穏やかな春の嵐の中で/次号予告
わたしは<<ごみ>>だ。毎朝そのことを思い出す。
ごみだ、などというと、誤解されて、卑下の類だと取られるけれど、そうではない、ごみは自分をごみだと非難するわけではない。
人間のごみ、などという、凝ったものではなくて、ただのごみだ。ごみとはなんでもないものである。あなたはゴミ箱のごみに向かってそれを罵るようなことはしない。
わたしが立場というものを憎み、避けたいと望むのも、立場がわたしを人間に仕立ててしまうからだ。わたしの本来性を奪ってしまう。
ごみは、ただ、ゆくだけ。ごみにも春はやってくるのである。ピンク色に染まった夕暮れを背にして、東風に向かってただゆく。進むというのは何もないところへゆくのを進むというのである。大事に思えるものをむしろ手放して進む、そのことを進むという。なにか良いものが詰まったほうへゆくのではない、そちらは退歩だ。
ごみとは何かを、了解してもらう必要はない。了解もなにも、あなたはごみというものを言わずもがな知っている。ごみほど、ごく幼少のうちに了解される概念もあるまい。ただ混乱があるとしたら、目の前にごみなる人間がいるということに、どうしても馴染みがゆかないだけだ。あなたはどうしても、わたしに「人間」という思い込みを貼り付けたがる。わたしは、ごみであることが本懐で、立場はその上の遊びにすぎない。その立場での遊びに、ときには耽ってもよいけれども、それは結局わたしを満たしはしない。わたしはただ、ごみとして扱ってもらいたいのである。
わたしが求めるのはただ、あなたに、複雑な気持ちにならないでほしい、ということだけだ。複雑な気持ちになど、つまらない。わたしがごみだという一点が理解されないだけでそのような混迷が起こるのはまったく不利益だ。わたしはあなたが性根のやさしい女であることを知っており、あなたが血の通ったごみに不必要に冷たくあたらないことを知っている。あなたがわたしに冷たくするとしたら、それは人間という思い込みを貼り付けてのことだ。
風に煽られて一枚の紙片があなたの胸元にかさかさと懐いたとしよう。あなたはそんなところで複雑な気持ちになったりしないし、紙片を攻撃したりはしない。いわゆる気持ちは微塵も動かない。あなたはあなたのままでいられて、わたしはそのあなたが好きだと言っているのだから、どうかそのままでいてほしい。
こちらごみとしては、別段何にも興味は持っていないのである。ごみが興味などと土台滑稽なことだ。ごみはただ進む・ゆくという性質があるのみであって、根拠を選んで進むのではない。これは根拠なく進んでしまうとも言えるし、人間のように進むのに根拠を必要とはしないとも言える。どちらにしてもわたしにはどうすることもできない。ごみはごみとしてくたくたに疲れているときもあるし、そうでないときもある。だがどちらにしろ性質はかわらない。あなたが種種の気分を持ってわたしに当たる必要はまったくない。わたしはごみだから、あなたに何を与えもしないし、奪いもしない。ただあなた自身、自分を何か発見するということはあるかもしれない。でもそれもあなたのはからいであって、わたしのはからいごとではない。
わたしがごみだということの証拠は、ここでわたしがふいと風に紛れ込んで消失したとしても、あなたは何も失いはしないということがそうだし、逆にわたしが分裂して二名になり、二名が百名になったとしても、やはりあなたにとってはどうでもない、どうでもないに尽きるということだ。そうしてごみであるのに、わたしがあなたの気持ちをかき乱すことがあったとしたら、それはあなたがわたしに勝手に貼り付けた、こいつは人間だという思い込みのせいだ。それが事実から離れているから、ありもしない厄介ごとを生じるのである。その厄介ごとを順々に片付けていっても、結局元のところにもどってくる。つまりなんでもなかったと。それなら初めから余計なやっつけごとはしないがいい。
あなたにはわたしの名前を呼んで欲しい。わたしがあなたに呼ばれたいのである。人間を呼ぶときのその声ではない、特別な声、ごみに向けた声で。あなたはわたしを特別扱いできるだろう。それはひたすらわたしの自己を喜ばせてくれる。まもなく春の嵐がやってくると、あなたは誰とも話したくないような、けれども誰かと話したいような気持ちになる。そのときあなたは、わたしを丁度うってつけのものとして、呼んでくれると信じている。
次号予告、「自由と放埓の旅」号。
[穏やかな春の嵐の中で/了]