恋愛心理学のコラム









恋愛心理学 その1 好感度を格段にupする方法




つり橋効果、という心理学用語がある。つり橋の上で上で出会った男女は、通常の状態で出会った男女に比較して、お互いに強い好感を覚えることが、実験で確かめられた。これは、つり橋の上という恐怖によって上昇した心拍数を、恋による心拍数の上昇と錯覚することによるものである、という説だ。最近は、猟奇的な事件がさかんなこともあって。心理学が脚光を浴びているから、かなりの人がこのつり橋効果について、どこかで聞いたことがあると思う。

心拍数の上昇、その原因帰属の錯誤→恋心、というこの説は、僕から見るとまったくもってアホウの説としか思えない。誰もそう思わないのか?

19の時に、フロイトの全集を読んで以来、心理学は僕が物事を考えるときの大きな柱となっている。あれから8年たって、心理学の本を百冊以上読んだと思うが、この「つり橋効果」はいまだにキング・オブ・ナンセンスの座についたままだ。フロイト・ユングが打ち立てた、無意識や自己実現、周辺的無意識、共時性といった偉大な説に比べれば、つり橋効果は小学校の学級新聞で発表されるべき説だ。

つり橋の上で出会った男女が、ラーメン屋で出会った男女より好感を強く覚えるのは、恥ずかしいぐらい当たり前だ。つり橋の上は、エキサイティングだ。ラーメン屋は、まったりしている。それで十分だ。それ以外に何か追求すべきことがあるだろうか。心拍数が上がっているとき、人はエキサイトしているのである。エキサイトしているとき、男女は当然の摂理として惹かれあう。何度言い直しても、本当に当たり前のことだ。

僕の友人でも、このつり橋効果を狙って、遊園地にデートに行った男がいる。遊園地は楽しいし、エキサイティングだから、そりゃあ銀閣寺で茶をしばくよりは効果的かもしれない。しかし、その遊園地でエキサイトしている間、男は内心で、「つり橋!つり橋ィィィッッ!!」と思っていたのだろうか?なんてキモチワリイやつだ。

つり橋効果という説を学んで、自己啓蒙したと思っているやつは、心理学を学んで人の心理に疎くなったといわざるを得ない。孔子の言うところの、学んで思わざれば則ち罔し、そのままである。

心理学、という言葉はどこかなぞめいた響きがあるようで、人はそこにオカルティックな何かを期待するらしい。それこそつり橋の上で出会った男女はロミオとジュリエットに転生するかのような。ばかげた話だ。僕はここで、僕の愛する心理学について、まともな話をしようと思う。僕は心理学を学んで、人の心とはなんと機微に満ちたものだろう、と感動したものだ。そのうちの何パーセントかでも、伝えられればいいと思う。


 [あの人を手に入れる方法]

心理学の話をする上で、まず初めにはっきり言っておきたい。あの人を手に入れるための、心理学的テクニックなど、あるはずがない。どうしても分かっておいてもらいたいのだが、心理学とは、相手の心を操作しようとする学問ではない。そういうのは、ハーバードビジネススクールとか、MBAとかの、交渉術に属するものだ。相手の心を操作するために心理学を使おうというのは、心理学に対する冒涜である。もし、本当に相手の心を操作するために心理学を応用しようと考えている人がいたら、その人は、まず自分の浅ましさを自覚するべきではないだろうか?

さて、あなたの想う「あの人」が、あなたに応えてくれるか、あなたのパートナーになってくれるかどうかは、最終的には「あの人」次第である。あなたはそれを操作し、強制することはできない。まずそのことを理解し、受け入れるのが、あなたの想うあの人の、人格の尊厳に対する礼儀だ。その前提の上で、あなたがあの人に最大限の魅力をアピールできるように、僕の知っていることを何点か話そうと思う。


 [目を見ること]

これはまた、のっけから当たり前すぎることなのだが、案外これはできていない。相手の目をみること、これはもうクセみたいなものなので、人の目を見る人は見るし、ヨソを向いてしまう人は終日デート中ずっとヨソを向いてしまう。この、相手の目を見るというのは、基本にして奥義みたいなものなので、意識的に努力して習慣化する価値は十分にある。あなたが、力まずに、相手の目をまっすぐに見るようになり、相手の視線を穏やかに受け止めることができる人になったとき、あなたの好感度は大きく上がるだろう。加えて、相手の目を見るというのは、存外勇気のいることでもある。臆病な部分があると、つい目を逸らしてしまう。だから、相手の目を見るという習慣をつけていく中で、自分の臆病なところ、目を逸らしたくなる衝動を、自覚することができる。それによって、自分の弱さに気づき、成長することができる。そこまで考えれば、相手の目を見るというのは、いよいよ素晴らしいことなのだ。

ただし、相手の目を見るといっても、極端に長時間見続けてはおかしい。肉食獣じゃないんだから。この、目を見つめる時間と視線をはずすタイミングは、自分のセンスを信じてやるのが一番いいと思うが、不安な人は、街で見かけるラブラブカップルの見つめあいのタイミングを参考にするといい。

相手の目を見るのが大事だってことぐらい知ってるわい、という人もいるだろう。その人は、爪先はどうだろうか。あなたの爪先は、話をする相手の方に向かっているだろうか?これも試してもらえば分かることだが、爪先が別の方向を向いていると、話をしていても、まったく聞いていないように見える。心はヨソに向かってますよ、という風に見えるのだ。ベテランの漫才師二人が、舞台に立っている姿をよくよく観察してみるといい。漫才師は、お客さんと、相方と、半々に気持ちを向けてなくてはならない。だから、爪先の方向と顔の方向が、常に90度になっている。どういうことかというと、顔を相方に向けているとき、爪先はお客さんのほうへ、顔をお客さんのほうに向けているとき、爪先は相方のほうに向いている。この、常に身体が90度ねじれた状態、すなわちお客さんと相方と半々に気持ちを向けている姿勢、自然にこれができていると、その芸人は舞台から浮かず、芸人として堂に入っている姿として映るのだ。

実のところ、相手の目を見るとか、爪先を相手に向けるとかは、真剣に相手と向き合うとき、自然とそうなる姿勢なのだ。人間はなぜかそれを知っていて、見ただけで、相手の心が真剣にこちらを向いているかどうかを判別してしまうのである。誰も爪先など注目してはいないのに、爪先をヨソに向けていると、確かに気持ちがヨソに向かっている印象をはっきり受けるのである。この人間の心の計り知れない機能と機微、これを浮き上がらせるのが、心理学の妙味だと、僕は思っている。


 [距離を詰めること]

パーソナルスペース、またはパーソナルゾーンという言葉を聞いたことがあるだろうか。人間は、その身体を中心に、タテ長・ひし形の心理的バリア、ナワバリを持つ。相手に相対するとき、このパーソナルスペースの状態、すなわち互いの位置と距離によって、交わされるコミュニケーションが変わってくるのである。

とまた大層に言ったが、そんなに難しいことではない。要するに、親密なものほど距離が近く、疎遠なものほど距離が遠くなるということだ。街を歩くカップルを観察してみよう。その二人は、およそ50cmぐらいの距離、「一方が手を伸ばせば、一方に触れられる距離」を歩いているはずだ。これが、友人の関係の場合だと、およそ1m、「両方が手を伸ばせば握手ができる距離」になる。2m以上離れると、これは社会的距離といって、個人としての親交ではなく、たとえば来客と打ち合わせをするときの距離になる。

さて、もう分かってもらえていると思うが、お互いの距離(物理的距離)が離れていると、仲良くなれないということだ。少なくとも、2m以上の距離を保ちながら相手を口説いても、まず何の成果も得られないだろう。思い切って一歩、距離を詰めるのだ。そのことで、親密さが始まる。先ほど言ったように、パーソナルスペースはタテ長・ひし形であり、特に真正面に対してはそのナワバリのバリアが大きく強い。従い、距離を詰めるのは、サイドからがいい。正面というのは、どうしても威圧感があり、対立する雰囲気になりがちである。余談だが、首脳会議などの二者会談は、両者が正面ではなく、互いに横からやや斜めを向いた方向に座して行われる。これは、正面から相対することによって発生する対立の雰囲気を避けるためだ。

距離をつめるタイミングとしては、何か会話の途中で、笑ってほぐれた瞬間などが良い。無理やり・いきなり間合いを詰めてはいけない。関節技を狙いにいくパンクラスの選手ではないのだから。そのほか、席に座るときであれば、真正面を避けて、横か、横が不自然ならば、テーブルの角をはさむように直角隣の席に座ると良い。そうやって自然に距離を詰めれば、自然に親密なムードになってくる。また逆に、何か気まずくてギクシャクして、話しにくい状態になったときは、あえて距離をとってやると離しやすくなることもある。

人間と人間の物理的距離とは、すなわち心理的距離と正確に比例する性質のものであって、実はお互いの人間関係、お互いの意識に強く作用するものであるから、この距離の押し引きのセンスを感得するのは有意義なことだ。人は、相手に心を開いていると、自然に距離が近くなる。パーソナルスペース、ナワバリが緩むのだ。それはほとんど動物的な感覚、生き物としてのレベルにある安心感によってうまれる現象だ。逆に、自分が相手に近寄れないときには、何かに臆病になっていないか、相手に心を開けているか、そういうことを考えるのも、また有意義だと思う。


 [名前を呼ぶこと]

ホテルに入ったとき、バーに入ったとき、小料理屋に入ったとき、名前で呼ばれるのは嬉しいものだ。客のone of themではなく、人格を持った個人として扱われている気がするからだ。

ここでいう名前とは、姓でも名でもどちらでも結構だ。どちらであれ、名前とはその人だけが持つものであり、人格に呼びかけを行うための最初のキーワードだ。だから、名前で話しかけることは、相手の人格に話しかける時の最大の礼儀となる。逆の例として、以前、僕はこんな場面を見た。教壇に立つ教師が、黄色のシャツを着たある生徒をする際、「おい、そこの黄色いの」と呼んだのである。その教師以外の全員が感じたことだが、これほど失礼で下品な呼び方はない。黄色いの?人を熱帯魚か何かと思っているだろうか。この品性の無い教師が何を教える仕事なのかは知らないが、とにかく、名前を使って呼びかけるのは、最低限で、かつ最高の礼儀なのだ。

もちろん、名前を連呼するような、バカの一つ覚えはいただけない。名前で呼ぶタイミングとしては、相手について知ろうとするときが一番自然だ。九折さんは、休日何をしてらっしゃるんですか、という風に。

ここで少し、心理学云々を離れて、考えてもらいたい。ある相手の人格について、純粋に興味を抱くとき、相手の存在が自分の中で名前を持ったものにならないだろうか。ぼんやりしていたものが、心の中で、一つの名前をもつ誰かとして刻まれていくような感覚があると思う。あなたが犬を飼っていれば分かると思うのだが、犬を飼っている人が、その犬を、「チワワ」とか「柴犬」とかふうには認識していないはずだ。ちゃんと名前があり、その名前には、その犬の生きてきた歴史、その性格や個性といったものが密接につながっていて、それらをひっくるめてあなたの心の大切なものリストのなかに入っているはずだ。

相手の人格と向き合おうとするとき、その相手は自分の中で名前を持った存在になる。それだからこそ、名前で呼びかけるということは、相手の心にしっかり届くのである。そのことまで理解したうえで、名前で呼ぶことを意識的に増やせれば、実のあるコミュニケーションを得る機会も増えるだろう。


さてここまで、相手の目を見ること、距離を詰めること、名前で呼ぶことについて、それがどれくらいいいことか、また有効なことかについて、僕なりに説明したつもりだ。最後に、あくまでこういう一つ一つの所作にも、センスというものがあるから、よくよく自分の中で納得してから、自然な形で身につけられるようになってほしいと思う。ランランと光らせた目で睨みつけ、にじり寄り、くぐもった声で名前を連呼したら、キモチワリイのは当たり前だ。そういう人は、初めに述べたように、心理学を知って、ますます人の心が分からなくなってしまった人だ。そうならないように、できる限り、表面に表れる現象だけではなく、その背景で動く人の心についても、話し添えたつもりだ。なぜ相手の目を見るのか、距離を詰めるのか、名前で呼ぶのか。それは結局、相手の人格に、敬意を払うこと、真摯に興味をもっていること、自分が相手に心を開いていることによって起こる、本来自然な所作であるからだ。その所作を意識することで、それを切り口に、本来あるべき人間関係を活発にしようということにすぎないのだ。あるいは逆に、これらの所作が日常でできていないという人は、相手の人格に対して敬意を払うこと、自分を相手に開示すること、それができていないのではないか、と考えるきっかけにもなるはずだ。そういう風に、人の心について、考察が深く鋭くなれば、心理学というの万金の価値のあるものだと思う。

書き出せばいくらでもある心理学の話だが、ひとまずここで終わりにしよう。相手の目を見て、距離を詰め、名前を呼ぶこと、これができれば、それだけで、格段に好感度はアップするだろう。少なくとも僕が女の子にこういう風に接されたら、ソッコーでコロリと落ちる。それぐらい、この簡単で大事なことができている人は少ないのだ。これを読んでくれた人が、より人と接するということに真剣になり、洗練されて、ついに素敵な誰かをコロリと落としたなら、僕はそれが一番うれしい。






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