恋愛相談のコラム









自信についてのリアルな話






ロープライスが売りのイタリア料理系のファミリーレストラン、そういうところの喫煙席にいくと、たいていアタマの悪そうなオンナの二人組がいる。果てしなくだらけた格好で椅子に座り、会話してるのか携帯をいじくっているのか、よくわからない時間を過ごしている。その会話の内容は大半が愚痴だ。それでさぁ、だけどさぁ、そういう切り出しで話しはじめ、かつ語尾の母音を伸ばすのが彼女らのスタンダードらしい。二人ともいかにもギャルっぽい格好をしていて、風景として目立つ。バッグだけヴィトンだったりするが、着ているものはどちらかというと安価な風合いだ。

そういうオンナの二人組はどこにでもいるものだが、僕はそういうオンナが嫌いではない。けっこう好きだ、と言ってもいいかもしれない。彼女らは世間的にはアホウなのかもしれないが、ある意味ではリアリストで世の中をよくわかっている。彼女らは、今自分たちが自分の存在を表現するには、その若さと性と現代風のいでたちを強調していくしかないということを知っているのだ。僕はそういう彼女らを軽蔑しているのではない。無力だと哀れんでいるのでもないし、かといって憧れているわけでもない。

ただ、彼女らは真剣なのだ。僕は彼女らを見ていると、いつもそう感じる。彼女らは真剣に考えた結果、自分には何もできないし、今のキャバクラの仕事もいつまでもは続けてられない、いいオトコに愛されてセレブになって輝きたいが、そのアテもないしどうやら可能性は薄そうだと、そのことを逃げもせず受け止めているのだ。そしてその上で、暗くならずに生きていこうと、彼女らは前向きでさえあるのである。だから決して本当にアホウなのではない。そういうタイプのオンナと話したことのない人にはわからないかもしれないが、彼女らはああしてスレたふうに自分をデモンストレートしているが、中身までは本当にはスレきっていないことがほとんどだ。

むしろ、中身はそれと正反対、ものすごく純なコが混じっていたりもする。

―――ウチ結婚したいけど、お母さんが体悪いからムリやねん。ウチお母さん好きやし、寂しがらせんのイヤや。

そういうことを、ポロリと真顔でこぼしたコもいて、僕はそれにハッと胸を打たれる気分になったことがある。彼女の言葉は、僕を反省に打ちのめしたのだ。

アタマの悪そうな二人組はどこにでもいる。

が、その中には尊敬すべきオンナがたくさん混じっている。

僕は見た目でオンナを差別しない主義だ。

オンナを外見で軽蔑するような、軟弱なオトコにはなりたくないと思う。


***


ある夜僕は、ファミレスのドリンクバーでホットココアを飲みながら、物語って突き詰めるところ何なんだろうなぁと、結論の出ないことをぼんやり考えていた。その僕の隣で、そういうタイプの二人組が会話をしていた。どうでもいいような内容だったが、彼女らの声はよく響いたので無視しきれなかった。

彼女らの声がよく鳴るのはなぜなんだろう。

ちょっとマジメになると、急に少女めいた、か細い声になるのにね。

「なぁ、プラトニックラブとプラトニックセックスってどう違うん?」
「さあ? よくわからんけど、似たような意味なんちゃうの」
「でも、プラトニックラブって、セックスせえへん恋人ってやつやろ? それやのにプラトニックセックスゆうたら意味わかれへんやん」
「そうやなあ。セックスするけどイカへんとか、そんなんちゃうん」

真横で関西弁でそういう話をされると、大阪出身の僕としては、ツッコミの魂が黙ってられないのである。

「……ちょいと失礼」

僕はそう言って、彼女らの会話に割り込んだ。彼女らはギョッとしたが、ちょっと突っ込んでいいか? と僕が言うと、彼女らは笑って、あーハイ、ヤバい、ウチらのバカな話聞かれてたんや、と言った。

「プラトニックってのは、アレだ、ソクラテスの弟子のプラトンっていう人の名前から来てるんだ。プラトンは哲学者だから、まあプラトニックラブってのは哲学的な愛ってのが本来の意味だな。だから、プラトニックセックスといえば、まあそれはただプラトニックラブをもじったドラマの題名でしかないけど、一応意味としては、哲学的なセックス、ってことになるだろうな。そんな感じで、いいか?」

僕がおせっかいにもそう説明すると、彼女らは、へーそうなんやー、ヤバい超アタマいい、ウチらバカだよと言って笑った。

彼女らはスレているふうに見せかけていたが、その中身はものすごくシャイでもあるようだった。彼女らは二人で笑いあっていたが、その笑い方はいかにも照れくさそうなものだった。

彼女らの反応がかわいかったので、僕はウザくなければもう少し説明するけどと断ってから、話を続けた。

プラトンという名前はあだ名であって、本名はアリストクレス。紀元前何百年という大昔の人だ。「プラトン」とは肩幅の広い人とか体のゴツい人とかいう意味。アリストクレスは体のゴツい人だったらしい。アリストクレスは街中で、「おい、そこのデカいの!」と呼ばれるふうに、「おい、プラトン!」と呼ばれていたとされている。

「だからまぁ、本当の意味にさかのぼると、プラトニックラブってのは、『肩幅の広い人の愛』ということになってしまうわけだな。それだとワケがわからんけど」

僕がそうやって話すと、彼女らは思いがけず静かにその話を聞いた。すぐに内容も理解したし、彼女らは見かけほどアタマが悪いわけではないようだった。

「……えーと、ここから先は、プラトンのイデア論とか、それがイデオロギーという言葉の語源になったとか、そういう話になるけど、それはもういらんやろ?」

そう話を締めくくると、彼女らはあいかわらずの照れくささの素振りで、あーハイ、十分っす、マジ勉強になりました、と言って笑った。

そして、何を思ったのか知らないが、

「お兄さんは、どーなんですか? プラトニック派ですか?」

と僕に尋ねてきた。

僕はもちろん、そんなわけないだろ、と答えた。



■自信の無い人は、成功するときがどんな具合で、失敗するときがどんな具合か、そのことがまったくわからないのだ。

今回は「自信」についての話だ。自信についての話、自信を持ちましょうとか自信がないとダメですよとか、そういう話は人気があるようだ。僕のところには無数にメールがくるが、自信についての相談事はかなり多い。

みんな、自信を持ちたいらしい。ということは、今はまだみんな自信が無いということだ。自信を持つにはどうすればいいのだろう。自信を持ちなよと、友達に励まされても意味がないのは明らかだ。

今回はひとつ、自信についてのリアルな話をしたい。どんな人にもいいところはありますとか、どんな人でも愛される資格がありますとか、そういうイイ人ふうの教条はうんざりだし、そんなこと言われても自信が手に入らない人は入らない。だからそういううっとおしい話はやめよう。僕は善人ではないが偽善を嫌うぐらいの精神の健康は保っている。

ごまかさずに、自信について考えよう。

(嫌われるかもしれないが、僕はごまかさずに考えます)


***


僕の周りにはオトコ友達もいるが、オトコなんてどこまでいっても助平な生き物である。僕がアタマの悪そうなオンナの二人組と戯れるのを見て、あるいはその話を聞いて、それをうらやましがるオトコは多い。

「うらやましいなら、お前もやればいいじゃん」

僕はそう勧めるのだけど、もちろん大半のオトコはそれをやらない。

なぜか?

自信が無いからだ。

うらやましいと思いつつ、実際にはそれをやらないオトコは、「自信がないからできないんだ」と自分について説明する。そして中には、お前は自信があるからいいよな、というふうに言うオトコもいる。

しかし、と僕は思う。

僕には自信があるのだろうか?

僕はオンナ好きなので、すぐにオンナにちょっかいを出す。オトコにもけっこう出すが、まあオンナの方が多いことは認めねばなるまい。

でも、自分がオンナにウケるタイプか、オンナにモテるタイプかと考えると、まずそんなことはないだろうと考える。

モテる自信があるかと問われれば、敢然とNoと答えるだろう。

(別に威張っているわけではない)

今までにも何度も言ったことだと思うが、僕ははっきり言ってオンナにはモテないタイプだ。タイプというか、要するにモテるだけの実力を持っていないオトコだ。タイプの問題にするのは卑怯だろう。とにかく僕はオンナにはモテない人なのであって、オンナにはフラれることの多い人なのだ。

ただ僕は、フラれることは気にしない。気にしないし、フラれるときがどういうときかも知っていて、それだけに気分よくフラれる方法も知っている。

そしてそれとは逆に、思いがけずうまくいくというときも知っている。だから、フラれるかもしれないけど、ひょっとしたら仲良くしてくれるかな、と期待することもできる。不安と期待が半々なのだ。成功確率からいうと、不安が九で期待が一になるはずなのだが、実際に僕の中に起こる気持ちは、不安と期待がちょうど半々になっている。

要するに、成功するかどうか、その可能性の高さは自信には関係ないのだ。成功するときもあり、失敗するときもある。そのことを僕は知っている。そして、成功したときはどうなって、失敗したときはどうなると、そのことも知っている。それを等分に見比べることができる。そのことが自信につながってくるのだ。そのあたりに自信ということの機微がある。

隣の席のオンナのコに、ちょっかいを出してみたい、だけど自信がないからできません、そう言うオトコの99%は、実際には一度もそのことにトライをしたことがない。だから、何も知らないし、何もわからないのだ。何もわからないから、一見して気の強いふう、アタマ悪いけどイケイケのオンナふうの二人組に、その外見だけでビビッてしまう。

自信の無い人は、成功するときがどんな具合で、失敗するときがどんな具合か、そのことがまったくわからないのだ。

まったくわからないとなれば、それは不安のカタマリということになる。あとは想像力だけでイメージするしかなく、もともと僕たちの想像力というのは危険回避のために備わっている能力なので、イメージすればするほど悪いほうにイメージが湧いてくる。

それが、自信が無いということの正体だ。何も知らない、わからないということ。そこに不安しかないということ。想像力は、悪いほうのイメージしか生まないということ。

このままでは、まだわかりにくいかな。

次節から、もう少し突っ込んで考えよう。

自信について話すからには、自信の無い人にとっては冷たく聞こえる話になるかもしれない。

でも、あなたが自信を手に入れればいいなぁと、そのことは一応マジメに思ってます。

(だからできたら、キライにはならないでね)



■自信を持つためには、成功体験が要るのだ。なんとなくで手に入るほど、自信は安いものではない。

自信というのは不思議なものだ。どれだけ能力が高くても、あるいはどれだけキレイな人でも、自信を持っているとは限らない。僕の知る限りでも、ものすごいべっぴんさんでも自信を持っていない人はいる。中には、無数のオトコに言い寄られるのに、自分から近づこうとしたオトコとはあまり仲良くなれなくて、

「え、ひょっとしてアタシって、ホントに顔だけのオンナなの?」

という具合に混乱し、自信喪失してしまったオンナもいるのだ。自信というのは不思議である。自信とは自分を信じるということだが、その確信が揺らぐと誰だって自信を失う。

前にも言ったことだが、もしあなたが、もっとキレイなら自信が持てるとか、ウエストがあと五センチ細ければ自信が持てるとか、そういうふうに思い込んでいるならそれはやめたほうがいい。それは間違いだ。あなたより不細工でも自信を持っている人はいる。あなたよりウエストが五センチ太くても自信を持っている人はいる。自信というのはそんな性質のものではない。そこを見誤っていると、あなたはやがて、自信がないくせにゴーマンというヘンな人になってしまうだろう。

自信というのはそういうものではなく、もっと単純に、自分についての確信のことを言うのだ。「自信」という字は「自分を信じる」と書くが、僕は「自分を信じる」というよりは、「自分を確信する」というほうが本来の自信の性質に近づくように思う。

自分を確信するということ。

それがどういうことかというと、たとえばあなたが彼に話しかけたとき、彼がどう反応するか、そのことをあなた自身として手ごたえをもって確信できるということだ。

彼が喜んでくれるとしたらどんな具合か。

あるいは、喜んでくれなかったとしたらどんな具合か。

そのケースバイケースについて、あなた自身「確信」できる状態、それを「自信がある」と言うのだ。

どうしても勘違いしてしまう人がいるようだが、人間は誰だって、自分が百パーセント愛されると無邪気に信じ込めるわけがなく、誰だって「拒絶されたらどうしよう」と、そのことをある程度不安に思っているものだ。それを百パーセント愛されると思い込んでいたら、自信ではなくただの虚妄になってしまう。

誰だって、愛されることもあるし、拒絶されることもあるのだ。ただそこで、愛されるにせよ拒絶されるにせよ、そのことの経験があるか、そのときの風景を確信としてイメージできるかどうかが問題になってくる。

愛された経験の無い人は、愛されるときのイメージが確信できない。また、拒絶されたことの経験のない人もいるから、そういう人は拒絶されるときのイメージも確信できないのだ。

このことについて、ここからリアルに考えていこう。

あなたが自信を手に入れるためには、経験がいる。

それも、はっきり言って成功体験がいるだろう。

あなたがオトコに、話しかけてみる。愛想を振りまいてみる。かわいい素振りを見せ付けてみる。色気をアピールしてみる。

それにオトコが、ぐいっと惹きつけられる。

そのことの体験を、あなたは経る必要がある。

自信を持つためには、成功体験が要るのだ。

なんとなくで手に入るほど、自信は安いものではない。



■オンナはオンナとしての物語から、自分を確認し、肯定する。

尊敬できるオトコ、あるいは単に、悪くはないなと思えるオトコに、あなたは口説かれなくてはならない。あなたから彼に話しかけて、そしてちょっと愛想を振りまいてみて、要するにコナをかけてみて、彼がその気になるということを体験しなくてはならない。あるいはさらに、いいなと思えるオトコに抱かれて、そのオトコがあなたに欲情し、あなたのカラダに興奮し、必死になってあなたを抱くことを体験しなくてはならない。

あなたはその過程で、自分がオンナとして魅力を持っていることを確認する。単純な話で、またある意味残酷な話でもあるわけだが、これは隠してもしょうがない事実だ。

僕たちは所詮、自分だけで自己決定できるほど強くはなく、他の人がどう受け取ってくれるか、どう評価してくれるか、どう反応してくれるか、そのことで自分自身を確認する。あなたはどうだろうか。それが浅ましいことなのかどうかは別にして、今の自分としての事実をもう一度確認してもらいだい。

「わたしなんて、全然モテないですよ」

そういうふうに言うオンナは多い。多いというか、大半の女性は自分についてそう言うものだ。しかし、同じようにそう言うオンナでも、実は過去にそれなりのオトコに好きになってもらったオンナと、そういうことがまったくないオンナ、その二つに分かれている。そして、好きになってもらったことのあるオンナは、モテないと自分で言いながらもその底に安心感を持っている。好きになってもらったことのないオンナは、安心感がなく切実だ。

もちろん、ここでいうオトコというのは、それなりに悪くないと思える、尊敬するところのあるオトコでなくてはならない。愛欲に飢えて切羽詰っている人に好きになられてもダメだし、アキバ君に「三次元ではキミのことだけが好きだよ」と言われても意味が無い。

「この人が、わたしのこと好きになってくれるなんて」

少しでも、そう思って嬉しく感じる、そういう経験が必要だということだ。そのことで、あなたは自分の魅力、自分が愛される存在であるということを確認し、自信を手に入れる。なんとなく生々しい話だが、そのことなしに自信を手に入れるというのはずばり言って絵空事だ。

僕はヒドいことを言っているだろうか。言っているのかもしれない。だが実際に、そういうヒドい心の作用は、僕たちの中に強力に起こってしまうものなのだ。ひとまずここでは、そのことをごまかさないでおこう。ここまで読んでムカついている人も、もう少し我慢して読み進めてやってほしい。(お願いだからそう僕をキライになるな)

あなたには、愛についての成功体験が必要だ。そして成功体験というのは、必ずしも好きになってもらうということだけに限らない。メールの一通を返してもらえたとか、話しかけたとき微笑んでもらえたとか、手を握ったら握り返してもらえたとか、そういうことでもいいのだ。そういう成功体験があなたの自信を作っていく。

あなたは相手の反応から、自分の存在について確認するのだ。成功を学習する、と言ってもいい。あなたはその自己確認を重ねていく中で、徐々に自分についての確信を手に入れていく。

先に言ったように、自信というのは自分についての確信のことだ。

確信は、自己確認の積み重ねによって生まれるのだ。

次の段に、成功体験、自己確認のストーリィを、ひとつ架空でこしらえてみよう。


***


憧れの○○君に、思い切って話しかけてみた。悩んだ末、ガチガチだったけど、勇気を持ってがんばってみた。

「お疲れ様です。今日はまだ帰らないんですか?」

そしたら、思いがけず愛想良く話してくれた。

「そうなんだよ。なんか先輩がさ、話あるから残ってろって。何だろうね、オレ超ビビってるんだけど」

なんだか楽しそうにしてくれて、話の流れのまま、メルアドまで聞かれてしまった。

メールはなかなか来なかったので、こちらから送ってみた。それに返信はこなかった。

でも、おやすみなさいともう一通送ったら、それについては返信がきた。おやすみなさい、今日は忙しくてメールできなかった、ごめんね、と書いてあった。

翌日、電話してもつながらなかったけど、夜になって折り返しかけ直してきてくれた。

それから、電話で何度か話して、二回デートした。二回目のデートではセックスもした。緊張でガチガチだったけど、彼は優しくしてくれて、キレイなカラダしてるね、と言ってくれた。胸が小さいのがコンプレックスだったけど、これはこれでソソるよ、かわいい胸だ、と彼は言ってくれた。彼はその夜、わたしの中で二回いってくれた。一晩に二回もするなんて十代のころ以来だよ、と彼は照れくさそうに笑ってくれた。

その翌日、付き合ってくださいとお願いしたけれど、それは断られた。今は自分のことが忙しすぎて、誰かと付き合いたいと思わないんだ、とはっきり言われてしまった。ショックで泣き出しそうになって、じゃあなんでわたしのこと抱いたんですかと難詰しそうになった。その気配を察してか、彼は謝ってくれた。傷つけたと思う、それについてはオレは反省してる、と言ってくれた。そして彼は、でも後悔はしていない、あのときオレは、どうしても君のことが抱きたかったんだ、いくら責められてもしょうがないけど、それが本当に正直な気持ちだったんだ、と言った。わたしは腹が立った。でもどこか、嬉しいような気もした。

一週間ほどして、気持ちを落ち着けると、彼に抱かれてよかったと思えるようになった。すぐにカラダを許したのはよくなかったかもしれないけど、でもオンナってそういうものかもしれないし、わたしも彼に抱かれたかったし、と思うようになった。

彼に、これからも今までどおり仲良くしてくださいとメールすると、彼からあわてた様子で電話があった。彼は、君さえよければ、これからもずっと仲良しでいてほしい、あつかましくて申し訳ないけど、と真剣な声で言ってくれた。

バイト先の飲み会で、好きな人に告白してフラれた、という話をした。話をしている間に、悲しさがよみがえってきて泣いてしまった。みっともないと思ったけど、尊敬していたチーフがアタマを撫でてくれた。ずっと泣いていたのに、ずっとアタマを撫でてくれていた。

後日、チーフからデートに呼び出された。気を紛らわせてもらえたら、という調子での呼び出しだった。

デートに行くと、その後半、チーフはびっくりするぐらいわたしを口説いた。「君のことが好きなんだ」。強い目をまっすぐに向けてそう言うので、わたしは驚いた。帰り道に、チーフに突然抱きしめられた。わたしは驚いて、またそういう気分にもなっていなかったので、思わず抵抗して、ちょっと、やめてください、と冷たい調子で言って突き放してしまった。

ひどい言い方、ひどいやり方をしてしまった、と一瞬後悔した。そして、突き放されたチーフを見ると、彼はすごく悲しそうな顔をしていた。チーフは少し頼りなくなった声で、ごめん、そうだね、君は彼のことがまだ好きなんだよね、と言った。そしてもう一度、ごめん、と真剣に謝った。

彼はそのままわたしを家の近くまで送ると、いつもの調子を装って帰った。でも、その内側はすごく苦しそうで、わたしは彼を傷つけたということに気づいた。

彼を傷つけたということに、わたしは胸が苦しくなった。

「今日はごちそうさまでした。冷たい態度をしてしまってごめんなさい。好きと言ってもらえたのは嬉しかったです。でも、もう少し時間をください。まだわたし、気持ちがぐちゃぐちゃなんです。傷つけてしまったと思います、ごめんなさい。よければ、またお話してください」

深夜にそうメールを送ると、彼からはすぐ返信が来た。

「今日は取り乱してしまってこちらこそごめんなさい。時間は、もちろん差し上げます。待つのは、何年でも待ちます。どうせこの先、これほど好きになれる相手には、もう何年も出会えないでしょうから。(その間に、僕のほうが気持ちを落ち着けないといけないですね笑今日は本当に悪かったです)」

そう返信を受け取って、こちらからどう返すべきかと悩んでいると、チーフからもう一通のメールが届いた。

「僕は君のことが本当に好きなんです。おやすみなさい」


***


さて、架空のストーリィ、架空だけどもどこにあってもおかしくないようなストーリィをこしらえてみた。いかがだろうか。物語として上手くないとか、そういう僕の創作力についての批評はとりあえず置いておくとして、このようなストーリィがあったとしたら、この主人公のオンナのコが、自信を手に入れたであろうことは想像に難くないのではないだろうか。

彼女は、想いの彼に思い切って話しかけている。そして、彼から好感触の反応を引き出している。メールしたり電話したり、それもごく普通の雰囲気の良さで進行している。彼と交際するには至らなかったが、彼とのセックスで、彼にたくさんかわいいと言ってもらい、また実際に彼が彼女のカラダに情熱をぶつけることも体験した。その後、飲み会で泣き出すというようなシーンもあり、そのことを人に優しく受け止めてもらえたという体験をしているし、そのことがオトコの心を捉えたということも体験し、さらには抱き寄せられてそれを突っぱねても、やはり好きでいてもらえるということも体験している。

これが、愛についての成功体験だ。成功といっても、彼氏をゲットするというのがそのまま成功というわけではないのである。成功体験というより、自己肯定体験といってもいいのかもしれない。このような体験をしたとき、彼女は自分自身についていろんなことを確認しただろう。受け入れられる自分、仲良くしてもらえる自分、抱かれる自分、フラれる自分、口説かれる自分、人を傷つける自分、本当に愛される自分。

その自己確認は、全てが望ましいものばかりではない。このストーリィでは、まず何より想いの彼に、彼女はフラれてしまっているのだ。しかし、直感的に考えるだけでも、彼女はフラれたことによって、自信を喪失するようなことになるだろうか。普通に読み進めれば、この彼女は自分のストーリィによって、自信を手に入れたと感じられるのではないだろうか。

このストーリィの中で、彼女はフラれはしたものの、それを自己否定にはつなげていない。ストーリィ自体はバッドでもハッピーでもないが、彼女に積み重なるのは自己確認と自己肯定だ。

オンナはオンナとしての物語から、自分を確認し、肯定する。

その中で、自信を手に入れていくのだ。

物語を体験する前に、自信は手に入らない。

自分を物語に投げ込まないと、自分を確認することができないのだ。



■オンナは人を傷つけてオトナになり、オトコは傷つけられてオトナになるのだ。

今回の話は、特別好き勝手言っているかもしれない。ちょっと言いすぎかなぁと思ったが、もうこのまま押し切ることにしよう。ここまで書いた分を読み直してみたが、書き直す部分が見当たらない。書き直すとウソになってしまいそうだ。

ウソを書くのはイヤなので、このままいきます。

さて、あなたが自信を手に入れるためには、自分を確認するための体験をしなければならない。それは成功体験であり自己肯定体験であり、すなわち自分を物語に投げ込むことだ。

このことについて率直に言ってしまうならば、あなたはオトコと、もっと積極的に関わっていけということになる。もちろん、しょうもないオトコと関わってはいけないが、好きなオトコだけでなく、悪くないなと思うオトコ、尊敬できるなと思うオトコ、そういうオトコたちと関わっていけということだ。それは恋をするためではない。自分を確認するためであり、自信を手に入れるためだ。そういうオトコと関わって、たとえばデートなど重ねてみて、あなたというオンナが彼というオトコにどう扱われるか、彼としてどう関わってこようとするか、そのことを確かめる。

要するに、適当なオトコを実験台にしろ、と言っているのかもしれない。

これはヒドいことだろうか。

ヒドいことだと思う。しかしだ、あなたはオンナなのだ。

オンナがオンナになるために、ある程度オトコを傷つけていくのはしょうがない。

オンナは人を傷つけてオトナになり、オトコは傷つけられてオトナになるのだ。

だから、それでいい。

かかってこい、と僕は思う。

(まあでも、中にはナイーブをモットーにしているオトコもいて、さらに粘着気質で根に持つようなオトコもいるから、そういうオトコはやめておこうね)

ホントは、オトコならそういうオンナを器量で受け止めて、そのまま取り込んで惚れさせないといけないんだけどね。

先の話で言うと、「チーフ」の立場にあたるわけだけど。

まあでも、そんなことは僕も到底できないから、偉そうなことを言うのはやめとこ……


***


あなたはオンナとして、まだよくわからない自分自身、要するに自信を持てない自分自身を、それなりのオトコにぶつけていくことにしよう。練習、という気分でかまわない。気のよさそうなオトコに話しかけてみる。デートに誘ってほしいなぁ的なことをちらつかせてみる。メアドを交換して、相手から送ってくるかどうかを見る。デートのときにわざと近くに立ってみる。そのとき、相手のオトコはあなたをどう扱うだろうか。そこにはオトコとオンナの物語が発生する。あなたはその渦中に立つ。そのことを体験することで、あなたはあなた自身を自己確認するのだ。

繰り返すが、あなたがオンナである以上、あなたがそのような練習じみたもの・実験じみたものに後ろめたさを感じることはない。そのように頼りなく浮動するあなたを、口説き落とせるかどうかはオトコの器量と努力によるところなのだから。

(あ、あまり言い過ぎると、男性陣から嫌われるのかな)

(まあでも、アレだ、オレはしょっちゅう練習台にされてるぞ)

(それでもさ、オンナに愚痴とか不平とか言うのはやめようぜ。できるだけ)

あなたはそのような経験を積み重ねていく中で、成功体験もするし、失敗体験もする。そしてそのいちいちで、あなたは自己確認し、それが積み重なれば自然で揺るぎの無い自己肯定感を手に入れているだろう。相手に気に入ってもらえることもあれば、そうでないときもある。好きになってもらえることもあれば、そうでないときもある。いつのまにかそのことのイメージが、確信として持てるようになっているはずだ。

そのときあなたは、すでに自信を手に入れているのだ。外見としては特に変化はないだろう。しかし、あなたはオトコにどうやって話しかけるか、どうやってコナをかけるか、どうやって誘惑するか、その方法と実践のイメージを手に入れている。そして彼がいまいち乗り気でなかったときは、どこで引き返すか、どう仕切りなおすか、どう押し切るか、そのことの方法と実践のイメージも手に入れている。そしてそれは、いったん手に入れてしまえば、そうそうは失われることのないものでもある。

あなたはそのようにして、自信を手に入れるのだ。

結局のところ、経験がないと決して手に入らないよ、ということでもある。

それが、自信についてのリアルな話だ。

じゃ、早速、その辺のオトコにコナかけてみてください。



■自信を手に入れるためにセックスをしてもいいと思う。ただし、そのための相手は入念に選ぶべきだ。

さて、ここまでで言いたいことはほとんど言い尽くした。

ここからは余談になるけど、一応気になるところを話しておきます。

自信を手に入れるために経験が必要だったとして。

自信を手に入れるために、セックスをしていいものだろうか?

このことは、さすがにセンシティブな問題になってくる。

センシティブなだけに。余計なことを言うと、あちこちから反発がありそうだ。

でも、見てみぬフリはせず、正直に考えてみます。

自信とセックス、そのあたりのリアルな話。

(ああ、なんだか正直になればなるほど、僕は嫌われていっているような気がするなぁ)


***


オンナにとって、オトコに求められるかどうかということ、それも精神的なことだけでなく、心も体もひっくるめた全体で求められるかどうかということ、それはごまかしようもなく大事なことだと思う。心だけ愛されればいい、というオンナはなかなかいない。中学生ぐらいまでならあるのかもしれないが、オトナになるにしたがって、オトコとオンナにとってのセックスの重要性を誰しも知るようになる。セックスは重要だ。心はつながったままなのに、セックスの火が消えたからもう別れるしかなかったと、そういう悲しみを経験した人も多いのではなかろうか。それぐらい、恋愛とセックスは切り離せないものだ。セックスしたいのをガマンする、それによって成り立つプラトニックラブはあるかもしれない。しかし、セックスしたいと全然感じませんと、そんな状態でのプラトニックラブは成り立たないのだ。

オンナにとって、悪くないなと思えるオトコから、真剣にセックスを求められるのはどういう気分だろう。ある程度個人差のあるところだとは思うが、普通、そうは悪い気はしないものなのではないだろうか。もちろん、その求め方がマナー違反だったり、目が血走って余裕がなくなっていたりすれば論外だし、セックスさえできたら後は要りませんと、そういう態度が見え見えだとさらに論外ではあるわけだが、オトコがオトコの衝動として、真剣にあなたをオンナとして抱きたいと訴え出たら、あなたはいくらか嬉しさを感じるところがあるのではないだろうか。逆にもし、あなたが彼の前で素っ裸になって、それでも彼が無反応だったら、あなたは自信を失うのではないだろうか。

オトコにとって、オンナに受け入れてもらえるというのは強烈な自己肯定感を覚えるものだ。そしてオンナのほうも、自分がオトコに求められるというのは、やはりある程度は自己肯定感を覚えるものなのではないだろうか。そしてその自己肯定感の体験、オトコにセックスを求められるという物語は、あなたに自信を与えるものでもあると思う。

そして、求められるということにとどまらず、実際に抱かれてしまう、彼が全身であなたに情熱をぶつけてくるということを体験する、そのことはさらに、あなたに自己肯定感をもたらすものかもしれない。

悪くないなと思うオトコが、必死になってあなたを抱く。

あなたの足と足の間で、彼は汗を流して眉をしかめ、あなたの名前を呼んでいる。

それを見てあなたは、「この人は今、わたしを抱くことに必死になっている」とリアルに感じる。

それによって自信を手に入れるということはあるだろう。

抱かれることで手に入れる自信というものがあるのだ。

もちろん、それがまっとうな恋人であれば、何の問題もないわけではある。

が、世の中には、そうでないケースというのが多々出てくるものだ。

これについて、どう考えればいいだろう。

オンナとしての自信を手に入れるために、恋人でないオトコに抱かれていいものなのか?

僕はこれについて、肯定する立場だ。

抱かれていい。

理由は、特に無い。

否定する理由が無いから肯定する、という感じだ。

別に恋人以外のオトコと寝たからといって、オンナの価値が下がるとは僕はまったく思わない。

だから否定する理由が無い。

(PTAのみなさん、すいません)

あとは、あれかな。ひとつ理由があるとすればこれかもしれない。

オンナにとって、自分にオンナとしての自信が無いのは、ものすごく苦しいことだと思うのだ。

まして、そのオンナとしての華やかさが保たれる期間はあまり長くない。

そのあたり、オンナは多分、オトコよりはるかに、オンナという性を切実に生きていると思う。

その切実さの中で、自信を手に入れようと捨て身になるオンナがいたとして、どうして僕がそれを否定できよう?

自分を輝かせようとするオンナの全てを、僕は無条件に尊敬している。

だから僕は、自信を手に入れるためにオトコに抱かれる、そういうオンナを真剣に肯定するのだ。

(応援もするし、賞賛もするし、心配もします)

(心配というところが、我ながらウザいんだけどね……)


***


ただし、と僕はここで付け加えておこう。

あなたがオンナとしての自信を手に入れるために、恋人ではないけれども、気に入ったオトコ、あるいはまあいいかと思ったオトコに抱かれるとする。

そのことはいいのだけれども、あなたはそのとき、そのオトコについていいかげんな選択をしてはいけない。

これについては、僕はジジイみたいに説教しておきたいと思う。

付き合うとか付き合わないとかとは別に、オトコに抱かれるというときは、やはりその相手をしっかり選ばなくてはいけない。

ある意味では、付き合う相手よりもシビアに選ばなくてはいけないのだ。

なぜか?

それは、しょうもないオトコに抱かれたときの傷つき方は、しょうもないオトコと付き合ったときの傷つき方よりもはるかに深いからだ。

しょうもないオトコと付き合ってみて、一ヶ月、愛想が尽きて別れてしまったというのは笑い話になる。

しかし、しょうもないオトコに抱かれるとき、ベッドインして三十分後、愛想が尽きたという場合はどうか?

それは残念ながら、笑い話にはならない。あなたは猛烈に後悔し、深く傷つくことになる。

その傷は、深すぎて、たまに内出血的に、本人は自覚がなかったりするものだけど……

簡潔に、繰り返しておこう。

自信を手に入れるためにセックスをしてもいいと思う。

ただし、そのための相手は入念に選ぶべきだ。

一番に気をつけるべきは、カラダだけが目的のオトコ、ではない。

カラダだけが目的のオトコなんて、そんな野獣みたいなオトコはそうそういないものだ。第一、そういうオトコはさっさと風俗に行くだろう。

それよりも忌避すべきは、自信を手に入れたいがためにあなたを抱こうとするオトコだ。

先に言ったように、オンナに受け入れられるということは、オトコにとって強烈な自己肯定感を覚えるものだ。

そして、その自己肯定感だけを求めて、オンナを抱きたがるオトコがいる。

そういうオトコが、一番タチが悪いのだ。

上等なオンナを抱いて、自分の自信を回復させようとしているオトコ。

そういうオトコに抱かれると、あなたは深刻に後悔し、傷つく。

そのろくでもないオトコを有頂天にするために、身をささげたことになるからだ。

セックスにおいて、身をささげるのは明らかにオンナだ。こんなところに男女平等論が入り込む余地は無く、本能の感覚でそれは間違いないと断定できる。

だからオンナの方は、自分の身をささげて、自分を確認しようとしていいし、自信を手に入れようとしていいのである。自分を物語に投げ込んで自分を確認しようとする、自分を高め輝かせようとする、そのことに非難されるいわれはない。

だかオトコはダメだ。オトコにはセックスにおいて自分を投げ込むという感覚は無い。それは本能的なものだ。

だから、オトコが自信の回復や自尊心の救済のためにオンナを抱くと罪になる。法定罪ではないが、オンナを根本から侮辱したという倫理的な罪が残る。

(お、オレが倫理とかいう言葉を使うとは我ながら驚きだ)

あなたはその点、オトコをよく見よう。

そして、このオトコにはそのような矮小さはない、自分はこのオトコに抱かれたことを自分の中での誇りにできると、そう感じられたときにのみ抱かれるようにしてほしい。

僕はセックスで傷ついたオンナを見るのがイヤだ。

あなたにも、セックスで傷つくことだけはしてほしくない。

セックスで傷ついたオンナは、もう誰にも癒しようがないから、あとは泣きながら自然治癒を待つしかないのだ。

それは、いくらなんでも悲しすぎるじゃないか。



■成績が優秀でない中学生は、セックスでしか自己確認できない。

またひとつ、余談の話。話の本筋とずれて、どちらかというと僕のボヤキみたいなものになります。興味の無い人は次の■まで読み飛ばしてください。

ただし、中高生のオンナのコとかがもしこれを読んでたら、一応目を通してみてやってください。

ここから、あなたたちのことについて書きます。

あなたは健康で上手く生きていても、あなたの友達はそうでなかったりするかもしれないので、参考までに読んでもらえたらうれしいです。

ま、たいした話じゃないんだけどね。


***


岐阜県中津川市で、十五歳の少年が中学二年の少女を殺害するという事件があった。そのテの事件は最近多すぎて、もうどれがどれだかよくわからないが、まあ少年事件の凶悪なやつのひとつだと思ってもらったらいい。

事件の少年と少女は、ブログというか携帯プロフィールというか、そういう類のネットメディアを利用していた。そして事件後、それがネット経由というか2ちゃんねる経由で流失したのだが、それを好奇心から僕も一通り読んだ。それによると、十五歳になる少年には、二歳になる子供がすでにいたらしい。少女のほうも、別の子供を妊娠していたのではというような話である。少年と少女の間には、失楽園を鼻で笑うようなドロドロのセックスがあったのだ。しかもそれは、少年と少女の間だけではないらしい。その交友関係全般で、輪郭のない無制限なセックスの関係があったようなのだ。

(まあ、あまりじっくりは読んでいない。僕にはそういうゴシップに興奮する趣味が無い。胸が悪くなるばっかりだ)

僕はこの事件について、詳しく追求するつもりはない。少年法を改正しろと主張するつもりもないし、十代の性の乱れを指摘するつもりもない。学校や家族やご近所をはじめとする共同体の形骸化とか、インターネットによる情報の氾濫とか、そんなことについて論をぶつつもりも無い。そんなことは、もう声の大きなオトナたちが毎日テレビの中で主張してくれている。それでもう十分だし、それでも何の変化も起こらないのはその主張に意味がないからだ。僕は意味のない主張はしない。意味の無い主張をするなんて恥ずかしいじゃないか。

彼らは恥ずかしくないんだろうか?

僕はインターネットのサイトを運営していることから、いろいろな世代の人からメールをもらう。そしてその中で、もちろん中高生のオンナのコからのメールももらう。丁寧なメールが多い。まだ幼いながらに、精一杯の丁寧さで書いてあるメールがほとんどだ。そしてその内容は、切実でリアルでごまかしがない。(ありがとね)

(あと、オトコからももらってるよ。ありがとう。でもここでは、オンナのコ向けに書くのが一応ルールなんで)

僕は彼女らのリアルな話を聞ける立場にある。

中高生が日常としてセックスをしていると、そのことにテレビに出ているコメンテーターは驚いたりしているが、僕としてはそのコメンテーターの反応にこそ驚く気分になる。

中高生は普通にセックスをしている。高校生では当たり前で、中学生でも普通のことだ。驚くべきことはひとつもない。テレビに出る人は、いったいどの国の現状を日々見ているのだろうか。

せめて驚くとするなら、セックスをする人はする、しない人はしないと、中高生の時点ですでに思想による分化が起きている、そこが昔とは違うヨ、というあたりだと僕は思うのだけど……

まあそれはいいとして。

中学生だってセックスをするのは、今はもうただの事実だ。それは東京都心でもそうだし、北海道のど田舎でもそうだ。これはそもそもからして別に驚くほどことでもあるまい。かつて日本では、男子は十五歳で元服したではないか。十四で嫁いだ娘もたくさんいたではないか。その地点から考えれば、中学生がセックスすることはなにも珍しいことではないのだ。

そんなことで驚くのはやめよう。

あまりそこで驚くと、うらやましがってるのかな? と人に思われる可能性が大だ。

それよりも、中学生のセックスがどうこうじゃなくて、僕が引っかかるのは、そのセックスの「意味合い」についてだ。セックスは本能としての性欲をベースにしてその衝動が生まれるものだが、それとは別に、セックスという行為には多様で複雑な作用が付随する。

セックスには、性欲と生殖以外の意味があるのだ。そんなことは、くどくど説明しなくてもわかることだろう。性欲だけなら自慰で収まる。生殖したいなんて誰も思っていない。

人間がセックスを求めるのは、「その他の理由」においてのことがほとんどだ。

そして、これもまた当たり前のことだが、まだ年齢が幼すぎる中高生、そして思春期という人間として壮絶な時期である中高生にとって、「その他の理由」という部分、そこがオトナよりも強烈に作用するものなのではないだろうか。

それも、彼ら自身の理性ではもう、引き返せないぐらいの強烈さで。

「その他の理由」とは何か。

それが「愛」だけなら、まことに結構なことなんだけどね。

セックスには自己肯定感が伴う、と先に述べた。そして、それは自分を確認する作業でもあり、自信を手に入れるひとつの方法でもあるとも言った。

僕が思うに、現代の中高生がセックスをする、そして一部の人たちが何か異様な気配をはらんでセックスをすることがあるのは、単にそのことの作用を求めてのことではないのか?

自分を確認する方法が他に無いから、セックスにそれを求めているのではないのか?

僕はこの推論を、ものすごく当たり前の、蓋然性というよりは必然性ものだと思っている。

なぜか? 

それはさして論考を要しないところだ。

学業成績優秀で、先生らにオマエはスゴいなぁと言われるような人は、そんな狂気めいたセックスをしないではないか。

後輩から尊敬されるバレー部のエースが売春したという話も聞かないし、将来名人位が期待される中学生棋士が出会い系サイトで犯罪に巻き込まれたという話は聞かないではないか。

僕は、学業成績が優秀でない人はダメだと言っているのではないし、何か優秀な特技がないとダメだと言っているのでもない。かといって、成績が悪くてもいいとも言っていないし、努力しなくていいとも言っているのでもない。

成績がどうとか努力がどうとか、そんなことは本質ではないのだ。肝心なのは、今の中高生らが、自分をぶつけていく対象、自分を投げ込んでいく物語、そういうものが与えられてないのじゃないかということなのだ。

もしそれが与えられてないければ、彼らと彼女らは、はたしてどこで自己確認するのか? 

成績優秀で先生ならびにクラスメートにチヤホヤされる人には、ある程度それによる自己確認というものがあるだろう。後輩に熱烈に尊敬されるバレー部のエースやテレビに出ることもある中学生棋士にもそれはあるだろう。だかその人たちは特殊な例だ。特殊な例だけを見て、それを良しとして「みんな特殊になりなさい」などと言うわけにはいかないだろう。

(あ、でも中にはいるらしいね。「みんな個性を持ちなさい」、みたいなムチャを言う先生とか)

ええと、どうしてもボヤキが多いな。ごめんね。

先の話で何度も言ったように、僕たちは自分の中だけで自分のことを確信することはできないものだ。何かに自分をぶつけて体験していく、自分を物語の中に投げ込んでいく、そういうことでしか僕たちは自分を確認できない。

自分を確認できないと、いつまでたっても自信を手に入れることができない。

であれば、今の中高生がセックスをするのは、そして一部の人たちがある種の異様さでセックスをするのは、単に自信を手に入れようとしてのことではないのか?

自信が無くて、自信を手に入れようとして、やみくもに肉体を重ねているだけのことじゃないのか?

あ、なんかさっきから、同じようなことばかり言ってる気がするな。

ええと、話を少し変えよう。

昔、尾崎豊という歌手が、「十五の夜」という名曲を残した。

その歌詞の中に、こういう一節がある。

自分の存在が
何なのかさえ
わからず震えている
十五の夜

そしてこの歌は、「盗んだバイクで走り出す、行く先もわからぬまま」と続いていくのだが、これはどうだろう、先の僕の考えと照らし合わせてみれば、やはり今もって十五歳の心を正しく描写している歌なのではないだろうか。

自分の存在が何なのかさえわからず震えている十五の夜。

昔も今も、十五歳の少年少女は、そうして震えているものなんじゃないのか?

そして、盗んだバイクはヤフオクで売ろうと、そういう発想を子供らに植えつけたオトナたちが根本的に問題で、バイク盗んだ奴は怒鳴りつける前に通報しようと、そういう冷血合理主義なオトナたちがやはり根本的に問題なのではないのか?

またボヤキになるけど、少年犯罪が起こったとき、反省すべきなのはオトナなのだ。

なぜかというと、オトナは少年の自己形成能力を否定しているからだ。

だから少年には選挙権が無い。

少年法を改正して、少年にも選挙権を与えろと、そのことを誰も主張しないのはなぜなんだろう……

ああ、もうそういう難しいことを考えるのはやめよう。

オレはこのサイトを見てくれている人に気持ちよく生きてもらえたらそれだけでいいのだ。

今のところはね。


***


ええと、話がしっちゃかめっちゃかになってしまって申し訳ない。

これを、ここまで読んでくれた人の中に、中高生の人がいたとしたら、僕はあなたに言っておきたいと思う。

気の毒な話なのだが、あなたたちは、自信を手に入れる機会をまったく与えられていない。

受験戦争に体質が会う人なら、なんとか自分をぶつけていく機会もあるのだけれども、そうでない人にとってはどうしたらいいのかわからない。

窓ガラス割っても、手首を切っても、体育館裏でタバコを吸っても、オトナの人はぶつかってきてくれないと思う。

(もちろん例外のオトナもいますが、そういうオトナに出会えている人はこのご時世ではラッキーだ)

何をやっても、何にもぶつかれない、何の物語も無い。

そういうガラスの檻みたいな状況が実際にある。

その中で何かとぶつかろうと、何かの物語に飛び込もうと思ったら、本当にセックスしかないのかもしれない。

成績が優秀でない中学生は、セックスでしか自己確認できない。

そう言ってしまって、否定しきれない現状があると思う。

これを読んでいる人のなかに、そういう状況の人がいたとしたなら、その人は今ものすごく苦しいと思う。

苦しいというか、どうしようもなくダルいというか。

そういう人は、どうしたらいいか?

ええと、それについて実は一晩考えたんだけど、結論はまだ出ない。

むしろ、わかったふうな結論を出したら、苦しんでる人をさらに絶望させるんじゃないかと思われて僕は怯んだ。

そんな、スローガンひとつで解決するような話じゃないはずだと思う。

ただ、明らかなことがひとつだけあるにはあるのだ。

あなたに足りていないのは自信であり、自分についての確信だ。

それだけは多分、大ハズレではないと思う。

だからなんとかして、その機会を、セックス以外のどこかに見つけてくれ。

今のところ、僕にはそうとしか言えない。

(頼りなくてまったく申し訳ない)



■歩き始めて、これからの彼女の物語を、少しだけ祈った。

というわけで、自信ということについてつらつらと考えてきた。そろそろ、おしまいにしよう。話し出したらキリがないし、話しすぎても意味が無い。

自信ということを考えると、やがてその周辺に、実存、という哲学的な用語がちらつきはじめる。キルケゴールとかサルトルとか、そういうお偉い人の言葉が顔を出しそうになる。

自信ということについて考えると、それは一部、哲学に触れることになってくるのだろう。自己とは何か、それに相対する他者とは何か、そしてそれを包含する宇宙とは何か、といったようなことだ。(まさしく哲学だ)

でも、自信について哲学の方法で考えるのはやめておこう。

僕たちに必要なのは知識ではないし哲学ではないし思考のテクニックでもないのだ。

僕たちは、ただ自信を手に入れたいだけである。

自信は、物語を経験する中で手に入れられる。

あなたはこれから、物語を経験していけばいいということだ。

好きとか以前の、いろんなオトコとの物語をね。

(もちろん、それ以外にもだ)

さてじゃあ、物語ということで、ひとつ締めくくりに話しておこうか。

僕の大好きな、頭の悪そうな二人組の物語を。


えー、挨拶を先にしておきます。

ここまで長々と読んでくれてありがとう。

あいかわらず長すぎるので、次回は短めを心がけます。


じゃあ、またね。


***


大江健三郎の新刊を読み終わった。「さようなら、わたしの本よ!」という自殺的なタイトルの本で、その内容はいかにも大江らしい、出生地の深い森の記憶と身の回りの事件についての私小説、それにウィリアム・ブレイクとイェーツの詩が象徴的にちりばめられているといった具合のものだった。読後感は良くない。大江の煩悶と行き詰まりだけが印象に残った。物語としての態をまったく為していないと感じた。

しかし一方で、このような大御所が、ここまで洗練というものを放棄するのはどういう理由によるものだろう、とそのことについてのドロリとしたインパクトは残った。文学に没入して生きてきた者の捨て身の表現なのだろうか、そこからにじみ出る迫力についてはやはり畏敬を覚えるところがある、などとも思った。

僕がそのような、重油的な読後感を味わっている中、隣の席ではあいかわらずの二人組が、ウチなー、ホンマは元カレとヨリ戻したいねん、というようなことを大きな声でしゃべっていた。それを受けて相方は、根拠があるのか無いのかわからないが、えーそうなん? ケンちゃん優しいから戻ってきてくれるんちゃう? というように彼女を励ましていた。声が奔放な強さで鳴り、話は全て筒抜けだ。その声色と抑揚も、やはりアタマの悪そうな印象を与える。

しかし彼女らが交わす視線は、お互いにどこか照れくさそうで、そして圧倒的に優しいものだった。

「じゃ、お先に失礼するね」

僕は新刊をトートバッグに放り込んで、そう挨拶して席を立った。彼女らは、あ、ぅぃーす、とよくわからない小声の挨拶を返してきた。

僕は立ち上がって二歩進み、ふと思い立って、彼女らのほうを振り返った。

「なあ、元カレのこと、がんばってな。やけぼっくいに火がつく、って言葉もあるし」

僕がそう言うと、彼女らは予想通り、え? ぼっくい? 何? ウチまたわからへん、というような反応をした。

「一度焼けた木の杭には、すぐにまた火がつきやすい、って意味だよ」

僕がそう説明すると、その元カレの話をしていた彼女、髪の長いほうの彼女が、

「えーそうなん? でもウチあかんわ、かわいないしシツコイし、アタマわるいもん」

と足をばたつかせながら言った。その相方は、そんなことないって、みおちゃんめっちゃかわいいって、とやはり彼女を励ましている。

「……いや、あのさ。実際まあ、アタマはあんま良くないんかもしれんけどさ」

さすがにためらいがちに、僕は髪の長いほうの彼女に言った。彼女は話しかけられるとキュッとすばやくこちらを向く。そのときなぜか、口が少しとがっている。かわいい仕草なのだが、本人はそれに気づいていないようだった。

「でもさ、素直じゃない。素直さがモロに前面に出てるからさ、なんていうか、そこは普通オトコからしてみればかわいいもんだから、悪くないと思うよ」

僕がそういうと、彼女はまた相方に向けて、えーそれって、バカ正直ってことちゃうん? と言った、相方は笑いながら、あんた人の話ちゃんと聞きぃや、と思いがけず大事なことを言った。

「あのさ、浅知恵を捨て切って、素直になれるオンナって強いよ? アタマいいオンナの百倍強いと思う。みおちゃんっていうの? みおちゃんには、そっち系のオンナの素質あると思うけどな」

僕は人に何か伝えようとするとき、必要以上に真剣になったり、過剰に集中力を使ってしまったりするクセがある。そしてこのときも、そのクセが出てしまった。僕の口調が少し変調したことを感じ取って、彼女らはそのはしゃいでいた空気をすうっと冷やした。

「そう、なんかなぁ?」

みおちゃんは、語尾をすぼめるふうに、急に少女のような声になって僕に問いただした。僕は瞬間、しまった、なんかややこしいことになった、と後悔のような反省のような気分になった。

「うん、そうだよ。ウソは一言も言ってない。ウソをつく理由が無いしな。信じて大丈夫だよ、オレのほうがみおちゃんよりだいぶ長く生きてるんだし。じゃ、おやすみね」

僕はなんとなく焦って、そう言ってそそくさと逃げ出してしまった。逃げ出したのは、このままじゃまずいと思ったからだ。

彼女らには、とくに髪の長いほうのみおちゃんには、人と無垢に仲良くなってしまう素直さと純情さがあった。そのままそこにいたら、なんだかんだで友達になってしまう気配だった。彼女らと友達になるのはもちろんステキなことだ。しかし、そこで友達になってしまうと、僕は読書にふける場所を失ってしまうのだ。

僕はファミリーレストランを出てから、一息つき、なんとなくその窓からこぼれるオレンジ色の明かりを見つめた。そして、けっこうかわいいコだったな、と改めて思った。

そして、少し残念だったな、とも思った。

その残念さは、もちろん九割がスケベ心によるものだ。

残り一割は、どこがかわいいかをもっとはっきり熱弁してもよかったかも、という残念さだった。

そうしてれば、いくらかは彼女の自信になったかもしれないのに、と思った。

まあでも、それはおせっかいか?

僕は少し逡巡する気分だったので、ひとまずタバコを吸うことにした。

タバコを一口吸うと、気分がすっきりした。

うん、そりゃおせっかいだよな、と思った。

歩き始めて、これからの彼女の物語を、少しだけ祈った。




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