あとがきに代えて宝箱
誰だって、色んなことをしていると思うが、他人が何をしているのかは、よくわからない。
誰だって、何かをしていて、どこかで誰かと、いいことになっていたらいいなあ、と、思うかというと、それもあまり思わない。
ただ、誰だって、どこかで何かをしていて、いいことに、なってはいるんだろう。
それはわからないし、わかる必要のないことだ。
女の、身の上話を、聞いてもいいが、聞いたところで、何かが進みはしないし、何かが遅れることもない。
僕だって、なんやかやと、色んなことをしているが、今回なんかは特に、こうしていくら書き話しても、何かずっと、全然書き足りていない、という感触がしている。
ここ二か月で、それこそ僕自身、レベルアップしてしまったので、何をやるにしても、負担のかかる程度が上がったのだ。
レベルアップすると、いろいろ、しんどくなるに決まっている。
しんどいというか、時間とエネルギーが、いくらあっても足りない、という状態になる。
それが、いいことなのか、楽しいことなのか、わからないし、そんなことはどうだっていいが、とりあえず、全然書き足りていない気がして、そのことを自分自身、ちょっとした恐怖に思っている。
レベルアップすると、より上位の慾望へアクセスすることになるが、慾望というのはやはり、人間にとってキリがないのかもしれない。
まあ、恐怖したってしょうがない、誰だってこうして進んでいくしかないのだろうけれど……
最近、ますます、「僕なんかが反省しても、しょうがないんじゃないか」という気がしてきた。
それはもはや、思想とか理念とかではなくて、日々の実情に合わせた、実用的なことだ。
具体的に話すことはできないが、このごろは特に、
「なんだ、お前は、おれのことキライじゃなかったのか」
というようなことが、増えている。
増えているというか、そんなことばっかりじゃないか、という気がしている。
女に、思いっきり嫌われた、というとき、僕だって一応、反省しないではないのだ。
僕のほうはどうでもよくても、向こうの、女のほうは、あまりにも不快が過ぎたら、さすがにストレス量が無視できないだろう。
だから、そういったときは、「しまった、まずかったかな、申し訳ないな、気をつけよう」と、さすがに僕でも反省するのだ。
けれども、後になって、その女が、僕のことをまったくキライではない、という。
「今は、好きなんです」
と言ったりする。
僕としては、驚くというか、それより、
「だって、前、明らかに、イヤそうで、超キライです、みたいな態度だったじゃない。あれ?」
と、さすがに僕だって混乱させられるのだ。
犬が、人に近寄られたくないとき、犬は人が接近するにつれて、身体をギュッと硬くし、その気配そのものを、警告として人に向けてくる。
そのとき僕は、「あっ、ごめんね」と思うし、もしそのことに気づかずに近づこうとしている人があったら、「あっ、だめだめ!」と制止するようにしている。
犬を飼ったことがない人や、犬を愛したことがない人には、わからないのかもしれない。
犬は人間に、決して敵意を向けないが、怖がるということはある。
怖がっているところの頭上に、手の影が差すと、犬は怖くなって、反射的に噛みついてしまう。
それは、犬にとって、とても悲しいことなので、人間の側が分かってやらないといけない。
犬はそういうふうに、「大好き」と「怖い」がはっきりしているので、近づくときに、見間違いようがない。
ところがどうも、人間のほうは、最近特に、自分の情緒とまったく異なる、わけのわからない身体情緒を見せることがあるようなのだ。
一言で云って、混乱しているのかもしれない。
人に向かって、どういう気持ちが、自分の内に起きていて、どういう身体で向き合えばいいか、深刻に、よくわからない、ということがあるみたいだ。
犬が、大好きな人に、「ウー」と唸ったら、わけがわからないが、どうやら人間は最近、そういうことがあるらしい。
僕が、女に、ちょっかいを出すと、ものすごく不機嫌な顔をされる。
身体をギュッと硬くして、完全に「ムカついた」みたいな雰囲気になるのだ。
ところがなぜか、後になって話を聞くと、
「むしろ、うれしかったんです」
と言われたりする。
「ただ、そのとき自分では、うれしいって、わかっていなかったんです。そういう経験が、これまであまりになかったから」
「正直に言うと、あのとき、自分でも、ムカついたのか、うれしかったのか、よくわからなかったんです。ただ、あんなひどい態度を向けるつもりはなかったんです。なぜあんな態度が出たのか、自分でもわかりません」
表面上は、おしゃれで、人付き合いの上手な、笑顔の素敵な女性、と見える女がだ。
僕としては、
「あれだけはっきり、ムカついたって顔をして、その本人もわかっていない裏側を読み取れとか、不可能にもほどがある」
というのが正直なところだ。
これでは、何だろう、たとえばキスをして、そのキスがとっても良かったというときに、こめかみに強烈な肘打ちを食らわされる可能性がある、ということなのだろうか。
そういうことは、今すでに、割と冗談でなくある。
ちゃんと、「女とはこういうもので」「彼氏とはこういうもので」「本命というのはこういうもので」「セフレというのはこういうもので」「うれしいときには人のこめかみに肘打ちをしてはいけません」ということを、教えていかないといけない。
というのは、もちろん悪い冗談だが、半分冗談でないのは、本当にそうして、何もかもを教わって、習って、そのとおりにこなすことが、生きることなんだと、誤解している人が、本当に少なくないようなのだ。
そして、その教わったことは、親と、教師と、友人と、インターネットと、マンガと、アニメと、動画と、ボーカロイドとで、それぞれに違うから、まとまらなくなって混乱している。
僕が彼女にちょっかいを出したとき、どうやら、別にそれがイヤだったわけではなく、ただ、そのことに対してどう応じればいいかを、教わっていないし、習っていないから、「意味不明の応対が出現したんです」ということのようなのだ。
その話は、なるほどなあ、と理解もできるし、同時に、んなアホな、と呆れもする。
僕のやることや、話すこと、人に何かを向けるやり方なんて、絶対に世間一般のそれと違うから、それにどう応対するかなんて、前もって習えるはずがない。
僕はもし、目の前の女に、すでに誰でも習ってきたような近づき方しかできないなら、決して一ミリだってそのアプローチをしないだろう。
僕が女に近づくときは、必ず、そのときの新作としての近づき方が、ideaとしてあるから近づくのだ。
no ideaで近づくというようなことはさすがにしない。できるわけがない。
no ideaで、どうやって、人間の身体が駆動するか。
no ideaなら、そのときの僕は死んでいるので、何をどうすることもできない。
no ideaの、それは、死に体、というやつだ。
そうして、僕は常に、使い捨ての新しいideaを向けるのだから、それにどう応対すればいいかなんて、前もって習えるわけがない。
だがそのとき、僕の話すことや、僕の呼びかけは、決して心底から「わけがわからない」というものではないはずだ。
僕だって、馬鹿ではないので、ちゃんと届くように話しているし、そもそもideaというのはそれ自体が人の感覚や想像力にちゃんと届き、明視できるものだ。
あ、いけない、これは難しい話になるので、やめよう。
とにかく、どうすればいいか? なんて、習わなくても、こっちからそっちへ、ちゃんと届いているだろう。
まさか僕は、今すでに多くの人が、自己の生や振る舞いの全てを、習ってきたことだけで埋め尽くそうとしているとは、考えもしなかった。
そういうことが、あまりにもしょっちゅうあるので、僕はいよいよ、「そうか、僕が反省しても、しょうがないことのほうが多いんだ」と、判断せざるを得なくなった。
今、たくさんの、該当する記憶があるのだが、あれだけ全力でヘイトの態度を見せつけておきながら、実は僕のことがキライなのではなかったとか、まったく無茶苦茶だと思う。
キライじゃないなら、キライじゃないで、そこには当然の、そのままの態度を出してくれ。
好きなら好きで、そのとおりの態度を出してくれたら、僕は単純にそう受け取るのだし、それを正反対の態度から汲み取れとかいうのは、いくらなんでも無茶苦茶だ。
無茶苦茶だ、といっても、本人にとっても、なぜその無茶苦茶をやるのか、自分でもわからないのだったな……
すさまじく当たり前のことを言うが、自分の生きることや、自分がどう振る舞うかというようなことは、習ってきたことだけで、全範囲をカバーはできない。
当たり前だ。
たとえ一流の、キャビン・アテンダントだって、習ってきた振る舞いでカバーできるのは、あくまで業務範囲のことであって、個人的にどうするかというようなことまでは、カバーできない。
たとえば、バスケットボールなら、チェスト・パスとかバウンド・パスとか、習えるし、それをどうキャッチするかというのも、パターンがあるし、何より飛んでくるボールはかならず革製のバスケットボールだ。
そうやって、前もって取り決められている物事の範囲でなら、正しい方法を習っておく、ということは有効だ。
けれども、実際に生きる上では、たとえば僕は「ほれ」と言って、猫やアマガエルをパスしてくるかもしれない。
それをどう受け取る?
どう受け取るといって、猫の受け取り方とか、アマガエルの受け取り方とか、そんなことまで講習で習えるわけがない。
そうだな、だから、そうして猫を渡したとき、明らかにイヤそうな顔をしたら、「あっ、猫がキライなんだ」と、当然に思うじゃないか。
それが、後になって、「実はキライじゃなかったんです。むしろ今は、好きなんです」というような、そんなことは、もうどうしようもないが、とりあえず、僕が少なからず混乱するということも、しょうがないということで認めてくれ。
こんなもの、すでに愚痴でしかないが、さすがに僕だって、十人いれば十人に嫌われて、おれがおかしいのかなあと反省していたところ、実は十人とも僕のことがキライではない、むしろ好き、というようなことでは、もう僕は何を反省していいのやら悪いのやら、わけがわからなくなる。
なんなんだ、ひょっとすると最近は、ハンバーグが好きですという人に、ハンバーグを出すと、「死ね」みたいな顔をするのが、スタンダードなのか?
そういう、しっちゃかめっちゃかな、人を全力で誤解と混乱に落とし込もうというようなやり方は、即刻やめるべきだ。トヨタだって、ハンドルを右に切ると左折します、というような車を販売はしていない。
どうか僕のことは、できれば、目玉焼きの乗っかった牛肉ハンバーグを見る眼差しぐらいで、それなりに好きよ、ということで、見つめてほしい。
ひょっとすると、まだ教育の初等にある、幼いぐらいに若い人は、人間の振る舞いというのが、アイドルっぽくなったり、キャラっぽくなったりすることが、よくできていて完成しているのだと、本当に思っているのかもしれない。
念のため、言うけれど、それは「違う」からね。
人に対して、どう振る舞うかは、そうして「お約束」の振る舞いで処理することがある反面、大事なときは、ちゃんと心と心に通じ合うものがあって、その通じてきているもの、胸に向けられて突き刺さっているものに対して、誠実に、自分なりに向き合うのだ。
そうしたら、勝手に振る舞いは心から起こってくる。
どうすればいい、ということではなく、そのときごとに、「こうするしかない」という振る舞いが、人それぞれ、そのときに生まれてくるものだから。
こうやって話していると、うっすら、本当に怖く感じられてくるな。
自分が、人に対して、どう振る舞えばいいかは、習ってきたことのインデックスの中を、どう検索しても入っていない。
誰がそんな、カード・バトルのようなことをしろといった。
相手の出すカードに、対応するカードを、すばやく出すとか、そういう遊び事ではないのだ。
心に触れられたとき、どうすればいいかなんて、そのときのあなたの心しか知らない。
心に触れられたときは、ちゃんと、その心が、どう向き合って応じればいいか、その場で発見するし、発明もするのだ。
ひょっとすると、本当に、ここのところの原理が、今すでに多くの人で、変わってしまっているのかもしれないな……
そう考えると怖いことだ。
どう言えばいいかな? 別に言わなくていい、が、そう、冷たいことを言わないで……
たとえばこうだ。僕はあなたに、宝箱をニュッと差し出す。
あなたは、「あっ、はい」となって、慌てて、腰にぶらさげている鍵の束をまさぐる。
ガチャガチャ、チャラチャラと、あなたは鍵を探すのだけれど、僕は、
「いやいや、その束の中に、鍵はないよ」
「そうなんですか。じゃあ、でも、鍵がないということは」
「いやいや、そうではなく。もともと宝箱に、鍵なんか掛けてない」
「えっ」
と、こういう具合なのだ。
これまでに習ってきたことの、開錠のための「鍵」のようなものが、腰に無数にぶら提げられているのだが、それは鍵が掛かっている場合に必要なものであって、鍵が掛かっていないならまさぐる必要もないものだ。
どうやって開ければいい? といって、そのまま、見たまま、パカッと開ければいい。
そんなこと、習わんでもわかるだろう。
今、まじめな人はどうも、
「ちゃんと、たくさんの鍵を揃えたいです! そしてそれを、いつでもサッと取り出せるようになりたいです」
と、本気で思っているところがある気がする。
そんな、錠前と鍵の組み合わせゴッコなんかしていると、それこそいずれ、神経衰弱になってしまうぞ。
まあ、そんなわけで、だ。
話は、おしまい。
みんな、人それぞれ、色んなことを、どこかでしているのだろうから、どうせやるなら、色々レベルアップするといいな。
お互いに、怯まずに、ごまかさずに、実は自分がズンドコの低レベルでしたぁ、ということに、向き合って、笑って、
――大げさにならず、
やっていくことにしよう。
大げさになるというのは、本当に意味不明で、不毛なことだ。
エネルギーを根こそぎ無駄にしてしまう。
では僕も、引き続き、何も大げさでない夢に向かって、色々やっていくことにする。
夢というのは、何度も言うとおり、アレのことだ。
じゃあ、おやすみなさい。
[あとがきに代えて宝箱/了]
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