生産性の高いセックス
男は、死ぬまで、女を求めて、女を追いかけ回す。
それは当たり前のことなので、そんなことに、いちいち「自論」なんか持ったってしょうがない。
中には、「女なんて」、というタイプの男もいるようだけれど、そういうタイプの男のことは、僕は知らない。
知ったってしょうがないし、取り入れることは何もない。
他の男がどう考えているかなんて、男同士で知ったってしょうがない。
競争相手が、来たら蹴落とさねばならないし、来ないなら来ないで、やった、助かるな、というぐらいにしか思わない。
何か、人それぞれに、事情はあるのだろうけれど、それはお互いさまなので、興味を向けるようなところではないはずだ。
僕などは、男なので、死ぬまで女を追いかけ回す。
それが、正しいのだとか、オスなのだとか、そんなことはどうでもいいのであって、僕が追いかけ回すのは女であり、女についての持論を追いかけ回すのではない。
女を見かけたら、好かれるか、嫌われるかする。
女にとっては、そういうのは、わかりやすい、というのが重要だと思う。
本当にそうかは、知らないが、これは勝手にこちらがそう思っていることだ。
女を見かけたら、何はともあれ、寄っていく。
女に、悪い虫がつくというが、まったくそのとおりで、寄っていくのは確かに虫みたいだ。
それで、逃げられないように努力するが、女に気に入られなければ、逃げられるので、逃げられたらもう、追いかけ回さない。
押しの一手、というような口説き方もあるみたいだが、僕は押しの一手なんかで落ちる女が好きではないし、そういうやり方に生じる独特の田舎っぽい空気感も好きではない。
女を、求めて、追いかけ回すというのと、執着する、というのは、まったく別だと思う。
女を、獲得するといっても、最後は女のほうからこちらの胸へ飛び込んでこないと、成立しないのであって、最終的に、男の側がどれだけ必死になっても、男の意志で女をモノにすることはできないだろう。
モノにできるとしたら、それは単に、意志のない、棒切れみたいな女だけだ。
そういう女を落とすのに、渾身の力を込めるというのは、さすがに悪趣味が過ぎて、僕などはついていけない。
たとえ力ずくでレイプしたって、それで女が自分のモノになるというわけではないだろう。
レイプという行為については、色々考えさせられるし、女の側もさんざん考えさせられたことがあると思うが、よくよく見ると、レイプについて一番悲惨なのは、実はその行為そのものではなく、女にモテなくて飢えている奴がそれをする、ということが悲惨なのだった。
内面的な貧しさや弱さによって、暴挙に出ただけ、というのが、これもやはり田舎っぽくて、救いがない。
つまり、現実的なレイプは、色男にレイプされるのではない、ということが、レイプということを、憂鬱なテーマにしている。
レイプを空想して、性的な興奮を覚えるという、いわゆるレイプ願望は、多くの健全な女にあるし、男の側にも、それがなかったとしたら、それは解脱しているか病気かのどちらかだが、このレイプ願望というやつは、現実的なことと接続はしていない、ただの空想だ。
一番似ている例は、少年が、兵隊となって、戦場で活躍するという空想だ。少年にとって、銃を抱えて最前線で作戦行動をする空想は、胸を熱くするが、実際に戦場に出てマラリア蚊に噛まれて対人地雷を食らって死ぬということが、ロマンチックであるわけではない。
映画「ランボー」を観てときめかない少年は病気だろうが、レイプ願望というのもそれと同じで、あくまで空想の中でこそ、それは胸を熱くするというだけだ。
僕は何人か、実際のレイプ被害者に会って話を聞いたことがあるが、聞けば聞くほど、これはやめておこうと思わされた。
実際、聞きだすと、その被害者はかなり多いものだから、一人ひとり、防犯の意識は高くもってもらいたいと思う。
被害者がその後、暗くなるということに、同情したのではなく、「やっぱり何もロマンチックじゃないんだ」ということを確認させられて、さすがに興が醒めた。
ちなみに、一番気の毒な具合になっていたのは、身内から長い間暴行を受けていた女性だったので、「ああやはり、長期に亘る家族の機能不全のほうが、単なる犯罪よりもダメージが大きいんだ」ということを、そのときはつくづく感じさせられた。
(こうして話すだけでも、何か心理学者のケースワーク研修みたいで、うっとうしいだろう。だからイヤなんだ)
とにかく、どうしたって結局のところは、女の側から男の側へ、飛び込んでくることでしか成立しないのだし、そんなところで鼻息をハァハァ荒げたくない。
僕は男なので、死ぬまで、女を求めて追いかけ回し、女と見れば何であれ寄っていく、そして口説き落そうと努力する、というだけだ。
そして、まず、百発百中で、女は僕のことなど見てくれない。
それは当然で、そんなことはどうだっていいのだ。
僕のほうを向いておくれよ、とか、人として向き合うべきだろ、とか、そういったことは、露ほども思わない。
女を求めて追いかけ回すというのは、僕が勝手にやっていることなので、女の側からすれば、何のことやら知ったこっちゃないだろう。
人生や、仕事や、人間関係が、さびしい女なら、すぐ靡(なび)いてくれるのかもしれないが、そういうものに出くわしてコロッと口説き落とせたとして、それを「やったあ」とはまったく思わない。
それは一種の難民であって、難民が、一息つけるところならどこでもいいと、転がり込んでくるのは当たり前だ。
そして、難民に必要なのは、一息ついて安心できるだけの手当てであって、交友ではない。
タチの悪い男になると、そういう難民からまで、何かを毟り取ろうとすることがあるが、それはさすがに、殺伐としすぎていてどうかと思う。
僕だって、家出が流行していたある時期のこと、新宿で家出少女と知り合ったことぐらいあるが、せいぜい焼肉に連れて行って、簡易の宿をあてがってやったぐらいだ。
家庭の事情なんか聞いてもしょうがないので、「十八になるまで待って、銀座のキャバクラで働いて、二年間必死で勉強して国公立の大学に入れ、そんな奴ゴロゴロいるから」というようなことを話した。
すると、なかなかしたたかなもので、少々ふさぎこんでいるふうに見えても、苦境を打開する未来への話には、案外食いついて聞き耳を立ててくる。
情報を欲しがっているのだ。
キャバクラで働きながら歯科衛生士の資格を取る勉強している人なんてたくさんいるし、その他、専門学校じゃなくても、職業訓練校っていうところもあるんだよ、というようなことを話した。
そういう話をしていると、家出少女も、ようやく、こちらの顔を見るようになる。
そうして考えると、男が、女に顔を見てもらえる唯一の方法は、「可能性」なのだなとつくづく思う。
女は、現実主義者だから、現実的に未来を豊かに出来る可能性に貪欲で、同時に、不要なストレスが大嫌いだ。
僕が、女と見れば寄って行って、女と見ればとにかく口説き落としてヤッてしまおうとするとき、唯一、そこに「可能性」への接続が感じられる場合だけは、女に邪険にされない。
僕のことは邪魔くさくても、未来を豊かにする可能性は、邪魔くさくないからだ。
僕が、
「あれ? 家に妹さんがいる? 一緒にバスケット・ボールとかしている?」
と言い、
「なんでわかったの?」
と女が言うとき、別に僕の話が面白いのではなくて、
「そういうことを、感じ取れる能力が、人間にはあるの?」
という、「可能性」につられて、僕のことを無視しなくなるだけだ。
僕が、百年前のティーチャーズという酒を飲んだことがある、という話をすると、女は、その古酒を自分も飲めるかもしれない、という可能性にときめき、同時に、
「そういう、一般的でない、あちこちの秘密のようなところに、接続できる人なの? わたしもそうなりたい」
という、やはり可能性にときめき、僕のことを無視しなくなるのだ。
つまり、女としては、僕が異性として寄ってくることには何の興味もないが、「この男と関わってゆけば、わたしの未来は拡大するかもしれない」という予感には興味があるのだ。
僕が、なれなれしく女の身体に触って、「きれいなバストだなあ」といって、シャツを引っ張って胸元を覗きこむとき、女は、そのセクハラにときめいているのではなくて、
「あれ? なぜこんなことをされているのに、わたしイヤがらないんだろう」
「この人は何か、これまでのわたしの知らないやり方で、わたしに接触してきている」
ということに興味を覚えている。
同時に、
「この人は、この調子で、この先も好き勝手にやっていくから、広がるし、楽しくなるに違いないわ。そしてそれはうらやましいことだわ」
ということで、僕のことを認め始めてくれている。
むろん、女にだって、性欲というか、性的なウフンアハンへの欲求はあるから、ここまでくれば、もうヤッてもいいかな、というぐらいには考えていたりするが、それだって、直接のウフンアハンの欲求というよりは、
「もしかしたら、この今夜だって、すっごく気分のいい、日記に書きたくなるような一日にできるのかもしれない」
ということのほうに、興味を覚えている。
その意味で言えば、僕という男が、それ自体として女にモテたことは一度もないし、これからも一度だってないだろう。
そういった単純な意味で女にモテるためには、ばっちりオシャレをキメたイケメンの細マッチョになって、元々そういう男がタイプだったの、という女と出会うしか方法がない。
それはつまり、ホスト的なモテ方だ。そしてホスト的なモテ方をしようとすれば、ホストそのものに勝てるわけがない。
それに比べれば、僕なんかは、女の未来を人質にして女を引っかけているわけで、卑怯千万と言わざるを得ない。
もちろん、そもそもを言えば、オシャレをキメたイケメンの細マッチョでもなしに、女にモテるということは不可能だ。
オシャレをキメたイケメンの細マッチョでもないのに、モテようなどとわずかでも思った男は、それだけで万死に値し、末代まで恥じねばならない。
ここで、まさかとは思うが、男は「中身で勝負」とかいう、人類最大のジョークを真に受けている人はあるまいな?
女は、細マッチョのイケメンか、もしくは、自分の未来、そのどちらかを愛している。
もちろん、その両方を兼ね備えているのがベストだが、女はそこまでわがままではないので、「そのどちらか片方だけでもいいのよ?」と、心を広くして思っている。
僕なんかは、その片方、卑怯なほうの、女の未来を人質に取って脅迫するやり方しかできないが、そういった卑怯なやり方が、もし赦されることがあるとすれば、唯一、
「ウソじゃなかった」
というときだけだろう。
ウソじゃなかった、本当に、わたしの未来は豊かになっちゃった、というときだけ、その未来を人質にとってセックスを迫る卑怯なやり方も、結果的には大赦がいただけるのだ。
とはいえ、赦されようが、赦されまいが、女の側には何の関係もないことなので、これは僕の一種の趣味みたいなものでしかないが……
僕などが、女にセックスをさせてもらおうとすると、「可能性」をダシにして、女の未来を人質に取るしかない。
この構造を眺めて、いやぁがんばらなくちゃなあ、と思うとき、一方で、逆側にある、「笑顔で女にすり寄る」というタイプのやり方を、僕はどうしても、好かんなあ、と感じてしまう。
男同士、互いのやり方に口出しする権利なんてないから、どうしようもないし、どうするべきでもないが、女のもう一つの性質である「不要なストレスが大嫌い」というところにつけこんで接近するのは、僕は好かないし、それはやり方というよりやること自体が本末転倒しているように感じる。
笑顔で、安全牌の自己アピールで、すり寄れば、女にとってストレスが少ないから、女はそういった男を拒絶しないが、それは初めから白旗を揚げて突撃しているだけで、本質的にアタックではない。
女が、やむを得ず心に残している善良さにつけこんで接近し、そこからストレスの駆け引きでイイコトをしようなどというのは、卑怯さがどうこうというより、結局成功しないし、疲労やコストのダメージが大きすぎる。
女にとっては、ストレスは少ないように見えるけれども、退屈だし、退屈さで時間を磨り潰されるのは、苦しくて、それではストレスの代わりに疲労がたまってしまう。
もし、街に出ても、「いいお友達」にしか出会えず、何の可能性にも出会えないとわかりきっているなら、女はもう街に出ること自体をやめるはずだ。
退屈な、いいお友達に出会うくらいなら、可能性のある、不愉快な奴に出会うほうが、女にとっては、まだ出歩く価値があるだろう。
男と女が出会って、男が女を口説こうとすると、すぐにセックスの話にならざるを得ないが、このことにはいつも、「身体だけが目的なの?」という疑問がつきまとう。
これについては、最低限、身体だけを目的として、身体だけを重ねた場合、「ずいぶんよかったわ」という結果が残るように、男は努めなくてはならない。
女がそれを、「ずいぶんよかったわ」と認めてくれるというのは、スタミナやテクニックがどうだったというのではなくて、
「何の記憶にも残っていないのだけれど、わたしたぶんあの日から調子がいいの。きっとあの人がよかったのね、どんな人だったか、覚えてはいないんだけれど……」
というような状態になることだ。
女が、「身体だけが目的なの?」と、身体を重ねることを不快に思うとき、そこに精神的なものを重ねたりしても、それは不快が倍増する結果にしかならない。
不快な映像に、不快な音声まで付け足したら、より不快になるに決まっているわ、というような付け足しだ。
女は、最低限、目の前の男が、純粋に身体だけを求めてきて、そのことに落ち着いていて、身体を重ねるぶんには、この人はまったく悪くないわ、やり方が間違っていないもの、ということを求めている。
それは、タクシー運転手でいえば、どれだけ寡黙でもいいから、ちゃんとした運転で、ちゃんと目的地に届けてよ、と求めていることに近い。
タクシーの乗客としては、目的地に着くまで、考え事をせずリラックスしていたいし、そんなところに、ふつう交友なんて求めていないものだ。
めんどうくさい男と寝たくない、という女の願いは、めんどうくさいタクシーを引きたくない、という女の願いに酷似している。
女にとって、よいタクシーというのは、清潔で、適切だった、というだけだ。気が付けば、目的地に着いていたし、少し休憩ができて、身体が楽になったわ、ありがとう、というのが、よいタクシーだった、ということになる。
男はまず、女に対して、最低限、女と身体を重ねるのに、その意味でのよい男にならなくてはならない。
身体を重ねることさえ、適切に快適にやれないのに、「精神的なもの」なんて、不快になるだけに決まっている。
運転がヘタなタクシードライバーが、やたらおしゃべりだったとき、女にとっては地獄でしかない。
女にとって、「精神的なもの」は、より重要なものだから、そういったものについては、もっと大切なときに、もっと大切な場所で、もっと大切な人と考えるわ、と思っている。
間違っても、目の前のどうでもいい男を相手に、その精神的なものを求めることはありえない。
女は、佳い男と身体を重ねて、すっかりよい心地になり、その男をすっきり忘れていく中で、精神的なものと向き合う自分の時間を持ちたいのだ。
そういう時間が持てたとき、女はその、自分に滓(かす)を残さなかった佳い男と佳いセックスについて、素直に感謝するだろう。
女は、ただでさえ、思念と身体が神経上で交錯を起こす、そのわずらわしさに疲れている。
女が男に求めているもの、およびセックスに求めているものは、神経上における、一種の交通整理のようなものだ。
思念のほうを、一旦赤信号にして、身体のほうを、青信号にする。
そうして、信号を正常化して、事故渋滞していたものを、整理してほしいという、ただそれだけなのだ。
そこに、わざわざ男までしゃしゃり出てきて、女に思念を促すようでは、女の神経における事故渋滞は、さらにひどいものになってしまう。
女の思念に口出しをするということは、女の身体に手出しをすることより、はるかにひどいハラスメントだ。
女は、自分の思念を大切にしたいので、それと渋滞を起こす身体のほうは、できればアウトソーシングで解決したいという気持ちがある。
信頼できる、適切な男に、身体を預けておいて、正常化してもらい、自分は自分の思念のほうを、正しく保護して育てたいのだ。
女が、自分の娘を保育園で育てたいというとき、それは男に周辺の治安を守ってほしいということであって、男に娘そのものを育ててほしいということでは、決してない。
言うなれば、女は、或るひとつの「街」に、住んでみたいと思っている。
・交通が整理されていて、渋滞がないの。
・タクシーが、運転上手で、田舎っぽくなく、清潔なの。
・街中に、わたしの知らなかった「可能性」がたくさんあるの。
・それでいて、わたしがどんな本を読んでいるかなんて、誰も詮索してこないの。
こうして、女は、「こんな街があるなんて、知らなかった」という心地に、似たような心地がするとき、目の前の男と、少し付き合ってみてもいいかな、と思う。
男の側は、その街づくりを淡々とすればいいだけで、佳い街というのは気持ちの問題ではなく、ただ品性と街としての性能の問題だ。
男が街だとしたら、男が女を求めて追いかけ回すのは、街が人を呼び込もうとすることと同じだから、やはり当たり前のことだ。人を呼び込まないと、街は廃れる。
そして、中には、「もう人なんか来なくていい」と開き直った街もあるが、そういう街は、察せられるとおり、すでにとんでもないことになっているのだろう。
精神的なもの、というのは、人の読んでいる本を詮索したり、「この本を読んだらいいよ」と勧めたりするようなことだから、それこそ、よほど信頼できる誰かとしか、女はそんなやりとりをしたがらない。
僕のような男は、生涯、そういったやりとりの相手に、選ばれることはないだろうし、またそういった相手に選ばれたいわけではまるでないので、せいぜい、良質なタクシードライバーと同様に、運転を上手にして、身体を重ねることを、良質にやっていければいいだろう。
僕だって、ほじくれば、ひょっとすると人並み程度の知能や精神性は、あるのかもしれないが、そんなものを持ち出すのが、僕にとって活躍だとは、露ほども思われない。
女の誰も、そんなことを男に期待していない。
少なくとも僕はそういうことを期待される男ではない。
女は、男に知己を探しているわけではまったくないし、特に僕のような男は、良い知己にするには完全に不向きで、見当違いだ。
女は、整理されて快適な神経の状態と、途絶えることなく現れてくる未来への「可能性」を求めているのであり、そのためになら男の接近を許す心がある。
この男と寝れば、快適に、心身は整理されるし、未来を拡大に向けてやっていけるし、時間もそんなに取られないし……というとき、その男は、女にとって、意味のある存在になる。
つまり、そういった「生産性の高いセックス」をただ与えてくれるものなら、女は積極的になりえるし、「男は死ぬまで女を求めて追いかけ回す」という男側のことにも、矛盾なく整合がゆく。
生産性の高いセックスのためには、男は、女とおしゃべりなんかするべきではないのだろう。
男は、女と、おしゃべりしている場合ではないし、女を選り好みしている場合でもない。
生産性のあるセックスをしているとき意外、男には、何の値打ちもないのだから、落ち着いて、そちらに身を入れているしかない。
いつかは、誰かと、精神的に交わるというようなことも、夢に見ないではないけれど……
それはあくまで、夢のことであって、それを現実の女に向けるというような、失礼なことはしない。
ではでは、おやすみなさい。
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