恋愛相談のコラム









振られてから僕たちはどうすればいいのか




振られてから僕たちはどうすればいいのか。僕として、このような題名を設定してから、初めからそのようなことを明快に速やかに解決しうる方法などありはしない、と確信する思いすらある。振られるということ。僕自身、ついこの間、そのような体験があったのでもある。僕として、大事な女性を失ってしまって、そのようにして失ってから、いかにも手遅れのこととして、彼女が自分にとって大事な女性だったと、改めて打ちのめされる具合にして思い知らされるといったようなことがあったのだ。そしてそのときに至って、僕がなぜ彼女を失うことになったのかと、今更に思い返してみれば、いかに自分の態度や言葉が無神経であったか、いかに自分が下種な姿を晒していたか、そのことに気づかされて愕然とさせられたのだ。それは自分を罵られずにいられないぐらいのものであって、僕としては、打ちのめされている自分を、さらにただひたすらに、心底から泣いて謝るまで自ら打ちのめしたくなるといった具合なのだ。おそらく、振られたときに僕たちにやってくる気持ちは、単なる悲しみと絶望だけではなくて、なぜあの時あのようなことをしてしまったのだろうという悔いと、なぜ自分はこんなに愚かで駄目なやつなのだと自分を罵る気持ち、そういったものも確実に含まれていると思う。振られたときの気持ち。僕は、客観的に書かねばならないと思いながらも、どうしてもそれについては虚心で書くことができないようでもある。今回ばかりは、いささか本来のありようから逸脱してしまい、いかにも気分に入っているようで不愉快に感じ取られる部分があるかとも思うが、なんとかご容赦願いたい。

振られるということ、それには色んな形式があると思う。「やっぱり好きになれないから」「他に好きな人がいるの」「もう愛想が尽きたの」「そっとしておいてください」「ごめんなさい」「異性として見られないから」「次のあて先へのメッセージはエラーのため送信できませんでした」。そしてその形式に依らず、そのことを受け取った者は、その想いに比例するだけの絶望感を受ける。その絶望感は生々しくて、いわゆる慣用的表現、「ショックだ」「目の前が真っ暗になる」「希望が音を立てて崩れる」といったようなことが、まさしくそのまま当てはまるような、強烈な体験となる。その体験はにわかに受け入れがたく、少なくとも二、三日の間は、それは物語の終焉ではなく、継続している物語のワンシーンでしかない、といったように歪曲して思い込もうとする。それははたから見ればまったく誤っているのだが、それでも一つの過程として、そのような誤った状態を一度は体験しなくてはならないようでもある。僕として、その期間だけは、誤っていようがなんだろうが、しばらくそのままにしておくのがよいと思う。やがて本人が、いやいやながらでも時間をかけてそのことをじっくり理解していかねばならぬのだから。その期間が極端に伸びたとしたら、誰かの後押しなり、支えなりが必要になることは確かにあるとして・・・。

大事な人を失ったとき、あるいは恋焦がれるその人との物語の可能性や夢を失ったとき、場合によってはその人との一切の交流すら絶たれたとき、さて僕たちはどのようにすればいいのだろう。ひとときの混乱が過ぎ、やがて自分は振られたのだとじっくりと理解させられるといったことに直面させられたとして、僕たちは何を指針にして自分を立て直してゆけばいいのだろうか。僕としてやはり、明快な回答は無いとはいえ、そのような指針を手探りする心の働きがある。そのことを、今回は書こうと思う。みっともないこと甚だしいが、僕自身が確認する、という意味も含めて。

僕の心の働き。僕自身奇妙にも思えることだが、次のような心の働きが起こって、僕自身を立て直そうとすることを、僕は改めて発見した。それは確かに、僕として、指針になりうるものだと感じられているのだが・・・。

僕はやがて死ぬ。やがてといわず、僕は明日にも死ぬかもしれないし、今日にだってしぬかもしれないのでもある。僕がもし平均寿命をまっとうできたとして、あと50年生きるとすれば、あと18,250日は生きるということになる。しかしそれは、18,251日目には死ぬということでもある。それはまったく、手ごたえのある有限性だ。

さて、僕が最大あと18,250日生きるとして―――明日にはまた一つ減るわけだが―――、それをどのようなものにしていこうか。僕として、そのように考えることで、自分が振られたということの体験を把握しなおし、自分を立て直そうという心の働きが起こるのである。

誰もが冷静に考えて、その18,250日が、すべて幸運と華やかな記憶で塗りつぶされるとは思わないだろう。僕としてもそのようには思わず、むしろ辛いことや苦しいことも含めて、色彩が豊かであるほうがいいと思う。漠然とではあるが、それが生きるということの全体であるように、僕には直観されるのでもあるから。さてそうであれば、僕が今打ちのめされていること、言葉にすれば単に振られたというだけのことだが、それはその18,250日の色彩の中で、どのような役割になってくるか?

ここにおいて、僕自身明確に論理立てることはできないのだが、次のように思われて、気持ちが幾分か安らぎ、また何やら、これは決して犯されようの無い、活力の芽生えのようなものが生まれてくるのも感じるのである。すなわち、―――このまま100日程度は、じっくり打ちのめされようじゃないか。18,250日の間に、そのような100日があってもよい。その全てが明るく塗りつぶされることを望んでいるわけでもないのだから・・・。

そのように考えながら、僕などの場合、タバコを一本ふかすと、その煙とともに、悲しさの中からエグみが抜けていく、そのようにも感じられるのだ。そしてむしろ、この強烈な感情―――それがたとえ悲しさであっても―――を持って、例えば明日車にはねられて死ぬとして、それは漫然と生きて漫然としたまま死ぬよりは、遥かに僕にとって望ましいことなのじゃないか、というようにも感じられるのだ。そしてそのようにして死んでしまってもいいと思う一方で、でももし生きていくのであれば、自分が生きること、その全体を見届けてやろうじゃないか―――この悲しみと絶望のゆくえも含めて―――、という力強い意志も、また沸いてくるのである。それは寂寥を帯びてはいるものの、たしかに力強いものとして、僕には感じ取られる・・・。

僕たちは振られたとき、友人達から「またいい人が見つかるよ」「そのうちいいことあるさ」といったような励ましを受ける。それはそれで、励まそうとしてくれている姿勢そのものがありがたいものではあるが、率直に言って、直接そのときに響いてくる言葉とはならない。僕たちが振られたとき、次のいい人のことや、そのうちあると言われるいいことなどといったものには、完全に興味を失っているのであるから。僕としてはそれより、残りはあと50年間、18,250日しかないのだ、それを見届けてから死んでやろう、と考えることのほうが、いくらかはその時の指針になりうるのではないかと思う。さしあたり僕は、その指針によって、何とか自分を立て直そうとしている。そして逆説的ながら、そのような有限の生を繰り返し確認した後で、今は生きているんだなと、僕には強く実感されるのでもあるのだ。

振られたときにどうすればいいか。やはりそれについての、明快で速やかな解決などありはしない。それでも僕自身として、そのような指針、残る18,250日の全体を俯瞰した上で、寂寥を感じつつも生きていこうと思う力強い心の働き、それを支えにしていこうと思う。時にはその寂寥こそが苦しいのだと、受け入れがたくあることもあるが、それでも大きな方向としては、やはりこの方向しかありえぬのであるから・・・。

・・・いささか、見苦しい吐露ばかりになってしまったかもしれない。ただ、中には同じような状況にあって、このことを指針のヒントにしうる人がいるかもしれない。僕としてはそのようなことを期待してこれを書いた。書きながら少々時間がかかったし、またこのような恥さらしの文章を公に示すのは愚かしいことだとも自分自身として感じなくもないが、僕としてはやはり、18,250日のうち、このようなことに費やし、恥をさらす一日があってもいいだろう、などと思っている。






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