめきへの適性ではなく――正しく見よう――テレビドラマを気楽に楽しめる、という適性だ。
五、やわらかいこと
前屈が深くできます、ということではなくて、つまり関節の可動域のことではなくて、筋肉そのもののやわらかさのこと。いわゆる肩こりなどの、筋肉の「凝り」がないこと。やわらかさとはもちろん、アタマのやわらかさ、思考や発想の柔軟性も含むけれど、筋肉だけやわらかくてアタマは固い、なんていう人はいない。だから全身的にやわらかければそれでいい。人は実は筋肉で物事を考えているものだ。それはまた別の話になるから切り捨てていこう。
「やわらかい」というのがどういうことか、これはあなたも、具体的な実験で確かめられる。簡単なことだ。このコはモテるよなあ、すごく女の子らしくて、と感じられるコがいたら、ちょっと失礼して、彼女の手首でも持って、それを高く持ち上げてみる。
彼女は、
「?」
という顔をするだろうが、やわらかい人というのは、その手首を持ち上げられる動作の中で、余計な筋肉の反発や追随をしない。まさに「?」という感触だけで、なされるがまま、脱力している。
それは、具体的に「素直」ということだ。
「やわらかい」という、適性、素養。こういうところに、人それぞれ決定的な違いがあるものだ。
やわらかい女性は「押し倒す」ことができるけれど、固い女性を「押し倒す」ことはできない。固い女性を押し倒そうとすると、ちょっとした格闘になってしまう。
手首を持って、持ち上げたとき、
・気の強い女性、警戒的・攻撃的な固さのある女性の場合
その感触に、やはり警戒的な筋肉の固さが伴う。「別にイヤじゃないけど、何?」という声が、その筋肉の感触から聞こえる。身体が油断しておらず、いつでも反撃か退避する構えがある。
・気の弱い、人に気を使いすぎる女性の場合
持ち上げる動作をフォローするように力を入れてくる。筋肉が追随の動きをしてくる。筋肉からは、「何? 何? えっと、こうすればいい?」と慌てた声が聞こえてくる。
・気の抜けた、無気力で否定的な女性の場合
持ち上げる手首からは、「はあ」と、無関心で無視する否定的な感触が伝わってくる。もう一方の手でスマートホンでもいじりそうな気配。人が自分に向けてすることについて、基本的に無視する習慣がついている。
・やわらかい女性の場合
「?」という顔をしているけれど、自分が何をされているのかわからないまま、何かしら、面白いわね、と注目している。人が自分に向けてすることになんであれ付き合う習慣がある。
逆に、素直に付き合ってしまう自分がバレるのが恥ずかしく、「恥ずかしいです」と照れて振りほどいてしまう場合もある。(それはいいことではない)
手首を持ち上げられただけで「恥ずかしい」というのは不思議なことだ。不思議なことだが、まさにそこ、彼女は自分が人と「触れ合って」しまうことが自分でわかるため、ちょっと恥ずかしいのである。
手首を持ち上げたからといって何なんだろうね。意味がわからない、というのは当然だ。
でも、意味がわからないなら、わからないまま、面白がっていればいい。意味がわからないんですけど、と否定してかかりたくなるのは「固さ」だ。
初めから意味なんて無いんだし……
「意味」へのこだわりから固さが生まれる。そして、それは精神のこだわりのように見えて、実は筋肉の凝りからきている。筋肉が、反発か追随か、どちらかをしてしまう習慣、くせ。
凝りなので、こうなってしまうと、夜寝るときも深く眠れなくなる。意味がわからないといえば、自分が生きているということ自体、意味はよくわからないことだからだ。布団の中でも常に、反発か追随かしている。
六、未来があること、予定がないこと
よくよく見ると、予定は未来に対してネガティブだ。未来は本来、未定・未知であるのに対し、予定はそれを前もってある程度決めてしまおうという手段であるから。
だから予定があると、人は未定や未知の不安からまぬがれ、少し安心するが、予定ばかりでことが進むと、今度は未来が無さすぎて哀しくなる。
予定で安心するとは、たとえば就職の内定が得られたとき。どうなることかと思っていたけれど、ひとまず道筋はできた、という安心感がある。人は喜ぶ。
そこでたとえば、学生時代最後の遊びだとして、長いバックパッカーの旅に出たとする。さんざん遊んで、現地のムハンマドに、
「なあ、お前もここに住んで、一緒に暮らさないか」
と言われる。
「これはジョークじゃない」
と言われる。
みんな、ぞろぞろ集まってきて、
「おれたちは、話し合ってね、みんなもう賛成しているんだ」
「お前の力が必要なんだ」
と真剣に言い出す。
これはまずい。グラッとくる。<<未来は予定を破壊しにくる>>。考えさせてくれ、と、部屋にこもり、壮絶な二者択一の中で、外国の夜を眠るのだ。このまま、おれも男だ、快諾してやりたい、そしたらあいつらの無邪気な、喜ぶ顔が……
でも一生のことだ。いや、一生のことだからこそ、こういう機会、こういう機会こそ、まさに一生に一度のことなんじゃないのか。内定とか、ありふれたことに比べて……
ムハンマドたちと生きていくこれからの数年間は、明らかに生々しい「未来」がある。
ところが、この「未来」を受け取る精神の機構が、実は人それぞれ、適性と素養によるのだ。未来そのものを受け取らない人もいるのである。未来を受け取る機構はいわゆる「想像力」だが、この想像力が素養として育っていない場合、「あいつらの喜ぶ顔……」ということが想像力の中に輝いてこない。「いや、そういう予定じゃないんで」ということしか出てこなくなる。
恋あいの予定は立てられない。だから、予定どおり合コンに行くのは恋あいではない。
むしろ、予定どおりに合コンに行く、それなりにおめかしして……という道中、たまたま男友達に会う。それで、
「そんなのほったらかして、おれと串カツ喰いにいこうぜ」
と言われる。
「そしていろいろ話そう。話したいことが、そういえば色々ある」
<<未来は予定を破壊しにくる>>。
予定が破壊されて、串カツ屋に向けての想像力が立ち上がってしまう。それで「うっ」という、一種のつんのめりが心に起こる。
だからそのとき女性は、
「もう、そんなこと言わないでよ」
と困惑して怒る。
これは男性から見れば、口説きがいがあるわけだ。お互いの想像力を引き出していける関係だから。
もちろん、そうして想像力に訴えかけるには、男性の側も、想像力からそのアプローチを起こしていないといけない。前もって「こう誘おう」と決めてかかったものが、実際にはあまり効果がないのはそのためだ。予定・規定のものは、どれだけ上手く出来ていても、想像力へ訴えかける力は持たない。
未来を受け取る想像力の適性・素養がないと、これらのことは起こらない。「串カツかあ、いいね、また今度行こう」というふうに収まる。予定を組み上げるほうへ機構が発達しているのだ。
もちろん、予定を組み上げる人は、その組み上げたなりの充実に向かっていく。予定は設計できるぶん、イベントを充実させるのに有利ではある。
恋あいについては有利ではない。恋に落ちるという言い方をするけれど、それは不意に転落する様相だから「落ちる」のであって、予定通りに飛び込むものを「落ちる」とは言わない。
婚活という言い方が流行し、転じて、恋活という言い方もされるようになったけれど、それらは予定を組み上げる側の機構に媚びてその言い方になっている。それらの活動が、何も悪いわけではないけれど、もし恋に「落ちる」ことがあったとしたら、「お前その活動やめろよ、今日このときから」と鋭く言ってくれた人に対してだ。
予定は未来に対してネガティブなので、予定ばかり入れられた未来はやがてヘソを曲げるだろう。
***
そのほかにも色々あるのだけれど、一旦ここで打ち切るのがよい。
ここで打ち切って眺めてみる。いささか意図的に過ぎるが、列挙した六項目は、全て「子どものことじゃないか」というのが見える。
こう並べれば明らかだ。
一、子供は、熱心だ
二、子供は、男の子と女の子だ
三、子供は、幸福だ
四、子供は、感動が深い
五、子供は、やわらかい
六、子供は、予定がなく、未来のかたまりだ
子供は想像力ばかりの生きものなので、たとえば買物にお使いにやっても、珍しい色形の野良猫を見つけたら、途端に予定がアタマから飛んでいってしまう。珍しい猫の物語が立ち上がってしまい、未知についていってしまう。予定を思い出すのにはしばらくかかる。
子供の手首を持ち上げたら、まさに「?」の、きょとんとした、注目と興味の明らかな眼差しがこちらに向けられてくるだろう。
子供は、母親がつたなく読み聞かせる絵本でも、作中世界に没入し、赤ずきんちゃんの危機に心拍を高めて緊張する。危ないよ! と作中に語りかけて制止しようとするほどだ。
夏の日、虫捕り網を振り回して夢中になっている子供の真剣な目つきを、誰もが穏やかに喜んで眺め、決して彼の今の世界を踏み荒らすまいと心に留める。
子供は、幼稚園児でも、ガールフレンド・ボーイフレンドの概念を大切にするし、好きな女の子と手をつないで歩くのはとても特別なことだ。
子供は、勉強にせよお手伝いにせよ、やりだしたら熱心で、お手伝いをしたがらないのはだいたい、彼の今の遊びが忙しいからだ。
われわれは誰も、いつまでも子供のままではいられない。大人になるに従って、頭を強くしなくてはならない。つまり、ジョークやウィットや判断力を持たねばならない。頭が弱いガールはペケで、「礼拝」という態度を持たない大人もやはりだめだ。そのことへの指摘が本来、七、八、と続いていくはずだが、それはまた次回にしよう、今回はこのほうが区切りがいい。
子供より大人のほうが能力的には優れている。でも、適性はどうかというと、子供のほうが優れていることがいくらでもある。適性で言うなら、素直に育った子供は、恋あいに対して天才的な素地かもしれない。事実、幼稚園児だって恋はするが、彼らはその恋に「悩み」はしない。
われわれは大人だ……といったって、子供のころには持っていた適性を、何も失くして自慢することはない。子供のころにあったのであれば、今でもそれは自分のどこかにあるのだろう。適性の喪失なんて多分、ただ「老けた」だけのことで、そんなことを真面目に考えたってしょうがない。
自己診断の結果はどうだっただろう。あえて悪いほうを並べれば、何事にも熱心でない、「男ってさあ」「男の人は正直ちょっと」、幸福の感覚がどこにもなくて、何事にも深く感動はしない、「肩こりがひどくってさあ」、「だって予定が一杯なんだからしょうがないでしょうよ」、という具合になるが、これは見るからに恋あいから遠い。
それが悪いというわけではないけれど、あえて一番遠くなってしまったものに努力するというのは、不公正な努力で、苦しむから、僕は見たくない。それでもがんばるという人は、やはりがんばるという適性があるのであって、僕は軽蔑できないというか、引き下がって尊敬する。
[恋あい適性診断/了]